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トンデモ八分@謎学の日々

気が向いた時に、いろんな謎や秘密を考えてみたい(とうぶん仮)

極私的に靖国について

2005-06-15 13:51:31 | 「論説・コラムに突っ込む(仮)」
靖国神社への首相参拝問題。
それについての日本遺族会の見解を受けて、産経が社説を載せている。
Sankei Web 産経朝刊 主張 - 靖国参拝問題 何だったのか遺族会見解(06/15 05:00)
小泉純一郎首相の靖国神社参拝に関して、日本遺族会が十一日まとめた「近隣諸国への配慮が必要」とする見解を一体どう受け取ればよいのだろう。
遺族会の総意なのか、それとも会長を務める自民党の古賀誠元幹事長の個人的な考えなのか。このままでは、この見解が世界を駆け巡り、首相に靖国参拝をさせないという国際的圧力に転化しかねない。
見解は、「首相参拝は遺族会の悲願」としたうえで、「英霊が静かに休まることが大事だ。近隣諸国に配慮し、理解してもらうことが必要だ」としている。同時に、靖国神社に合祀(ごうし)されている「A級戦犯」分祀(ぶんし)に「政治は介入すべきでない」とし、靖国神社に代わる追悼施設の建設には引き続き反対する-を打ち出している。
これでは何を言おうとしているのか、さっぱりわからない(後略)


おそらくはこの見解は、自民党元幹事長である古賀誠・日本遺族会会長の個人的、政治的意見をもとにつくられたものなのだろうが、ようするに簡単に言えば「遺族会の主張や立場は変わらないが、中韓に配慮しない小泉首相には(どうせもう首相任期も少ないのだから)参拝は遠慮してもらおう」ということなのだろう。
遺族会会長の立場を利用した、古賀氏の相変わらずの姑息な揺さぶりである。

さて、靖国神社とA級戦犯合祀、参拝問題については多くの意見があるが、誤解を恐れず小生のごく私的な意見を簡単に書いておきたい。普通には、きわめて特殊と思われる見方かも知れないが。

靖国問題のカギとされるのは、A級戦犯の合祀であるだろう。
第二次世界大戦で日本を軍国主義に導き、周辺諸国を侵略して多くのひとを犠牲にした戦争犯罪人として戦勝国から認定されたA級戦犯を、一般の英霊と合祀する、そしてそこに参拝するのは大きな誤りであるという論がある。
死罪とされたA級戦犯について、その罪の軽重を問うつもりはないが、実はこういった国家犯罪者とされたひとが神社に祀られるのも日本の宗教的考え方だと、小生は思っている。
神社は、それぞれの先祖神=先祖霊を祀る場所であると同時に、為政者や氏族により自らの意に反した境遇や死をもたらされてしまったひとを祀る場所でもある。このようなひとの魂を祀るとは、つまり怨霊となりそののちに、わざわいをもたらすのを防ぎ鎮めるためであった。そこには、そのときにクニや氏族の方針に反する行為を行ったからだとしても、無理矢理に死に至らしめた負の思いがあるからであり、また死んだあとでもわざわいを為すようなそのひとの強いパワーを鎮める必要があったからだ。
歴史的に著名な例としては、保元の乱に敗れて流され死んだ崇徳上皇(崇徳天皇廟、高家神社など)、菅原道真(全国の天神社)、平将門(神田明神や首塚)などがある。
そこにはもはや、一般的な意味での善悪はなく、ただ鎮め、祀るのみである。

靖国神社では戦争犯罪人を神として祀っており、それを拝むのはなんたることだ、という意見があるが、そもそも日本における神は一神教における神とは全く異なる概念であるし、拝むのも一神教の神に自らの身を捧げるために拝するのとは全く異なる。
あらためて書くが、“鎮める”=霊を落ち着かせるために、参拝するのである。
それを、日本人も混同しているし、ましてや外国人にはとうてい理解ができない。
宗教的なものをすべて否定し、ただ政治と軍事と経済にのみよって立つ1党独裁の国である中国に理解してもらおうということ自体、およそ無理な話である。
おそらくこのように伝統的かつ固有の宗教観を有しているのは、先進国では日本ぐらいかも知れない。(イスラエルはまた違った意味で、固有の宗教を有している)
しかし、その国の戦争で亡くなった霊をどのように鎮めるかは、他国が政治的に介入するものではないし、他国の主張を受けて自国の政治家が政治的に利用するものでもない。
靖国神社は明治維新以降の戦争で亡くなった兵士の、あるいは無念や様々な思いを鎮める場所であり、戦争犯罪人とされたA級戦犯をも、そうだからこそ鎮めなければならない場所なのである。

簡単に意見をと思いましたが、なかなか書ききれません。また、わかりにくいかも知れません。
またあらためて、書いてみたいと思います。

法無き荒海と2つの事件

2005-06-03 14:43:31 | 「論説・コラムに突っ込む(仮)」
日本の排他的経済水域(EEZ)内での韓国漁船の違法操業と逃走をめぐって、海上保安庁の巡視艇と韓国・海洋警察庁の警備艦が長時間にわたって対峙する事態はようやく収拾をみた。

毎日新聞6月3日付社説 - 海上対峙 危うさ感じる韓国側の対応
『今回、事態がこじれたのは現場で韓国側が巡視艇が求めた漁船の船長の引き渡しなどを拒否したためだ。これは国際ルールに反する。現場は両国のEEZが隣接する海域だ。海保側の説明を十分に聞いたのだろうか。韓国側の対応には冷静さが欠けていた
(中略)
竹島(韓国名・独島)問題や歴史教科書問題などをめぐり、日韓関係がぎくしゃくしている。
今回の一件でさらに関係が悪化することは、両国民にとって何の利益にもならない。両国はこの問題を検証し、再発防止に生かすべきだ』

朝鮮日報6月2日付社説 - 漁船一隻をめぐり実戦さながらの対立を見せた韓日
『まず、今回のような事案は、以前ならこのように深刻な事態に飛び火する問題ではなかった。
一漁船の問題をめぐり、両国が公海上で色をなし、物理的な衝突も辞さなくなった背景には、最近の韓日関係の悪化進行が背景にある。
韓日両国の指導者たちは、両国の関係がどうしてこのような局面に至ったのか、振り返ってみるべきだ。
日本の谷内正太郎・外務省事務次官の「米国が韓国を信頼せず、北朝鮮の核関連情報の共有に慎重にならずるをえない」という発言や、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の「北東アジアバランサー論は日本を念頭に置いてのこと」といった発言は、不必要な言葉で両国関係の足を引っ張る代表的な例だ。
(中略)
最近のように民族感情がむき出しになっている状況では、些細なトラブルでも、しっかり対応できないければ深刻な事態に発展しかねないためだ』

毎日新聞と韓国・朝鮮日報の社説をならべてみたわけだが、毎日は国際ルールと現場の対応について多く触れ、朝鮮日報は日韓関係の足を引っ張る日本と韓国双方の指導者批判を行っている。
どちらの社説がより正鵠を得ているかは、みなさんに判断していただきたいが、毎日は韓国側の事情や最近の動向を無視し、朝鮮日報には政府との対立が続く韓国・新聞メディアらしい表現が織り込まれている。

さて、みなさんは今回の事件の1週間ほど前、5月24日に韓国海洋警察と中国漁船との間で起きた似たような事件をご存じだろうか。

『西海の韓国海域で不法操業中の中国漁船を取り締まっていた海洋警察官4人が、中国漁民が振り回した鉄パイプに重軽傷を負った。
26日、仁川(インチョン)海洋警察署によると、今月24日午前1時頃、仁川・ペクリョン島の西方27マイル(50キロメートル)の海上で、韓国の排他的経済水域(EEZ)を2.5マイル(4.6キロメートル)侵犯した中国漁船2隻を取り締まっていたチェ・イクス(47)警査ら4人が、中国漁民らの鉄パイプと棒に殴られ、大怪我をした』
朝鮮日報5月27日付 - 中国漁民に鉄パイプで殴られ海警4人が重軽傷
『EEZに侵入して不法操業する中国漁船が、海洋警察の取締りに暴力で応じたことで物議を呼んでいる。鉄パイプや棒、斧を振り回すなどして海洋警察が危険にさらされ、重軽傷を負うケースが相次ぎ発生、外交問題に発展する可能性もある』
朝鮮日報5月29日付 - 鉄パイプ、斧、鉄鎚… 恐ろしい中国漁船

これは、黄海(韓国では西海と呼ぶ)上の韓国のEEZに中国漁船が侵入、違法操業をしたとして、韓国海洋警察が拿捕しようとしたが中国漁船員の激しい抵抗にあい、ようやく取り押さえたものの双方が重軽傷を負ったという事件だ。
この事件は中国のメディアも大きく報道したようだ。
朝鮮日報5月30日付 - 中国メディアが「西海上の衝突」を詳細に報道
『新華社電は法制晩報(中国紙)の記事を転載し、(中略)「衝突の過程で韓国海警が電子衝撃弾とこん棒まで使って厳しく対応した。中国漁船の18人も鉄パイプなどで強く抵抗し、韓国海警4人が骨折した」と伝えた。
新華社電はこの記事に加え、韓国海警が船員を殴る蹴る、そしてこん棒で殴る場面をCGで再現し刺激的に報道した』

まるで今回の日韓間の事件と正反対の構図(中国漁船VS韓国海洋警察)のこの事件が、直接的には関係がないにせよ、韓国海洋警察の対応や行動に大きく影響を与えているはずだ。
今回の一連の事件から見えることは、ひとつは、東アジア周辺海域の排他的経済水域内の漁業資源をめぐって、各国の資源保全・取り締まりと、それをかいくぐって違法に操業する漁船の争いが頻発していること。
東南アジアの海賊問題ではないが、違法漁船の無法な行動に過激さが増していること。
本来なら、各国間で連携して国際ルールに基づき取り締まらねばならないところを、民族主義や勝手な国益主張が影響し、自国保護本意の行動に出てしまうこと、などだろうか。
竹島問題などは、まさにその渦中にある。

いずれにしろ、韓国海洋警察側は、中国漁船との大立ち回りの後だけに、かなりピリピリしていたのだろう。ウリ国民を守らなければ、ウリ権益を主張しなければ、日本の海保にひとあわ吹かせなければ、といきり立っていたのかも知れない。
そんな状況が、今回のつまらない、だが重要な問題をはらんだ事件を起こした。
いくら自分の国だけが正しいと思いこんでいても、荒れた海を、さらに無法で荒らすようなことを、国家単位で起こすことは避けてほしいものだ。

外交は内政の発露

2005-05-30 18:46:35 | 「論説・コラムに突っ込む(仮)」
朝日新聞、若宮論説主幹の月1回のコラム「風考計」。
このコラムをテーマにするのも、これで3回目だ。
今回の氏のコラムは、あの中国・反日デモから考えたこととして、せっかく
『「反日」と「民主化」が表裏の関係にあるということではないか』
というしごくまともな(普通の)見方を途中でおさえつつも、それに深く考えをおよぼすことなく、小泉首相の
『「罪を憎んで人を憎まず」とは孔子の言葉だと小泉首相が国会で発言した』
ことを引き合いに、
『両国に流れる儒教の伝統を生かしたい。孔子はやはり日中のキーパーソンだ』
と、儒教精神による日中外交問題の解決を訴え、おまけに氏の中国での講演の成果の自慢話で終えている。
まあ、関心のある方は読んでみて下さい。
asahi.com:中国で考えたこと 外交に礼儀と謙譲の心を - コラム

氏のコラムの内容についていくつか突っ込んでおこう。
まずこの部分。
『しかし、この先も覚悟した方がよいのだろう。中国では民主化が進めば進むほど、実は「反日」が噴出するかもしれぬということを。民主化は期待したいが、いまは政治の統制が「反日」を抑えているという皮肉な構図なのだ。
ふと思い起こすのは、かつての日本のことだ。戦後民主主義の下に育った「反米」機運は、激しい安保闘争などを生んだ。国の急成長期、ナショナリズムが高まるのは、よくあることかもしれない』

なぜ中国で民主化が進めば進むほど「反日」が噴出すると、氏が考えているのか、明快な論旨はない。
ただ、日本でのかつての「反米」機運を例示して『国の急成長期、ナショナリズムが高まるのは、よくあることかもしれない』としているだけである。
中国のナショナリズムを国の急成長=おそらく経済成長という意味なのだろうが、このように短絡的に捉えるのはどうだろうか。
日本はまがりなりにも戦後民主主義のなかにあったわけで、中国は現在も相変わらず一党独裁。天安門事件の総括もされず、うやむやのままである。
あまりにも皮相的な見方である。

つぎ。
『もっとも90年代に強まった「愛国主義教育」には「反日教育」と映る面もなくはない』

実にひかえめな表現である。「映る面もなくはない」??。まあ細かいから指摘だけにしておこう。

つぎ。
『「能(よ)く礼譲を以(もっ)て国を為(おさ)めんか、何か有らん」とは、孔健さんが論語から選んでくれた言葉の一つだ。
「礼儀と謙譲の心で国を治めれば、何ら難しいことはない」という意味だが、これは外交にもよく当てはまる。
中国のトップはデモの行き過ぎをわびて礼儀をつくし、小泉首相は謙譲の精神で靖国参拝をとりやめる。これは、そんなに難しいことなのだろうか』

論語の言葉は美しい。まさに東アジアの美しき治世の精神である。
しかし、中国政府が日本になにかを『わびて礼儀をつくし』などということがあり得るのだろうか。
先日のドタキャンですら、礼を以てわびない国がである。
なぜ中国が反日デモにおける暴力行為をはじめ、日本に対してわびないのか。どうして若宮氏は、この点を考えようとしないのだろうか。
『これは、そんなに難しいことなのだろうか』とは、大新聞の論説主幹にしておくのはおしい、悲しいばかりのナイーブさである。

つぎ。
『苦難の末に実った1972年の日中国交正常化から33年。当時の熱い日中友好ムードが新婚時代だったなら、いまはわがままをぶつけ合い、相手のあらばかり目につく危機の夫婦みたいだ。時に茶碗も飛ぶ。
北京の清華大学で学生たちに講演した私は、そんなたとえ話をした』

氏が中国でどんなたとえ話をしても良いが、日中、いや外交関係というのは夫婦間に例えられるようなものなのだろうか。
国と国との関係は夫婦関係ではない。そもそも、古来より中国は日本を弟国とみたがる傾向にあり、国家間をそういう安易で固定化した見方(たとえ)で語ることに、過ちが生まれるのである。
中国と日本は重要な隣国ではあるが、夫婦でも兄弟でもない。
成熟した国家関係を考えるときには、そこから出発するべきではないか。

つぎ。
『学生からは「東アジアに2匹の虎が共存できるか」という質問も出たが、エネルギーや環境など共通の難題を抱える2匹には、共存しか道がない。そのためにこそ、両国に流れる儒教の伝統を生かしたい。孔子はやはり日中のキーパーソンだ』

中国人学生の問題意識は、ある意味ただしい。
それに対して若宮氏の『エネルギーや環境など共通の難題を抱える2匹には、共存しか道がない』という答えは論点がずれている。
学生は『“2匹の虎”が共存できるか』と聞いたのである。
虎とウサギならば共存できるかも知れない(食べられちゃうから共存できないかな)。
だが、同じテリトリーに2匹の虎は共存できるのか。ともに双方が虎でありたいかぎり、そこには大きな困難と相克が存在し、共存実現のための知恵や戦略が必要なのではないか。
エネルギーや環境といった(日本では)誰も否定できない話題を出すのはフェアではない。
もし出すのならば、中国のエネルギー問題や環境破壊に対して、もっと深く考えた意見を表明すべきである。

つぎ。
『その渋沢は中国との関係にも心を砕いていた。
「日中間は同文同種の関係あり。国の隣接せる位置よりするも、はた古来よりの歴史よりいうも、また思想、風俗、趣味の共通せる点あるに徴するも、相提携せざるべからざる国柄なり」
「人情を理解し、己の欲せざる所はこれは人に施さず、いわゆる相愛忠恕(ちゅうじょ)の道をもって相交わるにあり」
合弁事業による経済提携も説いたから、先見性には驚いてしまう』

明治における渋沢栄一の論に、あえて反論する必要はない。
ただ、当時の日本人の多くは「日中間は同文同種」と考えていたのかも知れない。
逆に、日中の違いの多くを当時の西洋人は理解していた。
共有するものもあり、異なるものもあり。これが隣国や近隣の人々の社会・文化に対する理解のしかた、接し方の基本ではないか。
小生は個人的には、これはアジアの近隣国だけではなく世界のどの国、どの民族に対しても、共通していると考えている。

よく言われる「外交とは内政の結果」。
礼をつくした内政を行う国家ならば、外交にも礼をつくすかも知れない。
ただ、そういった人治政治だけの世の中ではない現代では、国際ルールや戦略も需要なのである。
果たして、一党独裁の国家に、このコラムで書かれているような話が通じるのだろうか。
自国に都合良く、あるいは自らの権力基盤の維持に都合良く外交を行うことがおびただしい場合、「礼譲」によった議論はあまりにもナイーブにみえてしまうことを、あらためて言いたい。

国をあげて「潔さの演出」?

2005-04-25 17:53:38 | 「論説・コラムに突っ込む(仮)」
今月の朝日新聞若宮論説主幹のコラム「風考計」。
先月には「友情島」と命名して、韓国に竹島をさしあげましょうとぶちあげた、あの月1回のコラムである。
今月は以下の通り。
asahi.com:常任理事国入り 問われる「敗戦国」の作法 - コラム

日本の国連安全保障理事会・常任理事国入りに向けての、中韓の反発、中国での反日デモ騒ぎを受けての内容となっている。
韓国が評価する同じく常任理事国入りを目指すドイツ、あるいは中国のインドへの支持表明などの話を前置きしながら、同じ敗戦国ドイツと日本の謝罪を比較しながら、日本の村山首相の謝罪がなぜ決定打にならなかったのか、について、

『いや、致命的なのは、これを打ち消すような言動が国内に次々と現れ、その効果をかき消してしまったことだろう。
逆に、視覚を刺激したのは、紋付き袴(はかま)で靖国神社を参拝する小泉首相の姿である。神社には軍国主義や侵略に責任を負うA級戦犯処刑者たちもまつられているとあれば、小泉氏の意図はどうであれ、振りまかれるのはドイツと正反対の印象である。ナチスの断罪を徹底してきたドイツの作法がうまかったとすれば、日本のそれは余りに下手だった』

と理由付け、結論として次のように結んでいる。

『しかし、だからこそ言うべきことは言いつつ、相手の気持ちをどうほぐすか、そこは日本の知恵と度量が問われているのではないか。
昨年秋、日本が常任理事国に手を挙げた際、あうんの呼吸で中国の支持をとりつける道もあったはずである。例えばこれを機に、アジアの人々も納得するような戦没者慰霊を考える、そんな潔さの演出によって……。
村山談話をなぞるのはいい。だが小泉さん、いまはそれを超える演出を考えるときだろう』

確かに日本は、国をあげての対外的な演出は下手である。
矛盾や誤解を与えるような現象がしばしばおきたりする。
だが、みんなで同じ方向を向いて演出すれば、それで解決するのか。あるいは、そのような(たとえ潔さの演出であっても)演出を行うことが、はたしてよいことなのだろうか。
このコラムは、前回の「島を進呈して“友情島”」もそうだが、演出やパフォーマンスの提案が好きなようだ。

今回の反日騒ぎに関連して欧米メディアのなかには、「本当に日本が謝罪したら困るのは中国」という言い方をしたものもあった。
中国は今回の騒ぎを、対日戦略の道具、あるいは安保理事会改革に対する自国の戦略のために日本をスケープゴートとしている、という見方が欧米メディアでは多く見られる。
日本に謝罪してほしいのではなく、日本に常任理事国になってほしくないのである。
韓国以外の他のアジア諸国も、今回の件は日中の主導権争いと見ている。
そんなときの「風考計」の提案は、『日本が常任理事国に手を挙げた際、あうんの呼吸で中国の支持をとりつける道もあったはず~略~小泉さん、いまはそれを超える演出を考えるときだろう』である。

日本の常任理事国入りに対しては“あうんの呼吸での支持”などは決してしない、という中国の強烈なメッセージ。
G4(常任理事国入りを目指す日本、ドイツ、インド、ブラジル)から、日本のみを切り離すための、他の3カ国への支持表明。
これらをふまえて、“村山談話を超える演出”云々は、オピニオンとしていかがなものか。
前回の“友情島”に比べ、いかにもみんなが賛成してくれそうな主張らしきもの。だがそこからは、中国の主張を結局「正」として、それにいかに日本は対応すべきか、という悲しい思考が見え隠れする。

『よく考えれば国連とはもともと日独伊と戦った戦勝国がつくったもの。常任理事国はその中核だけに、ドイツや日本が入るなら、それなりの作法が求められても仕方ない。あっさり日本に特権を渡すまいとライバル心に火がついて、歴史認識が格好の理由にされたのだろう』

中華民国から常任理事国の椅子を奪い取り、東西冷戦の一翼をソ連と担い、いまは唯一の非民主主義・非自由主義国・一党独裁国として、常任理事国の立場を世界戦略に活用している中国には「あっさり日本に特権を渡すまいとライバル心に火がついて」などという、軽い認識からははるかに離れた強烈な意志が働いているはずだ。
日本に必要なのは“それなりの作法や演出”などという小手先の甘さを、日本人も世界もとうに超えていることを大新聞のコラムニストは認識すべきだろう。

「愛国無罪」の国

2005-04-18 14:54:35 | 「論説・コラムに突っ込む(仮)」
中国の反日デモはこの土日もつづき、北京は日中外相会談を控えて(おそらく)事前に中国当局がデモ自体を抑え込んだが、その分、中国各地に飛び火している。
一方、直接関係がないにせよ、広東省潮州市で15日、台湾企業の工場が、暴徒化した数千人に及ぶ地元住民に包囲され、工場内の物を略奪される事件が発生したことが報じられた。
<中国広東省>毎日新聞4月18日付-地元住民が台湾企業襲撃

この事件は、『工場廃水が養殖用の海水を汚染しているなどとして地元住民に包囲、略奪を受けたが、工場の廃水は地元当局の基準に適応している上、海水汚染もなく、参加した住民も具体的な賠償の根拠を持っていなかった』というもので、
『工場側は住民制止のため、地元の市政府に警察の出動を要請したが、派遣されなかったという』
『同市に進出している台湾系企業からは、特定組織が背後で住民を操っているのではないかとの見方も出ているという』

土日にテレビで反日デモのニュースを見ていて、小生が気になったのが、多くのデモ参加者が掲げていた「愛国無罪」というスローガンが書かれたボードや横断幕だ。
“国を愛する行動には(何をやっても)罪はない”ということだろうか。
典型的な「目的は手段を正当化する」類のスローガンである。
今日の新聞各紙の社説は反日デモや日中外相会談を題材に取り上げているが、この「愛国無罪」の言葉をタイトルに入れたのが朝日の社説。
朝日新聞4月18日付社説-日中会談 「愛国無罪」の危うさ

『一連のデモで、参加者たちは「愛国無罪」と叫んでいる。愛国主義の行動に罪はない、という意味だ。そう叫べば、政府が手を緩めることをデモ参加者たちは知っている。共産党や政府自身が「愛国」を宣伝してきたからだ。
市場経済に移行するなか、共産党は社会主義のイデオロギーに代わって、経済発展と民族主義を旗じるしに掲げた。
「愛国主義は人民を動員、鼓舞し、団結させる旗であり、人民共通の支柱である」。94年、党が布告した「愛国主義教育実施綱要」の前文の一部である。
このキャンペーンが政府を逆にしばり、反日デモでの破壊行為を真っ向から批判することや、謝罪することを難しくさせているのだろう。
だが、それでは法治国家ではない。李外相が「いかなることを処理する際も法律に基づいて行う」と述べたことを注視していきたい』

引用が長くなったが、この社説の内容自体には今回それほど突っ込むことはない。(最近の朝日の中国関連社説には、なるべくバランスを意識しているように感じられるが、どうだろうか)
天安門事件以降、対外開放・市場経済化につき進むなかで、内陸農村部と沿岸都市部との著しい所得格差、13億人に増大した国民の階層化(激しい社会格差を生み出す社会主義国という皮肉)などの国内の矛盾を暴発させずに、一党独裁体制を維持していくための求心力の源泉としたのが反日愛国教育であることは、多くの日本人が知るところである。

中国の所得階層は、なんと8種類に分類されている。
あえて書き出せば「最高所得層」「高所得層」「中高所得層」「中間所得層」「中低所得層」「低所得層」「最低所得層」「貧困層」の8階層である。
このうち「最高所得層」は世帯年収で平均約80万円。ということは、日用の消費物価が日本の10分の1とすると日本でいえば世帯年収約800万円に相当するとされ、また次の「高所得層」が同様の換算で500万円であることから、これらの層が日本でいう中流以上ということになるだろうか。
この「最高所得層」と「高所得層」を合わせると、都市部人口の約20%弱を占めるが、農村部と都市部が1対1であるとすると、国民の約10%弱が市場経済と経済発展の恩恵を受けていることになる。(ただし中国の統計の信頼性の低さはよく言われることであるから、実態がどうかはわからない。また日用品の消費物価で安易に日本の所得に換算するのも、必ずしも正しいとは思わない)
ちなみに最下位の2つの層「最低所得層」「貧困層」は世帯年収が12万円程度以下であり、同様の換算でも日本でいえば120万円以下。この層が都市部で約15%。農村部を含めた中国全体では相当な数にのぼると考えられる。
(参考:サーチナマーケティング

さて「愛国無罪」である。
愛国というスローガン=目的のもとでは、国民がなにをやっても許されることを容認してしまった中国。今後、これを中国当局がどうコントロールしていく、あるいはいけるのかはわからないが、多くのひとが指摘しているようにこのツケは大きいだろう。
台湾企業の工場を襲った暴徒の事件が、一概に無関係とも言い切れなくなる。
たとえ中国人が日本や台湾などアジアには強硬に出ることができ、欧米人には下手に出ざるを得ないとしても、世界は、いつかは我がことと警戒するだろう。
あえていえば、「愛国無罪」とはつまり、国際的に共通するルールとは異なる独自のルールで国民が暴発するということであり、外からみれば“無法”というに等しい。

一党独裁(権力の独裁)と体制維持のために、不満や矛盾を他国に振り向け、「愛国」を安易にマインドコントロールのように利用する国が国民を幸福にした試しは、歴史的にみてもあり得ない。
ましてや、これまでに人類が経験し得なかった13億という膨大な人口を持つ国である。
おそらく世界は、中国がようやく曲がり角に来たことを、重大な警戒感をもって確認しつつあるだろう。
“我々は、他国が我々の愛国に逆らえば、どんな(非道い)ことでもしますよ”と世界に喧伝した中国の今後を注視したい。

知恵はどこにあるのか

2005-04-09 16:20:57 | 「論説・コラムに突っ込む(仮)」
イスラマバードで行われた日韓外相会談を受け、朝日新聞は4月9日付けの社説「日韓関係 新しい知恵が必要だ」を掲載している。
asahi.com :朝日新聞今日の朝刊-社説
論旨はしごく簡単な内容で、朝日の意見としては、

『北朝鮮は今また、日韓両国が最優先で取り組まなければならない共通の課題となっている。核問題をめぐる6者協議を再び動かすには、日米韓の協調態勢を早急に立て直す必要がある。
そのためにも、ここで竹島問題などで仲間割れするのは賢明ではない。首脳会談に向けて、原則の対立を乗り越える新しい知恵を生み出そうではないか』

ということのようだ。
それでは、「原則の対立を乗り越える新しい知恵」とはなにか。
この社説からは、“新しい知恵”らしき提案や意見を読みとることはできない。
ただ、
『韓国には、日韓に立場の違いがあることをまず認め、摩擦をできるだけ小さくしていく努力を進めてもらいたい』
『(40年前の日韓国交正常化の)当時の交渉でもやはり竹島が大きな争点だった。それを棚上げして手を結んだのは現実的な知恵だった』
と述べていることから、竹島問題などの当面の課題を棚上げするような知恵が“現実的な知恵”である、との意見のようだ。
先月末の朝日論説主幹若宮氏のコラムでの、竹島は韓国に進呈して、そのかわり“友情島”という名前をつけてもらおう、という知恵からはだいぶ後退した(穏健的な)知恵のようにも感じられるが、それにしても、最も摩擦の原因となっている課題を棚上げするという知恵もいかがなものか。
もちろん、そこは朝日だから、続けて、

『それ以降も、韓国が島を実効支配していることに対し、日本の方からことを構えることはしなかった。こうした姿勢にいま弱腰外交との批判もあるが、冷戦下、反共の立場から北朝鮮に対抗する日韓連携を優先させたのが自民党政権だったのではなかったか』

と、責任回避のための自民党批判を挿入している。
実際は、昭和29年に日本は竹島問題の国際司法裁判所(ICJ)での平和的解決を呼びかけたが、韓国はこれを拒否し、警備兵を常駐させるようになったのであり、昭和40年の日韓基本条約締結の際、竹島問題の解決を先送りする代わりに、両国は同問題の外交的解決が図れない場合、調停で解決することで合意した、という経過説明を一般読者に提供していない。
産経新聞3月25日付-竹島領有権の国際司法裁付託 韓国へ働きかけ

しかしながら、“現実的な新しい知恵”とは、そういうたぐいのものなのだろうか。
韓国・盧武鉉大統領は、先月22日の陸軍三士官学校卒業式での大統領演説において、「北東アジアのバランサーとしての役割を果たしていく」と述べ、「われわれの選択によって北東アジアの勢力図は変化するだろう」と“予言”した、という。
この演説について政府高官が『「韓米日の南方三角同盟は冷戦時代の秩序であり、いつまでもそこに閉じ込められることはないという意味」と解説したため、大統領の真意が一気に問題となった』ということである。
産経新聞4月5日付-盧武鉉外交 日米韓同盟離脱を志向?

『盧武鉉政権の外交安保を担当する国家安全保障会議(NSC)は、現在の北東アジア情勢を日米対中国の対立構図でとらえており、特に北朝鮮問題で米国との同盟関係を強化する日本への警戒感が強いとされる。
演説後、盧大統領は歴史、領土問題で日本との「外交戦争もありえる」(青瓦台ホームページ)と言及した』

ということだから、韓国政権の外交政策、極東アジアにおける外交戦略のグランドデザインが大きく変化しているという前提において、対北朝鮮・中国関係、日米韓関係の大きな枠組みのなかでの戦略として捉えなければならない、ということなのである。
求められるのは、それらを踏まえた“新しい知恵”なのだろう。
一説には、盧大統領取り巻きの新しい世代(反日・嫌日教育のたまもの)を中心に、これまでの日米との関係を見直し、特に日本の発言力や影響力を抑え、中国との関係強化をうまく活用しながら、同胞である北朝鮮と統一していく、という独りよがりな基本戦略をたてているのだという。
現実に、これまで中国との軍事交流には慎重だった韓国が、その水準を日韓の軍事交流レベルにまで引き上げ、強化する方針を打ち出したとのことである。
産経新聞4月6日付-中国と軍事交流強化 韓国方針「日韓水準まで」

日韓の軍事交流・軍事外交という観点では、これまでの対共産圏に対し、日米安保、米韓同盟と米国を基点として、いわば軍事同盟に近いともいえる考え方の軍事交流・軍事外交だったであろうから、中国との軍事交流を日韓水準までということは、日韓を引き下げて中韓を強化・引き上げることにより、バランスを取る戦略といえる。
中韓両国は、特に対日関係にあっては、領土・歴史認識・靖国神社と共通して攻撃できる材料も多く、また双方とも日本が安保理事国となって国際政治における発言力を強くすることに猛烈に反対・阻止したい、などと共同して足並みを揃えるに事欠かないわけだから、少なくとも対日本の外交戦略そしてその補強となる軍事外交において関係強化がはかりやすい。

朝日の社説がまとめているように、『6者協議を再び動かすには、日米韓の協調態勢を早急に立て直す必要がある』とは、日米にとっては必要なことには間違いないのであろうが、果たしてそれが朝日のいう『そのためにも、ここで竹島問題などで仲間割れするのは賢明ではない』ということに安直につながるのだろうか。
韓国が外交戦略・極東アジアの地域戦略の転換に、意を決して踏み出したのかどうか(一説には次の韓国国会議員の補選までの戦術という見方もあるが)にせよ、対日強硬姿勢の意思表示が明確化しているなかで、日本も明確な戦略のもとに2国間関係に対していかなければならない。
国の国際戦略は、国内政治と国益に依って立つのはいうまでもない。
穏健な外交にしても、強硬な外交にしても、どちらも国民の意思を反映した国益に基づくものであり、「仲間割れは良くない」レベルの情緒的なものではないはずである。可能性のみでいえば、国益に基づいて、6者協議はある程度の協調はしても、2国間では強硬に外交戦を行うことも考えられるのである。
特に、領土問題は国益と原則の問題であることを忘れてはならない。
朝日社説の言うように新しい知恵が求められるということで言えば、それこそ戦後政治的な“棚上げ式の現実的な知恵”ということではなく、「国益と原則を踏まえた戦略的な知恵」が日本にも必要となっているのだと思われる。
それにしても朝日は、自分たちの発想が、“自虐的に自国を批判する”その結果“足して2で割る解決に身を任せる”戦後政治・ジャーナリズムの古くさいドグマから自ら抜け出せないことに、いまだ気が付かないのだろうか。

教科書のゆくえ~新聞社説から・つづき

2005-04-07 13:46:58 | 「論説・コラムに突っ込む(仮)」
歴史教科書について、というか教科書検定について、本日4月7日付けの日経新聞で社説を掲げている。
NIKKEI NET:社説・春秋 ニュース
昨日は朝日新聞の社説について、あまりの内容のなさと論点のナィーブさに少々驚き、思わずまた書いてしまった次第だが、その反動もあり本日の日経社説では少し安堵感すら覚えてしまう。
日経社説の論点は、歴史教科書問題と中・韓国両国のから騒ぎに過剰に反応することなく、今回の教科書検定のポイントを踏まえ、学校教育と教科書検定(および学習指導要領)のありかたそのものに課題を提出している。

『指導要領を超えた記述を大幅に規制してきたこれまでの検定を改め、質と量で厚みのある教科書になったことは評価していい。ただし、削減された授業時間のもとでこうした教科内容を消化することが難しいのに加えて、目まぐるしい政策の転換で学校現場に広がる混乱は大きい。
 これらは学習指導要領などに一律に事細かな制限規定を設け、現場の裁量や社会の要求を受け入れてこなかった国の教育行政の仕組みに負う部分が多い。指導要領や教科書検定制度を弾力化して、教育内容に自由な裁量部分を広げる必要がある』

経済分野や地方行政における規制緩和・民間への移行が、昨今の政策のベースメントとなっているなかで、教育分野においては先進国のなかでも日本は著しく遅れをとっている現状が伺える。
同社説で
『日本の教科書検定制度は民間で編集されたさまざまな教科書を国が「全国的な教育水準の維持」「適正な教育内容」などの観点から審査し、修正を求めて発行するものだが、この関与を近隣諸国があたかも「国定教科書」のように誤解してとらえて反発を強める構造は今回も同様だ』
とかなり押さえ気味に述べられているが、中・韓両国が誤解しているかどうかは別として、いまだ検定されなければならない“文化度”や“教育度”つまりは、“教育行政度”や“民度”の低さが問題なのである。
中・韓両国の日本に対する反発や過剰反応、両国民のから騒ぎなどについて、よくかの国の民度の低さを話題やネタにする発言を目にするが、日本=先進国という尺度において果たして日本の民度はどうなのか、ということをあらためて自省し課題化する必要があるかも知れない。
『欧米など主要国では民間で発行された教科書を自治体や学校が自由に採択する場合が多く、国定教科書が中心の中国や韓国は例外的だ』
このように日経らしい、さりげない批判を行っているが、つまりは中・後進国や非民主国家なら国定教科書などというもので一方向的に国民教育を行い、おまけに極東アジアという地域世界で隣国を歴史という名のもとに子供じみた過激性をもって非難・攻撃をするのであって、その例外性に日本がはまってはならない、ということなのである。
つづけて同社説が提起している
『民間が発行する教科書がその国の国際関係や歴史認識に基づいて多様な表現を伴うのは民主主義の下では当然だろう。記述の客観性など、教科書が教材としての適正な基準を満たしているかどうかを判断する仕組みに国が直接関与して修正を指示することが、なお必要なのか』
という疑問・課題に対し、おそらく小心な日本の教育行政はまともに応えることはできないだろうが、問われるのは、自由な裁量のもとに良心と学術的文化的妥当性をもって教育が行い得る、学校現場や社会そのものの民度の高さや成熟度についてである。
おそらく、それがこれからの日本社会や近隣外交のあり方につながっていくのではないか。
中道保守自由主義、グローバリズム推進派の日経新聞らしい社説ではあるが、考えなければならない視点は朝日の数十倍は含まれているように思う。

歴史または歴史教科書とはなにか

2005-04-06 13:05:26 | 「論説・コラムに突っ込む(仮)」
4年ぶりの教科書検定の結果が出た翌日、新聞各紙はその話題と社説を掲載している。
そこで朝日新聞の社説である。
asahi.com :朝日新聞今日の朝刊-社説
朝日の6日付け社説のその1は『「つくる会」 こんな教科書でいいのか』と、主に「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史と公民の教科書に対する批判に終始しているわけだが、クォリティペーパーさんの社説ってこんな内容で良いのでしょうかね。
中国と韓国が、日本との摩擦を徐々に顕在化させていこうとしている今のタイミングに、次は教科書検定問題(歴史教科書のみですが)。
私見では、新聞の社説としては、学校教育の基本となる教科書全体(歴史だけではなくてね)あるいは義務教育を中心とした教育のあり方について、論説をのたまうか、それとも歴史そのものと教育のあり方、あるいは東アジアの現在的課題と歴史教育のあり方、なのか、このタイミングにのたまうべき論説テーマはいろいろ考えられると思うのだが。
それを、ただ一冊の歴史教科書について、韓国・中国の干渉と一体となって断固批判する、というものが社説と言えるものなのでしょうか。ちなみに読売新聞はと見ると、[歴史教科書]「検定、採択は日本の国内問題だ」と、中韓関連の歴史教科書のポイントや両国政府がらみの動きを簡単に紹介しながら、『これは、明らかな内政干渉だ』という論を一応張って、社説らしく主張している。
これに対し、朝日の主張らしきものは、
『日本を大切に思うなら、他国の人が自分の国を大切にする心にも敬意を抱くべきだ。そうであってこそ、周りの国と互いに理解を深めることができる。 「つくる会」の歴史教科書は、そのバランスを欠いている』
『政府見解の通りにしなければ合格しないからだが、検定でそこまで求める必要があるのだろうか。これでは、国定教科書と差がなくなる。 「検閲」ではなく、事実や通説との違いを直す役割に徹する。検定は、本来そうしたものであるべきだ』
ということのようだ。
少し意地悪く言えば、『日本を大切に思うなら、他国の人が自分の国を大切にする心にも敬意を抱くべきだ。そうであってこそ、周りの国と互いに理解を深めることができる』の冒頭の「日本」を、例えば「韓国」あるいは「中国」と置き換えて主張できますか?どうですか朝日さん。
かなり乱暴な言い方だが、世界的に大なり小なりそういう傾向はあるのかも知れないが、東アジアつまり古代からの中華文明圏において「歴史」とは、時の王朝がそれ以前の歴史について自らの王朝に都合良いかたちで記録として残すものだった。近代になり、いわゆる科学的な歴史学として、アジアにおいても客観的事実や根拠に基づく歴史の編纂がいちおう行われることとなったが、それにしても歴史とは、常に解釈や主張がともなうものであると認識している。
「歴史はつくられる」という言葉があったが、「歴史はつくられてきた」のである。
中国・韓国の国定歴史教科書においては、現代においてもまさしく国民教育のために“歴史はつくられている”ようだし、日本の教科書への過激な干渉もその一環と考えざるを得ない。
朝日さんも「つくる会」つぶしのプロパガンダではなく、あらためて中国・韓国・日本に対し、ご説の『事実や通説との違いを直す役割に徹する』を呼びかけたらいかがだろうか。

おまけ
同じく朝日新聞の6日付け社説のその2「昭和の日 復古主義ではいけない」ですが、そのなかで
『さらに昭和の時代、日本が侵略した中国、併合した韓国とは、小泉首相の靖国神社参拝や竹島の領有権問題などで強い摩擦が起きている』
と書いてありますが、『昭和の時代、日本が侵略した中国、併合した韓国』の「韓国併合」は1910年(明治43年)です。この年、8月22日に韓国総督府において、日本の寺内正毅統監と李朝政府の李完用首相が極秘裏に日韓併合に関する日韓条約を調印しています。
「昭和」と「中国侵略、併合していた韓国」と現在の「小泉首相の靖国神社参拝や竹島の領有権問題」の三題ばなしをつなげたいためにこのような表現になったのでしょうが、まるで昭和の時代に韓国を併合し、そこから竹島問題が起きたというような誤解を生みます。
歴史に関することは、正しく記述・表現してくださいね。老婆心です。

「友情島」ですか‥‥。

2005-03-30 13:45:27 | 「論説・コラムに突っ込む(仮)」
もう、いろいろなブログで突っ込まれているので、いまさら何をかいわんやなのだけど、朝日のコラム「風考計」の「竹島と独島 これを「友情島」に…の夢想」(3月27日付)
asahi.com:竹島と独島 これを「友情島」に…の夢想 - コラム
若宮啓文論説主幹の月に一度のコラムということだそうだが、
『例えば竹島を日韓の共同管理にできればいいが、韓国が応じるとは思えない。ならば、いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する。
見返りに韓国はこの英断をたたえ、島を「友情島」と呼ぶ。周辺の漁業権を将来にわたって日本に認めることを約束、ほかの領土問題では日本を全面的に支持する。FTA交渉も一気にまとめ、日韓連携に弾みをつける――。 』
これが、月に一度、朝日の論説主幹が内外に対して発言するオピニオンなのだろうかねぇ。
おそらく、世界で一番のナイーブな論説主幹と称えられるのではないでしょうか。
夢想するのは勝手だが、朝日の名のもとに書いたらそれはもう夢想でもなんでもなく、オピニオンでしょ。
つまり、“国家が領土と主張するものを係争相手国に譲る=英断”と言っているわけだね。
おまけに、これが相手国に称えられ、どのように配慮していただけるかという希望まで述べられておる。
それなら「友情島」という名前をつけてくれるなら、朝日は断固、島を譲る運動を繰り広げます、ぐらいは意見として掲げたらよかったのにね。できますか?
きょうは時間がないのでこのぐらい。
新カテゴリー「論説・コラムを突っ込む(仮)」をつくりましょ。