RADIX-根源を求めて

Twitter連携のブログです。知的障害・発達障害研究をメインに教育評論・社会評論のつぶやき・記事が投稿されます。

世界はうつくしいとー長田 弘ーきみはねこと友だちですか

2012-07-02 02:54:14 | Weblog

3.11後の世界は原子力発電所の問題、壊れかけている年金などの社会制度、消費税増税のマニュフェスト破りの詐術的な民主党政権の出鱈目さ、世界的な経済破綻を巡って、安心して暮らせる社会の構築の議論に明け暮れている感がありますが……果たして安全・安心を制度・体制・機構・施設・科学的構造物・機械などなど人工物にそれを完璧に求めることは妥当で可能なのでしょうか。可能と答えるならばそれは人間の傲慢さなのではないでしょうか。このような人間存在の本質的・根本的な問題に対する問いかけの観点を常に持ち続けて謙虚に物事を判断・反省して、問いかけの原点を照らし続けることがなければ、誠実に物事を考え、適切な対処して人々を幸福に導くことは不可能だと思います。あの、地震と津波の凄まじさを前に如何に人間は無力で儚い存在だったのかを改めて思い知ったところから、新たなる歩みが始まるのです。「あの震災で人生観が変わった」と多くの人が語っているものの、レジリアンス<*(注)*>という観点を考慮だにせずに、ただただ効率性・経済性・選択と集中性を優先するなど相変わらずの旧態依然の論議に明け暮れているように思えるのです。


*(注)*レジリアンス

レジリアンスとは、回復能力と訳されることが多く、「攪乱を受けたあと元にもどる能力」とイメージされるのではないだろうか。しかし、生態系の非線型性(解がひとつでない)、レジームシフトなどの概念を取り込み、複数の安定系を想定し、耐えうる攪乱の大きさとして定義される生態レジリアンスへと拡張されてきた。近年は、さらにこの概念を生態システムにとどまらず、社会・生態システムの理解、人間社会の持続的発展の達成に利用すべきであるとの主張が多くなされてきている。そこには、将来には、予測できない事が起こりうるのだという認識が深く根付いている。いくら我々の知識が増えたとしても、すべてを予測できるような将来は、決してやってこないという認識である。したがって、現在の条件で効率性を高めるための「選択と集中」が、予測できない事態(攪乱:たとえば、洪水、干ばつ、津波、伝染病、病虫害)への対処能力を弱め、別の悪い状態へとレジームを変化させてしまうかもしれない。対処能力のカギとなるのが冗長性(Redundancy)や多様性であると考えられている。その意味で、持続可能性とは、最大効率での生産の維持ではなく、繰り返される破壊と再生を好ましい系内にとどめておくことで達成されるということになる。『総合地球環境学研究所』

http://blogs.yahoo.co.jp/yosh0316/51545730.html 

心のレジリアンスについてと言う私の記事をご参照下さい。




私たちの存在は常に災害・障害と背中合わせなのです。だからこそ、人生は美しいのではないでしょうか?人工物の安心・安全は何処か胡散臭く、作為に満ちた詐術の極みなのではないでしょうか?災害・障害と背中合わせに生きる私たちの生きる知恵・叡智を語る時ではないでしょうか?大地は必ず揺れます。津波・洪水は人々の平穏な日常を破壊して根こそぎ何処かへ運び去ります。太古の昔から、それが私たちの生き方の基本なのです。それを弁えて、知恵を生かして、私たちの日常生活は災害・障害を織り込んで持続して来たのです。どんなに困難であろうとも不屈の魂で立ち上がるときに、あの無慈悲にも全てを破壊し尽くして荒れ狂った海の現在の平穏で美しい海の景色・姿、あの不気味な揺れをもたらした大地に展開される美しさが心の拠になるのです。吉祥天を迎えることは常に黒闇天の存在を受け入れることなのです。吉祥天は光・幸福・美しさ・穏やかさ、黒闇天は闇・不幸・醜さ・凶暴さに関わると言われています。

(世にも美しい吉祥天を喜んで迎え入れたら、直ぐに世にも醜い黒闇天が現れて黒闇天を断ったら…吉祥天も共に居なくなったそうです。

黒闇天いわく。

「吉祥天は私の姉で私達2人は常に一対で行動するの。あなたは愚か者です…」)

昨日、最近知り合いになった女性のブロガーが駐車場に居着いている猫との微笑ましいエピソードを記事にして投稿しました。生来剽軽でお茶目なノリの好きな私はコメント欄にその猫に成り代わりコメントをたくさん入れたのですが、ふと福島県福島市出身の詩人長田弘さんの猫に関する詩を思い出しました。

『きみはねこのともだちですか 』と言う題名の作品です。今回はその作品を紹介します。

そして、最近の長田さんの「世界は美しい」と言う文章も合わせて掲載します。私が様々に問題を提起して述べるよりも深く物事を考える際の参考になりえる美しい文章だと感じたからです。政治・行政・公共事業・報道・福祉などに携わる人間が己の言葉のその場しのぎの虚妄性・詐術性を謙虚に認めて反省して世界の美しさを求める心を大切にする歩みを始めたときに傲慢ではない実直で誠実な社会が訪れるのだと思います。




きみはねこのともだちですか
            長田 弘


一ぴきのねこと
友だちになれたら
ちがってくる 何かが
もっと優しくなれるかもしれない
ねこは何もいわずに語る
はげしく愛して
ゆっくり眠る
きみはねこの友だちですか?


胸のドアを開けなくちゃ
ねこが きみの
こころにはいれるように
胸のドアを開けなくちゃ
きみはねこの友だちですか
一ぴきのねこと
友だちになれたら
ちがってくる 何かが
もっと自由になれるかもしれない
ねこは生きたいように生きる
ゆきたいところへ
すばやく走る
きみはねこの友だちですか?


胸のドアを開けなくちゃ
ねこが きみの
こころにはいれるように
胸のドアを開けなくちゃ
<心の中にもっている問題>所収 晶文社







「世界はうつくしいと」 長田弘



うつくしいものの話をしよう。

いつからだろう。ふと気がつくと、

うつくしいということばを、ためらわず

口にすることを、誰もしなくなった。

そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。

うつくしいものをうつくしいと言おう。



風の匂いはうつくしいと。渓谷の

石を伝わってゆく流れはうつくしいと。

午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。

遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。

きらめく川辺の光りはうつくしいと。

おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。

行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。

花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。

雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。

太い枝を空いっぱいにひろげる

晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。

冬がくるまえの、曇り日の、

南天の、小さな朱い実はうつくしいと。

コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。

過ぎてゆく季節はうつくしいと。

きれいに老いてゆく人の姿はうつくしいと。



一体、ニュースとよばれる日々の破片が、

わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。

あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。

うつくしいものをうつくしいと言おう。

幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。

シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。

何ひとつ永遠なんてなく、いつか

すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。





転載元記事 http://blogs.yahoo.co.jp/yosh0316/52507878.html

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