やっとのおもいで、完成!
これもみなさんのお蔭です、本当に感謝申し上げます。というのは、ここにきていざという時に、小生のPCに「ディスクの書き込み不良」が発覚。VAIOカスタマーセンターと2時間連続で電話したが、駄目(終いには、PC再インストール・リカバリーという・・・)
これまでに震災地を歩いた記録を、資料にまとめて、記憶にとどめておきたい、という気持ちから始めた作業でした。
(実は、あの震災発生直後の時期には、往復のガソリンが確保出来無ければ、“釜石入り敢行”は、とても不可能でした。勿論、マイカー・車もです。そんな折に、盛岡に住む公一さんが、自宅とマイカーを快く提供してくださいました。これが!われわれ兄弟姉妹の行動を支えてくれたのでした。3月26日・夜行バスなどで、札幌・埼玉・東京・千葉から早朝盛岡駅に到着したわれわれを出迎えてくれました。早速、その日から連日、水とおにぎりを用意して、雪景色の中を、4往復したのでした。)
被災した現地に到着したものの、あまりの惨状に人間一人一人の手作業では、家の瓦礫整理は一向にはかどらず、市内に数ヶ所設けられてある避難所や遺体安置所、災害対策本部などを巡りことになりました。・・・自宅瓦礫の中から位牌を発見したのが、2日目のこと。3日目にして、自宅から約400メートル離れた所で発見された遺体情報が「年齢60-70歳代の女性、白髪、前歯あり、腹部と下肢に手術痕」が、母であることを遺体安置所で確認することが出来ました。<合掌>
今もって信じられないことですが、自衛隊のジープに乗せられて遺体安置所へ向かう時に、兄が持っていた携帯電話が突然鳴った。母からの留守録を受信したのでした。こんな状況のタイミングで、母の声を受信してことで、“発見された遺体は、お母さんに間違いない!”と、新日鉄の工場に特設された遺体安置所の冷たいコンクリートの床を歩きながら、みんな確信を持ったようで、大変不可思議な体験でした。わたしは、父のお気に入りの釣りの赤いジャンバーを、家の2階から持ち出してきていたので、そっと母の身体に覆いかぶせて手を合わせました。母の確認は、顔を見るまでも無く、被災時に着けていた遺品の腕時計と、妹らと3人で旅先で創ったというお揃いのブレスレットでした。身体は激しい損傷もなく、綺麗にマニュキアがしてありました。この日午後6時から、釜石吟詠会に出かける予定でした。
「地震災害放送が伝えた第一報=津波3メートル」
釜石湾にはギネスブック入りした巨大な防潮堤防があるから、ここまで津波の襲来はあるまい!大丈夫だ!と、判断していたことは、容易に想像されます。(その数分後に、津波情報が6メートルから9メートルへと、2度にわたって大型津波襲来に変更された情報は、釜石市が停電となったために、市民には伝わっていないことが、新聞報道でありました。ヘンに納得)
この日は金曜日。毎週午後2時には、盛岡から手作りパン屋さんが宅配してくれるのが決まりでした。私も釜石に行った折りに、若いお姐さんといろんな話をしながら楽しんでいる母の姿に、“独居・釜石流”の生活ぶりを微笑ましく見た思いがしました。津波急襲来の時も、パンをおやつにしながら、お気に入りの椅子に居たんだと思われます。
「もしかしたら、何処かの避難所に身を寄せているのかなあ」という淡い期待は、すぐに消されてしまいました。覚悟はしていたものの、一番厳しい現実を突きつけられた悔しさと同時に、「アアこれで、お父さんと一緒のお墓にしてあげられる」と、正直、遺体を発見できた安堵感を噛締めていました。
「大震災にあった釜石の写真、盛岡⇔釜石の記録を、見せて欲しいナ」と。
わたしが何処へ行くにもいつも、デジカメで撮っていたのを知っていた公一さんの言葉が、ずっと気になっていました。が、どのようにしたらいいのか、気持ちの整理がなかなかできずに居ました。宅配されていた岩手日報の新聞をまとめてくれていたのは、公一さんでした。)
とにかく撮りたまっていたデータを、整理しながらフォルダにするのが、第一歩。(これが遅々として・・・)
それから“流山の友人にディスクの書き込み”をお願いし、
それを“新松戸の友人にディスクのコピー”をお願いしました。
実はその以前に、どうしても記録したいと思っていた“発見したカセットテープをPCに取り入れる作業について”が、難問でした。音楽関係の知人に相談しました。(これが回りまわって、発見したカセットテープは、札幌まで運ばれて”制作”されていたことが分かりました。感謝、感激)
いよいよ本日になって、“ディスクのラベル印刷”をして、完成までこぎつけた、というわけでした。
タイトルは、
2011年3月11日 午後2時46分55秒 M・9地震発生
東日本大震災
内容を、ディスクにかきました。
母の安否確認とれず居ても立っても居られず夜行バスで盛岡へ⇔釜石往復
3月26、27、28、29、30日「公一さん大変お世話になりました」
釜石で火葬 4月5日 盛岡に子・孫20名集合 貸し切りバスで災害地往復
カセットテープ発見 「鎮魂の歌」「復興の歌」
(岩手東海新聞を見て想いだすままに 平成9年9月 咲子制作)
下川原孝さんの記
とまあ、こんな具合。
震災発生以来から手にしていた愛用の Canon IXY DIGITAL が、900枚を超える枚数になっていました。この記録画像を整理制作したものです。
公一さんにはいち早く送付。
葬儀は、来月6月4日 日本基督教団新生釜石教会 11時から挙行します。これでやっと、親父と一緒の墓にすることになりますね。もう少し待っててね。
(4月5日に火葬されたお骨は、石応禅寺に預けてあります。)
母の意志で、教会で行われます。
父・若林栄治は新潟県佐渡ヶ島から、母・すえは遠野から、それぞれに釜石にやってきて、縁があって結ばれました。二人は、この釜石教会で結婚“挙式・第一号”だと聞きました。両親らと幼い頃に通い慣れた釜石教会だったんです。
三陸の寒村・魚の町だった釜石が、“鉱山”が発見されてからというもの、鉄の街としてゴールドラッシュで湧いた釜石の歴史でした。駅前の新日鉄5本煙突が消え、橋上市場が消え、新日鉄釜石・ラグビー日本一7連覇の偉業も過去のものとなってしまいました。いろんな意味で、今回の津波ひとつが一瞬にして、人間の命を奪い、すべての町の歴史を消し去ってしまったのかなあと、無念です。が、こんなとどめの一発にやられてたまるか!
レクイエムのCDを持っていきますと言ったら、先方の牧師さんから、「ラジカセと延長コードをご持参ください」と念を押されました。(何もかも、津波で流失した現実が忍ばれ、不憫でなりません)
火葬に駆けつけた孫たちが、災害に遭った天神町の家のまわりで、言葉を失いただただ、呆然。目の前に広がる周囲の惨状は、自然の猛威というには、あまりにも惨過ぎる・酷過ぎる!
火葬場へ向かう途中に、母の遺体発見場所を確認し小さな花束を置く。
盛岡駅から「磯崎家」貸切バスを仕立てた。道の駅・遠野風の丘で、花を買ってきたのだという。
孫たちの優しいこころ配りをみました。
みんなに愛された母・咲子さんは、いま何思う? <合掌>
これもみなさんのお蔭です、本当に感謝申し上げます。というのは、ここにきていざという時に、小生のPCに「ディスクの書き込み不良」が発覚。VAIOカスタマーセンターと2時間連続で電話したが、駄目(終いには、PC再インストール・リカバリーという・・・)
これまでに震災地を歩いた記録を、資料にまとめて、記憶にとどめておきたい、という気持ちから始めた作業でした。
(実は、あの震災発生直後の時期には、往復のガソリンが確保出来無ければ、“釜石入り敢行”は、とても不可能でした。勿論、マイカー・車もです。そんな折に、盛岡に住む公一さんが、自宅とマイカーを快く提供してくださいました。これが!われわれ兄弟姉妹の行動を支えてくれたのでした。3月26日・夜行バスなどで、札幌・埼玉・東京・千葉から早朝盛岡駅に到着したわれわれを出迎えてくれました。早速、その日から連日、水とおにぎりを用意して、雪景色の中を、4往復したのでした。)
被災した現地に到着したものの、あまりの惨状に人間一人一人の手作業では、家の瓦礫整理は一向にはかどらず、市内に数ヶ所設けられてある避難所や遺体安置所、災害対策本部などを巡りことになりました。・・・自宅瓦礫の中から位牌を発見したのが、2日目のこと。3日目にして、自宅から約400メートル離れた所で発見された遺体情報が「年齢60-70歳代の女性、白髪、前歯あり、腹部と下肢に手術痕」が、母であることを遺体安置所で確認することが出来ました。<合掌>
今もって信じられないことですが、自衛隊のジープに乗せられて遺体安置所へ向かう時に、兄が持っていた携帯電話が突然鳴った。母からの留守録を受信したのでした。こんな状況のタイミングで、母の声を受信してことで、“発見された遺体は、お母さんに間違いない!”と、新日鉄の工場に特設された遺体安置所の冷たいコンクリートの床を歩きながら、みんな確信を持ったようで、大変不可思議な体験でした。わたしは、父のお気に入りの釣りの赤いジャンバーを、家の2階から持ち出してきていたので、そっと母の身体に覆いかぶせて手を合わせました。母の確認は、顔を見るまでも無く、被災時に着けていた遺品の腕時計と、妹らと3人で旅先で創ったというお揃いのブレスレットでした。身体は激しい損傷もなく、綺麗にマニュキアがしてありました。この日午後6時から、釜石吟詠会に出かける予定でした。
「地震災害放送が伝えた第一報=津波3メートル」
釜石湾にはギネスブック入りした巨大な防潮堤防があるから、ここまで津波の襲来はあるまい!大丈夫だ!と、判断していたことは、容易に想像されます。(その数分後に、津波情報が6メートルから9メートルへと、2度にわたって大型津波襲来に変更された情報は、釜石市が停電となったために、市民には伝わっていないことが、新聞報道でありました。ヘンに納得)
この日は金曜日。毎週午後2時には、盛岡から手作りパン屋さんが宅配してくれるのが決まりでした。私も釜石に行った折りに、若いお姐さんといろんな話をしながら楽しんでいる母の姿に、“独居・釜石流”の生活ぶりを微笑ましく見た思いがしました。津波急襲来の時も、パンをおやつにしながら、お気に入りの椅子に居たんだと思われます。
「もしかしたら、何処かの避難所に身を寄せているのかなあ」という淡い期待は、すぐに消されてしまいました。覚悟はしていたものの、一番厳しい現実を突きつけられた悔しさと同時に、「アアこれで、お父さんと一緒のお墓にしてあげられる」と、正直、遺体を発見できた安堵感を噛締めていました。
「大震災にあった釜石の写真、盛岡⇔釜石の記録を、見せて欲しいナ」と。
わたしが何処へ行くにもいつも、デジカメで撮っていたのを知っていた公一さんの言葉が、ずっと気になっていました。が、どのようにしたらいいのか、気持ちの整理がなかなかできずに居ました。宅配されていた岩手日報の新聞をまとめてくれていたのは、公一さんでした。)
とにかく撮りたまっていたデータを、整理しながらフォルダにするのが、第一歩。(これが遅々として・・・)
それから“流山の友人にディスクの書き込み”をお願いし、
それを“新松戸の友人にディスクのコピー”をお願いしました。
実はその以前に、どうしても記録したいと思っていた“発見したカセットテープをPCに取り入れる作業について”が、難問でした。音楽関係の知人に相談しました。(これが回りまわって、発見したカセットテープは、札幌まで運ばれて”制作”されていたことが分かりました。感謝、感激)
いよいよ本日になって、“ディスクのラベル印刷”をして、完成までこぎつけた、というわけでした。
タイトルは、
2011年3月11日 午後2時46分55秒 M・9地震発生
東日本大震災
内容を、ディスクにかきました。
母の安否確認とれず居ても立っても居られず夜行バスで盛岡へ⇔釜石往復
3月26、27、28、29、30日「公一さん大変お世話になりました」
釜石で火葬 4月5日 盛岡に子・孫20名集合 貸し切りバスで災害地往復
カセットテープ発見 「鎮魂の歌」「復興の歌」
(岩手東海新聞を見て想いだすままに 平成9年9月 咲子制作)
下川原孝さんの記
とまあ、こんな具合。
震災発生以来から手にしていた愛用の Canon IXY DIGITAL が、900枚を超える枚数になっていました。この記録画像を整理制作したものです。
公一さんにはいち早く送付。
葬儀は、来月6月4日 日本基督教団新生釜石教会 11時から挙行します。これでやっと、親父と一緒の墓にすることになりますね。もう少し待っててね。
(4月5日に火葬されたお骨は、石応禅寺に預けてあります。)
母の意志で、教会で行われます。
父・若林栄治は新潟県佐渡ヶ島から、母・すえは遠野から、それぞれに釜石にやってきて、縁があって結ばれました。二人は、この釜石教会で結婚“挙式・第一号”だと聞きました。両親らと幼い頃に通い慣れた釜石教会だったんです。
三陸の寒村・魚の町だった釜石が、“鉱山”が発見されてからというもの、鉄の街としてゴールドラッシュで湧いた釜石の歴史でした。駅前の新日鉄5本煙突が消え、橋上市場が消え、新日鉄釜石・ラグビー日本一7連覇の偉業も過去のものとなってしまいました。いろんな意味で、今回の津波ひとつが一瞬にして、人間の命を奪い、すべての町の歴史を消し去ってしまったのかなあと、無念です。が、こんなとどめの一発にやられてたまるか!
レクイエムのCDを持っていきますと言ったら、先方の牧師さんから、「ラジカセと延長コードをご持参ください」と念を押されました。(何もかも、津波で流失した現実が忍ばれ、不憫でなりません)
火葬に駆けつけた孫たちが、災害に遭った天神町の家のまわりで、言葉を失いただただ、呆然。目の前に広がる周囲の惨状は、自然の猛威というには、あまりにも惨過ぎる・酷過ぎる!
火葬場へ向かう途中に、母の遺体発見場所を確認し小さな花束を置く。
盛岡駅から「磯崎家」貸切バスを仕立てた。道の駅・遠野風の丘で、花を買ってきたのだという。
孫たちの優しいこころ配りをみました。
みんなに愛された母・咲子さんは、いま何思う? <合掌>