思い出の釜石小学校正門跡地で、腹ごしらえして小休止。往復のガソリン水お弁当は自前で現地入り。

2011-04-20 18:50:40 | 3.11大震災・釜石
家に押し寄せたままの瓦礫の山。
玄関には乗用車が突っ込んで、なかの状態は目茶目茶。何処から手をつけたらよいのか呆然。

自宅2階で発見した置時計は、2時46分で秒針が止まっていました。


兄弟姉妹4人で、釜石入りを敢行した3月下旬の昼飯スナップ。


我が家から至近の距離にある旧中学校も、裏手の高台にあるお寺・法華サンも、避難所となっていた。
どちらの避難所にも、母の姿はありませんでした。

この日は、災害対策本部はじめ、市内に設けられた遺体安置所を巡り、年齢、性別、特徴、発見場所などを符合させながら、収容されて未だ身元がわからないご遺体との確認作業・・・、そんなに寒くはないはずなのに、やっている自分の業に全身の震えが止まりませんでした。

(災害特例・非常事態のなかで、こんな経験は初めてだけれど、母の安否確認のためには何をやるにも、必死のおもいでした。全国各地から災害支援のために駆けつけてくれている警察と自衛隊のみなさんには、本当に頭が下がりました。)

被災者数=20日現在の警察庁まとめだと、
死亡    14,063人
行方不明 13,691人
避難   133,454人

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2 コメント

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合掌 (千葉千枝子)
2011-05-04 12:13:56
いそざきさん、はじめまして。存じ上げない面識のない方へのブログにコメントを申しますのは初めてのことで、でも、通り過ぎることができませんでした。

お母様のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます。

祖父・下川原孝が、お母様に生前お世話になっていたと、いそざきさんのブログで知りました。祖父は、私の母の葬儀でも別れの歌を用意しておりましたが、詩吟にめぐり会ってから人生が楽しくなったと、よく語っておりました。私たち孫は、よく、「おじいちゃん、詩吟の会で、きっと好きな人がいるんじゃない?」なんて噂していたものです。

この連休、釜石のどこかで、すれ違っていたかもしれません。天国で、祖父とお母様が再会していることと思います。<合掌>



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お礼 (いそざきよしひろ)
2011-05-08 14:33:02
千葉千枝子さまコメントありがとうございました。このたびの震災のことは、これからもさまざまな媒体を通して情報発信されていくようですので、できる限り拝見させていただきたいとおもいます。これからの千葉さんのご活躍をお祈りしています

さて、この連休を利用して長男と妹が夜行バスで釜石へ。未だまちそのものが悲惨な災害状況の中で、まちなかを徒歩で移動したり、ホテルでは雑魚寝を余儀なくされたり、難儀をしてきた体験をいろいろと聞かせてもらいました。今回は葬儀の打ち合わせでしたが、日本基督教団新生釜石教会で6月4日に執り行うことが決まりました。

母咲子の確認ができたのは、3月28日新日鉄東門の遺体安置所。ヒンヤリトシタ体育館みたいな工場跡地の地べたに、棺が並べられいました。一時間ほど前の発見でしたから、「66」番目の母には、棺はありませんでした。その数メートル手前に「下川原00」(年齢75?)と「下川原00」((年齢7 ?)さんがいらっしゃいました。「遺体確認された棺」はじめ「未確認の棺」と全てに、手を合わせて参りました。

その遺体安置所で死亡診断書を書いてもらって、(普段は、釜石市周辺の観光とみやげ物店が並ぶ「シープラザ」=)災害対策本部となっている駅前の建物へ移動。その一画にある火葬受付のテーブルへ。(ココでの対応は、市の職員ではなくどこかの女子大のボランティアさんだという)
「火葬は、青森県か秋田県だと明日以降直ぐにできますが、いかがなさいますか?」「わたしたちは、釜石での火葬を希望します」と申し出たら「では、一番近いところで、4月5日です」と、すべてが“災害特例”のなかで粛々と進行していきました。

という訳で、4月5日の日は、札幌・埼玉・葛飾・松戸などから盛岡駅前に20人が集合して、そこから貸し切りバスで釜石斎場へ。そのあと石応寺でお経の後、本堂横にある建物に仮置きしたまでした。今回行ったら、「お母さんの近くに、下川原孝さんの骨壷があったよ」とのこと。これもご縁を感じます。

下川原さんは、80歳を過ぎてから詩吟を始められ、会員のみなさんが自分のことのように、敬愛する自慢の存在で人気者でした。「ものごとを始めるのに歳は関係ない。自分にエンジンをかけるのは自分だからね」を自ら実践されていたようです。
陸上の世界記録達成ニュースやテレビ出演のことなどのビデオテープを送ってきて「わたしも下川原さんのように100歳まで元気でいるからね」と明るく話していました。
母は、90歳の今でも全部自分の歯で、子どもや孫たちと晩酌をするのが楽しみでした。最近になって始めた携帯電話は、近況を写メールするなどめきめきと上達し、送受信し合っていました。戦争という時代を生き抜いてきた艱難辛苦を乗り越えて、活力にして、いつもくよくよしないで明るく前向きに生きている姿に、子どもたちも安心しつつ、勇気付けられてきたことは確かでした。だから高齢となっても、釜石でいる一人住まいは、子どもらにとっても全く自然な姿でした。そのかわり季節の変わり目などに、子供か孫の誰かが釜石へ出かけて、家の整理整頓などをしていました。

下川原孝様   磯崎咲子さん
いつまでも、いくつになっても、わたしたちのそばにいるものだ、と思って疑いませんでした! 津波が憎い!
<合掌>
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