最近、大学生の「学力不足」の為に、大学で中学高校の再教育が必要とされる場合があるようですが、これは本末転倒と言えます。また、日本の大学に入学する為に、何故「英検」が必要なのかも理解できません。大学は「教育を受ける場所」ではなく「学問する場所」です。
「教育の権利」と「学問の自由」とは憲法で別々に書かれていて、「義務と権利と自由」を一緒くたにした事が間違いのもとです。日本国民は「国民の基本的人権」ですら憲法によって与えられているので、「教育の権利」が与えられた権利である事は間違いありません。一方「学問の自由」は与えられたのではなく、憲法で保障されています。
憲法第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
憲法第23条
学問の自由は、これを保障する。
憲法第26条
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
最近、この二つの条文を恣意的に合成し「等しく学問を受ける権利がある。」とか「教育の自由は保障されている。」とか「高校や大学の教育の無償化」等を主張する人たちが出て来ました。
教育を受ける義務・権利は「小中学校の9年間」だけであり、それ以降は能力に応じて「自由に高校で教育を受け」、学力に応じて「自由に大学で学問する」事が保障されています。この時の「自由」は学生側に一方的にあるのではなく、学生を受け入れる側にもあるからこそ「社会的な自由」が保障されます。
外国語を必要とする学問の場合は、その基礎的な外国語試験を受ける事には合理性は有ります。しかし、外国語である「英語」の能力が低いと云う理由で「学問の自由」が脅かされる事は、憲法違反になる恐れがあります。現在の英語力強化の理由は「経済的合理性による社会的要請」なので、これは「学問の自由」を阻害する理由にはなり得ず、英語を必要だと思う人が自分の意思で「身の丈に合わせて」勉強すれば済むことであり、入学試験で篩にかけるのは間違いと言えます。
大学は「教育を受ける場」ではなく、「教育者を育てたり、学問をする場」です。自分の夢や可能性を拡げる為に大学が有るのではなく、社会の役に立つ人間を育てる為に存在します。公金を貰って自分の夢を叶えようとする人が、他人の役に立つ人間になるとは思えません。
大学に助成される税金は「個人の夢を叶える為」にあるのではなく、健全な社会を構築しようとする「国民の要請にこたえる為」にあります。

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