テレビとうさん

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「自殺」 と 「自死」

2019年11月04日 | 思想・思考

 一般に、自然界の動物は「自殺」する事は無いと言われています。「自殺」とは、自分で自分を殺す事を言うのですが、自分が死んだかどうかは自分では判りません。勿論「自殺未遂」で、自分が生きている事を確認できれば、自分が死んでいない事は判りますが。

 つまり「自殺」とは、当人以外の人がその人の死んだ理由を、「自然死」と「他殺」以外の死因を客観的な言葉で説明する事であり、当人が「自殺したい」と思っても、死んだ結果を自分が確認できない以上、「自殺」は出来ない事になります。あくまでも、死んだことを他人が「自殺」と認めない限り「自殺以外」に分類され、目的を達成できず「無駄死に」になります。

 「アポトーシス(自死)」は、自然界での科学的な目的と根拠が有るとされています。政治や経済も「科学の一分野」なので、これらの理由で「自死」する事は、科学的にも可能と言えます。経済的に破綻をし、保険金を遺族に残す為に死ぬ事は、目的が有り結果を残せば「自死」と言えますし、自然の法則にも合致しているので、必ずしも自分が自分の死を確認する事は要件にはなりません。

このほかに「自害」も有りますが、「自殺」は兎も角、「自死」が「自分を害する」かどうかは、判断が分かれると思います。

 「自殺」は非科学的で不合理な人工行為で、「自死」とは合理的な自然科学的行為と言えます。「自殺」は人工的な行為なので「自分の意思」で途中でやめることが出来、「自殺未遂」のニュースをよく見ます。一方、「自死」は自然行為なので、脳が合理的な決断をする為に自分で止めることは出来ません。但し、偶然に死なない事も有り得ますが、「自死」は自然行為なので当然とも言えます。

 ここで疑問に思うのは「意思の在り処」や「心と脳は自分に含まれるのか?」或いは「心と脳のどちらが自分か?」と云う事です。「我思う、ゆえに我あり」はデカルトの命題とされていますが、実はデカルト自身の言葉である証拠は無いそうです。この時代に、思考が「脳」で行われているのか、或いは「心」で行われているかの定義がなされていたかどうかは判りませんが、「残された人の事を思っての死」はアポトーシスなので「自死」は心で決めた自然死と言え、「自分勝手な死」は結果としての「自殺」なので、「他殺」と同様に不自然な「脳が決めた人工死」とも言えます。

 人間以外の動物にも「脳」が有る事は確認されています。この自然動物は「自死(アポトーシス)」はしても、「自殺」をしないとされている事から、動物には「心」が有って「脳」は無いように見えます。これは、科学的に考えると矛盾なので、自然動物の「脳」に見える部分は「心」であると解釈すれば納得できます。つまり、遺伝子レベルで決まっている「自然行動」が「心」と言えます。

 人間の大脳は、他の動物に比べると異常に大きいそうですが、この大きさが人間特有の「自殺」の原因だとすると、「大脳は自分ではない」と言えます。「自殺」とは「大脳が自分を殺す、他殺。」と定義できます。つまり、大脳は「遺伝子の指令」に逆らうエイリアンと言えます。

 生物の使命は「子孫を残す」事なので、子孫を守る為に「自死」を選ぶ「心」は「肥大化した大脳以外の部分」に在って、そこに自分が存在すると考えられます。つまり、人間を含めた生物の「自死」による「生死」とは、自分にとって対峙するモノではなく自然現象に過ぎないと言え、「自殺」は自然を拒否する自分の傲慢が、大脳に「自分に対する他殺」を誘発し、「生死」に矛盾概念を持ち込むと言えます。



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