テレビとうさん

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「黒」 と 「玄」

2021年07月29日 | 教育
 「玄」は、色としては赤または黄を帯びた黒色で、言葉の意味は「 奥深くて暗い。奥深い道理。はるかに遠い。」らしいです。

 「玄人(くろうと)」は、日本語で専門家を指し「熟練した技能の持ち主」を意味しますが、これを「ポリコレ差別用語的」に解釈すると、「玄は、赤または黄を帯びた黒色を意味し、玄人は黒人の肌の色、或いは黒人と黄色人種との混血を連想させる」ので、不適切用語となるかもしれません。

 少し前に、「片手落ち」は片手が無い人を差別する「差別用語」とされた事もあることから、あながちあり得ない話では無いかも知れません。ちなみに「片手落ち」の意味は「配慮や注意が片方にだけかたよった状態」で、手間や手順が万遍なく行き届かなかった事を意味します。決して「片手」が落ちた訳では有りません。

 これが、過剰な人権意識から来るのか、自分自身の深層心理にある差別意識がそうさせるのかは分かりませんが、「差別意識の無い人」が普通に使うと非難される場合が有るようです。恐らく「自分自身の罪悪感」に対する贖罪意識を素直に表現する事が出来ずに、他人を注意する事で「自己満足」し、ストレスを開放しているだけかも知れませんが、迷惑な話です。

 それは兎も角、「黒色人種(黒人)」の分類名を、実際の肌の色が「黒くは無い」にも拘わらず、白人(実際には肌は白くは無い)が決めた「人種名」なので、(深層で差別意識の強い)人権派の日本人は普通に使用しています。また、アメリカを含む多くの「白人社会」でも「黒人」は差別用語では無いそうです。

 ところで、この黒人や白人の「人種名」と云う熟語は科学的には間違いで、「ヒトの種」は「ホモ・サピエンス・サピエンス」の一種しか現存していません。日本語で言う「人種」の場合は、本来は他の「動物種」との区別に使われていて、例えば「サルとヒト」を「猿種と人種」と書くように、ヒトそのものを種別に分類する意味は無かったようです。ところが、江戸後期から西洋文明が日本の純粋科学を汚染し、「ヒト」を白人・キリスト教を頂点として肌色別・文明別に分類するようになりました。

 つまり、現在で言う「人種差別反対」の「人種」には科学的な差異(根拠)が無く、差別のない所に差別を生む、所謂「サヨク用語」に過ぎません。当然「はだいろ」は肌の色に過ぎず、黒っぽい人や白っぽい人がいますが、概ね足の裏や手のひらの色は日本で言う「はだいろ」に近いです。

 新聞などで「日本人と黒人のハーフである事でイジメを受けた経験談」が記事になっていますが、記事自体が「日本人と黒人」を分離しています。そして、その記事の最後には「日本は島国だから、諸外国よりも多様性に欠けている」などと、多くの場合、日本人を差別する文言で締めくくられています。

 また、イジメられた当人が、虐めた人が「日本人」である事を確認したかどうかは判りませんし、日本人に似た外国人である可能性もありますが「差別したのは日本人」と確定的に書いています。つまり、記事を書いた人は「日本人は差別する民族だ」と差別的に思い込んでいる可能性が有ります。

 それはさておいて、外国人には、「玄色」に対するイメージが無いのかも知れませんが、「玄」は「赤または黄を帯びた黒色」なので、「はだいろ」が黒っぽい人の場合は「黒人」ではなく「玄人」の方が相応しいと思います。その名に最もふさわしい人「アベベ・ビキラ」は、まさに「玄人はだし」でした。1960年のローマオリンピックては、「無名のアベベ」がレース前に靴が壊れたために、マラソン本番に裸足で走り優勝しました。

 18世紀にドイツ人医師 ブルーメンバッハ
が、ヒトの「自然的変種」に於ける頭蓋骨などの比較研究で、コーカシア(白色人種)、モンゴリカ(黄色人種)、エチオピカ(黒色人種)、アメリカナ(赤色人種)、マライカ(茶色人種)の5種に分類したのが「人種分類」最初と言われているようです。ブルーメンバッハは科学者としては素人だったようで、「神が創造した白人がヒトの原型で、そこから退化したのが有色人種」だと思い込んでいたようです。

 この「非科学的な人種分類」を今でも利用して騒いでいるのが「諸外国と日本の人権派」や報道機関です。「民族」の定義は定かではないのですが、地球の人類は「単一人種」であるように、日本国民は全てが日本民族で「単一民族」と言えます。



「マスク」 と 「手洗い」

2021年07月11日 | 教育
 日本が誇るスパコン「富岳」で、マスクの飛沫防止効果をシュミレートして一年ほど経過しましたが、あくまでも「飛沫の防止効果(体積比で70~80%の減少)」であり、しかも新品の不織布マスクで咳1回のデータです。コロナウイルス(0.1ミクロン)は単体では素通りし、ウイルスが飛沫に含まれた場合のみに効果を発揮するとしていますが、一旦マスクに付着したウイルスはその後の呼吸で乾燥し、当然ながらマスクから離脱します。

 フェイスシールドやパーテーションは更に厄介で、飛沫は空気中とは違ってモノに付着した場合は乾燥し難くなり、ウイルスの機能が維持され易くなります。マスクの面と同様に、「ウイルスを含んだ飛沫」が付着したモノに触れると感染のリスクが高まります。

 「富岳」では、最初の一回の拡散シュミレート、或いは数回の拡散を考慮しても「気流」の変化をシュミレートしているだけなので、「付着したウイルスのその後」は考慮されていません。これは、「従来国型コロナ種」が空気・飛沫感染する事を前提にしているからで、「接触感染」が原因だとすると無意味な研究と言えます。

 感染者が「ウイルスを含んだ飛沫を90%防御するマスク」を着用すると、呼吸20回(約1分間)程度でマスク面のウイルスがほゞ飽和状態になり、以降の呼吸で「マスクに付着したウイルス」の収支は平衡状態になって
「防御効果は11%」しか発揮しない、と以前書きました。つまり、1分毎に新しいマスクを着用し直さなければ、単なる「ファッション・マスク」か「同調マスク」になり下がると云う事です。

 一方、感染していない人が同様のマスク」を着用して、「マスク」を着用していない感染者と会話した場合でも同様に、ほゞ飽和状態(防御率11%)になるのは1分後です。以降の会話ではマスクをしても感染確率は11%以下しか低下しない事になります。


 両者が上記の性能のマスク」をそれぞれ着用した場合でも、感染者の「マスク」で最初の1分間は感染が防いだとしても89%のウイルスが飛んで来るので、未感染者の「マスク」で更に1分間防いだとしても防御効果は21%以下になるので、精々3分が限度だと思います。

 上記の、使用する「マスク」の防御効果90%とは、一回の呼吸に対する飛沫の防御効果が90%とした場合の計算です。2回目以降の呼吸では防御効果は低くなります。

 結局、感染者は1分ごとに、未感染者は2~3分ごとに「マスク」を新しいものに交換しなければ「無防備状態」に陥ります。話し相手が感染していた場合、一人の場合でも最低限、1時間に20枚の「マスク」を必要とします。一日8時間対面労働を強いられる人は160枚を用意し、一月20日勤務とすると3200枚のマスクが必要になります。使い捨ての場合は一月に3万円ほど負担が増えますが、人命には代えられません。当然、相手が複数の場合は、必要マスクの枚数は、複数倍になります。

 また、「マスク」を外す時には決して「マスクの面」に触れてはいけません。「鼻マスク」や「顎マスク」などは論外で、「ヒトでなし」と罵られても当然です。最近、テレビに出演する「ヒトでなし」をよく見ますが、皆「従来国ウイルス」を恐れているような顔をしています。「出演」だけあって、演技の為に出ているのだと思いますが、それぞれに生活も有るので
同情します。

 また、「マスクの面」に手で触れて位置ずらしをした場合には、直ちにアルコール消毒をして流水で手洗いしなければ意味は有りません。アルコール消毒をしても、ウイルスの破片は手に付着しているので、それを吸い込んだら「PCR検査」では陽性反応が示されます。勿論、消毒後のウイルスには感染性ないのですが「PCR検査」では有罪が確定し「隔離」の対象になります。誤認逮捕を免れるにはキッパリ足を・・・・ではなく、スッキリ手を洗う事です。

 以上「老爺心」からの余計な一言二言でした。

御免ww



「留学生受け入れ制度」 と 「超限戦」

2020年12月17日 | 教育
 「独裁国家」から日本に来た留学生に対して「民主主義教育」をすると、自分の国の矛盾に気が付くのではないかと言う人がいます。なかでも「選挙制度」に関する教育が重要だと「思い込んでいる」ようです。

 アメリカ(民主党米国)には中国人の留学生や移民が大勢いて、日本より優れた「民主主義」と「教育制度」が有るとされています。その結果が「現在のアメリカと中国」です。

 独裁国家から来る「留学生」は、民主主義の弱点を十分に教育されてから「派遣」されます。そもそも「留学」は目的ではなく「手段」に過ぎません。留学生は、「目的」を果たして帰国した後には、十分な地位が待っています。殆どは帰国するのですが、中には残りの作戦を実行する為に日本で職業に就き、長期滞在や帰化する人もいます。

 「留学」の目的は、教育界とのコネクションを得る事や、「教育業界」のヒエラルキーを調査する事です。その「調査結果」を本国に伝えると次の指令が下ります。勿論、当人には本国に人質がいるので断ることは出来ません。

 日本語能力の低い(N2以下)「留学生」を送り込むのも「超限戦」の一つで、受け入れた大学を崩壊させたり、有事には「国防動員法」の別働部隊として活用します。本格的な稼働は未だですが、北海道の土地を大規模に買い上げ、農作物を本国に送る為の食料生産基地を開発中で、そこの作業員にも利用できます。

 日本には外国資本の大学も増てきて、その内「留学生」どころか「教師」も外国人になります。最近では、中国語か英語が理解できれば「日本語」を話せなくても入学できる学校も登場したそうです。現在のアメリカの混乱は、「中共」にとっては「反面教師」の良い教材になり、「共産主義」の優越性を教え込むには良い機会になります。

 日本は「日清戦争」「日露戦争」と連勝したために、支那大陸から多くの「留学生」や「亡命者」が押し寄せてきて、教育を施しました。その中には、孫文(日本名、中山 樵:なかやま きこり)、蒋介石、周恩来もいますが、「教育」の結果、始まったのは「日中戦争」です。

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」の格言が正しいかどうかは判りませんが、少なくとも「歴史書」を書いていながら、歴史を学ばないのは「愚者」の範疇に入ります。この場合の「経験」とは「単なる自分の経験」であり、「歴史」とは「歴史的な他人の経験」の事です。

 「超限戦」では、「経験」や「歴史」が真実である必要は無いので、日本にとっての「真実」を教えると確実に論破されます。物事には必ず二面性が有るので、「民主主義」の正しさを教えても論破され、逆に弱点を利用されるだけです。「ポリティカルコネクトネス」も、利用された民主主義の欠陥の一つで、現在では、これを解決するのが喫緊の課題と言えます。



「芸術」 と 「汚物」

2020年06月10日 | 教育
 新品のマスクは、恐らくは「清浄」だと思います。しかし、目には見えなくても「異物」が付着している場合は「不良品」と言います。これは、見た目や感性では「汚染」かどうかは判別できないので、本来は科学的な検査をしなくてはならないのですが、商品コストよりも検査コストの方が高くつ場合は、そのマスクの来歴で判断し、一括処理します。

 輸入品の場合は抜き取り検査をして、不合格品が出ると一定の規模で排除しますが、これは、輸入する事が目的の検査なので「輸入規制」とは言いません。「アベノマスク」は輸入時に検査をしなかったか、サンプル数が少なすぎたからかは判りませんが、かなりの数の不良品が郵送されたようです。

 「検疫」の場合は、最初から特定の病原体を排除する事が目的なので、統制国家に於ける書籍等の「検閲」に似ています。「検閲」に似た言葉で「検定」が有りますが、これは「教科書等を採用する事が目的」なので、「検閲」とは言いません。つまり、受け入れる事が目的の場合でも、検査や検定で排除する事は問題ありません。と、言うよりも寧ろ、不合格ならば「排除する義務」が管理者に負わされます。

 教科書に載せる絵や文書が「芸術作品」であろうとも、「不合格」であれば「芸術性」とは関係なく、排除しなくてはなりません。例えば、小学生の教科書に「芸術の猥褻性の意味を説明する為とは言っても、猥褻物を載せてはならない」事は明らかで「著者の主張する芸術性」とは関係ないからです。

 不特定多数の入場者が考えられる「公的施設」を展示場として使う場合は、「書類上の不備」が見つかった時は行政手続きとして正す必要があるのは当然として、「芸術性」とは関係なく「政治的・歴史的な妥当性」も考慮する必要が有ります。「嘘の歴史を賛美したり誹謗する作品」を小学生の脳裏に焼き付かせる事は「犯罪」と言えます。例えば「ナチスによるユダヤ人虐殺のお陰で、世界が平和になったとする”芸術作品”」は、少なくとも「日本の公共施設」からは排除されなければなりません。

 これらは、「検閲」では無く行政上の手続きなので、「提出書類と展示物」が違っていた場合は一括処理する必要が有ります。「マスクに混入した異物」と同様に、個々の「展示物の価値」よりも「芸術性」を査定するコストの方が高くつく場合は尚更です。

 作品が「
リアリティー芸術」を志向している場合は、そのモノが「汚染」されているのか「清浄」なのかは判別できません。混乱・革命・カネを目的にしても、それを含めて「R芸術」と言うからです。

 あいちトリエンナーレ2019で中止された「表現の不自由展・その後」の「芸術監督」であった津田大輔氏は「政治家の圧力が原因ではない。自らの判断で中止した。」と記者会見で述べています。民主主義を標榜し「表現の不自由展」を”興行”するのなら、「不自由の原因」が何処に有るかを検証すべきですが、それが「政府」では無く民主主義の源泉である「民衆」からの圧力である事を認めています。日本国民は一億人以上いますが、僅か数千人の電話やFAXによる圧力です。つまり、民主主義の「定説」を否定した事になります。

 日本では、それが「芸術」か「汚物」かは個人が決め、「汚染」されているのか「清浄」なのかのかは科学が決定し、「正当」か「不当」かは民主主義の手法に依ります。

 「R芸術」である「”従軍慰安婦”を象徴する”平和の少女像”」が、歴史的に「嘘」であり、カネで「汚染」されている事は、その母国でも証明されつつあり、遠くない将来「汚物」として一括処理されると思います。

 この「像」は、転用品にしてもこれ自体は「平和の少女像」なので問題は無いのですが、各地にあるその像と一体不可分の碑文によって「嘘で汚染」されています。日本語では、「汚染されたモノ」を「汚物」と言います。



「安全保障」 と 「教訓」

2020年04月20日 | 教育
 「日米安全保障条約(安保)」の改定をめぐって、1960年と1970年に大規模な反対運動が起きました。「条約の改定をめぐって」とは書きましたが、実際の所、この「条約」は勿論の事「改定内容」を見たり、読んだりした人は「知識人」を含めて殆どいませんでした。

 この、単なる「親ソ反米運動」に駆り出された人たちも含めて、「安保闘争」の前後に流行った曲の一つが「
教訓Ⅰ(加川良)」です。歌詞の3番では「そうよ 私は女で結構 女の腐ったので構いませんよ」など「非常に差別的」な表現ですが、それは当人の人生観なので良しとして、「武漢ウイルス」との戦いで最前線で戦っている人が「教訓Ⅰ」を聞いたらどう思うでしょう?

 教訓 Ⅰ

命は一つ 人生は一回
だから 命を捨てないようにね
慌てると ついフラフラと
御国の為なのと 言われるとね
青くなって 尻込みなさい
逃げなさい 隠れなさい

 医療従事者は、青くなって尻込みしますか?
 エッセンシャルワーカーは、逃げ隠れしますか?
 自分が死んでも御国は残りますヨ。さあ!どうします?

 個人主義、自己責任、自由主義、が正しそうに見える現在では、「戒厳令」をしかない限り国家は任意に「市民」を強制する事は出来ません。「戒厳令」は「革命」と同様にその根拠法を必要としません。否、寧ろ根拠法が無いことが理由で「戒厳令」の自由度を増します。その自由度を規制するのが「緊急事態法」です。また、「緊急事態法」が無ければ「革命」も容易に行われます。これが「日本国憲法」に「緊急事態条項」が無い理由です。

 GHQによって、「外部勢力」が日本を統治し易いように創作したのが「日本国憲法」と呼ばれる「占領統治法」です。

 「武漢ウイルス」との戦いも「安全保障」の一つです。「
教訓Ⅱ」は「なぎら健壱」が歌っているので、自由を愛し「自由でなければならない」と云う強迫観念の持ち主に対して「教訓Ⅲ」を書きました。

 教訓 Ⅲ

命はひとつ 人生は数回
だから 人生やり直せますよネ
あわてると つい フラフラと
自由の為なのと 言われるとネ  
青くなって 武漢をみなさい
逃げなさい 隠れなさい

 最近、芸能人の軽薄な言動や活動が流行っているようです。「危ない、集・近・閉!」が言われる中、グループで集まり、近付き、閉ざされた空間で作成した「手洗い励行」の動画をUPしました。これを見た一部のファンが大勢集まり、同様の動画を作成してUPしています。この人たちにも一曲。

 教訓 Ⅳ

命はひとつ 人生は数回
だから 人生やり直しましょうよネ
あわてると つい ノリノリで
カネの為なのと 言われるとネ
集まらないで 近づかないで
マスクして口を 閉ざしなさい