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オメガねこ

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「皇統」 と 「皇統譜」

2021年05月03日 | 歴史
 伊邪那岐神(イザナギ:男性神)と伊邪那美命(イザナミ:女性神)が日本国土や神々を生み、イザナミが黄泉の国へ行き色々あって離縁が成立した後に、イザナギが「男手一つ」で後の多くの神を誕生させ、最後に「三貴神」が生まれました。その「原材料(成分)」は以前書きましたが、

左目の「めくそ」:天照大御神
右目の「めくそ」:月読命
「はなくそ」  :須佐之男命

です。

 その後、天皇が生まれ「皇統」が成立するのですが、今では「直系」「傍系」に対して様々な「人権の制限」が加えられています。勿論、天照大御神の直系子孫なので、「神権」は有り「人権」は不要なのかも知れません。

「戸籍法と選挙権・被選挙権の関係」では、天皇・皇族は「戸籍」ではなく「皇統譜」に記載されていて「公職選挙法附則第2項」「地方自治法附則抄第20条」に「戸籍法の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権は、当分の間、停止する。」と定められている為、天皇・皇族の選挙権・被選挙権は無いとされています。(戦後、皇族に関しては一時期「選挙権」は復活しましたが、現在では無いようです。)

 また「戸籍法の適用を受けない者」には、戦前に日本人であった「台湾籍・朝鮮籍・樺太先住民(アイヌを除く)など」が、戦後に選挙権を失った人たちに含まれます。その内の「樺太先住民(アイヌを除く)」は「土人戸口規則(大正10年樺太庁35号)」で規定された人々を指し、当時の法律用語では「土人=先住民」である事が分かります。

 戸籍法上では、「天皇」と「樺太先住民(アイヌを除く)」は法律上、同じ扱いを受けることになります。

 政府は「万民平等」を願っていても、万民自身がこの「平等」の概念を理解出来なかったりで
「人類館事件」などの騒動が頻発しました。沖縄県出身の言論人「太田朝敷」が、

「特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」

と、平気で「差別用語」を使用しても「ポリティカルコレクトネス」として叩かれる事も無く、寧ろその「主張」が通り博覧会が縮小されたようです。

 ところで、天照大御神の子供に天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)がいて、その玄孫(4代目)が初代天皇の神武天皇です。つまり、天照大神の来孫(5代目)になります。また、神武天皇の子供に神八井耳命(かんやいみみのみこと:次男)と神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのすめらみこと:三男、二代 綏靖天皇)が、そして異母兄の手研耳命(たぎしみみのみこと:長男)がいます。

 つまり、神武天皇は神代「耳尊」の直系の子孫で、神武天皇の三男「耳尊」以降が「直系」の皇統になり、二人の「耳命」が最初の「傍系」になります。何方が左右なのかは判りませんが、

「耳尊」の神:直系
「耳命」の神:傍系

と、神代の神と違って「みみくそ」の権威は無いようです。

 また、噂によると、色々と大人の事情があって(異母)兄弟同士(戸籍上は継親子でもある)の争いで「手研耳」は殺されたとされています。


「地名」 と 「領土」

2021年03月02日 | 歴史
 モンゴロイド系先住民であるインディアンやインディオが住んでいた広大な土地には、白人が「新大陸発見」をし、そこを「アメリカ大陸」と名付ける迄は大陸としての名前は無かったとされています。恐らくは、先住民が自ら居住する「大地」を意味する先住民語での「地名」は有ったとは思いますが、現存の先住民も「アメリカ大陸」を容認しているようなので、白人に発見される前の「歴史」も、アメリカ大陸の歴史と言っても良いと思います。

 これは、13世紀の蝦夷(今の北海道)に突如現れた、「日本政府が先住民族と呼ぶアイヌ」にも同じ事が言えて、自分たちが新たに住み始めた土地には「特定する名称」は無かったようで、自分たちの縄張の特徴を自分たちの言語で表現していたようです。ただし、アイヌには文字は無く、少なくとも5部族以上あってお互いに言葉は通じなかったようなので、現在の「アイヌ語由来」の地名には「幾つもの説」が存在します。

 「記紀」によると現在の北海道は、8世紀以前から「和人が付けた地名」である「蝦夷(エゾ)」や、その一地域である「後方羊蹄(シリベシ)」などの地名が有ったのですが、他国からの侵略の可能性が少なかったために、本格的な開拓は為され無かったようです。

 しかし、現在の尖閣と同様に「意識的に開発」しない場合でも、自国領土としての権利を放棄した事を意味しません。但し、違法・適法を問わず後から移住してきた人を「管理」出来なければ「施政権の放棄」と見做され、国際社会は領土とは認めません。

 
1609年に琉球が薩摩藩に統治され、正確な位置は確認できませんが現在の「魚釣島」は「釣魚島」と名付けられていたとされ、支那大陸側は今でも「釣魚島」と言っているそうです。尖閣諸島は1895年1月14日に「国際法」に則り日本領に編入され、1919年には遭難して「魚釣島」に漂着した中華民国の漁船の乗員を島民が救助したことから、中華民国駐長崎領事から石垣村長らに感謝状が贈られました。そこには「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と記されています。つまり、日本が「尖閣列島(現在は尖閣諸島)」と名付けた「地名」を「中華民国」が認めていた事で、「尖閣諸島は日本領」である事が証明されています。

 日本政府が正式文書で「尖閣諸島(中国名、釣魚島)」と書くと、中国は「日本は釣魚島が中国領である事を認めていた」と主張できる余地を残すことになります。例えば、「日本(米国名、Japan)」とか「日本海(韓国名、동해:トンヘ)」とは書かないし、「英国(英国名、 United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland:UK)」は不自然です。元々「魚釣島」も「釣魚島」日本が名付けた名称です。

 南千島(北方四島)を除く千島列島はロシアとの条約で帰属が決まったので日本列島の一部と言えるかどうかは微妙ですが、戦後の条約による約7年間のGHQ統治を除いて、日本人以外が統治した事が無い日本列島は、文字が無かった時代から「日本の歴史」と言えます。

 台湾や朝鮮半島は「日本の歴史」には含まれず、「日本が統治した時代」が有るだけです。若しも「日韓併合によって韓国は日本になった」とすると、現在の韓国から見ると「韓日併合によって、日本は一時期、韓国の領土だった」とも言える事になってしまいます。

 現在の支那大陸は中国共産党によって70年間ほど支配され続けていて、大きく分けると「中華人民共和国」「満州」「チベット」「東トルキスタン」「南モンゴル」があり、「地名」は時代によってそれぞれ違っていても、その地域に住んでいた「民族」が其々の方法で統治していた「国」です。そしてその「地名」に相応しい「歴史」が有るので、「中国4~5千年の歴史」はウソです。

 歴史を柔軟に解釈し、「秦」が中国の歴史」の始まりとしても3千年ほどで、しかも途中で何度も外国勢力に統治された時代が含まれているので、その分を差し引くと「中国としての歴史」は2千年にも満たないと思われます。支那大陸の歴史は数万年以上確認できますが「中華人民共和国」の歴史は70年程です。



「大東亜共栄圏」 と 「東アジア共同体構想」 Ⅱ

2021年02月22日 | 歴史
 【ネタ切れに付き、過去記事の「編集・加筆」です。】

 「大東亜共栄圏」構想は、1940年に近衛文麿内閣によって「東亜に於ける国際正義の確立」として掲げられました。1942年には東條英機首相の施政方針演説での「大東亜の各国家及び各民族をして、各々其の処を得しめ、帝国を核心とする道義に基く共存共栄の秩序を確立せんとするに在る。」を理念としていて、道義的規範は日本型に基くが「東アジアの各国は白人支配を排除して自存自栄型での発展」を目指す、とする(大アジア)共同体構想でした。

 これは、「英連邦型」よりも密接ですが、「ソ連邦・アメリカ合衆国型」よりも緩やかな共同体で、「欧州連合型」に近いと思います。戦後の歴史教育では、太平洋戦争が不利になってきた為に持ち出された構想と教えられていますが、開戦以前からあったものです。

 しかし、今になって考えれば、例え「大東亜共栄圏」が一時的に成功したとしても、中国や米国の覇権争いや、欧州やソ連の謀略によって破綻する事は自明だったとも言えます。況してや、日本が大東亜戦争に勝利したとしても、現在の「イスラム原理主義者」の代わりに、「キリスト原理主義者」が世界中でテロを起こし、その責任を日本がとらされる事になったと思います。

 2013年に鳩山首相が提唱した「東アジア共同体構想」は、汎ヨーロッパ連合主宰者である青山栄次郎(リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー)の表層的なパクリで、「大東亜共栄圏」とは別モノです。現実に目を向けると、東アジア各国は白人ではなく黄色人種によって蹂躙されています。ここに日本が入り込んでも、「中共」は覇権を手放す事は有りません。寧ろ、日本が「中共」の支配下に置かれるのが落ちです。

 欧州各国は、第二次大戦後に植民地を失って弱小国連合に落ちぶれ、軍事的にはソ連、経済的には米国に対抗する為の欧州各国による互助会組織が現在の「EU」です。ドイツは復興しましたが、英国が離脱を決め、難民問題も有ってEUは解体されようとしています。

 戦後、日本は東アジアの政治・経済とは関係なく内需で復活しました。しかし、中国・韓国が日本をはじめとする国際援助を基に復活し始めた頃から、日本の衰退が続いています。中共は中華思想が、韓国は小中華思想が政治の中核にあり、自国が発展しても日本や他国と共同歩調を取る事は有り得ません。

 「大東亜共栄圏」は、積弊なる中華思想と残虐な白人支配を排除する構想であり、「東アジア共同体構想」 は結果として中華思想に呑み込まれる構想です。



「年」 と 「歳」

2021年02月16日 | 歴史
 例えば、2022年(令和4年)4月1日に施行されますが、今年17歳の人は来年から成年1年生になり、2023年になると19才になり成人2年生になります。

 今年18才と19才の人は来年19才と20才になり同じく成年1年生で、今年20才の人は既に成年なので来年は成年2年生です。来年の成年組が同じ1年生でも実年齢が18~20才がいて、成人式は例年の3倍の人数になりますが、会場や衣装の準備は整っているのでしょうか。

 それは兎も角、実年齢にも「満年齢」と「数え歳」があり、法律で言う成人は「満年齢」を基準にしていますが、「数え歳」から数え直す人はいないと思います。

 ところで、今から二千年ほど前までは日本では
「二倍年」が使用されていたのではないかという説があり、これを否定する人もいて日本書紀などの「正史」には書かれてい事を根拠にしているようです。また、期間の1年を春秋で2年に分割する合理性も無いとされていますが、「二倍年」は年を二倍にするのではなく、「歳」を「年」の二倍にしただけであり、自然の法則とは矛盾はしません。

 また、「歳」には作物の収穫やその祭祀の意味があるので必ずしも1年に固定される理由は有りません。例えば、耕す時に豊穣を祈願して1歳を、収穫を感謝して1歳を数えても、或いは二毛作や二期作も考えられ、1年に2歳を数える事には矛盾は有りません。

 つまり、百歳(百回の祭祀)の人は50年生きていた事は当時としては余りにも当たり前なので、「数え歳」と「実年齢」の違いを現在の公文書には書かないのと同様に、当時の「正史」に「二倍年」の風習を書き残さなくてもも不思議は有りません。何せ「長史」や「長寿」は目出度い事なので、ワザワザ半分にする必要もないと思います。

 史実を見ても、日本は支那大陸から「不老長寿の国」と思われていて、百歳(50年)以上の人が多く生きていると、事実として書かれています。(今の)常識で考えれば「百歳」の人と「50才」の人は、その違いが分からない筈はないのですが、実際に「東方に不老長寿の国が在る」と思われていました。

 多くの日本人が「50歳」で死ぬことが分かっていたら、中華思想の支配者が化外の地に対して「不老長寿の国」などと思うはずも有りませんし、恐らく「東方に未開の蛮族が棲む地がある」と史書に残っていると思います。

 実際に、この「からくり」を知った時点で「魏志倭人伝」に似たようなことが書かれていました。

《 魏略によると、倭人は正月や四節を知らない。ただ春に耕し秋に収穫したことを数えて年紀としている。》



「ハングル」 と 「創氏改名」

2021年01月11日 | 歴史
 「日本の植民地時代=漢字教育」と韓国のハングル学会はプロパガンダしているようですが、実は「日本統治時代=ハングル教育」で初歩的な「読み書き」から教えていた事を隠しています。厄介な「学会」は何処の国にもいます。

 併合以前の朝鮮では、李氏朝鮮時代も含めて「白丁などの」は人間とは見なされず、姓を持つことを許されないばかりか「教育」も受けられず「文字」を書くことが出来ませんでした。日韓併合の後に、総ての「国民」に姓を名乗らせて「戸籍」を整備し、そこには「身分を記載することなく」登録させました。身分を開放された「白丁の子供」も学校に通い「文字」を書けるようになりました。しかし、身分解放に反対する「両班(支配階級)」は激しい抗議を繰り広げ、「身分にかかわらず教育機会を与えるべき」と考える日本政府と対立する事になりましたが、「日本政府の強権」によって即座に鎮圧されました。

 この事実の一部を切り抜いて捏造し、「日帝は日王の命令で大韓帝国を植民地化し、韓国名を禁止し和名を押し付け、ハングルを奪い漢字を強制した。」と云う事にしています。当然「創氏改名」も、「朝鮮半島人」が勝手に和名を名乗ることから支那大陸(主に満州)で混乱が起き、軍部は反対したのですが、政治的安定を図る為に「和名に変更」する事を「許可」しました。勿論「創氏」とは言っても、元々「氏」が無かった「白丁」からは奪う事は出来ません。

 それは兎も角、「ハングル」は、漢字の「ヨミ」や「オクリ仮名」として教えたのですが、今では「自分の名前」ですらも漢字で書けない人がいて、ほゞ総てを「ハングル」で書くそうです。

 「ハングル」を日本が教えたと言っても、元々は朝鮮語を表記するために 1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が公布したのは「諺文(オンモン)」と言って、「ハングル」と呼ばれるのは20世紀になってからだそうです。「ハングル」が出来る前は、中華思想の「両班(支配階級)」を中心に漢字を使用していましたが、一般民衆は漢字の読み書きができない為に、殆どが文盲でした。

 当時の「支那大陸」の明王朝は、中華圏での漢字以外の文字を使用する事を許さなかったのですが、「ハングルは漢字のヨミを教える為の発音記号に過ぎない」として、拡めることに成功しました。しかし、王室批判の張り紙が「ハングル」で書かれた為、「民衆」に知られないようにと一時期「ハングル」の教育が禁止されました。それ以降、日本が「ハングル教育」を再開するまでは、「支配層」の一部が細々と使用していただけのようです。

 朝鮮半島では、「ハングル」が出来た後も「漢字」が主に使われていて、ハングルは補助的(平仮名的)な役割であり、日本が「漢字」を新しく教えた訳では有りません。それどころか、当時の半島では「ハングル」にも方言(方字?)が有り、これを統一して教えたのは日本人です。