1週間前、家の前でコケてしまい、ブロックの角に右スネを強打し、腫れあがってしまった。
強烈な痛みは無いものの、走ったりして体重がかかるとジンジンと痛む。1週間たっても腫れと痛みはあまり引かない。
天気が良く自転車で出かけたいと思ったが、坂道走行するとスネに負担がかかるため、のんびり散歩する事にした。
阪急電車で伊丹駅へ。伊丹線乗車は初めて。これで阪急は全線乗車した・・・と思っていたが、よく考えると千里線の北千里-山田間は未だ乗車していないような気がする。
新伊丹~伊丹間は高架化されている。阪神大震災で大きな被害を受けた。そういえば、昨日熊本で大地震があったのが心配だ。
伊丹駅は支線の駅なので、箕面駅のようにもっとこじんまりした駅だと思っていたが、想定外に大きかった。
散歩コースは、阪急電鉄の「悠遊一日紀行」を参考に。
伊丹駅から北へ歩く。
法巌寺の大クス。推定樹齢500年のクスノキ。
猪名野神社。有岡城の北端に位置していたらしい。
本殿
神社の前の宮ノ前通りは、風情ある街並みになっている。
伊丹線沿いに南へ歩き、稲野駅近くの御願塚古墳へ。古墳の上には南神社が建てられている。
この古墳は5世紀ごろの前方後円墳。円部が異常に大きい帆立貝式古墳。誰の墳墓かは不明らしい。
お腹も空いてきたので、つかしんに立ち寄って、フードコートで天丼を食す。
昼食後はつかしんから東に歩き、南清水古墳へ。ここの古墳も帆立貝式古墳。古墳の上には素盞鳴尊神社が建てられている。
南清水古墳から南へ歩き、伊居太古墳へ。5世紀の前方後円墳で、市内最大規模。
ここも古墳の上に伊居太神社という神社がある。尼崎の古墳は、上に神社が建てられている事が多いみたいだ。
神社はあまり大きくない。本殿は、阪神大震災で倒壊し、再建されたそうだ。
この尼崎市の伊居太神社はイコタと読む。池田市の五月山の麓にある伊居太神社はイケダと読む。
延喜式神名帳(全国の神社一覧)に掲載されている摂津国河辺郡の「伊居太神社」とは、尼崎と池田どちらの伊居太神社の事なのか判明していないようだ。今回訪れた尼崎の伊居太神社の案内板には、ここが延喜式神名帳の伊居太神社、と書いてあったが・・・
伊居太神社から西へ歩き、伊佐具神社へ。
尼崎市内で唯一、式内社という格式をもつ神社。この地で神酒を醸造していたことから、酒部と呼ばれていた。
少し南に行き、近松公園へ。公園では、60代~70代ぐらいの男性十数人が将棋に夢中になっていた。
公園内には近松記念館があり、遺品などが展示されているが、あまり興味も無かったのでパス。いずれ浄瑠璃に興味が出ることがあれば、また訪れるかもしれない。
公園の外れにある、近松門左衛門ゆかりの廣濟寺。
近松の墓がある。こじんまりしている。
廣濟寺の隣、久々知須佐男神社。
源氏の棟梁、源満仲の勧請により建立された、とされる。能勢妙見山との関係が深い。
境内に源満仲が川西市の多田に向って矢を射るのに足をかけた「矢文石」がある。
満仲の放った矢は、頭が九つもある大蛇に突き刺っており、大蛇から流れた血水の引いた所が多くの田のようになっていたので、その地名を「多田」と名付け、また矢を問いながら来た所から、「矢問」という地名がつけられたそうだ。
尼崎は忍たま乱太郎ゆかりの地。久々知兵助の名前は、久々知須佐男神社から付けられているらしい。
だんだんと痛めたスネがズキズキしてきたので、この辺で散歩は止めにして、JR塚口駅へ向かう。
途中、立派な家があった。後で調べてみると、尼崎市が市民に親しまれている民家等を、昭和63年から尼崎市都市美形成建築物として17軒指定しており、ここは廣田(栄)邸。
ようやく、JR塚口駅へ到着。
知らぬ間に立派な駅に変貌している。学生時代にバイトでこの駅を利用した時は、駅の東側は森永製菓の工場で、甘いにおいが漂っていたが、今は再開発で商業施設やマンションが建てられている。
JR塚口駅から電車に乗って帰宅。歩行距離は約15キロ。
結局、無理して長距離を歩くことになってしまい、スネの痛みが少々ひどくなってしまった。
強烈な痛みは無いものの、走ったりして体重がかかるとジンジンと痛む。1週間たっても腫れと痛みはあまり引かない。
天気が良く自転車で出かけたいと思ったが、坂道走行するとスネに負担がかかるため、のんびり散歩する事にした。
阪急電車で伊丹駅へ。伊丹線乗車は初めて。これで阪急は全線乗車した・・・と思っていたが、よく考えると千里線の北千里-山田間は未だ乗車していないような気がする。
新伊丹~伊丹間は高架化されている。阪神大震災で大きな被害を受けた。そういえば、昨日熊本で大地震があったのが心配だ。
伊丹駅は支線の駅なので、箕面駅のようにもっとこじんまりした駅だと思っていたが、想定外に大きかった。
散歩コースは、阪急電鉄の「悠遊一日紀行」を参考に。
伊丹駅から北へ歩く。
法巌寺の大クス。推定樹齢500年のクスノキ。
猪名野神社。有岡城の北端に位置していたらしい。
本殿
神社の前の宮ノ前通りは、風情ある街並みになっている。
伊丹線沿いに南へ歩き、稲野駅近くの御願塚古墳へ。古墳の上には南神社が建てられている。
この古墳は5世紀ごろの前方後円墳。円部が異常に大きい帆立貝式古墳。誰の墳墓かは不明らしい。
お腹も空いてきたので、つかしんに立ち寄って、フードコートで天丼を食す。
昼食後はつかしんから東に歩き、南清水古墳へ。ここの古墳も帆立貝式古墳。古墳の上には素盞鳴尊神社が建てられている。
南清水古墳から南へ歩き、伊居太古墳へ。5世紀の前方後円墳で、市内最大規模。
ここも古墳の上に伊居太神社という神社がある。尼崎の古墳は、上に神社が建てられている事が多いみたいだ。
神社はあまり大きくない。本殿は、阪神大震災で倒壊し、再建されたそうだ。
この尼崎市の伊居太神社はイコタと読む。池田市の五月山の麓にある伊居太神社はイケダと読む。
延喜式神名帳(全国の神社一覧)に掲載されている摂津国河辺郡の「伊居太神社」とは、尼崎と池田どちらの伊居太神社の事なのか判明していないようだ。今回訪れた尼崎の伊居太神社の案内板には、ここが延喜式神名帳の伊居太神社、と書いてあったが・・・
伊居太神社から西へ歩き、伊佐具神社へ。
尼崎市内で唯一、式内社という格式をもつ神社。この地で神酒を醸造していたことから、酒部と呼ばれていた。
少し南に行き、近松公園へ。公園では、60代~70代ぐらいの男性十数人が将棋に夢中になっていた。
公園内には近松記念館があり、遺品などが展示されているが、あまり興味も無かったのでパス。いずれ浄瑠璃に興味が出ることがあれば、また訪れるかもしれない。
公園の外れにある、近松門左衛門ゆかりの廣濟寺。
近松の墓がある。こじんまりしている。
廣濟寺の隣、久々知須佐男神社。
源氏の棟梁、源満仲の勧請により建立された、とされる。能勢妙見山との関係が深い。
境内に源満仲が川西市の多田に向って矢を射るのに足をかけた「矢文石」がある。
満仲の放った矢は、頭が九つもある大蛇に突き刺っており、大蛇から流れた血水の引いた所が多くの田のようになっていたので、その地名を「多田」と名付け、また矢を問いながら来た所から、「矢問」という地名がつけられたそうだ。
尼崎は忍たま乱太郎ゆかりの地。久々知兵助の名前は、久々知須佐男神社から付けられているらしい。
だんだんと痛めたスネがズキズキしてきたので、この辺で散歩は止めにして、JR塚口駅へ向かう。
途中、立派な家があった。後で調べてみると、尼崎市が市民に親しまれている民家等を、昭和63年から尼崎市都市美形成建築物として17軒指定しており、ここは廣田(栄)邸。
ようやく、JR塚口駅へ到着。
知らぬ間に立派な駅に変貌している。学生時代にバイトでこの駅を利用した時は、駅の東側は森永製菓の工場で、甘いにおいが漂っていたが、今は再開発で商業施設やマンションが建てられている。
JR塚口駅から電車に乗って帰宅。歩行距離は約15キロ。
結局、無理して長距離を歩くことになってしまい、スネの痛みが少々ひどくなってしまった。