80歳の日々の暮らし

最近毎日充実した日々を過ごすように努力しています。

尊良親王流人日記抄(5)

2009-09-27 20:40:26 | 日記
  さてこちら米原における尊良親王は、武文を京にお遣わした後は、久々の御息
 所と御対面のあり様など、思い浮かべながら対面出来る日を一日千秋の思いで、待ちこがれていたのであるが、武文都へ出てから、早くも数カ月たち,元弘二年も暮れ、三年の年も明けたのに、都より何の便りもなく、宮の心痛も一方でなく側で仕える、大平、有井は慰める言葉に苦しんだ。其のころ京から下った旅人の話によると「御息所は確か去年の九月二日武文を伴もに都を立たれ、土佐に向かって、旅立たれたということ承った」ということであった   それを聞いた宮は,日頃の危惧が現実となり、道中で人に誘拐されたのか,或いは遭難にあって、武文諸共、海の藻屑となり果てたのだろうか?と大変になげき悲しまれたのである

 それより間もなきある日、有井川の一漁師が,沖より帰る途中、たかはまの沖
二丁ばかりのところにある,”礁”後に名付けられた”衣掛礁(きぬかけばえ)”に美しい衣がかかっている・・・と庄司のもとへ、持参した。これこそ、武文上京のおり、庄司が真心こめて、作り上げ、御息所に差し上げた衣であった,鳴門の海難事故のおり、海中龍神の怒りを鎮めるため、海中に投げ込んだ、御息所の衣の小袖であったに違いない。
          (きぬかけ礁)
 不運の中でも一縷の望みを持ち続けた、宮も,最早絶望の悲嘆に陥り、二人の供養のため、自らお経を書写され、日夜念仏唱えて、二人の冥福を祈ったのである。

 さてお衣がかの礁に掛かって以来、そのお衣と寸分違わぬ模様のpはまぐりと思はれる貝が,入野の海岸で産するようになりその名も小袖貝と名付けられたようである。

  この名をかりて、入野の古くから造り酒屋である宮川酒造では”銘酒小袖貝”
として、その名声を博した、ものである。今でも其の銘柄で、販売しているようだ。

    (銘酒 小袖貝)

畑における宮の数寄な御生活中、全国には,処々で官軍が決起し、北条の運命も旦夕に迫る情勢となり、楠木正成義軍の先駆けをはじめ,護良親王のご活躍
で、九州の菊地氏、播磨の赤松氏、伊予の河の得能氏等の奮起があり、新田義貞、
足利尊氏が官軍として、これに応ずるに及び,五月七日には六派羅,五月二十二日
には、鎌倉が陥り、さすが専横を、ほしいがままにした、執権の高時も自殺に及び
北条氏もここで滅びることとなる。

 先に情勢好転により、ひそかに隠岐の行在所を立ち出られた,後醍醐天皇は名和
長利の奉護を受けていたが、間もなく都へ還行なされたのである、この知らせは、
いち早く、尊良親王のもとへも知らされたので、親王の喜びも一方ではなかったようである。やがて宮も京へ還えられるようになり、有井庄司にも京まで伴うよう要請したが、庄司は感涙にむせびながら、あまりの老齢を理由に御断りしたのである。宮は弾正の息子大膳等を伴って無事都へ立ち帰られたのである。

 憂き目の多かった畑の生活など思い浮かべながら、今のご帰京はいかほどか、お悦びになったことであろう、また時に触れ、折に際して、苦しかった畑での出来事
を思い起こしては、大平、有井等の忠節を思い浮かべて、何おほどかうれしく又、
懐かしく感じたことであろう。 間もなくして、有井庄司が病死したとの知らせを受け、その冥福を祈るため,当時多額の資金を要したと思われる,五輪の石(五輪
の塔とも言う)を多数にわたり送られたという・。有井川の長尾山の畝にある、庄司の墓は、宮から送られた、この五輪の石で飾られている。

有井庄司の墓()高知県史跡)
        




この五輪石は、遠く京の都より舟で運ばれて,来たのである、その舟がついた、
海辺が、たかはまの沖、幾丁か沖合であり、その舟着いた途端、あまりの重さ
に舟が座礁し大半の五輪石が砂に埋まったと伝えられる。庄司の墓は其の一部堀
おこし、陸に揚げたものという、たかはまの地名は昔高い砂浜が開けていたので
”たかはま”というと思っていたのであるが、たかはまの沿岸にある、喫茶、民宿
”たかはま”の店主にきけば、おきには,衣掛け礁があり、また前説宮から、庄司に送られてきた五輪の石が埋っている浜であるから、それは、「高浜」ではなく貴い浜、即ち「貴浜(たかはま)」であるという。それはどちらでも、史跡にまつわる由緒ある浜には違いない。            

たかはま海岸風形(現在)


高い砂浜も低くなり今は平坦の砂に覆われた海岸線
                       

都に還られた、宮は、かねて盗賊松浦五郎に拉致され、危うく其の命を失うところを、旅の僧の一言で、奇跡の難を逃れて、淡路の竹島に流れつき、そこに住まいしていた,典侍の君をお迎えし,京で住まいをされていたのであるが、太平の代は長続きなく、建武ニ年足利尊氏の反乱があり,世は再び乱れ,中興の業もつかの間
宮は勅命により、関東管領で新田義貞を従え、高氏討伐に東下されたが、その軍勢は武運つたなく、箱根竹の下の乱にて敗れ、都に退陣のやむなきに至った。その後高氏の横暴は日増しに増大、後醍醐天皇の比叡山行幸や、官軍新田・楠木等の軍勢に敗れて,遠く九州まで落ち伸びた、尊氏の敗北により、天皇も再び京に御戻りになられた。           
       

 しかしまた高尊氏は九州より勢いを盛り返し、京に攻め上がったため、これを迎えて反撃したのが、楠木であり、正成は湊川で戦死、義貞も敗れて都に退いたので、天皇は再び比叡山に避難されたのである。

 この前後において,尊良親王も幾多の合戦に参戦なされ、あらゆる苦難に耐えられたことは、貴い身分でありながら、これほど苦難の道を歩かれた、貴賊は、数ないと心得、今もなお慰言を言いたい気持ちがする。

 歴史は繰り返すといわれるが、現代の世に照らし合わせても、似通った面の多々
あることを、感じる。

 この物語は、大方町史「尊良親王の哀歌」を大いに参考とし、編纂したものである。

[ つれづれなるままに、日暮し、コンピュターに向かいて、心にうつりだすよしなしごとを、そこはかとなく、たたきつければ、あやしゅうこそ、もの狂ほしけれ」

尊良親王流人日記(4)

2009-09-26 11:15:51 | 日記
 有井・大平両忠臣はこうした宮の故郷の京の都を恋しがる、悲嘆の念をみるにつけ、何とかして、宮の胸中の悩みを和らげ、お慰めする方法は無いものか・・と日
夜苦心していたのであるが、宮の歌、
   めぐりあいて同じ雲井にながめばや
             あかで別れし九重の月(新葉和歌集)

    わが中は八重立つ雲に隔て来て
             通う心や道まようらん(新葉和歌集)の二首により

 これは宮が都に残しおかれた、ご寵愛深き,”典侍の君”をしのばれてのこととお察し申し上げ、宮にお赦し得て,随身 秦武文をお迎えの使者として,京へ差し向かわしめたのである。
京についた武文は、難儀しながら,御息所,“典侍の君”の在所を訪ね当て、宮の元えお迎えの由申し上げると、御息所も大変2お悦びになり、さっそく、土佐の
畑へ出発の段取りが決まったのである。 
 兵庫の福原まで来ると、明日は宮のおられる土佐の畑に船出できると、御息所も大変喜んでおられた其の夜お宿所に大勢の盗人が入り,火を放ち、数限りない狼藉
を働くに至った、武文は、ただ一人で大勢の賊と戦い、このままでは、と思い、御
息所を背負い、その場を逃れ、海岸に出て、{船は無いか?と大声で呼ぶと、一艙の船四里返事があったので、その船に御息所を託し、急いで、宿に引き返したところ、宿はすでに焼けはてて、賊もひきあげていたので、武文再び元の海岸に帰り、
御息所を預けた船を捜したが其の船は見当たらず。その船こそ、海賊の首領松浦五郎の所有する船で、もはや元の場所には見当たらず、早くも帆をあげて、遠く沖合に船出した所であった、
 武文大いに怒り、「その船戻せ」と叫んだのであるが、船からは嘲笑の声と罵り
の声が響くばかり、船は次第に遠ざ駆るのみであった。五郎はまた御息所のあでやかな姿見て、わがものにしようとした,よこしまな心が働いて、そのまま連れ去ったものと思われる、
 武文は小船に飛び乗り、五郎の船を追いかけたのであるが、しかし、順風を受けた、帆かけ大船、こちらは櫓漕ぎの小舟,刻々と距離は遠のいていくばかり、武文
は残念のやるかたない思いで、今はこれまでと悲壮な決心して,沖の松浦の船をはったと睨みつけ“今に見よわれ龍神と化して、この恨みを晴らさん”と叫びつつ、
腹かき斬って、海の藻屑となったのである。

松浦の船は順風に乗って、阿波の鳴門の早潮に乗るころ、にわかに風向き変わり
潮は渦巻き、風は収まらず、陸につけることもかなわず、三日三晩渦巻く潮に閉じ込められ、身動きならぬ状態が続いた、船人はこれは財宝ほしさに龍神が暴れていると思い、あらゆる弓矢・刀・鎧・財宝等海に投げ入れてもおさまらず、さては
御息所のあでやかな衣装に見入ったのであろうかと、其のお衣と赤い袴をはぎ取りこれも海中に投げ込んだ、にもかかわらず波風おさまる気配なし。 五郎もまた
貴婦人を奪い取った為に龍神の怒りを買ったのではないかと、後ろめたさに、おののいていたのである。 そこで御息所を龍神に与えて鎮めようと図り、彼女を海に投げ込もうとしたのである。この時船に便乗した一人の僧の進言により、”そのような罪深いことはやめよ、この貴人を一人小舟に乗せてこの荒海に浮かばせれば、龍神もその怒りを和らげて、この海も静かになるだろう、”ということだった
 五郎もそれにうなづき、小舟に御息所と一人水主を乗せて荒れ狂ううず潮の真ん中に放ったのである。
 すると不思議にも、今まで荒れ狂った潮もおさまり、風の向きも変わり、五郎の船は西に流され、行く末知らず遠くに去り、御息所の船は、東に流れて、淡路の武
島に流され,無事命永らえたのである。誠に奇跡というに値する,数寄物語ではある。

南北朝時代、都風俗絵巻風景(私本太平記




















尊良親王流人日記抄(3)

2009-09-21 15:49:45 | 日記
2 王野山より、米原の土地へ,お遷りになること、親王も快く、お聞き届になり、
有井、大平野警護のもと,王野を出られた親王は,行く手には、中尾山の急坂、
今に言う「王ざこ」のけわしい道があった、またその先,断崖絶壁の、山鹿さえ通らない崖道。今の[わるざこ」などが横たわっていた。宮はそこを難儀しながら、ようやく伴太郎というところに出られたのである。また「箸木殿」(はしきでん)の曲がりくねった坂道を休み休み上り、ここでひるめしをとられて、そこよりさらに、だらだら坂を下って、有井川の上流になる、米原の土地へ御着きになったのである。



 宮のお遷りなされた、米原の土地は、王野の如く、人里離れた深い山中ではないが、人家といへば、わずか数戸、海辺からは二里あまりも離れた、草木深く生えた、片田舎である、宮のご心中に常に浮かぶ思いは,ありし日の都のまぼろしを忍び,雅やかな、毎日を思い出していたであろう.夜な夜な里人の打つ、砧の音を聞きながら詠まれた歌は

   聞きなるる契もつらし衣打つ
         民のふせやに軒をならべて(新葉和歌集)  と詠まれた。

 元弘二年もくれようとした,ある夜,寒月は澄みきった、中天に掛かり、下界の
万物は、墨絵のごとく地に映ずるをご覧になり、

   我が庵は土佐の山風さゆる夜に
          軒洩る月もかげこほるなり(新葉和歌集) と詠じられた。

 この田舎の生活を、やる瀬ない気持ちを詠われた、歌も数知れず、あるが、すべて新葉和歌集に書き出されているようだ。中でも,元弘三年の正月、有井、大平両
名の忠誠には感謝しつつ、ひたすら都を恋しく思われて、御所のすぐ東上の月見山
の頂上に立って、東にある、佐賀の海、興津の沖を眺めつ



   春霞かすむ波路はへだつとも
           便り知らせよ八重の高潮(新葉和歌集)  と、

 波にさえ都の便りを知らせてほしいとはかない望みを寄せられ、また闇夜に一声
皐月闇になく時鳥の声を聞かれては、

   なけば聞くきけば都の恋しさに
          この里すぎよ山ほととぎす  と

 都恋しさの念切なく胸に迫り,時鳥にさえ、鳴かずに行き過ぎてくれ、きけば
都が恋しくてならぬーと断腸の思いをうたに託したのである。


尊良親王流人日記抄(2)

2009-09-18 19:25:31 | 日記
 大平弾正館に一時宮は逗留していたのであるが、その時有井庄司もまた弾正の館
を訪れ、心をこめて、大平とともに,忠誠を誓ったので、この草木の深い辺鄙の土地にこのような忠臣の二人までいることに、宮も心強く、また、その忠誠を深く御喜びになったことであろう。また,両人も日夜細心の注意を払って、宮の警護と
宮の慮愁を御慰めしたことであろう。

 北条方の追討はさらに厳しく、刺客も三人まで下り宮に危害を加えられる恐れも
ある、情勢の中で、弾正の館にいて、宮の御身辺にもし者危険が及ぶことになれば
と、苦慮の念に駆られ、大平と有井は計って、宮を奉じて,弾正の館を出、北東に一里もある,みな川の王野山にお遷しすることになった。この地は、幡東一の高山
仏が森の東山腹一帯をいうのであって、海岸よりは三里あまり、草気生い茂った、
深山幽谷であり、昼でもなお暗く,苔むす磐に、落ち葉は深く谷を埋め、雲は峰に
かかり、霧もまた山あいを覆う山間の僻地である,ここにある仮御所で過ごされた宮の毎日は言いようもなく淋しいものであったろう。この模様を宮は
  (仏が森)                 
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   谷かげに積もる木の葉のそれならで
          我が身朽ちぬとなげく頃かな(新葉和歌集) と詠まれた

 この王野では次のような伝説も残っている。

 宮に供御(くご)差し上げるため、毎日庄司のもとから、六里もあるこの僻地に食事を運んで通った 庄司の姪にあたる千代という少女があった、かよわい少女の
身でありながら、毎夜人目を忍んで庄司の館を出て、一番鶏がなくまでに宮の仮御所について、一日の宮の食事をささげて、また庄司の館まで帰っていたそうである
 彼女はいつも時を知るために懐に鶏を抱いて往復していたそうである。ところが
ある代いつものように館は出たが、まだ宮の仮御所につくまでに懐の鶏が時を告げたので、千代葉自分の任務を果たせない自責にかわれて,郷の谷の淵に身を投げて
悲壮な最期を遂げたということだ。

 宮もこの千代のことを聞かれて深く御心痛になりこの地に死体を埋めて、毎夜
其の墓前に躓いて其の冥福を祈ったという。今王野宮跡東南2・3メートルのと
ころに“千代が淵”の名をとどめて残っている。               
(ふるさとセンター千代が淵壁画、)
このように、不自由な日常の生活は、明け暮れ野猿のなき声と松風の凄ましい
音と、訪れる人も彼ら忠臣二人を除いて誰もない淋しさ!毎晩の夢にも、都の生活
が忍ばれて、北条野非道を憤慨なされて、涙の乾く暇もない状態であった。

 この親王の王野野御生活を見かねた、二人の忠臣は、いかに恐れ多いことかと苦慮されて,三度目の還地有井野庄内米原へとお還しすることとなったのである。

尊良親王流人日記抄(1)

2009-09-14 12:25:37 | 日記
尊良親王    

 後醍後天皇の第一皇子としてお生まれ、一の宮と称し、大納言藤原為世     卿の女,為子の方である。生まれながら、聡明、後世に“歌の宮様”と     して讃られる。歌の血統を受けられ,旦歌の家元で人となられた、由緒     によると言われる。

逆賊北条高時によって、後醍醐天皇は,遠く壱岐の島に流され、第一
 皇子である尊良親王は、土佐の畑へ、弟の宗良親王は讃岐へと、それぞれ
 流される場所が異なり、流人とされたのであります、

  土佐の畑に流された尊良親王は、旧、白田川村(現黒潮町)の戻るが浜に
 遠い船旅の末たどりついたのである。親王は、この浜の戻るが浜の名前が
 大変気に入り、都に戻れるという、前知らせであると、喜びに包まれて、
 いたという。       
 

親王が戻る浜に上陸されたことを、いち早く聞いた、入野郷の豪族、大平弾正
 が聞きつけ、さっそく供を従え、宮をお迎えして、わが館えとお連れ申したので ある。しかし弾正の川下には、北条家の一族で,安藤某に属した、米津山城主が
 居城をかまえていたので、この山城守がどのような心でおるかわからず、元の七
 里村浮津から大守山を越え、道もない、山腹の難所、今も名の残る,弾正横通り
 を突き抜け、おのが館に入り宮を警護申し上げたのである、


         王無の浜




 弾正が、勤王の赤誠を持ってこの浜に駆け付けた時、宮は闇夜に光明を得たるが
 ごとき感動にあふれ、その時弾正に下された歌が次の歌である。

  土佐の海、身は浮草の流れ来て
          寄辺なき身を哀れともしれ

 と信頼に満ちた御歌をたまわった弾正は、その光栄に身をふるわせつつ、ひれ伏
 てこう御返歌申し上げたという。

   雲の上いかで仰がん及びなき
           土佐の入江の藻がくれにいて

   有井川村主有井三郎左衛門豊高もまた勤王の高い郷士であったが、宮の着船
 を聞き早速、一族郎党ひきつれて、お迎えするべく、有井川村と上川口村との中
 間である椎の木坂まで来て、そこに皆の者を待たせておいて、自分は戻るが浜に
 駆け付け、お迎えするつもりであったが、宮はすでに大平に擁せられて、立ち去
 られた後であったのでせんなく我が館までひきかえしたのである。これより、人 びとはこの戻る浜を、「王すでになし」という意味で。「王無の浜」と唱え、ま
 一族を待たしておいた”椎の木坂”もまた、「待つ王坂」というようになったと
 言う。 
 
 ☆この王無浜の上にある新興の団地が王迎え団地と名付けられ、またその団地に
 つけられた,くろしお鉄道の駅の名前が、「海の王迎え駅」とされたのも、この
 伝説が、その名前を生じたた由来である。

☆上川口と有井川の間に有る坂道、今は坂の形が少なくなっている。     
過去の名前は“椎の木坂”であった。(待ち王坂)      、
               
☆ 今はコンクリートの橋。昔は土木で固められた、小さな橋と思う、大野に行く
 途中か、米原に、還られる途中か、で住民が出迎えた、橋と思う?(王迎橋)


 
            
                           
  有井庄司もまた弾正の館に行って,誠心を込めて、大平とともに,忠誠を誓っ
 たので、この草深い、辺鄙(へんぴ)の土地にもこうした忠臣の二人もいる事を、
 宮は深く心強く、喜びに満ちた模様であった。

  大平・有井の両人は日夜宮の警護に努め、また、宮の旅愁をお慰み申しあげた
 のである。時の情勢は官軍に不利であり、北条方の重圧監視の目は厳しく、宮を
 初め、この両名の者にも監視厳しく,京から北条方の刺客が三人も下って、宮を
 害しようと、その隙を狙っているとのうわさも広まっていたのである。