(1)山本倉丘ー黒潮町伊田出身。伊田小学校・入野高等小学卒業。
絵が好きで、独学をつづけ、京都,山元春挙の弟子となり、本格的に日本
画を学ぶ。その後京都市立絵画専門学校に入学、昭和8年同校卒業。
昭和28年第九回日展で初めて、日展審査員となり、以来たびたび審査員
を務め、33年日展が、社団法人になると、評議員となり、日展の発展に
に寄与した。
昭和36年に紺綬褒章。41年出品作「たそがれ」により、日本芸術院
賞、受章。49年日展参与に推挙され、勲四等旭日章を受章、55年には
日展参事に就任、名実ともに日本画壇の重鎮として、尊敬されるようにな
る。
倉丘の画風は、戦前は伝統的な花鳥画を厳しく追及、戦後は、油絵を中心
に、西洋的画法を取り入れるようになってから、華麗な世界を展開、しか
も毅然たる品格が漂っている作品として、内外にその名声をとどろかせた
ものである。
昭和58年(1983年)百号前後の大作47点(時価二十億円)を高知
県に寄贈、県立郷土文化会館で山本倉丘展画開催され、これが、高知県立
美術館建設の動機となったと言われる。郷土画が生んだ、日本画の巨匠山 本倉丘(伝三郎)さんに敬意を表したい。
(2)タカクラ・テルー明治24年(1891年)黒潮町浮鞭で生まれる。
入野小学校、愛媛県宇和島中学校から、京都の第三高等学校より京大英文
科に進み、大正5年に卒業、新村出教授のもとで、大正11年まで,京大
の嘱託となりその間、に戯曲ン[砂丘」を雑紙[改造」に発表し、初めて文壇
に出る。
大正11年、長野市に住まい上田市の「自由大学」で文学論
を講義,感想文「われらいかに行くべきか」戯曲[長谷川一家」長編小
説[坂]「高瀬川」などを出版。
昭和7年、「都新聞」に連載の[狼」は検閲により中断され、昭和7年
東京に住まい後、国民文学論iの提唱とともに、国語,国字合理化運動を
を勢力的に行った。いわゆる[漢字不要論」であるj。
タカクラ・テルというカタカナ書きの筆名を使い始めたのは、このころで
ある。その後革命的ローマ字運動事件、ゾルゲ事件等に関連して再三検挙
逮捕を繰り返し、日本画戦争に突き進む中で受難の生活を余儀なくされた が、屈することなく、長編小説[大原幽学」や[箱根用水の話」など数々の評
論、創作を発表した。
終戦ごの昭和20年10月に釈放されるや、に日オン共産党に入党、21年
長野県より日本共産党代議士として、衆議院議員に当選、25年6月、参
議院議院当選の翌日マッカサー指令によりつい放となる。
テルはその後、ソ連。中国その他の社会主義国を転々。34年帰国すると
と直ちに政治活動.文筆活動を開始、35年8月から、東京に移住、小説
「たまをあらそう」新曲浄瑠璃(佐倉義民伝]「漫才」「唐人お吉」その他[歌
劇[山城国一揆」等数々の評論.屋感想文を発表おいても其の筆は少しも衰
えなかったといわれる。
社会主義思想と日本文化の結合を図ろうとし手、権力と争い,志操を貫
き通したタカクラ。テルは、昭和61年4月2日すい臓がんのため、波乱
に満ちた、94年の生涯をとじた、
ひとすじの 道ほのかなり 冬木立 テル
(大方町文化人紹介)より
(3)上林 暁ー黒潮町下田の口出身 本名 徳弘磐城
高知県立第三中学(現中村高校熊本)第五高等学校を経て、東大英文科に
入学、昭和2年卒業後、「改造社」に入社、雑誌記者として働きながら、
同人文芸誌「風車」を創刊、上林 暁ノペンネームで小説を書き始める
昭和6年初めて,[新潮」に[欅(けやき)日記」を発表、同7年同誌に
発表した[薔薇盗人」(ばらとうにん)が好評、新進作家として、文檀に登場
文筆一本で暮らすけ罪を固め,改造社を辞めて、生活不安に
おち入り父の病気のせいもあって、一時帰郷
一年半ほど悶々の時を過ごした後
11年に上京、杉並に住居を構えた。
心身ともに衰えたこの時期、遺書のつもりで書き始めた、小説「安住の
家」[文芸]に発表されたのをきっかけに私小説の道が開け、文檀に再登場 以来暁は私小説ひとすじの道をp歩むこととなり、私小説作家の第一人者
と言われるようになり我が国文学史に大なる足跡を残した。
妻の死後一時スランプに悩んだが、「小さな蠣瀬川のほとり]「真少女」
(真乙女)など郷里の風物や人々を描き、「開運の願い](姫鏡台]など
身辺を取材した小説,「お竹さん]など、いわゆる”酒呑み”小説をつづ
けて発表に至る。
昭和27年1月かるい脳梗塞を患う。2か月五には執筆再開,「第20
創作集[春の坂]でその年の文部省芸術選奨を受賞「春の坂]は郷土もの
の一つ、浮ぶちの従姉をモデルに書いた好短編である。
37年、11月暁は脳出血の再発で半身不随で寝たきりの生活を余儀な
くされ、妹の睦子の健身的手助けにより、左手或いは,口頭で次々、短編
随筆・感想を書いた.口述によって書かれた「白い屋形船」創作集は、。
39年度に読売文学賞を受賞さらに、48年に発表の「ブロンズの首」は
第一回川端康成賞に選ばれた。
18年も病床生活送りながら、これだけの創作集(6冊)句集、ほかに
数冊の共著書を出版した。病床でこれだけ多くの作品を世に問う作家は、
世界にもその例ヲ見ないだろうと、暁のん文学執念を内外に知らしめた
ものであろう。
(以上の三篇は、大方ホウム・ページ大方の三文化人を参考に編集した、)
絵が好きで、独学をつづけ、京都,山元春挙の弟子となり、本格的に日本
画を学ぶ。その後京都市立絵画専門学校に入学、昭和8年同校卒業。
昭和28年第九回日展で初めて、日展審査員となり、以来たびたび審査員
を務め、33年日展が、社団法人になると、評議員となり、日展の発展に
に寄与した。
昭和36年に紺綬褒章。41年出品作「たそがれ」により、日本芸術院
賞、受章。49年日展参与に推挙され、勲四等旭日章を受章、55年には
日展参事に就任、名実ともに日本画壇の重鎮として、尊敬されるようにな
る。
倉丘の画風は、戦前は伝統的な花鳥画を厳しく追及、戦後は、油絵を中心
に、西洋的画法を取り入れるようになってから、華麗な世界を展開、しか
も毅然たる品格が漂っている作品として、内外にその名声をとどろかせた
ものである。
昭和58年(1983年)百号前後の大作47点(時価二十億円)を高知
県に寄贈、県立郷土文化会館で山本倉丘展画開催され、これが、高知県立
美術館建設の動機となったと言われる。郷土画が生んだ、日本画の巨匠山 本倉丘(伝三郎)さんに敬意を表したい。
(2)タカクラ・テルー明治24年(1891年)黒潮町浮鞭で生まれる。
入野小学校、愛媛県宇和島中学校から、京都の第三高等学校より京大英文
科に進み、大正5年に卒業、新村出教授のもとで、大正11年まで,京大
の嘱託となりその間、に戯曲ン[砂丘」を雑紙[改造」に発表し、初めて文壇
に出る。
大正11年、長野市に住まい上田市の「自由大学」で文学論
を講義,感想文「われらいかに行くべきか」戯曲[長谷川一家」長編小
説[坂]「高瀬川」などを出版。
昭和7年、「都新聞」に連載の[狼」は検閲により中断され、昭和7年
東京に住まい後、国民文学論iの提唱とともに、国語,国字合理化運動を
を勢力的に行った。いわゆる[漢字不要論」であるj。
タカクラ・テルというカタカナ書きの筆名を使い始めたのは、このころで
ある。その後革命的ローマ字運動事件、ゾルゲ事件等に関連して再三検挙
逮捕を繰り返し、日本画戦争に突き進む中で受難の生活を余儀なくされた が、屈することなく、長編小説[大原幽学」や[箱根用水の話」など数々の評
論、創作を発表した。
終戦ごの昭和20年10月に釈放されるや、に日オン共産党に入党、21年
長野県より日本共産党代議士として、衆議院議員に当選、25年6月、参
議院議院当選の翌日マッカサー指令によりつい放となる。
テルはその後、ソ連。中国その他の社会主義国を転々。34年帰国すると
と直ちに政治活動.文筆活動を開始、35年8月から、東京に移住、小説
「たまをあらそう」新曲浄瑠璃(佐倉義民伝]「漫才」「唐人お吉」その他[歌
劇[山城国一揆」等数々の評論.屋感想文を発表おいても其の筆は少しも衰
えなかったといわれる。
社会主義思想と日本文化の結合を図ろうとし手、権力と争い,志操を貫
き通したタカクラ。テルは、昭和61年4月2日すい臓がんのため、波乱
に満ちた、94年の生涯をとじた、
ひとすじの 道ほのかなり 冬木立 テル
(大方町文化人紹介)より
(3)上林 暁ー黒潮町下田の口出身 本名 徳弘磐城
高知県立第三中学(現中村高校熊本)第五高等学校を経て、東大英文科に
入学、昭和2年卒業後、「改造社」に入社、雑誌記者として働きながら、
同人文芸誌「風車」を創刊、上林 暁ノペンネームで小説を書き始める
昭和6年初めて,[新潮」に[欅(けやき)日記」を発表、同7年同誌に
発表した[薔薇盗人」(ばらとうにん)が好評、新進作家として、文檀に登場
文筆一本で暮らすけ罪を固め,改造社を辞めて、生活不安に
おち入り父の病気のせいもあって、一時帰郷
一年半ほど悶々の時を過ごした後
11年に上京、杉並に住居を構えた。
心身ともに衰えたこの時期、遺書のつもりで書き始めた、小説「安住の
家」[文芸]に発表されたのをきっかけに私小説の道が開け、文檀に再登場 以来暁は私小説ひとすじの道をp歩むこととなり、私小説作家の第一人者
と言われるようになり我が国文学史に大なる足跡を残した。
妻の死後一時スランプに悩んだが、「小さな蠣瀬川のほとり]「真少女」
(真乙女)など郷里の風物や人々を描き、「開運の願い](姫鏡台]など
身辺を取材した小説,「お竹さん]など、いわゆる”酒呑み”小説をつづ
けて発表に至る。
昭和27年1月かるい脳梗塞を患う。2か月五には執筆再開,「第20
創作集[春の坂]でその年の文部省芸術選奨を受賞「春の坂]は郷土もの
の一つ、浮ぶちの従姉をモデルに書いた好短編である。
37年、11月暁は脳出血の再発で半身不随で寝たきりの生活を余儀な
くされ、妹の睦子の健身的手助けにより、左手或いは,口頭で次々、短編
随筆・感想を書いた.口述によって書かれた「白い屋形船」創作集は、。
39年度に読売文学賞を受賞さらに、48年に発表の「ブロンズの首」は
第一回川端康成賞に選ばれた。
18年も病床生活送りながら、これだけの創作集(6冊)句集、ほかに
数冊の共著書を出版した。病床でこれだけ多くの作品を世に問う作家は、
世界にもその例ヲ見ないだろうと、暁のん文学執念を内外に知らしめた
ものであろう。
(以上の三篇は、大方ホウム・ページ大方の三文化人を参考に編集した、)