80歳の日々の暮らし

最近毎日充実した日々を過ごすように努力しています。

秋の草花乱舞

2009-09-13 15:54:46 | 日記
       

秋も深まり、庭の垣根にはびこる秋の草花,捨てるもほしいし,そのまま置
  くのもほかの植木に邪魔になる。まあ、一時の退屈しのぎに、育てるか?

    

  孫たちの贈り物、“金のなる木”生え茂る雑草に囲まれて、植える所なし、雑
 草引き抜いて、金のなる木を植えようかと、思うが、金もこれ以上できても仕様
 がないと、ここは,思案六法。雑草はやして、
畑が荒れるのも癪だし
、ここは、
 時がたたないと解決せず。
いずれ金のなる木に
、落ち着くことは
目に見えているようだ。

大方(黒潮)町の三文化人

2009-09-10 11:21:30 | 日記
 (1)山本倉丘ー黒潮町伊田出身。伊田小学校・入野高等小学卒業。

    絵が好きで、独学をつづけ、京都,山元春挙の弟子となり、本格的に日本
    画を学ぶ。その後京都市立絵画専門学校に入学、昭和8年同校卒業。

    昭和28年第九回日展で初めて、日展審査員となり、以来たびたび審査員
    を務め、33年日展が、社団法人になると、評議員となり、日展の発展に
    に寄与した。

    昭和36年に紺綬褒章。41年出品作「たそがれ」により、日本芸術院
    賞、受章。49年日展参与に推挙され、勲四等旭日章を受章、55年には
    日展参事に就任、名実ともに日本画壇の重鎮として、尊敬されるようにな
    る。

    倉丘の画風は、戦前は伝統的な花鳥画を厳しく追及、戦後は、油絵を中心
    に、西洋的画法を取り入れるようになってから、華麗な世界を展開、しか
    も毅然たる品格が漂っている作品として、内外にその名声をとどろかせた
    ものである。

昭和58年(1983年)百号前後の大作47点(時価二十億円)を高知
    県に寄贈、県立郷土文化会館で山本倉丘展画開催され、これが、高知県立
    美術館建設の動機となったと言われる。郷土画が生んだ、日本画の巨匠山    本倉丘(伝三郎)さんに敬意を表したい。




 (2)タカクラ・テルー明治24年(1891年)黒潮町浮鞭で生まれる。
    入野小学校、愛媛県宇和島中学校から、京都の第三高等学校より京大英文
    科に進み、大正5年に卒業、新村出教授のもとで、大正11年まで,京大
    の嘱託となりその間、に戯曲ン[砂丘」を雑紙[改造」に発表し、初めて文壇
    に出る。

大正11年、長野市に住まい上田市の「自由大学」で文学論
    を講義,感想文「われらいかに行くべきか」戯曲[長谷川一家」長編小
    説[坂]「高瀬川」などを出版。

    昭和7年、「都新聞」に連載の[狼」は検閲により中断され、昭和7年
    東京に住まい後、国民文学論iの提唱とともに、国語,国字合理化運動を
    を勢力的に行った。いわゆる[漢字不要論」であるj。

    タカクラ・テルというカタカナ書きの筆名を使い始めたのは、このころで
    ある。その後革命的ローマ字運動事件、ゾルゲ事件等に関連して再三検挙
    逮捕を繰り返し、日本画戦争に突き進む中で受難の生活を余儀なくされた    が、屈することなく、長編小説[大原幽学」や[箱根用水の話」など数々の評
    論、創作を発表した。




    終戦ごの昭和20年10月に釈放されるや、に日オン共産党に入党、21年
    長野県より日本共産党代議士として、衆議院議員に当選、25年6月、参
    議院議院当選の翌日マッカサー指令によりつい放となる。

    テルはその後、ソ連。中国その他の社会主義国を転々。34年帰国すると
    と直ちに政治活動.文筆活動を開始、35年8月から、東京に移住、小説
    「たまをあらそう」新曲浄瑠璃(佐倉義民伝]「漫才」「唐人お吉」その他[歌
    劇[山城国一揆」等数々の評論.屋感想文を発表おいても其の筆は少しも衰
    えなかったといわれる。

     社会主義思想と日本文化の結合を図ろうとし手、権力と争い,志操を貫
    き通したタカクラ。テルは、昭和61年4月2日すい臓がんのため、波乱
    に満ちた、94年の生涯をとじた、
      
     ひとすじの 道ほのかなり 冬木立  テル

    (大方町文化人紹介)より

(3)上林 暁ー黒潮町下田の口出身 本名 徳弘磐城

    高知県立第三中学(現中村高校熊本)第五高等学校を経て、東大英文科に
    入学、昭和2年卒業後、「改造社」に入社、雑誌記者として働きながら、
    同人文芸誌「風車」を創刊、上林 暁ノペンネームで小説を書き始める

     昭和6年初めて,[新潮」に[欅(けやき)日記」を発表、同7年同誌に
    発表した[薔薇盗人」(ばらとうにん)が好評、新進作家として、文檀に登場
        文筆一本で暮らすけ罪を固め,改造社を辞めて、生活不安に
 おち入り父の病気のせいもあって、一時帰郷
               一年半ほど悶々の時を過ごした後
                11年に上京、杉並に住居を構えた。



     心身ともに衰えたこの時期、遺書のつもりで書き始めた、小説「安住の
    家」[文芸]に発表されたのをきっかけに私小説の道が開け、文檀に再登場    以来暁は私小説ひとすじの道をp歩むこととなり、私小説作家の第一人者
    と言われるようになり我が国文学史に大なる足跡を残した。

     妻の死後一時スランプに悩んだが、「小さな蠣瀬川のほとり]「真少女」
    (真乙女)など郷里の風物や人々を描き、「開運の願い](姫鏡台]など
     身辺を取材した小説,「お竹さん]など、いわゆる”酒呑み”小説をつづ
     けて発表に至る。

昭和27年1月かるい脳梗塞を患う。2か月五には執筆再開,「第20
    創作集[春の坂]でその年の文部省芸術選奨を受賞「春の坂]は郷土もの
    の一つ、浮ぶちの従姉をモデルに書いた好短編である。

     37年、11月暁は脳出血の再発で半身不随で寝たきりの生活を余儀な
    くされ、妹の睦子の健身的手助けにより、左手或いは,口頭で次々、短編
    随筆・感想を書いた.口述によって書かれた「白い屋形船」創作集は、。
    39年度に読売文学賞を受賞さらに、48年に発表の「ブロンズの首」は
    第一回川端康成賞に選ばれた。

     18年も病床生活送りながら、これだけの創作集(6冊)句集、ほかに
    数冊の共著書を出版した。病床でこれだけ多くの作品を世に問う作家は、
    世界にもその例ヲ見ないだろうと、暁のん文学執念を内外に知らしめた
    ものであろう。



(以上の三篇は、大方ホウム・ページ大方の三文化人を参考に編集した、)