80歳の日々の暮らし

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尊良親王流人日記抄(2)

2009-09-18 19:25:31 | 日記
 大平弾正館に一時宮は逗留していたのであるが、その時有井庄司もまた弾正の館
を訪れ、心をこめて、大平とともに,忠誠を誓ったので、この草木の深い辺鄙の土地にこのような忠臣の二人までいることに、宮も心強く、また、その忠誠を深く御喜びになったことであろう。また,両人も日夜細心の注意を払って、宮の警護と
宮の慮愁を御慰めしたことであろう。

 北条方の追討はさらに厳しく、刺客も三人まで下り宮に危害を加えられる恐れも
ある、情勢の中で、弾正の館にいて、宮の御身辺にもし者危険が及ぶことになれば
と、苦慮の念に駆られ、大平と有井は計って、宮を奉じて,弾正の館を出、北東に一里もある,みな川の王野山にお遷しすることになった。この地は、幡東一の高山
仏が森の東山腹一帯をいうのであって、海岸よりは三里あまり、草気生い茂った、
深山幽谷であり、昼でもなお暗く,苔むす磐に、落ち葉は深く谷を埋め、雲は峰に
かかり、霧もまた山あいを覆う山間の僻地である,ここにある仮御所で過ごされた宮の毎日は言いようもなく淋しいものであったろう。この模様を宮は
  (仏が森)                 
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   谷かげに積もる木の葉のそれならで
          我が身朽ちぬとなげく頃かな(新葉和歌集) と詠まれた

 この王野では次のような伝説も残っている。

 宮に供御(くご)差し上げるため、毎日庄司のもとから、六里もあるこの僻地に食事を運んで通った 庄司の姪にあたる千代という少女があった、かよわい少女の
身でありながら、毎夜人目を忍んで庄司の館を出て、一番鶏がなくまでに宮の仮御所について、一日の宮の食事をささげて、また庄司の館まで帰っていたそうである
 彼女はいつも時を知るために懐に鶏を抱いて往復していたそうである。ところが
ある代いつものように館は出たが、まだ宮の仮御所につくまでに懐の鶏が時を告げたので、千代葉自分の任務を果たせない自責にかわれて,郷の谷の淵に身を投げて
悲壮な最期を遂げたということだ。

 宮もこの千代のことを聞かれて深く御心痛になりこの地に死体を埋めて、毎夜
其の墓前に躓いて其の冥福を祈ったという。今王野宮跡東南2・3メートルのと
ころに“千代が淵”の名をとどめて残っている。               
(ふるさとセンター千代が淵壁画、)
このように、不自由な日常の生活は、明け暮れ野猿のなき声と松風の凄ましい
音と、訪れる人も彼ら忠臣二人を除いて誰もない淋しさ!毎晩の夢にも、都の生活
が忍ばれて、北条野非道を憤慨なされて、涙の乾く暇もない状態であった。

 この親王の王野野御生活を見かねた、二人の忠臣は、いかに恐れ多いことかと苦慮されて,三度目の還地有井野庄内米原へとお還しすることとなったのである。