80歳の日々の暮らし

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尊良親王流人日記(4)

2009-09-26 11:15:51 | 日記
 有井・大平両忠臣はこうした宮の故郷の京の都を恋しがる、悲嘆の念をみるにつけ、何とかして、宮の胸中の悩みを和らげ、お慰めする方法は無いものか・・と日
夜苦心していたのであるが、宮の歌、
   めぐりあいて同じ雲井にながめばや
             あかで別れし九重の月(新葉和歌集)

    わが中は八重立つ雲に隔て来て
             通う心や道まようらん(新葉和歌集)の二首により

 これは宮が都に残しおかれた、ご寵愛深き,”典侍の君”をしのばれてのこととお察し申し上げ、宮にお赦し得て,随身 秦武文をお迎えの使者として,京へ差し向かわしめたのである。
京についた武文は、難儀しながら,御息所,“典侍の君”の在所を訪ね当て、宮の元えお迎えの由申し上げると、御息所も大変2お悦びになり、さっそく、土佐の
畑へ出発の段取りが決まったのである。 
 兵庫の福原まで来ると、明日は宮のおられる土佐の畑に船出できると、御息所も大変喜んでおられた其の夜お宿所に大勢の盗人が入り,火を放ち、数限りない狼藉
を働くに至った、武文は、ただ一人で大勢の賊と戦い、このままでは、と思い、御
息所を背負い、その場を逃れ、海岸に出て、{船は無いか?と大声で呼ぶと、一艙の船四里返事があったので、その船に御息所を託し、急いで、宿に引き返したところ、宿はすでに焼けはてて、賊もひきあげていたので、武文再び元の海岸に帰り、
御息所を預けた船を捜したが其の船は見当たらず。その船こそ、海賊の首領松浦五郎の所有する船で、もはや元の場所には見当たらず、早くも帆をあげて、遠く沖合に船出した所であった、
 武文大いに怒り、「その船戻せ」と叫んだのであるが、船からは嘲笑の声と罵り
の声が響くばかり、船は次第に遠ざ駆るのみであった。五郎はまた御息所のあでやかな姿見て、わがものにしようとした,よこしまな心が働いて、そのまま連れ去ったものと思われる、
 武文は小船に飛び乗り、五郎の船を追いかけたのであるが、しかし、順風を受けた、帆かけ大船、こちらは櫓漕ぎの小舟,刻々と距離は遠のいていくばかり、武文
は残念のやるかたない思いで、今はこれまでと悲壮な決心して,沖の松浦の船をはったと睨みつけ“今に見よわれ龍神と化して、この恨みを晴らさん”と叫びつつ、
腹かき斬って、海の藻屑となったのである。

松浦の船は順風に乗って、阿波の鳴門の早潮に乗るころ、にわかに風向き変わり
潮は渦巻き、風は収まらず、陸につけることもかなわず、三日三晩渦巻く潮に閉じ込められ、身動きならぬ状態が続いた、船人はこれは財宝ほしさに龍神が暴れていると思い、あらゆる弓矢・刀・鎧・財宝等海に投げ入れてもおさまらず、さては
御息所のあでやかな衣装に見入ったのであろうかと、其のお衣と赤い袴をはぎ取りこれも海中に投げ込んだ、にもかかわらず波風おさまる気配なし。 五郎もまた
貴婦人を奪い取った為に龍神の怒りを買ったのではないかと、後ろめたさに、おののいていたのである。 そこで御息所を龍神に与えて鎮めようと図り、彼女を海に投げ込もうとしたのである。この時船に便乗した一人の僧の進言により、”そのような罪深いことはやめよ、この貴人を一人小舟に乗せてこの荒海に浮かばせれば、龍神もその怒りを和らげて、この海も静かになるだろう、”ということだった
 五郎もそれにうなづき、小舟に御息所と一人水主を乗せて荒れ狂ううず潮の真ん中に放ったのである。
 すると不思議にも、今まで荒れ狂った潮もおさまり、風の向きも変わり、五郎の船は西に流され、行く末知らず遠くに去り、御息所の船は、東に流れて、淡路の武
島に流され,無事命永らえたのである。誠に奇跡というに値する,数寄物語ではある。

南北朝時代、都風俗絵巻風景(私本太平記




















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