たいほう2

いろいろな案内の場

嘆きのライオン (ジュネーブ便り1)

2023-02-05 17:09:15 | 日記
 スイスは美しい自然があり、山岳地系を利用した酪農が盛んです。また永世中立国として有名です。ジュネーブに勤務し、少しずつスイスのことが分かってきました。その第一報をお送りします。
 その昔、スイスのアルプス地域はローマ帝国に支配されていました。そのためスイス各地には、コロッセウムや神殿など、多くのローマの遺跡が残されています。5世紀にローマ帝国が衰退してスイスから撤退していくと、ドイツ語、フランス語、ロマンシュ語、イタリア語を話す民族がスイスに流入してきました。
 スイスは各州(カントン)の連合体からなる連邦共和国であります。その原型がつくられたのは、今から700年以上前の13世紀末、3つの州の代表者たちが集まって対ハプスブルク家自治独立を維持するため、農民軍を結成し、永久盟約を結んだことに遡ります。
 このスイス原初同盟がハプスブルク家を破り独立を果たすと、スイス歩兵の精強さがヨーロッパで認められるようになりました。国土の大半が山地で農作物があまりとれず、めぼしい産業が無かったスイスにおいて、傭兵稼業は家族を養うためのいわば出稼ぎになったわけです。
 16世紀、スイスはフランスに敗れ、それ以来スイス傭兵はフランスに忠誠を誓い戦いました。ルチェルンにある「嘆きのライオン」は、ルイ16世とその家族を守って死んでいったスイス傭兵達の悲劇をテーマに扱った記念碑であります。

スイス、ルチェルンの「嘆きのライオン」

 スイス傭兵は、家族を養うためでしたが、結果的にスイスに傭兵産業を興しました。この結果、現在スイスは国民皆兵国家として独自の比類なき軍事力を有するようになり、永世中立国を堅持してきたと言えます。
 永世中立国とは、将来もし他国間で戦争が起こってもその戦争の圏外に立つことを意味します。軍事的な同盟国がないため、他国からの軍事的脅威に遭えば自国のみで解決しなければなりません。日本のようないわゆる平和主義や非暴力非武装とはまったく概念が異なります。スイスのように強大な軍事力を保有する国だからこそ可能なわけです。
 国家安全保障の考え方は、日本とスイスで大きく異なることが分かります。

2011年10月26日に書きました。


地球物理学者が語る手賀沼物語その4 ―手賀沼に大噴水を―

2021-12-02 10:56:26 | 日記
高級住宅街を守る堤防計画
 手賀川から利根川へと川の水は流れ出すが、大雨が降って利根川の水位が上がってくると、利根川から手賀川への逆流が起きる。実際、手賀沼は頻繁に洪水に見舞われた。1938年と1941年の大洪水では手賀沼周辺の農家は大変苦しめられた。現在は北千葉導水路が完成し、水の流れをかなり良くコントロールすることができるようになった。しかしそれでも大雨となれば洪水の危険がある。
 手賀大橋の北側は高級住宅街となっている。この地域は手賀沼の湖面と地盤高の差がそれほど大きくなく、洪水の危険がある。そこで我孫子市は堤防を作る計画である。

写真 手賀沼北側湖畔沿いの高級住宅街。洪水の危険性があるため、堤防を作る計画である。

大噴水を造ろう
 私は2011年―2012年にジュネーブに住んでいた。ジュネーブはレマン湖を抱えている。レマン湖には140メートルの高さに達する大噴水があり、観光客を楽しませている。
 私が我孫子に戻り、手賀沼を見た時、レマン湖によく似ていると思った。しかしこれを人に言うと笑われてしまう。レマン湖は氷河が創った湖底が深いきれいな水の湖であり、周りの景観もヨーロッパの家並みであるから、そう感じるのもいたしかたない。しかしよく似ている点もある。それは湖が細長いことであり、湖畔には高級住宅やよく整備された畑が多いことである。ここで手賀沼に大噴水があったら、かなりレマン湖に似てくるのではないか。そうなればたくさんの観光客がやってくるのではないか。
 私はこの妄想をいだき、絵を描いてみた。

絵 手賀沼にジュネーブの大噴水がある光景

 この絵は、手賀沼の北岸にある水の館から手賀大橋方面の光景である。水の館の最上階にはプラネタリウムがあるが、そこから見たところである。右奥は写真の我孫子の高級住宅街で、手賀大橋を渡った先は沼南町。140メートルのジュネーブの大噴水を入れてみた。手賀大橋は長さ415メートルの橋であるので、大噴水はちょっと大きめになってしまっている感じではある。大噴水を造って、さらに多くの人が手賀沼に来てほしいと思う。

(つづく)


地球物理学者が語る手賀沼物語その3 ―日本一汚い沼から白鳥の沼へ―

2021-05-03 18:02:45 | 日記
なぜ手賀沼は日本一汚い湖になったか
 湖と沼の違いは、中央の最も深い湖底に植物が生えているかどうかである。湖は湖底が深いため、日光が十分届かず、植物が生えづらい。それに比べ沼の場合は湖底が浅く、植物が生えている。つまり沼は湖に比べ浅いのである。
 6千年前頃の縄文時代、海面が最も上昇した時、低地の手賀沼は海(香取の海)で、周辺の高台は島であった。その後徐々に海面が下がり海は後退し、手賀沼は海から川へ、さらに沼となっていった。
 現在の手賀沼はほぼ東西に伸びる細長い浅い湖、つまり沼である。西から大堀川、南から大津川が流れ込み、手賀沼から東に伸びる手賀川を経て、利根川に流れ出る。
 1950年代まで手賀沼の水は底が透き通って見えるほど澄んでいて、夏には子ども達が泳いで遊び、漁師は漁に出るとき沼の水をすくって飲んだという。しかし、1960年頃から手賀沼流域で住宅化が急速に進むと、大量の生活排水が沼に流れ込み水質を悪化させた。
 こうして手賀沼は、環境庁(現在は省)の調査が始まった1974年から2000年まで、27年間日本一汚濁した湖沼という不名誉な記録を続けた。

北千葉導水路による水質改善
 北千葉導水路は2000年に完成した。これ以降水質は改善され、日本一汚濁した湖沼の汚名を払拭した。北千葉導水路とは何なのであろうか。これは東の利根川、手賀沼、西の江戸川を結ぶ地下水路である。
 地上の水は大堀川、手賀沼、手賀川、利根川へと流れる。北千葉導水路はその逆で、利根川、手賀沼、大堀川上流と流れ、さらに西に南北に伸び、東京湾に注ぐ江戸川へと流れる。逆流させるため、手賀川と利根川の合流点や手賀沼西南にある北千葉導水ビジターセンターなどに設置された揚水機で水頭を上げている。水路は大堀川を横切るとき、いったん大堀川の下に流れ落ち、川の下を横切ると再び上昇するといった逆サイホンの原理を利用している。
 この流れによって、利根川が氾濫した時の手賀沼への逆流を防ぎ、さらに利根川の水を手賀沼に流し込むことによって水の循環を良くして水質を改善させるのである。

写真1 手賀沼西南にある北千葉導水ビジターセンター横の第2機場。左は手賀沼。右は利根川から地下水路を通って送られてきた水を溜め込む着水井。中央の建物は着水井から溢れだした水を手賀沼に流す注水樋管。

 手賀沼を一周回ることができる歩行者、自転車専用道路が湖畔沿いを走る。毎年この専用導路を利用して手賀沼ハーフマラソンが開催されている。地下水路は手賀沼南側の専用道路の下に敷設されている。

写真2 手賀沼と南側湖畔沿いの歩行者・自転車専用道路。地下水路はこの下に敷設されている。

水質改善によって生物多様性が戻る
 手賀沼にはかつて多種多様な生物が暮らしていたが、水質の悪化でかなり種類は少なくなってしまった。その後の水質の改善に伴って少しずつ生物が復活している。魚貝類及び水生動物、水生植物の代表例としてコイ、ウシガエル、アメリカザリガニ、ドブガイ、ヨシが挙げられる。水鳥の種類も多く、代表例としてコサギ、カルガモ、ユリカモメ、コブハクチョウが挙げられる。
 コブハクチョウは雑食性で、1年中手賀沼に居座り、主に水生の植物を食べて暮らしている。最近は年々増え続け、雑食であるがゆえ稲を食い荒らすなど被害が拡大し、厄介者となっている。

写真2 菜の花を食べる白鳥。

(つづく)

地球物理学者が語る手賀沼物語その2 ―香取の海から住宅地へ―

2021-04-01 13:18:17 | 日記
手賀沼の周りは古墳だらけ
 6千年前頃の縄文時代、海面が最も上昇した時、低地の手賀沼は海で、周辺の高台は島となった。その後徐々に海面が下がり海は後退し、手賀沼は海から川へ、さらに沼となっていった。
 手賀沼の周りには3-7世紀に筑造されたと考えられる古墳がたくさん見つかっている。この頃、手賀沼は霞ヶ浦を通して外海とつながる内海の一部であった。この内海は香取の海(かとりのうみ)と呼ばれている。香取の海は平安中期まで、陸奥(東北の一部)と外海を結ぶ重要な水上交通路で、交易が盛んであった。手賀沼周辺の台地上には多くの集落が展開された。さらにその地域を治める豪族も出現した。古墳づくりは大和政権の文化である。大和政権はしだいにその勢力範囲を日本中に拡げてゆくが、各地の豪族と同盟を結び、統合してゆく。手賀沼周辺には香取の海を通り、古墳文化が伝わったと考えられる。

手賀沼周辺の谷津
 平安時代が終わった頃の手賀沼周辺は、丘陵と谷(谷津)が連なり、その間は急な崖となる地形を呈していた。この崖地形を「はけ」と呼ばれている。はけの下の道は「はけの道」である。手賀沼の周りには今もはけの道があるが、ここが当時の湖岸線であった。はけの道では丘陵で溜まった地下水が湧水として湧き出る。はけの湧水は生活用水、農業用水となる。湧水を利用して丘陵地に囲まれた谷での田んぼの開発も進んでいった。

写真1 手賀沼北東にある「はけ」、湧水池と田んぼ。右奥に見える住宅は湖北の高級住宅街。湧水池には昔ホタルがいたそうである。

戦国時代には手賀沼周辺は水上交通の要衝の場として、また農業地として発展したと考えられ、根土城や松ヶ崎城など、豪族によって城も建てられている。

手賀沼は江戸時代の観光スポット
 縄文時代、海面が上昇し香取の海が現れたが、その後徐々に下降し、海岸線は後退していった。一つの大きな海である香取の海は小さくなり、今の霞ヶ浦となった。またいくつかの湖沼が取り残された。手賀沼はその一つである。江戸時代になると、周囲34km、面積10平方キロメートルの閉じられた沼となり、わずかに布佐などにあった小さな水路を通じて利根川に繋がっているのみとなった。
 江戸時代の手賀沼周辺ではウナギ、魚、鴨、鶏卵、野菜などが生産された。これらは江戸に運ばれ、江戸人の台所を潤した。また利根川沿いの木下、布佐は銚子、九十九里からの魚を運ぶ、鮮魚(なま)街道の荷揚場でもあった。木下から船に乗り、香取、鹿島の三社参りや潮来、銚子まで訪れる行楽が人気であった。手賀沼周辺は、成田山と共に最もポピュラーな観光スポットだった。
 手賀沼の干拓は江戸時代に開始された。昭和になると干拓事業が本格化し、手賀沼の東半部分が田んぼになって消滅するなど形も大きく変わった。面積は3.7平方キロメートルまで縮小し、江戸時代と比較するとおよそ3分の1になった。その間に周辺の宅地化が進展し、生活排水の大量流入によって沼の水質は急激に悪化することになった。

写真2 手賀沼、手賀大橋と新興住宅街。手賀沼湖畔は干拓で田んぼになり、さらに一部は住宅化が進展した。湖岸線は徐々に後退し、手賀沼は小さくなっていった。

(つづく)


地球物理学者が語る手賀沼物語その1 -手賀沼ができるまで-

2021-03-03 09:31:52 | 日記
私は地球物理学者です。地球物理の視点で語ります。

手賀沼は海だった
 海面はさまざまな地球規模の変動で上下する。その大きな要素の一つは、地球温暖化に伴い南極などにある氷河が溶け出し、陸にあった氷が海に流れ、海の水の量が増加することである。約1万年前までは氷河期であったが、その後気温が上昇し、間氷期を迎えた。その気温上昇に伴って海面が上昇した。その上昇量は100メートルとも言われている。
 2万年前頃の氷河期では、陸上にたくさんの氷河が積もり現在よりも海面が著しく低下していた。また富士山や浅間山などの火山が活発に活動し、大量の火山灰を噴出していた。この火山灰は関東平野などに降り積もった。これが赤土と呼ばれる関東ローム層である。およそ1万年前以降、海面の上昇に伴って、関東ローム層が高く積もった場所が陸として残り、低い場所は海となっていった。海面が最も上昇した時期はおよそ5千年前の縄文時代であった。この時期の関東平野の多くは海となり、現在の千葉県は海に囲まれた島になっていたと考えられる。海になっていた低地には川から土砂が流れ、砂と泥の堆積層が作られていった。

写真1:手賀沼の向こうに見えるダイヤモンド富士。富士山から噴出した火山灰で関東ローム層ができた。縄文時代、手賀沼は関東ローム層台地の縁辺に位置した低地だったので、海であった。

 手賀沼があった所は5千年前の縄文時代では低地で海であった。手賀沼周辺は坂が多い。それも急坂である。これは関東ローム層が高く積もった台地の縁辺部に位置し、高台と低地が入り組んでいたことの名残と考えられる。

写真2:高台から眺めた手賀沼と坂。高台は関東ローム層台地。手賀沼は低地で、川から運ばれた砂や泥が堆積したところ。手賀沼と高台を繋ぐたくさんの階段がある。

海であった手賀沼がなぜ沼になったか
 縄文時代、海面の高さは現在よりも4~6mほど高くなっていた。それがなぜ海面が低下したか。約6千年前頃の縄文時代では地球の気候が暖かかった時期で、現在よりも平均で約2度ほど気温が高かったといわれている。そのため陸上の氷河の量も現在より少なく、海に蓄積されていた。それが気温が下がるにつれ氷河の量が増え、海の中の水が減り、海面が下降したと考えられる。

写真3:マッターホルンと氷河。温暖化に伴い氷河は解け、海に流れ出し、海面を上昇させる。

 つまり、1万年ほど前に氷河期が終わり間氷期になると海面は100メートル程度上昇し、約6千年前の縄文時代にはピークに達したが、その後数メートルほど海面が下がった。縄文時代の海面のピークを縄文海進と呼ばれている。
 縄文海進以降、海面が下降するに従って海であった低地は徐々に陸になった。その低地には川から運ばれた砂や泥が厚く堆積し、広大な平野が出来上がった。この平野の中にところどころ川がせき止められ、水がたまる沼や湖が出現した。手賀沼はこのようにしてできた沼である。

(つづく)