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いろいろな案内の場

スイスの物価はなぜ高い(ジュネーブ便り3)

2023-02-17 18:21:51 | 日記
スイスに来て、まず驚いたことは物価がすごく高いことです。ホテルは、日本のビジネスホテル程度の広さでありながら、150フラン(1フラン約85円)以上です。昼食では少なくとも15フランは払わなくてはなりません。庶民が利用するスーパーで扱う商品のほとんどが、日本のデパートの地下にあるマーケットより高いです。なぜこんなに高いのでしょうか。それは人件費が高いことだと指摘されていますが、むしろスイス国民が国の安全保障や環境保護にお金を払うことを厭わないからと思います。

スイスは、第1次世界大戦後、食料自給率を上げるため、輸入制限、輸出補助金などの保護政策をとったことは「ジュネーブ便り2」で述べました。それはかなり成功したのですが、しかし1990年代になると、周辺国からスイスの保護政策に対して反発がおき、これらの圧力に妥協せざるを得なくなりました。

そこで1996年には、新しい農業政策への移行のため国民投票が行われました。国民の意思で、保護政策を見直し、さらに環境保全にも重点を置くことになりました。新しい農業政策の柱は、(1)食料の供給、(2)自然生活基盤の維持、(3)農村の景観保全、(4)地域分散居住、です。つまりスイス人は、価格を下げることよりも、安全性、環境保護を優先したのです。将来のための政策ともいえます。

ジュネーブは、バス、トロリーバス、電気で動くトラム、列車といった公共交通が縦横無尽に走り、自動車が無くても暮らせます。バスの専用道路があり、渋滞しません。また改札が無いので、乗り降りがスムーズで、その分早く移動できます。観光客はホテルで配られる無料券で、滞在期間中好きなだけ公共交通を利用することができます。自転車専用道路が整備され、自転車通勤はごく一般的です。これらの政策は自動車を少なくし、環境を守り、観光産業を育てようというものです。



マッターホルンの麓の町ツェルマット(写真)では、環境保護のため、自治体の条例により自動車禁止です。市街地を走るのは電気自動車と観光用の馬車のみ。電気自動車は、エネルギー収支比が低く、エネルギーの観点からは得策でなく、また価格も高いものです。しかし電気自動車の生産地は別なので、ツェルマットへの排気ガスの影響はほとんど無くなります。つまり高くても環境保護を選んだのです。

将来のためにお金を使うスイス人。安い中国産に飛びつく日本人。お金でなんでも買えるかもしれませんが、その使い方によって買えるものが違ってくるのだと思います。スイス人の生き方は、モノを作ると同時に、後始末もするというもので、価格は上がりますが、将来も買えます。それに対し消費至上主義では、モノを安く大量に作ることに専念し、後始末は価格上昇につながるのでほどほどにということで、今は良いのですが、将来は「ケセラセラ」、「なるようになれ」、です。

2011年12月10日に書きました。

スイスのパンがまずいのはなぜ? (ジュネーブ便り2)

2023-02-05 17:19:12 | 日記


 スイスの物価は高いので、よく安いフランスで買い物をします。ジュネーブはフランス国境までトラムとかバスで20-30分と近いので、国境を渡ったフランス側にある市場へ出かけます。確かにフランス領のパン屋さんで買うと、クロワッサン、バゲットなど、スイスのより格段に美味しいです。この理由は、スイスの国家安全保障政策と関係がありました。
 スイスは永世中立国で、軍事的な同盟国がないため、他国からの軍事的脅威に遭えば自国のみで解決しなければならないことは「ジュネーブ便り1」で述べました。そこで危機に備え、食料の備蓄を熱心に行っています。また核シェルターが、住宅やオフィスビルに備え付けられているそうです。
 スイスは、第1次世界大戦以前、穀物は自給できず、輸入に依存していました。第1次大戦が終わると、穀物は不足し、配給制になりました。国家安全保障の危機を感じ、これを契機に酪農に偏っていたスイスの農業を穀物、野菜の増産へと変換していきました。
 具体的な政策は、農用地の義務的耕作、買取保証、価格助成、輸入制限、輸出補助金などです。これによって高収入が保証され、小規模経営が存続し、国土の分散的居住が維持されました。この結果自給率は上昇し、例えばパン用小麦は1920年代では25%だったのが、1980年代半ばにはほぼ自給できるようになりました。しかしこれはパン用小麦に限り、全体の食料自給率は上昇したのですが、それでも50-60%です。
 低い自給率の対策として、1982年「国家経済物資供給に関する連邦法」が公布され、食料の備蓄政策がはじまりました。戦争・自然災害・原発事故・化学事故・経済危機等の緊急事態を想定して、国民一人当たりの食料供給目標を、2,300kcal/日(摂取ベース) とし、パン用小麦・米・砂糖・食用油・コーヒー・お茶・飼料・肥料・種子等を、全国民の平均6か月分備蓄するというものです。連邦政府と民間企業による備蓄だけでなく、家庭でも、小麦、パスタ、砂糖、食用油等の基本的な食料品を、2カ月分備蓄することを奨励しているそうです。
 政府が買い上げた備蓄品は、その後、流通業者に安く払い下げられますが、巷では、古くなった備蓄放出品の小麦粉で作るから、スイスのパンはまずいのだといわれています。作り方の問題ではなく、結局原料の品質の違いが理由だったようです。
 危機の時、まずいパンでも耐えられるスイス人。低い食料自給率でも平気なグルメ志向の日本人とは大違いですね。しかし、3.11の時、多くの人が買いだめをしました。この行為については避難囂々でした。スイスに見習えば、起こってからでなく、事前に危機に備え2か月分の食料を恒久的に備蓄する、ということでしょうか。

2011年11月30日に書きました。

嘆きのライオン (ジュネーブ便り1)

2023-02-05 17:09:15 | 日記
 スイスは美しい自然があり、山岳地系を利用した酪農が盛んです。また永世中立国として有名です。ジュネーブに勤務し、少しずつスイスのことが分かってきました。その第一報をお送りします。
 その昔、スイスのアルプス地域はローマ帝国に支配されていました。そのためスイス各地には、コロッセウムや神殿など、多くのローマの遺跡が残されています。5世紀にローマ帝国が衰退してスイスから撤退していくと、ドイツ語、フランス語、ロマンシュ語、イタリア語を話す民族がスイスに流入してきました。
 スイスは各州(カントン)の連合体からなる連邦共和国であります。その原型がつくられたのは、今から700年以上前の13世紀末、3つの州の代表者たちが集まって対ハプスブルク家自治独立を維持するため、農民軍を結成し、永久盟約を結んだことに遡ります。
 このスイス原初同盟がハプスブルク家を破り独立を果たすと、スイス歩兵の精強さがヨーロッパで認められるようになりました。国土の大半が山地で農作物があまりとれず、めぼしい産業が無かったスイスにおいて、傭兵稼業は家族を養うためのいわば出稼ぎになったわけです。
 16世紀、スイスはフランスに敗れ、それ以来スイス傭兵はフランスに忠誠を誓い戦いました。ルチェルンにある「嘆きのライオン」は、ルイ16世とその家族を守って死んでいったスイス傭兵達の悲劇をテーマに扱った記念碑であります。

スイス、ルチェルンの「嘆きのライオン」

 スイス傭兵は、家族を養うためでしたが、結果的にスイスに傭兵産業を興しました。この結果、現在スイスは国民皆兵国家として独自の比類なき軍事力を有するようになり、永世中立国を堅持してきたと言えます。
 永世中立国とは、将来もし他国間で戦争が起こってもその戦争の圏外に立つことを意味します。軍事的な同盟国がないため、他国からの軍事的脅威に遭えば自国のみで解決しなければなりません。日本のようないわゆる平和主義や非暴力非武装とはまったく概念が異なります。スイスのように強大な軍事力を保有する国だからこそ可能なわけです。
 国家安全保障の考え方は、日本とスイスで大きく異なることが分かります。

2011年10月26日に書きました。


非線形な世界 その4-サウジアラビアのドライブ―

2022-09-20 18:11:41 | ものがたり
 ダンマームで一泊するので、荷物をまとめ、ホテルをチェックアウトした。荷物を車の後ろに乗せようとしたら、大量のペットボトルがあった。これから砂漠の中を数時間かけて横切るための準備だと分かった。ホテルに向かう途中、サルタンさんは道路で清掃の仕事をしている人を呼び止め、いつものようにテイクアウトした朝食の残りを渡した。乞食に飯を与えたと勘違いしてしまうかもしれない。しかし清掃の人は乞食ではない。つまりこれはイスラムの教えに従った施し(サガタ)なのである。
 ダンマームはペルシャ湾沿いの町である。鉄道が無いので車移動である。リヤドからダンマームへの道はほぼ直線、砂漠の中を400km突っ走る。
リヤドを出てすぐにドライブスルーのコーヒーショップに立ち寄った。何がほしいか聞くのでコーヒーを頼んだ。そしてコーヒーの味を訊く。まあまあだね、というと、また別のドライブスルーに立ち寄り、コーヒーを買う。また私に味を訊く。正直、味は変わらない。しかしそれを言うとエンドレスになりそうなので、こちらの方が美味しいと言った。サルタンさんは満足そうに車を走らせた。
 途中ドライブスルーは何か所もあった。車社会であることと相まって、外は暑く砂っぽいので、車の中で飲食をすることが習慣になったのだろう。
 砂漠の道路は片側3車線、分離帯は広く、金網で仕切られている。周りは茶褐色の砂漠である。道はほぼ真っすぐ。車はそれほど多くない。サルタンさんは昨晩あまり寝ていないはずで、長距離ドライブは大丈夫かと心配になるが、かなりのスピードで飛ばす。メータを見ると、140キロぐらいである。ここで死ぬかもしれないと覚悟を決め、手にもっていたペットボトルの水を飲んだ。
 ところがである、この車を追い越していく車がある。運転席を見ると黒頭巾を被った女性である。サウジアラビアは女性の自動車運転が禁じられている世界で唯一の国であった。ところが2017年に運転が解禁されることになった。あの女性ドライバーは初心者のスピード狂なのだろう、近づかない方がよさそうだ。しかしサルタンさんは嬉しそうにその車を追走する。
 すると突然ブレーキを踏む。私は前のめりになった。速度取り締まり装置があったのだ。サルタンさんはこの道を何度も往復し、熟知しているのだと悟った。
 ダンマームまで砂漠以外、人が住む町はなかった。しかしこの道の下には世界を支える世界有数の油田がある。3億年前テチス海が現れ、そこに有機物が堆積し醸成されて石油が生まれた。地球はなんと偉大なことか。隣のサルタンさんを見ると、地球の恩恵にあずかる無邪気なおやじに見えてきた。

リヤドからダンマームへの道(Google Mapによる)。破線で囲まれた所は世界最大のガワール油田。

 道路沿いにところどころサボテンがある。植物が生えている地下には少しは水気があるのだ。そのあたりには野生の動物もいる。するとラクダがいた。

高速道路と野生のラクダ(矢印)。

 途中、トイレ休憩、昼食、サルタンさんのお祈りで3回休憩を取り、5時間かけて午後3時にダンマームに着いた。

(つづく)


非線形な世界 その3-サウジアラビアの朝ごはん―

2022-08-07 15:38:18 | ものがたり
 リヤド飛行場を出てホテルに着いたのは午前4時を過ぎていた。日本はすでに午前10時過ぎである。広い部屋に大きなベッドが一つ。サルタンさんはこの殺風景な部屋に私を置いて自宅へ帰っていった。一人になった私はやっとの思いでシャワーを浴び、荷物を整理する元気もなくベッドの横になった。しかし飛行場での数々の出来事が頭によみがえり、寝ようにも寝られない。ここで酒でも飲んで寝たいところであるが、イスラム社会には酒は一滴もない。仕方なく冷蔵庫にあったペットボトルの水を飲み、また横になる。
 ベッドでうとうとしていると8時頃に笑みを浮かべたサルタンさんが現れた。青いローブを着、白地に赤の柄が入った頭巾をかぶっている。朝ごはんを食べようというのである。誘われるがまま外に出ると快晴である。気温は高いのだが、朝の柔らかい日であり、乾燥しているので快適である。町全体がベージュ色で埃っぽい。
 サルタンさんの車に乗り10分、レストランに到着した。全面ガラス張りのお洒落な建物である。店の名はアラビア語で書いてあるので分からない。

            リヤドのお洒落なレストラン。

 朝9時であるが、レストランは混雑していた。案内されるまで外でかなり待たされた。サウジアラビアでは朝食を9時-10時に摂るらしい。やっと案内され中に入ると、黒いローブ、黒い頭巾の、年齢は20代、30代あたりの女性で混みあっていた。女子会なのだろうか、話すのに必死の様子である。亭主の悪口でも言っているのだろう。
 サウジアラビアはイスラム教の発祥地であり、イスラム諸国の中でも戒律順守の風潮が強い。女性はイスラム教の経典コーランにおける神の教えに従い、ヒジャーブと呼ばれるスカーフを着けなければならない。数年前に服装の規制は撤廃されたが、ここの女性は全員黒い衣装を着ている。
 テーブルに座ると、茶色の制服を着た若いウェイターがやって来て、まずお茶を出してくれた。サルタンさんはにこりともせず、むしろ怒っているのかのような顔で長々とオーダーをする。私には絶対にしない顔である。ウェイターは中腰になりながらメモを取っている。サルタンさんはきっと上層階級で、二人の間には階層の違いがあるのだろうと感じた。ウェイターが下がるとサルタンさんはガラッと態度を変え、満面の笑みを浮かべて私に向き直る。
 しばらくしてタミーズと呼ばれるパン、野菜料理、肉料理が次々と運ばれてきた。野菜は国内でたくさん生産されているという。砂漠で育ったのだろうか、味が濃く美味しい。肉料理も美味しい。空港での私に対する扱いには憤慨したが、この食事で帳消しにしよう。
 サルタンさんは以前会った時と同様饒舌である。料理、家族、取り留めもなくしゃべる。しかし仕事のことは話さない。私は仕事のこと抜きで食事ができたことに満足した。

            レストランでの朝食。

 二人では食べきれなかった。サルタンさんはウェイターに残った料理のテイクアウトを頼み、クレジットカードを渡した。そしてウェイターから私に向き直って言う。これからダンマームへ行く、と。ダンマーム?初めて聞く名である。行く目的も聞かされていない。リヤドでの緑化計画の話はどうなっているのか。しかしサルタンさんに従うしか選択肢はなかった。自分はサルタンさんの人身御供になっていることに気が付いた。社会階層でいうと研究者は中産階級である。多分サルタンさんは意識もせず、私を下の階級の人間と見ているのだろう。

(つづく)