小沢VS米大使 政権担当能力に疑問符がついた(8月9日付・読売社説)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070808ig91.htm
これでは民主党に政権担当能力はない、と判断されても仕方がないだろう。
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「政権担当能力」なる得体の知れない言葉をよく目にする。
一体何を意味するものなのだろうか?そして、現政府には備わっているものなのだろうか?常に疑問に思っていた。
どうやら、読売新聞が定義する「政権担当能力」とは、「対米盲従能力」のことのようだ。
「アメリカ覇権の完成」「アメリカ一極の新秩序」などといわれた時期からは隔世の感がある。
「ネオコン」と称されたアメリカの要人(ラムズフェルドはネオコンに括られているのには違和感がある)は政府の表舞台から去り、国際機関に転出したボルトン・ウルフォウィッツも、それぞれ失脚した。
やはり、アメリカに世界帝国を築くだけの力はなかったようだ。
「アフガン戦争」から「イラク戦争」に至る一連の動きは、新世界秩序の始まりと称された時期があったが、これは恒常的な秩序の形成ではなく、あくまでイレギュラーなものであったと解することができるだろう。
国連無用論が飛び交っていたが、結局、アフガンにしろイラクにしろ、国連の場に戻って新決議がなされている。
国連無用論は影を潜め、国連による権威付けを争う様相を呈している。
イラン問題にしろ、北朝鮮核実験にしろ、国連にもテーブルを設けている。
そして、現実に、国連による北朝鮮への制裁が発動されている。
国連が無用で、国際安全保障をアメリカに頼るしかないという発想自体が、どうやら間違いだったようである。
もちろん、日本の自衛のため、および日本にとって脅威となる極東有事への対応のため、日米同盟を活用すべきことは当然である。
しかしながら、日米同盟をもって、インド洋やペルシャ湾まで自衛隊を派遣すべきか否かというのは、また別の問題である。
論点を整理すれば、インド洋での活動が日本の自衛問題であるかどうかに集約される。
日本の自衛問題であるのならば、日本が自衛隊をインド洋に派遣することは自衛権の範囲内での活動と言うことになる。
そうした場合に、「何を持って自衛とするのか」が問題となる。
ガイドライン法を根拠に自衛の概念を定義すれば、極東有事といえるであろう。
しかしながら、テロ特別対策措置法によれば、そうした地理的概念ではなくなる。
世界中のありとあらゆる有事への対応が、自衛の範囲内となってしまう。
これを自衛ではないと解釈したとする。
すると、インド洋に自衛隊を派遣するのは国際協力ないし国際安全保障への参加ということになる。
ここでは、ある有事への対応が国際安全保障の範疇に属するか否かについての基準が問題になる。
世界中のありとあらゆる有事への対応が国際安全保障の範疇に入りうるとすれば、あるいは、アメリカ主導での有事対応であれば、国際安全保障の範疇に入りうるとすれば、インド洋への派遣は国際協力ないし国際安全保障への参加ということができる。
後者の定義づけは、アメリカ一極支配による新秩序という前提が崩壊した今、どれほど説得力があるのか?
すると、前者をもってということになるが、無原則な国際安全保障への参加が日本の外交指針の柱になるということになる。
外交方針に大きな方向性をつけることが「主張する外交」ではなかろうか?
国際協力や国際安全保障に定義に「国連による権威付け」を要件として付け加えることは、それ自体の賛否は別として、一つの方向性ではある。
無原則な外交を是としないのであれば、「主張する外交」を志向するのであれば、方向性を打ち出すべきであろう。
無原則な対応・場当たり的にアメリカに追従するというのが読売新聞の社説で打ち出している日本外交像である。
そこで、なぜこのような主張になるのかを考えていきたい。
戦後の有力な組織は戦勝国、とりわけアメリカの庇護の下に成長したものばかりであり、マスコミも例外ではない。
戦後の潮流を、「国家・国権の強化」と「反国家」と分類し、前者を右派、後者を左派とするのが一般的である。
左派については、別の機会に論じたい。
右派の主張のように、国家・国権の強化をなしていけば、いつか反米に打ちあたることになる。
しかしながら、それが巧みに回避されている。
右派の新聞といわれる読売新聞の、今回の社説を見ても明らかである。
これは、反共を掲げ、その反共・反左派のためには、右派はアメリカの傘下に入るべきであるという論筋によるものである。
つまり、戦後から80年代前半まではソビエト、今日は中国(脅威の程度は弱いものの北朝鮮)という敵国から国家を守るためにアメリカの庇護を受けようというものである。
「ビンのふた」とは、中国に対してキッシンジャーが、アメリカが日本の強大化を押さえているということを指し示したものである。
しかし、この論筋の中での「中国」は日本の「ビンのふた」の役割を有している。
つまり、この「中国」が日本の右派的言動の役割を抑圧し、親米の方向に向かわせているのである。
「中国」の存在が、だから独立に向かうエネルギーを親アメリカに向かわせているのである。
「アメリカ」と「中国」の2枚のふたで、日本の右派・民族主義は、外に出ないように封をされているのである。
この論筋に説得力を持たせるには、日本の脅威の対象がアメリカの不倶戴天の敵である必要がある。
イラク戦争において、戦勝国は2つに割れた。
これを冷戦構造に見立て、例の親米の論筋に説得力を持たそうとした時期があり、それが実際にある程度の説得力を持っていた時期があった。
しかし、新秩序に対する熱気が冷め、イラクでの失敗が明らかになるにつけ、この論筋には無理が生じている、説得力がない。
日本に関わることでいえば、拉致問題はどうなったのか?
明らかに、日本を外して協議を進めようとしているではないか?
結局、第二の冷戦なんかなかった。
アメリカと中国は、そして北朝鮮でさえも、利害の一致を見れば、容易に手を結びうる関係にある。
アメリカに頼っても、そのアメリカが脅威の対象と手を結んでしまったなら、どうにもならない。
「戦後レジームからの脱却」とは、アメリカ追従外交からの脱却であり、言いだした当の安倍総理に明確な方向性がないのは残念である。
仮に、アメリカの権威付けによる国際協力・国際安全保障を考えているのであれば、「戦後レジームからの脱却」どころか「戦後レジームの強化」である。
冷戦という与件を失っているなかで、実効性を持たない。
右派=親米は、ポスト冷戦の中では成立しない。
イラク戦争は冷戦復活という束の間の夢に過ぎない。
読売の社説は図らずも、自社がアメリカの庇護の下に育ち、アメリカの庇護の外では何らの行動も取れないことを示している。
「古き良き」冷戦時代は、懐かしむだけにしておいた方がいい。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070808ig91.htm
これでは民主党に政権担当能力はない、と判断されても仕方がないだろう。
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「政権担当能力」なる得体の知れない言葉をよく目にする。
一体何を意味するものなのだろうか?そして、現政府には備わっているものなのだろうか?常に疑問に思っていた。
どうやら、読売新聞が定義する「政権担当能力」とは、「対米盲従能力」のことのようだ。
「アメリカ覇権の完成」「アメリカ一極の新秩序」などといわれた時期からは隔世の感がある。
「ネオコン」と称されたアメリカの要人(ラムズフェルドはネオコンに括られているのには違和感がある)は政府の表舞台から去り、国際機関に転出したボルトン・ウルフォウィッツも、それぞれ失脚した。
やはり、アメリカに世界帝国を築くだけの力はなかったようだ。
「アフガン戦争」から「イラク戦争」に至る一連の動きは、新世界秩序の始まりと称された時期があったが、これは恒常的な秩序の形成ではなく、あくまでイレギュラーなものであったと解することができるだろう。
国連無用論が飛び交っていたが、結局、アフガンにしろイラクにしろ、国連の場に戻って新決議がなされている。
国連無用論は影を潜め、国連による権威付けを争う様相を呈している。
イラン問題にしろ、北朝鮮核実験にしろ、国連にもテーブルを設けている。
そして、現実に、国連による北朝鮮への制裁が発動されている。
国連が無用で、国際安全保障をアメリカに頼るしかないという発想自体が、どうやら間違いだったようである。
もちろん、日本の自衛のため、および日本にとって脅威となる極東有事への対応のため、日米同盟を活用すべきことは当然である。
しかしながら、日米同盟をもって、インド洋やペルシャ湾まで自衛隊を派遣すべきか否かというのは、また別の問題である。
論点を整理すれば、インド洋での活動が日本の自衛問題であるかどうかに集約される。
日本の自衛問題であるのならば、日本が自衛隊をインド洋に派遣することは自衛権の範囲内での活動と言うことになる。
そうした場合に、「何を持って自衛とするのか」が問題となる。
ガイドライン法を根拠に自衛の概念を定義すれば、極東有事といえるであろう。
しかしながら、テロ特別対策措置法によれば、そうした地理的概念ではなくなる。
世界中のありとあらゆる有事への対応が、自衛の範囲内となってしまう。
これを自衛ではないと解釈したとする。
すると、インド洋に自衛隊を派遣するのは国際協力ないし国際安全保障への参加ということになる。
ここでは、ある有事への対応が国際安全保障の範疇に属するか否かについての基準が問題になる。
世界中のありとあらゆる有事への対応が国際安全保障の範疇に入りうるとすれば、あるいは、アメリカ主導での有事対応であれば、国際安全保障の範疇に入りうるとすれば、インド洋への派遣は国際協力ないし国際安全保障への参加ということができる。
後者の定義づけは、アメリカ一極支配による新秩序という前提が崩壊した今、どれほど説得力があるのか?
すると、前者をもってということになるが、無原則な国際安全保障への参加が日本の外交指針の柱になるということになる。
外交方針に大きな方向性をつけることが「主張する外交」ではなかろうか?
国際協力や国際安全保障に定義に「国連による権威付け」を要件として付け加えることは、それ自体の賛否は別として、一つの方向性ではある。
無原則な外交を是としないのであれば、「主張する外交」を志向するのであれば、方向性を打ち出すべきであろう。
無原則な対応・場当たり的にアメリカに追従するというのが読売新聞の社説で打ち出している日本外交像である。
そこで、なぜこのような主張になるのかを考えていきたい。
戦後の有力な組織は戦勝国、とりわけアメリカの庇護の下に成長したものばかりであり、マスコミも例外ではない。
戦後の潮流を、「国家・国権の強化」と「反国家」と分類し、前者を右派、後者を左派とするのが一般的である。
左派については、別の機会に論じたい。
右派の主張のように、国家・国権の強化をなしていけば、いつか反米に打ちあたることになる。
しかしながら、それが巧みに回避されている。
右派の新聞といわれる読売新聞の、今回の社説を見ても明らかである。
これは、反共を掲げ、その反共・反左派のためには、右派はアメリカの傘下に入るべきであるという論筋によるものである。
つまり、戦後から80年代前半まではソビエト、今日は中国(脅威の程度は弱いものの北朝鮮)という敵国から国家を守るためにアメリカの庇護を受けようというものである。
「ビンのふた」とは、中国に対してキッシンジャーが、アメリカが日本の強大化を押さえているということを指し示したものである。
しかし、この論筋の中での「中国」は日本の「ビンのふた」の役割を有している。
つまり、この「中国」が日本の右派的言動の役割を抑圧し、親米の方向に向かわせているのである。
「中国」の存在が、だから独立に向かうエネルギーを親アメリカに向かわせているのである。
「アメリカ」と「中国」の2枚のふたで、日本の右派・民族主義は、外に出ないように封をされているのである。
この論筋に説得力を持たせるには、日本の脅威の対象がアメリカの不倶戴天の敵である必要がある。
イラク戦争において、戦勝国は2つに割れた。
これを冷戦構造に見立て、例の親米の論筋に説得力を持たそうとした時期があり、それが実際にある程度の説得力を持っていた時期があった。
しかし、新秩序に対する熱気が冷め、イラクでの失敗が明らかになるにつけ、この論筋には無理が生じている、説得力がない。
日本に関わることでいえば、拉致問題はどうなったのか?
明らかに、日本を外して協議を進めようとしているではないか?
結局、第二の冷戦なんかなかった。
アメリカと中国は、そして北朝鮮でさえも、利害の一致を見れば、容易に手を結びうる関係にある。
アメリカに頼っても、そのアメリカが脅威の対象と手を結んでしまったなら、どうにもならない。
「戦後レジームからの脱却」とは、アメリカ追従外交からの脱却であり、言いだした当の安倍総理に明確な方向性がないのは残念である。
仮に、アメリカの権威付けによる国際協力・国際安全保障を考えているのであれば、「戦後レジームからの脱却」どころか「戦後レジームの強化」である。
冷戦という与件を失っているなかで、実効性を持たない。
右派=親米は、ポスト冷戦の中では成立しない。
イラク戦争は冷戦復活という束の間の夢に過ぎない。
読売の社説は図らずも、自社がアメリカの庇護の下に育ち、アメリカの庇護の外では何らの行動も取れないことを示している。
「古き良き」冷戦時代は、懐かしむだけにしておいた方がいい。