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大祖国戦争

2007-04-12 19:11:26 | ソビエト
 31年 9月 満州事変(~33年5月 塘沽協定)

 32年 3月 満州国建国

 37年 7月 盧溝橋事件(支那事変の勃発) 

 39年 5月 ノモンハン事(~9月)

 39年 8月 モロトフ=リッベントロップ協定

 39年 9月 ポーランド分割
         カティンの森事件

 41年 4月 日ソ中立条約

 41年 5月 スターリンが人民委員会議議長(首相)を兼任

 41年 6月 バルバロッサ作戦

 41年11月 ハルノート

 41年12月 真珠湾攻撃(大東亜戦争の開戦) 

         シベリア軍のヨーロッパ戦線投入

 42年12月 スターリングラード攻防戦

 45年 2月 ヤルタ会談

 45年 5月 ベルリン陥落(5月9日 戦勝記念日)

 45年 7月 ポツダム会談
 
 45年 8月 ポツダム協定

         対日参戦(対満州国・日本への宣戦布告)

         日本がポツダム宣言受諾

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 「大祖国戦争」とは、ナポレオンに勝利した「祖国戦争」から命名したもの。
 独ソ戦開始の41年6月から、45年5月のベルリン陥落までをさす。

 スターリンの戦略は、ヨーロッパとアジアの両戦線を同時に開かないということで一貫していた。
 ノモンハンで日本軍と衝突すれば、対独平和を確保する。
 ポーランド分割でドイツとの緩衝国が消滅すれば、日本との平和を模索する。
 対日参戦は、ベルリン陥落後のことである。
 ヒトラーにとって、対日平和はソビエトのドイツへの戦争準備行為であった。

 独ソ戦開始後、日米交渉においてアメリカの態度が硬化、ハルノート提示、日米開戦となる。
 ハルノートの起草者のハリーホワイトは、後に共産党員・ソビエトのスパイであったことが判明している。
  アジア・シベリアでの戦線を回避できた。
 スターリンにとって悪夢は、日独による挟撃である。
 対独勝利は、日本の南進、それに連なる日米開戦が決定的な要因であった。
 日米開戦が、スターリンが幸運だったのか、それともスターリンの戦略だったのか。