戦後史を語る上で、要点がいくつかある。
1 戦時体制
2 公職追放
3 逆コース
4 55年体制
5 田中角栄
6 共産主義陣営の崩壊
7 政界再編
8 拉致問題
1 戦時体制
まず、戦時体制から55年体制の完成までを論じたい。
野口悠紀夫氏をはじめとした経済論客が盛んに口にする「1940年体制」、これは、戦後体制のハード面において、大変説得力がある。
この「1940年体制」は、連合軍の占領政策の円滑化においても、その後の工業大国化においても、大変な威力を発揮した。
つまり、国内においてハードが完成しているため、現在のイラクのような無秩序を経ることなく、日本国として再出発することができたのである。
ハードがあれば、占領軍がプログラミングしたソフトを起動させることで、国内の様々な操作が可能になるわけである。
この「1940年体制」と占領政策については、また別に論じたい。
2 公職追放
では、このプログラミングの中身はどのようなものであったのだろうか?
まずは、戦前・戦中の指導者層の追放である。
これにより、戦中・戦時の国内派・民族派は一掃される。
変わって、力を得たのは、英米派と左翼である。
戦前において、日本国内では左翼活動が大幅に制限され、脱法行為としての活動を続けるか、合法的に政府に取り込まれる形になるかを選択せねばならなかった。
これは、17年のロシア革命の影響やソビエトの勢力の国内への浸透を防ぐものであった。
アメリカ本土でのレッドパージが48年であったことを考えれば、日本がアメリカに先取りで実施していたことになる。
ソビエトと満州国を経て直接に対峙していた日本にとって、共産主義の脅威は現実的な問題であり、アメリカのように、泰然としていることができなかったのである。
また、英米派はアメリカとの交渉での譲歩が国内において支持を得られず、さらに、アメリカが反日政策を強化するにつれ、国内で反米機運が高まり、一層、その勢力が減退していった。
戦時においては英米派は、国家意思決定の中枢からは外されていた。
この点で、占領軍の公職追放により、国家中枢への返り咲きを達成することになった。
つまり、この時期には、左翼勢力と英米派勢力とが国内を覆うことになったのである。
両者は、資本主義・共産主義のイデオロギー闘争もあり、激しく対立したが、国内派・民族派への敵視という点で、異なるところはなかった。
3 逆コース
官公労を中心に、大規模な労働争議が頻発し、吉田・英米派政権は、左翼勢力の攻勢の前に、崩壊寸前であった。
そんななかで、2・1ゼネスト中止命令が発せられる。
マッカーサーは左翼勢力には一貫して好意的な態度を示していた。
マッカーサーは、大統領選に向けて労働組合の票を欲していたという個人的な思惑もあったが、何よりも、戦前勢力の一掃を主眼においていたため、このような態度にでた。
英米派と戦前の各界中枢は人的交流も含め、ある程度の親和性が存在したのに対して、共産党を中心とした左翼勢力は、中枢とは断絶しており、マッカーサーから見れば、「敵の敵」であった。
しかし、この2・1ゼネストで、態度が一変する。
マッカーサーは左翼勢力の恐ろしさを、体感したのである。
この2・1ゼネストを機に、占領軍主導で左翼勢力の穏健化が図られていく。
戦後の世界的な冷戦体制の構築もあって、非共産・左翼勢力が占領軍によって構築され、左翼勢力の中心を担っていくことになる。
朝鮮戦争が開始すると、共産党は再び抑圧され、国内は英米派と非共産・左翼とが覆うようになる。
アメリカ本土でも、マッカーシーを中心にレッドパージが行われ、ソビエト陣営のスパイが摘発される。
英雄であったルーズベルト大統領の側近、ハリー・ホワイトがソビエト陣営の人間であることも発覚する。
マッカーサーは、日本国内での左翼勢力の躍進と朝鮮戦争から、ソビエト陣営の評価が一変し、また、戦前の日本首脳に対する考え方まで変化する。
マッカーサーは、後に議会で、先の戦争が日本にとっての自衛戦争であったことを証言している。
4 55年体制
世界的に冷戦の構図が構築されてくると、日本においても、自民党を中心とする自由主義陣営、社会党を中心とする社会主義陣営が構築される。
これが、55年体制である。
52年の講和により、公職追放が完全に解け、それ以前に解放された者と合わせて、戦前の国内派・民族派勢力が各界に帰ってくる。
ここで、重要なのは各組織が、公職追放によって地位を築いたものが実権を握っていたことである。
この各界実力者にとって、公職追放者の復帰というのは害悪以外のなにものでもない。
日本の敗戦によって地位を得たものは、つまり、占領軍によって地位を与えられたものと同義である。
よって、この勢力は、占領が終わった後も、擬似占領体制を欲したのである。
つまり、占領体制の社会・歴史観は、各界実力者が地位を守るための道具となった。
こうして、この時期の日本において、吉田保守は生まれたが、民族派保守が生まれることはなかった。
逆の左翼陣営でも、反吉田路線を掲げながら、擬似占領体制を欲し、もう一つの戦勝国であるソビエトへの傾斜を深める。
総評でも社会党でも、占領下では穏健派が主流であったが、占領後は社会主義派が実権を握るようになる。
こうして、2陣営が構築され、この2陣営の中でイデオロギー対立が生じるのみで、民族派・国内派は「凍結」した状態であった。
60年代に入り、一般に生活水準の向上により、資本主義路線の優越が日本国内でも明確化してくる。
また、中ソ対立もあり、社会主義陣営は経済面での説得力を失う。
そこで、左翼諸派は、プロレタリア革命運動を平和運動・社会運動に転換していく。
これが、系譜として現在の「市民運動」につながっていく。
これら勢力は、衣替えのたびに、一定数の支持の拡大は見られるものの、今日の「市民運動」のように一般市民に広く浸透することはなかった。
国会勢力としては、90年代における小沢一郎の政界再編によって、議席数を激減し、一部が民主党に逃れ、党内勢力としての活動に切り替わっていった。
社会勢力としても、小泉純一郎の北朝鮮訪問以降、小泉純一郎自身の意図とは無関係に、拉致問題が国民運動化し、北朝鮮を賛美する左翼勢力は、その言論の説得力を失う。
これら勢力は、公務員・マスコミといった、きわめて国家により保護された世界で、「反国家」を叫ぶだけの存在となり、郵政選挙に見られるように、財政の逼迫の中で、国労と同様に、国民の支持を失っていく。
07年東京都知事選は、これら「市民団体」・マスコミ勢力が大同団し、浅野全宮城県知事を擁立するも、現職の石原都知事に完敗、左翼勢力減退の象徴的な事件であった。
さて、吉田保守勢力は自民党で中枢を占め、一時期を除き、一貫して吉田路線を継承してきた、
つまり、国防・外交は占領軍に権限委譲し、ひたすら輸出主導の工業化路線をはしるという政治を行ってきた。
これは、冷戦における「反共」のエクスキューズを失った今でも、大きく変わるところはない。
これら勢力の傍流としてのみ、民族派が現れ、それが党派として、一大勢力を築けずにいる。
共産化の脅威が薄らいだ今、資本主義陣営を支えるべき企業経営者が親中へと鞍替えしている。
この点で、組織防衛のため平和活動に衣替えした社会主義勢力と、資本主義勢力が一致点を見出し、歴史観・国家観で、一部共闘する形になっている。
つまり、占領軍が生んだ双子である吉田保守・戦後左翼が、「ヤルタ協定」で、戦勝国史観を共有するという形を取っているのが、現状である。
「なぜ、日本には反日勢力が多いのか?」そう疑問を持つ方が多いと思うが、原因は、このような点にある。
占領開始によって「反日」であることが、各界首脳に求められ、それが継承されて今日まで来ているのである。
この「ヤルタ」勢力に対抗する勢力の台頭を渇望しているが、各界諸団体が「ヤルタ」勢力であり、なかなか難しい。
参院選で、自公が過半数割れになれば、政界再編が起こるのだが、さて、その先に民族は勢力の登場はあるのか?ないのか?