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2024.5 ジョー・ブラックをよろしく感想4

2025-06-14 15:20:54 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.5.20

前日途中まで書いて、もっと書こうとしながら途中までで書かなかったのは初めての経験であると、ブランデーを久しぶりに飲めて、半日完全に眠りこけ思い込む。

コップに飲みかけのブランデーを、パイプ葉だったら良かったなぁと思い込むも、コツコツと、そして地道、実直に、ピースだったら良かったなぁと思い込むもほぼキャメルの吸い終えた少ない葉っぱを貯めていた小瓶に注いだ。

飛行機ではなくてロマンストレインに乗って、国内旅行ではなくて海外旅行にお出掛けの部分までを観賞会をした。

雄猫も同じだったが、家族の厚みというのはセントオブウーマンにあったと思い込む。それがない厚みがプロフーモ・ディ・ドンナにあるけれども、のっけの青年の街場が全体主義としては見事というかセントオブウーマンでは忘れかけてたというか最初が学校だったのとほぼ同じ地場論だと思い込む。

のっけの音楽が、青年以外にあわせてあるのか、それから登場するばぁさまとかイタリア版梶山静六さんにあわせてあるのか然程思い込むことはしないと思い込む。


吸殻からこまめに葉っぱのみを小瓶に移す作業中、梶山静六さんというのはどういう人間になってしまったのかを思い込む。田中真紀子さんという、なんとなか朴槿恵さんの単行本は読んだことがある私は、その一言のみでしか梶山静六さんを知らず、何となく茨城県のどこかの選挙区の代議士、何らかの大臣になった人のように思い込むし、しゃべりはテレビでも聴いたことはない私は、肉体、これはローマ帝国がりょうしききかんからして欠落してるぶぶんだけれども、それは確かにインフラによるそれではない自律というか他律というか規律というかの風は思い込めるようなみてくれだと思い込む。


夜中にポッポの汽笛で目が覚めて、物色中、直ぐにピストルがあるよりは、義手からおなごの写真からのピストルは全く分からないながら、何となく見事かと思い込みつつ、どうしても展開がハードコアというか、カットのビビットがそれからのビビットとビビットトレンドカットなのかとも思い込むようにしてみようと思い込む。

旅行の段取りで、海外旅行だと思い込んだが、国内旅行らしい。

ノートルダムだとかサグラダ・ファミリアだとかのような説明と受け取ったというか、全く観光そのものがおなごのみという革命映画ではあることに、ロードムービーそのものが、盲人と青年による、おなごの説明、セントオブウーマンを観てないならば、ピストルの説明は、青年が対象ということよりは、そのサスペンス付けをぶったのみであって、やはりマザーファッカーパッケージが、最後にてめぇがそのマザーファッカーの基本のみのロードムービーというぶぶんが本筋だろうかと思い込むことを思い込むようにして続きを本日、やはり英語字幕は疲れるというか、ほとんど画面は何となく視野にはあるがほぼ英語字幕しか眼中にない英語力という私としては、盲人と青年の筋でかましたかったのは、道案内を盲人にさせたかったこともさることながら、東京もあの当時その水準だろう街並みがぶっとんでるというか、東京は言葉通り街並みがぶっとんでるんだが、その後に街並みがぶっとんでるんだが、その後にも現在のようにぶっとんでるんだが、その時のばぁさんの機敏、敏捷というのもコミカルというよりそれが正しいか間違いかすらもばぁさんにはなから、これはマザーファッカーのサンコンプの敏捷というより微笑、微笑を思い込むと、先日お風呂場で喫煙中、モナリザよりは、上杉謙信というのは、大和撫子に思い込めなくもない、しかも武田信玄は誰がどうでもまごうことなき男でしかないが、ウィキペディアで10年前程度だったか読んだのみでの上杉謙信女説というのは、仮に上杉謙信が女だったとしても、それで何かが何かになるのかが私は分からないなと思い込んだ。ばぁさんは、盲人の説明が正確ならば良いという博打をぶってるわけだが、これのサンコンプでの厄介は、盲人はそれが正確でないことというより、ばぁさんがその盲人以外の説明で道中いくことのリスクを回避したという万能細胞的なぶぶんが、こじつけではあっても不存在にはならない筋ってのが、ぶぶんではないというか、最も安易、快適のワンコンプがアイだとすると、アイではなくてボディというのがアイの欠落では先立つというか、ボディの動線というのを盲人の道案内の一齣でぶったのではないかと思い込むようにしてみる。


オープンカフェまで観賞会。

私の英語力の貧弱さによるが、ほぼ字幕以外は眼中に無さすぎだったのが、十字ってのは、映画の筋より、私が書き上げる筋がと思い込むも、正確にというかもっとゆっくりというか都度停止して英文を検討が基本だが、オープンカフェで、盲人に意味がない背丈のぶぶんにおいて、商売人というかは、背丈が低いにこしたことはないというか、特別お辞儀も必要ないというか、就活では背丈は大変に重要な接客業ではないかと思い込む。


2025.1.7

23:21

昨日から20度目の観賞会に向けて観賞会。生まれて初めての当映画を英語音声英語字幕に挑んでるので、時間がかかるというか楽しくないというか画面はほぼ眼中に入らないほど字幕に夢中にならざるを得ないしつたないというかおぼつかないおぼろげな解釈でなんとなく観てるかも知れない。今しがた、急にジョーブラックが車に跳ねられちゃうところ前までを観る。新しき世界も急に車同士で跳ねるというかでびっくりした記憶が甦る。

昨日観賞会してた好きな場面の一つではあるが、てめぇでそれを言語的にしてみると、クレアフォラーニは人類史上の別嬪だとは思うけれども、ブラッド・ピットのキューティーさというのが当映画にぴったりだったでしょうかと思いながら、昨日英和辞典と共に、I want you to get swept away out thereだったかを昨年も数分夢中で調べたが改めて調べてもよく分からないというより語根のような納得をしようと思えばという曖昧さでしか分からずじまいを昨日も久しぶりに繰り返したが、その時のクレアフォラーニの顔芸は、日本版しおりちゃんの顔芸と少し重なるなと思う。

昨日はそれよりもジュリアちゃんのアダルティなビデオを夢中で無料でダウンロードして、数時間前にオナニーした後に、久しぶりに、巨乳と巨根の人間も、それで社会性だとか、間違いなく勘違いやろうどもが勘違いやろうどもとして勘違いやろうらしく、せいしょくしゃてきなけんこうか、けんぜんかとして、例えばはなから中学校だとか高校だとかの従事者の道を絶対的に外れるような運動会としてもへっぽこやっきょうらはしているだろうことも、へっぽこやっきょうらのうでのみせどころなんだろうなとかぼんやり思う。

それを乗り越えるとしても、僕たち私たちは、巨根の先生と頑張ってますと社会性として大切ではあるが、そのよりよくしさんこんぷにあまんじるせいしょくしゃとせいしょくしゃとせいしょくしゃというナチュラリズムというのも生命論理だから、そういうことをやったところで、巨根の先生がたった数十年で巨根の面影一切ないということもさることながら、巨根の先生の学校という勇気だとかのせんせつなんてのは、そもそも巨根の先生というマイノリティとリミテッドで成立していることに違いないから、巨根の先生200周年という垂れ幕を学校で掲げる、卒業生200才だとかが本質的基本というか目的だが、その目的がいのよりよくしさんこんぷが生命論理というかナチュラリズムでもあるからというぶではというぶを書き続けるほど根気は私はないから観賞会続けようと思う。


1:07

ピーナッツバターまで観賞会。

mossyをどこかで読んでるので、その前に既出のcat 忘れた。クレアフォラーニの顔芸の英語の台詞は1日だけならそれなりに覚えられたが、言い回しというか慣用句というtongueの熟語を既に脳ミソからなきものにする私の本領を確認しつつ、moseyという私にとっては初体験なる単語というか言葉だったらしかった。ぶらつく。じょーぶらつく。


1:12

クレアフォラーニがプールから出る寸前まで観る。

バサロが平泳ぎですげぇなと初めて思う。しかしそれが自由形だったりバタフライだったりでは味気がないということだろうと思う独りよがりの納得をした。


1:16

社会性的世紀の美女の一人クレアフォラーニが水着の場面の途中まで観る。やはりブラッド・ピットのピーナッツバターのスプーンがよりキューティーというか、18才位のてめぇだったら真っ先にクレアフォラーニの水着姿でオナニーしてるはずだが、DEATHというコントラストも手伝っても使用してるとしても、トゥルーロマンスでのそれだとか、プラトーンでいうジョニーデップはそれなりに相当な役柄だけれども、それが出来る出来ないということと諦めない諦めてないということとか、ゴッドファーザーに至っては出てないのにパートⅡで主役級のデニーロというオーディションですらもそれがという目利き。それ以外の数の論理のさんこんぷがきほんのなさきちのナチュラリズムではあるぶはあっても、ブラッド・ピットならば私は最近まで知らなかったがリバイバルというかリメイクとしての当映画になるということも多分にあったように思わなくもない。なんとなくブラッド・ピットを観てるとハリソン・フォードをもっと若々しくもっと可愛らしく、そしてもっとピチピチにというように思うと思わなくもない。ハリソン・フォードはそこに困惑だとかのキューティーさという台詞だとか背景に依存しないでかます稀有なものを私に感じさせるほどに目利きな奴等は私に理解される手落ちはしたくないだろうからそれだけはそのように理解してるということはひっそりこっそりやっぱり書いとこうと思うより先にタップしてたと思う。


2025.1.9

4:15

ラムサンドウィッチは映画で食事会だがその途中まで観る。

病院内でのsoonに少し戸惑い英和辞典で調べる。

ラムサンドウィッチでアンソニーホプニキンスを観てたら、役者というか俳優を漠然と思う。要するに恐らくは思い出しさえすれば新聞を読み始めてのテレビ欄での信長の本能寺を思い出す。当時は独りでずっと思い込んでいたように思わなくもないが、初めて、その役者そのものが自害をすることに疑問がなかった当時の私だったということを思う。要するに何故信長役の役者さんは、テレビドラマで自害をしてしまうのかということの一点張りしか考えてなかったというより、その思考回路の発展性は他の追随を許さないほどに全く意味不明というか意味がなかったけれども、テレビドラマそのものの全てを信じ込むにもほどがなかったし、そのテレビドラマを観ようとかという目的すらもないし、観ても分からなかっただろう時期だし、仮に今観ても分かるか分からないかということと、何をなぞかけるかとか何を適用という目的とかの部に多少命を削るだけだと思う。

相変わらず、疑問文と否定文は英語字幕で一呼吸も二呼吸もおかないとと、動詞と動詞の特に過去型とか進行型とかは一拍も二拍も私には必要で、形容詞だとか副詞だとかは何となくで読めば進行会。

そういえば、まだまだ近年でも、私たち結婚しましたの、ヒョーンさんとソヒョンさんは何度も観た時期に、二人の結婚を願うほどにもなってたというか、何で二人は結婚しないんだろうとすら思い込んでいたのを思い出しさえした。ほとんどその二人同士の結婚が成就されなければ残念というかがっかりなほどということこそが、そのテレビドラマというかバラエティというのかの真剣師の両刀だろうけれどもとか解説者気取りな物言いだなと思わなくもないと思わない。


2025.4.30

3:19

昨日から英語音声日本語字幕で鑑賞会。

今しがた包装米飯と鮭フレークと牛乳は残り僅かだったので飲み干し発泡酒。食後のひねり揚げで当日三度目のジョーとスーザンの場面を終え新しい朝が来た場面まで観る。

所々日本語字幕のセンスもわからないでもないけども、そのセンスというか意訳がわからない。

ドリューのオリンピックというのが手持ちの辞書の全てに記載がなく、スラングなのかグレイトとかよりもやや期待外れの対人関係の憐憫を含めた自己答弁的なニュアンスなのかと思う。

初日のジョーは全て飲食であることを今回思う。

三度目のプールサイドでは、スーザンよりもピーナッツバターが第一というのもあるだろうしそれがユーモラスだが、二度目というのがビルのパーティーに相当するとこじつけるとこじつけが出来ると思わせる映画の懐の深さを思わざるをえない。


2024.5 ジョー・ブラックをよろしく感想3

2025-06-14 15:20:07 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.5.11

デスとタックスのニジカイのワンコンプは、どうしてもきほんのなさきちのワンコンプになる。

全体主義というか、例えばデスとタックス以外、大根だとかをデスとタックスだと、ワンコンプどころか少なくてもツーコンプは圧倒的にまだか、それは捨て去ったかとかで、リョウシキキカンセツとしてのワンコンプだと、蛇口を捻ると大根が出てくるとかでは、大根の生存がそれまでに無くてはならないこともあるだろう。

大根あがりしょうだと、一本一本だと、それほどに大根が美味しいかという大前提があるけれども、少なくても大根が一本一本になっても人類はそれをインフラにはしないだろう。大根の命が、やはりそれでも永続的という大前提がある。大根がつまらないように。ある意味では、とってもいきいきした頃、これからというときにぶち殺していくというか。


2024.5.15

全く興味のなさと、無知としてから、当映画監督の他の監督作品をウィキペディアで調べ、最初の作品は一応興味のなさの私として、ビバリーヒルズコップとセントオブウーマンは昔に一度観賞会し、近年二度目の観賞会をし、ミッドナイトランは近年初めて観賞会したが、それらを当映画監督という認識のなさで観賞会したから、ニコニコ動画でビバリーヒルズコップの観賞会を本日終了。よくりゆうを述べると、ビバリーヒルズコップ2と3も観賞会可能だったらなぁと思う。

これからニコニコ動画で観れるセントオブウーマンの観賞会を始める予定。


セントオブウーマンはたぶん三度目の観賞会を本日終了。

当映画は傑作ではあっても、セントオブウーマンは今回初めて傑作だと思い込む。

梶山静六さんが出張ってるを、インテリとクソガキが救うという構図の保険感覚もさることながら、二度目までは、特に一度目なんてのは、田舎もんまるだしで、アカデミー主演男優賞のマイコーすげぇ程度、しかもそれよりも、アハーという台詞すげぇ程度だった私は、集会の全てにおいてくそみてぇなそれらで、何を誰がくっちゃべってもくそにしかならねぇことに不快感しかあるはずもないんだが、それよりも、今回は学生に、ジェリーマグワイアにジャズのコンドームを贈る男優さんがたぶんイタズラ小僧の一人だったのではないかということと、ジョージは他にも映画によく出張ってる有名な男優さんだったのかと思った。

タンゴの名曲は、一度観賞会したのみの面白さで終わらせれば良かったながら、二度目で、特に車内フェラーろに身構えのあった私は面白さが半減したトゥルーライズでも、そのタンゴの名曲だったのかも知れないなと瞬間的に思い込む。

タンゴも踊ったことも、タンゴが何かしら知らん私は、恐らく映画でしかそのタンゴの名曲は聴いたことはないように思い込む。


2024.5.19

リトルボーイ、りとるぼーいさん、イロイロあるんだが、リトルボーイ以外が原爆の基本ではある。

オノ・ヨーコ以外が人間の基本ではあるというか日本人の基本にしかなりようがあるはずがないのと同じロジックというか基本。

日本人全員なり過半数が、ジョン・レノンの隣にちょこんといることが不可能と不自然と。それが今のところはずっと。

マイコーを思い込んでたら、以前数分たりとも、そのようなことを思い込んでない私は、とりあえずその瞬間までを書いといて、とても私的にしても書きづらいことを思い込むことになりつつあるので、ちょうど現金が数十円になったので、スケートボード売却に頑張ろうと思い込む。

私が頑張ることは皆無ながら。

一度乗り心地をと思い込むも、売却のためにはマイコーのようなしじょうげんりしゃぎは控えつつ、そもそも中古で購入してるから一度乗り心地をと思い込むと、フェラーリではないというか。


ウィキペディアで調査。

タンゴの曲はポル・ウナ・カベサという1935年公開よタンゴバーという映画の挿入歌らしい。

原作は小説かららしく、1974年公開の女の香りという映画があったらしいので、ニコニコ動画にあるか検索を試みようと思い込む。素早い実行力を断行予定。


YouTube、ニコニコ動画、dailymotionを検索したが観れないらしい。

DVDはメルカリで検索したら高値。

Googleとアマゾンの動画屋さんを検索も観れないらしい。

セントオブウーマンの時代が、インターネットの普及率が低いので、女の香りという映画の存在を知る機会が欠落していることもあるだろうか。

インターネットの現代ならば、セントオブウーマンの公開に合わせて、女の香りのdVdの流通が見込めるのはインターネットで販売ということもあっただろうか。

しかし基本のパイは、それによってウミダスがあるので、職人というか技術屋というかの一部も一部というかの枠が観るが、それよりもVHS時代が、もしかしたらレンタルビデオ屋さんに軒並み女の香りが陳列されていた可能性はあるだろうか。

インターネットで、字幕ダウンロード。

最初が校長先生のジャグワァからだったのかと、三度観賞会しながら覚えてすらいなかったことを覚える。


数時間眠りこけ、大切な配達受け取りがあるので、最も大切なこちらからのスケートボード配達がなかなか出来ねぇんで、100円ずつ値下げしつつ、インターネットで再度検索。

高値のdVdは、同名映画のキムノヴァク版らしいことを知る。60年代らしい。

ウィキペディアで丁寧に和訳されたのは、親切である。恐らく日本ではVHSもDVDも存在しないと思われる。パンフレットのようなのが画像で一瞥したので、劇場公開はされたように思われる。

YouTubeで英語訳で観賞会出来るので、本日配達受け取り予定のブランデーを飲みながら観賞会を強かに計画、そして二年間冷蔵庫で氷を作ったことはなかったが、計画的に氷作れるプラスチック容器(名称があるのだろうが、知らなかった。氷容器と呼べば良いだろうか。)に水を入れてある。コップが頗る汚いのと、オーリー練習用にした傷だらけの二つしかないが、オーリー練習用コップを、立ててはせずに、寝かせて一応オーリーで越えた私は、そのプラスチックコップでブランデーを飲みながら、原題Profumo di donnaの観賞会をしようと思い込む。

開始から数分観たが、Profumo di donnaも、若者の規律と年寄りの先人からである。

セント・オブ・ウーマンのDVDと観れないけどもブルーレイも調べる。映像特典は何れも不存在であることを確認出来た。

プロフーモ・ディ・ドンナと片仮名書きだとなると一応留保付きの言語化で観賞会を本日実現しようと思い込む。


ブランデーが、おしっこしてる最中に無事届く。

早速観賞会開始。

一応最後の卵かけご飯。佐藤さんが大好きだとかぬかすんで、卵かけご飯そのものが佐藤さんを思い出すほどには、佐藤さんだと思い込む。

私は今回は醤油はちょっぴりでもないけども。

佐藤さんの一言は、佐藤さんよりおもいこむ私は。

やまがたまいにはびびったが、大したことない程度というのが大変というか非常と言っても文句ない程度なので、パンダを思い込み始めつつある私は、米で日本人は、どうしても新潟と秋田の二大ど根性のようなのが、確かにそのど根性からしても、私が新潟と秋田のお米うんぬんの全てを思い込み始めることすらやぼ、思い込み始めつつないのもやぼようながら、現金不足人生で過不足というか文句がない私はと書くと、そりゃぁお米よりアダルトビデオ観賞会命ということがある私ながら、新潟でも秋田でもないお米の一撃というのに、おしっこちびる程度の善悪混同がどうしてもありつつ、やまがたまいというけんめい、けんめい、けんめいは、わかるといえばおこられる、わからないとおもえばくそたれられられるわけだご、サクランボもかかってるど根性があるんだろうけれども、こっちは、本日初めて、それほど私はそういう人格も社会権もないんだが、ヒシャカクと、マリーンズ角中選手は貴重な代打特殊あるんだが、それよりも良い角中カードより個人的に代打特集角中が好みなのでAチョウゴウキンにしといてこれからあたりまえに覚醒ざいとなると、私は筋でいきてないんだが、筋すらもきほんのなさきちというのは、むげ、むし、むかに出来んというのは、私はないんだけれども、




2024.5 ジョー・ブラックをよろしく感想2

2025-06-14 15:19:11 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.5.8

英語音声、英語字幕で、昨日位から観賞会し、花束抱えて病院に居るジョーまで観賞会。

ジョーはデスだが、デスのない傍観者で、どうしてもジャマイカンレディ、デスセッキンジダイと、デスドライチホープと、デスマイノリティとリミテッドとはあると思い込む。

その前に、恐らくはデスというなのジョーはおなごから観ると相当なセクシーガイだと思われるが、スーザンも負けてない。どちら様もセクシーである二人っきりで中出しという瞬間の最高の幸せと言えるそのデスは、デスは自発的に、それなりに能動的というより人間のつらしょったデスが人間の能力に歩みよりやがった瞬間、要するに瞬間の幸せというか喜びにそれはあるとすると、デスが人間のつらしょうと、デスを創造したと言えなくはない。それは多様性としての保険感覚の筋立てで立ててるだろうが、経験値ゼロのジョーは、特におなごには、デスのセクシーさ、デスのひとりよがりが、デスのひとりよがりによって、デスのひとりよがりであるぶぶんぶぶんなどを読むか感じる向きはあるにせよ、ジョーよりスーザンが、よくよく10度以上観賞会してると、相当な魅力なおなごだが、ビルとビルとビルより、そのマイノリティとリミテッドではスーザンが成立するというか、ジョーがのっけに語る交通安全があるように、ドラマツルギーのマイノリティとリミテッドをそれこそマイノリティとリミテッドのためにかましてどないやのポテとポジとしての映画での成立要件のもあるのではなかろうかと思い込む。

ジョーは意外とたらこ唇だったのかと初めて思い込むが、そのセクシー、モダンは、チャンプのむすめっこのアンジェリーナさんのセクシーさとなると、20年以上前にときたま思い込んで、最近別筋で思い込みしつつある、サルトルとテリー伊藤の洒落に、クラークゲーブルは勝てないし、アランドロンはそういうのはやってないし、ジョーでも、同じ土俵で洒落では勝てない。ジョーにその洒落の不要と不要と不要はあるんだが。


アリソン、ドリュー、アリソンの旦那さん、恐るべしは、キッチンでの全員、取締役役会での全員が、そのマイノリティとリミテッドとしての映画ということになると役の能力を完全に全うしてるのは、それがシェイクスピアの変質のように、とくに演じずとも、それぞれ生物多様性だから、うまいへたをそれで勝ればみばえがはえか、みばえがよりうまいぶぶんぶぶんはあると思い込む。


二度目のジョーを見てからのスーザンまで観賞会。

デスはコーヒーショップでデスというのは払拭されぬライフロジックだと、この期に及んで私から払拭されぬということは、そのように撮ってるのではないかと思い込む。


デスとスーザンの最後のラブストーリーまで観賞会。

thank you for living me.まで。

これも撮りたかっただろう思い込む。

それ以上だとか、それ以外だとかというより、そのマイノリティとリミテッドそのもののルーチンワークの極地

ヘビーメタルとしては、デス前のジョーが、ビルというカリスマ、てっとりばやさのはくしゃまっちとしてもでは、スーザンとコーヒーショップでのやりとりのハピネスの筋も大切にしてる奴等用へでも撮ってるというべきだろうか。


ウィキペディアでジョー・ブラックを調べる。

日本人だとジョーとなれば、あしたのジョーだが、アメリカ人だとディマジオではないか。

ジョー・ディマジオをよろしくという題名でも、人名だから特筆点はないとしても、当映画により、ジョーブラックはジョーブラックというブルックリンドジャースで15勝4負、防御率2.15で新人王、黒人初のワールドシリーズ勝利投手が、ジョーブラックとともに別物だがあることになる。

背番号は49。クロマティと同じ。


2024.5.9

パーティ前のデスアンドタックスの悪趣味を悪趣味に極力ならないように悪趣味として悪趣味にせずのぶぶんぶぶんから観賞会再開。


先程煙草のためだったが、ピーをやってるなんらかのチンコンのりょうしききかんせつは知らんが、取り敢えずよっぱらえてる何らかの同士らがいて、迷わず発泡酒を購入。

アサヒスーパードライ買えたらいいけどと高望みが脳裏を掠める。

帰宅し、アサヒスーパードライのとんでもない美味しいのは、品質ではなくて温度と独り言で納得していた時期が断片的にあった私は、本日それは、その温度に対応、耐性のある品質にアサヒスーパードライはたどりついた、どこがえげつないかは想像しない方が私はよいけれども、それをご説明も野暮で、語らぬならば語らぬことでその瞬間を与えられれば、瞬間としてのペイという野暮でと。

当然観賞会再開で、それなりに早くパーティに入るので、すもものでき損ないより、それによって、ピーちを思い込む。

そして、当映画がきほんのなさきちのぜんぶではないけれども、ビルは65年間である。

65年間をじつげんという片仮名平仮名ではなくて、感じと幹事とfintheで実現にこじつける。こぎつけるの間違いだろうか。


英語字幕、英語音声で観賞会終了。

ピーナッツバターは、よく分からなかったけれども、インコーヒーショップマンではなくてジョーがインコーヒーショップマンをスーザンに語らせて悟ることと、インコーヒーショップマンと再会したスーザンがインコーヒーショップマンで悟ることは、英語音声、英語字幕により趣があると思い込む。日本語字幕、日本語音声では、日本語が先立つのが日本語ネイチャーではなかろうか。ジョーではなくてユーのスタイルとスタンスの確立に配慮する日本語ではあまり意味を成さない代名詞の会話ツルギーにも、スーザンの一応一瞥はくれてないと話にならないにじのはし、レインボーブリッジ封鎖できませんというか。

レインボーブリッジというより、おそらくストーンブリッジだけれども。

二人で渡るちょうどよさ。

戻るにもちょうどよさ。




2024.4 ジョー・ブラックをよろしく感想1

2025-06-14 15:17:59 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.4.3

10度以上観賞会してる数少ない映画の感想会開始。


走りというより歩きについて。

ジョーブラックとクレアフォラーニは恐らく歩きを相当にやってる。歩きの芸術。

マイルスのウォーキン級。


今月中に、20度目観賞会セッキンジダイに取り組もうと思い込む。


2024.4.4

歩きの芸術というのを、始めて活字化して半日思い込む。

それまでに当然にそのようなのもあり、その芸術というぶぶん、局地線の歩きの芸術という生存というよりも、芸術もそれなりに生存線もあるんだが、それらのインテリとして、この映画のアプローチでの歩きというのを私は知らない。

どれほどのそのインテリによって、この映画での歩きにたどり着いたのか知らない。

これはジョーブラックよりも、クレアフォラーニの歩きによりインフラを注いだというか注ぐためでもあったのではないかと思い込む。

歩きというわんこんぷだと、エンディングは確かにお手々繋いで歩きだったなぁと思った。

もちろん歩きの芸術というのに、ジョーブラックがビルと歩きの初手をどうしてもかまさないといけんということを思い込むのが私の独断専行だけど。

ジョーブラックが歩きの初手は本来クレアフォラーニであるということも足筋、足跡の初手としての妙味としてだろうけれども。

ジョーブラックの歩きの初手なれば、それはピーナッツバターの真夜中のお散歩ということか。クレアフォラーニは歩きではなくて泳ぎにしてあるということに歩きの芸術もかけてあると独断専行気味にはくしゃがかかる。


結局、日本語だが、池田勇人はウォーキング、ウォーカーをふとなりきんという人民いんふらだけれども、ウォーカーというのは映画にあったウォーカー、30年前位に一度観賞会したきりだから、それほど真剣に意外と映画は観賞会してる私だけれども、歩きにいばらいどかけるのにある。

それはデンゼル・ワシントンだったか、チャールストン・ヘストンジジョウというか。

この映画の歩きのそれは、リョウシキキカンセツをいんふらにしてあることか。

リョウシキキカンセツのふそんざいによる。

仮にジョーブラックとクレアフォラーニがめでたくシンウォーキンを誕生させるというリョウシキキカンセツなれば、よちよち歩きの芸術ということの皆無によるいんふらというか。

ビルはよつあしというか。


2024.5.6

もっと書いてたと思い込んでたが、それほど書いてなかったようだったこのドキュメントへ追記。

いよいよ私は、映画を英語音声、英語字幕、勿論字幕なしは未だ早いというか不可能ではあるが、辿り着く。

のっけから、Crickets Chirpingに戸惑いを隠さない。

聴こえないので、音量MAXでも大した音量にならないプレーヤーだが、辛うじてコオロギさんたちの鳴き声なのか愛の囁きなのか歌声なのかがあったことを初めて知る。

その前に久しぶりにスター・ウォーズ並みに何度も観てるゴッドファーザーを観始めたものの、英語字幕があるDVDを購入したことはあるが、英語の勉強は終えてたというかほとんど読めない、喋れない、書けないながら、最近はゴッドファーザーも英語でと思い込み観賞会を中断する。

しんこんかいのるつぼと、えんでぃんぐのるつぼでは、日本語と英語は全く違うというか、黒沢監督の映画のスタートラインというよりは、そうぎでもいいわけだが、コントラストにならないから、しゅうぎといんふらがかかってるぶぶんぶぶんまでを取り敢えず書く。私書くわ。いつまでも書くわ。


コオロギの宴はどういうメタルがあるのだろうか。

そういうことのみではなかっぺがという都合とか、社会性だと、何らかの映画を先に観てるかどうかとなると、それはどうでもいいかんじとして成立させなければならないから、こいつらに大切なコオロギが、私は分からないことが大切というぶぶんぶぶんもあるじきじき、わくわくだろうと思い込む。

クリケットにかけてるとしてもクリケットだから余計に私は分からない。ジョーブラックの声への何らかの交通整理があるとしても。





2025.3「ロード・オブ・ドッグタウン」「Dogtown Z-boys」 感想8

2025-06-14 15:05:22 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2025.3.26

2:13

食事会と観賞会でトニーアルバステイシーペラルタコメンタリー版観賞会終了。終了後御風呂場で喫煙。スケートボード専用スニーカーを履きつつ、スケートボード無しでマニュアル難しいなと思うも、がに股というか、スケートボードのスタンスではない、足の指先の方向を外側に向けると安定する。スケートボード上ではそれは好ましくないスタンスになる。


2:53

再び御風呂場で喫煙。後はやはり体幹。腹筋と丹田?丹田はジョギング?。特にスケートボード上ではスケートボードからとか車輪だとかと体幹が相当鍛えられてないと基本も覚束ないように思う。スケートボード無しでもマニュアルが難しいとは夢にも思ったことがなかった。スケートボード無しでオーリーは簡単だと思うけど試したことはなかったと思う。スケートボード無しでもジャンプ難しいのは知ってるけども。原則的に、スケートボード無しでスケートボードの高さを加味して飛べない障害物のようなものをスケートボードで越えられるか思う時がある。スケートボードより棒だとかそれこそスプリングマンのような靴とかがオーリーより断然有利である。問題は帰還というか着地で、越えた先にマットすらなければスケートボードが有利ではある。スライダー?でステアリングを外れたら大変な高さからオーリーとかでいくような猛者は、随分低いそれらをほぼ完璧に出来るんだろうけれども、YouTubeとかにある動画でそういうのは見てるこっちがこえぇ。スケートボード無しオーリーも本気でやってみても難しいかも知れない。そういう練習が先かも知れない。レギュラーだと左足に重心が無さ過ぎ、グーフィーだと右足に重心が入り過ぎる私は。


5:13

昨晩だったか、spankbangから無料ダウンロードかましていた私の完全な好みまるだしコレクションで永野つかさちゃん?だったか感度の演技なのか凄い動画でオナニーしようとしたものの何となくその動画の調子が悪く、超絶可愛い子供たちの子供たちレベルの世代の若いオナゴで最終的に初めてオナニーした時にはインターバルが短かったから短いポコチンの付根を片手で抑えて柔らかい勃起を支えて片手でオナホールを一桁台のストローク回数で射精した。そんな私は彼ら彼女らの命をぼんやり、そして完全にまったりひっそり人一倍思ってないレベルで思っただけの数分で御風呂場かトイレから万年床に帰還をほぼ繰り返している状態で先程万年床に無事に辿り着く5歩程度?の最後の一歩で、パンダというのは、生産性以外(人間そのものというよりは、人間よりも人間以外が恐らくは先立つわけだから、人間そのもののためには人間以外が全てに先立つから人間そのものがあるという独断では特に生産性のように瞬発力だけでは思う。)とかでは、こしぬけでありつづけるパンダを人類は望んでいるということはどういうことかを独り言でぼそぼそ吐いて万年床入り。挙げ句の果てには万年床入りの瞬間に、パンダをよく知らねぇが、パンダは私をよく知らねぇというより、パンダで私を知ってる奴はいねぇと大人気ないことは口につく。


6:04

スケートボード専用スニーカーを暇潰しにことのほか気に入った気分に浸って半日お部屋で履きっぱをしたが、スマホ代金遅延状態でもスマホ代金同時払いで、メルカリで何故スケートボードが安くないのか独断が合ってないがスケートボード専用スニーカーが1000円と数百円で両足分というのとウィールも1000円と数百円で四輪分だったので購入。

にゃんこ大戦争は明日?刃牙コラボが始まるようで、るろうに剣心コラボは逃したが、斎藤一にゃんこは凄いらしいので、それもインターネット攻略サイトで拝見したが、範馬勇次郎は伝説にゃんこの可能性があるらしいが、範馬勇次郎にゃんこの場合属性とか特性とかいう範囲にすらならないようなことを思う。それなりにちょっとした個人的な潤いの思考回路が瞬間的にあったなと思う。最近潤いという言葉が、ぼくは明日、昨日のきみとデートする。での、ふくじゅえみちゃんの、わかる!潤いがない!というイメージしかなくなった。


7:22

最近私は基本的に物心付いた時からほぼ変わらず私だけが極楽に行きたいとしか思わないから、私だけがエレベーターの乗り降りでなるべくなら飛び乗りたいほど乗り降りの瞬間にエレベーターが落っこちねぇようにとしかエレベーターを思わない。そういうてめぇを思うことがないから、それでは他者も極楽に行くべきだとか毛頭思わない。みんなが極楽に行けるようにという発想が未だにない。生きてる間が極楽であるべきなのを棚に上げて。みんなが極楽に行きたいなんていう社会性だと、それもまたほぼ生存よりもあの世にしか目的がないことになるから、私は知恵はないが、みんなをあの世にとは思ったことはなかったということになる。人道的。こしぬけしか社会性にならねぇならしうんどうという141年目の時間がある以上それも人道的と断言出来ないというか、シンエイタイにそういう身勝手で我が儘なこしぬけの論理はこくというよりこしぬけが目的にならずんばこしぬけたようせいで基本的こしぬけ以外になる。こしぬけしか残らない状態、こしぬけしか居ない状態。社会性がまともなこしぬけのため、こしぬけがまともな社会性のため。こしぬけ理論はクソガキとインテリに話が通じないだろうほどだが、トイレで最近読んでる残酷な進化論の影響で、相当だろな。残酷な進化論の筆者の爪の垢ほどの知性もスーツ論の鼻糞ほどのユーモアも私はないから私の基本的なこしぬけ理論はもともと基本が異なるのは。と書きたいが基本がなかったということになる。


8:02

思い出した。

こしぬけそのものの論理よりも、しなせんが私は強めの理由を忘れたから、それを思い出すのも一苦労だし意味がないから思い出すのは止めようと思う。


8:36

今日はドキドキしながら以前見付けた50号線沿いに看板はある思川付近?のスケートボード屋さんに初めて行こうと思ってたが、これから寝ると夕方まで起きないから行けないなぁと思った。


18:35

お昼前まで一眠りぶっここうとしながらお昼過ぎから本格的に一眠りぶっこいて夕方起床。途中人んちのチャイム音で起きて次いでにおしっこと、私のお部屋のチャイムではなさそうというサスペンションで健やかな眠りに着く。

先程朝御飯。エスセレクトは烏龍茶と牛乳美味しいと思うけれども、包装米飯も美味しいかちょっと分からずパッケージを眺める。新潟米が包装米飯ではたからの持ち腐れなのか包装米飯で新潟米ならば最高値で基本的に生活が相当反故になってる輩しかそれを買える経済力はないはずで、新潟とは書いてあってもそれは米ではなくて水になってる。米に新潟か秋田のどちらかが書いてあることに購買意欲と信用、どちらもなるべく新潟の人だとか場所だとかに関わりさえ持たなければ、新潟の二文字で何となく包装米飯はステイタスな感じはある。牛乳のパッケージも眺めると、宇都宮らしいが、日光?霜降高原という引き締まった感じの高原でも、物流の問題だろうけれども、北海道の三文字牛乳にはイメージ的に本場感というか劣るという範囲ではあるように思うと米ではなくて水の命懸けならば、北海道生まれの牛さんの子供たちだとか、北海道の牧草で大切に育ててますとかの北海道の三文字が牛乳にあるのかないのかで牛乳不敗神話。ほとんど地図でもいいぐらいのようにも思う。姿で語れる北海道

。都道府県で地図というか区画のプロポーションで最も当たり前ではあるというか北海道と沖縄しか分離独立した陸地がないから、それでも北海道の地図=牛乳とかバターとかしかほとんど思い浮かべないのはある意味ではめでてぇ思考回路だろう。

そんなことを思い浮かべながら、思い出した。

昨年の一時期は最早しなせんではなくて、しょうしかじつげんだった。

しかも熱唱すらしてたかも知れない。

しょうしかじつげんを唄うのに熱唱しない人間がこっちは理解出来ないが、歌声の基本を成してないがスケートボード公道デビュー派としては、作曲名曲まかせで歌詞だけは熱唱デビュー派。歌詞を作ってから歌わない。歌いながら歌詞を作るという恥ずかしげのなさ。

最近は、しょうしかじつげんという言葉をすっかり忘れてた。取り組むとかも忘れてるのを取り組みようがあるはずもなかった。


2025.4.5

19:17

シャウエッセンよりえらくはないとはおもわなくもないがえらいシャウエッセンと発泡酒と包装米飯と鮭フレークで鑑賞会開始。popはそれが西海岸、東海岸ではあまり魅力がないと言い切るしかない部分はあるにせよそれと外人。見栄えが違う。日本人で現在によると白人黒人とかもさることながら、韓国人は全員テコンドーの達人の可能性ありとか中国人に至っては全員呂布出ないのは間違いのないところでも酔拳の使い手、蛇拳の使い手、木人拳の使い手と時代錯誤としてもそれ以外の人間はその暇と余裕はないからとそれは中国人というより当時の香港ですというよりも更に言うとジャッキー・チェンです。北の湖知らん千代の富士横綱の印象ではなくて感情型というか直情型だからブルース・リー知らんけども映画はブルース・リー名作だなと後付けで私は一回こっきりしかそしてたぶん2作品しか観てないけれども北の湖を観る機会と機械がなかったから北の湖おっかなそうな面構えで、それを書くわけでもないからさらっと書くことほど無礼もないということもあるから書くべきことをじっと耐え木人拳のごとき瞬間の妄想で今回は締め括ろうと思う。


20:23

ヨーヨーとフラフープまで観る。

基本笑顔と称賛の販売戦略。エンドユーザーは筋トレ器具とかやはり銭金とか食事や便器だとか清潔感とか爽快感という、筋トレでそもそも笑顔という素人相手の発掘とか私のようなのは思ってしまって、筋トレ器具とかいいなぁとかやはり思うことは思う。筋トレ器具が頑張れないと私に頑張れない筋トレ器具のままである筋トレ器具に私は目くじらを立てるような子供地味たことは思わない。ときが多い。


20:08

最近久しぶりに観た際に印象深買った、スタイルィズエヴリシィンまで観る。いよいよ私はいつも公道デビュースタイルと言う恥辱しか思わなんだ。がそれ以外とかそれ以外も恥辱だから大したこともない。


2025.4.6

11:01

昨日メルカリで購入した新スマホが届く。simカードの入れ替えでインターネットが出来なくなっちゃって少し寂しい思いにいてもたってもいられず携帯屋さんに直行。無事にインターネットが出来るようになる。

笑顔フラフープとか笑顔ヨーヨーという新規開拓者以外には効かない社会性、活気ある世の中を少し断片的に思うことが少なかった1日を振り返るのは疲れるから止める。


20:01

本日メルカリで購入していたスマホ画面保護強化ガラスが届く。当然上手く張れずやり直しを試みる。当然上手く剥がれずスマホ本体の画面すら剥がす。スマホ本体の画面も剥がしたら、この五年前位の新型スマホは製品自体に強化ガラスのようなものが着いていると思う。スマホ本体の画面を元通りにしたけれども、強化ガラスを二枚重ねにしたということなのかもしれない。


2025.4.10

23:46

まだ今月は10日しか経ってねぇのかと思う。

トニーアルバステイシーペラルタ版鑑賞会終了。