2024.5.20
前日途中まで書いて、もっと書こうとしながら途中までで書かなかったのは初めての経験であると、ブランデーを久しぶりに飲めて、半日完全に眠りこけ思い込む。
コップに飲みかけのブランデーを、パイプ葉だったら良かったなぁと思い込むも、コツコツと、そして地道、実直に、ピースだったら良かったなぁと思い込むもほぼキャメルの吸い終えた少ない葉っぱを貯めていた小瓶に注いだ。
飛行機ではなくてロマンストレインに乗って、国内旅行ではなくて海外旅行にお出掛けの部分までを観賞会をした。
雄猫も同じだったが、家族の厚みというのはセントオブウーマンにあったと思い込む。それがない厚みがプロフーモ・ディ・ドンナにあるけれども、のっけの青年の街場が全体主義としては見事というかセントオブウーマンでは忘れかけてたというか最初が学校だったのとほぼ同じ地場論だと思い込む。
のっけの音楽が、青年以外にあわせてあるのか、それから登場するばぁさまとかイタリア版梶山静六さんにあわせてあるのか然程思い込むことはしないと思い込む。
吸殻からこまめに葉っぱのみを小瓶に移す作業中、梶山静六さんというのはどういう人間になってしまったのかを思い込む。田中真紀子さんという、なんとなか朴槿恵さんの単行本は読んだことがある私は、その一言のみでしか梶山静六さんを知らず、何となく茨城県のどこかの選挙区の代議士、何らかの大臣になった人のように思い込むし、しゃべりはテレビでも聴いたことはない私は、肉体、これはローマ帝国がりょうしききかんからして欠落してるぶぶんだけれども、それは確かにインフラによるそれではない自律というか他律というか規律というかの風は思い込めるようなみてくれだと思い込む。
夜中にポッポの汽笛で目が覚めて、物色中、直ぐにピストルがあるよりは、義手からおなごの写真からのピストルは全く分からないながら、何となく見事かと思い込みつつ、どうしても展開がハードコアというか、カットのビビットがそれからのビビットとビビットトレンドカットなのかとも思い込むようにしてみようと思い込む。
旅行の段取りで、海外旅行だと思い込んだが、国内旅行らしい。
ノートルダムだとかサグラダ・ファミリアだとかのような説明と受け取ったというか、全く観光そのものがおなごのみという革命映画ではあることに、ロードムービーそのものが、盲人と青年による、おなごの説明、セントオブウーマンを観てないならば、ピストルの説明は、青年が対象ということよりは、そのサスペンス付けをぶったのみであって、やはりマザーファッカーパッケージが、最後にてめぇがそのマザーファッカーの基本のみのロードムービーというぶぶんが本筋だろうかと思い込むことを思い込むようにして続きを本日、やはり英語字幕は疲れるというか、ほとんど画面は何となく視野にはあるがほぼ英語字幕しか眼中にない英語力という私としては、盲人と青年の筋でかましたかったのは、道案内を盲人にさせたかったこともさることながら、東京もあの当時その水準だろう街並みがぶっとんでるというか、東京は言葉通り街並みがぶっとんでるんだが、その後に街並みがぶっとんでるんだが、その後にも現在のようにぶっとんでるんだが、その時のばぁさんの機敏、敏捷というのもコミカルというよりそれが正しいか間違いかすらもばぁさんにはなから、これはマザーファッカーのサンコンプの敏捷というより微笑、微笑を思い込むと、先日お風呂場で喫煙中、モナリザよりは、上杉謙信というのは、大和撫子に思い込めなくもない、しかも武田信玄は誰がどうでもまごうことなき男でしかないが、ウィキペディアで10年前程度だったか読んだのみでの上杉謙信女説というのは、仮に上杉謙信が女だったとしても、それで何かが何かになるのかが私は分からないなと思い込んだ。ばぁさんは、盲人の説明が正確ならば良いという博打をぶってるわけだが、これのサンコンプでの厄介は、盲人はそれが正確でないことというより、ばぁさんがその盲人以外の説明で道中いくことのリスクを回避したという万能細胞的なぶぶんが、こじつけではあっても不存在にはならない筋ってのが、ぶぶんではないというか、最も安易、快適のワンコンプがアイだとすると、アイではなくてボディというのがアイの欠落では先立つというか、ボディの動線というのを盲人の道案内の一齣でぶったのではないかと思い込むようにしてみる。
オープンカフェまで観賞会。
私の英語力の貧弱さによるが、ほぼ字幕以外は眼中に無さすぎだったのが、十字ってのは、映画の筋より、私が書き上げる筋がと思い込むも、正確にというかもっとゆっくりというか都度停止して英文を検討が基本だが、オープンカフェで、盲人に意味がない背丈のぶぶんにおいて、商売人というかは、背丈が低いにこしたことはないというか、特別お辞儀も必要ないというか、就活では背丈は大変に重要な接客業ではないかと思い込む。
2025.1.7
23:21
昨日から20度目の観賞会に向けて観賞会。生まれて初めての当映画を英語音声英語字幕に挑んでるので、時間がかかるというか楽しくないというか画面はほぼ眼中に入らないほど字幕に夢中にならざるを得ないしつたないというかおぼつかないおぼろげな解釈でなんとなく観てるかも知れない。今しがた、急にジョーブラックが車に跳ねられちゃうところ前までを観る。新しき世界も急に車同士で跳ねるというかでびっくりした記憶が甦る。
昨日観賞会してた好きな場面の一つではあるが、てめぇでそれを言語的にしてみると、クレアフォラーニは人類史上の別嬪だとは思うけれども、ブラッド・ピットのキューティーさというのが当映画にぴったりだったでしょうかと思いながら、昨日英和辞典と共に、I want you to get swept away out thereだったかを昨年も数分夢中で調べたが改めて調べてもよく分からないというより語根のような納得をしようと思えばという曖昧さでしか分からずじまいを昨日も久しぶりに繰り返したが、その時のクレアフォラーニの顔芸は、日本版しおりちゃんの顔芸と少し重なるなと思う。
昨日はそれよりもジュリアちゃんのアダルティなビデオを夢中で無料でダウンロードして、数時間前にオナニーした後に、久しぶりに、巨乳と巨根の人間も、それで社会性だとか、間違いなく勘違いやろうどもが勘違いやろうどもとして勘違いやろうらしく、せいしょくしゃてきなけんこうか、けんぜんかとして、例えばはなから中学校だとか高校だとかの従事者の道を絶対的に外れるような運動会としてもへっぽこやっきょうらはしているだろうことも、へっぽこやっきょうらのうでのみせどころなんだろうなとかぼんやり思う。
それを乗り越えるとしても、僕たち私たちは、巨根の先生と頑張ってますと社会性として大切ではあるが、そのよりよくしさんこんぷにあまんじるせいしょくしゃとせいしょくしゃとせいしょくしゃというナチュラリズムというのも生命論理だから、そういうことをやったところで、巨根の先生がたった数十年で巨根の面影一切ないということもさることながら、巨根の先生の学校という勇気だとかのせんせつなんてのは、そもそも巨根の先生というマイノリティとリミテッドで成立していることに違いないから、巨根の先生200周年という垂れ幕を学校で掲げる、卒業生200才だとかが本質的基本というか目的だが、その目的がいのよりよくしさんこんぷが生命論理というかナチュラリズムでもあるからというぶではというぶを書き続けるほど根気は私はないから観賞会続けようと思う。
1:07
ピーナッツバターまで観賞会。
mossyをどこかで読んでるので、その前に既出のcat 忘れた。クレアフォラーニの顔芸の英語の台詞は1日だけならそれなりに覚えられたが、言い回しというか慣用句というtongueの熟語を既に脳ミソからなきものにする私の本領を確認しつつ、moseyという私にとっては初体験なる単語というか言葉だったらしかった。ぶらつく。じょーぶらつく。
1:12
クレアフォラーニがプールから出る寸前まで観る。
バサロが平泳ぎですげぇなと初めて思う。しかしそれが自由形だったりバタフライだったりでは味気がないということだろうと思う独りよがりの納得をした。
1:16
社会性的世紀の美女の一人クレアフォラーニが水着の場面の途中まで観る。やはりブラッド・ピットのピーナッツバターのスプーンがよりキューティーというか、18才位のてめぇだったら真っ先にクレアフォラーニの水着姿でオナニーしてるはずだが、DEATHというコントラストも手伝っても使用してるとしても、トゥルーロマンスでのそれだとか、プラトーンでいうジョニーデップはそれなりに相当な役柄だけれども、それが出来る出来ないということと諦めない諦めてないということとか、ゴッドファーザーに至っては出てないのにパートⅡで主役級のデニーロというオーディションですらもそれがという目利き。それ以外の数の論理のさんこんぷがきほんのなさきちのナチュラリズムではあるぶはあっても、ブラッド・ピットならば私は最近まで知らなかったがリバイバルというかリメイクとしての当映画になるということも多分にあったように思わなくもない。なんとなくブラッド・ピットを観てるとハリソン・フォードをもっと若々しくもっと可愛らしく、そしてもっとピチピチにというように思うと思わなくもない。ハリソン・フォードはそこに困惑だとかのキューティーさという台詞だとか背景に依存しないでかます稀有なものを私に感じさせるほどに目利きな奴等は私に理解される手落ちはしたくないだろうからそれだけはそのように理解してるということはひっそりこっそりやっぱり書いとこうと思うより先にタップしてたと思う。
2025.1.9
4:15
ラムサンドウィッチは映画で食事会だがその途中まで観る。
病院内でのsoonに少し戸惑い英和辞典で調べる。
ラムサンドウィッチでアンソニーホプニキンスを観てたら、役者というか俳優を漠然と思う。要するに恐らくは思い出しさえすれば新聞を読み始めてのテレビ欄での信長の本能寺を思い出す。当時は独りでずっと思い込んでいたように思わなくもないが、初めて、その役者そのものが自害をすることに疑問がなかった当時の私だったということを思う。要するに何故信長役の役者さんは、テレビドラマで自害をしてしまうのかということの一点張りしか考えてなかったというより、その思考回路の発展性は他の追随を許さないほどに全く意味不明というか意味がなかったけれども、テレビドラマそのものの全てを信じ込むにもほどがなかったし、そのテレビドラマを観ようとかという目的すらもないし、観ても分からなかっただろう時期だし、仮に今観ても分かるか分からないかということと、何をなぞかけるかとか何を適用という目的とかの部に多少命を削るだけだと思う。
相変わらず、疑問文と否定文は英語字幕で一呼吸も二呼吸もおかないとと、動詞と動詞の特に過去型とか進行型とかは一拍も二拍も私には必要で、形容詞だとか副詞だとかは何となくで読めば進行会。
そういえば、まだまだ近年でも、私たち結婚しましたの、ヒョーンさんとソヒョンさんは何度も観た時期に、二人の結婚を願うほどにもなってたというか、何で二人は結婚しないんだろうとすら思い込んでいたのを思い出しさえした。ほとんどその二人同士の結婚が成就されなければ残念というかがっかりなほどということこそが、そのテレビドラマというかバラエティというのかの真剣師の両刀だろうけれどもとか解説者気取りな物言いだなと思わなくもないと思わない。
2025.4.30
3:19
昨日から英語音声日本語字幕で鑑賞会。
今しがた包装米飯と鮭フレークと牛乳は残り僅かだったので飲み干し発泡酒。食後のひねり揚げで当日三度目のジョーとスーザンの場面を終え新しい朝が来た場面まで観る。
所々日本語字幕のセンスもわからないでもないけども、そのセンスというか意訳がわからない。
ドリューのオリンピックというのが手持ちの辞書の全てに記載がなく、スラングなのかグレイトとかよりもやや期待外れの対人関係の憐憫を含めた自己答弁的なニュアンスなのかと思う。
初日のジョーは全て飲食であることを今回思う。
三度目のプールサイドでは、スーザンよりもピーナッツバターが第一というのもあるだろうしそれがユーモラスだが、二度目というのがビルのパーティーに相当するとこじつけるとこじつけが出来ると思わせる映画の懐の深さを思わざるをえない。