2022.10.14
里見先生とデートまで鑑賞。
脚本として、不測の事態として国民国家総動員。
このドタバタはオシアワセそのもの。
この程度のドタバタがオシアワセ。
映画のトーンも、この映画は映画のトーンに近付きながらもオシアワセのトーンに着目、焦点がある部分がある。
最初の航空機の件は故意か無知か分からんけども、それをこじつけることなく鑑賞させたい一心があるとも考えてもいい部分がある。
最も効果的な脚本としてであると思うが、それを説明は出来んだろう。
この映画を鑑賞する前に、三宮つばきちゃんの動画を初めて鑑賞し、射精した。
最近初めて知ったが、かわいい。
しかしそれまでの私は三宮つばきちゃんを知らなかった無知がある。
三宮つばきちゃんを知った知識は私に備わったわけだ。
クラーク・ゲーブルについて考えたが、クラーク・ゲーブルからの愛を否定出来る女性はひりつとしては少数派になる。
クラーク・ゲーブルがそこにいるだけで、女性は通常のトーンから逸脱していくこと、していくときが増加する。
クラーク・ゲーブルで交通安全が変質する。
クラーク・ゲーブルもひとりなので、その交通安全で、それからの交通安全で、それと違う交通安全でそれの交通安全で、タシャが交通安全に努める。
クラーク・ゲーブル理論をどこかで発表しようか。
これに余興と惰性の精根を注ぎ込めば如何様にも変質するわけだが、私がそれを頑張るということでは、クラーク・ゲーブルよりは、グレース・ケリーかイングリッド・バーグマンが最も容易くなる可能性が高いが、グレース・ケリーは立場?がちょっとイモひく式なこととしての八百長に乗ってやらんといかんし、イングリッド・バーグマンはフェリーニ?のマンコだから堪えとかんいかん。イングリッド・バーグマンのポコチンがフェリーニだから、その意味では、そのポコチンのために堪えとかんいかん。
よって私の余興と惰性への無味乾燥、無限の無駄の創造への旅立ちの喪失が、彼ら、彼女らによってマッチポンプ。
映画の続きを観よう。
カルビーギザギザを食べながら観始めたが、後三つも取っておいた。
果たしてカルビーギザギザを再び食べながら再び映画の続きを観るべきか。
プロスピさんだけではないが、カルビーさんの野球カード式として同時進行ようかどうが大切なことであるから、カルビーギザギザの繁盛がようかどうしているところもなければなるまい。
買ったのに付いてなかったのあったけど。
里見先生は症例7号だったのは興味がなかったし、意外だった。
自殺しちまったサトラレも存在したということで、頭数としては症例7号はしょうれい6ごうになっているということではある。
べりぃぐぅぅっぜんだけど。
その論理でいくと、私は二代目柳田太郎から、初代柳田太郎に戻ることが必要不可欠ということを考えなければならない。
それは今までついぞ考えたことはなかった。
その論理でいくと、この映画も、私の考え方にそれほど違ったシンボリボリルドルフルゥフでもない。バンノウヤクだけどね。
オチョウシヤク。
里見先生役の安藤さん?超かっちょいいお顔してやがる。
役者さんとしてマッチポンプ出来たケースの一例か。
寺尾さんだけ、この映画のトーンに沿ってない。
八千草さんは、沿ってないが沿っている、沿れるようになるおまわりさん、おそばやさんたちの脚本としての反作用がある。
八千草さんも超かわいい。
2022.10.15
何度か観たが、初めてエンディングテーマ曲を聴いた。
しかしまだ泣ける。
この映画のトーンを撮るのはそれ以外の知識と手段がないと難しいのではないか。
作中に流れる曲も良かった。
地球、人類、国、偉人だと特にだが、時空間と共に、時空間を越えてサトラレになる。サトラレにしていく。
サトラレの合致と齟齬の同時進行があるけれども。都合、余興の豊かさ、暇と。
サトラレということで、例えばありがとう。ごめんよ。
これはそれぞれ一種類の言語だが、人によってカイリセイサンコンプがある。
サトラレでなくても同じように。
一つの言葉だけで。