2024.11.3
13:32
映画の半分に相当する部分、クリストファー・プラマー一家の宴の途中まで、ドリーム・オブ・サウンド、ジェリーアンドリュースコメンタリー版で観る。
こうさいざんまいの絶世の美女としてのクリストファー・プラマーのコメンタリーは当たり前だと思うけれども、絶世の健康ジェリーアンドリュース、黄色い動物としては絶世の美女と絶世の健康に然程違いは見出だすつもりもないし、見出だす暇すらないが、絶世の美女の鉄則は、近年でいうと川口春奈さんは九月の恋に出会うまでだったか、九月の恋と出会うまでだったか、スクリューボールコメディー、より作品をお忙しい人民に無駄のない状態で、川口春奈さんならば可能であるじゅきょうのいけいけなやつらにとっては、銀幕というか、ボナセラボナセラと同じ類い、牛の糞にも段々があるんでぇと同じ類い(宍戸錠以外インポッシブル)、いい人ぶってんじゃねぇよ、吐き気がする、三回死ね、修学旅行中に虫歯になれという畳み掛けの極致と同じ類い(ジャンギャバン以外きっかけにすらないない)、断る理由はござぁぁせん(実写他じゃ無理なことを一応完全にやれますが型)と同じ類いの、基本どうしても君の瞳に乾杯ある種の和訳のより直撃ロマンチックしかもカサブランカでというそんなはずはないんだが、ボギーとイングリッドバーグマンならば実現可能代議士。もっと民主主義的に、預言者三昧完結型の実技と実演済まし型。
かえすがえすもウエスト・サイド物語のコメンタリー、それを誰がという難問はあるにせよ、ないのはちょっとだけは残念だと思う。
三十年間、サウンドオブミュージックを思って生きてないが、何となくサウンドオブミュージックは、山越えで、ことあるごとにサウンドオブミュージックだった印象派だったが、ほとんど山越えは最後の最後しかも歩いてるだけだったのは意外だった。それでも二度目の観賞会、コメンタリー版だがの昨日は、用心棒と椿三十郎はミュージカルが念頭にあったのかも知れないとか、サウンドオブミュージックに七人の侍は現れないし、雇わないし、そういう段階に最早ないし、
2024.11.4
17:37
「サウンド・オブ・ミュージック」ジェリー・アンドリュース、クリストファー・プラマーと他の方々版コメンタリー観賞会終了。クリストファー・プラマーのコメンタリーが少し面白かった。
「ゴースト」監督と脚本家のコメンタリー版観賞会前に、リメンバリング・ザ・マジックという撮影内容動画を見終える。
18:32
数日人知れず「サウンド・オブ・ミュージック」、そして「サウンド・オブ・ミュージック」ウィキペディアを初めて読み、大傑作映画だけれども、「風と共に去りぬ」の興行記録を抜いたと書いてあり、いくらなんでも「風と共に去りぬ」は抜けなかっぺと思うも、E.T.だとかタイタニック、アバターとかは確かに世界記録だったと思うも、そりゃぁ当時の価値だったらと思ってたら、ウィキペディアの「風と共に去りぬ」がブラフでなければ、やはり抜く抜かないの次元にならないのではないかと思う。未だ現在に換算すると「風と共に去りぬ」が一番らしい。アメリカ映画名台詞一番もレット・バトラーらしい。
よくよく考えると「サウンド・オブ・ミュージック」は純粋にフィクションとしかそれすらも考えたことがないほどそれなりにノンフィクションというように思ったことすらなかったけれども、ウィキペディアでトラップ一家というのは実在して、それなりにノンフィクションらしいのを知った。
リメンバリング・ザ・マジックにあった、ウーピー・ゴールドバーグのアーチスト型説は、ほとんど「ゴースト」では完全なバリー・ボンズ型だと思う。パトリック・スウェイジの出演前の十八番?は面白かったし、女性層から概ねディドゥと言ってというチャーミングなコミュニズムも面白かった。デミ・ムーアの短髪というのも、確かに「ゴースト」のオナゴが長髪だったらとイメージ出来ないほどと思う。
19:07
コメンタリー版観賞会前にウィキペディアを読む。ウーピー・ゴールドバーグ バリー・ボンズ型などと知ったかぶりぶっこいて書いてたが、アカデミー賞獲得してたらしい。以前何かの映画鑑賞会感想でも作品賞だったかの傑作を、生意気通り越して書いてた時を思い出したものの、その映画そのものを思い出せない。「ディア・ハンター」だったか。近年30年ぶり位の二度目の鑑賞会ですげぇ映画だと思ったけれども、「ディア・ハンター」の映画そのものの理解が全く出来なかったのかも知れない。子供の頃に観てたアニメとか歌の番組とかと同じ。映像が流れてるのをただ観てるという能力。全てが難しかったということだろうと思う。
「ゴースト」は、ラブロマンス映画では最も成功した映画らしい。陶芸のシーンが卑猥にならぬ苦心を話されてた。観衆の心地好さへの苦心だろうか。映画史上屈指の陶芸シーンなのは然程異論あるまいと思う。
23:13
「ゴースト」コメンタリー版観賞会終了。
公開当時は、1セント、ダンス、この世にはまだない天国というか、天国が果たして天国なのかという思考回路にしかなってない私だが、その三段階が号泣したか号泣手前の泣きじゃくりだったか。モリーと共にいない以上でもサムにとっての天国ではないが、ジュヨウだろうキョウキュウなしだからジュキョウにならんし、モリーを天国に一緒にというわけにもいかんわけでもサム ライと書くと余程大顰蹙になる。最後にモリーがディドゥと吐くのはそれほど意識したこともなかった。そしてコメンタリー版で、君の瞳に乾杯レベルの決め台詞として、愛で一杯だ。その愛を君に。が決め台詞になったらしいが、その脚本家が実際に恋人にディドゥと吐いてらっしゃったらしい。モリーのディドゥでも素敵という天国送りの事情だがそのように思う。モリーとオダ=メイのカフェでのディドゥが好みである。複数回観賞会して、その件は褪せない。
明日は「7月4日に生まれて」コメンタリー版観賞会予定。「ディア・ハンター」とそれほど遠くない時期にレンタルビデオで観賞会したと思うが、「7月4日に生まれて」は、つまらなかったという記憶はないが、「ゴースト」でもサムはハリソン・フォードかトム・クルーズが第一候補だったらしいけれども、そしてモリーに「デイズ・オブ・サンダー」前の名前が出てこない。ニコール・キッドマン。も候補だったらしい。「7月4日に生まれて」はトム・クルーズよりも、ゲイリー・シニーズの印象派だが、チラ見だけで今回レンタルDVDのパッケージでは、ゲイリー・シニーズが見当たらず、ゲイリー・シニーズではなくて、ウィレム・デフォーだったのだろうか。ウィレム・デフォーは「プラトーン」のジャケット観てもウィレム・デフォーだとは観てないと誰も思わないわけで、「インターステラー」のマット・デイモン型だろうか。「オーシャンズシリーズ」のブルース・ウィルス型とか。
2024.11.5
14:26
「7月4日に生まれて」のコメンタリー版より先に、NBCニュースアーカイブスという特典映像を全て観る。トップガンをライトウィングムービーとして今まで一瞬も考えたことも思い始めたことも読んだことも聞いたこともなかったので、そのテーゼは意外だった。ウィレム・デフォーはやはり出てたが、「7月4日に生まれて」は、ゲイリー・シニーズの印象派の四半世紀を過ごしたが、特典映像にも出てなかったのは違う映画だったか。私のようなのは、当映画以降はインディペンデント・デイしか7・4を全く思いも考えも読みも聞きも覚えもしてない四半世紀だったと思う。ほぼ半世紀。
14:46
オープニングのクレジットまで観る。ゲイリー・シニーズはその時初めて、フォレスト・ガンプではないかと思う。近年フォレストガンプは二度目の観賞会をしたが、バックトゥザフューチャー並みにナイキの印象派でしかなかった。
16:15
コメンタリー版観賞会目的ながら、全く覚えてないので映画観賞会をしてからコメンタリー版観賞会をしようと思い、トムクルーズがぴんぴんしてる最後のようなシーンまで観る。それからウィキペディアを読む。トムクルーズはほぼ一年間車椅子で過ごしたらしい。はしりだけ読んだパラスターは名前の印象から原作者はオナゴだと思うけれども、作り手はオナゴ、作り手もオナゴ、作り手の担い手も恐らくオナゴだろうし、ジャケットがオナゴ。最近伊藤舞雪さんという確かにぶっ飛んだ肉体美だと思うけれども、何故かチンポコはビンビンになる五十嵐なつちゃんが出てるようなシリーズにも出てるようなのを知るも、例えば尺八なり挿入なりでは総じてその肉体美は思考にあるかないかであって、ウィレム・デフォーの肉体美、昨日だか改めてとしか言い様もない分野ザ・風と共に去りぬのウィキペディアを読み、ダムというのは、恐らくエクソシストというのが相当確信犯としてやったと思うけれども、クラーク・ゲーブルで成立ならば、和製ジャンギャバンで成立の特に三回死ね、そしてとどめの修学旅行中に虫歯になれというのは、サムよりやりたがらない役だろうし、サムよりカール役は最悪の印象派としての烙印にしかなりようがないけれども、銃声があるだけまだましという運動会、説明責任のだんかいあるだならば、
2024.11.6
13:14
「7月4日に生まれて」観賞会終了。コメンタリー版観賞会前に、「ひまわり」観賞会予定。
ケント州立大事件というのは当時の映画観賞会でも記憶にもなく、ウィキペディアで読んでも、それ以降「ニクソン」は意味が分からなかった、単純な言葉ならばつまらなかった映画という記憶しかないが、ケント州立大事件というのは相当なインパクトがあったらしく、描かれてもいたらしいのを知る。ピューリッツァー賞の写真もウィキペディアで初めて見る。
「ひまわり」も完全な二度目の観賞会で、たぶんほぼ中盤のマルチェロ・マストロヤンニが別の家族との社会性、人間性によって、ソフィア・ローレンが独り帰還するシーンでほとんどテレビ画面が涙で見えなくなったように思う。当然そこには、たららら らららぁぁぁ ららぁぁぁ たららららららぁぁぁ が流れていたのではないだろうか。観賞会当時の私は小学生ではなかっただろう。中学生だったか。なんで最後じゃなくて途中でこんなに感動、心を揺さぶられる、哀しいのかという思いしかなかったように思い出す。
トム・クルーズのページも読む。大スターだから、ゴシップ的な、さまざまなゴシップ的へなことも書かれてあるように思うけれども、コメンタリー版とかメイキング版とか同様、例えば金銭感覚なしのクソガキの野郎が好きなオナゴに琴線感覚として最高の運動、道端のタンポポ殺害で、その亡骸を手渡すというようなものに、そのクソガキの生年月日だとか、環境だとか、当然にあるさまざまなじゅきょうとしゅしがくの坩堝と段々畑にさまざまなわけだが、「サウンドオブミュージック」でのジェリーアンドリュースも撮影時の苦労話があるというのも、ほとんどサウンドオブミュージックは夢物語の部分がある以上、コメンタリー版だとかメイキング版だとか以外で以外としてもという分野も、それこそりょうしん以外でしかりょうしん以外と以外としてもという、シドニー・ポワチエがどれほど努力してようがスカーレット・オハラはやれないしやれないしやれないわけだが、ではシドニー・ポワチエにレット・バトラー役を是が非でもという博愛主義でも、シドニー・ポワチエだけならばという留保であって、人間て産まれたら、レット・バトラー役よ人類とかというみもふたもねぇ論理になる。レット・バトラー役ならば、ほぼクラーク・ゲーブル以上はいんぽもいんぽ、インポッシブル、いんぽしぶっちゃう。クラーク・ゲーブル以上というよりクラーク・ゲーブル以外の水準。それ以外で皆様お忙しいのもあってと。
ウィキペディアを読むまで、カラーというだけで、風と共に去りぬは他のモノクロよりも新しい時期だと思ったこともないけれども時期を思えばそのようにしか私は思わなかったと思う。1939年。少なくてもww2以降に作られたとしか思えないほど。60年代はほぼテレビはモノクロ。70年代でカラーテレビを主たるサイクル同士でもあっただろうか。1939年ということは、ウィキペディアで市民ケーンと第三の男より前の映画かという知識を得たが、ローマの休日よりも前ということだろうか。駅馬車と同じ時期、個人的に相当好きで未だに記憶に新しくもない淀川長治さんの解説「どうして駅馬車はアカデミー作品賞を取れなかったのですか?」の問いに「風と共に去りぬがあったんですねと言ってしまえばそれだけなんですが、」ということでも駅馬車も1939年。
アメリカ小説案内だとか、アメリカ文学史だとかあるも、アメリカ映画史なるような本もあるにはあるんだろうけれども、文学史も書くべきことすらかいちゃぁいねぇというか、
14:49
終戦まで観る。マルチェロ・マストロヤンニは記憶喪失だっかでロシアで家族作ってたように思い出す。たららら らららぁぁぁ ららぁぁぁ は、のっけから、ほぼその名曲一辺倒なのは意外だった。ここぞの、それこそソフィア・ローレンが独り帰還していき、ひまわりがあそこまである意味が不明だが、イタリアは当時ハムスター大人気だったのだろうか。何もひまわり畑がイタリアだとは限らないことが出来る、やるのも映画の多様性であるとしたら、どこの田舎なら特にだが、おらやるだよ。ソフィア・ローレンがおらがむらのひまわり畑に来てくれてつったってる映画になるんだったら、おらやるだよ。どうしてもいいひまわり畑さ作ってソフィア・ローレンに来てもらうだよ。んだども、それ以降ひまわりさ見たりしたなら、悲しくってみんな涙出ちまうんじゃなかっぺか。ひまわりさ命短かかっぺ悲しみすら人間のもんにしちまうのはおっかなかぁ性にならんだっぺか。ゴッホのひまわり観たことあるわけねぇ人間ばかりの世の中で、ひまわり枯れるまでの活動、ひまわりは植木鉢に合わねぇ切なさ、ずっとソフィア・ローレンがひまわり畑に、ずっとそのひまわりがひまわり畑にいるいないの問題ですらねぇ、イタリアからだとひまわりはロシアに向いて咲いてるだろうか。
理髪店でのソフィア・ローレンの胸元を見ようとしてポータブルDVDに超接近しただよ、私は。
18:36
「ひまわり」観賞会終了。ひまわりはお墓だったらしいし、ソフィア・ローレンはひまわり畑でおったてもいなかったらしいし、ひまわり畑はロシアだったらしい。
30年以上前に観た時に、号泣越えをしたのは、ロシアでソフィア・ローレンがぽっぽに飛び乗った瞬間だったと思う。今回は欠伸もしなかったので、涙というより眼が渇きっぱなしだったが、より名画だと思う。「ひまわり」は数年前にウィキペディアを読んでるから特別改めて読むつもりはない。たぶん「チャンプ」も同時期に初めて読んだと思うけれども、昨年だったか今年だったか久しぶりに観賞会して「チャンプ」に一切興味がなくなった。しかし「チャンプ」ほど一度の観賞会での涙量を越える作品を私は未だ観てもいないだろうと思う。漫画でいうとチョッパー級。小説でいうと永野鉄男級。
「7月4日に生まれて」コメンタリー版を今回の最後に観賞会予定にして、お次は「ミステリと言う勿れ」観賞会予定にしようと思う。漫画が原作だろうか。
18:50
ソフィア・ローレンは少し若ければほぼ絶世の美女だろうが、マルチェロ・マストロヤンニが、相当なイケメンなのに驚いた。当時は単なるおっさんというか、おっさんに格好良いも悪いもなかったという面と、ドラマの展開にしか着目しなかったからだろうと思わなくもない。
19:10
笑うという方が難しいとしても、二度以上観て必ず泣くというのは、「サトラレ」一度目に一滴も泣かなかったが二度目から「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」以外にあるか思い始めたら、「猟奇的な彼女」は複数回観賞会で泣かずに観賞会を終えたことはなかったと思い出す。必ずうるうるは「ザ・エージェント」。
もっとも笑ったのは「俺たちフィギュア・スケーター」、「ビッグ・ビジネス」、「摩天楼はバラ色に」、「トゥルー・ライズ」、「インナー・スペース」とかだが、二度目が効かない。
電車内で読んだ「我輩はカモである」は電車内でもこらえられなかったほど笑ったことを思い出した。
21:31
「ミステリと言う勿れ」観賞会開始。最大の謎解きとしてあるような、遺産相続争いでの連続殺人は、高校生のおなごがお父さんのためだったんだぁということで、早々に仕舞いだろうと思う箇所まで観る。題名が「ミステリと言う勿れ」でもあるから、ミステリではないけれどもミステリとしてを強めた進行ということだろうか。グラグラの柵の下にナイフおっ立てて置いとくなんて超こぇぇ。真っ昼間だったら直ぐに分かるだろうけれども。