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2024.12 ゴッドファーザー感想1

2025-06-13 23:04:43 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.12.6

8:46

本日もっと早い時間にメルカリで、発売当時直ぐに購入し、コメンタリー版を一度も観ずに綺麗に保管して近年売却した凄い版DVDを購入。数年ぶりにちゃんとした風邪を引いたので「風と共に去りぬ」のコメンタリー版は1000円台で購入出来るようなので狙って過ごそうと思う。

「風と共に去りぬ」より断然に「ローマの休日」が好みなので、「ローマの休日」ならば、

ローマ史家コメンタリー版、宗教学者コメンタリー版、建築家コメンタリー版、

最近メルカリで購入した凄い版「カサブランカ」は二人のコメンタリー版があるが、映画評論家版をほぼ半分観賞会を終えた今、「カサブランカ」より映画としての八百長というか完成度は段違いに高いのは「ローマの休日」のように思う。

アン王女はグレゴリー・ペックがアン王女を知らないということのみがあればよろしいわけだが、ソニーのように妹の結婚式で不倫というかセックスはしとくような原始的な要素はある意味サスペンスでもノワールでもないけれども、アン王女とグレゴリー・ペックは人間性というものが如実に筋がお互いに邪でありながらお互いに良くなるけれどもそれは二人の愛だとか、そしてよくありがちな含みを持たせすらしないという徹底ぶりの「ローマの休日」における最後のロォォマッ、二人の別れではあるそれは、イルザの別れと共に、二人の別れは、その二人の別れになってはいない、アン王女は王国、イルザは旦那さん或いはアメリカ合衆国という愛と言えば愛と共にあることでの、グレゴリー・ペックとハンフリー・ボガードとの別れはどれほどの差異があるだろうか。

「ローマの休日」はイタリア復興の大義名分にしては、あまりにも映画が飛び抜け過ぎなところもローマには似合うといったところか。今日日何人も当時(映画の当時ではなくて、ウルトラハイパーモンスターギガント帝国の当時)のローマに住みたいだとか行きたいだとか、間違っても観光などとは思わない社会性の建前と本音が強めの時期ではあるように思う。

当映画コメンタリーは全てコッポラらしいけれども、それとは別に、主要キャストの座談会風コメンタリー版があったら、特にあってもなくても結構ではあるけれども、そういうもの、コメンタリー版というものがあるということでの瞬発力だとそうなるが、当映画にコメンタリーだとか特典映像だとか一切ないことが付加価値にはなるようなほどの映画ではあると言えなくもないけれども、当映画ならば、ほぼ映画ファンはDVD発売されたら購入してるわけで、固定客相手の商売としてでは、それ以外だと音質、画質があるとしても、後は次元になるだろうか。次元を突き詰めると、撮影中のコッポラが何らかのDVD(それを最早DVDとは呼ばないにしても)の機器操作によって撮影中まで観れるとなると、当時のベトナムまで観れるという要素になるのではないか。時空間の欠落を認識出来れば(そういう問題ではないだろうけれども)復元性はあるように思わなくもない。

復元性が出来る世の中ということは、当時のベトナムがそのような時空間にあってはならないという論理にはなるだろうけれども。


10:06

プロパガンダとしてのローマというのもホリディとしてあるようにということもあるだろうか。

どの本か思い出せないけれども、少なくてもパート1にマフィアという単語使用率は無いことでは、いつ、どこ、だれ、なに、どのようにマフィアかというのは、帝国の休日に然程差異もない。

エノラ・ゲイに限らんが、エノラ・ゲイの手口というか社会性はマフィアそのものでもあるし、そもそも両親としての子孫出生というのはマフィアではある。

当映画の革命とは言わなくても名場面、特には名言だろうが豊富というか宝庫のような映画だが、パート1の立ち小便というのは、映画史上屈指の立ち小便だと思うと、そこは病院、立ち小便の野郎の本職ならばそれ以外の野郎が立ち小便と同じであろう立ち小便野郎、警察、マフィア、そして完全な人間同士の物質的殺し帰りのマイケル

洗濯機がお洗濯終えたので、お洋服干さなければならないから、続きを書くのはここで忘れようと思う。


17:14

今まで一眠りぶっこいて起床。お風呂場で喫煙。穿った考え方、思うかもしれない時点で思うかもしれない、アン王女のためのアン王女。アン王女の言葉を借りればソウル。アン王女がアン王女でも何一つ解決ということなしだが、帝国の休日というより王国の休日になるそれでも、そして階級インフラとしてはもっとそのソウルの階級インフラに「さえ」ならないというべきソウルが、アン王女をして王女というより王国の人民の人民による人民のためのソウルとしてのアン王女というと、日本でいう将軍様とかそれだったり、寧ろアン王女を寵愛とかある環境問題があるけれども、王国の今も昔も人民の人民による人民のための武力の環境問題、柔軟性としては、野郎をして人民のためたらんちゅら。アン王女のソウルから出でる野郎が王国のための屍でもアン王女のソウル、ましてやソウルではないアン王女そのものは王国のより一部であるということでは、アン王女にあるのはソウルであるという帝国というより王国のアン王女というのはアン王女と同じ程度に最初で最後のおてんば娘。グレゴリー・ペックが人民と言えなくもない。人民そこまで暇ではないのがけっこうなそれとそこまでの暇つぶしの状態のそれだとかでも、アン王女のソウルにグレゴリー・ペックは善悪というよりも、そしてアン王女がいるのはローマである、ローマでもアン王女のソウルはどういうことか、

ここまで書くとアン王女と全く関係ないように思うので、人によってということの何らかのというより、個人的に拙い思考で寝起きに思うことをとりとめもなく書いてみた。ローマの休日のコメンタリー版観てぇ。しかしそれは冒涜にすらなりかねないけれども、それならば風と共に去りぬは既にあるわけだし、コッポラのコメンタリーでも冒涜にすらなりかねない当映画コメンタリーなほどに名画中の名画中の名画だから、見えないかというより観るか観ないかはリモコンスイッチ一つですということならば、ローマの休日のコメンタリーも可能でも、欠落大前提でいかないとローマの休日のコメンタリーに値するということが難しいし求めてもいないならば、ローマ帝国としてのローマの休日でも、どのローマ帝国かできりがない。エンツォ・フェラーリが語るローマの休日とか。ベスパ社員と観ようローマの休日とか。メディチ家から観たローマの休日とか。

一家に一台、愛する人のコメンタリー版ローマの休日作れますDVDとか。

そうなると、ローマの休日基礎知識というムックか単行本とセット販売で、あなたならローマの休日コメンタリーどうなる?

コメンタリー版の社会性の変質だろう。コメンタリー版の内容に社会性が微塵もないことになるけれどもコメンタリー版という社会性に起因するその社会性のなさが社会性という論理。


19:05

メルカリで購入したDVDが発送された旨の通知がある。

マフィアの手口と書いたものの、りょうしんのじゆうの範囲に、ボウリョクダンという生命体、生命論理がある、特には成長と寿命と環境(三位一体存在と不存在くらいは書いとかんと私が書いてて何を書いてるのか後で読み返すことはほぼ無いながらちょっと今回は書いてみる。愛の民主主義なるものを、さわりのさわりを少しどこか別のドキュメントに書いた最近の思い込みだろうと思う。)というボウリョクダンのそれは、マフィアの手口と同じ手口でもあると書くとマフィアというのも、愛、命、せいこう、特には成功とでも書こうかはほぼマフィアの手口ではある。

血で血を洗えた一億万年後にはどこかでだれかはなってるかも、産まれる卵は元に戻らない、から揚げが先か卵かけご飯が先か。




2024.11「サウンド・オブ・ミュージック」「ゴースト」「7月4日に生まれて」「ひまわり」「ミステリと言う勿れ」感想3

2025-06-13 22:41:37 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.11.7

9:30

「ミステリと言う勿れ」をたぶん昨夜のうちに観賞会終了。映画の最後もあったように、テレビドラマの繋がりのようなのがあるように思う。起床後少ししてウィキペディアを読む。漫画が原作で、テレビドラマになってるらしい。ミステリではないと思ったが、ミステリだと思った。高校生のおなごでミステリは済ませて、全く違う、ヒューマニズムだとか、エコロジストだとか、スクリューボールコメディだとか、うぃぃあぁぁんとうぉんちゅぅにぃじゅぅふぁっきんうぉぉ(括弧内9:58追記。よくよく思わないと分からない英語レベルだがyouなしだよね。)だとか、好きなお仕事だとか、ラブコメだとか、あれこれ期待を膨らませるも、ミステリと言うことでのように思った。個人的に最近の映画観賞会で「ぼくらのごはんは明日で待ってる」、「九月のきみと出会うまで」、「ピーチガール」、見直して見直したというより泣き始めた「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」などの特にキュンキュン映画を観れたので、邦画のキュンキュン映画の素晴らしさを切望したように思わなくもない。

本日は「7月4日に生まれて」コメンタリー版観賞会予定。


17:40

ロンがベトナム→病院→実家に移動まで観て、一眠りぶっこく。

製作、公開は当時から10年前だったらしく、ロンはアル・パチーノ予定だったらしい。「天と地」は観てないので、観れたら観たいと改めて思う。


20:30

数時間合算で数分思う。当映画でのオリバー・ストーン監督のコメンタリーは、「ロード・オブ・ドッグ・タウン」のトニー・アルバとステイシー・ペラルタのコメンタリーと近い部分があるように思う。感情、機微の説明というか、動機というかの捉え方が最たる部分として思うのかも知れない。


22:15

ビリヤード場の件で、しょうがねぇ思うことにしといてやる。

「ロード・オブ・ドッグ・タウン」同様、コメンタリー版も傑作だと思う。


2024.11.8

9:26

昨日食べ過ぎて吐き気を一晩おしっこで起きる時に思う。

「7月4日に生まれて」コメンタリー版とおしっことうんちの時に読む「ふしぎなキリスト教」で、ぴったりアリストテレスはよくわからんが、新大陸の部分は、ベトナム、朝鮮というのは、ロシアというより中国、ベトナム(ベトナムなんてのはそもそも東南アジア全体主義、シーレーン、シルクロード、地図だと日本より津波でイチコロのような幅で行きたいと思ったことはないが、こえぇぇ。)だとインド、オセアニアとかというぴったりをよりてめぇの思考回路の交通安全精神力を高めていくと、中国人だって新大陸に行ってたし、リョウシキキカンセツへのインフラが、他にそれがあるかのごとき牧歌的、くーりーとなると話がぶっとんでくるし、カツレイではなくて司馬遷になると朝鮮どまりのありがたみと地中海までのそれもシーレーン、豊かさのブンギョウザで、イスラム教なりマニ教の第一章第一条が、人間をシナセンという烏合の衆の目的としての規律、律法では、リョウシキキカンセツにことさら、なおのこと、烏合の衆としてのリョウシキキカンセツにそもそも相性があるいというより、それでは成立しないわけだが、

こういうのは、私以外のクソガキやらインテリがやるべきことで、キュン キュンキュン キュンキュン キュン キュンキュン。五七七五七。

人間をしなせなければならない、それがアンダー140としては、確かに穀物のばいばいでの殺戮を個人的人間が150年間もその人間性としゃかいせいを、そして150年間では、よぼよぼは過ぎた頃で、しわしわも過ぎた頃。確かに人間性としゃかいせいは、それなりに長寿、健康がじゅきょうとしゅしがくとして生き残るわけだが、「7月4日に生まれて」は赤ちゃん殺戮ののしりあいきょうぎがあるが、

そういえば「ひまわり」も赤ちゃんを効果的に使用していた。深読みすると、それはマルチェロ・マストロヤンニ、聖アントニオ?その前に赤ちゃんのオモチャ、赤ちゃんのオモチャにもなるだろう赤ちゃんのオモチャそのものが赤ちゃんのオモチャ。トム・クルーズとソフィア・ローレンが同じインフラを背負った役柄と言えなくもない。ソフィア・ローレンはロシアに行ったその時空間は戦争だろう。マルチェロ・マストロヤンニが仮にソフィア・ローレンをロシアで待ち続けていたとしても、赤ちゃんいるんだからぁマルチェロ・マストロヤンニ。ロシアのマルチェロ・マストロヤンニ家族をソフィア・ローレンにしなせんソフィア・ローレンとも言うべきだろうことも野暮というかくそばなし。


2024.12.23

2:29

夜な夜なひっそりと作曲という最低自信作に励むかもしれない時分、シンレッドラインの名曲に似てるのになったりしたものの、ドレミの歌になっていっちゃったりしたので、ここでふと作詞も書いとこうと思う。

その作詞としての基本は、

ぷっしー平和主義或いはぷっしー世界大戦前後の悲惨とぷっしー世界大戦の悲惨と、紀元前の人類の風邪を治せるか或いは治さない並びに治せないということはどういうことか。

ポリシーの範囲で、人類の構成要素が主義という人間、例えば縄跳びでも、マイノリティとリミテッドという原理原則がある。70億人が仮に一緒に縄跳びが出来たと仮定しても、それをたった1日ですら出来たら確かにすげぇが、たった1日ですら出来ることに人類の目的はない。はずである。哺乳類以外の生命体と同じ機能である、糞作り、短命、新鮮組(最近スマホアプリで初めて読んだ、漫画「静かなるドン」は団体名が新鮮組だったらしかったから、昔の漫画で名前は知ってたほどだから、新撰組というみもふたもねぇ日本語とか書いてたら、昨日は、紀元前に、タイカノカイシンがあったということでは、600年位遅れてか或いはかかって辺境にタイカノカイシンが確かに恐らくはあっただろうと思ったのを思い出した。タイカノカイシンというよりは、シンカノカイシンでもシンカノコウシンでもいいんだがシンカノカイシンに最も合わない脳ミソ、言うなればライオンさんが子鹿なり年寄り鹿なりへの道徳を導入出来ないといけないなとか、象さんが草を食べずとも歩いただけでそれなりに草が踏みつけられるし糞で飼料としてのことでは問題を解決という問題以外の問題を解決していく命が常にある範囲だなとか。何を書こうとしたのか忘れたし、これだけで疲れたから書くの止めようと思う。)


10:50

タッキユウビンセイシンビヨウインに行かないといけないからドキドキしながら冬眠しなくてもいける程度に仮眠程度だからちゃんとうぃる行けるはずである。

早朝だったか深夜だったかドライフラワーというのがYouTubeでジャパン版ビルボードのトップ100を聴いてて良いなと思い一昨日だったか聴き始めて、優里という声楽がアグレッシブと、ぜんぶぜんぶのぜだが、ぜんぶに声楽のテクニック、そういう輩はソウルというかスピリッツ、アイデンティティ、マインド、クリエイティブかも知れないけれども、調味料としてのワビサビってのは根気がある奴等だと思った。他の優里さんのお歌をYouTubeで少し聴いて、レオというのに、ほとんど私の意味というか意識というかからは完全ではないにせよ好みではないと思ったか思おうとした私ながら瞳がうるうるしちまった。ミュージックビデオも良かったように思う。

一年間位セブンティーンのドントウォナクライを無料ダウンロードしようかしまいか悩んでいる風を装おっているというかちょびっと本心だけれども、数が多いのとイケメン集団で、だれがだれだかたったひとりも分からないほどイケメン集団そのものが生命体としてのというのは尋常じゃねぇ若造は、他のだんだんばたけの奴等の社会性になってるだんぎょうざだけですらも、犠牲と努力は比例された人類であるとかちょっと私らしくないから、ぼくは昨日、昨日オナニーしようというしよくで今年一番の喜び三宮つばきちゃんのDVDを購入したから明日オナニーする。ということは今日オナニー。昨日楪カレンちゃんでオナニーしたからもうぼくは昨日、明日オナニーするためにはしないようにしなければちんぽこ起たないから、ぼくは明日、昨日オナニーしなくてよかったと思えるようにしようとする。


2024.12.27

18:46

ふとレオのミュージックビデオをYouTubeで再び見聞きする。なんとまだ落涙。どうも歌詞がついてるから、道理と新しいというのにいちゃもんが強めな私だと思うも、あのときより大きな手で撫でてくれたの撫でてくれたというが、ぜんぶぜんぶのぜ手法というのかと、ミュージックビデオとともに、これほど犬を一応第一義として歌い撮すミュージックビデオというのも新鮮で、名前がレオではなくてタロウだったら迷わず無料ダウンロードして何度も飽きずに聴いてもいいなと思う。

しかし超個人的に気にくわないとは思わなくても、私以外が私にあわないわけでも、歌詞の命として、それは今年読んだメナシは拍子抜けというより一種のテロリズムに匹敵するほどその記述式というのはそういうのとしての輩を分からないでもない程度の私でもあるけれども、そのナチュラリズムの王道なるものの勇気にはすげぇ歌い手でもあるし作曲能力、そしてミュージックビデオが泣ける手腕だとレオに合算で数分触れたと表現すれば、メナシが優里さんで歌われれば恐らくは落涙がレオと同じ程度ではあるという可能性も捨てきれないというかその不存在は存在しているという範囲では、名前はレオまでがハッピーエンドの歌詞というのが恐らくはそいつらの基本原理主義だろうと思い込みだけしても、第一次寝惚け人間としてしか生きてない私が思い込んでも致し方ないなと思い込めば、それほど思い込みしなくて済むなと思い込む。名前にしたことが一撃と思い込んでやらんと不憫と不名誉と不健康と、まぁ不義理だろうけれども、もっともレオとの対話で最多ワードがレオのはずだから、家族的というか牧歌的なる、そして恐らくは喜びという目的が明確であるレオ。父親なり母親なり以外から必要とされるてめぇらの子供、愛するというたまたま昨日110円で然り気無く購入した平和主義の新書の帯ありだったのもあり、愛するひとというのが、りょうしきが日本語にあるから、愛するひとは愛しているひとも同じなのは、例えば草花を愛するひとだが、愛されているひとをもとというのは、愛することに値せざることしか愛というかラブというかレオはたぶんラブラドールレトリバーだったなということで下らん感想は止めておこうと思うようにと思う。

もしかしたらレオの言い分以下だろう人様という可能性のお歌かも知れないとも私が思わなくてもいいなと思う。それほどの人様の範囲としてがどうしても先立つけれども。

レオはゴールデンレトリバーだったなと思い直すにはここまでの1分にちょうど良かったらしかった。


19:37

数分思う。ナチュラリズムというか生命体というのも消費社会性だから、例えば車輪だとかにその名前があることに困難があると思えば思わなくもない。

自動車のタイヤだとかに名前をつけるならば、酷使の度合いが著しくそれに名前がないことにヒューマニズムならぬヒューマニズムを潜ませることにしかなってないように思えば思わなくもない。

金魚に名前はつけれども、金魚鉢に名前をつける人間は恐らくはいないと同じ程度に。

1秒に名前をつける能力が人間にもない。1秒に名前がないという時間の範囲の基本と他の基本と原理主義としての原理主義が同時進行というべきだろうか。

本当に信じるというか頑張るとかいう犬好きなまっとうをどうでもひん曲げんようなのは、レオをカラオケで唄えないのではないかと思わなくもない。泣きっぱで声にならないように思う。


19:49

再び3秒聴く。落涙が残ってて落涙。要するに歌詞が特に個人的に合わな過ぎて落涙しちまうという稀有な感情とでも呼ぶべきかと思ったことを忘れる前に書いとこうと珍しく思った。

極論だと、一桁台のクソガキが重病だとか、80過ぎのかたわ一筋の年寄りが苦労し通しだとかということが基本原理としては何人も合わないということに落涙という範囲と違いがないように思えば思わなくもない。


2024.11「サウンド・オブ・ミュージック」「ゴースト」「7月4日に生まれて」「ひまわり」「ミステリと言う勿れ」感想2

2025-06-13 22:41:09 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.11.3

13:32

映画の半分に相当する部分、クリストファー・プラマー一家の宴の途中まで、ドリーム・オブ・サウンド、ジェリーアンドリュースコメンタリー版で観る。

こうさいざんまいの絶世の美女としてのクリストファー・プラマーのコメンタリーは当たり前だと思うけれども、絶世の健康ジェリーアンドリュース、黄色い動物としては絶世の美女と絶世の健康に然程違いは見出だすつもりもないし、見出だす暇すらないが、絶世の美女の鉄則は、近年でいうと川口春奈さんは九月の恋に出会うまでだったか、九月の恋と出会うまでだったか、スクリューボールコメディー、より作品をお忙しい人民に無駄のない状態で、川口春奈さんならば可能であるじゅきょうのいけいけなやつらにとっては、銀幕というか、ボナセラボナセラと同じ類い、牛の糞にも段々があるんでぇと同じ類い(宍戸錠以外インポッシブル)、いい人ぶってんじゃねぇよ、吐き気がする、三回死ね、修学旅行中に虫歯になれという畳み掛けの極致と同じ類い(ジャンギャバン以外きっかけにすらないない)、断る理由はござぁぁせん(実写他じゃ無理なことを一応完全にやれますが型)と同じ類いの、基本どうしても君の瞳に乾杯ある種の和訳のより直撃ロマンチックしかもカサブランカでというそんなはずはないんだが、ボギーとイングリッドバーグマンならば実現可能代議士。もっと民主主義的に、預言者三昧完結型の実技と実演済まし型。

かえすがえすもウエスト・サイド物語のコメンタリー、それを誰がという難問はあるにせよ、ないのはちょっとだけは残念だと思う。

三十年間、サウンドオブミュージックを思って生きてないが、何となくサウンドオブミュージックは、山越えで、ことあるごとにサウンドオブミュージックだった印象派だったが、ほとんど山越えは最後の最後しかも歩いてるだけだったのは意外だった。それでも二度目の観賞会、コメンタリー版だがの昨日は、用心棒と椿三十郎はミュージカルが念頭にあったのかも知れないとか、サウンドオブミュージックに七人の侍は現れないし、雇わないし、そういう段階に最早ないし、


2024.11.4

17:37

「サウンド・オブ・ミュージック」ジェリー・アンドリュース、クリストファー・プラマーと他の方々版コメンタリー観賞会終了。クリストファー・プラマーのコメンタリーが少し面白かった。

「ゴースト」監督と脚本家のコメンタリー版観賞会前に、リメンバリング・ザ・マジックという撮影内容動画を見終える。


18:32

数日人知れず「サウンド・オブ・ミュージック」、そして「サウンド・オブ・ミュージック」ウィキペディアを初めて読み、大傑作映画だけれども、「風と共に去りぬ」の興行記録を抜いたと書いてあり、いくらなんでも「風と共に去りぬ」は抜けなかっぺと思うも、E.T.だとかタイタニック、アバターとかは確かに世界記録だったと思うも、そりゃぁ当時の価値だったらと思ってたら、ウィキペディアの「風と共に去りぬ」がブラフでなければ、やはり抜く抜かないの次元にならないのではないかと思う。未だ現在に換算すると「風と共に去りぬ」が一番らしい。アメリカ映画名台詞一番もレット・バトラーらしい。

よくよく考えると「サウンド・オブ・ミュージック」は純粋にフィクションとしかそれすらも考えたことがないほどそれなりにノンフィクションというように思ったことすらなかったけれども、ウィキペディアでトラップ一家というのは実在して、それなりにノンフィクションらしいのを知った。

リメンバリング・ザ・マジックにあった、ウーピー・ゴールドバーグのアーチスト型説は、ほとんど「ゴースト」では完全なバリー・ボンズ型だと思う。パトリック・スウェイジの出演前の十八番?は面白かったし、女性層から概ねディドゥと言ってというチャーミングなコミュニズムも面白かった。デミ・ムーアの短髪というのも、確かに「ゴースト」のオナゴが長髪だったらとイメージ出来ないほどと思う。


19:07

コメンタリー版観賞会前にウィキペディアを読む。ウーピー・ゴールドバーグ バリー・ボンズ型などと知ったかぶりぶっこいて書いてたが、アカデミー賞獲得してたらしい。以前何かの映画鑑賞会感想でも作品賞だったかの傑作を、生意気通り越して書いてた時を思い出したものの、その映画そのものを思い出せない。「ディア・ハンター」だったか。近年30年ぶり位の二度目の鑑賞会ですげぇ映画だと思ったけれども、「ディア・ハンター」の映画そのものの理解が全く出来なかったのかも知れない。子供の頃に観てたアニメとか歌の番組とかと同じ。映像が流れてるのをただ観てるという能力。全てが難しかったということだろうと思う。

「ゴースト」は、ラブロマンス映画では最も成功した映画らしい。陶芸のシーンが卑猥にならぬ苦心を話されてた。観衆の心地好さへの苦心だろうか。映画史上屈指の陶芸シーンなのは然程異論あるまいと思う。


23:13

「ゴースト」コメンタリー版観賞会終了。

公開当時は、1セント、ダンス、この世にはまだない天国というか、天国が果たして天国なのかという思考回路にしかなってない私だが、その三段階が号泣したか号泣手前の泣きじゃくりだったか。モリーと共にいない以上でもサムにとっての天国ではないが、ジュヨウだろうキョウキュウなしだからジュキョウにならんし、モリーを天国に一緒にというわけにもいかんわけでもサム ライと書くと余程大顰蹙になる。最後にモリーがディドゥと吐くのはそれほど意識したこともなかった。そしてコメンタリー版で、君の瞳に乾杯レベルの決め台詞として、愛で一杯だ。その愛を君に。が決め台詞になったらしいが、その脚本家が実際に恋人にディドゥと吐いてらっしゃったらしい。モリーのディドゥでも素敵という天国送りの事情だがそのように思う。モリーとオダ=メイのカフェでのディドゥが好みである。複数回観賞会して、その件は褪せない。

明日は「7月4日に生まれて」コメンタリー版観賞会予定。「ディア・ハンター」とそれほど遠くない時期にレンタルビデオで観賞会したと思うが、「7月4日に生まれて」は、つまらなかったという記憶はないが、「ゴースト」でもサムはハリソン・フォードかトム・クルーズが第一候補だったらしいけれども、そしてモリーに「デイズ・オブ・サンダー」前の名前が出てこない。ニコール・キッドマン。も候補だったらしい。「7月4日に生まれて」はトム・クルーズよりも、ゲイリー・シニーズの印象派だが、チラ見だけで今回レンタルDVDのパッケージでは、ゲイリー・シニーズが見当たらず、ゲイリー・シニーズではなくて、ウィレム・デフォーだったのだろうか。ウィレム・デフォーは「プラトーン」のジャケット観てもウィレム・デフォーだとは観てないと誰も思わないわけで、「インターステラー」のマット・デイモン型だろうか。「オーシャンズシリーズ」のブルース・ウィルス型とか。


2024.11.5

14:26

「7月4日に生まれて」のコメンタリー版より先に、NBCニュースアーカイブスという特典映像を全て観る。トップガンをライトウィングムービーとして今まで一瞬も考えたことも思い始めたことも読んだことも聞いたこともなかったので、そのテーゼは意外だった。ウィレム・デフォーはやはり出てたが、「7月4日に生まれて」は、ゲイリー・シニーズの印象派の四半世紀を過ごしたが、特典映像にも出てなかったのは違う映画だったか。私のようなのは、当映画以降はインディペンデント・デイしか7・4を全く思いも考えも読みも聞きも覚えもしてない四半世紀だったと思う。ほぼ半世紀。


14:46

オープニングのクレジットまで観る。ゲイリー・シニーズはその時初めて、フォレスト・ガンプではないかと思う。近年フォレストガンプは二度目の観賞会をしたが、バックトゥザフューチャー並みにナイキの印象派でしかなかった。


16:15

コメンタリー版観賞会目的ながら、全く覚えてないので映画観賞会をしてからコメンタリー版観賞会をしようと思い、トムクルーズがぴんぴんしてる最後のようなシーンまで観る。それからウィキペディアを読む。トムクルーズはほぼ一年間車椅子で過ごしたらしい。はしりだけ読んだパラスターは名前の印象から原作者はオナゴだと思うけれども、作り手はオナゴ、作り手もオナゴ、作り手の担い手も恐らくオナゴだろうし、ジャケットがオナゴ。最近伊藤舞雪さんという確かにぶっ飛んだ肉体美だと思うけれども、何故かチンポコはビンビンになる五十嵐なつちゃんが出てるようなシリーズにも出てるようなのを知るも、例えば尺八なり挿入なりでは総じてその肉体美は思考にあるかないかであって、ウィレム・デフォーの肉体美、昨日だか改めてとしか言い様もない分野ザ・風と共に去りぬのウィキペディアを読み、ダムというのは、恐らくエクソシストというのが相当確信犯としてやったと思うけれども、クラーク・ゲーブルで成立ならば、和製ジャンギャバンで成立の特に三回死ね、そしてとどめの修学旅行中に虫歯になれというのは、サムよりやりたがらない役だろうし、サムよりカール役は最悪の印象派としての烙印にしかなりようがないけれども、銃声があるだけまだましという運動会、説明責任のだんかいあるだならば、


2024.11.6

13:14

「7月4日に生まれて」観賞会終了。コメンタリー版観賞会前に、「ひまわり」観賞会予定。

ケント州立大事件というのは当時の映画観賞会でも記憶にもなく、ウィキペディアで読んでも、それ以降「ニクソン」は意味が分からなかった、単純な言葉ならばつまらなかった映画という記憶しかないが、ケント州立大事件というのは相当なインパクトがあったらしく、描かれてもいたらしいのを知る。ピューリッツァー賞の写真もウィキペディアで初めて見る。

「ひまわり」も完全な二度目の観賞会で、たぶんほぼ中盤のマルチェロ・マストロヤンニが別の家族との社会性、人間性によって、ソフィア・ローレンが独り帰還するシーンでほとんどテレビ画面が涙で見えなくなったように思う。当然そこには、たららら らららぁぁぁ ららぁぁぁ たららららららぁぁぁ が流れていたのではないだろうか。観賞会当時の私は小学生ではなかっただろう。中学生だったか。なんで最後じゃなくて途中でこんなに感動、心を揺さぶられる、哀しいのかという思いしかなかったように思い出す。

トム・クルーズのページも読む。大スターだから、ゴシップ的な、さまざまなゴシップ的へなことも書かれてあるように思うけれども、コメンタリー版とかメイキング版とか同様、例えば金銭感覚なしのクソガキの野郎が好きなオナゴに琴線感覚として最高の運動、道端のタンポポ殺害で、その亡骸を手渡すというようなものに、そのクソガキの生年月日だとか、環境だとか、当然にあるさまざまなじゅきょうとしゅしがくの坩堝と段々畑にさまざまなわけだが、「サウンドオブミュージック」でのジェリーアンドリュースも撮影時の苦労話があるというのも、ほとんどサウンドオブミュージックは夢物語の部分がある以上、コメンタリー版だとかメイキング版だとか以外で以外としてもという分野も、それこそりょうしん以外でしかりょうしん以外と以外としてもという、シドニー・ポワチエがどれほど努力してようがスカーレット・オハラはやれないしやれないしやれないわけだが、ではシドニー・ポワチエにレット・バトラー役を是が非でもという博愛主義でも、シドニー・ポワチエだけならばという留保であって、人間て産まれたら、レット・バトラー役よ人類とかというみもふたもねぇ論理になる。レット・バトラー役ならば、ほぼクラーク・ゲーブル以上はいんぽもいんぽ、インポッシブル、いんぽしぶっちゃう。クラーク・ゲーブル以上というよりクラーク・ゲーブル以外の水準。それ以外で皆様お忙しいのもあってと。

ウィキペディアを読むまで、カラーというだけで、風と共に去りぬは他のモノクロよりも新しい時期だと思ったこともないけれども時期を思えばそのようにしか私は思わなかったと思う。1939年。少なくてもww2以降に作られたとしか思えないほど。60年代はほぼテレビはモノクロ。70年代でカラーテレビを主たるサイクル同士でもあっただろうか。1939年ということは、ウィキペディアで市民ケーンと第三の男より前の映画かという知識を得たが、ローマの休日よりも前ということだろうか。駅馬車と同じ時期、個人的に相当好きで未だに記憶に新しくもない淀川長治さんの解説「どうして駅馬車はアカデミー作品賞を取れなかったのですか?」の問いに「風と共に去りぬがあったんですねと言ってしまえばそれだけなんですが、」ということでも駅馬車も1939年。

アメリカ小説案内だとか、アメリカ文学史だとかあるも、アメリカ映画史なるような本もあるにはあるんだろうけれども、文学史も書くべきことすらかいちゃぁいねぇというか、


14:49

終戦まで観る。マルチェロ・マストロヤンニは記憶喪失だっかでロシアで家族作ってたように思い出す。たららら らららぁぁぁ ららぁぁぁ は、のっけから、ほぼその名曲一辺倒なのは意外だった。ここぞの、それこそソフィア・ローレンが独り帰還していき、ひまわりがあそこまである意味が不明だが、イタリアは当時ハムスター大人気だったのだろうか。何もひまわり畑がイタリアだとは限らないことが出来る、やるのも映画の多様性であるとしたら、どこの田舎なら特にだが、おらやるだよ。ソフィア・ローレンがおらがむらのひまわり畑に来てくれてつったってる映画になるんだったら、おらやるだよ。どうしてもいいひまわり畑さ作ってソフィア・ローレンに来てもらうだよ。んだども、それ以降ひまわりさ見たりしたなら、悲しくってみんな涙出ちまうんじゃなかっぺか。ひまわりさ命短かかっぺ悲しみすら人間のもんにしちまうのはおっかなかぁ性にならんだっぺか。ゴッホのひまわり観たことあるわけねぇ人間ばかりの世の中で、ひまわり枯れるまでの活動、ひまわりは植木鉢に合わねぇ切なさ、ずっとソフィア・ローレンがひまわり畑に、ずっとそのひまわりがひまわり畑にいるいないの問題ですらねぇ、イタリアからだとひまわりはロシアに向いて咲いてるだろうか。

理髪店でのソフィア・ローレンの胸元を見ようとしてポータブルDVDに超接近しただよ、私は。


18:36

「ひまわり」観賞会終了。ひまわりはお墓だったらしいし、ソフィア・ローレンはひまわり畑でおったてもいなかったらしいし、ひまわり畑はロシアだったらしい。

30年以上前に観た時に、号泣越えをしたのは、ロシアでソフィア・ローレンがぽっぽに飛び乗った瞬間だったと思う。今回は欠伸もしなかったので、涙というより眼が渇きっぱなしだったが、より名画だと思う。「ひまわり」は数年前にウィキペディアを読んでるから特別改めて読むつもりはない。たぶん「チャンプ」も同時期に初めて読んだと思うけれども、昨年だったか今年だったか久しぶりに観賞会して「チャンプ」に一切興味がなくなった。しかし「チャンプ」ほど一度の観賞会での涙量を越える作品を私は未だ観てもいないだろうと思う。漫画でいうとチョッパー級。小説でいうと永野鉄男級。

「7月4日に生まれて」コメンタリー版を今回の最後に観賞会予定にして、お次は「ミステリと言う勿れ」観賞会予定にしようと思う。漫画が原作だろうか。


18:50

ソフィア・ローレンは少し若ければほぼ絶世の美女だろうが、マルチェロ・マストロヤンニが、相当なイケメンなのに驚いた。当時は単なるおっさんというか、おっさんに格好良いも悪いもなかったという面と、ドラマの展開にしか着目しなかったからだろうと思わなくもない。


19:10

笑うという方が難しいとしても、二度以上観て必ず泣くというのは、「サトラレ」一度目に一滴も泣かなかったが二度目から「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」以外にあるか思い始めたら、「猟奇的な彼女」は複数回観賞会で泣かずに観賞会を終えたことはなかったと思い出す。必ずうるうるは「ザ・エージェント」。

もっとも笑ったのは「俺たちフィギュア・スケーター」、「ビッグ・ビジネス」、「摩天楼はバラ色に」、「トゥルー・ライズ」、「インナー・スペース」とかだが、二度目が効かない。

電車内で読んだ「我輩はカモである」は電車内でもこらえられなかったほど笑ったことを思い出した。


21:31

「ミステリと言う勿れ」観賞会開始。最大の謎解きとしてあるような、遺産相続争いでの連続殺人は、高校生のおなごがお父さんのためだったんだぁということで、早々に仕舞いだろうと思う箇所まで観る。題名が「ミステリと言う勿れ」でもあるから、ミステリではないけれどもミステリとしてを強めた進行ということだろうか。グラグラの柵の下にナイフおっ立てて置いとくなんて超こぇぇ。真っ昼間だったら直ぐに分かるだろうけれども。




2024.11「サウンド・オブ・ミュージック」「ゴースト」「7月4日に生まれて」「ひまわり」「ミステリと言う勿れ」感想1

2025-06-13 22:39:56 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.11.1

12:30頃

最近映像特典のコメンタリーを観れたら観たいと思い、「ひまわり」は死ぬ前にもう一度は観とこうという程度でコメンタリーがねぇのかと思いつつレンタルDVD、「ベン・ハー」「北北西に進路を取れ」がなかったが、「サウンドオブミュージック」、「ゴースト」、「7月4日に生まれて」はコメンタリーがあるレンタルDVDだったので、「ゴースト」は5度近く観賞会してるが、後は一度、しかも二十歳前後から10歳くらいに観たのみだが、コメンタリー版を観たことはないので、レンタルDVD。「ミステリと言う勿れ」はタイトルとジャケットがポップなので、キュンキュン映画でもなさそうだが、今回キュンキュン映画がなかった。「ミステリと言う勿れ」以外は観てるけども、ほとんど最悪なパターンがそれなりに完全な四本。「ひまわり」のマルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン、監督忘れた。デ・シーカだったか。大監督の名前忘れた。のコメンタリーなんて最高な人生たった一度の二時間程度になるように思わなくもない。「ひまわり」の内容より、号泣したてめぇという記憶が作品の記憶より勝る。涙の量が「ひまわり」は半端じゃなかった。ニュー・シネマ・パラダイスとかライフ・イズ・ビューティフルとかも同じ程度にたががはずれた涙の量だったが、いずれも二度目はニュー・シネマ・パラダイスは少しうるうるして三度目はドライアイまっとう。ライフ・イズ・ビューティフルは二度目は泣くとか泣かないとかという見方にすらならなかった。「ひまわり」はどうだろうか。先ずは「サウンド・オブ・ミュージック」から観賞会予定。


13:25

観賞会開始。ロバート・ワイズ版とジューリー・アンドリュース、クリストファー・プラマー版の二種類があり、ロバート・ワイズ版をロバート・ワイズさんが、次は何処まで無言で通すのかまで観る。


14:20

約1時間あっという間に過ぎる。まだ2時間サウンドオブミュージックの場合ある。ロバート・ワイズなら可能なコメンタリーというか、無言の比率が相当高め。


23:15

夕方前から一眠りぶっこく。

観賞会再開。冒頭、10歳から15歳位までに恐らくレンタルビデオした「サウンド・オブ・ミュージック」は、今回の他の三作品の最悪のケースに、ゴーストに限ってはウーピー・ゴールドバーグというアクセントクトウブンがあるけれども、ジェリー・アンドリュースが、アメリカ合衆国のある町で6万5千人の人口で8万枚のチケットが売れた当映画というのは分かる気もしないでもないということと、意外だったが、「風と共に去りぬ」すら興行収入面だろうかで抜き去ったほどに、確かに風と共に去りぬよりサウンドオブミュージックを何度か観た方が夢はあるのかないのかは別として、歌に立脚されてもいるだろうか。


23:44

当事はそんなこと思わなかったが、ジェリーアンドリュースがそれなりに自由の象徴のような役柄だろうか。自由というほどの自由でもないが、民主というより自由というか。自由の全体主義者といの映画の世界というか。


2024.11.2

0:18

エーデルワイスまで観る。クリストファー・プラマーとジェリー・アンドリュースは恋仲の展開が早すぎるというコメンタリーと重なる。修道女と恋仲ほど不味いこともないように思わなくもないけれども、記憶が定かではないが、共に山越えはしていく仲だが、恋仲というような記憶がない。クリストファー・プラマーは、濃緑の衣裳が基調だろうか。何らかの意図があるのだろうか。ここまで名曲というような代物というより、スタンダードナンバーの釣瓶打ちというのもちょっと尋常ではない映画。


0:33

お風呂場で喫煙しながら思う。仏教徒が焼身という、常人ならばヒロポンやってない限り不可能なそれは私のようなのは分からんが、しゅうかつの一種でオナゴが礼を尽くすそれは、人情としてそのオナゴに不幸の要因は刃傷沙汰が相応しいわけだが、不幸とはどういうことか。地球は不幸をもたらしてないか。そのオナゴそのものが既にそれでも不幸であるけれども、焼き魚に礼を尽くす人類では、それを食べるために焼き魚なわけだが、命という分野ではどうでもいいかんじ、二重の基準の一つではある。


5:11

昨日からプロスピでアニバーサリーガチャガチャが始まった。無料ガチャガチャがあり、私はイーグルス鈴木選手が当たる。二枚当たってあり育て上げてあるので、超2、選択カードは1枚しかねぇがそれで超3。今回まで、鈴木選手を、すずきしょうてんと心の中でいつも読んでたが、翔天と書いてソラとお読みするらしい。アニバーサリーガチャガチャはサイン入りで、各数値が1ずつ高い良いカードだが、昨年バウアー大当たりしてあるので、最早どうでもいい感じな私は、何故か最近からカープが意味不明に当たり最もコストとしては最高の面子になっているが、森浦選手は五枚育て上げてあるので、目下森浦選手チョウゴウキン活動にちょっと夢中。OBガチャガチャで野村選手が当たったので、超3にして、イーグルス鈴木選手より先に野村選手をチョウゴウキン予定。昨日だったか一昨日で報酬獲得済みのリアタイイベントで、時たまチーム愛の強い方々は別として、ほぼリアタイやってる人々は、リアタイメンバーが強烈な面子で、私の最強の布陣のほぼ誰一人として面子になってない。強いてベイスターズマッキーだろうか。しかし今回は40歳以上枠というのがあり、その枠でやったところ、今までで最高勝率2割位、そして最低コールド負け途中であんたもうだめだよ(追記前に視界に入ったので半日以上経過後追記。あんた負けポイントすら与えられる価値すらねぇよとか。)終了数1度。


18:31

ロバート・ワイズ版コメンタリー観賞会終了。大多数としてではこういう映画は映画全体への好印象になるだろうと改めて思う。ミュージカルが先だとか、ナタリー・ウッドはてめぇで歌ってると思ってが、声音すら映画らしくらしい映画業界では超超超流のオナゴが修道女として出演していたこととかナタリー・ウッドの歌声だとかもより完璧な映画としてのその日本でいうところの、アルフレッド・ヒッチコック、刑事コロンボ、ジャッキーチェン、マイケルjフォックスの日本語吹き替え声優さんレベルを今回ウィキペディアで初めて知ったけれども、ミュージカルのは残らない分、残していく瞬間的生命体が、今だと映画はほぼVHSに始まりBlu-rayとかでの70億総保存行為の社会性はあるけれども、その購買意欲=魅力として、これからジェリーアンドリュースとかのコメンタリー版観賞会予定。ロバート・ワイズ版は、いつまで無言というべきではないとしとかんといかんような、計算され尽くしたコメンタリーと言うべきだろう。


直ぐ様観賞会開始。ジェリーアンドリュースコメンタリーである。ある意味夢のようである。冒頭でほぼ傑作地味てるのをコメンタリー含めて三度目で感心しとく。




2024.12「Uターン」「エルマリアッチ」「誰かに見られてる」「チャイナ・シンドローム」感想 。既にこの頃になると計画だけで実行すらしない段階に突入していた。

2025-06-13 22:37:09 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.12.2

3:48

YouTube ソニー映画で観れるようで観ようと思う。「誰かに見られてる」以外は観たことがない。「Uターン」は観たことも聴いたこともなかったが、オリバー・ストーン監督、「エル・マリアッチ」も観たことも聴いたこともなかったが、ロバート・ロドリゲス監督、「チャイナ・シンドローム」は聴いたこともなかったが監督知らない。ジェーン・フォンダが出てることと映画の存在を知ってたので観ようと思う。

「誰かに見られてる」のようなのは概ね当時観てるけれども、全く内容が思い浮かばない。観ても内容すら覚えてないのは二時間寝てたというべきだった現在だろう。


2024.12.16

5:02

何れもまだ観賞会してないので、当ドキュメントに書いとこうと思う。

最近鉄道、夜間の貨物列車の音をベースに、然程興味もなく作曲してたら、名曲完成。独りよがりだが、どうしてもアナザーシンカミングになることの回避が特段に多かったけれども、書き留めておこうと思う。


ガタンゴトンと日本語だが、だで表示すると、だをリフでだの1音多く。和音にならない部分でだの1音そのものが和音に接近中と言うべきか。

名曲を書こうとしたら、たたたたたた。にしかならなかったわけだが、

数時間で忘れはしないが、そのトーンを忘れるだろうか。

ツインリード版とメランコリー版があるが、

たーたたったたーたたたた

というのと、

たた たた たーた たた

お歌を入れるならば、声楽そのものがほとんど歌詞に意味を持たないくらいに出来るほどならば贅沢だが良いと思う。