2024.12.17
12:15
本日の深夜だったか、パートⅡのディスク1観賞会終了。なげぇが、パートⅡディスク2は一時間程度で、もっとなげぇように思うも後一時間でパートⅡ終了かと思う。パートⅠとパートⅡならばぶっ通しでも飽きないだろう映画だと思う。コッポラの一言で、全てでもなく全てにはなるマリオプーゾのマフィア感、はなかはな、はなとはなで殺してしまえばけっこう論のマフィアでもステートでもファミリーでもコミュニティでもいいんだが、人類という上がいるというあることを、マフィア風情、ナショ風情、ファミリーというかマンマルでもいいんだが、そういう人類作りの段階をそういう人類にやらせちまってはとか、ちょっと思う。もっと思うと相当違うことを書くようになるから、まだまだ人類は人類をなめくさってないと、なめくさっていっちまう二重構造の範囲では、それが一つ払拭出来ても、二千年後の人類は、二千年前の人類をなめることにしかならないということはどういうことかちょっと今後数分かけて思うこともあるかも知れないと思う。
2024.12.18
14:10
パートⅢコッポラコメンタリー版観賞会開始。アンソニーが歌手になりたがる件まで観る。コッポラも再三語ってるが、パートⅢは別物、パートⅠでもパートⅡ不要論もあったが、パートⅢで、如何せんマイケルの回想がマイケルそのものにしか出来ないというのがあっただろうか。現在のマーロン・ブランドが過去でロバート・デ・ニーロなるは、現在のアル・パチーノに関しては過去はアル・パチーノというか。パートⅡでの公聴会のでばなで、ただダイアン・キートンが後ろで座ってるだけの場面があるが、映画史上ダイアン・キートンがただ座ってるだけの映画というのはパートⅡでのそれしかないのではないかと思った。案外と他の本職が違うような特にオナゴがただ座ってるのはうまいのかへたなのか微妙だが、それが他の場面にそれ以外があることになるということは職人芸かナチュラリズムかよく分からねぇと思った。
ジョニーの件でシェイクスピア論があったが、現代のシェイクスピアとしてというか映画としてはシェイクスピアというのはビトにあるべきだったし、あったと言えばあったが、よりあるのがアル。同時進行でビンセントがあるといったところか。筋の交通事情、筋というか感情だろうか。筋だから感情でもどうでもいいかんじの射程圏では。
15:03
基本原則の1つでは、パートⅢが基本原則になったということがあれば、テレビ版?で時間軸版があったらしいが、パートⅢが映画の軸、現在として、「ゴッドファーザー」をパートⅠとⅡを回想として、製作に数十年かかったかあるいはたちましたという「ゴッドファーザー ファーストムービー版」から「ゴッドファーザー 完全版」としてパートⅢが全ての現在としての、パートⅠとパートⅡでも、それらがパートⅢにそれなりにあるかと思うから、パートⅢを、パートⅠ、パートⅡと合体させる映画としてのパートⅢだったならば、単体として先ずは劇場公開しつつ、パートⅢの各場面から見事にパートⅠとパートⅡと一体型となるパートⅢであるということがあっただろうか。それはやらねぇというほどだったんだろうけれども。
16:02
はたなからおかしなスマホが最近ようやっとはなまでおなしなスマホもじつげんできたきちがいぼとってるぼけなすらの命だと思いつつ電源が切れたのでお洗濯と入浴。発泡酒と湖池屋じゃがいもと塩ポテトチップスで観賞会再開。今回が初めてだったが、どこかで観たもちろんテレビがスクリーンかパソコンかスマホだが顔だと思ってたら、ちょうどコッポラがジョージハミルトンといった瞬間に、他にも出てたが五時半の目撃者の犯人役だと判った。二枚のドガの絵並みに、特にそのシーズンだったか、だっておれの部屋じゃねぇぇぜとか、腰掛けの裏にある弾痕に弾はすでにねぇぜとか、やはり、いまみたね、いまのこうどうもくげきしたね、きみもいまのかれのこうどうもくげきしたねとかと同じような頃合いの刑事コロンボでは好きだなと思う。
16:18
洗濯機が仕事を終えた時、ビンセントとジョーイザザの接近前。それまでのビンセントに、役柄も相まってか、映画も当然今日日は社会性の1つなほど既にあることにしかなってないわけだが、生ける伝説マイケルとエイドリアンといるということが役柄に合ってるだけではないかとか思わなくもない。ビンセントにフレドもトムもマイケルもいないし、クレメンザとテシオもまだいないけれども、マイケルとは違う家族と言えば違う家族でもあるビンセントは、家族以外というか、ワンピースで語ると全員仲間にはしないしされたくもしたくもないという仲間というものも、マイノリティとリミテッドであればあるほどよいかげんになるわけでもあるが、アインシュタインとの仲間意識をどうしていくかというか、ガガーリンとの仲間意識があるのかないのか、それはどういう形式上であるというか語り得ぬものであるべきだとか、ハムとの仲間意識、ライカに限っては名前すらほぼライカ、衣裳はオペラというよりは、琥珀色が衣裳、工作物というか、イタリアンというか、日本人でパーティーの1つで、演歌で盛り上がるとかいう習慣も風習もない、どちらかというと無情というか無情も人によっては言語そのものの本質が違うんだが、よくよく思うだけの段階だと、エイドリアンはイタリアンなコルレオーネとバルボアの二大映画に出てるというのは、フレドの出演作全てが驚異の沙汰、メリル・ストリープが出てれば最悪でもメリル・ストリープだけはよいということでは、エイドリアンがローマの休日、鉄道員(数分しか観たことないがすげぇと思う。)、自転車泥棒、ひまわりに出てないのは悔やまれると思わなくもない。エイドリアンが最もイタリアンな感じが私はしないんだが。
16:43
洗濯機から物干し竿への機械は未だないんだろうなと思いながら洗濯機から物干し竿へ移動の自力の微力を発揮した後、観賞会再開。ビンセントとジェーン・フォンダのベッドインのはなまで観る。ビンセントの胸毛がすげぇのも今回初めて知った。
ジェーン・フォンダじゃねぇなと思わず一言漏らす。ブリジットフォンダだった。
17:02
インモビリアーレの件のはしり、個人的にホモ野郎共、まぁましな類いというか関係性でだがまで観る。
日本でだったら、七人の侍、東京物語ははなから話にならんしそういうことで成立してないが、恐らくは農民の物語でしか当映画のようなものは作りようがないのではないかと思わなくもない。それでもそれでスタインベックのような話になるし、フォークナーのような難しいと形容したのもいたかいないかだが、ここでフォークナーを思うほどフォークナーに詳しくないが、フォークナーは私にもっと詳しくないというゴロツキの論理になるなと思う。
17:35
オナニストとしては、てめぇの右手というホモ野郎がてめぇだなと思うけれども、オナニストとしては、エロ本、昔でいうビニ本だが、それではもう勃起しなくて久しい成長期な私は、アダルトビデオも物語が一切ないことが重要だったのが、それでも勃起しなくなり、物語、特に悪徳な物語であるということでの勃起ならば勃起可能だと最近思う。
17:57
個人的、ほぼ当ドキュメントは個人的突破の1厘程度で書いてるが、マイケルのテイクフォーミーバッキンという、パートⅢでは特に印象派の場面まで観る。単なる私が住んだどこよりもだだっぴろいダイニングキッチンにたった四人というスムージングの場面。そこに納豆も葱も、カップラーメンも、そして味噌汁もご飯すらないキッチンというのは、さすがコルレオーネファミリーだと思わなくもない。
2024.12.19
13:28
半日ほど眠りこけたが、途中昨日食事会兼観賞会で、味噌汁だったか美味しかったのと多かったので発泡酒飲みながら食べ過ぎ、真夜中に起床し命を糞にする前にゲロにした。発泡酒も手伝ってもあるにせよ、酔ったのかと思ったが、二日酔いというような頭痛もないので、食べ過ぎで気分よくゲロというのは初めての経験だったと思う。レンタル漫画してあるデスノートを二冊ほど読んだが、視力が微妙で腕を上げなければ姿勢が保てず、腕を上げると腕疲れるなとかちょっと思う。面白いと思うイッヌは最終話?は無料で読めずに何らかのペイのおおみえの段階では、動画とかを観ると読めるらしいので、さすがに第1話から無料でない漫画だと挫けるし、インターネットで知った夏目なんとか帳というのは感動するような漫画らしいので試し読みはしてみたが、毎日1話読みてぇなと思うもチケット制ではないから読めないなと思う。
先程迄にオペラ観賞会でVIP席のコルレオーネ着席中まで観る。パートⅠとパートⅡがすげぇので、圧倒的につまらないんだがそれでも観るに耐えないだとか時間の無駄だとかいう観賞会時間は与えないのはすげぇと思う。オペラ座階段でのマイケルはそれだけで私は当時アカデミー賞主演男優賞はマイケルだと思った記憶がまだある。マイケルではなかったので、その年の主演男優賞は誰だったのか後でウィキペディアで見てみようと思う。マイケルに動力がありすぎたあるきらいもあるだろうか。コッポラがケイを天才と評していたのは、他人事ながら嬉しいと思う。あんたも天才だろうけれども。後半年間あればもっと脚本を練れるというのは経験則だろうし何らかの知識だろうからだろうけれども、マイケルの動力と共に、ビンセントの動力が本来的に動力であるべきことがより動力になってないことはあるように思う。マイケルが変わらないということでもなくて、そこに動力を捧げてもでも、生命体が変わらないわけだから、マイケルが変わろうとしているだけの、どう変わろうとしていてさえも、マイケルだけのことにケイは当然強くある人間らしさによる、現在のケイは、マイケルが変わらないというシチリアでのそれよりは、マイケルへの嫌悪と慈愛の生命体という人間としての命の演技のように思わなくもないと思えば思わなくもない。
19:54
パートⅢコッポラコメンタリー版観賞会終了。当ドキュメントにファミリープロットを書いくために書いたように思って、ヒッチコック作品の全てを観てないし、画面サイズというより視界、視野としてのそれとしてもファミリープロットよりフレンジーが少し面白かった記憶しかないが、書いてなかったので書くのは止めようと思う。
20年近く持っていただけで一度売却し最近購入した凄い版DVDのコメンタリー版も初めて観賞会したけれども、今思うと特典版DVDすら何も観てなかったと思う。通しで123を連休とか夏休みとか冬休みに観るという最大の目的しかなかった。数年前までVHSでもDVDでも、喫煙はしても基本じっと観ることが好きだったが、当時映画観賞会の感想というのをノートだとかに纏めていってもそれほど意味もないだろうと思うのと、スマホ、今正に書いているドキュメントだと指だけ、ほとんど寝ながら書けるというスタイルでもさほど意味もないように思う。きちんと向き合ってとかで書くならばそれは英検の勉強しるべきでもあるからそれはそれで意味もないと思う。
2024.12.21
4:05
特典映像DVDの主要と思われる部分の観賞会終了。未公開場面を数点しか観てないが、少年ビトを母親が連れていくというのはそれが無くても可能ではあるが、ビトを殺しに行くわけではなくて連れていくということは同化か浄化が楽でもないが楽があるということでは、あってもなくてもか。カーマインコッポラ全場面未公開の未公開場面まで観たから、当時の現在もパートⅢの現在の未公開も何一つ観てないけれども、メーカー忘れたが水気がすげぇ冷凍パスタのメーカーではない冷凍パスタを先日購入しレンジでチンして水気の少ない技術のメーカーだと感心しつつ、そのパスタと発泡酒でパートⅠの日本語音声、英語字幕の観賞会を初めて行う。
英語も微妙のヒアリングなマーロン・ブランドビトだと私のヒアリングでは思うけれども、日本語音声のビトは何とも言いようがないというのが率直な感想。ボナセーラ、ボナセーラのジャスティスパー券としつつ、頼み事、それはビトらしい頼み事になったわけだが、ビトから頼み事される訳にもいかないという論理は、ビトはそれほどネバートリートメントというかディスリスペクトフルなフレンドシップとか、少し読んだ英語字幕を駆使しとく感想にしてみた。
凄い版DVDの第一義は本編コッポラコメンタリー版だが、第二次目的のドキュメンタリーのようなのが二つ(当時のがパートⅠのみとしてあるのは観る)あり、恐らくのっけのがそれとして、ソニー役に4000人の俳優がオーディションという青年ビト談があったり、ソニーがマイケルとしてケイとの場面をやってたりあったが、恐らくは他にも特に現在は有名になってる俳優はいただろうけれども、地獄の黙示録の有無かマーティン・シーンのみは出演してない俳優でのオーディションというかカメラテストだろうかがあるのはお宝映像だと思う。
ディスベリーデイという言語の発想もというか論理は日本語にはないから、スカム ルーインド ユアドーター うっど ビー サファリングというのは基本からして相当表現力に雲泥というか天地の差、開きがある。それだけでも。その密室ですら格段に表現力にそれがあるけれども。
スポークンラングエェジいずでぃふぁれんとふろむりとぅんらんぐえぇじ という中学英語の音声と、ディスベリーデイというのは辞書で調べると載ってのがよく分からないが、現在ということのようだが、日本語訳の解釈、訳というのは、娘を主体にしたその言語体系にもっていくと、凄まじい英語になるというのが英語があやふやというかよく分からないという低レベルの私だと高確率でよくある。主語というか動力、どうたい
2024.12.22
18:52
前回ここでもだんかいだったかと思う。アポロニアが窪みへ逆足踏み入れてずっこけるのをマイコーが支える胸キュン場面まで観る。否、カルロがゴミ箱に入るとこまで観てた。ワッツザマターが多いように思う。むじょうを抱えたドラマチックのしんせんぐみとしての生命体の決意としてのそれだろうかと思わなくもない。あいきすゆあはんど どん(トマシーノだったか)に、日本語、日本人、日本国土にその関係性(表現力というか社会性としての礼儀というか儀礼というか。)なるものは特に近代はないなと思う。連合軍だろうかが出た時も、クラーク・ゲーブルを連呼してたのは日本語字幕のみでしか観たこともなかったので、ヒアリングでは分からなかったし、リタ・ヘイワースに至ってはその存在をショーシャンクでしか知らないほどだが銀幕の象徴であるほどではあるのかと思った。アポロニアの乳首までまだだが、アポロニアの乳首は色素が低めというか、青少年以降の人間特に野郎は好みとしては舐めたがりの生命論理が強めはあるかも知れないけれども、赤ちゃんにとっては色素がそれなりに明確というか、よりコントラストがクリアなほど生命論理としては強めではないかと思わなくもない。赤ちゃんにクリトリス舐めさせる母親はいないだろうが、それよりも赤ちゃんにちんぽこ舐めさせるのはばちかんとして頭は二度はかちわらないといかんけれども、それ以降に、何人もワッツザマターまちぐるめだが、そもそも赤ちゃんにクリトリスは知らんが、ちんぽこではちんぽこ気持ちよくはないだろうからやらんだろうなと思う。赤ちゃんなら牛か豚の、そしてお尻という類いだろう。ビラヴドに牛のお尻があったなと思い出した。糸コンニャクと同じ論理。
2024.12.23
2:44
昨夕までにモーさんが食事会退席まで観賞会終了。ソロッツォの日本語音声の声優さん?は、刑事コロンボの二代目?の方のように思った。ビトが初代としても、ビトのお父さん早々に死んじゃってるわけだが、ビトのお父さんからは二代目だから、ビトのお父さんという初代からは二代目としてのそれの能無しではあるなとか、娘のコニーちゃんなんて新婚で暴力亭主、長男のソニーに一方的なじゃれっこ、三男のマイコーからはコニーへの永遠の別れの実行、名馬の首もただ首が胴体と離れ離れのはなれわざとはなれわざとはなれわざの家族感覚。ジョニーはフランク・シナトラがベースらしいのはウィキペディアで知っていたけれども、毎年、特にインターネットの普及率の初期のだんだんばたけとかもあるにせよ、年末はクリスマスソングの新作よりは旧作が人気(その人気というのは楽曲のダウンロードということだろうか。勿論CDという所有なりふかかちもまだあるだろうけれども。)らしく、何となくワム!がやはりすげぇ人気だなと納得したけれども、フランク・シナトラとナット・キング・コールの歌声というか美声もさることながら美音というのが目につくならぬ耳につくなと思った。ロバート・プラントとかで思う限りでは、ロバート・プラントより巧い、或いは上手いのは、恐らくは昔もだろうが今の若造はもっと多めにいるとしか思えないけれども、ロバート・プラントより良くないというか、ロバート・プラントになるつもりはちょっと数十年程度はいるように思わなくもないが、初代というものがそれなりに紀元前だとマイノリティとリミテッドが緩やかにはなる原理原則でも、ダーウィン論理だと、しかし果たして人間の骨だろうけれども、人間の骨が1億万年前にあったということが、1億万年で今の人類これかという論理というものと、哺乳類の分かれ道の骨が発掘されたとして(今からそれなりに随分前からその決着は着いてるのかも知らんけども)、それによるタンキケッセンのナチュラリズムに結びつける暴挙に出るのか。初代の痛み、滅亡は、人類として取り返しがつかない一大問題だが、初代のみでだと、屍をつみかさねていくだけのことを不存在に出来るということすらも手遅れが拍車をかけるのと、それを恰も挫けない、負けないかのごとき快楽主義、タンキケッセンによろしいナチュラリズムが、
やはりここでも疲れたというより、そういう人格もないし社会性もない私というより足りねぇ脳ミソでそんなことを思うか思わないかの瀬戸際を書こうとして書いても飽きちゃうなと思った。
でも昨日は三宮つばきちゃんのDVDを購入したから、昨日の真夜中に一昨日購入した楪カレンちゃんのDVDでオナニーしたなと思い出した。ちょっと文章微妙になったなと思うけれども。
数分後追記。ちょっと文章微妙になった部分より、レッド・ツェッペリンのお歌を歌うということでの条件を書いてないのがロバート・プラントの個人的シナプシスでなくて、単語が出てこねぇから書くの止めようと思う。