浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

日本の語り継ぐべきお話

2014-11-12 01:39:28 | 資料

縄文人と弥生人は同じ人

ねずさんの ひとりごと 2014年5月6日

のっけから物騒な頭蓋骨の写真を掲示して申し訳ないのですが、上にある写真は「縄文人と弥生人」の頭骨の比較として、あちこちに引用されている写真です。
この話は、先日行われた日本史検定講座における長浜浩明先生の講義で、私も初めて知ってびっくりしたのですが、なんとこの写真、偽造(変造)写真だというのです。

写真を見ますと、なるほど縄文人よりも弥生人の方が、頭骨が面長に見えます。
だからこの写真は、縄文人よりも弥生人は面長な顔立ちで、民族的特徴がまるで違うということを証明する写真として、NHKが「日本人はるかな旅」という番組で放送し、その後、同じタイトルの本でも紹介され、さらにマンガでも出版されて、広く世の中に出回っています。

ところがこの写真、真っ赤な偽写真です。
本物の写真は、下の写真です。

こちらの写真の方が全体に白いですが、冒頭の写真は、この写真を何度もコピーを繰り返すことで(当時はコピー機の性能が低かったため)全体に写真がくろずんだものです。
しかも、写真をよくみると、顔を線対称にして、張り合わせていることがわかります。

最近、STAP細胞に関して、データの改ざんや切り貼りなどが問題視されていますが、こうした考古学や歴史学、あるいは古代史の分野では、戦後左翼系の学者たちによって、このようなデータの改ざんや証拠のねつ造が、繰り返し何度も行われ続けてきました。
そしてそれが教科書にされ、本になって出版され、デレビでも何度も繰り返し放送され続けてきたのです。
それこそ、小保方さんどころの話ではないのです。

それにしても、なぜ、このような古代史に関するデータの改ざんやねつ造が行われ続けてきたのでしょうか。

その答えが、戦後のGHQによる検閲があります。
GHQは、お仕着せの日本国憲法等においても、表向きは検閲の禁止をうたっていましたが、実際にはガンガン検閲を行い、また戦前から伝わる(ということは日本の古代から中世、近世、近現代へと続いて来た)歴史を教えたり研究したりしている者たちを、片端から公職追放しました。

その影響をもっとも大きく受けたのが大学で、大学の教授たちで、日本書紀を研究し、神代からの天皇の歴史をまともに研究する教授たちを、ことごとく追放してしまったのです。
代わって教授職に就いた者、あるいは生残った教授たちは、生き残りのために、一斉に、戦前までの日本史を頭から否定する学説を発表しました。

なかでも有名なのが、東京大学の江上波夫(なみお)名誉教授の「騎馬民族征服王朝説」です。
長浜先生によると、あれは江上教授の「私は日本書紀を否定してますから、どうかクビにしないでください」というアピールに他ならないとのことですが、ところが昭和23年に発表されたこの説は、さまざまに形を変えながら、いまも強固に歴史学会、人類史学会、考古学会、古文学会等に、根強く残っています。

それがどういう思想かと申しますと、概略以下のようなものです。
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かつて日本列島には、鹿の毛皮をまとっただけの、ほとんど原始人のようなオクレタ生活をしていた縄文人たちが住んでいた。
そこに2500年ほど前に、朝鮮半島からススンダ稲作文明を持つ渡来人(弥生人)たちがやってきた。
そして縄文人たちを殺戮し、日本民族は入れ替わった。
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というものです。そして、
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入れ替わったはずの弥生人たちも、その後、なんら文明の進歩がないまま、意味のない古墳などの土盛りをして、豪族たちが勢力を誇示していたけれど、そこに7世紀になって、またまたススンダ文明を持った渡来人たちが朝鮮半島からやってきて、日本人に箸の使い方から文字、仏教などを教え、そのためようやく日本には、文明が花咲いた。
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とされ、落しどころとして、
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こうして朝鮮半島から常に大きな影響を受けることで、やっと文明化した日本人は、あろうことか明治以降、その朝鮮半島を征服し、若い女性をことごとくセックス奴隷にしたあげく、大陸においても残虐な人殺しをし続けた。
そうした日本人のもとになっているのが、弥生時代に渡来し、縄文人の男たちを皆殺しにし、縄文人の女たちを強姦し抜いた血に基づくものなのである。
========
と続いて、ぐるりとまわって現代と古代がつながるわけです。

これが要約すれば、戦後の文系大学を流れる大学教育の根幹にある「思想」です。
このようなものは、歴史でもなんでもない。ただの「思想」にすぎないからです。

そしてこの「思想」に反する実証学的な証拠類は、ことごとく否定され続けてきました。
まれにこの「思想」の間違いを指摘する学者などが現れても、そういう学説は、どんなにグウの根もでないほどの証拠をそろえても、学会からは排除され、あるいは無視され、決して日の目をみることもなく、本にする場合でも、せいぜい自費出版で、2〜3千部売れれば良い方となりました。

逆に、上にある「思想」を補強するような内容の本を、権威ある学者がはずかしげもなく発表すれば、これがビックニュースになり、また本にすれば、その本は文科省や教育委員会の推薦をもらって、全国の行政、学校、図書館などに公費を使って配下され、それだけで最低5万部が売れ、それだけではなくて、テレビでも紹介されると、本は学説本でありながら、数十万部の大ヒットとなって、書いた学者や左翼系出版社のフトコロを潤してきたわけです。

東京書籍の小学校歴史教科書の代表執筆者となっている佐々木毅という人物は、元東京大学教授で、その後、東大の学長にまでなり、その後、学習院大学の教授ににまでなって、いまは学士院の会員となっている、肩書きだけみたら、ものすごく偉い人です。
けれどその人たちが書いたその教科書をみると、まさに上に述べた「思想」がそっくりそのまま反映しているわけです。
そしてその教科書が、小中高の歴史教科書として広く採用され、日教組という手足によって、何も知らない子供たちに「事実」として刷り込まれています。
実に、とんでもない話です。

小保方事案は、いまだにマスコミなどによって、激しい追求がなされているようですが、むしろそんなことよりも、戦後の教育を歪めて来たいまの左巻きの大学教授たちをこそ、証拠のねつ造、改ざん、デタラメな記述等で追求し、公職を追放すべきと思います。

では、実際の姿はどうだったのでしょうか。
まず、
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かつて日本列島には、鹿の毛皮をまとっただけの、ほとんど原始人のようなオクレタ生活をしていた縄文人たちが住んでいた。
そこに2500年ほど前に、朝鮮半島からススンダ稲作文明を持つ渡来人(弥生人)たちがやってきた。
そして縄文人たちを殺戮し、日本民族は入れ替わった。
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このくだりですが、これはまったくデタラメです。
9500年前の上野原遺跡や、5500年前の三内丸山遺跡などの縄文時代の遺跡など、いまや多数の縄文時代の遺跡から、当時、すでにきわめて高い文明文化が日本に存在していたことが、明確に確認されています。

鹿の毛皮にしても、なるほど冬の寒いときには毛皮を外套として羽織ったかもしれませんが、衣類は鳥浜貝塚から、間違いなく布製の衣類を着ていたことが、確認されています。
もっというなら、縄文式土器は、壁面には縄目の模様があるという特徴があるわけですけれど、縄というのは、編んで作るものです。

編むという技術があるなら、その技術を用いて布をつくるのは、当然にあり得ることで、実際、縄文式土器というのは、必ずといって良いほど、底の部分に布の模様が遺っています。
これが何を意味しているかというと、縄文時代には、土器を作るに際して、土器の下に布を敷いていた、ということです。

縄を編み、土器を作るに際しても下に布を敷いていたのなら、その布を身につけなかったと考える方が、そもそもどうかしています。
縄文時代の人々は、いまの学会の通説よれば、鹿の毛皮しか着ていなかったそうですが、そもそも森や草むらに男たちが狩りにでかけるに際しては、男性はフリフリ状態では、大事なところを怪我してしまいます。
ですから、かならずフンドシやパンツを穿いていだであろうことは、あたりまえすぎるくらいあたりまえにわかることですが、そのフンドシやパンツが、この高温多湿の日本で、しかも夏の暑い盛りに汗まみれになって狩りをするのに毛皮のパンツだったら、大事なところがインキンタムシになってしまいます。

日本では、3万年前の磨製石器が発見されています。これは世界最古のものです。
そして1万6500年前には、やはり世界最古の土器が作られていたことが確認されています。そしてこれが縄文時代のはじまりで、その後、土器や土偶などはどんどん工夫されて行き、縄文時代の後期になりますと、あの大阪万博の太陽の塔のモチーフになったハート形土偶などの美しい造形物も制作されるようになっていました。
オクレタ生活どころか、当時の世界にあっては、まさに最先端ともいえる文化的生活が営まれていたことが、考古学的に実証されているのです。

では、同じ時代の朝鮮半島はどうだったかというと、いまから1万年前から5千年前までの5千年間(一説には12000年前から5000年前の7千年間)もの間、人類の痕跡が途絶えています。その期間の遺跡がないのです。
遺跡がないということは、そこに人が住んでいなかった、ということです。

その後、いまの北朝鮮辺りに人が住むようになったのですが、この種族のことを、古代の支那では「濊族(わいぞく)」と呼びました。
古代の支那人たちは、周辺の種族たちに、それぞれ、ろくでもない漢字をあてていますが(日本は倭で、これは背の低い人という意味の漢字)、糞尿を意味する「濊」という漢字を当てられたのは、古代の朝鮮半島の中部から北部に住む人々だけです。
「濊」は「汚」という漢字と結びついて「汚濊」となりますが、どれだけ汚い民族だったかということです。

もっというなら、汚いということは、同時にオクレタ文明、もしくは文明的に未開であったことを意味します。そのどこからどう日本が教わったというのでしょうか。

さらに稲作については、いまから約6500年前の朝寝鼻貝塚から、大量のプラントオパールが見つかっています。
プラントオパールというのは、植物が土に含まれる珪素(けいそ)土中から吸い上げたとき、その硅素が、葉脈に沿ってガラス質に変化してオパールとなって蓄積するもので、葉脈の形状に沿って固まることから、どの植物によって形成されたのかが特定できるというものです。
オパールは、何千年経っても壊れないし、焼いても形が残るため、土中や土器の破片に含まれるプラントオパールを研究することで、当時、どのような植物が栽培されていたかがわかるわけです。

そして、日本で大量の稲のプラントオパールが見つかったということは、6500年前に、すでに日本では稲作が行われていた、ということです。
そしてその時期の朝鮮半島には、まだ人が住んでいません。

さらにいうならば、朝鮮半島で稲作がはじまったという痕跡は、5世紀頃のものです。つまりいまから1500年くらい前のものです。すくなくとも考古学の実証主義的に見る限り、日本に遅れること4000年の差があるのです。
そうした事実がすでに明らかになっているのに、どうして朝鮮半島から稲作が渡来したことになるといえるのでしょうか。

さらに申し上げますと、稲作は、いまから7千年前に、支那の上海辺りにある河姆渡遺跡(かぼといせき)ではじまり、それが山東半島、遼東半島、朝鮮を経由して日本にもたらされたというのが、いまどきの左巻きの学者たちの言い分ですが、そもそも山東半島や遼東半島のあたりは、地形が険しすぎるし水利がないため、稲作ができません。
できないのに、どうしてそういう経路で伝わったのか、誰も説明ができていません。
できていないということは、そんな事実はなかったということです。

さらにいえば、河姆渡遺跡の稲作にしても、日本で6500年前の稲作の痕跡が見つかったという発表があったら、突然、支那から7000年前の稲作跡が見つかったことにされています。
けれど、河姆渡遺跡の稲の痕跡が、ではいったいいつの時代のものなのか、これについては、誰も検証していません。
支那の当局が、7000年前のものと発表したから、7000年前となっているだけのことです。

そもそも中国5千年という話も、明治時代に日本にやってきた支那人留学生たちが、当時の日本の皇紀が2500年だったために、「とりあえずその倍くらい言っておこう」とばかり、いきなり5千年と言い出しただけのもので、そもそも根拠がありません。
後に、この中国5千年は、戦後の高度成長期に、さすがに倍だとすぐにバレるからと、「おかずは桃屋の花らっきょ」のCMで、中国4千年に言い換えられました。
もともと、いいかげんなものでしかないのです。
そのいいかげんな支那が、とつぜん根拠もなく7000年と言い出したから、稲作は支那から渡来したというのは、あきらかに支那におもねる思想であって、これは学問ではありません。

もともと人類史をたどりますと、日本列島に人がやって来たのは、いまから約3〜4万年前であったろうといわれています。
人類が猿から分化したのはいまから約700万年前のことで、そこから人類は、猿人、原人、旧人と変化しました。
いまの人類を「現生人類(ホモサピエンス)」といいますが、これが誕生したのが、いまから約15万年前で、旧人等と現生人類には、交配はなかったとされています。

面白いので、下の絵を貼っておきます。
猿人、原人、旧人たちと現生人類の間には、血の結合性はないのだそうです。つまりわたしたちは、旧人たちの子孫ではありません。(それにしても、やっかいな種に育ったものですね)

この絵はもちろんパロディですが、ただこの絵を見て思うのは、日本のたとえば鳥浜貝塚で、漆塗りの櫛(クシ)は発見されているのに、漆塗りのたとえば槍の柄とか、漆塗りの棍棒(こんぼう)のようなものが日本ではまったく発見されていないということです。
発見されているのが、女性の装身具である漆のクシで、漆塗りの武器が発見されていない。そういう時代が日本では1万5千年近くも続いたというのは、これは人類史上の奇跡と言っても良いくらいの出来事なのではないかと思います。

現世人類が最初に誕生したのは、15万年前のアフリカ中央部です。
それが10万年前には中東あたりに移住し、そこから6万年前にユーラシア大陸を四方に散りました。
それが日本列島に北と南からやってきたのは、いまから4〜3万年前とされています。

ちなみに日本では、約12万年前の石器が発見されていますが、これが新人類のものなのか、旧人類のものなのかはわかっていません。
けれどもし、それが新人類(ホモサピエンス)のものであったとしたら、これは世界の人類史を揺るがしかねない大事件となります。

一方で、勘違いしてはいけないのは、日本列島に北と南から人類がやってきたのは、いまから4〜3万年前だということであって、それは2500年ほど前の、渡来系弥生人とかいう話とは全然違うということです。

推定される新人の世界拡散の経路とその時期
(篠田謙一著「日本人になった祖先たち」より)

日本列島にやってきた人たちが、北のモンゴル系と、南からのフィリピン・マレー系であったことは、日本人のDNAが、それぞれ北と南の特徴を半分ずつもっていることからも、確認することができます。
もしこれが、一方側に偏っているとなると、それは大陸と同じように、相互に民族的な戦闘があったということを意味します。

どういうことかというと、男性から男性へと伝わるY遺伝子のDNAは、男たちが殺されることによって、次第に絶えてしまうからです。痕跡は女性から子へと伝わるミトコンドリアDNAの中にしか残りません。

支那では、およそ4千年前の黄河文明の前に、長江文明(およそ6千年前)が栄えたことが確認されていますが、このとき、先に長江文明をなしていたのがモンゴロイドです。
ところが後になって、北の黄河の流域に、白人系のコーカソイドたちがやってきました。おそらくは大型動物を追ってきたのだろうと言われています。

両者が人種的に異なっていたことは、遺跡から発掘された人骨や住居の形状の違いなどから確認されているのですが、コーカソイドたちは大型動物を狩りますから、手に武器を持っています。
一方、長江のモンゴロイドたちは、農耕文化ですから、武器を持っていません。
あるとき、長江流域のモンゴロイドに出会った黄河のコーカソイドたちは、モンゴロイドを殺し、食料や女を奪いました。

もちろん生残った長江人たちは、コーカソイドに戦いを挑みました。
こうして約2千年の時が流れて、黄河人たちは政治的軍事的に長江人たちを完全に支配下に起きました。
けれど、人口はモンゴロイドの長江人たちのほうが圧倒的に多いわけです。
そのため、彼らの外見上の特徴は、モンゴロイド系になりました。

その後も白系の人種たちは、陸続きですから、数多く支那に入り込みました。
2千年前、つまりそれは三国志の時代ですが、その時代の人骨を調べてみると、男女ともにコーカソイド系の特徴が多くみられるそうです。

考えてみれば、関羽も張飛も、外見上の特徴は、モンゴロイドというよりも、関羽は大柄で髭が長くて顔の堀が深い。これはバイキングなどにみられる人種的特徴です。
張飛は、丸ぽちゃで大柄で、髭はもじゃもじゃ髭です。これはドアーフにみられる人種的特徴です。
要するに、紀元200年頃の支那には、白人系の人種的特徴を示す者たちが、まだたくさんいた、ということです。

ところが現代支那人のDNAからは、ミトコンドリアDNAの中にわずかにコーカソイド系の遺伝子が見つかるだけで、男から男へと伝わるY遺伝子のDNAには、コーカソイド系のDNAがまったく発見できません。
つまり、コーカソイド系の戦う男たちのDNAは、繰り返された戦乱の結果、みんな絶えてしまったわけです。

古来大陸では、殺し合いで負ければ男は奴隷にされるか皆殺し、女たちは陵辱されて子を産まされました。
こうしたことが繰り返されると、やはりその痕跡が時代の変化とともにDNAの変化となってあらわれるわけです。

ところが日本人はどうかというと、あきらかに4〜3万年前に北と南から異なる民族がやってきたにもかかわらず、相互のDNAは、男にも女にも、互いにほぼ均等に出現します。
これが何を意味しているかといえば、明らかに、双方は共存した、ということです。
日本人は、4万年前から、共存と共栄の道を選択してきたのです。

では、北と南のそれぞれからやってきた日本人は、どちらが先に日本列島にやってきたのでしょうか。
これも、ほぼ答えが出ていることです。
それは、おそらく最初に日本列島に住んだのは北方系であったということです。

なぜそのようにいえるかといえば、答えは言語にあります。
日本語は、基本的な語順はモンゴル語系です。
ところが単語の多くは、インドから東南アジア系です。

つまり、モンゴル系の語族の特徴の上に、南方系の単語が取り入れられて、日本語ができたということです。
そして両者の言語は、3〜4万年という途方もない長い期間を経て混じり合い、日本語の型が生まれたわけです。
これが完全に、日本語の型として定着したのは、縄文末期頃であったろうという説もありますが、私は縄文中期には、すでに確立されていたであろうとみています。

なぜこうしたことがいえるかと言いますと、言語学的にそれとそっくり同じことが、実は朝鮮半島にも起きているからです。
朝鮮半島には、もともと倭人たちが入植し、いまの韓国の南半分は倭国です。

ところがそこに、武器を持った中華系や、北方遊牧民系がやってきました。
最終的に倭国は、かつて満州から撤退して人々が日本に帰って来たのと同様に、朝鮮半島から撤退し、日本列島にもどってきました。
その結果、朝鮮半島内では、倭人たちの言語である日本語の語順(文法)の上に、すべての単語が支那語などに置き換わっています。

もともと朝鮮語なるものがあったのではないのです。
もともと朝鮮語なる言語がもしあり、そこに高い朝鮮文明があったのなら、これまた長浜先生から教えていただいたことなのですが、朝鮮語には、民族の国語である「訓読み」がありません。全部、支那式の「音読み」なのです。

このことが何を意味しているかというと、古代において朝鮮半島にいた人たちは、もともと日本語によって文明を開かれ、言語を学び、それが支那か北方遊牧民たちによって征服されることで、言語の単語の読みが全部音読みに置き換わったということです。

彼らは「日本に文明を教えてやった」どころか、日本からせっかく文明を教えてもらいながら、北方系遊牧民や支那人たちと結び、まさにウシハク国を築き上げ、文明を崩壊させてしまっていたわけです。
そしてそのことが、現代艦国語に、確たる証拠として明確に遺っているわけです。

さて、そうなると冒頭に申し上げた「思想」
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そこに2500年ほど前に、朝鮮半島からススンダ稲作文明を持つ渡来人(弥生人)たちがやってきた。
そして縄文人たちを殺戮し、日本民族は入れ替わった。

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というご高説も、ずいぶんと疑わしいものになってきます。

そもそも稲作は、稲を栽培して食料を得るものです。
その稲は、熱帯性植物です。
これはなんどもこのブログに書いていますし、またねず本にも書かせていただいたことですが、熱帯というのは、雨期と乾期があります。
けれど日本は温帯です。雨期と乾期はありません。
そこで、人工的に雨期と乾期を演出したのが、水耕栽培です。
つまり、春には田に水を引いて、田植えをする。これは雨期を演出したのものです。
そして秋には、田から水を抜き、乾田にして、収穫する。これは乾期を演出したものです。

こうしたことを実現するためには、田の水位を変える灌漑技術が必要です。
地面の高さは一定ですから、水位を変えなければならないのです。
そのためには、川に堤防を作って、川の流れを塞き止めて、川の水位を上げなければなりません。これには、相当の水圧に絶えうるだけの堤防技術が必要です。
また、田の地面の高さは、広大な水田が、すべて一定の同じ高さになっていなければなりません。そのためには、測量の技術が必要です。
安全に水を引き、安全に乾田にすること、そして田の高さを一定に保つこと。
これらを工夫し実現するためには、数限りない試行錯誤の蓄積がなければなりません。
そしてまた、稲がどういう植物か、つまり熱帯地方には雨期と乾期があるということを、知識として持っていなければなりません。

考えてみると、これはものすごい農業技術革新です。まさにイノベーションです。
そしてそういうことは、みんなの協力があってはじめてなし得ることです。
殺し合いや奪い合いばかりをやっているような地域では、絶対になし得ないことです。

日本はこれを行いました。
いつやったのかといえば、縄文時代です。それも弥生時代が始まるよりも4千年も前から、これをやっていたわけです。
すくなくとも、同じ時代に人の痕跡さえなかった朝鮮半島で、これが行われていたとは、まったく考えられません。

では、弥生人というのは何なのでしょうか。
冒頭の写真では、弥生人は頭骨が細長いとされていました。
「思想」によれば、その弥生人たちがやってきて、縄文人を滅ぼしたとあります。

ところが全然違うのです。
そもそも弥生人の骨格なるものは、それより古い縄文人たちにもまったく同じようにみられる特徴でしかありません。
そもそも一重まぶたや二重まぶた、高い鼻や低い鼻、背の高い低いから頭骨の縦長、横広といった特徴は、縄文時代よりも、もっとずっと古い時代から、日本人が北方系と南方系の血が入り交じったことによって、縄文時代には既に出来上がっていたものに他なりません。

このことについて、藤岡信勝先生が、実に面白い言い方をされていたのですが、「縄文人と弥生人を区別するということは、鎌倉時代に住んでいた人を鎌倉人、江戸時代の日本人を江戸人、明治時代の日本人を明治人と呼ぶことととなんら変わりがない」というのいうのです。

つまり、弥生人などというシロモノは、ないのです。
縄文人も、弥生人も、同じく太古の昔から日本列島に住んでいた日本人でしかないのです。

なるほど、弥生時代になると、日本人は武器を持ち始めました。
その時代になると、遺跡からたくさんの槍や弓、刀剣などが出土しています。
そして、土器は、縄文時代のような装飾性の高い土器ではなく、きわめて簡素な土器へと変化しています。

なぜそうなったかといえば、縄文時代の終わり頃から、日本人が朝鮮半島に進出しはじめたことが最大の理由です。
日本列島の中で生活している分には、日本人は武器など必要ありませんでした。
このことは江戸時代から明治、大正、昭和初期にかけて、日本人の家屋に鍵などというものがなかったのと同じです。
泥棒がいなければ、鍵など必要ないのです。
同様に、襲う者がいなければ、武器など必要ないのです。

ところが朝鮮半島は、大陸と陸続きです。
高い文明を持った日本は、大陸(支那)等との交易も行いますが、そこには濊族もいるわけです。
彼らは、倭人たちの集落を襲い、食べ物を奪い、男たちを殺し、女たちを陵辱します。
そうなれば、倭人たちも、いきおい武装しなければなりません。

倭人たちの進出によって半文明化された朝鮮半島からは、日本本土にも、濊族などの外来人たちがやってきます。
数はごく少数ですが、中には、福岡一家惨殺事件や、女子高生コンクリート詰め殺人事件のような、むごい事件を起こす悪者もいます。
そしてそういう悪者たちは、悪さをしてはあちこちを旅しますから、いきおい日本列島の中も、物騒な情況になってきます。
もし、おかしな連中がやってきたら、戦わなければなりません。そのためには武器が必要だし、女たちもすぐに逃げ出せるように、服装も簡素になります。食器類も簡素になる。
低い温度で、長時間賭けて焼いていた土器(食器)も、できるだけ短時間で焼くために火の温度をあげ、焼き上がりが早くなるように、食器類も薄くなります。
こうして、生活の道具類が大きく変化したのが、弥生時代であった、ということです。

つまり、縄文人から弥生人への変化などは、なかったのです。
縄文人も弥生人も、ひとしく日本人であり、ただ、朝鮮半島に進出したことから、文明文化の度合いの、明らかに低い野蛮人たちと接することになり、結果、日本人は、武装したり、食器を簡素なものにしたりする必要が生まれたということにすぎないのです。
そして、これが事実です。

ましてや、渡来系弥生人によって、縄文人が駆逐されたなどという事実もありません。
なぜなら、縄文時代の日本人も、現代の日本人も、持っているDNAは同じなのです。

また、「6〜7世紀にススンダ文明を持った渡来人たちが朝鮮半島からやってきて、日本人に箸の使い方から文字、仏教などを教え、そのためようやく日本には、文明が花咲いた」などということも、まるで事実無根です。

そもそも朝鮮半島からススンダ文明がやってきたといいますが、それは何のことを言っているのでしょうか。
仏教伝来のことでしょうか。
仏教は、インドで生まれて支那で漢字化されました。
それがそのまま日本に伝わってきています。
朝鮮半島で、なんらかのオリジナルが加えられていたのなら、朝鮮半島を経由してはいってきたといえますが、なんら朝鮮オリジナルがないのなら、それはただ通過しただけのことでしかありません。

そもそも仏教伝来は、百済の聖明王(聖王)が、西暦552年に日本の欽明天皇に仏像や経典を献上したという出来事をいいます。
この当時、百済王は、その跡継ぎの王子を、日本に人質として差し出しています。
つまり、当時の百済は日本の属国だったわけで、属国である以上、その土地の名産品を朝貢するのが筋です。
ところが百済には、名産、特産となるべきものが何もない。
何もかもが、日本から教えられたことだったからです。
そこで、ばんやむをえず聖明王が、苦肉の策として選んだのが、支那の特産である仏像と仏教教典を、日本の天皇に献上するということだったのです。
逆にいえば、百済が、どれだけオクレタ国だったか、ということです。

では、オクレタ日本に渡来したというのは漢字でしょうか。
なるほど漢字は、仏教とともに、日本に渡来しました。
けれども、それよりも数世紀も前(あるいはもっと何千年も前)から、日本は支那や渤海国等と交易をしています。そこのことは黒曜石の分布で確認することができます。
つまり、日本は、朝鮮から仏教教典の献上を受ける前から、漢字を知っていたといことです。

では、他に朝鮮半島から6〜7日本に渡来したススンダ文明というものは、何があるのでしょうか。
「三つ答えて、下の( )の中に書きなさい」
(    )
(    )
(    )

建築技術? 答えは×です。世界最古の木造建築物は日本の法隆寺五重塔です。
高麗人参? ×です。それが栽培されるようになったのは、徳川将軍吉宗の時代です。
キムチ?  ×です。キムチが生まれたのは、大正時代です。
韓流ドラマ? ×です。古代ではありません(笑)
たぶん、書ける人はいないと思います。
なぜなら、何もないからです。

========
こうして朝鮮半島から常に大きな影響を受けることで、やっと文明化した日本人は、あろうことか明治以降、その朝鮮半島を征服し、若い女性をことごとくセックス奴隷にしたあげく、大陸においても残虐な人殺しをし続けた。そうした日本人のもとになっているのが、弥生時代に渡来し、縄文人の男たちを皆殺しにし、縄文人の女たちを強姦し抜いた血に基づくものなのである。
========
↑この記述も、まさにとんでもない、最早いいがかりとしか言いようがないものです。
そもそも、日本人が殺しや強姦好きの人種なら、先の大戦前の国際連盟の時代に日本の版図となっていたエリアには、日本人のDNAを持つ人たちが、山のようにいるはずです。

けれど、いません。
殺したり強姦したりするどころか、徹底した善政を施し、しかも大戦終了後は、逆に日本人が一方的に犠牲になっています。
だから、当該エリアに、日本人のDNAが残っていません。
事実は、まるで逆なのです。

縄文人と弥生人の違いは、鎌倉時代の人を鎌倉人、江戸時代の人を江戸人と呼んで別な人種、別な民族と主張するのと同じまったく馬鹿げた「とんでも思想」にすぎないということを。
日本人は、旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和、平成と、ずっと日本人は日本人のままなのです。 

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2250.html

◆『君が代』

『君が代』の原歌は古今和歌集の賀歌に出てきますね。
長寿を祈る歌です。

「私の敬愛する人よ、
千年も八千年も、
小さな石が巨岩となって、
さらにその表面を苔が覆うように
なるまでの永い歳月を、
どうか息災でいて下さい」

という、君が代の「君」…
つまり、親、兄弟、恋人、仲間など、
『愛する人の長寿』を願う歌です。

これのどこが軍国主義の象徴なのか?
日教組の石頭に説明して欲しいですね。

◆蛍の光


◆日本神話よ復活してくれ!

 イギリスの高名な歴史学者「アーノルド・J・トゥインビー」は「12・13歳までに自国の神話を学ばなかった民族は例外無く滅ぶ」と述べている。
 誰が「日本神話を奪ったか知ってますか?」それは「連合国総司令部GHQ」です。日本人の凄まじいばかりの精神性の高さに恐れを成したGHQは「神道指令」を発令し「宗教、神話としての神道」を奪い去りました。「古事記」「日本書紀」を「史実ではなく非科学的だ」と教えさせる事を止めさせた。「アレ〜ッ」実に変だ。GHQの中心的国家米国は大統領の即位式に、今でも聖書に手を置き宣誓する。その聖書は史実で科学的なのか?ノアの箱船、マリア処女生誕と奇跡のオンパレード、とても史実、科学的とは思えない。ダブルスタンダードも甚だしい。
 かと言ってGHQ、米国が悪いとは思っていない。負けた国を貶めるのは当たり前。ましてや高貴なる日本民族の精神破壊は徹底せざるを得なかっただろう。敗戦後70年近くも「邪悪な破壊工作」を、そのまま受け入れる現在の日本人の問題だと個人的に思う。

Facebookよりシェア 池間 哲郎氏


米国が果たしていない戦後処理

2014-11-08 18:56:33 | 資料

米海軍トップ、米国は台湾を防衛する「責任がある」

2014/11/05 フォーカス台湾

(ワシントン 5日 中央社)米海軍制服組トップのジョナサン・グリナート作戦部長は4日、ワシントンで行われたシンポジウムで、中央社の記者に対し、米国は「台湾関係法」に基づき、台湾を防衛する責任があり、その約束もしていると述べた。 

台湾が自国での製造と米国からの購入を並行で検討している潜水艦については、現在、米台間で話し合いが行われており、米国側も台湾側に必要な支援を提供できるよう期待しているとしながらも、今のところ公表できる情報はないと答えた。 

グリナート氏はこの日行った演説の中で、中国大陸は米国のアジア回帰政策において「重要」ではあるが、同政策は中国大陸に対してのみ行うものではないと語った。 

また、米国は自国の安全問題以外にも、国際社会の秩序と規範の維持にも責任を負うとして、インド洋、東シナ海、南シナ海などを含む地域の安全についても、同盟国や中国大陸の周辺国と提携して目標を達成したいとの考えを示した。 

(鄭崇生/編集:杉野浩司)

http://japan.cna.com.tw/news/apol/201411050005.aspx

◆アルバニア決議により中華人民共和国(中国大陸)が国際連合に加盟して常任理事国となる。中華民国(台湾)は国連を脱退。

2014/10/25 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN

アルバニア決議(第26回国際連合総会2758号決議 2758 XXVI)に対する1971年当時の世界各国の投票行動の図。それぞれで緑色で塗られた諸国(76カ国)が賛成、赤色で塗られた諸国(35カ国)が反対、青色で塗られた諸国(17カ国)は棄権、黄色で塗られた諸国(3カ国)は無投票である。

アルバニア決議とは、1971年10月25日に採択された第26回国際連合総会2758号決議「国際連合における中華人民共和国の合法的権利の回復」を指す。

長年にわたる国連における「中国代表権問題」にかかわる内容で、日本においては、提案国で中華人民共和国の友好国であるアルバニアの名をとって、アルバニア決議と呼ばれる。アルバニアが関係する決議は他にもあるが、一般的には本決議を指す。

これにより、中華民国(台湾)は国連常任理事国の座を失い、中華人民共和国が国連常任理事国と見なされた。

ただし、国連憲章の記載は未だに、中華民国が国連常任理事国であるため、中華民国がもつ常任理事国の権限を中華人民共和国が継承したと解釈されている。本決議に抗議する形で、中華民国は国連を脱退した。

なお決議案の名称内には「中華人民共和国の合法的権利の回復」とあるが、

そもそも国際連合が設立された後の1949年に建国された中華人民共和国が、国際連合の加盟国であったことは一度もないので、

正式には「合法的権利の回復」ではなく「合法的権利の取得」である。

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「中国の旅」

昭和46年(1971)月8月から12月まで、朝日新聞の記者・本多勝一が書いたもの「中国の旅」が朝日新聞に掲載さた。

内容は、旧日本軍や日本の民間人が戦時中に支那人に行なったとされる残虐行為の告発であるが、すべて支那政府のプロパガンダにすぎないものだった。

それを朝日新聞社は自社の「アサヒグラフ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」にも載せ、日本軍を非難する大キャンペーンを行なった。

その中には、「南京大虐殺」、「百人斬り」、「三光作戦」といった捏造、ねつ造が含まれている。

「南京大虐殺」
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-6492.html

「百人斬り」
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-6494.html

「三光作戦」
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-6495.html

当時、国連では支那代表権問題が激しく論議されていたが、これについて朝日新聞は「国民政府(台湾)切捨て」「中共承認」こそ「世界の潮流」であると盛んに書きたて「日中国交回復」世論を盛り上げるのに躍起になっていた。

その朝日が、日本人に中共(支那共産党)に対する罪悪意識を改めて自覚せしめ、中今日の前に懺悔、平伏せしめんとの意図から、様々な中共礼賛、日本非難の記事による親支那共産党的な誌面作りに熱を上げていたのであるが、]

本多の「中国の旅」も、このような朝日の政治的努力の中に位置づけられるべきものであった。当然、「中国の旅」は極めて政治性の強い、また支那に対して迎合的な姿勢のルポルタージュとなっていた。

この本の中における支那側の「虐殺証言」の中に、支那人自らの嗜虐性を日本軍に仮託したものが非常に多い。要するに、「中国の旅」の中の「虐殺証言」とは、支那人が自らを語ったものと解釈すべきものである。

参考文献:大東亜戦争への道 (中村 粲)
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http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-6491.html

◆歴史事実から見る台湾

中華民国は今日に至るも台湾の主権を擁していない。

台湾は台湾であり、中華民国は中華民国である。台湾は、中華民国、中華人民共和国の何れにも属していないのだ。
平成 22 年 4 月 16 日

台湾に存在する米国軍事政府(USMG)

「台湾は国家ではなく、中華人民共和国の一部でもない。台湾は主権独立国家でない故、二つの対象国が同時に同意しなければ、台湾問題を国際法廷で審判する事はできない。
(日本の前国際法廷裁判官、小田滋氏) 

 台湾と日本は「運命共同体」であることは事実であり、一部の日本国民も認識しておられるが、鳩山政権と台湾の馬亡命政権の急激な中国傾斜で、台湾は今アジア支配を目指す中国の併呑危機に面しており、台日の生命線は切断されようとしています。
このような危機を招き、台湾を政治混乱に陥れ、台湾人を「国無き民」にしたのは、米国の戦後60余年に渡る「対台湾の曖昧政策」で「台湾国際的地位」の未解決がもたらしたものであり、この問題解決には日米両国の参与が欠かせません。

 何故日本も参与すべきなのか? それは、サンフランシスコ平和条約第二条b項で、日本は台湾の「領土権利」を放棄しただけで、「領土主権」は未だ日本が擁し、『台湾の帰属は未処理のままでどの国にも移譲していないから』で、あり 又、日本地裁が台湾人の「日本国籍」を台湾人の同意無しで一方的に排除し、台湾人が「無国籍」となったからでもあります。

米連邦裁判所を通じて「台湾民権保障」問題で米政府を告訴した「武林志昇vs米政府」案は、司法部に管轄権は無いが、米高裁は米大統領に対し、早急に 「台湾人無国籍問題」の解決、及び台湾人の「政治煉獄内の生活」を中止するよう要求しています。 従って米国は台湾の「暫定状態」の処理と「台湾地位未定」問題を解決すべき責任と義務があるのです。

本土の台湾人と日本人の心は一つ!
http://www.taiwan.gr/index.html

台湾には現在大きく分けて内省人(昔からの台湾人)と外省人(蒋介石と共に大陸から逃げてきた支那人)が住むことを理解しないと、本当の台湾を理解出来ない。

蒋介石が大東亜戦争後毛沢東らの共産党軍に敗れ、国民党軍を率いてこの台湾に逃れ占領したのが中華民国台湾の始まりである。国民党軍の武力による台湾占拠で長く戒厳令が敷かれていた。

◆日本人の誤った「台湾帰属の認識」は即刻訂正すべき!

1、台湾は、日本の植民地ではなく、日本天皇の神聖不可分の国土である。

1895年4月、下関条約で大清国皇帝は拓殖地であった台湾を、大日本帝国天皇に永久割譲した。、其の後、 日本は台湾に「内地延長」政策を採り、インフラ基礎建設を整備、1937年「皇民政策」を実施して、台湾人の改姓名を自由化させた。

1945年4月1日、昭和天皇の詔書で、台湾に明治憲法実施を宣布、台湾は正式に日本の「神聖不可分の国土」となり、台湾人は内地日本人と同等に参政権が与えられ、徴兵制度の義務が課された。 日本は「台湾主権」の構築を完成させたのである。


2、日本は、戦後から今に至るまで台湾の「領土主権」を放棄していない。日本には、台湾に対する「残余主権」と「主権義務」が残されている。

1952年発効のサンフランシスコ和平条約第二条b項で、日本が放棄(renounce)したのは、台湾主権(sovereignty)ではなく、其の主権権利(right of sovereignty )上の管轄権と処分権(right to territory)、及び宣告権(claim to territory)のみであって、神聖不可分の「領土権」は、どの国にも譲渡できない。 従って、残余主権(residual of sovereignty)を擁している故、主権義務(obligation of sovereignty)も依然として残っており、日本は台湾を他国の侵略から守る役目を果たすべき義務がある。

日米安保条約内に、台湾海峡が含まれているのは、其の所以である。


3、台湾には今尚、日本天皇が主権権利を行使できる「大日本帝国憲法」即ち「明治憲法」が存在し、廃棄されていない。

大日本帝國領土の中で、ポツダム宣言第8条で制限された領土範圍、即ち、北海道、本州、四国、九州の四島には、「平和憲法」が施行されているが、其の他の領土である「台湾」は、依然日本天皇に帰属し、同盟軍の占領前に実施されていた明治憲法は、その実施を、一時中止(suspend)されているが、廃棄されていない。

依って、台湾人は法理的に、今でも日本天皇の臣民である。


4、台湾は現在「国際地位未定」であり、「主権独立国家」ではなく、中華民国の領土でもない。 従って「台湾」と「中華民国」は、混合すべきではなく、個別に切り離して「台湾問題」を思考するのが正しい。

日本国土であった台湾は、1945年10月25日から、今日に至るまで「米国軍事政府」の「占領地」である。

現在、台湾に存在する中華民国は、戦後米軍の代理占領だった国民党蒋介石軍が中国共産党に敗れ、1949年から台湾に逃亡してきた亡命国政権で台湾を管轄している。「主要占領権国」の米国は、未だに台湾の「占領終結」を宣言していない。 

従って、「台湾」は、日本が中華民国に返還した領土ではない。 


5、台湾人は無国籍である。 台湾には、「本省人」や「外省人」は存在しない。

台湾は中国の一省ではない故「本省,外省」の名称はあり得ない。米国連邦高裁は2009年、「台湾人は無国籍」、「台湾人には国際で承認された政府が無い」、「台湾人は政治煉獄の中で生活している」との判定を下している。

本土台湾人の日本国籍は不幸にして、中華民国と日本政府が「国籍法」を無視し、一方的に双方からそれぞれ、強制帰化され、強制廃棄された。

これは、双方とも「国籍法違反行為」である。 台湾人の中華民国国籍は虚偽であり、

無国籍の本土台湾人は「日本国籍」に復帰すべきである。
  

6、台湾に存在する「国民党」も「民進党」も、中華民国亡命国の政党であり、本土台湾人を代表する資格はない。

在台中国人は「占領政権の亡命難民」であり、台湾人は「被占領人民」である。 

台湾人を代表すべき民進党が、台湾を含まない中華民国憲法に追従する政党である限り、台湾人を代表することはできない。従って国民党の李登輝も民進党の陳水扁も台湾人ではあるが、亡命国中華民国に忠誠を宣誓した亡命国の総統であって、台湾国総統ではない。 

「台湾国」は未だ誕生していないのである。

「中華民国」の名は、国際社会で1949年から消え失せ、「中華、台北」

(Chinese, Taipei)に改名された。 「中華、台北」とは、国際社会で認定されている(Chinese exile government in Taipei)「亡命中国政府在台北」の略称である。


7、台湾住民に「正名、制憲」や「住民自決」の住民投票は不可能。

現在の台湾住民(people on Taiwan)は、法理上無国籍の本土台湾人(people of Taiwan)が、多数を占めているが、
台湾の管轄権を擁する中華民国国籍の中国人も含んており、お互い国家認識の異なる敵対している異質群衆の集まりである。依って2300万の台湾住民の「帰属問題」に関る、投票資格の認定には正当性が無く、物議を醸し出す。 

又、「台湾主権」を擁しない占領国の米国と中国殖民政権は、本土台湾人の「住民投票」を企画して「台湾帰属」を
決定する立場に無い。 

従って、台湾人の総統選挙は「台湾建国」後に始めて実施可能であり、中華民国体制内での「正名、制憲」や「住民自決」は不可能と言える。


以上の様な「複雑な台湾地位」と「無国籍台湾人」の法理問題を殆どの

日本人も台湾人も理解しておらず、間違った認識の感情論で「台湾独立建国運動」に励んてき

が、結局骨折り損の草臥れ儲けで、何の成果も無いばかりか、民主化まで後退している。 

一部のリーダー階級の台湾人は、中華民国体制内で建国達成への進路が見出せず、「台湾独立建国」の信念が揺らぎ始めている。、独立派の元老、史明先生も台湾人に「独立建国」を叫ぶ人が少なくなったと嘆いている。この状態が続けば、台湾人の意志薄弱と戦略無しで、台湾はやがて中国に併呑されるのが落ちである。

台湾は日本の運命共同体だけではなく、生命共同体である。

日本国益の為にも、中国の恫喝を恐れず、昔の武士道精神を取り戻し、米日台協同で東アジアの平和と安定を築こうではないか。
平成 24 年 10 月 16 日

http://www.taiwan.gr/tips-for-clear-up-japanese-misunderstandings-for-legal-status-of-taiwan-islands.html

「台湾地位未定」問題は、日米両国が解決すべき重要課題!

著者:黄恵瑛

日本交流協会台北事務所の斉藤正樹代表の「台湾地位未定論」の発言は100%正しい。斉藤代表の勇敢な発言で台湾人は少し目が覚めたが、馬政権の=E 5民党と中国共産党は「台湾法的地位の真相」が暴き出されるのを恐れ、斉藤代表に恐喝の圧力を掛けている。

第二次世界大戦での日本の敗戦と戦後米国の台湾処理の怠慢で「台湾の国際地位」は延々と定まらず、台湾人民は60余年間、主要占領権国「米国」に騙され、愚弄され、米国代理の「蒋介石占領軍」に弾圧、虐殺され、関連無き隣国「B 8国」にも武力恐喝され、嘗て母国であった戦敗国「日本」からも無視蔑ろにされてきた。 今では、台湾人から政権を奪回した馬亡命政府が再び戒厳令如き制度を施行、台湾人の反抗を弾圧、急速な中国傾斜で台湾は存亡の厳重な危機に晒されている。

何故世界中で台湾人だけが外来政権に長年苛められ国際社会は見向きもしないのか? 何故台湾人だけがこんな悲惨な宿命を背負って国際孤児にならねばならないのか? 世界に正義は消え失せたのか? 不公平極まりない。

台湾人を「国無き民」にした責任は、日本と米国にある。A 5本側は、戦後マッカサーも証言したように、太平洋戦争は日本の自衛戦争であったが、日本は何故勝つべき戦いを敗れるまで戦かい続けたのか? 開戦当初の大勝利で早々に切り上げようとせず、調子に乗って資源大国と戦い続けた傲慢さが悲惨な敗戦を招いたのではないか? 悲惨な目に遭ったのは台湾人を含む日本国民である。

そして敗戦後の1947年台湾の228事件で、多数の日本国籍だった台湾人精鋭が 野蛮な蒋介石軍隊に虐殺されても、日本は何の抗議も示さなかった。 戦敗国と言えども自国民の人権保護の主張は許されて然るべきなのに、である。

更に1952年、サンフランシスコ和平条約発効前の2月18日、日本地裁は台湾人の同意を得ずして一方的に台湾人の日本国籍を解除、台湾人を「無国籍」の民族にしてしまった。 こ8 Cは国際法と道徳の違反行為である。

次に米国側の責任は、サンフランシスコ和平条約第二条bと23条で明記されているように日本は台湾の一部主権を放棄したが、台湾の帰属には触れていない。=0 A従って台湾は不確実割譲(Limbo Cession) されたのであって、台湾国際地位は未定のままである。

米国は主要占領国として占領地日本領土(台湾含む)の処理と支配権を擁していながら60年来台湾の法的地位真相を隠蔽し、台湾領土の戦後処理を怠ってきたばかりでなく台湾民権を無視し、台湾人の善良さと無知に付け込んで、代理占領軍蒋介石亡命政権の不法占領を終結せず放任したまま、台湾を中国との外交コマとして使っている。 
これは台湾人民に対する欺瞞行為であり、人権と自由 を 尊重する米国の恥ずべ8 1行為でもある。

「台湾国際地位の真相」は、既に台湾人林志昇氏とアメリカ人リチャード、ハーゼル氏の両氏が「サンフランシスコ和平条約」「国際戦争法」」「台湾関係法」「米国憲法」等の条文を緻密に研究した結果、台湾は今でも「米国軍事政権管轄下の暫定海外領土」であることが確認されている。それを裏付けるように米国は台北郊外の湖に2万坪の土地を99年間借用しており、AIT館舎と陸戦隊の宿舎を建設中である。自国の海外領土でなければこんな芸当はできない。

林氏グループは2006年10月からワシントンDCの連邦裁所を通じて米政府に対し「台湾民権保障」の訴訟を起こしている。 米政府は妥当な反論ができなく、米連邦地裁も高裁も「台湾人は無国籍であり政治的煉獄の中で生活している」と判定したが、台湾の「法的地位」に付いては相変わらず模糊曖昧にし真実を表明しない。 
林氏は最高裁で最後まで戦う意気込みでいる。

米国は国民の怠惰で物造=E 3の労働を全て中国に任せ、中国の経済発展に協力してきたが同時に中国の軍備拡大の増長に手を貸したことは否めない。日本も中国の広大な市場に魅せられ、資金や技術を注ぎ込んだが結局騙され、盗み取られ利益はさほど上がっていないだろう。

その反面、中国は経済力が増強すると軍事力での領土拡大の野心が沸く。 台湾も尖閣島も中国古来領土であり、東支那海も中国の領海であると厚かましく主張する。 
1000基以上のミサイルを台湾に向け、日台を防衛している米国空母艦の周りを中国潜水艦が秘密捜査を行い、日本尖閣島に強引に乗り込み、北朝鮮を唆し、ミサイルを日本上空に飛ばす等、その背後には日本の北方領土を不法占領しているロシアも応援している。

日本と台湾は、対岸の共産国家に虎視眈々と狙われているのだ。 主権独立国家の日本は何かの手を打たねばならない危機に直面している。

一方台湾島内では、中国スパイが潜入し、中国資金で媒体を買い占め、中国傾斜する亡命馬政権と協力して台湾人消滅に拍車をかけ、亡命国ROCの偽総統となった二人の台湾人の一人陳水扁氏を人権無視の不法拘留で牢屋に打ち込み死に追い詰めている。 次は李登輝氏だろうが、李氏は国民党の黒い内幕を熟知している故、簡単に手を下せないだろうが、陰険卑劣な中国人は如何なる手段をとるか は予知できない。 
これは台湾民衆に再び228事件と白色テロの恐怖B Fを植えつけ反抗させないのが目的である。台湾人に建国意志があるなら、奴隷根性を捨てそのような威喝に怯えるべきではない。

最近の台湾人は馬政権に対する不満が高まり、街頭デモ抗議の参加人は増えたものの、台湾人の街頭デモ抗議は、常に鬱憤を晴らすだけに終わり、再び鬱憤が募ると又=E 3モ抗議を繰り返し、金と時間の浪費で何の効果も成果も得られない。迫力無き軟弱リーダーが率いる穏和なデモ抗議は、覇権の中国人政権が素直に反省することはあり得ない。 中国人は善良な台湾人を奴隷視し頭から馬鹿にしているのである。

結局、民進党も、台独派も、評論家も未だに亡命国「中華民国ROC」を自分の国と認めており、其の不法占領体制の中で亡命政権と政権争いに明け暮れ、罵倒、批判で騒ぐことしかできなく相手を打倒する術を知らない。台湾の有識者達は「台湾地位未定問題」を根本的に解決しようとしないから何時まで経っても 台湾は正常な「主権独立国家」になれないのだ。

林志昇氏の「根本的解決法」とは、台湾人を虐殺した支那人占領軍を台湾に連れて来た米国に対し其の責任と義務を負わせ、不法占領軍の台湾占領終結を命じて台湾から追い出し、台湾人自身の「台湾平民政府」の設立に協力してもらうことを台湾人民が強硬に米政府に要求することである。

台湾のROC不法占領軍を追い出す権限と資格があるのは、主要占領権国の「米国」だけである。これほど金銭も時間も節約でき、血を流さない有効な「法理解決法」は他に無い。悲しいことに、一部の台湾人リーダー階層は、故意か無知かこの論述に同調せず、台湾人の声が足りず米国政府の耳に届かない。

或る台独連盟の役員は「他力本願」で米国に頼るべきでないと言うが、台独連盟は自力の「住民自決」を20余年間叫び続けてきたが全く成果は無く、今台湾は戒厳令時代に戻りつつある。結局自力の努力は水泡に帰したではないか。「住民自決」の住民投票は台湾に占領軍が存在する限り台湾人には適用しないのが「国際戦争法」である。

又、馬政府の背後には中国が控えている。台湾人は「自力」で対抗できるのか? 身の程知らずで自力を高く評価しても役に立たない。 理性的に「法理論」で以って堂々と米国に正当要求することは決して「他力本願」ではなく「自尊心」は傷つかない。莫大な人民の血税を使って国連まで出向き「住民自決」を叫んで国際社会の同情を買う感情的な哀求で笑い者にされる方が余程卑屈であり、台湾人民を裏切っている。

又、或る台独派は、台湾が米領土となって「二等国民」になるのは嫌だと言うが、今の台湾人は無国籍の「劣等国民」であることを知っていない。 林氏の「法理建国論述」では台湾を米領土にするのではなく台湾が建国できるまで「米国の暫定領土」とすべき必用一過程に過ぎないと述べているのだ。現在米国に住む台湾人は平等なる一等国民の待遇である。 若し台湾が中国に併呑されたら、それこそ台湾人は8等国民になりかねない。とにもかくにも情けないのは、多数の台湾人は自力で少数の国民党の無法行為を抑え込む能力は全く無いと言える。 林氏の「法理建国論述」が唯一台湾に残された有効な路なのである。

最後に台湾と日本の関係を述べて見る。サンフランシスコ和平条約二条bの日本の「不確定割譲」で台湾地位は未定になっているが、条B 4内には日本の台湾に対する全ての義務(All obligations)を放棄(Renounce)せよと要求していない。 従って日本は台湾に対する直接の行政管理や管轄権を放棄しただけで、完全に割譲したとは言えず、日本は依然として台湾人民を保護する義務が残されている。

条約の正確な法理解釈では日本は今でも台湾人の母国であるが、台湾の行政管理や管轄権は無い。亡命政府の中華民国は母国日本の代理役であり、米国はその監視役と管理役である。国際法に基づけば、台湾は「日本の海外自治区」であり、条約に基づけば、暫時「米軍事政府の管轄下に置かれているのが実情である。

依って 「林志昇vs米国政府」訴訟案の最高裁判決に少しでも曖昧があれば、日本は正々堂々と「台湾領土返還」の請求ができる。

台湾は日米両国の国益に繋がる重要な戦略地位にあるが。日米両国とも台湾人に犠牲を払わせ「台湾地位未定問題」を解決しようとしないのは何故か?

我々台湾人は尊厳ある主権独立国家の国民となって、堂々と国際社会で活躍し貢献したい。日米両国は、台湾に対して負うべき義務と責任を果たすべきである。

平成 21 年 5 月 27 日

http://www.taiwan.gr/status.html

◆「千島・南樺太は日本領」 ソ連結成時1959年作成の地図で明記 ポーツマス条約の有効性認める

2014.11.03 産経新聞

 ソ連内務省が1959年に作成したソ連誕生当時(22年)の領土を表す地図が見つかり、千島列島と南樺太は日本の領土と記されていた。ソ連は戦前から、日ソ基本条約で認めたポーツマス条約を事実上否認して南樺太、千島樺太交換条約で日本に帰属していた千島の返還を主張していたが、地図ではポーツマス条約の有効性を認めていたことになる。(編集委員 岡部伸)

 地図はオランダ大使などを務めた大鷹正氏が外務省ソ連課勤務だった60年、日ソ漁業交渉でモスクワを訪問した際に市内の書店で購入したもの。

 地図は、ソ連内務省測地・地図整備総局学術編集地図作製部が54年に原案を作成、59年に同局リガ地図製作所で1万部を製作、「世界の政治地図」として販売された。その一部「ソ連結成時の地図」は、ソビエト政権が誕生した22年当時の連邦を構成したロシアソビエト社会主義共和国をはじめとする各共和国の境界や、近隣諸国の国境線を描いている。

 反革命派のザバイカル政権が誕生し、日本などが出兵した極東シベリアは極東共和国で、領土はウラジオストクから北樺太までで、境界線を隔て南樺太と千島列島は日本とされている。

 一方、第二次大戦直前に侵攻して併合する係争地のフィンランドのカレリア地方は「カレリア労働コミューン」(20年6月8日)と書かれ、独ソ不可侵条約の秘密議定書で40年に併合するバルト三国とポーランドはソ連領と記されていない。

 ソ連は59年当時、参戦前のソ連結成時点では北方四島を明白に日本領と認めていたことがうかがえる。

 日本はソ連誕生から3年後の25年1月、北京でソ連を国家として承認、日ソ基本条約を締結。この際ソ連はシベリア出兵した日本軍の撤退を確実、迅速にするため、南樺太を割譲した日露戦争後のポーツマス条約の有効性を認めた。しかし、同時に条約については、「ソ連政府が政治的責任を帝政政府と分かち合うものではない」との声明も発表している。

 この声明通り、ソ連は40年に日本が不可侵条約を提案した際や41年4月の中立条約締結時などで、ポーツマス条約に拘束されず、南樺太と1875年の千島樺太交換条約で合法的に日本に帰属していた千島列島の返還を要求した。

 ソ連の千島、南樺太に対する執着が大戦末期のヤルタ密約につながり、中立条約を破った対日参戦で南樺太と千島列島を占領。北方領土問題は現在も続いている。

 プーチン政権は、北方領土領有の根拠を「大戦の結果」としているが、スターリンは日本が降伏文書に調印した1945年9月2日の演説で、「歴史に残した汚点を40年間取り除こうと待っていた。南樺太と千島が引き渡され、日本の侵略から防衛する基地となる」と語っている。


【用語解説】ポーツマス条約
 明治38(1905)年9月、アメリカのポーツマスでセオドア・ルーズベルト米大統領の仲介により結んだ日露戦争の講和条約。樺太(サハリン)南半分の日本への割譲や、旅順・大連の租借権および長春以南の鉄道(南満州鉄道)と付属の利権(炭鉱の採掘権など)の譲渡、日本の朝鮮半島における権益の承認などを決めた。

http://www.sankei.com/politics/news/141103/plt1411030015-n1.html

◆「尖閣の主権は日本にある」、明確に日本支持だったかつての米国
中立政策への変節はアジアを危機に陥れる

2014.01.22(水) 古森 義久 JB PRESS

 オバマ政権は、尖閣諸島をめぐる日本と中国との対立に関し、できるだけ早くいまの「中立」の立場を放棄して日本の主権の支持を明確にすべきだ――。

 このような政策提言が米国中央情報局(CIA)の元専門家らにより改めて公表された。米国の日本支持こそが中国の軍事侵攻に対する抑止力となるから、現在の中立保持を長引かすことは、かえって日中軍事衝突の危険を高める、というのだ。

 この提言は、オバマ政権が尖閣問題に対して中国に過度の寛容さを示し、同盟国の日本への堅固な支援を表明していないことへの批判だとも言える。

 国際安全保障問題を研究、分析する民間機関「リグネット」は、1月17日付で「1971年CIA分析が尖閣諸島への日本の主権主張を支持している」と題する報告を公表した。リグネットは、CIAでアジア戦略や安全保障を専門に研究していた人たちの集団である。

 このリグネット報告は、1971年5月にCIAにより作成された合計39ページの報告書の内容を改めて紹介し、そこから教訓として導き出される政策を提案している。報告書が作成されたのは、尖閣諸島をめぐる日本と中国、台湾の主権主張の衝突が浮上した時期である。

 そのCIA報告書はその後、長い年月、秘密にされていたが、このほど解禁された。内容の一部は米国のジョージワシントン大学国家安全保障アーカイブという学術機関により2012年9月に公表され、日本でも報じられた。

 明るみに出たCIA秘密報告書によれば、米国は1971年までの長い期間、尖閣諸島の主権は確実に日本側にあるという立場を取ってきた。リグネットは今回の報告でそのことを重視すべきだと訴え、併せてオバマ政権への新たな政策を提案している。

1971年のCIA報告書が最大の指針

 CIA報告書の内容を改めてまとめると、骨子は以下のようなものである。

(1)日本の尖閣諸島への主権は、1970年7月20日に中華民国(台湾)が日本政府に問い合わせの外交質問書を送るまではすべての関係諸国により受け入れられていた。

(2)米国政府は、第2次大戦後の琉球の軍事統治中も尖閣諸島は琉球の一部であり、その所有権は日本にあると見なし、尖閣のうちの2島の射爆場使用の代金も日本側に払っていた。

(3)中華人民共和国は、1970年頃に石油資源の発見の情報が流れるまでは、尖閣諸島の日本主権を認めており、疑義を呈することはなかった。

(4)中国、台湾、欧州などの地図は1970年ごろまでは尖閣諸島をすべて日本領土として認め、反対を表明した実例はなかった。

(5)日本の尖閣諸島への主権の主張は強固である。それを否定しようとするならば、自己の主張の正当性を証明しなければならない。

 リグネット報告は、以上のCIA報告書の趣旨に基づいて、現在の状況について以下のような考察を明示していた。

(1)中国の尖閣に対する主張は、山のような量の好戦的な言辞と共産主義的なプロパガンダが使われ、国内の過剰なナショナリズムの心理をかきたてることを狙っている。

(2)台湾の主張は、国際的な認知と地域的な関与、そして北京政権の評価などを得ることが主要な狙いであり、結果的に日本の立場を不当に弱くする。

(3)日本政府の姿勢は冷静であり、中国や台湾の代表との会合による外交的解決を目指している。だが中国など他国の代表は、首脳会談の開催などを拒んでおり、前進の見通しがない。

(4)以上の状況は、尖閣に関する歴史的、法的、地理的、地図的な証拠を精査しなければ、前進しない。現在までのところ、1971年のCIA報告書がその精査にあたっての最大の指針だと言える。

中立政策の是正が戦争を防ぐ

 加えてリグネット報告は、オバマ政権への政策提案として以下の諸点を打ち出していた。

(1)1971年のCIA報告書は、尖閣主権問題では、米国こそが一貫して事態の決定的な結果を左右する中心的な存在であることを明白にした。同報告書に提示された証拠は、米国政府が日本を尖閣の所有者と見なしてきたことを疑いなく示している。中国と台湾の抗議を受けて米国が1970年以降に取るようになった「中立」の主張は思慮を欠くものである。

(2)米国の中立政策は、同盟国の危機に対して毅然とした行動を取ろうとしない状況を示す。自国の情報機関が日本の揺るぎない尖閣主権をかつて証明したのに、いま米国政府がそれを認めないことは、日本の潜在敵、特に中国の軍事挑発的な態度との対決を避けようとする戦略的曖昧さにつながる。

(3)この現状は、中国が日本に対し絶え間のない外交的な攻撃、プロパガンダ的な攻撃を仕掛ける力を強めることになる。中国はその種の攻撃を、日本という地域的な競合相手を打ち破り、アジア・太平洋地域での米国の威信と信頼性を侵食させるまで続けるだろう。

(4)米国は尖閣危機に対して極めて重要な役割を果たすことができる。米国政府は日本の尖閣主権主張を支える証拠を保持しており、その証拠に基づく支援と議論とを日本に与えるべきである。米国にとって、日本支持の立場を明示することは、中国人民解放軍が尖閣諸島に上陸し、中国軍との戦闘で米軍部隊の犠牲を余儀なくさせられることよりも、ずっと好ましい。中国軍の尖閣攻撃は、日米同盟の責務により米国を巻き込むことは避けられないのである。

 これらは、米国の国益という観点からしても、極めて妥当性のある政策提案だと言える。さらには米国が日本を真の同盟パートナーと見なすならば、当然取るべき政策としてさえ映る。

 まして日本にとっては、これこそが米国に切望する尖閣防衛策、尖閣をめぐる日中軍事衝突の抑止政策である。中国との衝突や対決を避け続けるオバマ政権にとっても、戦争を防ぐためには十分な新政策だとさえ言えよう。

 こうした提案が出てくることを、日本側としても米国側の超党派の懐の深さとして真剣に認識しておくべきであろう。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39724?fb_action_ids=244427259065352&fb_action_types=og.likes&fb_source=other_multiline&action_object_map=%5B238794492959165%5D&action_type_map=%5B%22og.likes%22%5D&action_ref_map=%5B%5D

◆米極秘文書「北方四島は日本保持」
http://blog.kajika.net/?eid=1006431

◆国連の敵国条項

国際連合憲章第2章では第53条第1項後段(安保理の許可の例外規定)は、第二次世界大戦中に「連合国の敵国」だった国が、戦争により確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こしたりした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して軍事的制裁を課すことが容認され、この行為は制止できないとしている。
第107条(連合国の敵国に対する加盟国の行動の例外規定)は、第106条とともに「過渡的安全保障」を定めた憲章第17章を構成している。第107条は旧敵国の行動に対して責任を負う政府が戦争後の過渡的期間の間に行った各措置(休戦・降伏・占領などの戦後措置)は、憲章によって無効化されないというものである。

中狂は沖縄、尖閣など敵国条項により有効と言い張り、南シナ海、太平洋にまで勢力拡大を図っている。そんな敵国条項が、事実上効力がないと幾ら日本が主張しても無意味である。だからこそ一刻も早く、敵国条項から日本を削除すべき緊急の課題なのだ。それに対して他の常任理事国も欧米各国(白人)は敢えて無視をしている。それは何故かと言うことを日本は真剣に考えるべきである。

                  目覚めよ日本!


あらゆる国際法に違反した米国

2014-11-04 16:00:13 | 資料

ハーグ陸戦条約(近代戦時国際法)締結

2014/07/29 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN

今日は何の日 7月29日 1899(明治32)年 - ハーグ陸戦条約(近代戦時国際法)締結。

1899年にオランダのハーグで採択、1907年に改定され今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規、陸戦条規などとも言われる。

交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されている。

主に攻撃手段の制限と占領、交戦者の資格と捕虜取扱いを規定している。

「交戦法規」においては、たとえば、本当は軍隊の一員なのに民間人の服装をして敵軍をだまして、いきなり背後から敵軍の兵士を攻撃して殺害するという、いわゆるゲリラのテロ行為をした者は、捕虜としての資格は与えられず、死刑にすることも認められている。

また、戦闘員が、武器を捨てても自軍に加わる意思をもって逃走している場合には、この者は投降したとは認められず、この者に対して攻撃することは合法と認められている。

戦闘員(普通には軍隊の一般構成員)と非戦闘員とは区別されて、非戦闘員である一般の民間人(市民、住民)を攻撃してはならない、というのが交戦法規のうちでもっとも重要な原則である。

また、非戦闘員とその財産の保護という人道的要求にこたえて、戦時国際法は、砲爆撃は軍事目標のみに限定されなければならないと規定している(軍事目標主義という)。

(大東亜戦争中にソ連のやった蛮行、アメリカのやった蛮行など、交戦法規違反、すなわち真正の戦争犯罪を構成してる)

  ロシア・ソ連の蛮行
  アメリカの蛮行

1907(明治40)年にハーグで国際平和会議が開かれ、ハーグ第三条約、つまり「開戦に関する条約」がつくられた。

この開戦条約によって、開戦に当たっては、開戦宣言(宣戦布告)や最後通牒(条件付開戦宣言を含む)によって相手国に事前に通告することが必要になった。

開戦とは、法的な戦争状態を発生させる行為であり、「理由を付した開戦宣言」あるいは「条件を付けた最後通牒」という国家の一方的行為(戦争意思を伴うもの)によって、国家間の国際法上の関係が、平和状態から戦争状態へと転化される。

最後通牒というのは、「わが国はこれだけの条件を出した。一定期間待つ。しかし、それが過ぎてしまったら、わが国は行動の自由を確保する。ないしは自動的に戦争状態に入る」という趣旨のものである。

なお、国家間で事実上、武力衝突(戦闘)が生起しても、双方の国家が「戦争意思」を持たず、正式の戦争とならない場合には、国際法上の戦争(戦争状態)とは認められない。

支那事変などが、この場合に当たる。ただし、こういう場合にも、戦時国際法規が準用されることになる。

この開戦条約は、大東亜戦争が始まる前の1930年代頃には、すでに兵器の現実の科学的進歩に合わないから、内容的に陳腐化して無効となったという説が強くなった。

日露戦争のときは、まだ開戦条約は締結されていなかった。その時の国際社会では、いきなり敵対行為を開始することによって戦争を始めるのが普通だった。こういうことを知らないと、最初に手を出した方が悪いなどと考える者が出てきてしまう。

日本は明治44(1911)年に批准し、翌年の1912年に陸戦の法規慣例に関する条約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するのではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。

日露戦争などのごく限られた戦争ではこの規定は比較的よく守られたが、その後の第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争など、一向に守られていない。

戦争犯罪を糾弾する際の法的根拠として主に「ジュネーブ条約」ととともにこのハーグ陸戦協定が参照される。

  ジュネーブ条約

ハーグ陸戦条約では「交戦者」の要件を厳格に定めている。

  「交戦者」の要件

また、43条では勝者が敗者の主権を無視して恒久的な法を作ってはいけないと規定している。日本国憲法がこれに違反しているのは明白である。

  日本国憲法

http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-6004.html

元海軍大将、永野修身の言葉

「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。戦って死中に活を見出し護国の精神に徹するならば、たとえ戦い勝たずとも護国に徹した日本精神さえ残せば我々の子孫は必ずや再起するであろう。もし玉砕して、そのことによって祖国の人たちが少しでも生を楽しむことが出来ればと切に祈るのみである。遠い祖国の若き男達よ、強く逞しく朗らかであれ。懐かしい遠い祖国の若き乙女達よ、清く美しく健康であれ。」

◆「中国に正しい歴史を語る資格はない」
米国の元国務省高官が中国の日本非難を一蹴

2014.04.09(水) 古森 義久 JB PRESS

 中国はいわゆる歴史問題を日本抑えつけのために利用しているだけで、正しい歴史を語る資格はない――。このような分析が米国政府元高官によって明らかにされた。

 このところ政府全体を挙げて日本へ歴史問題非難を浴びせる中国の真の動機は、実は歴史の真実の探求でも正確性の追求でもなく、計算に満ちた対日戦略だというのである。日本側としても銘記すべき認識だろう。

日本への態度が険しくなったオバマ政権

 中国による歴史認識をめぐる日本攻撃がますますエスカレートしてきた。安倍晋三首相の靖国神社参拝では、多数の中国政府代表が「日本は軍国主義を復活させ、戦後体制を転覆しようとしている」と糾弾した。ドイツを訪問した習近平国家主席は、「日本軍は70年前、南京に侵略し、30万人以上もの中国人を殺すという残虐的な犯罪を働いた」と日本を非難した。習主席は「日本の侵略戦争で中国人3500万人が死傷した」という誇大な「歴史」をも語った。慰安婦問題でも中国は「日本軍の性的奴隷20万人」という非難を絶やしていない。いずれも、日本は歴史の真実を認めず、また過去の歴史上の悪行を反省も謝罪もしていないという糾弾が背後にある。

 中国側の、こうした「歴史」を持ち出しての日本攻撃に日本はどう対応すべきか。米国側では最近はオバマ政権が歴史問題に関して中国や韓国の主張に奇妙な理解や同情を示すようになった。その分、日本への態度が険しくなった。安倍首相の靖国参拝に対して「失望」を表明したことがその典型例である。

 日本の歴史問題での米国の対応は重要である。中国や韓国が歴史を使って、日本を叩く言動を官民で実行しても、日本側への実害には一定の限度があると言えよう。日本国民の大多数も、中韓両国からの糾弾には慣れっこになった観がある。

 だが米国の反応となると、また別となる。なにしろ日本が国家の安全保障を頼っている同盟相手である。それに、いまの米国がオバマ政権の内向き志向で国際的影響力を衰退させたとはいえ、まだまだ世界唯一のスーパーパワーなのだ。その米国がいわゆる歴史問題でもし完全に中国や韓国の味方となり、日本への非難を強めてくるとなると、肝心の同盟関係にも悪影響を与えかねない。そうした懸念はごく自然だろう。

 さらに、日本側でも朝日新聞のような「反安倍政権」「親中韓」の立場を取る一部メディアは、最近の米国での日本がらみの歴史関連案件の状況をいかにも日本非難に満ち満ちているかのように報じている。こと歴史問題に関しては、米国は安倍政権や日本全体をまったく支持していないかのような構図が描かれているのだ。

「オバマ政権の『失望』表明は間違い」

 しかし、本コラムでも何度も伝えてきた通り、米国の実態は決して一枚岩ではない。前回の、アーミテージ元国務副長官の安倍首相の靖国参拝を問題視しないという発言も、それを裏付けるものだった。

 今回、紹介するのは、もっと鮮明な実例だと言える。その発信者は中国の軍事動向に詳しい専門家、ランディ・シュライバー氏である。

 シュライバー氏は民主、共和両党の政権でアジア関連の要職に就いてきた。1994年には当時の民主党クリントン政権下の国防総省にアジア安全保障の専門官として入り、4年ほども中国の人民解放軍への対応を担当した。やがて国防総省の中国部長のポストに就き、98年まで務めた。

 2001年に発足した共和党ブッシュ前政権では、アジア太平洋問題担当の国務次官補代理として日本や中国、朝鮮半島を担当した。現在は「プロジェクト49研究所」というアジア安全保障専門の調査機関の所長である。

 シュライバー氏は、オバマ政権の対日姿勢を厳しく批判する。オバマ政権が安倍首相の靖国参拝に「失望」を表明したことも間違いだというのである。

 「オバマ大統領は(4月下旬の訪日での日米首脳会談などでも)靖国参拝などについて安倍首相を公式の場で咎めるようなことはもう避けるべきだ。この種の歴史問題関連の案件はあくまで非公式の議論に留めるべきだと思う。親密な仲の同盟国や友好国同士は、相手国の首脳を公の場で非難など決してすべきではない。その点、ケリー国務長官、ヘーゲル国防長官が東京の代替墓所(千鳥ヶ淵戦没者墓苑)を訪れたのも、“小賢しい”行動だ。これこそが正しい戦没者追悼だと誇示したのだろうが、日本側には追悼の方法を自分たちで決める能力が完全に備わっている」

 シュライバー氏のケリー、ヘーゲル両長官の東京での行動に対する批判は辛辣である。周知のように、ジョン・ケリー国務長官とチャック・ヘーゲル国防長官は2013年10月、日本側とのいわゆる2+2会談で来日した際、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ、献花をした。明らかに安倍政権に対する「戦没者の慰霊は靖国神社ではなく、千鳥ヶ淵で」というメッセージだった。

 日本ではさほど大きな反響もなかったが、シュライバー氏はこの両長官の行動を「小賢しい」と断じたのだった。確かに、千鳥ヶ淵の身元不明の遺骨だけを安置した新設の施設への訪問だけで、戦死者の追悼がすべて足りるとするような態度は、日本側からすれば、やや嫌みなデモンストレーションと映る。

 シュライバー氏は、オバマ政権が安倍首相の靖国参拝に対して公の場で「失望」を表明するデモンストレーションのような叱責をしたことは、よくないと述べているのである。

歴史を隠蔽しているのは中国

 シュライバー氏がこうしてオバマ政権の対日姿勢への批判を展開したのは、ワシントンの大手研究機関「ヘリテージ財団」が3月後半に開いたシンポジウムの場においてだった。テーマはオバマ大統領のアジア訪問についてである。シュライバー氏はその基調報告者として登壇し、オバマ大統領の訪日について語る中で、いわゆる歴史問題には危険な「罠(トラップ)」があると警告した。

 「多くの人たちが歴史問題と呼ぶ件には真の罠が潜んでいることを明確に語っておきたい。日本の指導者たちが過去の歴史をどう語るか、その内容が外部の懸念を生むことは確かだろう。だが同時にこの問題は非常に複雑であり、私たちが知っておかねばならない文脈があることを強調したい。それは中国が歴史問題なるテーマを持ち出してくるとき、それは歴史の真実や事実とは関係がない場合が多いということだ」

 これまた重大な指摘だと言える。

 シュライバー氏はさらにこう語った。

 「それは一種の地雷だとも言える。中国が歴史を語るとき、それは実際には過去についてではなく、現在、そして未来も、日本を抑えつけ、日米同盟に緊迫を作り出そうという動機からなのだ。中国は日本封じこめ、日米離反、そしてさらに国内向けの目的に歴史を利用しているのだ」

 だから中国の歴史問題提起を言葉通りに受け取って相手にしていると、地雷を踏むような危険に遭遇する、というのである。

 シュライバー氏は中国に絞ってこんな見解も述べた。

 「中国は歴史上の真実や正確性をきちんと保管していくという国家ではない。中国の歴史博物館を見れば、よく分かる。歴史の展示は不正確そのもの、かつ不快を極める。靖国神社の遊就館どころではない。この点を米国側も十二分に理解しなければならない」

 中国では確かに文化大革命も天安門事件も、その歴史は隠されたままである。文化大革命では毛沢東主席の失政で膨大な規模の人的な損失や政治や経済への被害が出たことの歴史はいまだに公表されていない。1989年6月の天安門広場での民主活動家たちの大量殺戮も、中国内部ではその歴史は闇に隠されたままである。そんな国に歴史を語り、他国に説教までする権利も資格もまったくない、ということなのだ。

 シュライバー氏は中国の歴史に対するそんな欠陥体質を提起しながら、中国が日本に向かって投げつけてくる「歴史問題での非難」は、文字通りに受け止めることは危険だと警告しているのだった。米国側にもこうした見解を堂々と表明する識者が存在することを、日本もきちんと記録しておくべきであろう。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40406

◆米国立公文書館が731部隊(関東軍防疫給水部)に関する機密文書10万頁分を公開

《731部隊の人体実験・細菌戦の嘘が改めて明らかに》…併し、米国は好意から公開したのではない。

今まで反日勢力に散々あげつらわれ日本の残虐性の一例として利用されてきた、悍ましい〈人体実験〉をしていたと言われる〈731部隊の作り話〉が、米公文書の公開で明らかになった。こうして冤罪はひとつづつ晴らされて行く。

731部隊(関東軍防疫給水部)は細菌戦研究はしていたものの、細菌戦を行った証拠は全く見つからなかった。米国立公文書館は、石井四郎中将を始めとする731部隊関係者の個別尋問記録や、石井中将が細菌戦研究の成果を1947年6月ごろ執筆し米軍に引き渡した事を裏付ける最高機密文書も明らかにした。

ナチス・ドイツと日本の「戦争犯罪」を調査する為、クリントン政権当時の1999年に編成された記録作業部会(IWG)は「人体実験」に留まらず「慰安婦問題」などの悪事を裏付ける文書も必死に探したが、それらを裏付ける証拠は何ひとつ見つからなかった。
(つまり1999年以降の調査で「性奴隷」が言いがかりである事はクリントン政権時には既に判明していたという事だ。併し、同盟国 米国は口を噤んでいた)

奉天(現・瀋陽)の収容施設で、連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかを調べたり、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないかを調べたりしたが「当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も発見された。

つまり米国が持っていた731部隊に関する10万ページの機密文書には、731部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った証拠は全くなく、戦後に言われた事は全て根拠なき捏造であったと証明されたのだ。

この投稿で強調したい事は「日本の冤罪が晴れた」という事ではない。勿論喜ばしい事ではあるが、注目すべきは『同盟国 米国の沈黙』である。公文書を規定通り公開してくれただけで良しとすべきでもあろうが、同盟国にして日本にとっては最大の友好国である米国であるならば、日本が中共、韓国から道義的に貶められている時、援護の手を差し伸べる選択肢もあった筈である。

併し、米国は規定通りに公文書を粛々と公開し、特段 日本を援護射撃する訳でもなく、素知らぬふりを決め込んだ。今後、益々険しさを増す敵性近隣国との外交に取り組んで行く上で、米国の冷淡とも言えるこれまでの行動は示唆に富んでいる。

外交に於いて米国に頼りきる事は危険である。米国は日本の親友ではない。当然の事ではあるとしても、米国の行動原理は自国の国益のみを殊更最優先するという事であり、日本の国際的地位の向上は、時に米国の国益に合致しない可能性があるという事である。

最近、明らかになった『米軍慰安婦問題』にしても、米国が意図的に日本をスケープゴート化している事は明白である。韓国の醜悪さ愚かさを米国が分からぬ訳はないが、中共に走らせまいと、その異常行動を放任している。そこには日本への配慮など微塵もない。

日本は肝に銘ずるべきである。信頼できる友をつくり増やせ。強い国になれ。抑止力としての軍事力を強化せよ。その為の負担を国民は厭うな。中途半端な武器輸出では信用は得られない。左翼に死の商人と呼ばれる事を恐れるな。但し売る相手を吟味せよ。武器輸出をしないからといってどこの国からも尊敬などされない。究極的には核武装をも選択肢とせよ。名実ともに強い国となれ。日本に手を出したら深傷を負うと知らしめよ。

関連リンク: 森村誠一「悪魔の飽食」は捏造本だった(細菌兵器731部隊の真実)
http://matome.naver.jp/odai/2135806480175646701

731部隊が有名になるきっかけになった悪魔の飽食という本の写真35枚中20枚が生体実験ではなく逆に1910~11年に関東軍が滿洲のペスト患者を治療していた写真だったことが発覚されたことを報道した韓国の1982年9月16日の京郷新聞記事

◆真珠湾攻撃以前から日米は戦争状態だった 

米英は1940年にはタイやベトナムから米やゴムを大量に買って、日本に渡らないよういに嫌がらせを行い、
5月には英領においては日本および円ブロック向け「ゴム」の全面的禁輸を行っている。
6月には米が手を回して日本とオランダ領インドネシアとの石油の交渉を決裂させた。
7月には米、英、オランダが足並みそろえて日本の資産凍結を行った。
8月には米が対日石油を全面禁輸。もうこれは宣戦布告と同義である。
「フライングタイガーズ」は、日米開戦半年前の一九四一年春、米国防総省の承認のもとに空軍基地から集められた戦闘機パイロット二百五十九人による正規の“エリート空軍部隊”だった。

大戦中の支那義勇軍「フライングタイガーズ」 正規の空軍部隊だった 米紙が報道 
1991/07/08, 読売新聞 
 この爆撃計画そのものは一九七〇年に公開された公文書の中にある。

1941年7月23日、ルーズベルト大統領など米国首脳がフライング・タイガーによる日本本土爆撃計画に署名 
7月25日、在米日本資産を凍結 
8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止 
11月26日、ハルノート提示 
12月7日、真珠湾攻撃 

真珠湾攻撃(奇襲)よりも4ヶ月以上前にアメリカによって日米戦争は始まっていたのだ。

◆「原爆ホロコースト」の実態

中村 信一氏 FBより

この写真見た瞬間、涙が込み上げて来ました。原爆により焼き爛れた母子です。

米国が一般市民も巻き添えにした原爆や空襲は明らかに国際法違反である。
一般のアメリカ人に、なぜアメリカが広島と長崎に原爆を落としたのかを尋ねれば、たいていの人はこう答えるであろう。
「アメリカ軍の日本上陸により、多くの犠牲者を出すことを避けるためであった。原爆を落とさなければもっと大きな悲劇を生んでいたであろう」と・・・

しかし、この言説を鵜呑みにしてはならない。「当時、原爆投下以外にも日本への本土上陸を阻止する方法があったことは識者の間ではすでに常識となっており、トルーマンも彼の顧問もそれを知っていた」という事実があるからである。これは、アメリカ原子力規制委員会の主任歴史家であるサミュエル・ウォーカーの言葉である。
1946年実施の戦略投爆調査の結論も、「原爆が投下されなくても、またソ連が宣戦布告しなかったとしても、さらには日本上陸を考えなくとも、1945年12月31日までには確実に、そしておそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」として、先の歴史家サミュエル・ウォーカーと同じ結論を示している。

1989年に公開された、陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査では、「日本の降伏に原爆はほとんど関係がなかった」という大胆な結論が出されている。そして第二次世界大戦終結の決定的要因はソ連の宣戦布告であったとされ、アメリカの大規模な日本侵略が行なわれることはなかったであろうと記されている。

つまり、「日本を降伏に追い込んだのは、原爆の使用ではなく、ソ連の参戦であるといっても過言ではない」というのが同調査の結論であった。
また、スタンフォード大学の歴史家バートン・バーンスタイン教授によれば、統合参謀本部の諮問グループ、統合戦争計画委員会は当時、ソ連が宣戦布告しない場合でも、九州への上陸だけで戦争を終結できるであろうと結論づけていたのだ。

ヨーロッパのアメリカ軍司令官アイゼンハワー将軍は、スチムソン陸軍長官から計画を報告された時のことをこう記している。

彼の報告を聞いているうちに、暗い気持ちになった。私は彼に深い不安を伝えた。まず、日本はすでに敗北しており、原爆は全く必要ないということ、次にアメリカ人の命を救う手段として、もはや不要ともいえる兵器を使用することで国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた。」

アイゼンハワーの見解は「日本はできる限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はもはやない」というものであったのだ。

現在では、原爆は恐らく戦争を長引かせ、アメリカ兵の命を救うどころか、奪ったと信じる歴史家もいる。
なぜなら、国務次官ジョセフ・グルーは、1945年5月には降伏条件を変えるだけで戦争は終結すると大統領に進言しており、また大統領は原爆が完成するまで明らかにそれを引き延ばしたからである。

タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。

スチムソン陸軍長官もまた後になって、「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた」としている。

結局、アメリカ政府が日本に対して原爆を使用したのは、先に触れたように、戦争を早期に終結させるためではなく、戦後の対ソ外交を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったためである。

アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたのだ。

大戦末期、米軍幹部の間では、原爆を投下しなくてもいずれ日本は力尽きるという予想が大勢をしめていた。

しかし、トルーマン大統領は、ソ連の対日参戦で日本が降伏する前に、原爆という圧倒的なインパクトのある兵器を投入することで、日本にとどめを刺したのはソ連ではなく原爆、というイメージを全世界に与えようとしたのだ。

「原爆ホロコースト」に重大な責任がある人物を挙げるなら、その筆頭は、直接ゴーサインを出したトルーマン大統領だろう。

「原爆の誕生」自体は、当時の「原子物理学」発展の流れにおいて避けられなかったとしても、原爆の「実戦使用」に関しては、彼個人の「政治的な判断」で避けようと思えば避けられたのだ。(原爆は作った人よりも使う人に問題があると思う)。

しかし彼は、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。彼は誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。人体実験をしたかったのだ。

彼は日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。しかも無警告で。2発も。そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。彼は自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。
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「原爆ホロコースト」の実態より

◆大東亜戦争・東京裁判に関する発言

C・A・ウィロビー将軍
(アメリカ・GHQ参謀第二部長) 判決後ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のレーリンク判事に以下のように語った。
「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」

レーリング
東京裁判のオランダ判事であったレーリングは裁判が行われた当初から、パール博士と同じく、意見書を出し「ドイツのナチスに比して刑が重すぎる。滅刑せよ」と判決に疑義を投げかけていた。
レーリングは帰国した後、大学で教鞭をとり、国際法学者として名を知られるようになる。そして死ぬ8年前に「東京裁判」の真相を書き残した本が刊行された。『ザートウキョウ・トライアル、アンド・ビョンド』(「東京裁判とその後」)
戦災に見舞われた首都圏を見たレーリングは、次のように書いた。
「われわれは日本にいる間中、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。われわれは戦争法規を擁護するために裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじったことを、毎日見せつけられていたのだから、それはひどいものだった。もちろん、勝者と敗者を一緒に裁くことは不可能だった。東條元首相が東京裁判は勝者による復警劇だといったのは、まさに正しかった」

「侵略」の定義さえなかった時代に、日本の侵略戦争と断じた愚挙にふれてこう書いている。
「次の戦争では、勝者が戦争を終結した時に新しい法律をつくって、敗者がそれを破ったといって、いくらでも罰することができる、悪しき前例をつくった」

また、レーリングは「連合国側の犯罪行為については、一切取り上げることは許されなかった」と振り返り、東京裁判が最初から有罪を前提とした、いかにひどい裁判だったかを暴露している。

その他、以下のような発言を行っている。

「裁判長のウエッブは連合国の犯罪行為には指一本ふれさせなかったが、しばしば泥酔して法廷にやってきた」
「ウエッブ役不足の二流の人物だ」
「自分も含め、パール博士を除くすべての判事が、国際法に関しては素人同然だった」と実態を暴露。

「国際裁判所が、正義に基づいて処罰を加えることを求められているにもかかわらず、自ら正義の法理を適用しているか否かを審査する機能や義務さえ与えられないで、単に戦勝国の最高司令官の定めた放棄を適用しなければならない。かようなことを本裁判所が認めるとすれば、それは国際法のためにこの上なく有害なことになるだろう」

「太平洋での戦争は人種差別が主因のひとつだった」

レーリングはユトレヒト大学で蘭領東インドの刑法について教えていたので、アジアのことを少しは知っているだろうというだけの理由で判事に選ばれていた。

ウェッブ
(東京裁判裁判長・オーストラリア人) 「私は日本が九千万人の住む小さな土地で耕作できる面積はそのうち15パーセントにすぎず、外部から激しい貿易制限や規制を受けていたとの弁護士の論述に多くの正論と酌量の余地を認めた。私はアメリカなりイギリスなりが同じような状況に置かれたらどのように反応したか、それどころか国民がどのような反応をすることを望んだかを考えてみた。アメリカもイギリスも日本が1941年におかれたような状況に置かれれば、戦争に訴えていたかもしれないのである」

ハーバート・フーバー
(アメリカ・元大統領) 「もしわれわれが日本人を挑発しなかったならば決して日本人から攻撃を受けるようなことはなかったであろう」

エドウィン・O・ライシャワー
(元・駐日アメリカ大使) 「軍事法廷はかく裁いた。だが歴史は、それとは異なる裁きを下すだろうことは明らかである」
毛沢東 昭和39年、社会党委員長の佐々木更三が、中華人民共和国主席の毛沢東に無知にも「中国国民に多大な損害をもたらして申し訳ない」などとほざいてしまったところ]
「なにも申し訳なく思うことはありませんよ。日本軍国主義は支那に大きな利益をもたらしました。支那国民に権利を奪取させてくれたではないですか。皆さん、皇軍の力なしにはわれわれが権利を奪うことは不可能だったでしょう」
小平 日本は支那を助けたことになっている。・・・日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、我々は日本軍の占領地域の後方に広がった。・・・皆さんだけを責めるのは不公平だと思う。[支那との友好交流20年の感想]

K・R・ナラヤナン
(インド・大統領) パール博士の有名な反対判決は、勝者側の偏狭なナショナリズムと政治的復讐とを退け、それよりも平和そして国家間の和解と親善のために努力すべきことを説いた、感銘深い呼びかけでありました。博士はまた、そのように行動されたことにより、インドと日本との友好と理解のシンボルとなったのであります。

プライス
(アメリカ陸軍法務官) 東京裁判は、日本が侵略戦争をやったことを懲罰する裁判だが、無意味に帰するからやめたらよかろう。なぜならそれを訴追する原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は日ソ中立条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任ではなく、戦後に千島、樺太を譲ることを条件として、日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない。[1945年12月のニューヨーク・タイムズ]

カール・ヤスパース
(ドイツ哲学者) 「私はどう考えても、1つの民族だけが、戦争の責罪を負わなければならない義務はないと思う。”自分には罪はない”などというのは、薄っぺらで、ごまかしの道徳意識だ。これこそひとりよがりというものだ。その証拠に、彼らはすでに、次の戦争の準備をし、これを促進しているだけではないか。
・・・いっそ明白なる暴力の方がましである。その方が正直で我慢しやすい。そこに存在したものは戦勝国の強権ばかりであった。それは人類の将来の平和のために、無益なばかりか、極めて有害な存在となった」[「戦争の責罪」より]

ジョージ・フリードマン教授
(アメリカ・ディッキンソン大学) 「まともで教育のある人々がなぜパールハーバーを攻撃する道を選んだのか。こういうことを理解せずに、ただそれを非難する人々がいる。彼らこそが戦争を最も起こしやすい人々なのだ。当時の日本の指導者たちをモンスターにしたり、日本の開かれた悲劇的な立場を考えもせずに発言する人々を英雄視したりしても、何の解決にもならない。解決どころか、このような態度そのものが問題なのだ」「パールハーバーを忘れるな・Voice1991年12月号」

ジョージ・ケナン
(国務省政策企画部初代部長) 昭和23年に来日し、軍隊も内務省も破壊された占領下の日本を見て、
「マッカーサー将軍の本部によって、その時点までに実施された占領政策の性質は、一見して共産主義の乗っ取りのために日本社会を弱体化するという特別の目的で準備されたとしか思えないものだった」と批判した。
東京裁判に対して、
「[東京裁判を成立させる]このような法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。・・・公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家の裁判である。日本の場合は、敗戦の結果として加えられた災害を通じて、その裁判はなされている。といっても、これは勝利者が敗戦国の指導者を個人的に制裁する権利がないというのではない。しかし、そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義とは関係ない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾すべきではない」

◆『マッカーサーの告白』

日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。日本は何も悪くありません。日本は自衛戦争をしたのです。
イギリスのチャーチルに頼まれて、対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込んだのです。アメリカは日本を戦争に誘い込むためにイジメにイジメぬきました。そして最後通牒としてハルノートを突き付けました。
中国大陸から出て行けだの、石油を輸入させないなど、アメリカに何の権利があったというのでしょう。当時、アジアのほとんどの国が白人の植民地でした。白人はよくて日本人は許さなかったのです。ハルノートのことは、私もアメリカの国民も知りませんでした。
あんな物を突き付けられたら、どんな小さな国でも戦争に立ち上がるでしょう。戦争になれば圧倒的な武力でアメリカが勝つことは戦う前から分かっていました。我々は戦後、日本が二度と白人支配の脅威とならないよう周到な計画を建てました。アメリカは知っていたのです。国を弱体化する一番の方法はその国から自信と誇りを奪い、歴史を捏造することだと。
戦後アメリカはそれを忠実に実行していきました。日本がアジアを白人の植民地から解放しようとしたという本当の理由を隠すため大東亜戦争という名称を禁止し代わりに太平洋戦争という名称を使わせました。
東京裁判はお芝居だったのです。アメリカが作った憲法を日本に押し付け、戦争ができない国にしました。公職追放をしてまともな日本人を追い払い、代わりに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒きました。
その教え子たちが今マスコミ・政界などで反日活動をしているのです。
徹底的に検閲を行い、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにしました。ラジオ・テレビを使って戦前の日本は悪い国だった、戦争に負けて良かったのだと日本国民を騙しました。これらの政策が功を奏し今に至るまで独立国として自立できない状態が続いているのです。(※註:1951年の時点で正気に帰ったマッカーサーが、この今に続く問題を憂いている)
私は反省しています。自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカなのです。戦争終結に不必要な原子爆弾を二つも使って何十万人という民間人を虐殺しました。最後に私が生きていた時の証言を記して謝罪の言葉としたいと思います。
「私は日本について誤解をしていました。日本の戦争の目的は侵略ではなく自衛のためだったのです。太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の過ちは、共産主義を中国において強大にさせたことでした。東京裁判は誤りだったのです。
日本は八千万人に近い膨大な人口を抱え、その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
歴史上のどの時点においてか、日本の労働力は人間が怠けているときよりも働き、生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。
これまで巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だという事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らには手を加えるべき材料を得ることができませんでした。
日本原産の動植物は、蚕を除いてほとんどないも同然でした。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない。錫がない、ゴムがない、他にもないものばかりでした。その全てがアジアの海域に存在したのです。
もしこれらの原料の供給を絶ちきられたら一千万から一千二百万の失業者が日本に発生するであろうことを彼らは恐れたのです。
したがって日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」
アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて

1951年5月3日
ダグラス・マッカーサー


歴史を忠実に残せばどうなるのか②

2014-10-27 12:01:16 | 資料

プーチンよ悪は米国に学べ

20世紀始めに米国はフィリピンを酷い手口で植民地支配した。米国に抵抗する者は、膝と肩を一日一発ずつ銃で撃ち、死の恐怖に慄かせてから殺す「週間銃殺刑」や「水責め」がある。水責めは大の字に寝かせ、じょうごで泥水を5ガロンも飲ませる拷問で、膨れた腹に米兵が飛び降りると「土人は6フィートも水を吹きあげて絶命した」

アーサー・マッカーサーが指揮した「フィリピン人殺戮」数は自己申告でで20万人。実際はその数倍と謂われる。

米傀儡政権のケソン大統領は、赴任してきたアーサーの息子ダグラスに媚びたが、ケソンの秘書カルロス・ロムロの諂いは芸術的だった。彼はアジア諸国を歩いて欧米の植民地政策を肯定的に描いて、ピューリッツァー賞を貰った。マッカーサーは直ぐに宣伝担当副官に任命した。

日米開戦し日本軍が上陸するとマッカーサーは豪州に逃げだしたが、その前夜ケソンに謝礼を要求する。ロムロは米国のご主人様の為にフィリピン政府の口座から、マッカーサーの口座へ50万ドルを振り込む作業を助けた。豪州に脱出後のロムロの最大の業績は、たった60キロの「散歩」を「バターン死の行進」に拵えた事だ。

2年後に帰ってきたマッカーサーは、マニラに残る日本軍1万人に、4週間にわたる無差別攻撃を加え、市民10万人が爆撃の巻き添えで死ぬと、ロムロの出番が来た。

彼は米軍報道官として10万人の犠牲者は「本軍が住民を閉じ込めて火をかけ」「水牢に詰め込んで」殺した結果で、この中には「放り上げて銃剣で刺したキリノ(後のフィリピン大統領)の2歳の子供も含まれる」と語る。

迫真の蛮行は米軍がフィリピン人相手にやった行為だが、それは彼等にかつての恐怖を思い出させるには十分だった。そして、米軍に媚びて日本軍いじめに回った。東京裁判のフィリピン人判事は、A級戦犯全員死刑を主張した。

「娘を殺された」事に為っているキリノ大統領も、日本に破格の80億ドルの賠償金を要求し、日本が拒むとモンテンルパに繋がれた戦犯14人を一晩で吊るして、日本に脅しをかけた。

先日の朝日新聞に「赦しの文化に甘えて良いのか」と題するカルロスの嘘そのままの記事が載った。加えて15人目を吊るさなかったキリノを赦しの大統領と称えた。

「プーチンよ悪は米国に学べ」高山正之著より

◆アメリカが日本に対して犯した戦争犯罪 (人種蔑視に基づく残虐行為)

草莽崛起  2008/02/03

 昭和二十年(1945年)四月七日沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)など二隻、駆逐艦三隻が敵(アメリカ)の空襲を受けて沈没しました。 
「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立ったアメリカ軍戦闘機の群が執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」(矢矧の原艦長の証言) 

「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、アメリカ軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた。」(著書、「伊藤整一」、大和と運命を共にした第二艦隊司令長官) 

同様な残虐行為はニューギニア近海でもおこなわれました。昭和18年3月3日に起きたビスマルク海戦(空襲)の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が敵機の攻撃により沈められましたが、沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり漂流中の千名の兵士達に対して、アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影のカメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。 

「決して男らしいやり方ではなかった」と第五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。
「隊員の中には気分が悪くなる者もいた」。 
救命ボートやその周辺を文字どおり血の海に変えたその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが十年ほど前にオーストラリアのテレビ局から放映されて、国民に大きなショックを与えました。「我々はフェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。(容赦なき戦い、ジョン・ダワー著) 

ちなみにハーグの陸戦条約第23条では、兵器を捨てた自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止していました。 

アメリカ海兵隊兵士による蛮行

 ルーズベルト大統領の息子で海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加わっていたカールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日本兵の口中に詰め込んだ。
太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、またテレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサーであるシャーマン・グリンバーグが、二十年後にカールソン隊員の一人にその時の模様を(テレビで)詳細に語らせている。その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。 
(ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」から) 

(その二) マキン島へ救援に赴いた私(谷浦中尉)は、戦場で妙なことに気が付いた。どういうものか仰向けになった屍体が十五~六あり、しかもすべて下腹部を露出している。死後一週間経っていたため原形は完全に崩れていて、顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。 どうしてこんな格好をしているのだろう。被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたのか?。アメリカ兵といえばキリスト教徒であり、日本人以上に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった誰一人として思いつく者はいなかった。 

戦後五十年経って意外な事実を知り、愕然とした。それはマキン襲撃の際に行われた海兵隊の蛮行を物語る、翻訳された出版物を読んだからである。 
(マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英夫著) 
(その三) 作家上坂冬子の著書によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は壱千個にもなる。彼等はそれでロウソク立て、灰皿やペン皿を作ったといわれ、また硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するものが、ロサンゼルスの骨董店で一個二十五ドルで売られていた。(硫黄島いまだ玉砕せず) 

(その四)、リンドバーグが見たもの 1927年(昭和二年)にチャールズ・リンドバーグはニューヨークからパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」の題名で映画化された。彼は1944年(昭和十九年)にニューギニアの米軍基地で陸軍将校として四ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「第二次大戦日記上巻、下巻」として出版した。( この本は私が読んだ後に、どういう理由からか絶版になった ) 

それによると彼は戦場で見たものにショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。 
たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラもないことを発見した。 

そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単なる動物としか見ていなかった。 

1944年(昭和十九年)六月二十一日の日記には、日本人捕虜にタバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、のどを「真一文字にかき切った」というのを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将軍との会話を要約している。
残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑と「あわれみ」をもって軽くあしらわれた。 六月二十六日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、およびパラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。
降伏し捕らえられた二千数百人という日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か二百人に過ぎなかった。残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。 
「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう」とリンドバーグは聞かされた。つまり黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった。

七月十三日の日記では、「われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することをなんとも思わない。彼等はジャップに対して、動物以下の関心しか示さない。こうした行為が大目にみられているのだ。」と記されていた。 

八月三十日にリンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸島にあるタラワ環礁を訪ねた。そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。 
ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際に、彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた。そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。(以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ著) 

ニューギニア戦線でのオーストラリア軍やマッカサー指揮下の第四十一師団は、「捕虜を取らない」つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵を殺するので有名だった。 

軍事歴史家デニス・ウォーナーは1982年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。 
「しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、部下の大佐が司令官に反論した。 「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)は答えた。「捕虜はいらない。全員射殺してしまえ」。そして彼等は撃たれた。 

日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、第四十一師団のことを「者、Slaughterer」と呼んでいた。 終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、第四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付けられていた。この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。(容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著) 

アメリカ軍の日本の病院に対する爆撃

 昭和十九年(1944年)五月二十四日にブーゲンビル島ラバウル基地にあった第八海軍病院が、米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら千四百名が死傷した。病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもかかわらず、それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。 

日本兵の遺体を損壊する行為

 日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、米国民の間で戦時中からよく知られていた。 日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキスが記録している。「ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、それを頂いてネックレスでも作るかな」と一人が言う。「おれは奴らの耳を持って帰るよ」ともう一人が宣言する。「塩漬けにしてな」。(ガダルカナル日記、1942年) 

戦後出版された水兵の日記の1944年(昭和十九年)七月の記述に、すでに十七個の金歯を集めた海兵隊員がいて、その最後の金歯はサイパンで負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、と事もなげに述べられている。(容赦なき戦争、ジョン・ダワー著) 

太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、日本兵の死体から 手を切り取って戦果のトロフィーとする、金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活から、解放してやっただけだ」 と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した。(E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録) 

(その五) フィリピンのラグナラ州カランバには日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、ここはフィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。米軍の発表によれば収容された捕虜のうち、戦争が既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養失調で死亡した日本兵捕虜は一万二千人にものぼった。 
もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑になったことは間違いない。しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。 
そこには「バターンの死の行進」に対する復讐の意図から、敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対して必要な食糧補給をしなかったからである。(孤島の土となるとも、 B C 級裁判) 

(その六) ベトナム戦争においてもかなりの数のアメリカ軍兵士がベトナム人の頭蓋骨を収集していたが、アジア人がアメリカ人兵士の死体に対してこのようなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるかは、考えてみる価値があるだろう。 
(米英にとっての太平洋戦争、下巻) 

太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べています。 
「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、気がとがめなかった。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すよりも悪いことではないと言明した。この残虐性は四ヶ月後に広島、長崎でその頂点に達することになる。」 (著書、戦艦大和の運命) 

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htm#zangyaku

◆アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行

沖縄本島には千二百隻の艦船に分乗する十七万人のアメリカ軍が来攻した。
わが軍と陸海空において、凄惨な血戦が繰りひろげられた。
―――――――
以下、マックス・ヘイスティングス著(イギリスの歴史作家)
「ネメシス 日本との戦い 1944―45年」
ハーパースプレス社、ロンドンからの引用
―――
一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。
とくに沖縄戦がそうだった。 
クリス・ドナー(アメリカ軍兵士)は、こう記録している。 

地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、
やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、
何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。

しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、
丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。 

その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。 
兵たちが口々に、
「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」
と、叫んだ。 

兵がいっせいに射撃した。
女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、
手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。 
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。

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■オークラ出版「拉致と侵略の真実」『沖縄の受難史』恵隆之助
■小学館「沖縄論」小林よしのり(著)
■沖縄戦関係資料閲覧室 証言集
http://www.okinawa-sen.go.jp/testimony_data/shogen02-05/index.djvu

◆仲地文子さん

羽地でも、真喜屋あたりへ食糧を探しに行く途中で、
米兵に襲われた女性が何人かいた。
だから、米兵の目をごまかすために、女たちはわざと顔に鍋墨を塗り、
薄汚いなりをして歩いたものだった。
また、深夜に突然米兵が現れると
空き缶やバケツなどをガンガン叩いて追っ払ったものである。

◆山里宗富さん

戦前私の近所に照屋松助という頑丈な男がいた。
当時彼は家族と別れて一人で瀬底に避難していたが、
その日はたまたま健堅に戻って来て家族とともにウイバルにいた。
すこし体のぐあいが悪いということで寝ていたのである。
そこへ突然銃を持った二人の米兵が現れ、妻子に乱暴しようとした。
たまりかねた彼は起き上がってきて米兵の前に立ちはだかり、
『私も海軍にいたことがあるが、
君たちのように非道なことをしたことはない、ささっさと帰りたまえ』
と怒鳴りつけた。
言葉は通じなかったもののその場は何事もなく収まり、
米兵らはいったん引き上げたかに見えた。
ところが間もなく米兵らが戻って来て、彼をたたき起こし、
銃をつきつけて前へ歩くように明治、
前の原っぱに連れ出していきなり射殺したのであった。

◆末吉カメさん

普通の米兵はとくに悪いことをするようでもなかったので、
私達は安心していた。
ところがそのなかに、住民から鬼のようにこわがられている者がひとりいた。
やせっぽちのシビリアンと呼ばれていたが、彼はいつも銃を持ち歩き、
男という男はかたっぱしから捕まえてひっぱっていったし、
若い女性には乱暴をはたらくなど、非道のかぎりをつくしていた。
事実彼によって何人かの男たちが殺されてしまった。
そいつが村に入って来るのを見て、すばやく若い女性を逃がしたために、
原っぱに連れ出され、正座を命じられて射殺された男もいた。
米軍は寛容で親切だったなんてことはまったくなかったのです。
自決せず投降して助かった人が幸せだったとはいえないでしょう。
こうした米軍の蛮行を見て戦時中
「米軍は女性を陵辱し、男性は戦車でひき殺される」
というフレーズが思い出す人もおり、自決した友人達を羨んだといいます。

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【サイパン】米兵、婦女子らに残虐行為 
昭和19年7月9日、元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の
田中徳裕(のりすけ)氏らが山の中腹の洞窟から眼下の
バナデル飛行場で繰り広げられた惨状を証言
『我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』田中徳裕著(立風書房 昭和58年)
http://amzn.to/1czuIJ9

昭和19年6月15日午前8時45分、チランカノアの海岸に、
約3個師団と推測される敵兵が上陸してきた。
そこからサイパン島の陸上戦が始まった。

当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた、
民間人がいたことでかなり悲惨な結果になってしまった。

7月9日、このころには日本軍の組織的な抵抗は無くなり
掃討戦の様相をあらわしてきた。

敵は流ちょうな日本語でジャングル地帯に童謡を流し
投降を促す放送を流し始めた。
日本軍は組織的な抵抗は捨て、
洞窟に、数人、あるいは数十人ぐらいが生き残り潜んでいた。

米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、
隠れている日本人に投降を勧めました。
「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も充分に与えます。
もはや犬死にすることはない、
今や死んでも花実は咲きません。みなさんの投降を待っています」

その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。
これには潜んでいた日本軍も参ってしまった、
その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などが流されたそうです。
「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出て来てください。」

投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、
その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。

投降呼び掛けの放送とはうらはらな、
人道上許し難い残虐な行為をしだした。
日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、
その距離1キロ位先で展開された。

そこへ、三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。
婦女子が全員、素っ裸にされた。

そして、無理やりトラックに積み込まれた。
そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。
婦女子全員が、トラックの上から
「殺して!」「殺して!」と絶叫している。 

その声がマッピ山にこだまし、
次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。
なんたることをするのだ、
小銃だけではどうすることもできず、此方の位置も知れてしまう。
この悲劇をただ見守るしかなかった。
(この婦女子はその後一人として生還しなかった)

婦女子が連れ去られたあと、
こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。
ガソリンがまかれ、火がつけられた。
飛び出してくる老人子供たち。
その悲鳴。

「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」
の投降勧告の意味は一体なんだったのか。

常夏の大空をこがさんばかりに燃え上る焔と黒煙。
幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。 
残虐な行為は凄絶をきわめた。

火から逃がれ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、
ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。
かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、
再び足で蹴り飛ばしたり、
銃で突き飛ばしては火の海へ投げ込んでいる。 

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに
置き去られて泣いている赤ん坊を見つけ出し、
両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。
「ギャッ」という悲鳴。
人間がまるで蛙のように股さきにされ殺されてゆく。

彼らは、それをやっては大声で笑った。
無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。

http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html

◆GHQが国際法を無視して行った占領政策

12月31日 1945年 - GHQが「修身・日本史および地理の授業停止と教科書回収に関する覚書」を提示。

戦勝国が敗戦国の憲法を作る事、新聞・雑誌・放送の検閲は勿論、相手国の歴史を消す事、書物の発禁、禁書も国際法上許されません。

しかし、アメリカは日本占領後新聞・雑誌・放送を検閲し、書物の発禁や禁書を行いました。

相手国の文化を踏みにじる行為は、絶対に許すことの出来ない蛮行です。しかし「自由と平和」を標榜するアメリカは平然と行いました。

昭和20年9月から占領期間中の新聞、雑誌、映画、放送内容、一切の刊行物が「検閲」されたのです。検閲の理由は、日本人にアメリカは正しく日本は悪だったと、日本人を洗脳させる為です。

アメリカは「言論の自由、信書の自由」を公に言っていました。しかし本当は一般市民の手紙でさえ検閲し、アメリカに対する批判は全てもみ消したのです。
日本人の中に「アメリカに自由をもらった」と勘違いしている人がいることは、アメリカが行った、徹底した焚書や検閲、
言論封鎖による操作が理由の一つでしょう。

アメリカのメリーランド州立大学に、長崎で被爆した14歳の石田雅子さんの手記、

「雅子斃れず」が保存されています。これは元々、雅子さんが、親類で回覧する家族新聞に被爆したときのことを書いた文章を、父・壽さんが本にまとめたものでした。

しかし、戦後間もない時期、出版物にはGHQの検閲があり、原爆に関することは特に厳しく制限されていました。検閲当局はこの本が「公共の安寧を害する」と、出版を禁止しました。

アメリカはアメリカが行った国際法違反の民間人大虐殺である原爆投下の書物も検閲し、言論封鎖したのです。

日本が降伏してからサンフランシスコ講和条約が発効されるまでの7年間、アメリカはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける為の宣伝計画)と検閲による「思想」「言論統制」により日本を悪と仕立て上げたのです。

数百年間、白人国家が有色人種の国々を侵略し、搾取していた事実やそれを開放する為に日本が、白人国家と戦った史実は隠されたのです。

http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-5231.html

◆WGIP(ウォー.ギルト.インフォメーション.プログラム)

【祖国を批判する事こそが、正義である】

アメリカ本国がマッカーサー元帥に指令したことは、「日本が未来永劫、アメリカなどの白人国家、そして戦勝国となった中国や韓国に刃向かってこないよう、日本人の精神を徹底して破壊し、永続的な支配体制を確立する」―――これが、占領軍に与えられた役割だったのです。

『憲法』 も 『教育基本法』 もこの目的に沿って作られ、『官僚組織を温存』 し活用することで、日本国民を完璧にコントロール下に置き、『マスコミを飼い馴らす』 ことで、日本国民の意識をアメリカにとって都合の良いものに変え、『教育を支配』 することで、世界で唯一 「祖国を批判することが正義である」 などというとんでもない考え方を日本人に植え付けてしまったのです。

同時に、GHQは明治以降の歴史を改ざんすることで、「白人による植民地支配からのアジア解放」 を目指した 大東亜戦争 に対する罪悪感を日本人に植え付けるとともに、アメリカとの戦いを 「 日本国民 対 日本軍 」 との構図にすり替え、アメリカへの敵愾心を喪失させ、その敵意を旧日本軍 (特に世界有数の軍隊であった陸軍) に向けさせ、挙げ句の果てには、世界が賞賛していた日本人の高い精神文化の根幹をなす、日本古来からの大らかな宗教観 『神道』 を破壊するために、占領後も継続して巧妙な宣伝工作を続けたのです。

このウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムは、大東亜戦争終結後より、連合国軍最高司令官総司令部 (以下GHQと略記) による日本占領管理政策として、自由主義国家建設という名目の陰で、大東亜戦争の2倍の期間、7年もの長きに渡り秘密裏に行われ、日本人を骨抜きにする洗脳工作は、完全なる成功を見たのです。

昭和23年2月6日付、『 ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム 』 との表題の文書がCI&E (民間情報教育局) からG-2 (CIS・参謀第二部民間諜報局) 宛てに発せられた。 

冒頭に 「CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである」 とある。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムについて 江藤淳 (慶応義塾大学教授) は、その嚆矢である太平洋戦争史という宣伝文書を 「日本の 「軍国主義者」 と 「国民」 とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった 「軍国主義者」 と 「国民」 とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」 と分析。

また、「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eのウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラムは、一応所期の目的を達成したといってよい。 つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。 以後、日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、『 二度と再び米国に向けられることなく 』、もっぱら軍国主義者と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないとも指摘している。

また、「 「軍国主義者」 と 「国民」 の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」 に対する 「罪」 を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」 も、すべて 「軍国主義者」 の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。 大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」 が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである 」 としている。

ウォーギルト・インフォメーション・プログラムは 「何を伝えさせるか」 という積極的な政策であり、検閲などのような 「何を伝えさせないか」 という消極的な政策と表裏一体の関係であり、後者の例として 「一切を日本国民に知らせることを厳禁とした」 プレスコードが代表的である。

昭和21年11月末には、すでに 「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」 として 「SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する批判」 など30項目に及ぶ検閲指針がまとめられていたことが、米国立公文書館分室所在の資料によって明らかである。 プランゲ文庫保存のタイプコピーには、多少の違いがあるが同様の検閲指針として具体的内容が挙げられている。

同12月8日、GHQは新聞社に対し用紙を特配し、日本軍の残虐行為を強調した 「太平洋戰爭史」 を連載させた。

その前書は次の文言で始まる。

「 日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は、枚挙にいとまがないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くは未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従って次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によって発表されて行くことにならう。 ( 以下略 ) 」と、日本軍がいかに犯罪行為をしたのか印象的に残す手法を多用し、日本人の記憶に強く働きかけた。

それと平行し、GHQは翌9日からNHKのラジオを利用して 「眞相はかうだ」 の放送を開始した。

番組はその後、「眞相箱」 等へ名称や体裁や伝え方をより効果のある方向へと変えつつ続行された。

昭和23年以降、番組は民間情報教育局 (CIE) の指示によりキャンペーンを行うインフォメーション・アワーへと変った。 (※ 日本国民には、NHKが独自に作った番組の外貌をまとわせ、GHQが創作したことを極秘とした。:筆者注 )

昭和20年12月15日、GHQは、日本人の高い精神性を持ち得た根幹は、すべての宗教と共存できる日本独自の宗教観 『神道』 であると喝破し、ポツダム宣言に違反してでも壊滅に追い込むべく、「神道指令」 を発令した。

以後アメリカGHQは、日本国民に一切を隠した形で行わせた検閲によって、戦争の大義が明確化する 「大東亜戦争」 という文言を強制的に捨てさせ、アメリカとの戦争にすり替え大義を消滅させるべく 「太平洋戦争」 へと書換えさせ、言論を統制した。

終戦当時、米軍検閲官が日本国内で開封した私信(個人の郵便物)は、次のような 「内容の文言」 で埋めつくされていた。

「 突然のことなので驚いております。 政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。 敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。 数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。 憎しみを感じないわけにはいきません 」 (8月16日付)

「 大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。 通学の途中にも、他の場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。 今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていました。/ 米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。 何ていやな奴等でしょう!  ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。 戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持がするでしょうか 」 (9月29日付)

江藤は、「 ここで注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さをもたらしたのが、自らの 「邪悪」 さとは考えていなかったという事実である。 「 数知れぬ戦争犠牲者は、日本の 『邪悪』 さの故に生れたのではなく、 「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。 「憎しみ」 を感ずべき相手は日本政府や日本軍であるよりは、先ずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。 当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。」 と指摘した。

GHQ文書(月報)には敗戦直後の様子が記されていた。

「 占領軍が東京入りしたとき、日本人の間に戦争に対して贖罪意識は全くといっていいほど存在しなかった。 (中略) 日本の敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行き渡っていた 」

こうした日本人の国民感情はその後もしばらく続き、CIEの文書はG-2(CIS)隷下の民間検閲支隊 (CCD) の情報によれば昭和23年になっても 「依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで 『ウォー・ギルト』 が定着してなかった」 有力な証拠である。

また、この 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」 が以後、正確に東京裁判などの節目々々の時期に合わせて展開していった事実は看過できないとも江藤は指摘する。

東京裁判で東條英機による陳述があったその2ヶ月後、民間情報教育局 (CIE) は世論の動向に関して次のような分析を行っている。

「 一部日本人の中には (中略) 東條は確信を持って主張した、彼の勇気を日本国民は称賛すべきだとする感情が高まっている。 これは、東條を処刑する段になると東條の殉教といふところまで拡大する恐れがある 」

「 広島における原子爆弾の使用を 『残虐行為』 と見做す・・・最近の傾向 」 (昭和23年3月3日、CIE局長宛覚書) 

こうした国民の機運の醸成に対しCIE局長は6月19日、民間諜報局 (CIS) の同意を得た上で、プログラムに第3段階を加える手筈を整え、情報宣伝に於ける対抗処置を取った・・・・・

( 『閉された言語空間』 (『文藝春秋・平成元年』より引用。 )


【太平洋戦争史】
昭和20年(1945)12月8~17日の間、日本のすべての日刊新聞は「太平洋戦争史」なる捏造した歴史を毎日掲載させられた。わざわざ開戦の12月8日を選んで全国紙に、一斉に連載を開始させたのだ。この史観のベースとしたのはアメリカの戦時プロパガンダの歴史編集文書「平和と戦争」である。

【平和と戦争】
この歴史の見方が今日本の歴史教科書で教えている「太平洋戦争」の根本に横たわっている。この歴史観というのが、米英の民主主義と日独伊の全体主義、この正義と邪悪の戦争が第二次世界大戦だったという噴飯もの。朝日新聞をはじめとする反日マスコミはいまだにこの歴史観を叫び続けている。

また「太平洋戦争史」では、「南京大虐殺」と「マニラの虐殺」を挙げて、日本軍の悪逆非道を強調した。これによって、それまで「皇軍」だといってきた、あるいは「動議の戦いには負けていない」と考えていた日本人に明らかに道義がないことを刷り込もうとした。

【真相はかうだ】
「太平洋戦争史」をドラマ化したもの。これを昭和20年12月9日~昭和21年2月にかけて、約2ヶ月間、日曜午後のゴールデンアワーにNHK第1、第2で放送され、再び続いて再放送された。この「真相はかうだ」は「真相箱」、さらに「質問箱」と名称を変えて、同種の番組は昭和23年8月まで約3年間続けられる。

【インフォメーション・アワー】
昭和23年1月から毎週「新しい農村」などを放送。

【宣伝映画】
日本の戦争犯罪を告発する宣伝映画が9本もつくられた。「犯罪者は誰か」(大映)、「喜劇は終わりぬ」(松竹)、「わが青春に悔いなし」(東宝)などである。表面は日本人が自主的に作ったように見せかけながら日本人に罪悪感を植えつけようとした。その観客動員は延べ3000万人にも達した。

上記の内容はどれも似たり寄ったりで、次のようなことが延々と教えられた。

大本営は嘘ばっかりで日本国民は軍部に欺かれて侵略戦争に誘導された。日本は戦争中にこんな残酷なことをした。原爆投下は予告を日本の指導者が無視したから落とされた。日本を救うため、100万のアメリカ兵を救うためアメリカは原爆を落とした。広島と長崎は軍事都市だったから原爆投下の目標にされた。

日本国民は過ちを反省すべきである。
日本は悪い国で。
好戦的で。
愚かで。

アメリカの平和への努力を認めないまま戦争に突っ走っていった
ポイントは何かというと、敵はアメリカではない。敵は軍人だ。あなた方の中にいる日本人なのだ。一部の軍国主義者と政治家が侵略戦争に国民を駆り立てたのだ、ということである。

今日、反日日本人が主張している内容とまったく同じである。連中の主張はウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの意図に忠実であった。これらプロパガンダが巧妙だったのは、全部が虚偽ではなく、真実の中に虚偽を混ぜていたことである。戦争に負けていたので体験者は真実を言うことができず、マスコミ、政治家、役人は保身のためGHQに逆らうことはしなかった。

戦後60年経ってもまだマインドコントロールが解けずに、「日本は侵略した」「日本が悪かった」と思い込んでいる日本人が多数いるのはご存知の通り。

この時期に読売新聞は「恥ずべき南京大悪暴行沙汰」なる記事を載せたが、これが虚構の「南京大虐殺」の初出であった。

チェコ出身の作家ミラン・クンデラは次のように語っている。

「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化をつくらせて新しい歴史を発明することだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることになるだろう」

まさしくGHQが日本に行なったのはこのことである。

https://www.facebook.com/DaRiBenHuangGuo/posts/448702155230051:0

                       目覚めよ日本!


歴史を忠実に残せばどうなるのか①

2014-10-27 11:26:42 | 資料

原爆投下(一)

1:犠牲者の数 

原爆による死傷者の数については種々の データがあるものの、これまで正確な数は不明でした。昭和 51 年 ( 1976 年 ) に広島市が国連に提出した資料によると、投下直後の推定死者の数は 14 万人 プラス、マイナス 1 万人 となっていました。
また広島県警察本部が昭和 20 年 ( 1945 年 )11 月 30 日に県内各警察署に調査を命じ、12 月中旬にまとめた数によれば、 死者 78,150 、重傷者 9,428 、軽傷 27,997 、行方不明 13,983 、罹災者 17,6987、合計 306,545 でした。

平成 2 年 ( 1990 年 )5 月 16 日の各新聞は、一面 トップで厚生省が実施した原爆死没者の実態調査結果を報道しました。それに依れば当時の広島市の人口 296,000 人のうち、原爆による死没者は 201,990 人 でした。

これは被爆直後に広島に入った海軍の調査団による、 死者約 20 万人 という被害推計とほぼ 一致していました。

原爆死没者の数え方の矛盾

平成 14 年 8 月 6 日には過去 1 年間に死亡したか、又は死亡が確認された 4,977 人 の名簿が新たに原爆慰霊碑に納められましたが、原爆死没者の合計は 226,870 人になるそうです。
しかしその人達が被爆後数年ない 10 数年以内に死亡したのであれば原爆死没者として扱うことに納得できますが、被爆後 57 年間 も生き続けた人が原爆死没者つまり、被爆を原因とする死者として数えられることに私は大きな疑問を持ちます。

現在被爆者の平均年齢は 71 才 で、14 才の時に被爆したことになりますが、被爆者 ( 健康 ) 手帳を持っている人が、仮に 百 才まで生きた としても、死後は 原爆死没者 に数えられるという非常に矛盾した制度なのです。

寿命の差について

被爆しようと、しまいと ガン は昭和 54 年以来、脳卒中を抜いて常に日本人の死亡原因の 第 1 位 になっています。過去数十年間の原爆死没者と称する人のほとんどは、 寿命が尽きたことによる自然死 ( 病死 )として扱うべきなのです。
さらに外国からもこれまで指摘され続けてきた被爆者と、それ以外の者との死亡率 ( 寿命 )の違いも明白にすべきであると考えます。広島市や国の関係機関がそれを公表しない理由は、戦後の 一時期を除き何十年間も 両者に差が見られないからである 、との憶測を呼んでいます。

そのうえ現在も、被爆者健康手帳の申請があとを絶たないという事実があります。被爆当時広島市内とその近郊の村に住んでいたか、投下後 2 週間以内に爆心地から 4 キロ以内に救護活動、親族探しのため立ち入ったという事実があれば、被爆者健康手帳が貰え医療費が全額無料になります。

更に ガン などの病気や治癒率低下の原因が原爆の放射線であって(?)、( 戦後 57 年間治療を続けたという意味ではなく )、現在も治療中であり原爆症と認定されると、 毎月 14 万円 を超える医療特別手当が、死ぬまで 年金とは別に支給されるからです 。

その認定患者数は厚生労働省によると全国では現在でも 2,200 人 です。戦後 57 年も経つというのに、平成 14 年 7 月には 8 都道府県の 76 名 が、新たに被爆者健康手帳の申請をしました。人間の金銭欲には、限りがない証拠です。

2:降伏間近の戦況

昭和 20 年 ( 1945 年 ) 当時の日本は 3 月に硫黄島が占領され、米軍が硫黄島の飛行場から出撃する事により、制海権、制空権を失った日本は連日 B-29 長距離爆撃機及び、空母艦載機による空襲や、敵艦隊からの艦砲射撃を受けるようになりました。
既に石油などの軍需物資の備蓄を使い果たし、昭和 20 年 4 月に沖縄特攻に赴いた戦艦大和の出撃以後は軍艦を動かす燃料も底を尽き、飛行機もほとんど飛べず、軍需工場は破壊され、多くの都市は灰燼に帰し、食糧も底を尽き、すでに近代戦を戦うのに必要な産業基盤や生産能力を失い、降伏間近な状態にありました。

6 月には沖縄をめぐる攻防戦も終了し、ブラッドレー 米国統合参謀本部議長が昭和 20 年 ( 1945 年 ) の 7 月に提出した報告書によれば、

日本は既に事実上敗北しており 、降伏 を準備している
とありました。日本政府がソ連を通じてひそかに和平 ( 降伏 ) 交渉の意志表示をしていることを、アメリカは知っていたのです。スチムソン陸軍長官によれば
1945 年 ( 昭和 20 年 ) 7 月の時点で、すでに日本の海軍、空軍兵力は 事実上存在しない 。残っているのは進攻艦隊に、こうるさく抵抗する程度の戦力である
と述べていました。
敗戦の年 ( 昭和 20 年、1945 年 ) の 9 月に日本を調査に訪れた、前述の ニッツ率いる米国戦略爆撃調査団も、
たとえ原爆が 投下されなかった としても、ソ連が参戦しなかったとしても、本土上陸作戦が行われなくても、日本は非常に高い確率で九州上陸作戦の決行予定日である昭和 20 年 ( 1945 年 ) 11 月 1 日までに、遅くとも同年 12 月 31 日までには 確実に降伏したであろう

という最終報告書を、翌年 ( 昭和 21 年、1946 年 ) 7 月に トルーマン ( 当時 ) 大統領に提出しています。 U.S Strategic Bombing Surbey,Summary Report ( Pacific War ) ,1946、の 26 頁参照

敗戦の年の 10 月中旬に大統領特使として日本を訪れた エドウイン ・ ロックは トルーマン大統領宛の報告書の中で、

今東京にいる米軍将兵たちは、日本があれだけの抵抗ができたことに驚いている。経済的な混乱があまりにひどいのを見て、原爆が敗戦を早めたといってもそれは ほんの数日であり 、実は日本人は戦争から抜け出すために原爆を口実に利用した、と述べた アメリカ人もいるほどである。
と述べていました。
空母機動部隊の指揮官として戦艦武蔵を沈めるなど日本海軍を敗北に導いた ハルゼー提督は、公の席上で

最初の原爆 ( ネバダ州における実験 ) は不必要な実験だった。( 広島、長崎への ) 投下は間違いだった。このような武器を、不必要なときになぜ世界に公開したのか?。原爆は多数の ジャップ を殺した。しかし ジャップはかなり前から ロシアを通じて和平の打診をしていた
と発言しました。

3:原爆投下の理由

アメリカ国立公文書館の資料によれば、
米国政府は原爆完成の 2 年前の 昭和 18 年 ( 1943 年 )5 月 には、日本に対する原爆使用を決めていました。しかし ドイツに対する使用方針を示す記録は存在しません。
昭和 20 年 ( 1945 年 ) 初めから対日投下準備に入り、敗戦間際の日本政府の降伏の動きや、原爆投下に関する事前の警告論は無視され、皇居も投下目標の 一つとして検討されました。
マッカーサーは 「 日本上陸作戦 ( オリンピック作戦 ) を実施した場合も、沖縄戦のような大きな人的損害 ( 米側死傷者 42,000 名 ) が出るとは考えていない 」、とする報告書を国防総省に提出しました。
では日本が降伏間近であることを承知しながら、なぜ米国は原爆を投下したのでしょうか?。

それは以下に述べる理由からですが、当時の金額で 20 億 ドル ( 7 千 2 百億円 ) という巨費を投じて作った原爆で、ニューメキシコ州にある原爆実験場であった トリニテイーサイト の砂漠の砂を、昭和 20 年 ( 1945 年 )7 月 15 日の第 1 回原爆実験に続き、2 度目、3 度目の実験で空中高く無駄に吹き飛ばすよりも、日本の人口密集都市に投下して、そのすさまじい 破壊力を直接人体で実験し、確認するため でもありました。

[ 対 ソ連戦略上の理由から ]

原爆投下は米国にとって第 2次大戦後の国際政治情勢を視野に入れた、ソ連への軍事的優位性を示す為の デモンストレーションであり、核兵器という新しい兵器の実験に過ぎなかったのです。
歴史学者である マーチン ・ シャーマンは

原爆は予期される戦後の対立において、ソ連を打ち負かす最大の切り札であった。 ( 著書、破滅への道、原爆と第 2 次大戦 )
と述べています。 歴史学者 バーンスタインの分析によれば、
 ソ連を威嚇すること が根本理由であり、ソ連の影響力が日本、満州 ( 中国東北部 )、朝鮮、中国に及ぶことを阻止するために、ソ連が アジアでの戦争に全面的に参加する以前に、核兵器の使用によって日本を降伏させる戦術をとった。
としています。
 つまり原爆は日本に対してではなく、 ソ連 ( 当時 )に対する威力誇示 のために使用したのでした。さらに付け加えれば投下した最大の理由は、 日本からの原爆による報復攻撃を受ける可能性が ゼロ だからでした。

4:有色人種に対する蔑視、偏見から

ルーズベルト大統領 ( 当時 ) の主席補佐官 ウイリアム ・ レーヒー提督は、開戦後間もない昭和 17 年 ( 1942 年 ) 1 月に出した覚え書きの中で

日本の野蛮人 と戦う際は、かつて戦争 ルール として認められていたことを全て放棄しなければならい。
という当時米国内で言われていた言葉を引用しました。
[ 原爆投下 決断の理由 ]

トルーマン米大統領は ポツダムにおける対日戦争終結のための会議に出席中に原爆実験成功を知り、それを日本に対して使用することを直ちに決断しましたが、その際の日記に
このことは遺憾であるが必要なことなのだ。なぜなら 日本人は野蛮人であり、無慈悲、残酷、狂信的だから
と記していました。相手を野蛮人と見なせば、又そういう理由にすれば何をしても許されるという、人種差別、蔑視、偏見に基づく 一方的な考え方でした。
1927 年に大西洋単独無着陸横断飛行をした リンドバーグの 「 第 2 次世界大戦日記 」 によれば、

我々には勇敢な行為であっても、彼ら ( 日本兵 ) がそれを示すと 狂信的な行為 ということになる。我々は声を限りに彼らの残虐行為をいちいち数え立てるが、その 一方で 自らの残虐行為 を包み隠し、ただ単なる報復措置として 大目に見ようとする 。
と述べていました。

[ 投下の言い訳 ]

戦争終了後に トルーマン大統領は原爆投下により、非戦闘員を大量虐殺した倫理性を問われて次ぎのように答えました。
日本上陸作戦で失われる 百 万人以上の米軍の犠牲を回避し、戦争を早期に終結させるためであった。
しかし前述の マッカーサー報告書の 「 オリンピック作戦では、沖縄戦以上の損害は出ない 」 とする予想とは大きく食い違っていました。 「 戦争を終わらせる 」 とは美しい言葉に聞こえますが、その実態とは敵に勝つことです。
敵に勝つために 作りたての原爆 ではなく、 同じ理論からすれば 米国が以前から多数所有していた 毒 ガス を使用しても良いことになります。米国は日本の 200 以上もの都市 を空襲しましたが、その際に 「 毒 ガス 」 を使用していたらもっと早期に戦争が終わったはずでした。なぜそうしなかったのかは、第 1 次大戦の際に ヨーロッパ戦線で 「 毒ガス 」 による死者が多数出たため、「 毒 ガスの使用 」は「大量殺人兵器の使用を禁止する」戦争法規に違反し、ヨーロッパ諸国の不評を買うからでした。

「 原爆 」 は大量殺人兵器として 「 毒 ガス 」よりも瞬時に焼き殺す為に、 より人道的な兵器 であるとでもいうのでしょうか ?。実は当時の金で 20 億 ドル( 敗戦後の為替相場で換算すると、7,200 億円 )もの巨費を投じて作り上げた原爆を、日本が降伏する以前に、人間以下とみなされていた 有色人種に試したかった からでした。

( その 1 )
東京裁判の際に オランダの代表判事をつとめた レーリンク ( 後述 )によれば、アメリカが日本に原爆を投下した理由について

ナチス ・ ドイツが ユダヤ人を人間として扱わなかったように 、 米国も 日本人を人間として扱わなかったからだ
さらに 連合国の国民 ( 白人 ) は有色人種を、昔から 人間以下とみなすように教育されてきた 。

有色人種である 日本人 は人間以下の ( 黄色い猿 ) であると、トルーマン大統領をはじめ政府、軍の高官、科学責任者が思っていたからこそ、広島、長崎で 数十万人を 一瞬にして 焼き殺す ことができたのだ---しかも 2 度までも。

と述べています。

( その 2 )
原爆開発を担当していた ロスアラモス研究所から原爆投下作戦を指揮するために、原爆搭載機の発進基地であった テニアン島に呼び寄せられた ウイリアム ・ パーソンズ大佐も、投下後の記者の インタービューに答えて、

ジャップがひどい目に遭うことについて、 特別な感情はなかった
と語っていました。
つまり相手を 自分と同じ人間であるとは全く思っていなかったので、 10 万人~20 万人 の人達を残虐な方法で 一度に焼き殺しても、可哀想だとか罪の意識を全く感じなかったのでした。教育の無い連中ならばともかく、ある程度の教育をうけていながら、当時の政府指導者を含む アメリカ人 ( 白人 )は有色人種に対して、これほどまでの蔑視、差別感情、思い上がりをしていたのでした。

( その 3 )
当時の アメリカの雑誌 タイムの記事によると、

普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、 人間であることを示すような点はどこにもない
とありました。

( その 4 )
第 2 次大戦開始直後から、米国政府は国内に住んでいた 11 万人 を越す日系 アメリカ人を内陸部に設けた 10 ヶ所の強制収容所に収容しましたが、彼等の 三分の 二 は米国生まれの米国育ちで、もちろん 市民権を持つ 者達でした。

同じ敵国でありながら、ドイツ系 アメリカ人、イタリア系 アメリカ人に対しては強制収容の対象としませんでした。これは米国の先住民である インデアンに対して彼等の持つ土地を収奪するため、人里離れた場所に インデアン居留地 ( リザベーション ) を作り 強制隔離した政策 同様、長年の有色人種に対する蔑視、差別政策の延長線上から取られた措置でした。

( その 5 )
駐日 アメリカ大使だった ライシャワー博士の妻 ハル夫人の自叙伝によると、昭和 36 年 ( 1961 年 )に シンガポールを訪れた際に、当時 シンガポールで最も格式の高い ラッフルズホテルに宿泊しようとしたところ、 ホテル側から白人である博士の宿泊はよいが、 日本人である ハル夫人の宿泊は ダメだと断られた ので博士が猛烈に抗議をしたとありました。

戦後 16 年も経ったその当時でさえも、戦前から続く イギリス人の有色人種に対する蔑視、人種差別 はそれ程ひどかったのです。ヨーロッパや米国の 一流 ホテルや レストランでは、その当時たとえ予約をしても チェックインの際に、満室あるいは予約を受けていない等を口実にして、如何に社会的地位が高く、立派な人物でも有色人種である限り宿泊、飲食は断わられるのが普通でした。

( その 6 )
その当時第 3 代目の国連事務総長 ( 1962~1971 年在職 )に選ばれ、ベトナム戦争、中東問題などの重要問題に臨んで国連の威信を高めた、ビルマ人外交官の ウ ・ タント 氏 ( U Thant 、1909~1974 年 ) も人種差別を受けた被害者の 1 人でした。

ある国の国連大使が ニューヨークにある超高級 ホテル ( ウオルドルフ ・ アストリア ・ タワーズ ) で パーテイーを催した際に、ウ ・ タント事務総長が招待状をもらい出席しようとしたところ、ホテル側が 有色人種を理由に彼の入館を 拒否した のでした。

この事件に対して米国政府に抗議の書簡を送ったのに対して、自由、平等を標榜する米国は、ホテルの態度には遺憾に思うが、私企業である ホテルや レストランの運営方針については、政府の権限が及ばない旨の回答を寄せただけでした。( ウ ・ タント回想録 )

( その 7 )
アメリカの唱える自由とは 白人だけの自由 であり、同じく平等とは 白人の間だけの平等 でした。バブティスト派の青年牧師であった マーチン ・ ルーサー ・ キング ( Martin Luther King Jr. ) 牧師 ( 黒人 ) が公民権運動に立ち上がるきっかけとなったのは、選挙権をはじめ長年にわたる黒人に対するすさまじい法律上の人種差別を、 奴隷の子孫 に対する当然の処遇である として、容認してきた米国政府の人種差別政策に反対するためでした。しかし彼は 1968 年 ( 昭和 43 年 ) に、人種差別主義者によって演説中に銃で暗殺されました。

( その 8 )
私自身昭和 32 年 ( 1957 年 )から 2 年間米国の海軍飛行学校に留学し、南部の フロリダ、アラバマ、テキサス州で飛行訓練を受けましたが、その当時鉄道の車内や待合室は勿論、グレイハウンドの長距離 バスの待合室、トイレ、海水浴場の砂浜に至るまで 公共の全ての場所 は、 白人用の、White Only と 黒人 ( 有色人種 ) 用の、 Colored Only とに区別の表示がされ、厳格に分離されていました。

欲望という名の電車 ( The car named desire ) という映画の舞台にもなった、Deep South ( 南部の中の南部 ) といわれる人種差別の強い ルイジアナ州にある ニューオルリンズの市内電車の車内は、前方が白人席で後方が黒人 ( 有色人種 ) 席に分けられていました。その境界には木製の仕切り板があって、両人種の乗客の混雑具合によってその仕切り板を車掌が前後に移動し、スペースを調節することで、 白人黒人分離の原則 を貫いていました。

ローザ・パークス 

バスでは黒人が後方に座り、前方から座る白人の中に立つ客があった場合は、 黒人は白人と一緒に 二人掛けの座席には座ることができず 、誰にいわれなくても立って 白人に席を譲るのが南部社会での 常識 でした。 バス車内の掲示 COLORED SEAT FROM REAR ( 有色人種は後方に座れ ) に注目。

ところがある日、そうしなかった黒人女性が現れましたが、N A A C P ( The National Association for the Advancement of Colored People 、全国黒人向上協会 ) の書記を勤める 42 才の ローザ ・ パークス ( Rosa Parks ) でした。1955 年 ( 昭和 30 年 ) 12 月 1 日の夕方、アラバマ州の州都 モンゴメリーで、バスの中で白人に席を譲らなかったという理由で彼女は警官に逮捕されました。

この事件が契機となり長く全米を揺り動かす黒人による、バス ・ ボイコット運動に発展しました。その結果 1956 年 ( 昭和 31 年 ) 12 月に連邦最高裁から バス会社に対して、 車内での人種隔離禁止命令 が出されて、黒人側の勝利に終わりました。

黒人用水飲み 

しかしその当時、黒人 ( Colored ) は大学を卒業しても知的職業からは閉め出され、肉体労働しか与えられず、黒人の失業率も高く、環境の悪い黒人専用居住地区に住み、黒人専用の レストラン、床屋、商店、教会などを利用していましたが、それが敗戦 ( 1945 年 ) 後の日本人に 自由と平等の国 と教え込まれた アメリカの真の姿でした 。

写真は水飲み場 の様子ですが、白人用 ( WHITE ) には冷水器が設備されていて冷水が飲めるものの、黒人用 ( COLORED ) のものは単なる水道管に直結されたものでしたが、これを見れば有色人種に対する厳しい人種差別の実態がよく分かります。

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( その 9 )
ジャマイカ移民の子 ( 黒人 )として ニューヨークの貧民街で生まれ、市立大学の夜間部を卒業して軍隊に入り、1990 年の湾岸戦争当時 アメリカ軍人の トップに昇進して統合参謀本部議長を勤め、現在は国務長官である コリン ・ パウエル によれば、1960 年 ( 昭和 35 年 ) 代の人種差別について
軍隊は以前よりも民主的になっていたが、一歩兵舎の外に出ると古い南部の世界に逆戻りした。 ジョージア州 コロンバスにある ウール ワース ( Woolworths ) の スーパーマーケット に行けば欲しい物は何でも買えたが、 有色人種が白人の食堂で何かを食べることは出来なかった 。
ベトナム戦争から帰国した私は、アラバマ州にある フェニックス ・ シティの ハンバーガー ・ ショップで 入店を断られた 。陸軍将校であったにもかかわらず、警察官には 「 小僧 」と呼ばれ、「 町から出ていけ 」とまで言われた。

デパートでは商品を買うことができたが、そこには 有色人種専用の トイレは無く、 黒人は白人専用の トイレを使えなかった 。

繁華街の通りを歩くことはできても、有色人種の男性は白人女性の顔を見るのは御法度だった。教会も遠くにある 黒人専用の教会 にしか行けなかった。

車で旅行する時にはどこの ガソリン ・ スタンドでも白人専用 トイレだけで、われわれ ( 有色人種 )が使用できる トイレが無かった。やむなく道端に車を停めて、木陰で用を足したこともあった。( 自伝、コリン ・ パウエルより )

( その 10 )
アメリカ人が ドイツ人を憎むには、彼等のしたことを学ばなければならないが、 ジャップに対しては 憎しみが自然と湧いてくる 。これはかつて インディアン達と戦った時と同様に、自然な感情だ。( ライフ誌の記事より )

( その 11 )、フランスの人種差別
人種差別は米国だけではありません。血筋、家柄、貧富による社会的階級が今もなお厳然と存在する ヨーロッパにおいて、英国や オランダに比べて人種差別が少ないといわれている フランスでさえも、有色人種に対する差別がおこなわれています。

パリの観光をする日本人もよく利用する セーヌ川の観光遊覧船 バトー ・ ムッシュの ディナー ・ クルーズでは、日本人などの有色人種の客を入り口近くの 「 良くない席 」 に座らせ、白人客は奥の席に案内されます。パリの 四つ星 ホテルなどでは、ホテルの 「 格式を保つ 」 という理由から有色人種の国からの客を、予約の段階で極力制限するのだそうです。
オテル ( ホテル ) ・ ニッコー ( 日航 )ド ・ パリのような日系の ホテルでさえも、日本人客に対する従業員の冷淡な対応 ( 注:1参照 ) から、日本人客を敬遠する営業姿勢が感じられます。

三つ星 レストランでは有色人種の客 ( 日本人が大部分 ) が増えると、店の上品な雰囲気が失われてしまい、 店の格式が下がる のを恐れて日本人の予約を断る店もあります。それ以外の レストランでも通りから見える窓際の良い席や店内の目立つ場所に、有色人種の客を座らせないのは レストランにとって昔からの常識です。

ホテルの フロント係りが部屋を割り当てる際に、同 一料金でも環境の悪い部屋を有色人種に割り当てるなどの行為はよく見うけられますが、日本人は差別に気が付かないか、あるいは気が付いても言葉の障碍から、ホテルの部屋や レストランでの席の変更要求を言わずにいるのが実状です。

フランス語や英語が話せない客 ( 多くの場合非 ヨーロッパ系 )は、「 ここはお前にとってお門違いの場所だ 」 と、一流 レストランや ホテルの従業員からも態度で バカにされます。

注:1)
日本航空が経営する パリの ホテルでのこと、ある日本人旅行者が胸の名札を見て日本人の フロント係りに日本語で尋ねたところ、その男は フランス語で返事をしたそうです。君は日本人なのになぜ日本語で返事をしないのかと文句を言ったところ、 日系の ホテルにもかかわらず フランス語か英語を使うように、上司から指示されている との返事でした。
キリスト教も人種差別に一役

キリスト教の教義に依れば神が自分の姿に似せて人間を作ったとされますが、肌の色が白い白人は、より神に近い存在なのだそうです。それに対して、黒人とは神が奴隷として作り、白人に賜ったものだと考えられていました。

注:)旧約聖書
白人達は神も人種差別を認めているとして、旧約聖書の創世記、9 章の 21 節~27 節を根拠に主張しました。

「 カナン は呪われよ。彼はしもべの下僕 ( しもべ )となって、その兄弟たちに仕える。」また言った。「 セムの神、主はほほえむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神は ヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ。」
白人聖書学者の解釈によると、セムは イスラエル人の祖、ヤテベは ヨーロッパ人の祖、 ハム は アフリカ系人種の祖となったのだそうです。品性下劣だとして ノアはその子 ハム を嫌いました。 ハムの子 カナン は神のしもべ ( 人間 )の下僕となれとノアは宣告しました。
白人牧師たちは黒人を カナン に見立てて黒人は下僕に生まれついた人間であり、白人は生まれながらにして彼等の主人であると説きました。そして白人達は子供の頃から、親や学校、教会、社会から

有色人種 ( 黒人、黄色人種 ) とは神の創造物の 一つではあるが、人類的尺度から見れば白人よりも かなり下等な生き物 ( Sub Human ) である。故に彼等にはそれに ふさわしい扱い をすべきである
という人種差別肯定説を教わっていたのです。

注:)ジョン万次郎
漂流記で有名な土佐中浜出身の万次郎は 1841 年に 14 才で漁船に乗組み土佐を出航しましたが、嵐に遭い遭難して八丈島の南にある無人島の鳥島に漂着しました。幸運にも アメリカの捕鯨船に助けられて米国に行き、ホイットフィールド船長の好意で家に寄宿させてもらい、学校にも通わせてもらいました。
船長が万次郎を連れて近くの ユニオン派教会に行ったところ、人種的偏見から万次郎の受け入れを教会が拒否しました。そこで船長は万次郎の受け入れを認めてくれる ユニテリアン 派教会に、止むなく所属を変更したという出来事がありました。

その当時から有色人種に対する蔑視、偏見は、 教会を含めて 白人社会に広く行き渡っていました。
米国では 1960 年代に始まった キング牧師などの人種差別撤廃運動、公民権運動の結果から、公共の施設における人種差別を禁止するという公民権法の施行により、 表面的な人種差別 は廃止されたものの、 肌の色や人種に基づく偏見と差別は 、 現在も白人社会の中で依然として根強く残っています。

5:人種蔑視に基づく残虐行為

日本軍のおこなった残虐行為については東京裁判以来耳に タコができるほど聞かされてきましたが、それに対して連合国側の将兵は、戦場において国際法を遵守し立派な行動をとってきたのでしょうか?、決してそうではありません。 彼等は有色人種に対する 蔑視から 、日本兵以上に 残虐行為をしてきた のです。それゆえ以下の事実をしっかりと記憶に留めることこそが、非業の死を遂げた多数の 犠牲者の慰霊 につながります。
勝てば官軍、歴史は勝者によって記される という言葉がありますが、これまで戦勝国にとって都合の悪い事実は全て隠され、残虐行為の犯人が戦争裁判にかけらることもなく、敗戦国の兵士の行為のみが誇張されて報道され、責任を追及されていました。

連合国側がおこなった 非戦闘員の無差別大量虐殺、戦場における 捕虜の虐殺や戦闘能力を失った者に対する虐殺以外にも、 戦死者の遺体に加えた冒涜行為 などは日本人の宗教的感覚とは相容れないものであり、その実態は彼等の残虐行為を戦場で体験し、目撃した者が書いた以下の著作にあります。

その中には米軍兵士の残虐行為を目撃した米国人のものも、数多くありました。

(1)、沈没艦船の兵員の運命

昭和 20 年 ( 1945 年 ) 4 月 7 日沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ巡洋艦矢矧 ( やはぎ )など 2 隻、駆逐艦 3 隻が敵の空襲を受けて沈没しました。
「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立った米軍戦闘機の群が 執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」( 矢矧の原艦長の証言 )
「 この悲惨な状況をあざ笑うかのように、 米軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた 。」( 著書、「 伊藤整一 」、大和と運命を共にした第 2 艦隊司令長官 )
これらの残虐行為は最近映画化され評判になった「 男たちの大和 」には、なぜか描かれていませんでした。

同様な残虐行為は ニューギニア近海でもおこなわれました。昭和 18 年 3 月 3 日に起きた ビスマルク海戦 ( 空襲 )の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船 8 隻と駆逐艦 4 隻が敵機の攻撃により沈められましたが、沈没した日本の艦船から ボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり 漂流中の 1 千 名の兵士達に対して 、アメリカと オーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影の カメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。

「 決して男らしいやり方ではなかった 」 と第 5 爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。「 隊員の中には気分が悪くなる者もいた 」。

救命 ボートやその周辺を文字どおり 血の海に変えた その殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが 10 年ほど前に オーストラリアの テレビ局から放映されて、国民に大きなショックを与えました。「 我々は フェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。( 容赦なき戦い、ジョン ・ダワー著 )

ちなみにハーグの陸戦条約第 23 条では、兵器を捨てた自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止していました。

( 2 )、米海兵隊兵士による蛮行

昭和 17 年( 1942 年 ) 8 月 17 日の早朝、カールソン中佐率いる海兵隊は、西太平洋の ギルバート諸島の マキン島にある日本軍前哨陣地を攻撃し、守備隊を全滅させました。しかし彼等が戦場で敵の遺体におこなった蛮行は、アメリカ海兵隊の歴史に恥ずべき汚点を書き加えました。
これが手始めとなり、その後の太平洋各地での戦場から ベトナム戦争に至るまで、米軍兵士による敵の遺体を冒涜する行為は、各地で続けられましたが、いずれも人種的偏見、蔑視に基づく行為でした。

( その 1 )
ルーズベルト大統領の息子で海兵隊大尉の ジェームズ ・ ルーズベルトも加わっていた カールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の 死体を切り刻み、男根と睾丸とを 日本兵の口中に詰め込んだ 。
太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、またテレビの連続番組 ( 戦線、Battle-Line ) の プロデューサーである シャーマン ・ グリンバーグが、20 年後に カールソン隊員の 1 人にその時の模様を ( テレビ で) 詳細に語らせている。その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。

( ジョセフ ・ ハリントン著の 「 ヤンキー・サムライ 」 から )

( その 2 )
マキン島へ救援に赴いた私 ( 谷浦中尉 )は、戦場で妙なことに気が付いた。どういうものか仰向けになった屍体が 15~6 あり、しかもすべて下腹部を露出している。死後 1 週間経っていたため原形は完全に崩れていて、顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
どうしてこんな格好をしているのだろう。被弾して苦痛のあまり無意識に ズボンをずり下げたのか?。アメリカ兵といえば キリスト教徒であり、日本人以上に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった誰 1 人として思いつく者はいなかった。

戦後 50 年経って意外な事実を知り、愕然とした。それは マキン襲撃の際に行われた 海兵隊の蛮行を物語る、翻訳された出版物を読んだからである 。 
( マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英夫著 )

( その 3 )
作家上坂冬子の著書によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は 1 千個 にもなる。彼等はそれで ロウソク立て、灰皿や ペン皿を作ったといわれ、また硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するものが、ロサンゼルスの骨董店で 1 個 25 ドル で売られていた。( 硫黄島いまだ玉砕せず )

( その 4 )、リンドバーグが見たもの
1927 年 ( 昭和 2 年 ) に チャールズ ・ リンドバーグは ニューヨークから パリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に 「 翼よあれが、パリの灯 ( ひ )だ 」の題名で映画化された。彼は 1944 年 ( 昭和 19 年 ) に ニューギニアの米軍基地で陸軍将校として 4 ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「 第 2次大戦日記上巻、下巻 」として出版した。( この本は私が読んだ後に、どういう理由からか絶版になった )

それによると彼は戦場で見たものに ショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、 米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。

たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情の カケラもないことを発見した。

そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、 人間以下の 単なる動物 としか見ていなかった。

さらに ドイツ人が ヨーロッパで ユダヤ人に対して 行ったことを、われわれ アメリカ人は 太平洋で 日本人 に対して行っている と記していましたが、ニューギニア戦線において捕虜となった日本兵の数がなぜ少なかったのか、その理由は以下を読めば納得できます。

Yellow Monkey ( 黄色い猿 )

1944 年 ( 昭和 19 年 ) 6 月 21 日の日記には、日本人捕虜に タバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、のどを 「 真 一文字にかき切った 」というのを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将軍との会話を要約している。残虐行為に対する リンドバーグの異議は、嘲笑と 「 あわれみ 」をもって軽くあしらわれた。
6 月 26 日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、および被弾した飛行機から脱出し パラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。降伏し捕らえられた 2 千 数百人 という日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か 100 人か 200 人に過ぎなかった 。残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。

「 仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう 」と リンドバーグは聞かされた。つまり 黄色い猿 に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった 。

7 月 13 日の日記では、

「 われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することをなんとも思わない。彼等は ジャップに対して、 動物以下の関心しか示さない 。こうした行為が大目にみられているのだ。」
と記されていた。
8 月 30 日に リンドバーグは、中部太平洋 ギルバート諸島にある タラワ環礁を訪ねた。そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。

ある仲間の パイロットから直接聞いた話によれば、後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際に、 彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた 。そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。( 以上、第 2 次大戦日記、チャールズ ・ リンドバーグ著 )

捕虜を取らない、とは

ニューギニア戦線での オーストラリア軍や マッカサー指揮下の第 41 師団は、「 捕虜を取らない 」 つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵 を殺するので有名だった 。
軍事歴史家 デニス ・ ウォーナーは 1982 年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、 オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。

「 しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、部下の大佐が司令官に反論した。
「 私の言うことが聞こえただろう 」 と、両手を挙げた日本兵からわすか数 ヤード離れただけの少将 ( 司令官 )は答えた。「 捕虜はいらない。全員射殺してしまえ 」。そして彼等は撃たれた。

日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、戦時中の日本からの対米宣伝放送 ( 東京 ローズ )では、第 41 師団のことを 「 者、Slaughterer 」と呼んでいた。
終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、 第 41 師団、捕虜を取らず という堂々たる見出しが付けられていた。この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。( 容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授 ジョン ・ ダワー著 )

病院に対する爆撃

昭和 19 年 ( 1944 年 ) 5 月 24 日に ブーゲンビル島 ラバウル基地にあった第 8 海軍病院が、米軍機による攻撃を受けて、 患者、看護婦、医師ら 1,400 名が死傷した 。病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように 赤十字の標識 を大きく塗装していたにもかかわらず、それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。
それ以後日本軍は病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、地下壕や洞窟内部に病院を設営することにした。

遺体を損壊する行為

頭骸骨
日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、米国民の間で戦時中からよく知られていた。

写真は ニューギニア戦線から アリゾナ州 フェニックスに住む恋人の ナタリー ・ ニッカーソン ( Natalie Nickerson、20 才 ) 宛に送られてきた、 日本兵の頭骸骨ですが、受け取る方も受け取る方で、しかも ナタリーは頭蓋骨を見ながら恋人に ラブレターを書いていました。これを見れば人間ではなく 黄色い猿 に過ぎない 日本兵に対する残虐行為は至極当然であり、有色人種に対する蔑視が納得できます。

日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、ジャーナリストの リチャード ・ トレガキスが記録している。

「 ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、それを頂いて ネックレスでも作るかな 」 と 1 人が言う。
「 おれは奴らの耳を持って帰るよ 」 ともう 1 人が宣言する。「 塩漬けにしてな 」。( ガダルカナル日記、1942 年 )
戦後出版された水兵の日記の 1944 年 ( 昭和 19 年 )7 月の記述に、すでに 17 個の金歯を集めた海兵隊員がいて 、その最後の金歯は サイパン島で負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、と事もなげに述べられている。( 容赦なき戦争、ジョン・ダワー著 )
太平洋の激戦地 ペリリュー島および沖縄で、日本兵の死体から

手を切り取って戦果の トロフィーとする、金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、恐れおののく 沖縄の老女を撃ち殺し 、 「 みじめな生活から、解放してやっただけだ 」
と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した。( E ・ スレッジ、生物学者、1981 年に出版の回想録 )

( その五 )
フィリピンの ラグナラ州 カランバには日本兵を収容する ルソン第 1 捕虜収容所があったが、ここは フィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。 米軍の発表によれば収容された捕虜のうち 、戦争が既に終了した昭和 20 年 ( 1945 年 ) 末までに、 栄養失調で死亡した日本兵捕虜は 1 万 2 千人 にものぼった。

もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑になったことは間違いない。しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。

そこには 「 バターンの死の行進 」 に対する 復讐の意図から 、敗戦後も栄養失調状態であった 多数の捕虜 に対して必要な食糧補給をしなかったからである。( 孤島の土となるとも、 B C 級裁判 )

( その六 )
ベトナム戦争においてもかなりの数の アメリカ軍兵士が ベトナム人の頭蓋骨を収集していたが、アジア人が アメリカ人兵士の死体に対してこのようなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるかは、考えてみる価値があるだろう。
( 米英にとっての太平洋戦争、下巻 )

太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、 人種差別に根ざすもの だと英国人 ジャーナリストの ラッセル ・ スーパーは述べています。
「 アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、 気がとがめなかった 。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探している アメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことは シラミ を殺すよりも悪いことではないと言明した。 この残虐性 は 4 ヶ月後に 広島、長崎でその頂点に達する ことになる。」
( 著書、戦艦大和の運命 )

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