元18隊幹事(元杉並の隊幹事)です。…何年、何十年戦っているのですか?あと何年戦えば、達成するのですか?:元顕正会ブログ

<人類は絶滅の危機に瀕している><残された時間は少ない><広布最終段階>…全て浅井会長の《作り話》です。よく考えて!

【29】何度も変わる広宣流布の日と目標

2018年07月07日 | 29】何度も変わる目標と広宣流布の日
●浅井会長は、
「2020年代こそ広宣流布の決戦場である」(H30.6.5号)
「二百万達成の重大意義」(H30.6.5号)
「今、核兵器を使用しての第三次世界大戦が刻々と近づきつつある」(H30.5.25号)
「核を用いてのこの大闘諍が始まったら。人類は絶滅する。日本も亡ぶ」(H30.5.25号)
等々…。
昭和57年以来、約40年、全く実現しないこの種の宣言を、何度繰り返してきた事でしょうか。

○浅井会長の宣言を検証します。

■【武道館23回総会(昭和57年)・浅井会長宣言】

「あと二十五年で広宣流布できなければ、核戦争によって日本も世界も絶滅する。日蓮大聖人の御命令はすでに下っている。ここに妙信講は本日より日蓮正宗顕正会と名称を改め、背水の陣で一国広布に出陣する」(冨士昭和五十七年十月号)

【検証】二十五年後の、平成19年
⇒広宣流布できず、核戦争によって日本も世界も絶滅するとの宣言。全く現実になっていません。


■【武道館24回総会(昭和61年)・浅井会長宣言】

「ここに大聖人様より発言の資格を給わり(中略)一国広布の最終地点を見据えた具体的な目標を、発表させて頂くものであります。
私は、広宣流布までの目標を、三つの段階に分けて考えております。
第一の目標は百万の達成であります。
第二の目標は一千万。
そして第三が一億までの弘通であります。
まず第一の目標百万を、私は今後十年間で成しとげようと決意しております。
そして百万から一千万までを次の七年で成しとげる。
さらに一千万から一億の弘通を、次の七年で成しとげる。
これが私の決意であります。非力の凡夫の成し得るところではないが、御本仏の御守護を頂けば必ず成しとげられると、私は確信しております。(中略)もうすでに時は来ております。
いま広宣流布ができなければ日本は亡びる。世界は亡びる。」(冨士昭和六十一年四月号)

◎第一の目標  百万 ・・・・・ 平成 8年(昭和61年から十年)。
◎第二の目標 一千万 ・・・・・ 平成15年(平成 8年から七年)。
◎第三の目標  一億 ・・・・・ 平成22年(平成15年から七年)。
【検証】平成22年の一億
⇒いま広宣流布できなければ日本は亡びる。世界は亡びるとの宣言-実現していません。


■【昭和62年度幹部大会・浅井会長宣言】

「この百万をいつまでに達成するかについては、昨年の武道館大総会ですでに定めております。この路線にいささかの変更もない。あと九年(平成8年)で必ず成し遂げます。(中略)大総会は、この百万達成までは開かないことにしたい。それまでの間は、毎年本年のような幹部大会を開いていきたいと思っております。(中略)次の第三回大総会は、顕正会が百万を達成して第三の戦いを開始する時に、開催する以外にはありません。(中略)ここに、大聖人の御遺命を奉ずる仏弟子五万人を結集し。第三の戦い開始の大儀式を行いたい(中略)この五万人の大総会こそ、まさしく顕正会が、大聖人様のお待ち遊ばす法戦場に到着したことを顕すものであります。」(冨士281号)

【検証】平成8年の百万達成
⇒必ず成し遂げると宣言した百万、実現せず。

⇒「第三の戦い開始の大儀式」も開催不能となりました。


●【平成9年8月度総幹部会・浅井会長宣言】
「私は前々から『大聖人様のお待ちあそばす大法戦場』ということを、繰り返し云ってまいりました。まさしく本年(平成9年)七月十六日以降の戦いこそ、この大法戦場そのものであります。(中略)そして八月三日の記念幹部会で私は、大聖人様に対し奉り、謹んで一千万の大法弘通をお誓い申し上げた。(中略)あと十五年、いや、限りなくこの時間を縮めていきたい。(中略)顕正会の戦いは、大聖人様の大悲願力のお手伝いをしているのであれば、必ず事は成就する。大聖人様の御守護により、必ず大事に間に合うのであります」(顕正新聞平成9年9月5日号)

●【平成9年9月 仙台会館開館式・浅井会長宣言】
「すでに大聖人御照覧の、御馬前の戦いであります。(中略)この一千万を、私は十五年(平成24年)以内で成し遂げたい。さもなければ他国侵逼に間に合わない」(顕正新聞平成9年9月15日号)

●還御を祝し奉る記念大会(平成10年9月)
「顕正会の会長として、謹んで大聖人様に誓い奉る。一千万は、あと十五年、平成二十五年までに必ず成し遂げること、堅く誓い奉る。」(折伏理論解説書改訂版)

【検証】平成25年の一千万
⇒元々平成15年達成だったハズの一千万。平成25年と10年延ばしたが、実現せず。
⇒他国侵逼の影すらない。


◆「顕正会の戦いは、大聖人様の大悲願力のお手伝いをしているのであれば、必ず事は成就する」
と浅井会長は宣言した。
⇒成就しなかったという事は、大聖人様のお手伝いではなかった。ウソだったという事です。

◆「大聖人様の御守護により、必ず大事に間に合うのであります」
⇒間に合わなかったということは、大聖人様の御守護は無かったということです。
大聖人様のお名前使ったハッタリだったということです。

◆「すでに大聖人御照覧の、御馬前の戦いであります」
⇒大聖人の仏法にまったく存在しない「御馬前の戦い」。文証・道理も無い浅井会長の作り話であることが、証明されたのではないでしょうか。


■平成30年7月現在、200万と組織で騒いでいる様子がうかがえます。
しかし、顕正会員の皆さん、浅井会長は。200万が出来ても同じことを繰り返すだけです。
浅井会長の言う広宣流布はニセモノ。
どれだけ苦しい戦いをしても、ゴールは有りません。
過去の浅井会長の宣言が証明しています。

200万と言っても、それだけの会員数がいるのではないことは、
皆さん実感としてわかっていると思います。特に幹部の方。

第二次安倍政権も短命ではありませんでしたね。

早く安らぎを求めて下さい。
日蓮大聖人の仏法は、本物の日蓮正宗総本山富士大石寺にしかありません。
日蓮正宗 寿命寺でお待ちしています。



浅井会長は、恐れ多くも勝手に大聖人様の御名を利用しているのに過ぎないのです。
宗教法人顕正会は、日蓮大聖人の御遺命、広宣流布とは全く関係がありません。
大聖人様を語り、冨士大石寺を詐称し、世間を欺(あざむ)く謗法の集団です。

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【28】会長の言う不敬の御登山は本当か?

2018年04月29日 | 28】会長の言う不敬の御登山は本当か?
御登山について
浅井会長は、
「距離は関係ない遥拝勤行でいい」と、何度も己義を刷り込み、
“大御本尊様への御参詣”から遠ざかるように、洗脳を繰り返しています。
顕正会員が、“大御本尊様への御参詣”に、目が向くことがよほど怖いのでしょうか。

●浅井会長の言っていることを検証します。

■浅井会長は、
内房尼御前(うつぶさのあまごぜん)の例を挙げて、
「これを以て思うに、御遺命に背いたままの登山が」(顕正新聞H30.4.25号)
などと、
「御遺命に背いた」という話と合わせ、
「大聖人様の御心に叶うわけがない」(同)として、顕正会員への洗脳を続けています。

○「御遺命の背いた」などという事実はありません。
浅井会長の作り話(*)です。

内房尼御前について、大聖人様は、
『氏神へ参りてあるついでと候ひしかば、見参に入るならば定めて罪深かるべし。
其の故は神は所従なり、法華経は主君なり。
所従のついでに主君への見参は世間にもそれ候。
其の上尼の御身になり給ひてはまづ仏をさきとすべし、
かたがたの御とが(失)ありしかば、見参せず候。』(御書1204頁)

主君である大聖人様への見参が、所従である神のついでとあっては、
定めて罪が深いと仰せられ。
『尼ごぜんは親のごとくの御としなり。御なげきいたわしく候ひしかども、
此の義を知らせまいらせんためなり。』(御書1205頁)

『此の義を知らせ参らせんため』との
大聖人様の深い御慈悲の上からの御振る舞いで、
浅井会長の「御遺命に背いた」などという作り話(*)とは、
全く関係ありません。
「御聖意に背く登山」、との作り話(*)を、
「大聖人様の御心に叶うわけがない」
と、無理矢理、内房尼御前の例にこじつけているのです。

■浅井会長は、千日尼御前御返事の御文を切り文にして、隠している箇所があります。
-何度も「雷門の鼓…」の御文を挙げるが、この前にある御文を示さない。
この前にある御文をあえて隠(かく)して示さないのです。

この浅井会長の、前の御文を隠して「雷門の鼓…」から示し続ける洗脳が功を奏し、
千日尼の夫がどなたであるか、回答出来る顕正会員はほとんど居なくなってしまったのではないでしょうか。

千日尼の夫は、あの阿仏房です。
阿仏房は、九十歳のご高齢にもかかわらず、文永十一年から、弘安元年の五年間に
佐渡から身延まで三度も御登山されています。
山賊海賊がいる中を片道三十日かかる道中、
しかも御供養の品を背中いっぱいに背負っての登山です。
一回々の登山が命がけで有ることは容易に想像できます。
阿仏房は大聖人様から阿仏上人と上人号を賜るほどの信心の方。
夫である阿仏房を佐渡から送り出す妻の千日尼も深い信心の志を持たれていました。
このような背景の中で、大聖人様から千日尼が賜った御書が、
千日尼御前御返事です。
浅井会長が、切り文にして隠した「雷門の…」の前にある御文を拝しますと
「佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に、
女人の御身として法華経を志しましますによりて、
年々に夫を使いとして御訪(とぶら)ひあり。
定て法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏、
其の御心をしろしめすらん。
譬(たと)へば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾(しゅゆ)に影浮かび、
雷門の鼓は千万里遠けれども打てば須臾に聞こゆ。
御身は佐渡の国にをわせども心は此の国に来れり。仏になる道も此くの如し。」
(平成新編1290頁)と。
佐渡の国より身延までは山海を越えて千里に及ぶ、女人の身として志し、夫の阿仏房をして大聖人様を訪ねられた。御身は佐渡の国にあっても、心は夫の阿仏房と共に大聖人様の元に来られた。…という事です。

【破折】
「心こそ大切」なのだから、遥拝勤行でいいのだというのであれば、
なぜ阿仏房は、命がけで三度も御登山をしたのでしょうか。
浅井会長がは、文証・道理をもって説明できていない。
会員をダマすための己義です。違いますか。

阿仏房は、弘安二年91才で亡くなられておられます。そ前年、90才の時に三度目の御登山をされています。
鎌倉時代当時の、90才です。御登山がいかに大事か、推して知るべし。ではないでしょうか。

●御登山について、
大聖人様は、
あの強信の四条殿にも、
「然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障を定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(御書1501頁)
と仰せられています。毎年、度々(たびたび)の御登山をされている四条殿に、
さらに、「いよいよ、はげむべし、はげむべし」と勧められています。

また上野殿には、
「参詣遥(はる)かに中絶せり。急ぎ急ぎ来臨を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし。」
(御書1569頁)
と仰せられています。

日寛上人も、寿量品談義の中で、
「志有らん人は登山して拝したまへ」(富宗10巻131頁)
と仰せられています。

-御登山は大聖人様、先師上人の仰せです。

浅井会長自身、
『およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として「死ね」ということであります』(冨士271号「試練と忍従」36頁)
と、言っている。

浅井会長は「御遺命に背いた」「御聖意に背く登山」 などとウソの話を作り上げ、顕正会員を登山・御開扉をさせないようにしている。
浅井会長の言葉を使えば、御登山・御開扉を拒否するということは、
信心が死んでしまう。という事です。

顕正会員に御開扉を断絶させることによって、大御本尊様、日蓮大聖人様への本当の信心を死なせている。ということです。
違いますか?

浅井会長、ウソも百篇言えば本当になるとばかりに、いつまでも会員をダマし続けてはいけません。


(*) 浅井会長の作り話 … 下記記事を参照して下さい。
(【1】国立戒壇の内容を謀る参照☜クリックすると飛びます)
(【14】キリスト教神父招聘の実態☜クリックすると飛びます)
(【15】宗門は大聖人の仏法を曲げてしまった☜クリックすると飛びます)
等、その他の記事も参照してください。

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【27】浅井会長の言う「国教」は正しいのか?破折

2018年04月16日 | 27】浅井会長の「国教」は本当?(2)
"国教”の意味について
●一般では、
「中世ヨーロッパにおけるキリスト教の国教化、すなわち国家権力による異教禁圧の国教」。
●日淳上人の国教樹立も、
広宣流布が実現され、「上一人より下万民に至るまで」「日本一同に南妙法蓮華経と唱へる」状態、
すなわち、
異教禁圧など全く必要のない、一般の“国教”とは意味の違う“国教樹立”である。
と、前回書きました。

-これ以外に“国教”の定義があるのでしょうか。

●浅井会長が、基礎教学書(P355-8行目)に、“国教”の定義を、
『「国教」とは、国家が宗教の正邪にめざめ、国家安泰・衆生成仏のために国の根本の指導原理として用いる教法である』
と、している。

-もっともらしく聞こえるが、全くのウソたばかりです。

浅井会長は、
日達上人を誹謗するために、
“国教”の意味を勝手にでっちあげ(または思い込み)顕正会員を洗脳しています。
-どこに、こんな“国教”の定義があるのか!

このように自分で勝手に定義した、でっちあげの“国教”理論で、
日達上人を誹謗(基礎教学書P354~5)しているのです。

“国立戒壇”も同様です。
(国立戒壇の名称と内容を参照☜クリックすると飛びます)

それとも、宗教法人「顕正会」では、
浅井会長の“国教”が、顕正会の教義なんだ!
独立の宗教法人だからどう主張しようと勝手だろう!
と言い張るのでしょうか。

●いつまでも浅井会長の“たばかり”を信じていてはいけません。
浅井会長の教義は、日蓮大聖人の仏法ではありません。
「似て非なるもの」です。
唯授一人の御相承を受けた猊下を誹謗・否定して、戒壇の大御本尊を信じるんだという、
ネジ曲がった思想教義なのですよ、浅井会長の教義は。
このようなネジ曲がった思想では、
戒壇の大御本尊を信じているようで信じていることにつながりません。

皆さん、人を救っていこうという気持ちを持たなければ即身成仏につながりません。
浅井会長も救われるべき人です。
浅井会長を盲目的に礼讃しているだけでは、自らも、浅井会長も救われません。


以下、前回の記事より再掲します。
・キリスト教の国教化
・創価学会第三十三回総会における日達上人御講演
・日淳上人 新年の言葉

キリスト教の国教化

392年、ローマ帝国のテオドシウス帝が行った、アタナシウス派キリスト教以外の宗派、宗教を浸漬する措置。
 ローマ帝国は、313年にキリスト教の公認に踏み切ったが、当時はその教義はまだ定まっておらずにさまざまな解釈が存在し、また、帝国領内にはマニ教やミトラ教などの異教の信仰も盛んであり、さらに古来のローマの神々への偶像崇拝や伝統的な儀礼も残っていたので、帝国の宗教統制上、かえって混乱が生じてきた。
 そこで皇帝テオドシウス帝は、381年に開催された第1コンスタンティノープル公会議において、最終的にアタナシウス派の三位一体説をキリスト教の正統として確定した。
 さらに、392年、テオドシウス帝は、アタナシウス派キリスト教以外の異教の祭礼と供犠を法的に禁止した。この勅令によって、アタナシウス派キリスト教はローマの唯一の宗教、つまり国教とされたのである。それまでの伝統的なローマの神々や、ミトラ教の太陽神信仰などは禁止されることとなった。
オリンピア競技会の終わり
 キリスト教国教化に伴い、393年にローマ領内のギリシアで、ゼウスを主神とするオリンポス十二神の祭礼が行なわれると、神殿の財産を没収して異教禁圧への断固とした姿勢を示した。これに伴いギリシアの古代オリンピア競技会も終わりを告げた。
(世界史の窓:http://www.y-history.net/appendix/wh0103-146.html)



創価学会第三十三回総会における日達上人御講演(S45年5月3日)

『わが日蓮正宗において、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために
  一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。
 日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。
 明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。
 今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。
 創価学会においても、かつて「国立戒壇」という名称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるゆえに、その“国立”なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。
 今日、世間の人々が“国立”と云う名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、当たらないと思います。
 われわれは、ただ日蓮大聖人の仏法を広宣流布するにあるのであります。そして、大聖人の仏法を信じた人々は、本門戒壇の大御本尊を、わが総本山大石寺において拝し奉り、即座に即身成仏の本懐を遂げることがもっとも大切であります。
 その本門戒壇の大御本尊は
  日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき、色も替わらぬ寿量品の事の三大事なり。
と仰せられる大聖人の一身の御当体でありますから、本門戒壇の御本尊安置の所は、すなわち「事の戒壇」であります。』
(日達上人全集第五巻p499)


日淳上人 新年の言葉

『謹んで昭和三十二年の初頭を迎へ、宗門緇素(しそ)自他共々御祝詞申し上げます。
建宗七百五年の新春を仰ぎ、大聖人の正義は愈々(いよいよ)隆昌を遂げ、宗内の僧俗は総力をあげて、遠く南は九州、北は北海道の地に満ち、約五十万の純信なる信徒の結集を見るに到つたのであります。一方には清浄なる供養熱誠は相次各地の新寺道場の建立となつてあらわれ、又懸案準備中の大講堂建設も既に其の着工にかかり、愈々本年こそ一大偉観を整ふ慶運の年を迎えたのであります。
然し密かに国家の情勢を察する時、昨年国連加盟を見ると雖も、未だ猶前途は多難にして其の外交に於いて、或いは国内の政治経済に於いて、乃至は社会秩序たる教育道徳に於いて混乱をつづけ、其の帰旨正義を見ることが出来ないのであります。
ここに於いて大聖人は「仏法は体、世間は影なり、体曲がりぬれば影斜めなり」と仰せある如く、真に国家の現状を憂うる者は、その根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります。
涅槃経に曰く「内に弟子有って甚深の義を解し、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」
茲に宗門の緇素、更賜寿命の新年を慶祝すると共に更に決意を新たにし、各々分に応じ、力に随って、一切の謗法を対治し広宣流布の実現に精進努力せられんことを庶幾ふ次第であります。
一言新年の挨拶と致します。』昭和三十二年元旦(大日蓮)
(日淳上人全集P1502~3)







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【26】浅井会長の言う「国教」は正しいのか?

2018年04月14日 | 26】浅井会長の「国教」は本当?(1)
“国教”について私の所感。
(一度UPしましたが編集しました)

【国教】には語られている意味に次の、(1).と、(2).の二つがあります。
(1).日淳上人が、『昭和32年新年の言葉(※1に全文を示します)』に仰せられた【国教】…(a)。
日淳上人の仰せの【国教(a)】を拝しますと、
-まず、昭和32年当時、国家の情勢・現状を、
『然し密かに国家の情勢を察する時、昨年国連加盟を見ると雖も、未だ猶前途は多難にして其の外交に於いて、或いは国内の政治経済に於いて、乃至は社会秩序たる教育道徳に於いて混乱をつづけ、』
と挙げ、
『其の帰旨正義を見ることが出来ないのであります。』(帰旨:帰り着くべき根幹)
日蓮大聖人の仏法(正義)に帰り着くこが出来ていない状態である。と仰せられています。

-国家が日蓮大聖人の仏法に帰り着くことができていない。とはどういう状態か?
-“広布相”の順を追っていきますと (広布相:広宣流布の相)
①未だ、一切の謗法が対治されてない。
②未だ、広宣流布が実現されていない。
(広宣流布が実現された後)
③国主が此の法を立てられていない。
④王仏冥合されていない。 
⑤本門寺の戒壇が建立されていない。
という状態。

特に「国家」がという場合、
広宣流布が実現された後の、③、④、⑤をイメージする。
-そこで、
『真に国家の現状を憂うる者』とは、
③国主が此の法を立てらていない、
④王仏冥合されていない、
⑤本門寺の戒壇が建立されていない。
という現状を憂えている人、ということです。
-ここで大事な事は、
まず、“広布相”の順として、
①未だ、一切の謗法が対治されてない。
②未だ、広宣流布が実現されていない。
という、万民国民の状態が、国家を語る前にあるのです。

-ですから、
『其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります。』
との仰せは、
①一切の謗法が対治され、
「上一人より下万民に至るまで」「日本一同に南妙法蓮華経と唱へる」
②広宣流布が実現される。
-広宣流布が実現した時は、日蓮大聖人の仏法に反対する者はいない。そして、仏法の正邪を認識決裁する。
日蓮大聖人の仏法に反対する者がいる時は、仏法の正邪を決裁することは出来ません。国教樹立することは出来ません。あくまで万民一同が日蓮大聖人の仏法を信じていることが必定です。
すなわち、広宣流布が実現し、③国主が此の法を立てられ④王仏冥合する姿を「国教樹立」と申されている。と、拝します。

・ゆえに日淳上人は、結びの文でこの広宣流布の実現を目指して、
『各々分に応じ、力に随って、一切の謗法を対治し広宣流布の実現に精進努力せられんことを庶幾ふ次第であります。』と、仰せられていると拝します。


(2).世間一般で認識されている【国教】…(b)
『その国の国民が信じるべきものとして国家が認め,法律によって保護などの特権を与えている宗教』(大辞林 第三版)。
ハッキリ言えば、
『中世ヨーロッパで行われた、キリスト教以外の異教を禁圧した国教化』
を連想します。(※3「キリスト教の国教化」参照)一般では、これが【国教(b)】です。

創価学会が当初、言っていた【国教】は、前記(1)の日淳上人がお仰せの、万民が信じ反対する者がいない広宣流布実現の時の【国教(a)】でした。
しかし大事な事は、この万民が信じ反対する者がいない広宣流布実現の時の【国教(a)】の意味は、宗内でしか通用しませんでした。

●日達上人が仰せられた“国教”の否定
学会が政治進出、国会で一大勢力になり国家国権に多大な影響力を持った時、
【国教(b)】とは、共産党や知識人等の世間の人には、中世ヨーロッパにおけるキリスト教の国教化、すなわち国家権力による異教禁圧の国教化と同じものと捉えられ、この異教禁圧の国教化を目的にしているのが日蓮正宗創価学会であると疑惑が生じるに至りました。
しかし、この【国教(b)】は、当然日蓮正宗の教義とはまったく違うものです。
ですから、この世間の言う異教禁圧の【国教(b)】が日蓮正宗や創価学会の目的であると思われてしまったことから、
この世間の言う異教禁圧の【国教(b)】を指して、
日達上人は、
「大聖人の仏法を日本の“国教”にするなどと仰せられていない」
と御指南されているのです。

●日淳上人仰せの【国教(a)】は、
すなわち、議会の多数をもって国家が保護する宗教を定め、法律と国家権力によって、その宗教の信者ではない者も信仰を強要していく【国教(b)】とは違います。

日淳上人が新年の言葉で「国教樹立」(※1)と記述せられた昭和31年~32年初頭の頃は、
信徒数も「約五十万の純信なる信徒の結集を見るに到つた」(※1)との仰せの如くで、共産党なども脅威と感じるほど信徒数ではありませんでした。
創価学会も、政治に進出する以前で、
学会が【国教(a)】や国立戒壇を主張しても、まだ脅威とは見えず政治家や評論家が注目することもほとんどありませんでした。

ところが、年を追うごとに、
政治家や評論家、世間の誰もが予想できなかった勢いで、
創価学会は、急速に拡大していきます。
昭和32年12月、75万世帯を達成。
昭和36年には、200万世帯を達成。
昭和39年の公明党結党直前の時点で、500万世帯にまで拡大。
昭和45年には会員世帯数は750万世帯に達します。
  (…昭和33年から、わずか13年で675万世帯2700万人の増、総数3000万人)

そして、この巨大な会員数を背景に創価学会は政治に進出します。
昭和39年、公明党(S36年公明政治連盟結成)を結成。
昭和40年の参院選で、11名が当選。都議選でも立候補した23人全員が当選。
昭和42年初の衆院選では、25人が当選。
昭和44年の衆院選では、47議席を獲得し、国会では第3党の一大勢力となります。

こうなると、
創価学会が主張している“国教”や“国立戒壇”が、直接、国家権力に結びついてくることが、現実のものとして浮上していました。
創価学会は、昭和30年代から自民党とも選挙協力をしています。
共産党や知識人言論界を中心に、創価学会は日蓮正宗を“国教”にするつもりなのかと、現実の脅威としてマスコミにも注目され、批判を受けるようになりました。
この批判を受け始めた“国教”の解釈は、
・日蓮正宗や創価学会は(1)の【国教(a)】の解釈(しかし一般には通用しない)
・共産党や一般の知識人は(2)の【国教(b)】の解釈です。

この異教を禁圧する【国教(b)】
すなわち、
『議会の多数をもって国家が保護する宗教を定め、法律と国家権力によって、その宗教の信者ではない国民にも、信仰を強要していく』“国教”と捉え、
国会で議決し“国教”を定めるということは、創価学会・日蓮正宗以外の全ての宗教を法的に廃止、戦前の不敬罪(大日本帝国憲法では刑法73~76条に定められていた事実がある)のように処罰するのか…。
と、脅威に見られ世間から批判を受けます。

〇先に述べましたが、
批判を受けた、この異教を禁圧する一般に言う【国教(b)】は、
日淳上人が仰せられた広宣流布実現の時の【国教(a)】とは、まったく意味内容が違うものです。

■繰り返しになりますが、昭和45年5月に日達上人が御講演された創価学会第三十三回総会(※2)は、前年の衆議院選挙で、公明党が47議席を獲得、国会・政界において一大勢力となり、主張していた“国教”“国立戒壇”が世間に注目され問題視されます。
日蓮正宗や創価学会の【国教(a)】は、当初とはまったく意味の違う、異教を禁圧する【国教(b)】と捉えられ、
共産党をはじめとして評論家などから相当の批判を浴びるようになりました。

日達上人が御講演の中で指摘されている“国教”は、
国家権力によって異教を禁圧する【国教(b)】”を指しています。
ですから、学会の総会で
「『一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の“国教”にするなどと仰せられてはおりません」
「日本の“国教”でない仏法に国立戒壇などということはありえない」
と御講演されているのです。

・ゆえに、
「日淳上人が“国教樹立”と仰せになっているのに、なぜ日達上人は“国教”を否定するのか」
などという批判がまったく当たらないのがわかるかと思います。
日淳上人仰せの“国教樹立”の“国教”と日達上人仰せの“国教”では、意味が全く違うのですよ。!!


(※1)日淳上人 新年の言葉

『謹んで昭和三十二年の初頭を迎へ、宗門緇素(しそ)自他共々御祝詞申し上げます。
建宗七百五年の新春を仰ぎ、大聖人の正義は愈々(いよいよ)隆昌を遂げ、宗内の僧俗は総力をあげて、遠く南は九州、北は北海道の地に満ち、約五十万の純信なる信徒の結集を見るに到つたのであります。一方には清浄なる供養熱誠は相次各地の新寺道場の建立となつてあらわれ、又懸案準備中の大講堂建設も既に其の着工にかかり、愈々本年こそ一大偉観を整ふ慶運の年を迎えたのであります。
然し密かに国家の情勢を察する時、昨年国連加盟を見ると雖も、未だ猶前途は多難にして其の外交に於いて、或いは国内の政治経済に於いて、乃至は社会秩序たる教育道徳に於いて混乱をつづけ、其の帰旨正義を見ることが出来ないのであります。
ここに於いて大聖人は「仏法は体、世間は影なり、体曲がりぬれば影斜めなり」と仰せある如く、真に国家の現状を憂うる者は、その根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります。
涅槃経に曰く「内に弟子有って甚深の義を解し、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」
茲に宗門の緇素、更賜寿命の新年を慶祝すると共に更に決意を新たにし、各々分に応じ、力に随って、一切の謗法を対治し広宣流布の実現に精進努力せられんことを庶幾ふ次第であります。
一言新年の挨拶と致します。』昭和三十二年元旦(大日蓮)
(日淳上人全集P1502~3)


(※2)創価学会第三十三回総会における日達上人御講演(S45年5月3日)

『わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために
  一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。
 日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。
 明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。
 今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。
 創価学会においても、かつて「国立戒壇」という名称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるゆえに、その“国立”なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。
 今日、世間の人々が“国立”と云う名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、当たらないと思います。
 われわれは、ただ日蓮大聖人の仏法を広宣流布するにあるのであります。そして、大聖人の仏法を信じた人々は、本門戒壇の大御本尊を、わが総本山大石寺において拝し奉り、即座に即身成仏の本懐を遂げることがもっとも大切であります。
 その本門戒壇の大御本尊は
  日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき、色も替わらぬ寿量品の事の三大事なり。
と仰せられる大聖人の一身の御当体でありますから、本門戒壇の御本尊安置の所は、すなわち「事の戒壇」であります。』
(日達上人全集第五巻p499)


(※3)キリスト教の国教化

392年、ローマ帝国のテオドシウス帝が行った、アタナシウス派キリスト教以外の宗派、宗教を浸漬する措置。
 ローマ帝国は、313年にキリスト教の公認に踏み切ったが、当時はその教義はまだ定まっておらずにさまざまな解釈が存在し、また、帝国領内にはマニ教やミトラ教などの異教の信仰も盛んであり、さらに古来のローマの神々への偶像崇拝や伝統的な儀礼も残っていたので、帝国の宗教統制上、かえって混乱が生じてきた。
 そこで皇帝テオドシウス帝は、381年に開催された第1コンスタンティノープル公会議において、最終的にアタナシウス派の三位一体説をキリスト教の正統として確定した。
 さらに、392年、テオドシウス帝は、アタナシウス派キリスト教以外の異教の祭礼と供犠を法的に禁止した。この勅令によって、アタナシウス派キリスト教はローマの唯一の宗教、つまり国教とされたのである。それまでの伝統的なローマの神々や、ミトラ教の太陽神信仰などは禁止されることとなった。
オリンピア競技会の終わり
 キリスト教国教化に伴い、393年にローマ領内のギリシアで、ゼウスを主神とするオリンポス十二神の祭礼が行なわれると、神殿の財産を没収して異教禁圧への断固とした姿勢を示した。これに伴いギリシアの古代オリンピア競技会も終わりを告げた。
世界史の窓:http://www.y-history.net/appendix/wh0103-146.html





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【25】浅井会長の言う戒壇の事と義は本当か?

2018年02月26日 | 25】浅井会長の言う事と義は本当か?
(UP済みの記事ですが、項目が入り組んでいましたので整理して番号を付与しました)
戒壇の「事」と「義」に関する浅井会長の説明を、『御遺命守護の戦い』を使って、一生懸命弁護しようとしている顕正会員に会いました。
すでに、
「04>もう一つの戒壇の事と義」 (下線の文字をクリックすると該当記事に飛びます)
に述べた通りですが、
もう一度浅井会長の『御遺命守護の戦い』にある解説を検証し、その謀りを破折していきます。
まず、本門戒壇の「事」と「義」は、次に示す①と②があります。
■①『広布の事相に約した』事と義、
    本門の戒壇­-事の戒壇-三大秘法に仰せの戒壇
    >>>>>-義の戒壇-本門の本尊所住のところ
■②『法体に約した』事と義
    本門の戒壇-事の戒壇-本門戒壇の大御本尊おわします所。
    >>>>>-義の戒壇-他の御本尊所住のところ。

●「大御本尊おしわします所事の戒壇」の文証(法体に約す)
第三十二世・日教上人『末法証得抄』
「此の本門の戒壇に事の戒壇と道理の戒壇と云うことあり。事の戒壇とは、直ちに本門の御本尊の住処の事之事なり」

第五十二世・日霑上人『三大秘法談』
「未だ広宣流布の時至らず事相の戒壇御建立なしといへども、此の道場即此れ事の戒壇真の霊山事の寂光にして、一度も此の砌に望まん輩は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜんこと毛頭疑いあるべからず」

浅井会長は、本門戒壇の「事」と「義」に関して、
①の「広布の事相に約した」事の戒壇しか知りませんでした。
ゆえに浅井会長が文証として挙げた歴代猊下の御文は、日開上人の御宝蔵説法(御戒壇説法)以外はことごとく、広布の暁の事の戒壇、それ以前は義の戒壇の「広布の事相」に約した「事」と「義」の御文なのです。

ですから、浅井会長が、「事の戒壇」とは広布の暁の戒壇を指すのである、と思い込んでいること、これは片手落ちで、
戒壇の大御本尊おわします所はただちに事の戒壇、すなわち「法体に約した」事の戒壇を合わせて拝さなければ、正確な「事の戒壇」を説明することはできません。

浅井会長は、後に日開上人・御宝蔵説法(御戒壇説法)の存在、
すなわち、②の「法体に約した」戒壇の大御本尊おわします所ただちに事の戒壇、の文証を確認すると、
自分自身の考えが片手落ちであった誤りを認めるのでなく、なんと恐れげもなく日開上人の御文を強引にネジ曲げて解釈し、
戒壇の大御本尊おわします所がただちに事の戒壇であるとの「法体に約した」事の戒壇の存在を、会員にわからぬようもみ消そうとします。

◆1◆もみ消すためにどのように謀っているのか、示していきます。

●『基礎教学書』事の戒壇の定義変更(332頁)の項に、第六十世・日開上人、御宝蔵説法(御戒壇説法)の御文、
「御遺状の如く。事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜り、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在(ましま)す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光にして…」
を挙げて、
浅井会長が、
「日開上人は、広宣流布の暁に、国立戒壇が建立されることを大前提として…」と、
根拠もなく強引に文意をネジ曲げて解説をしていることに対し、
以前の記事で次のように■破折■しました
この御文のどこに、「広宣流布の暁に、国立戒壇が建立されることを大前提として」などと書いてあるのですか。
「…大御本尊“今”眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇…」と日開上人は仰せなのですよ。
“今”なのです。
“今”は広宣流布が達成しているのですか。
こまでくると小学生でもわかるような明らかなゴマカシです。反論できますか。
(※“今”…日開上人は、昭和三年に御登座され、昭和十年に法を日隆上人に付されています。)

●この『基礎教学書』事の戒壇の定義変更の“謀り解説”の伏線は『御遺命守護の戦い』にあります。
日開上人の御文に対する浅井会長の解釈『冨士250号御遺命守護の戦い』(P41-8~11行目)について、[検証し破折]していきます。
-浅井会長解釈文(【 】の中)-
【すなわち国立戒壇たる事の戒壇を大前提にして、】
日開上人の御文のどこにもこのような前提など示されていません。あるならその御文を挙げて下さい。無いのであればウソであるということです。
日開上人の御宝蔵説法は、大御本尊在(ましま)す所はただちに事の戒壇の「法体に約した」事の戒壇です。
浅井会長は、広布の暁の「事相に約した」事の戒壇に誘導するため、【国立戒壇たる】などと、日開上人の御宝蔵説法に一切出てこないウソの文を書き入れ、さらに、それが【大前提】などと、ウソを重ねて書き入れ、謀ります。

【未だ時至らざるゆえに事の戒壇こそないが、】
日開上人の御宝蔵説法(御戒壇説法)のどこに【未だ時至らざるゆとえに】だとか【事の戒壇こそないが】などの文字があるのか!
日開上人は「事の広宣流布の時…」と仰せになっている。
浅井会長の解説では【事の広宣流布の時…に、未だ時至らざるゆえに事の戒壇こそない】となる、支離滅裂です。
これら日開上人の御文にない“謀り文”を無理やり入れ込み、必死に「事相に約した義の戒壇」に誘導していきます。
そして、次の文の謀りつなげていきます。

【そこに安置し奉る大御本尊ここにましますゆえ、】
浅井会長は、日開上人の御文
「事の広宣流布の時…其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在(ましま)す事なれば、…」の、
其の戒壇堂に安置し奉る」を
そこに安置し奉る】に変えています。
“そこに”とすることによって、“そこ”の戒壇の意味をボカして曖昧にする。
そして、その前の“謀り文”と合わせて、、
【事の戒壇こそないが】として、事相に約した義の戒壇を連想させる。
【そこに安置し奉る】これで、ボカしてあった“そこ”は、義の戒壇と思い込ませる。
こうして、
「広布の暁の事の戒壇に安置し奉る」との日開上人の文意を、
【-広布達成以前の義の戒壇に安置し奉る-】と、
見事にネジ曲げて「法体に約した事の戒壇」を「事相に約した義の戒壇」にしたてあげ、会員をダマしているのです。

日開上人の御文は、
「事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜り、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在(ましま)す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光にして」
と、続けて素直に拝してなんの問題もない。この御文になんの解説が必要なのか。

【この所は義において事の戒壇であると仰せられているのである。】
と、浅井会長はダメ押しの“謀り文”を書き入れます。浅井会長の解説ばかりに目がいくと、この“謀り文”がそのまま入り込みダマされる。
上記のとおり、日開上人の御文は「法体に約した」事の戒壇です。
すなわち【義において事の戒壇】ではなく、「大御本尊ましますところ直ちに事の戒壇」です。
それを、これまで検証してきたように、
「法体に約した事の戒壇」から【事相に約した義の戒壇】に文意をネジ曲げ、
【この所は義において事の戒壇である】と、
ウソの解説を書き入れ、会員を謀っているのです。

●日開上人・御法蔵説法の御文を
『基礎教学書』でも同様にネジじ曲げた解釈をしています。
これも、先の述べた[検証と破折]がそのまま当てはまります。
また『基礎教学書』で浅井会長は、
【細井管長が引用した前後の文を拝見すれば、文意は明白であった】(教学書P332-5行目)
と強がっていますが、では、日開上人の御文のどの箇所をみれば【明白】なのか、しっかりと示していただきたい。そのような文がないのに、【明白】だと強弁して謀り、さらに洗脳を重ねている。


◆2◆浅井会長は【もし大御本尊まします所を直ちに『事の戒壇』といえば、大聖人の御遺命は曖昧模糊(あいまいもこ)になってしまう。】(冨士250号御遺命守護の戦いP39)
と述べているが、はたしてそうでしょうか?

・大聖人様の御遺命は、広宣流布と、広宣流布の時、王仏冥合して富士山に本門寺の戒壇を建立することです。そして、その「時を待つべきのみ」と仰せられています。

・広宣流布は、「広宣流布の時は日本一同に南妙法蓮華経と唱えんことは大地を的とする」と、大聖人様は仰せです。
大聖人様の御遺命は、まぎれようもなくハッキリしている。
大御本尊ましますところを直ちに『事の戒壇』と言うことによって御遺命のどこが曖昧模糊になるのか!
謀らないで下さい。

『事の戒壇』と言ったとき、「法体」か「事相」どちらかを論じているのかハッキリさせればよいのです。
浅井会長自身、
【広宣流布の暁に事相に立てられる戒壇を『事の戒壇』とし…】(冨士250号御遺命守護の戦いP39)と言って、広宣流布の暁に「事相に立てられる」事の戒壇のことは知っていた。
ここに、浅井会長が知らなかった(であろう)「法体」に約した『事の戒壇』を、日達上人から御教示頂いたのですから、その通り受ければよいところを、教学に自信があると自負し慢心していた浅井会長は、自分が知らなかったということを素直に受け取れず、修羅の心からか、あるいは第六天の魔王に魅入られたか、謀ってしまった…。
というのが実態ではないでしょうか。

◆3◆浅井会長が「事」と「義」に関する文証はとして、御歴代猊下の御文を次のように挙げています。

「夫れ本門の戒壇に事あり、義あり。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義・戒壇に当たる故なり。…正しく事の戒壇とは一閻浮提の人懺悔滅罪の処なり。乃至秘法抄に云く『王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣並びに御教書を申し下して等云々』(日寛上人文底秘沈抄)」

「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇を建立するなり(報恩抄文段)」

「この戒壇に事・義の二あり。国立戒壇(※浅井会長の国立戒壇ではない)は事なり、是れ未来一天広布の時の勅命によるべきがゆえに。その時に至るまでは、本寺の本門戒壇本尊安置の宝蔵を以て暫くこれに充て、授戒・説戒等の儀を執行す、すなわち義として戒壇に当たる(日亨上人日蓮各教団の概観)

「国主が此の法を御用いの時は此の戒壇が建立せられる。それを事の戒法と申すと仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従って、それ以前は御本尊のまします所は義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。仍って此の所を義の戒壇と申し上げるのであります。(日淳上人日蓮大聖人の教義)」

「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。もちろんこの戒壇は広宣流布の時の国立であります(日達上人36・4・6御説法)」
以上(冨士250号御遺命守護の戦いP39、40)

「この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は将来一天広布の時に、勅命で富士山に建ち、上は皇帝より下は万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは、本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当たるのである。末寺の道場も信徒の仏間も、軽くは各々その義をもっていると云える」正宗綱要(基礎教学書P334)
【検証】
浅井会長はこれが【宗門古来からの定義である】(同P40-16行目)と、“古来”などという語句を使いイメージ付けして洗脳しようとしますが、
これすべて、日寛上人以来、
「広布の事相」に約した「事」と「義」の定義です。
浅井会長は「法体」に約した「事」と「義」を挙げることが出来ないので、
「事」と「義」の解説としては片手落ちです。

つづいて浅井会長は
【しかるに細井管長はこの定義を変え、大御本尊の所在を直ちに『事の戒壇』と、文証を以て宣言されたのである】(冨士250号御遺命守護の戦いP40-16、17行目)と、
さらに強弁して、日達上人が、定義を変えたとウソを述べて謀り、洗脳している。

すでに何度も書きましたが、「事」と「義」については、「法体」と「広布の事相」に約す2つの定義があり、変えたのではありません。
浅井会長は、日達上人から「法体」に約した、「事」と「義」を御教示されていながらこれを歪曲し、定義を変えたとウソを言って強弁し、会員を洗脳しているのです。

◆2◆最後にもう一つ、
『冨士250号御遺命守護の戦い』(P41-6、7行目)には、
日開上人の御宝蔵説法(御戒壇説法)の御文を
「其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在(ましま)す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇……」と、切り文にしてあげています。
「此の処即ち是れ本門時の戒壇……」の、“……”の箇所を切って消している。

“……”の箇所には
「真の霊山、事の寂光にして、若しこの霊場に一度も詣でん輩は、無始の罪障速やかに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん事、毛頭疑いあるべからず。」と、
日開上人の御法蔵説法(戒壇説法)は続きます。

すなわち日開上人の御宝蔵説法(御戒壇説法)の御文は、
「事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜り、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在(ましま)す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光にして、若しこの霊場に一度も詣でん輩は、無始の罪障速やかに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん事、毛頭疑いあるべからず。」となる。

なぜ「若しこの霊場に一度も詣でん輩は…」の御文を切ったのでしょうか?
この御文は御開扉を受けることを意味します。顕正会員が御登山・御開扉に興味を持つことを恐れたのでしょうか?御戒壇説法は、まさに御開扉の時の御説法です。日開上人の時代に御開扉がなされていた事が、浅井会長にとっては都合が悪いのでしょう。だから切り文にして隠す。違いますか?

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【24】事・義「法体」と「広布の事相」ー文言の文証

2018年02月10日 | 24】事・義「法体」と「広布の事相」-文言の文証
■先日、ある顕正会員の方との話から、本門戒壇・事と義の、「法体に約す」と「広布の事相約す」の文言について、その出典文証を聞かれました。他にも同様な方がいらっしゃるかと思いましたので、ここで示すことにします。(※下線ブログ記述者)

●『三大秘法義』御隠尊日顕上人猊下御著(P566~P567)

本門戒壇に義と事を分かつとき、法体に約すれば本門戒壇の大御本尊おわします所、根源の戒壇であるが故に、直ちに事の戒壇に当たる。
 しかるに、他の大聖人御顕示の御本尊や血脈付法代々先師の書写の御本尊は、その所在の処、義が事の戒壇に当たる故に、義理の戒壇である。その一切の義理の戒壇には根源があり、それが本門戒壇の大御本尊のおわします所である。したがって、そこに、根源の法体に約した事の戒壇の意義がある。また将来、王仏冥合、広布実現の時の根源の戒壇となる。故に、たとえ時が来たからといっても、戒壇の大御本尊以外に事の戒壇は全く存在しない。
 そこにおいて、事の戒壇を大聖人の大慈悲の実際的、具体的顕現たる広布の事相に約すれば、御一期において『三大秘法抄』のほかには全く秘して説かれなかったところの「王仏冥合」の御文である。ここに、王仏冥合の条件の上に本門戒壇の建立を示されたのが、まさしく御仏意であり、御遺命の一大事が存するのである。
 すなわち、本門の本尊、妙法蓮華経の広宣流布が時至って、正道・正理の上に条件が具備した時、戒壇を建立するところに、本仏の志し給う「事の戒法」が成就するのである。この一切は御仏意であり、これは、さらにあとの『一期弘法抄』に本門戒壇の建立につき、二祖日興上人に御遺命されたところである。
 その上で、
  「ただをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計らひとして、日本一国一時に信ずる事あるべし」(上野殿御返事・御書1123ページ)
との大宣言と、『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文を信心の上から拝して、そこに時を待ち、また、その国主建立の時を実現すべく、正法正師の正義を積極的に弘通していくことが大切である。すなわち、戒壇の実践、本門戒の実践は、自行化他の折伏にあり、常に広宣流布の前進を念じていくべきである。


●『昭和40年2月16日第一回正本堂建設委員会猊下御言葉の要旨拝考』宗務院

三大秘法抄に「今日蓮が所行乃至事の三大事」と仰せたまう大聖人の御法魂たる本門戒壇の大御本尊がおわしますところ法体の事の戒壇であり、一期弘法抄、三大秘法抄等は事相の事の戒壇である。法体の事なくして広布の暁の事相の事壇はありえない。また事相の事壇がいかに高広厳飾を極めつつもその根本は法体の事に由来する外の何物でもない。


●以前にも書いたと思いますが、43世日相上人の筆録を『三大秘法義』から今一度見てみます。
以下『三大秘法義』から

「凡(およそ)三大秘法ト者(は)、開スレバ六、合すれば三也

本門本尊 - 人本尊 日蓮聖人
>>>> - 法本尊 事一念三千御本尊

本門題目 - 信受  智妙
>>>> - 口唱行 行妙

本門戒旦 - 在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也
>>>> - 冨士山戒旦之御本尊御在所ハ事ノ戒也

 三大秘法ノ姿是ノ如ク意(こころ)得ベキ也  」

とある。これは、三大秘法についての日寛上人の御説法が日相上人の代まで伝承され、それを日相上人が筆録されたものであるが、在々処々に御本尊の安置される所は理(義)の戒壇であり、戒壇の大御本尊安置の所は事の戒壇であることが示されている。/以上『三大秘法義』。
(※>>>>の矢印は、ブログ記述者が便宜上入れたものです)

…御歴代の文証、「04>もう一つの戒壇の事と義」 に示した通りです。
(下線の文字をクリックすると該当記事に飛びます)
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【23】浅井会長と創価学会の戦い(全編)

2018年02月10日 | 23】浅井会長と創価学会の戦い
■浅井会長と創価学会の戦い(過去ブログ①~⑥全編をまとめました)
<山崎正友氏「あの頃のこと」より>
 昭和四十五年から四十七年にかけての騒動を〝第一次妙信講騒動〟と呼ぶなら、〝第二次騒動〟は、しばらくの小休止の後、昭和四十九年六月頃に再燃した。
 第一の騒動は、昭和四十七年九月の、創価学会と妙信講代表による直接対決による法論の結果、創価学会が、
 「現時において、広宣流布とか御遺命達成と断定しない」
という見解を公式に発表したことで、いちおうの解決を見た。
 しかし、国立戒壇と正本堂の意義については、双方主張が平行線となってしまい、引き続き、継続して法論を行なう、ということで先送りされたから、法論が続けられるはずだったが、双方ともあまり熱意を示さず、法論は行なわれなかった。
 それでも、数ヶ月に一度くらいのペースで、秋谷・山崎対浅井の会談は続けられた。
 昭和四十九年五月末になって、妙信講は、浅井昭衛を本部長にする人事を総会で発表し、
 「理事長は講務を統括し、対外的には講を代表する一切の責任と権限を講頭より付与され、よって、今後予想される対外的な闘争は、すべて新理事長の責任において遂行される」
と、浅井昭衛の独裁的地位を確立して、〝対外的な闘争〟すなわち、創価学会に対する宣戦布告に具えた。
 その上で、秋谷副会長および私との対決の席で、一方的に
 「公場対決申入書」
を突き付けた。
 創価学会側は、これについて、宗務院にお伺いを立てた。
 「法論で対決し、妙信講を打ち砕くことにやぶさかではないが、宗門内のこと、法義に関わることであり、是非についてお尋ねしたい」と。
 宗務院からは、双方に、
 「公場対決とは、当流と邪宗との間で法論を闘わす場合に行なうことであり、宗内での論義で行なうべきではない。厳禁する」
という通達が出された。
 例によって、創価学会側は、宗門を楯(たて)にして、妙信講との対決を避けようとしたのである。
 秋谷・山崎両者は、常在寺で浅井昭衛と会い、〝宗務院の通達に従い、公場対決には応じられない〟と回答した。
 ただし、〝双方が直接法論を闘わすことについては、応じることにやぶさかではないが、それはあくまでも当事者間の対論であるべきだ〟との意向を示した。
 これに対し浅井昭衛は、
 「もう、これで、話し合いは終わりだ。我々は、我々の信ずるままに行動を起こす」
と、話し合いを打ち切り、実力行使に移ることを宣言した。
 秋谷・山崎両者は、 「それは、約束違反であり、その上、宗門の御指南に背くことだ。これまで築いてきた、妙信講と創価学会との信義を破る無法な行為だ。信義を重んじるといってきた浅井昭衛自身の言葉にも反するではないか」
となだめたり非難したりしたが、浅井昭衛は一方的に席を立ち、
 「理不尽と言われようと、信義に悖(もと)ると言われようと、かまわない。もはやこれまでだ」
と言い放って出て行った。
 それをキッカケに、『顕正新聞』や号外ビラなどで、創価学会攻撃を大々的に開始した。
 「大聖人の御遺命である国立戒壇の正義を守れ」
と、国立戒壇一色のキャンペーンを展開したのである。
 この、唐突極まりない妙信講の変身の裏には、一つの背景と、浅井昭衛のしたたかな打算が存在した。
 妙信講は、この少し前の昭和四十九年四月、突然、宗務院に対し、妙信講としての団体登山を申請した。
 しかし、宗務院は、妙信講が宗門や法華講の秩序をことさら無視し、わがまま勝手な振る舞いをして、無用の摩擦や混乱を引き起こしてきたこと、そして、御法主上人が一宗の公式決定として
 「今後、〝国立戒壇〟という言葉は当宗において用いない」
と決せられたにもかかわらず、これに背き、
 「国立戒壇建立こそ日蓮正宗の最大の目標であり、果たすべき御遺命である」
と公然と主張しているため、
 「国立戒壇を主張し、宗内の秩序を乱し続ける間は、登山を許すわけにはいかない」
として、登山禁止を通告した。
 浅井昭衛は激怒し、宗務院と喧嘩腰でかけ合ったが、宗務院は一歩も退かなかった。
 御法主日達上人も、
 「信者が、数を頼んで横車を押し通し、勝手なことをするという風潮を、もはや許しておくわけにはいかない」
と、宗門としてのけじめを付ける決意を示された。
 その裏には、
 「創価学会にも、これまでのようなやりたい放題は、もはや許さない」
という意味がこめられていたから、創価学会としても口を差し挟(はさ)むわけにはいかなかった。
 それでも池田大作は、
 「妙信講が騒ぐときには、必ず矛先を創価学会の方に向けてくる。大変迷惑だ。何とか説得して暴走をくい止めよ」
と私に指示した。
 これを受けて、私は、二度にわたり、浅井昭衛と一対一で会い、暴発を思いとどまるよう説得した。
 「ことによっては、創価学会が宗務院にとりなして、登山が叶うように力添えしてもいい」
とまで言った。
 だが、浅井昭衛は、
 「あなたや秋谷さんの気持ちはよくわかる。しかし、我々は、もうこれ以上、我慢を続けるつもりはない。今、根本的に邪義を糺さなければ、もはや糺(ただ)す時は永久に来ないだろう。今、振り上げた拳(こぶし)を降ろそうとしたら、妙信講は空中分解する。もう、後戻りはできない」
と、方針を変えようとしなかった。
 二回目の茗荷谷の若渓会館での説得の時、私は、
 「浅井さんは、ずいぶん教学の研鑽を重ねておられるようだし、それに特別の確信を持っておられるようだが、それにしても、猊下様や宗務院の法義解釈を〝誤りだ〟と断じきる根拠は、いったい、どこにあるのですか」
と尋ねた。
 すると浅井昭衛は、得意気に、
 「あなたは、もとからの信者ではないから、わからないでしょうね。私は、御法主上人の代理を務められた御僧侶から、直々に、御相承の内容について伝授されたのです。信者で、御相承の中身を知っているのは私一人です」
と言ったのである。
 私は、それまで、浅井昭衛を、エキセントリックで頑固な点はあるが、なかなかの人物であり、少なくとも、日蓮正宗信徒としての信仰心の一分は持っている、と評価していたが、この〝御相承云々〟という話を聞かされた時、
 「この人間は根本的に狂っているのだ」
と判断した。
 これ以上、道理を説いて説得しても無駄だ、と見切りをつけたのである。
 「今後、会う時は、敵味方に別れて対決するわけですな。」
 そう言う浅井昭衛に対し、
 「私達も、手加減(てかげん)しないで戦いますよ。腹を決めて向かってくるがよいでしょう」
と言って別れた。
 後に私は、念のため、御法主日達上人に、この浅井発言についてお尋ね申し上げたとき、日達上人は
 「バカな!!」
と、一笑に付された。
 そして、私が宗門のこと、とりわけ御相承のことなど知るよしもないことをご覧になって、わかりやすく説明してくださった。
 「たしかに、戦後、一時、管長代理という役についていた僧侶がいたし、浅井のいた妙信講が、その人の寺に所属していたことがあったと思うが、しかし管長代理というのは、宗門行政上の代行者であって、法主の立場をそっくりそのまま代行するということでは、けっしてない。だから、管長代理が、相承の中身を知るはずなどないのです。」
 前述した、浅井昭衛がにわかに強硬路線に転じた背景というのは、このように、宗務院との間の軋轢(あつれき)がエスカレートしたことであった。

 さらに、浅井昭衛にとって、もっと重要な、決定的な動機というべきしたたかな打算があった。
 じつは、昭和四十九年五、六月頃といえば、御法主日達上人と池田大作の関係が極度に悪化し、いつ手切れとなってもおかしくない状況下にあったのである。
 正本堂落慶直後から、池田大作は、日蓮正宗を支配下に収めようとして、さまざまな画策を行ない、ことあるごとに御法主上人を辱(はずかし)めて
 「自分の方が上だ」
と会員に誇示(こじ)しようとした。
 日達上人は、これを、七百年来続いた日蓮正宗にとっての危機だと感じられ、
 「たとえ自分一人でも大石寺と御本尊を守る」
とまで宣言された。
 池田大作は、日達上人の強固な御内意にあわてふためき、総監を通じて和解を求めたが、日達上人は、
 「もう、宗門と創価学会は、別々にやりましょう。しかし、学会員がどうしても大石寺に参詣したいというなら、そのかぎりで〝信者〟と同じに取り扱う、ということにしましょう」
と通告された。これは、
 「手を切ろう」
という意思表示であり、もはや、とりつく島もないように思われた。
 池田大作は、創価学会内において、日達上人や宗務院の役僧方から受けが良かった私に、日蓮正宗との和解工作を命じた。
 このような緊迫した状況の中で、宗門内には、
 「創価学会と手を切るべし」
という御僧侶達も増え、その中から、陰で妙信講をけしかける人達も出ていたのである。
 こうした状況を見て、浅井昭衛は、
 「今こそ、創価学会を叩き、宗門から追放して、自分が宗内の主導権を握るチャンスだ!」
と判断したのである。
 「御法主上人も、宗務院も、そして僧侶方も、最後は、創価学会を叩く妙信講を支持してくれるだろう。そして、創価学会さえ追い出せば、宗内には、もはや恐いものはない。宗務院や法華講など、力で押さえつけられる。」
 こうした打算があったから、浅井はにわかに、
 「信義に悖ると言われようと結構だ」
と言い放って、第二次大戦末期、急に不可侵条約を破棄して北方領土や旧満州に攻め込んだ、ソ連にも似た行動を取ったのである。
 この見方が正しいことは、その後の妙信講の振る舞い、行動を見ればよくわかる。

 妙信講問題では、昭和四十七年七月、日達上人が妙縁寺に御下向になり、浅井親子を説得なさった折、その対談の模様を学会が盗聴し、その後、学会が妙信講と直接対決することになった経緯(いきさつ)についてもやはり、触れておかなくは思うので、前回よりも少しさ遡(さかのぼ)るが、今回はその点について触れることにする。

 池田大作が泣きついたことにより、御先師日達上人が直々(じきじき)に妙信講の説得に出られることになって、私達は対応に苦慮した。
 対談の成り行き次第では、全てが裏目に出てしまうのではないか、との危険を感じたからだった。
 というのは、正本堂の意義付けについては、学会側がむりやり宗門にねじ込んでいく中で、学会を慰撫(いぶ)教導する御立場の上から、日達上人が歩み寄った表現を用いてくださった箇所を含んでいたからである。
 もし、妙信講を説得なさる経過の中で、そうした事情を日達上人が口にされたり、あるいは、表現の訂正でもなさったら、学会の正本堂についての思惑はぶち壊しになってしまうかもしれない――池田大作も、日達上人に頼み込んだ後で、今度はその危険性に気付き、やきもきし始めた。
 「どうなっても良いさ、猊下にお任せしよう」
口では、いちおう、そう言いながら、
 「もし、こうなったらどうする、ああなったらどうする」
と、神経質に私に尋(たず)ねるのだった。
 もし万が一、日達上人が、浅井父子に思わぬ言質(げんち)を取られたりした時は、ただちに対応を考えなくてはならない。
 もとより、御法主上人にお預けすることになった以上、もはや、あれこれと前もって注文を付けるわけにはいかない。
 そこで、じつに無礼千万ではあったが、随行される藤本庶務部長(当時)に、
 「対論の趣旨を逸脱(いつだつ)することだけは絶対ないように、補佐をよろしくお願いします」
と、出すぎた念押しをした。
 また、会談が終わったら、ただちにその内容を伝えてくださるように、ということもお願いした。
 とにかく、一分でも一秒でも早く正確な情報を手に入れ、間髪(かんぱつ)を置かず対応しなくてはならなかった。
 そのために、北条副会長らと相談の上、宮本邸以来、ほとんど封印していた〝盗聴〟という手段を用いることになった。
 電話盗聴と違って、仕掛けるのも非常に簡単で、失敗の気遣いはなかった。
 私は、広野輝夫(学生部主任部長)を呼び、宮本邸電話盗聴の時の経験を元に、盗聴器の作製を命じた。
 電話盗聴ではないから、電波発信式の機械は一日もあればできる、ということであった。
 受信器等は、以前使ったものを一部保管していたのが役に立った。

 七月四日午後、私は、会談会場の墨田区妙縁寺に行き、
 「警備のため」
といって内外を点検した。
 対談の場所である二階の和室のかもいの隙間に、盗聴器を放り込んでおけば、発見されることもないし、充分盗聴できる、という状況を見極め、広野輝夫に設置を指示した。
 当日の早朝、広野は、私の自宅に立ち寄った。
 「これから取り付けに行きますが……」
青ざめた顔で広野は言った。
 「先輩の河合一さん(現副て会長)にちょっと話したら、〝猊下にそんなことをしたら、罰が当たるから、やめた方がいいぞ〟と言われたんですが……大丈夫でしょうかね。」
 緊張で顔を引きつらせながら尋ねた。そこで私が、
 「猊下を攻撃するためにやるのではなくて、猊下をお守りするためにやることだ。浅井父子に揚(あ)げ足を取られたりした時に対応するためにすることだし、万一の時には、ただちに室内に駆けつけなくてはならないのだ。北条さん達も了解して、その指示の上のことだ。心配ないよ。何が起こっても私が責任をとる。罰があったら引き受けるよ。竹岡にもそう言ってくれ」
と言ったところ、ようやく広野は安心して出動した。

 七月六日、広野輝夫は、もう一人の情報師団の中心者・竹岡誠治と共に、妙縁寺の脇の路地に停(と)めた車の中で、室内に仕掛けた発信器から送られてくる、日達上人と浅井父子の対話の模様を録音した。
 私も、広野らとともに、車中で一部を直接聞いた。
 受信器も、使用した電波の波長も、宮本邸電話盗聴の時と同じものを使用した。
 発信器を急いで作らせたため、雑音が多い上に、近くを自動車が通るたびにブザー音のような雑音が加わった。
 それでも、録音された話の内容は、明瞭に聞き取れた。
 その内容は、両者の会話が、私達が危惧(きぐ)していたような結果に終わったことを示していた。

 私は、広野から受け取った録音テープを創価学会本部に持ち帰り、文化会館六階の会議室で、北条・秋谷・原島の各氏と共に、再生して聞いた。
 日達上人は、席に着かれるなり、
 「言うことを聞かぬなら殺す、というなら、私を殺しなさい。さあ、殺しなさい。やれるものならやってみなさい」
と切り出され、 浅井親子を圧倒した。
 「下着も着替えて、このように辞世の歌も用意してきた。法のために死ぬのなら、何の悔(く)いもない。」
 浅井父子は、完全に度肝(どぎも)を抜かれ、日頃の威勢を全く失ってしまった。
 「信心の世界に、言うことを聞かぬなら殺す、なんていう話を持ち込むのは、もっての他だ。」
 日達上人の厳しい叱責(しっせき)に、浅井父子は詫(わ)び、けっして、それは、本心からやりたくて言っているのではない、などとモゴモゴ弁解した。
 「私のやることに何が不満なのか。訓諭のどこが気にいらんというのか」
日達上人はたたみ込まれた。
 その辺から、浅井昭衛が巻き返しを計ろうとした。
 「宗務院が、創価学会に迎合して伝統法義を曲げ、御法主上人の真意を曲げた。私達は、猊下をお護(まも)りするためにやっているのです。」
 「宗務院はどうでもいい。学会は学会だ。訓諭は私が出した。私がやったことだ。不満があり、殺すというなら、まず私を殺しなさい。」
 「そのように言われると、私達には、何も申しようがありません。」
 それから、浅井昭衛は、クドクドと国立戒壇論を述べ、正本堂が御遺命の戒壇だというのは、白を黒と言うがごとき間違いであり、世間や信者をたばかるものである等と、持論を述べ始めた。
 日達上人は、浅井の論法など聞き飽きておられたのか、その話の腰を折って言われた。
 「国立戒壇というのは、今後、いっさい当宗では言わない、と決めたのは私だ。だから、当宗の教義として国立戒壇がある、などということは、今後、いっさい言わないでもらいたい。そういう主張もしないでほしい。もっとも、信者がどんな考えを持とうと、それは勝手だから、それを口にするくらいはいいが、当宗の教義として文章にするのはいけない。」
 この日達上人の、大きな御心からのお言葉につけ込み、浅井昭衛は、すかさず念を押した。
 「じゃ、妙信講が、国立戒壇と言うのは、口で言うのは差し支えないですね。」
 「それは、まあ、いいでしょう。しかし文書にしたり、他に押しつけたりしてはいかん。」
 浅井は、ニンマリして言った。
 「わかりました。これからは、よく注意します。ところで、正本堂の論義についてですが、訓諭の前半は、私達も納得できるのです。しかし、後段が、正本堂を、本門寺の戒壇となるべき建物だと決定している点については、正直いって納得いたしかねます。」
 これに対して、日達上人は、ありのままを仰せられた。
 「前の半分は私の気持ちのとおりだが、後半は、私の本意じゃなかった。いろいろな事情があって、あのようになったが……」
 浅井昭衛は、我が意を得たりと突っ込んだ。
 「しかし、訓諭として出された以上、宗内に誤解が流布してしまいます。正本堂を、将来のことであるにせよ、〝御遺命の戒壇〟だと断定されたままでは、法義の根本が揺らぎます。何とか、これを打ち消すなり、新たな訓諭で訂正するなり、していただけませんか。」
 日達上人は苦慮されているようだった。
 そんなことを約束したら、妙信講は喜ぶだろうが、創価学会が黙っていないだろうことは目に見えている。
 「新たな訓諭を出すとか、訓諭を訂正するなんて、それはできないよ。よろしい。解釈文を出そう。解釈文の中で、その辺のことをはっきりさせよう。それでどうか。」
 浅井昭衛は、小躍(こおど)りして喜んだ。
 「たいへん結構でございます。ついては何ですが、その解釈文は、念のため、発表前に私共に見せていただいてよろしいでしょうか。」
 「ああ、いいでしょう。これで、問題は解決したね。もう文句はありませんね。」
 「ありません」
浅井父子は平伏した。
 「よし、それでは、以後、諍(あらそ)い事は一切やめてください。創価学会と〝勝った負けた〟だの〝どちらが悪い〟などと言い合うことは、いっさいしてはなりません。よろしいか。」
 「創価学会の方で何もしなかったら、私達もあえて争うことはしません。」
 浅井父子は、妙信講本部へ帰ると、
 「勝った。勝った」
と大騒ぎした。
 幹部達を集めて、浅井昭衛は言った。
 「近いうち、訓諭の解釈が発表される。妙信講の言うとおりの内容になる。正本堂は、ただの建物にすぎないことがはっきりする。それを見極めて、一斉に創価学会攻撃をやる。今がチャンスだ。必ず創価学会はつぶれる。少なくとも、宗門から追い出す……。」

 文化会館六階の会議室で、何とも言えない面持ちで、日達上人と浅井父子の対談の隠し録(ど)りテープを聞いた首脳は、ガックリ肩を落とした。
 「だめだなあ!」
 秋谷栄之助が言った。
 「何てこった。これが、本山の本音か……」
 北条浩が、うめくように言った。
 そこへ池田大作がひょっこり顔を出した。
 「どうだった?」
 率直に、最悪の状況であると報告する私達に、池田大作は言った。
 「やっぱり失敗だったか。悪かったな。私がやると、いつも失敗するなあ。しかし、私としては仕方がなかったのだよ。結果はどうであろうと、手続きとして、猊下にお願いして、一度説得してもらうのが筋じゃないか。」
 しきりに言い訳をしたあと、
 「それで、これからどうしたらいい?」
と尋ねるので、皆で今後の対策の協議に入った。
 「訓諭の訂正になるような解釈文など、絶対に出してもらうわけにはいきません。そんなことになったら、池田先生も創価学会も袋叩きにされ、「話が違う。正本堂御供養金を返せ」という人達が本部に押しかけるでしょう。何としても、最低、訓諭の線は守らなくてはなりません。」
 いずれ、宗門から報告や今後の方針を伝えてくるだろうから、それを見た上で、巻き返しをはかろう、ということになり、そのための準備として、情報収集に全力をあげることになった。

 翌日、大石寺理事・早瀬義孔尊師が、日達上人猊下の使者として創価学会本部を訪れ、前日の対談の経緯と結果の報告をした。
 おおむね正確な報告であったが、浅井父子に譲歩した形で訓諭の解釈文を出す、というニュアンスは正確に語られなかった。
 創価学会側は、表向き丁重に礼を述べ、日達上人猊下の御苦労を賛嘆しておいた。
 そのあとで、北条副会長(当時)が総本山に行って日達上人猊下にお目通りをし、
 「猊下が〝口頭で言うのはかまわない〟と言われた、といって、妙信講が徹底的に学会攻撃をするといっている」
 「解釈文を出していただくのは結構だが、その内容によっては大変なことになる」
等と言上して牽制(けんせい)し、圧力をかけた。
 こうなってくると、浅井達の言い分を容れながら、なお、創価学会の顔も立てる文案を作らねばならず、そんなことは、とうてい不可能なことである。
 そうこうしているうちに、
 「解釈文が出たら、創価学会を総攻撃する」
と手ぐすね引いていた浅井父子も、次第にしびれを切らし、収まらなくなってきていた。
 日達上人は、この両者の態度にサジを投げられ、
 「こうなったら、創価学会と妙信講で、直接話し合って決着をつけなさい」
と両者に申し入れられ、正本堂落慶法要目前の九月始めから九月三十日にかけて、計七回、毎回二時間にわたる両者の激論が交わされたのであった。

 会場は、向島の常泉寺。学会側代表は、秋谷栄之助・原島嵩・山崎正友。妙信講側は、浅井甚兵衛・昭衛父子と大久保某の三名。
 この対論に当たっては、私が発信器をアタッシュケースに入れ、会場から道ひとつ隔てた学会員宅の一室で、受信機と録音機でこの電波を受信・録音する一方、その場に、広野輝夫・竹岡誠治ら情報師団の他に、桐ヶ谷章・八尋頼雄の両弁護士や神崎武法検事(当時。後に公明党委員長)が詰めていて、耳をそばだてて対論の様子を聞いていた。
 彼らは、私達代表の発言にまずい点があればチェックし、常泉寺の御僧侶に頼んで、会場にメモを差し入れ、注意を喚起(かんき)するという役割と、万一、暴力沙汰にでもなった時には、ただちに駆けつけるという役割になっていた。
 また、会議のたびに録音テープを書き起こし、これに基づいて作戦会議を行なった。
 この作戦会議には、神崎武法の他に、福島啓充・吉村弘・高井康行らの現役検事(当時)がブレーンとして参加した。

 会談は、双方、自分の主張を繰り返して譲らず、ついに秋谷栄之助が憤然(ふんぜん)と立ち、
 「よし、もうこれ以上話しても無駄だ。実力で決着をつけるということなら、創価学会青年部は受けて立つ。阻止できるならしてみろ。次は、総本山で会おう!!」
と宣言した。
 売り言葉に買い言葉で、浅井昭衛らも
 「やりましょう!! やりましょう!!  大いに結構だ!!」
と席を立ちかけたが、その浅井の姿に、私は、不意をつかれた狼狽(ろうばい)を見てとった。
 浅井昭衛は、口では〝流血騒ぎを起こす〟と威勢のいいことを言っていたが、それはハッタリだった。
 〝そう言えば創価学会は、体面を考えて、けっして事を荒立てようとはしないだろうから譲歩するだろう〟
との計算が彼らにはあったのだが、そこを見透(す)かして、秋谷栄之助が、賭(か)けに出 たのであった。
 「まあ待ってください!!」
 私はまず秋谷を制し、それから浅井父子を座らせた。
 「そんなことで、御本仏が喜ばれると思っているのですか。御法主上人はどうなるのですか!!妙信講と創価学会がぶつかって総本山で血を流したら、喜ぶのは邪宗だけではないですか。宗史に拭(ぬぐ)いきれない汚点が残るだけです。ここまで、十分議論し合ったのです。双方の違いもはっきりした。内ゲバはいつでもやれる。いま一度、冷静に、具体的な妥協の道を探ってからでも遅くないでしょう!」
 もちろん、双方に異議があるわけがない。
 そこで、私が、当面の妥協案を提案した。
 「正本堂が、御遺命の戒壇かどうかということは、今の段階で、あえて結論を出す必要はない。現状を見れば、広宣流布達成は、まだまだ先のことである。その時までに決めればよいではないか。現時においては、正本堂という建物が完成したということ、そこに大御本尊様を御遷座申し上げても、けっして蔵から表にお出しするということではない。そのための儀式を行なうことに、何の異議があろうか。その点を確認し合って、国立戒壇の是非については、これから、さらに時間をかけて対論を続けていこうではないか。大事なことだから、時間を区切って結論を出せというのは間違いだ。」
 浅井昭衛は、
 「たしかに、広宣流布はまだまだ先であるから、御遺命の達成ではないということをはっきりさせること。そして、創価学会の方で既成事実を積み重ねるような〝正本堂が御遺命の戒壇である〟という発言や指導を絶対にしないこと。そのことをきちんとした形の上で示し、今後、妙信講と国立戒壇の是非を論じていくというのであれば、今日のところはそれで結構だ」
と答えた。
 そこで、秋谷栄之助は、
 「広宣流布は、まだ達成されておらず、御遺命の達成ではないということは、首脳の談話として、『聖教新聞』にきちんと発表する。そして、これからは、御遺命の戒壇については、双方公けに論及せず、このメンバーの対論で煮詰めていくことにしようではないか」
と提案し、その内容をまとめて文書を交換した。

 そして、数日後の『聖教新聞』紙上に、理事長談話として、
 「正本堂落慶式を迎えるが、まだ、広宣流布達成ではない、さらに御遺命達成のため、折伏にがんばろう」
という談話を発表することにした。
 ちょうど、その頃、学会本部では首脳陣が、
 「もう、どうせ妙信講とは、実力でぶつかることは避けられない。正本堂落慶法要当日、総本山が内ゲバの戦場にならぬよう、警察に警備を頼むしかない」
と話し合い、公明党首脳から警視庁に根回しに行こうとしていたが、池田大作が、
 「山友が、〝何とかなりそうだ〟と言って行ったんだから、帰るまで待とう。それからでも遅くないだろう」
と制止した。
 その直後、我々三人が本部に帰り、
 「間一髪、危機を回避できた」
ということを報告したところ、池田大作は、
 「それみろ、私が言ったとおりだろう」
と得意気に言った。
 それでも、池田大作は、万一のことに備えて、日達上人をせかし、大御本尊の御遷座を、予定した日の二日前に、総本山に居合わせた幹部達だけが供奉(ぐぶ)する中で、そそくさと行なった。
 私もその中の一人として、大御本尊を支える棒の一端を肩に乗せながら、参加させていただいたが、何とも言えない気分であった。

 落慶法要は、池田大作がそれまで夢見ていたのとは似ても似つかぬ、シラけた儀式となった。
 沈みがちな空気を盛り上げたのは、ジョージ・ウイリアムス(貞永靖)が引きつれてきたアメリカ創価学会の〝芸能団〟であった。
 彼らは底抜けて明るい派手なパフォーマンスで、池田大作をメンツの失墜から救いあげたのだった。
 池田大作が、後に、
 「私を本当に支えた弟子」
として、北条・竹入・中西・山崎正友らの名と共に、ジョージ・ウイリアムスの名を挙げたのは、このことがあったからである。

 池田大作は、しかし、〝懲(こ)りない人〟だった。
 福島源次郎ら側近に命じて、登山してきた学会員に、
 「本日、広宣流布が達成されました。御遺命の戒壇が成就しました」
と口コミで触れて歩かせた。
 これを耳にした原島嵩が、
 「とんでもないことだ!!」
と、福島源次郎を総括した。
 このことを福島源次郎から聞いた池田大作は、原島嵩と私を呼びつけ、血相かを変えて怒鳴りつけた。
 「俺がやらせたことだ。それにお前らは文句があるのか!!」
 原島嵩が、「妙信講との和解」云々と言い出すと、池田大作は、さらに居丈高になり、
 「俺は、何も恐いものはない。奴らがやるというならやってみればよい。俺は俺流にやる。それに文句をつけるとはけしからん。お前達、ちょっと働いたからといって思い上がるな」
とどやしつけた。
 私は、池田大作が、首脳達の手前、虚勢を張っているのであり、また長い間の抑圧の後で、「もう安心」と思ってぶち切れているのだとわかっていたから、何も言わずに黙っていた。
 しかし、情けなくなって、自然に涙が出た。
 「こんな男のために、私は死にものぐるいの努力をしていたのか……」
 それを見て、池田大作は、間が悪そうに顔を背けた。

 妙信講の一方的な宣戦布告によって、創価学会は、折から日蓮正宗との関係が悪化していたこともあり、背腹に攻撃を受けることになりそうな形勢となった。
 それではたまらないから、日蓮正宗との関係修復に必死となった。
 「国際センターは、創価学会だけでやります。数々の非礼はお許しください。今、創価学会は、正本堂建立に全力をあげてきた直後で、無理を重ねてきた反動もあり、苦しい中で内部充実を計っています。しかし、必ず近いうちに寺院建立など、御奉公を再開します」
 「妙信講は、無法な暴力集団であり、浅井昭衛は、創価学会に取って代わって、宗門を思うがままに牛耳ろうとしています。御奉公を何もしないで、要求を突きつける、えげつない連中です。彼らの天下になったら、宗門は暗黒です。ここは、妙信講を徹底して排除するために、御宗門と創価学会が、一致団結して当たらなくてはなりません。宗門と学会がいがみ合うようでは、必ずつけ込まれます。我々は、全力をあげて、妙信講の暴力から御宗門をお護りします」
等々と、宗門側の説得に努めた。
 結果、御法主上人も宗務院も、何をするかわからない妙信講に実力で対抗できるのは創価学会しかないから、当面は創価学会と和解し、一致して妙信講問題を根本的に片付けることになされた。
 何のことはない。浅井昭衛の目論見は見事に外れ、すべてが逆目(さかめ)となって、創価学会からも日蓮正宗からも、徹底的に排除される結果を招いてしまった。
 逆に、創価学会にとっては、妙信講の暴走のおかげで、〝危機一髪〟だった日蓮正宗との関係を修復し、破門される危機を免れることができたのである。
 浅井昭衛は、創価学会に、最後通告を送った後、機関紙やビラで総攻撃を開始し、寺院や会員宅に押しかけて、法論を迫った。
 さらに、宣伝カーによる街頭宣伝や、国会周辺の街頭デモ行進まで行なって、
 「国立戒壇建立!!」
 「創価学会の法義歪曲」
を宣伝した。
 ここまでエスカレートしてしまっては、いたしかたない。宗務院は、半分は創価学会にせっつかれながらではあるが、妙信講に対する処分手続きの準備にかかった。

 一方、創価学会も、全面対決の態勢に入った。
 私が実行責任者となり、全情報師団や法律師団を投入した。
 実力でぶつかり合うことや、組織の末端でのトラブルに備えて、男子部や警備要員が、いつでも出動できるように準備を行なった。
 しかし、外との戦いではなくて、宗内での争いであるから、宗門側の具体的な参加・協力が、ぜひ必要であった。
 宗務院から宗門内に、妙信講に荷担する者が出たら処分する、との強い統制が敷かれ、創価学会の作戦本部である私の方から要請があれば、ただちに対応する態勢を整えていただいた。
 また、創価学会だけでなく、法華講連合会でも青年部員を選抜(せんばつ)し、創価学会青年部と共同して妙信講対策に当たる態勢がとられた。
 また、この日が来ることを予想して、すでに妙信講内に何人もスパイを潜入させてあった。
 館岡倉市事務局長配下のM1、福島源次郎氏配下のM2、M3と暗号名で呼ばれるスパイは、すでに妙信講本部の中堅幹部に昇進しており、本部や浅井の自宅の警備や電話番の役割を与えられるまでになっていた。
 さらに、私の情報師団からも、二名を潜(もぐ)り込ませた。
 彼らを通じて、妙信講の内部情報は創価学会側に筒抜けとなっていた。
 妙信講本部近くのマンションにアジトを作り、そこに情報員を常駐させ、監視に当たった。
 文京区音羽に妙信講本部があった頃、それを見張っていた私の情報師団のアジトが、〝過激派学生運動集団〟のアジトではないか、と公安警察に目をつけられるというハプニングもあったが、その後、妙信講本部が板橋区常盤台に移転すると、すぐ隣のアパートを借り、監視と、盗聴器の受信、そして、宣伝カーの見張りや破壊等の妨害活動を行なった。
 さらに、創価学会直属の興信所を使って、妙信講幹部の身辺調査を徹底的に行なった。
 私の元には、このように妙信講に張り巡らされた情報網から、妙信講のあらゆる会合における指導内容、各支部組織の実態とその活動、浅井昭衛をはじめ、村岡青年部長、長岡男子部長といった主な幹部の言動が、毎日、逐一、正確に報告されてきた。
 情報員達は、時には、当時、妙信講を陰(かげ)で支援していた松本日仁、八木直道師、その他の僧侶が、電話で浅井昭衛をけしかけ、盛んに煽(あお)るやり取りを、浅井昭衛が録音しておいたテープを持ち出したり、ダビングして私の元に届ける、ということまでやってのけた。
 彼らの中には、また、所属していた墨田区妙縁寺の住職松本日仁の身辺警護のため、泊まり込む、という職務を与えられた者もいる。
 私は、妙信講が動き出してから一ヶ月もしないうちに、ほとんど全講員の名簿を入手した。

 こうして、準備万端整えた上で、妙信講の処分に乗り出した。
 まず、宗務院から、妙信講に対し、宗規に定められた手続きにのっとり、処分手続きに入ること、処分に対して言い分があれば、言い分を〝弁疏(べんそ)〟として提出するよう、通告書を送り付けた。
 その上で、所定の手続きを経て、妙信講に対する解散命令が出された。
 浅井昭衛は、講中の動揺を恐れて、解散命令を受けたことを隠そうとしたから、私が集めた講員名簿に基づき、〝解散処分〟を発表した日蓮正宗の機関誌『大日蓮』と、法華講連合会機関紙『大白法』、そして、御法主上人に肉筆で認(したた)めていただいた講員に対する呼びかけの書状(速やかに寺院につくように、との内容)を、全講員に送り付けたのである。
 同時に、法華講青年部と創価学会青年部が共同して、妙信講員への〝折伏〟を開始した。
 こうして、日蓮正宗と創価学会の徹底した反撃にあって追い詰められ、うろたえた浅井昭衛は、ついに、創価学会本部襲撃という、最後手段に踏み切ったのであった。
 浅井昭衛は、十月四日を襲撃の日と定め、青年部幹部と打ち合わせや準備を行なった。
 その様子が、逐一、私の耳に入っていたのは、いうまでもない。
 前日までには、襲撃に参加する人数、その集合方法や服装、指揮官および指揮系統、押し入る方法、最終日程等々が、詳細にわかっていた。
 当然、創価学会は迎え撃つ準備を整えた。
 本部地下に、柔・剣道、空手や拳法などの有段者や、警備のプロの男子部員を五十名ばかり待機させた。
 襲撃側より人数を押さえたのは、〝襲われて防いだ〟という印象を演出するためと、〝その人数で十分対応できる〟と計算したからである。
 また、念のため、本部前の青年会館や周辺施設にも、同様に待機させた。
 聖教新聞社、公明新聞のカメラマンを、要所要所に配置した。都合のよい証拠写真を撮るためである。
 また、後日の法的手段に備えて、弁護士も、本部前の見えるところに待機した。

 この日、午後から、文化会館六階の会議室では、私が主催して、宗務院役僧方と弁護士による、〝正本堂御供養金返還訴訟〟のための打ち合わせを行なった。
 襲撃による緊張感を、宗門側にも直に味わってもらいたかったから、スケジュールをそのように調整したのである。
 午後三時頃、妙信講本部から宣伝カーが出発し、四時前には、外苑東通り曙橋のたもとにある警視庁の前を通過した、との知らせが入った。
 私は、首脳と相談し、
 「学会青年部が妙信講青年部を痛めつけるところを、宗門側に見られるのもまずいので、場所を移ってもらおう」
と提案し、役僧方に、
 「じつは、まもなく妙信講青年部員が、大挙して創価学会本部に殴り込みをかけてくる、という情報が入りました。万が一のことがあってはいけませんので、千駄ヶ谷の国際センターの方へ、一時移っていただきます」
と伝えた。
 緊張に顔をこわばらせながら、役僧方が国際センターに移動された後、私は、文化会館の二階に陣取って、戦況を見守った。
 夕方五時半頃から、信濃町駅周辺に、妙信講青年部員が、三々五々集まりはじめた。
 彼らは、いつものようにビラをまいたりせず、緊張した面持ちで
 「今日は、命がけだぞ!!」
 「思いっ切り闘おうな!!」
などと、ささやき合っていた。
 すでに、宣伝カーが動き出した段階で、四谷警察署に対し、
 「夕刻、妙信講青年部が大挙して学会本部に殴り込みをかけてくる、という確かな情報が入った。ついては、防御と警備のための出動をお願いしたい」
と申し入れていた。
 四谷署からは、三十名の警官を派遣して、警備に当たることになった。

 十月四日、午後六時になると、四谷署の制服警官三十名が、学会本部に到着し、門と前庭に配置された。
 これとほとんど同時に、鉢巻き姿で目をつり上げた、八十名を越える妙信講青年部員が集まり、宣伝カーと共に、閉ざした表門の前で気勢を上げはじめた。
 しばらく警官をはさんで押し問答をしていたが、長岡青年部長の命令一下、数名が塀(へい)を乗り越えて侵入し、内から門扉を開き、全員を構内になだれ込ませた。
 彼らは統制のとれた行動で、一手は、案内所をとりかこみ、一手は、階段を駆け上がって、入り口の鍵を壊して文化会館内へ乱入しようとした。
 警官達も手を出す間もない、迅速な、計画的な行動であった。
 そこで、待機していた五十名ばかりの学会の警備隊が出動した。
 彼らは、たちまち妙信講員の大部分を門の外に押し返し、再び門を閉ざした。
 中に取り残された十名たらずの幹部達は、そこで袋叩きにあった。
 これを見ていた塀外の妙信講員は、宣伝カーを門扉に衝突させて押し開け、再びなだれ込んだ。
 警官達は、なだれ込んだ妙信講員の逮捕にかかり、警備隊は、残る連中を、実力で塀外に排除した。
 三十分あまり乱闘が続いた後、〝引き上げろ〟の号令がかかり、妙信講員達は、信濃町駅方面に引き上げたところを、駆けつけた機動隊によって全員逮捕された。
 創価学会側は、一人も逮捕されなかった。
 創価学会側は、数名が軽いケガをしたが、それは、すべて
 「相手の顔や頭がこぶしにぶつかって怪我した」
というもので、つまり、殴った時に、手の皮がすりむけた、という程度であった。
 一方、妙信講側は、建物の中に一歩も入れなかったのみか、数では劣る創価学会青年部に徹底的に叩きのめされ、多勢がそうとうの手傷を負わされた。
 しかも、全員が逮捕され、長岡・村岡らは、さらに拘留(こうりゅう)されるし、浅井昭衛自身も取り調べを受けるハメとなって、うろたえ、取り乱した。

 何も事情のわからない世論は、
 〝暴力はいけない〟
といって妙信講を非難したし、宗内においても、大勢で仕掛けておきながら返り討ちにあったことが知れわたり、妙信講の面目は丸つぶれになり、同情や支援も失ってしまった。
 池田大作は、自ら御法主上人に電話をし、
 「徹底的にやっつけました。お山へ行くようなことがあっても、創価学会が護ります」
と得意気に報告した。
 御法主上人は、
 「いやはや呆れた。あんなことをする連中は処分しておいてよかった」
と述べられた。
 その後、事態は、裏で妙信講をそそのかしていた、八木直道師と松本日仁の擯斥(ひんせき)へと発展し、妙縁寺へは新住職が任命され、寺の明け渡しをめぐって、また一騒ぎがあった。
 しかし、この騒ぎを機に、妙信講とそのシンパの僧が宗門から完全に追い出されたことで、十年近く続いた妙信講問題は、いちおうの決着を見た。

 その後も、浅井昭衛は、勝手に〝日蓮正宗妙信講〟と名乗り、妙縁寺から持ち去った寺宝の御本尊を本部に安置して、徹底抗戦を続けた。
 宣伝カーを毎日繰り出しては、ビラまきを続ける妙信講を、徹底的に押さえるために、宗門と創価学会で専門機関が作られた。
 学会青年部員と法華講青年部による合同の組織切り崩し隊は強化され、恒常(こうじょう)化された。
 妙縁寺に、執事として派遣された浜中和道師(当時)を名義上の編集・発行人として、顕正新聞に対抗するために〝破邪新聞〟を発行し、妙信講への攻撃と批判を徹底して行なった。
 この破邪新聞は、妙信講の全講員にダイレクトメールで送り付けられたから、浅井昭衛は、講中に〝読むな〟〝開封せずに送り返せ〟などと指令したが、ダメージは深刻だった。
 もちろん、新聞作りの実際の作業は、浜中発行人ではなく、私と、部下の岩住俊典の二人でやった。
 御法主上人は、妙信講掃討作戦を全面的に支援してくださり、いろいろと応援してくださった。
 妙信講は、一方で、訴訟を起こし、法廷で争う戦術を採った。
 妙信講そのものの処分無効を訴える訴訟の他に、松本日仁の擯斥処分を争う訴訟、八木直道師に対する処分を争う訴訟、および、それぞれに対する仮処分異義事件等や、多数の訴訟が起こされた。
 それらに対する対応も、また私に委(ゆだ)ねられた。

 その後、昭和五十二年の初頭まで、創価学会と妙信講の間の小競り合いは続いた。
 しかし、すでに、宗門にとっても創価学会にとっても、妙信講問題は、さほど重要なことではなくなっていた。
 妙信講に対しては、その部下達の、極めて限定的な陣営で、十分に事たりたのであり、池田大作率いる主力は、すでに他の目標に向かって走り出していた。
 昭和五十二年二月になり、裁判の法廷に出廷した松本日仁は、すでに九十歳近い高齢であり、衰弱が目立っていたが、その後、千葉県下の病院に入院した、との情報を入手した。
 その病院を突き止め、学会員の看護婦にカルテを調べさせたところ、老衰(ろうすい)が激しく進み、危篤(きとく)状態だということがわかった。
 この頃、じつは、私は、妙信講裁判を早急に片付けなくてはならぬ状況に置かれていた。
 いわゆる五十二年路線で、池田大作が御法主上人と宗門を徹底的に痛めつけたのに対し、御法主上人は、反撃のために、私の協力を求められたのである。
 もったいないことであったが、宗門と創価学会が衝突すると、妙信講問題が宙に浮いてしまう。
 私は、妙信講問題への影響を理由に、創価学会首脳の宗門攻撃に歯止めをかけたが、御法主上人に対しても、今しばらくのご辛抱をお願いした。
 このような事情があったため、一日も早く妙信講問題に決着をつけることが必要だったのである。

 さて、数ある妙信講関係の訴訟の中でも、松本日仁が原告となっている地位確認訴訟が、妙信講にとって、一番、勝訴の見込みが残っていた(他の訴訟は、すでに宗門側勝訴の見通しがついていた)。
 松本日仁の死亡により、この訴訟が中断してしまうと、妙信講側の旗色は極めて悪くなる(浅井昭衛が松本日仁の訴訟にこだわる理由は、じつはそればかりではなかったことが、後日、判明する)。
 この情報を得た数日後、妙信講側の主任弁護士と、桐ヶ谷章弁護士が地下鉄の中で出会った際、先方から、
 「一度、山崎先生と酒でも飲んで話し合いたい」
との申し出があった。
 かくて、数日後、妙信講の主任弁護士と私との間で、和解の話し合いが始まった。
 私が、松本日仁の病状を先刻承知していることを伝え、それにも拘(かか)わらず、妙信講側に、メンツを保ったまま撤退する機会を与える用意があることを伝えると、相手はただちに、ざっくばらんな話し合いを求めてきた。

 結果として、日蓮正宗側が、妙縁寺松本日仁名義の預金一億二千五百万円を、松本日仁個人の財産として松本日仁に渡す、ということと引き替えに、妙信講関係のすべての裁判を取り下げる、ということで合意に達した。
 もっとも、その具体的な実行について相手方の弁護士は、松本日仁の意思であるとして、一億二千五百万円を〝顕正寺設立基金口座に振り込む〟ことを強く要求し、「これが容(い)れられなければ、和解の話は御破算だ」とまで言った。
 擯斥された松本日仁が、自前の寺を建てたいという意志を持ち、そのために苦労して数十年にわたって蓄えてきた貯金(寺の代表役員名義ではあったが、実際は、松本日仁の労働の対価を積み立てたものである、といっても差し支えなかった)を、その建設費に充(あ)てたいと思うのも、不自然なこととは思えなかった。
 自分が死にかけており、死後、遺族の意向で妨げられないように、生前に建立資金口座に入れておく、ということも、委任を受けた代理人が、そう主張する以上、私の方でそれを云々する理由もなかった。
 「あとのことは、すべて委任された私の責任で処理します。山崎先生の方には、ご迷惑をおかけしません。」
 相手方弁護士にそう言い切られては、それ以上押し問答するわけにもいかないし、病院へ押しかけて、真意を確かめる、というのも大人げない。
 一方、日蓮正宗の方からは、
 「妙信講が、松本日仁から受け取ったとして本部に安置している、寺宝の本尊の返却を求められないか」
 「今後、日蓮正宗と名乗ってはならぬ、という条件をつけられないか」
という要望があった。
 しかし、御本尊については、相手方が返却を拒否したからといって、法的手段で執行吏(り)の手を借りて差し押さえたりするというのも、信仰という観点からはそぐわないように思うし、次の、名称について、制限を付けても、向こうが勝手に名乗るのを差し止めることは困難である。
 妙信講側としても、いずれ、宗門から独立した法人格を取得しないかぎり、やっていけないであろうから、名称のことも、その時に自然に解決するだろうと思われた。
 とくに目に余るようなことがあったら、その時に、名称使用禁止訴訟あるいは、仮処分等の法的手続きを取ればいいのではないか、と宗門に申し上げて、これ以上は、あえて触れないことにした。
 また、妙信講側が訴訟を一切取り下げて、処分の不当性を争わないという態度に出る以上、以後、日蓮正宗の名称を使わないのが常識であり、あえてそれを使うとすれば詐称に等しいことである。
 結局、松本日仁個人の資産として渡すべき一億二千五百万円の預金は、松本日仁の指示に従い、顕正寺建立準備資金資金口座へ振り込む形で支払う、ということで、妙信講側は一切の訴訟を取り下げる、という和解が、四月下旬に成立した。
 このことを浅井昭衛らは、「日蓮正宗が妙信講のためにお寺を作ってくれることになった(お寺を作る資金を出してくれることになった)」等と宣伝したが、松本日仁と日蓮正宗の間の訴訟で、松本日仁に渡される金を、妙信講に支払うなどという和解をしたわけではないし、その金で寺と称する建物を作ろうが、作るまいがい、それは先方の勝手というものである。

 もっとも、この金の処理をめぐって、後に、松本日仁の遺族と妙信講の間にトラブルが生じたようで、私のところにも、松本日仁の遺族の代理人から問い合わせがあった。何とも、みっともない話である。
 また浅井らは、「日蓮正宗妙信講という名称もどうぞ名乗ってください、ということになった」等とも言うが、それは、裁判の場で名称の使用を争うことはしない、というだけのことであって、すでに解散処分を受けた時点で、日蓮正宗内には〝妙信講〟という名の団体は存在しなくなったし、もちろん、その後に名乗る〝顕正会〟という名の団体も、日蓮正宗内には存在しない。
浅井昭衛が勝手に〝日蓮正宗〟と詐称しているだけのことである。

 なお、八木直道師におかれては、後に、妙信講の僧侶蔑視の本性を知り、改悛(かいしゅん)して日蓮正宗に帰伏を申し出て、再び僧籍を得られ、○年○月に逝去されている。
 妙信講は、顕正会と名乗るようになってからも、性根は一向に変わらず、相変わらず〝国立戒壇〟を主張し、独善的・狂信的な活動を続けた。後年、理境坊所属妙観講と法義上で衝突し、厳しく誤りを指摘されると、集団で妙観講に殴り込みをかけたりした。
 しかし、所詮、ごまめの歯ぎしりにすぎない。創価学会を小粒にし、さらにえげつなくした存在にすぎないのではなかろうか。
 浅井昭衛の本質も、所詮は、ミニ池田大作である。
 過去に、日蓮正宗の法義に背き、御法主上人を蔑(ないがし)ろにした勢力は、いつしか消え去っていったが、それらと同様、顕正会も時の流れの中でいずれ消えていく運命にある。
(了)




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【22】(追記)日達上人お言葉、元妙信講講員の皆様へ

2018年01月01日 | 22】元妙信講員へ日達上人お言葉
解散処分の記事の所で書くつもりでしたが、後になってしましました。
浅井会長が隠し通してきた、
日達上人が解散処分に至る経緯と元妙信講員の信心への御配慮をお述べになっておられる「お言葉」がありますので、その全文を載せます。
恐らくほとんどの顕正会員は目に触れたことがないのでは…。
元妙信講講員の皆様へ

昭和四十九年八月十二日
    日蓮正宗管長 細井日達
  元妙信講講員の皆様へ
 今回私は所定の手続きを経て本日付けをもって妙信講の解散処分を行いました。
 昭和四十五年五月三日、日大講堂において私は大聖人の仏法が日本一国のみにとどまらず、全世界の民衆を救済すべき大仏法である建て前から、「今後は国立戒壇の名称は一切使用しない」旨を公式に言明いたしました。
 しかるに妙信講は、この公式決定に従わず、更に昭和四十七年四月二十八日付の正本堂に関する「訓諭」に異議を申し立て、遂には「流血の惨 云云」の言辞をなすに至ったので、このような激越な行動を思い止まらせるために、私は種々努力いたし、時には厳しく誡めもし、あるいは大きく包容する意味での配慮もいたしました。
 しかし妙信講は、その後も今日に至るまで、再三再四にわたる説得や誡告にも従わず、宗務院や同信の徒をかえって非難中傷し、その上遂に宗務院の制止を無視して大衆行動まで起こすに至りました。
 私としては、今までの努力が全く報いられなかったことを甚だ残念に思い、かつ非常に悲しいことではありますが、一宗の統率者として宗門の秩序を守り、統制を保っていくためには、万やむを得ないこととして、遂に今回の措置をとらざるを得なくなったのであります。
 一部の誤った指導者によって講員全体が誤った方向へ向かわされることは、まことに忍びないことであり、この上からも今回の処置はやむを得ないこととしてご了承いただきたいと思います。
 たとえ如何なる理由があるにせよ、万が一にも無用の騒ぎを起こして、宗内を更に乱すようなことがあっては、仏法に違背することとなり、私を益々苦しめる結果となることをよくお考えいただきたいのであります。
 どうか元講員の皆様には、この事態を冷静に受けとめられ私の心情をご理解せられ、そして私の指示に従われるよう願います。
 皆様は、今日以後、その所属寺院を別記四ヶ寺のうち、いずれかに定めて、今日より六十日以内にその寺へ申し出られるよう願います。
 その寺においては、他の法華講員と何ら変わらぬ平等の気持ちをもって遇しますので、その指導教師の指導のもとに、宗門の方針に沿った正しい信心に励んでいただきたいと心から念願いたします。
【所見】
浅井会長は、顕正会は「正々堂々」のようなことを以前から言っていますが、
なぜ、日達上人が仰せられた、妙信講に関する御指南やお言葉のすべてを「正々堂々」と会員に示さないのか。
浅井会長・顕正会にとって都合のいい箇所を切り取って使い、都合の悪いものはその存在すら示さないで隠し通すという事ですか。
「流血の惨」などという極端な暴力(死ぬことをも想像させた)を使って脅していたこと。
このような脅迫、大聖人様の仏法を信ずる者がやることですか!
このような悪事は必ず露見するのですよ。

【文証】「流血の惨 云云」について
<富士250号御遺命守護の戦い132頁、浅井会長解説より>
『七月一日(S47年)、細井管長は妙信講の指導教師である松本日仁妙縁寺住職に、急遽総本山に出頭するよう命じた。
 これを聞いた私は無二の機会と思い、念(おも)いをこめて細井管長に書簡を認(したた)め、松本能師に託した。』
■浅井会長がしたためた書簡。
…道理の通る段階は過ぎ去りました。非理を前とし正直の者はかえって重科に沈まんとしているのであります。此処において御遺命を守り奉り猊下の御本意を再び顕すには、この暗雲を取り除くの他ありません。…されば重大なる決意を固めざるを得ません。すでに講員は学会・宗務当局の無懺無愧に血流を流し、男子精鋭二千の憤りは抑えがたく、【仏法守護の刀杖を帯びるに至りました。】もし妙信講一死を賭して立つの時、流血の惨を見ること必死であります。この時一国は震憾として始めて御本仏の御遺命を知り、宗務当局また始めて御遺命に背くの恐ろしさ、正直の講中を欺くの深刻さをはだえに感じ、ここに誑惑は一挙に破れ、仏法の正義は輝くものと確信いたします。…

●(所見)しかし、浅井会長は、後に都合が悪くなったのでしょう。
<富士250号御遺命守護の戦い137頁>では、【】の所を次のように書き換えています。
「男子精鋭二千の憤りは抑えがたく、仏法守護の刀杖を帯びるに至りました」 を

「男子精鋭二千の憤りは抑えがたきものがあります」 と

国粋主義者のような脅迫を、仏法の言葉で隠していることが会員にバレてしまうと気付いたのでしょうか。

■この脅迫文に対する宗務院の見解がありますので記します。(大日蓮346号)
…七月一日、直接猊下に対し、「男子精鋭二千の憤りは抑えがたく、仏法守護の刀杖を帯びるに至りました」「もし妙信講一死を賭して立つの時、流血の惨を見ること必至であります」「この時、妙信講も斃れ、同時に学会の暗雲もなく、宗務院の奸策もなし。」…「但し一万の命を以て供養にかえ」等々の脅迫文を送り、猊下より訓諭はまったく猊下の本意である旨伝えられるや、七月四日には、重ねて、「この上は、大事出来して一国の耳目驚動の時」云々「さればその時小輩等早く霊山に詣で」云々との最後通告文(※)を送って来ました。
 これら一連の文面を総合するならば“自分たちの主張を通せ、さもなくば、非常手段に訴える。その時は流血の惨事がある。その対象は宗務当局と学会である。そして最後は自分たちも死ぬ”ということであります。
 折から、妙信講の中より、浅井父子や青年幹部が、そのようなことを口にしているので、心配であるとの通知も再三ありました。
 これは、もはや議論ではなく脅迫です。何とか猊下の権威をかりて、自分たちの偏見を通そうとし続け、それがかなわぬと見るや、今度は、脅迫にきたわけであります。これは全く狂気の沙汰としかいいようがありません。口では、大聖人の御遺命を守るとか、猊下の御本意を実現するなどと言いながら、実際に行っていることは、自分の偏見を通すためには手段を選ばぬという、卑劣きわまりないものであります。
 「智者に我義やぶられずば用いじとなり」とは、日蓮大聖人の御金言でありますが、非常手段や流血の惨を用いて、己義を通せとは御書のどこにもいわれておりません。一体、このような手段に訴えることを、大聖人がお喜びになるはずがありましょうか。…

●(所見)解散させられることを計画して、わざと脅迫文を送りつけたこと、明白ではないでしょうか。

(※)七月四日(S47年)の通告文は返書の題で<富士250号御遺命守護の戦い140~1頁>に全文が載ってます。

※解散処分に関する記事
【16】『顕正会は御遺命を守るが故に解散処分を受けたのですから』について
【17】政府への欺瞞回答は本当か?(1)
【18】政府への欺瞞回答は本当か?(2)
【19】解散処分と浅井会長の教義・思想



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【21】顕正会の本尊は、なぜ、ニセ本尊なのか?

2017年12月21日 | 21】顕正会の本尊は、なぜ、ニセ本尊なのか?
●顕正会の本尊がニセ本尊であることを、
次の6項目に分けて、文証・道理を示し破折していきます。
①御本尊の書写について
②本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊の能開所開(のうかいしょかい)の関係について
③御本尊の開眼(かいげん)について
④御本尊の授与について
⑤本尊とは
◆浅井会長・顕正会が妙縁寺から持ち去った御本尊について

①御本尊の書写について-道理と文証

大聖人様は、『本因妙抄(ほんにんみょうしょう)』に、
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書
塔中(たっちゅう)相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」と仰せです。

そして、第五十九世日亨上人は、
「曼荼羅書写の大権は唯授一人金口(こんく)血脈相承の法主にあり」(富要一)
と仰せられ。

第五十六世日応上人は、
「此の金口(こんく)の血脈相承こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝うるものなり之を真の唯授一人と云う」(弁惑観心抄)
さらに、
「此金口(このこんく)嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能(あた)わず」
と仰せです。

このように「書写」とは、本門戒壇の大御本尊を御法主上人が「書き写す」ことですが、それは単に大御本尊のお文字を書き写すことではありません。
御本尊の御書写とは、本門戒壇の大御本尊の御内証を、時の御法主上人が唯授一人血脈相伝をもってお写しあそばされることであり、大御本尊にそなわる御本仏の「たましい」と、御本仏の功徳をそのままお写し申し上げることなのです。

■破折■
御本尊は血脈相承の御法主上人しか書写することができません。
血脈相承も知らず、御法主上人をも誹謗する浅井会長・顕正会が、勝手に複製して制作したのですからニセモノです。偽造本尊です。


②本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊の能開所開(のうかいしょかい)の関係について。
御本仏日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕された人法一箇の「本門戒壇の大御本尊」が日蓮正宗の根本の御本尊です。
各家庭や各人に下付される御本尊は、その根源の本門戒壇の大御本尊の御内証を、唯授一人血脈付法の御法主上人が、その権能において書写され、日蓮正宗の僧侶や在家の信徒に下付されるのです。
したがって、本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊は、もとより能開(のうかい)所開(しょかい)の関係にあります。
大聖人様は、
「能開所開を弁(わきま)えずして…物知りがほ(顔)に申し侍(はべ)るなり」(題目弥陀名号勝劣事)と仰せられています。
■破折■
浅井会長は、
「本部会館の御本尊を即戒壇の大御本尊と仰ぎ参らせて…」などと言っていました。
最近でも新秋田会館の講演で「この御本尊を即本門戒壇の大御本尊…と深く拝し」(顕正新聞H29年9月25日号)と言っています。
大聖人様出世の御本懐たる弘安二年の戒壇の大御本尊まします総本山大石寺に、顕正会員の目が向かないようにさせる意図でしょう。
浅井会長の言う通りとするなら、会館に掲げた顕正会制作のニセ本尊(※)を、即戒壇の大御本尊と仰ぐという事になる。違いますか?

まさに浅井会長・顕正会は、能開所開を弁(わきま)えず、物知り顔にて邪義を述べる大謗法の輩という事です。

(※)会館に掲げている御本尊の中で、浅井会長が妙縁寺から持ち去った御歴代上人御書写の御本尊であっても、あらためて開眼されなければなりません。そして拝む人が御法主上人の御指南に従って正しく信仰しなければ四力(仏力・法力・信力・行力)が合せず功徳は有りません。


③御本尊の開眼(かいげん)について-道理と文証
開眼とは、書写された御本尊を法によって供養し、魂を入れることを開眼といいます。
大聖人様は、『本尊問答抄』に、
「木像画像の開眼供養は唯(ただ)法華経にかぎるべし」
と仰せられています。※木像-板の御本尊、画像-紙幅の御本尊。

第三十一世日因上人は
「木絵(もくえ)の二像は本(も)と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極(しごく)の秘曲なり。日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是なり」
と仰せられ、
第五十六代日応上人は、
「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示(すいじ)し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼(開眼)たる極意の相伝あり」
と仰せのように、
日蓮正宗において御本尊の開眼は、本門戒壇の大御本尊の功力と、「大事至極」の「極意の相伝」による御法主上人の允可(いんか)によらなければならないのです。
すなわち開眼とは、御法主上人の允可によって、本門戒壇の大御本尊の血脈が通じることであり、従来、末寺で信徒に下付されてきた御本尊は、すべて御法主上人の允可すなわち開眼がなされています。
■破折■
顕正会員の方の多くは、御本尊は開眼されなければならないことを知りません。
浅井会長が、ほとんど口にしないからです。
なぜ浅井会長は口にしないのか?
御法主上人を誹謗する異流儀の邪教・顕正会では、当然ながら開眼できないからです。
顕正会員は、開眼されない本尊を、浅井会長や幹部に言われるまま拝まされているのです。

大聖人様は、『木絵二像開眼の事』に、
「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するにその身に鬼神入るが如し」と、
開眼供養をしなければ主人のいない家に盗人が入り、魂の去った死人に鬼神が入ってしまうようなことになると仰せられています。

開眼供養しない顕正会の本尊は、はたしてどうなっているのでしょうか。


④御本尊の授与について-道理と文証
第五十九世日亨上人は『有師化儀抄註解』に、
「然るに本尊の事は斯(かく)の如く一定して・授与する人は金口(こんく)相承の法主に限る」
と仰せられています。
本尊授与を含めた御本尊にかかわる一切のことは、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人以外には許されないと御教示です。

日興上人は『富士一跡門徒存知の事』に、
「御筆の御本尊を以(もっ)て形木に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賎(きょうせん)する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり」
――日興上人の時代において、本尊の大事の相伝もない者が大聖人の直筆御本尊を勝手に形木(かたぎ)に彫(ほ)り、本尊を作って、不信の者に授与して、大聖人様の御本尊を軽しめ、賎(いや)しめた者がいる事をお示しです。
■破折■
浅井会長は、常盤台に浅井会長宅があった頃、その当時の隊長等を会長宅に招き入れ、勝手に印刷して作った日寛上人の御形木御本尊を授与したことがあります。この隊長等は日蓮正宗の御授戒もしていない不信の輩です。
また自宅拠点などにも、この勝手に印刷して作った日寛上人の御形木御本尊を授与しています。この自宅拠点の責任者も日蓮正宗の御授戒を受けていない不信の輩です。
すなわち浅井会長は、身延を謗法の山と化してしまった民部日向と同罪ということです。


⑤本尊とは、
日寛上人は、『文底秘沈抄』に
「本尊とは所縁の境なり」と示され。
妙楽大師の
「正境(しょうきょう)に縁すれば功徳猶(なお)多し、
若(も)し正境に非ざれば縦(たと)い偽妄(ぎもう)無けれども亦(また)種(しゅ)と成らず」
の文を引用して、
正境、すなわち正しい御本尊によってのみ、一切衆生は成仏できると御指南されています。
■破折■
すなわち顕正会のような、正境に非ざる本尊では、たとえ正直純粋であっても成仏できない。と、仰せです。
すなわち顕正会の信仰を、いくら真剣に純粋にやっても成仏できないということです。

●日寛上人は、同じく『文底秘沈抄』に、
「境能(よ)く智を発し、智亦(また)行を導く。
故に境若(も)し正しからざる則(とき)んば智行も亦(また)随って正しからず」
と仰せです。
すなわち対境の正しい御本尊があって、はじめて凡夫の信心(智)が発現し、
その信心(智)によって修行(行)が導き出される。
ゆえに、もし対境の本尊が正しくなければ、正しい信心・修行は導き出されないのです。
■破折■
顕正会のような正しからざる境(勝手に作成した本尊)では、正しい信心は発現せず、浅井会長を教祖のように信じるようになり、浅井会長の意図に合わせようと行動をするようになる。そして浅井会長顕正会の組織で名聞名利を得ようとする。成仏できません。


◆浅井会長・顕正会が妙縁寺から持ち去った御本尊について
浅井会長は
「妙信講に解散処分が下された時、私は松本尊能師に将来の広布推進のため、御本尊を大量に御下げ渡し下さるように願い出た。松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持されてきた大幅の常住御本尊七幅と、日寛上人の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった」(顕正新聞S60年3月15日号)と述べています。
私も、これを聞いた時は、そのまま浅井会長の言葉を何の疑いもなく信じました。しかしこの事は、浅井会長の一方的な発表で、証拠が一切存在しないのです。…話をねつ造したのではないでしょうか。あの用意周到の浅井会長であれば、証拠がなければ将来疑われる可能性があることは想像できるはず、であればこの時、松本元住職から一筆書いてもらうことを要求してもおかしくない。松本元住職も浅井会長がいうように「私の意をよくお聞き下され」たのであれば、何の躊躇もなく「託しました」と文書を残すのが当然ではないでしょうか。
浅井会長が、御法主上人に権能のある御本尊を「託された」というのです。
それ程の大事であれば必ず証拠があるはず。その証拠を示してもらいたい。
示せないのであれば、この事は、ウソであり、ねつ造です。

○大聖人様が、
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中(たっちゅう)相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」
とご教示のように、御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能があるのです。
したがって、妙縁寺所蔵の御本尊であっても、住職(松本氏)の勝手な判断で、御本尊を他人(浅井昭衛)に提供するなどは許されないことです
浅井会長が、妙縁寺所蔵の御本尊を勝手に持ち去った。ということです。

一例として、
元々妙縁寺に所蔵されていた「妙縁寺重宝」と脇書きの入った第六十代日開上人御書写の御本尊があります。
「妙縁寺重宝」なのだから、妙縁寺に所蔵されるべきです。その御本尊が、顕正会の会館に掲げられている、全く道理が通りません。勝手に持ち出したという事です。


妙縁寺から持ち出した歴代上人御書写の御本尊であっても「地頭不法ならん時は我も住むまじき」と大聖人様仰せの如く、不法・謗法の顕正会にあっては、血脈・法水は流れません。
成仏を願うならば、早く顕正会の信仰をやめて、戒壇の大御本尊まします総本山冨士大石寺の清流に浴さなければなりません。
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【20】顕正会作成の本尊

2017年11月26日 | 20】顕正会の偽本尊
●「日寛上人の御形木御本尊」は、年数を経て本紙が変色してきます。
私も、母が昭和30年代前半に「日寛上人の御形木御本尊」をお下げ渡し頂いておりましたが、段々と本紙(御文字が顕されている部分)が薄茶色になっていきました、長年の間に汚れてしまったのかと思っておりました。
ところが、この薄茶色の汚れをきれいに直せる人が顕正会にいたのです。

母や私が所属していた妙信講(解散処分後)の新宿・杉並支部には、日蓮正宗法道院の元法華講員で、浅井甚兵衛氏について法道院から出られた方が多数在籍していました。
これらの方の中にT島さんという人がいて、この方に依頼すると「日寛上人の御形木御本尊」を、きれいにしてもらえるということがありました。
また、顕正会の本部に「日寛上人の御形木御本尊」の汚れを落としたいと依頼すると、やはりきれいにしてもらえました。
しかし、T島さんが、今から数年前、亡くならると、この、汚れをきれいにするということも、本部で受付けなくなったようです。

さて、きれいにしてもらった「日寛上人の御形木御本尊」ですが、戻された御本尊は、汚れを落としたというレベルではなく、全く新しくなったかのようにきれいで、特に本紙の部分は、真っ白になっています。
最初見たときには、どうやって汚れを落としてここまできれいにするのだろう?と、不思議な感じがしていましたが、当時は深く考えなかった。

顕正会の本部が、常盤台の浅井会長宅隣から、公園横に移ったとき(現在の東京会館)浅井会長宅隣の旧本部会館1階が集会室になりました。
このとき、集会室に安置された「日寛上人の御形木御本尊」が、まさに、前記の真っ白な本紙の御本尊。
汚れをきれいにして戻ってきた、本紙が真っ白な「日寛上人の御形木御本尊」と全く同じ?に見えるのです。(後述しますが、実際はきれいにしたのではなく、新しく作成したものと推測できます)

●顕正会の「日寛上人の御形木御本尊」について浅井会長の指導では、
『御形木御本尊については、宗門の全末寺において昭和四十年までは日寛上人の御形木御本尊が下付されていたが、四十一年からは日達上人の御形木御本尊に替わった。松本尊能師は四十年以降この日寛上人の御形木御本尊を妙縁寺に秘蔵しておられたが、私の願い出により、これをすべて託して下さったのである』(顕正新聞S60.3.15号)
としています。
集会室に安置された「御本尊」を見たとき、この妙縁寺にあった「日寛上人の御形木御本尊」であれば、30年~40年を経ているはずで、その間、この真っ白な本紙と、真新しい状態を一体どうやって保ってきたのか?
疑問がわいてきましたが、ここでも深く考えるのをやめてしまった。

このころ浅井会長を信じ切っていた私は、浅井会長が御本尊様のことで間違うハズはないと信念にも似たものがあったので、疑おうと思う気持ちは全く起きませんでした…。完全に洗脳されていました。

しかし、この御本尊のことで間違うハズがないと浅井会長を信じる信念が崩れました…。

(1)一つは、絶対に存在しない「導師曼荼羅の御形木本尊」を授与されたと言い出したこと。
(2)一つは、大石寺塔中の桜梅桃李さんが話して下さった、作成された年代で本紙の紙質が違う事。これは私達でも確認できるほど決定的なものでした。

●-1-について、
・まず導師曼荼羅とは、
葬儀の際に御奉掲申し上げる御本尊で、各寺院の願い出により下付される御本尊です。

・浅井会長は、御形木御本尊について自ら次のように云っています。
 近年本宗において、信徒の増加にともなって、止むなく信心決定までの暫定の仮本尊として、形木御本尊(印刷された御本尊)が下付されるようになった。(理論解説書69頁)
信徒の増加にともなって、止むまく御形木御本尊が下付されるようになった。と云っています。
であれば、
寺院の願い出によって寺院に下付される導師曼荼羅(御本尊)を、御形木にする必要がないでしょう。自分で言っていることが矛盾しているのですよ。違いますか、浅井会長!。
しかも基礎教学書からはこの解説「対境の御本尊について」を項目ごと削除してしまっている。都合悪くなったから削除したのです。

・当然ながら、宗門(総本山大石寺および一切の末寺)に「導師曼荼羅の御形木本尊」は存在しません。確認するまでもありませんが、数人の御僧侶に伺っています。

・よって寺院(妙縁寺)には存在しない御本尊です。浅井会長は、
「松本尊能化は、葬儀のときに困るでしょうとおっしゃって、…導師曼荼羅の御形木本尊まで、六幅授与して下さった」(顕正新聞H19.10.15号)
などと、松本氏が言ってもいない事をねつ造し、真っ赤なウソを平気で言い放ち、会員をダマしている。

・浅井会長は、純粋で無知な顕正会員を、たばかり、ダマしています。

●-2-について、
昭和30年代までの日寛上人の御形木御本尊』の本紙は、「酸性紙」が使用されていている。
この「酸性紙」は、製造過程で含む物質の問題で、紙が劣化し茶色く変色する、との事。

前述したように、私の母がお下げ渡し頂いた『日寛上人の御形木御本尊』が薄茶色に汚れてしまったと思っていたのは、実は汚れではなく、「酸性紙」のため茶色に変色したのだと知りました。
私が知る何人もの方の『日寛上人の御形木御本尊』が、同じように薄茶色になっていたのはそういうことだったのかと。

日本において紙の大変革があり、1990年代には使い捨ての新聞紙等をのぞくほとんどの紙が、変色しない「中性紙」に切り替わる。
昭和30年代までの『日寛上人の御形木御本尊』に使われた「酸性紙」は姿を消していく。
常盤台の旧本部会館集会室に安置された、『日寛上人の御形木御本尊』の本紙が真っ白なのは、変色しない「中性紙」が使われているから。

「中性紙」使われ始めたのは、1990年代、平成になってからのことです。
1990年代、平成になってから作成された…。

妙縁寺に所蔵していた『日寛上人の御形木御本尊』、昭和30年代(1955年~1964年)のものであれば薄茶色に変色しているハズです。
すなわち、本紙が変色せず真っ白いということは「中性紙」を使っている証拠であり、この「中性紙」を使った『御本尊』は、平成になって作成されたということです。
まぎれもなく顕正会で作成した本尊です。
紙の大変革の話は
トチローさんの記事から書かせて頂きました。
トチローさんのブログ
http://houonbou.seesaa.net/article/454045685.html

■御本尊の書写は、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人お一人に限られるというのが大聖人様の仰せです。
【文証】(ニセ本尊破折100問100答より)
「本因妙抄」に、
『血脈並びに本尊の大事は日蓮 嫡々座主(ちゃくちゃくざす)伝法の書、塔中相承の禀承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり』
と仰せられています。

また、第五十六世日応上人は、
『金口(こんく)嫡々(ちゃくちゃく)相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能わず』(弁惑観心抄)と仰せです。
※金口嫡々相承のない者が本尊の書写することはできない、してはならない。

日応上人・法之道には、
『尊師(日目上人の御弟子・日尊)自らも在世中一幅の本尊をも書写し玉はざる。
唯授一人の相伝なくして書写すべきものに非ざるが故なり。
然るに其の末弟として其の禁を犯し、
恣(ほしいまま)に血脈相承ありとして、
本尊を書写せること、
師敵対 僭聖上慢の悪比丘たるべし』
と、仰せです。

・然るに其の末弟として其の禁を犯し、恣(ほしいまま)に血脈相承ありとして、
本尊を書写せること、師敵対 僭聖上慢の悪比丘たるべし
この仰せ、
浅井会長は比丘ではありませんが、浅井会長のことを言っているように思えてなりません。

よくよく拝して下さい。

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