寿命寺の信徒・元11隊18隊幹事です。…あと何年、何十年戦えば達成するのですか? (元顕正会ブログ)

<人類は絶滅の危機に瀕している><残された時間は少ない><広布最終段階>…全て浅井会長の《作り話》です。

顕正会員の方々へ

 本当の広宣流布は、浅井会長が勝手に「もう眼前」などと言えるような軽々しい事ではありません。浅井会長が武道館総会で云い切っていたこと、御遺命守護完結奉告式に本部会館の御本尊の前で宣言した事、ことごとく実現しませんでした。…2020年代の広宣流布も実現しません。道理文証がない浅井会長の願望でしかないからです。
 浅井会長は、独創の教義解釈と思い込みに執着するあまり、大聖人様の正統、唯授一人の御法主上人猊下を誹謗した上、日蓮大聖人の御名・冨士大石寺の名称を盗んで利用しているのです。顕正会は、まさに“似て非なる”宗教団体です。昭和53年以来30数年、人生をかけ最前線で活動し続けた私が言えること--このまま顕正会をやり続けると必ず後悔します。

【34】日達上人御遷化前後のご様子〈その2〉大日蓮と証言から

2018年12月29日 | 【最新記事】
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【34】日達上人御遷化前後のご様子〈その2〉大日蓮と証言から-追記あり

●浅井会長と内藤某の顕正新聞H30年10月5日号の記事は、あまりにもウソが多くその破折の為、
大日蓮昭和54年9月号、奉悼日達上人の記事の中から、
“御密葬の義”を取り上げて記しました。
顕正会員には馴染みの無い用語がある為、用語を選び若干のコメントを加えながら、
まず記事前半を【要約】して、先に記します。
又、【要約】の中で記した、「奥番の御僧侶」は、現在、日蓮正宗布教区の副支院長で、日達上人猊下が腹痛を訴えられてから御遷化まで猊下に付き添われていました。
先日、二度にわたり、布教区の広布推進会で、日達上人御遷化前後の証言を下さり、
証言の内容を【要約】の中に合わせて記してあります。

●最後に“御密葬の儀”記事のうち、七月二十二日までを載せました。

■“御密葬の義”記事前半の【要約】
○七月十九日
 <早 朝>
日達上人腹痛を訴えらよれ、御容態も良くなく、大石寺大奥の対面所お休みになっておられる。

 <午後三時半>
地元の後藤病院院長が往診、後藤医師の診療に従いフジヤマ病院に入院される。
久光主任理事、奥番の御僧侶、病室にて付き添われる。

○七月二十日
治療を受けられる。

○七月二十一日
 <十二時>
日野原医師来診。
牛乳、重湯を召し上がられるまでになられる。
日達上人夫人、細井珪道師、奥番の御僧侶、病室にて付き添われる。

○七月二十二日
 <午前二時十五分>
日達上人、御容態急変し御危篤。
フジヤマ病院より、吉田渉外部長に電話が入る。直ちに渉外部長、久光主任理事、野村理事、川田法成師フジヤマ病院に赴く。

 <午前二時四十五分>
塔中坊(*1)の御住職に内事部集合の至急連絡。内事部(*2)待機。
この間内事部役員が、椎名重役、菅野海外部長、に御危篤の通報を入れる。
吉田渉外部長は、病院から早瀬学林長、阿部総監、大村教学部長等に御危篤を連絡。

 <午前三時>
病院付添は、久光主任理事、吉田渉外部長、藤本庶務部長、丸岡財務部長、高木庶務主任、野村理事、青山理事、長倉理事、細井珪道師他

 <午前三時半>
病院から内事部に戻った吉田渉外部長から、役職員、塔中住職約二十名に猊下御危篤状態にあることと、
御症状の経過説明がある。
渉外部長説明の様子に、御危篤状態から本復(よくなること)の望み無き実状が窺われる。
この間、早瀬学林長、阿部総監、野村宗会議長、早瀬義孔師等、フジヤマ病院に参着。
大奥の対面所では、吉田渉外部長の指示により(御遷化後の)日達上人お迎えの準備に取りかかる。
寺族(*3)を加えて、吉田渉外部長の第二回経過説明が行われる。

 <午前五時五分>
日達上人御遷化。
病室では、お守り御本尊を奉掲され、猊下夫人、久光主任理事が唱題されておられる。
奥番の御僧侶も加わる。
日達上人は、コウゴウしい相であられた。(奥番の御僧侶証言)
付き添われていた奥番の御僧侶、久光主任理事から指示を受け、
猊下御遷化との連絡を内事部に入れる。
日達上人フジヤマ病院を出て大奥(*4)に向かわれる。

大石寺では、猊下御遷化の報に、早くも登山(大石寺に参詣)してきた大石寺周辺の末寺の住職、全山(大石寺在勤)の僧侶共々、直ちに日達上人お迎えの準備にかかる。
高木庶務主任は宗務院の公報として、各(日蓮正宗、全国の布教区の)宗務支院長、学会本部、法華講連合会に御遷化の訃報を入れる。
大奥の対面所では、床の間に御本尊御安置、北枕に御床をとる。

 <午前五時五十五分>
大坊在勤所化小僧、朝勤を終了して大奥へ御遺体お迎えに向かう

 <午前六時五分>
早瀬日慈尊能化、阿部総監、野村宗会議長、大村教学部長、大奥玄関に到着。

 <午前六時十分>
御寝巻、下着を病院へ運ぶ、藁科鑑道師。

 <午前六時二十五分>
御遺体病院出発。大奥門前整列。

 <午前六時四十分>
大奥門前にて阿部総監以下宗務役員等が唱題にてお迎えする中、日達上人は庶務部長、海外部長、早瀬義孔師、細井珪道師、荻原昭謙師の各師がお護りしてお帰りになる。
杉浦要氏は大傘を奉持、財務部長、山口法興師、土居崎慈成師、伊藤瑞道師、三宅統道師、浅井広昌師、西村荘道師、楠美慈調師、鎌田卓道師、岩切俊道師、大藪政道師の各師が白手袋で、大奥玄関より対面所へ日達人を御負担申し上げる。
遺弟、遺族により御着衣替、三衣をお着け申し上げる。

 <午前七時>
御着替了。御遺体に御袈裟、衣をお掛けする。

 <午前七時十五分>
阿部総監導師にて、枕経の儀が厳修される。
総監、久光主任理事挨拶の後、宗務役員、遺弟代表が交代にて導師を勤め、午後七時の仮通夜の為に客殿へ御棺をお移しする迄、読経唱題の声は間断無く、御宝前には焼香の淡煙が満ちた。

 <午前九時すぎ>
池田名誉会長、佐藤法華講連合会委員長、大石寺総代等の焼香の合間、
細井珪道師・遠藤理髪店主(※在家の方で、日達上人の御尊顔を拝することが出来たのは、唯一この遠藤理髪店主だけ:奥番の御僧侶証言)によって、最後の御剃髪、御剃顔が行われた。
●半眼半口の御温顔に感慨を深くされる。
(*1)塔中坊-タッチュウボウ 坊は寺と思えばよいか。大石寺参道両側に日師の蓮蔵坊から現在20数ヶ坊ある。
(*2)内事部-ナイジブ 客殿の西にある、南から北に向かって宗務院、大講堂の次に位置する。
(*3)寺族-ジゾク 御僧侶方の家族。
(*4)大奥-オオオク 大石寺の大坊(ダイボウ)内にある猊下の御座所。

■大日蓮 昭和54年9月/P83~86)
総本山第六十六世御法主
日達上人猊下御遷化あそばさる

  御密葬の儀

 昭和五十四年七月二十二日早朝、内事部からの緊急電話を、記者は自坊で受けた。時計は未だ午前三時前を指しており、電話内容も大至急内事部へ集合するようにという簡単な指示だった為、何事か逼迫した事態が起こった事が容易に推察され、反射的に三日前の情景が脳裏に浮かんだ。
 七月十九日は本種院日成上人第一周忌の満山供養が十時から執行される予定になっていたが、日達上人の大導師を賜ることができず、時間も三十分程遅れて開始になったのである。当日早朝に、猊下は腹痛を催され、御容態も芳しくない旨偶然聞いていた記者は、地元の後藤病院々長が大奥へ入って行くのを見て、御症状の如何が案じられたが、出仕の僧俗も、決して満山供養の大導師は、欠かされることのない猊下が御出ましないのを、憂慮あったことと思う。午后看護婦付添の車で病院に向かわれた猊下を傍らよりお見送り申し上げ乍ら、只管これが杞憂に終わることを祈った。
 しかし御入院后の御容態は、二十一日態々塔中連絡にて、爾後は経過良好、お元気にて快方に向かわれている由連絡があったばかりなのだから、内事部集合は猊下の御容態の件ではないのかも知れないと願いつつ、内事部へ出仕した。が、既に集まっていた数名の表情は、集合の要件を問うのが今更と感じられる暗澹たるものだった。
 その場で、猊下夫人、久光主任理事、細井珪道師が病室にて付添申上げている旨知らされ、我々は内事部待機となった。この間内事部役員は、椎名重役、菅野海外部長に電話にて御危篤の通報を入れ、一方渉外部長は病院にて早瀬学林長、阿部総監、大村教学部長等に連絡したのである。
 三時半、内事部に病院より戻った吉田渉外部長から、待機中の塔中住職約二十名に対し、初めに未だ危篤状態ですと前置きの後、御症状の経過説明があった。以下渉外部長の談話を抄録する。

 七月十九日朝、猊下には腹痛を訴えられ、対面所でお休みになっておられたが、往診の後藤医師の診療に従い、午后三時半フジヤマ病院(白糸滝直北)に入院。猊下の主治医である東京聖露加病院日野原院長は九州の学会に出席中の為往診が出来ず、フジヤマ病院で治療を受けることとなった。
 治療の結果、腸間膜動脈閉塞の疑いあるが、多分盲腸炎だろうということ。昨日(二十一日)日野原医師が九州より帰京して直ちに来診、診断の結果は、昨日と同様だったが、心電図、心音共に異常が認められず、暫らく様子を見守ることになった。
 当日は御容態かなり快復して、牛乳、重湯を召し上がられたほどである。然るに今朝二時に御容態急変して、今猶御危篤。
 渉外部長の飄々とした語り口は普段と変わらざるも、双眸の潤みに最早御本復の望み無き実状が窺われ、一同の胸を衝いた。
 刻々と、学林長、総監、野村宗会議長、早瀬義孔師等の病院参着の報が入り、対面所で猊下お迎えの準備にかかり、寺族を加えた渉外部長の第二回経緯説明、(内容は前回と同じ)があるうちに、五時五分御遷化との連絡が入った。
 茲に六十五世日淳上人より血脈相承を禀けられて爾来二十年、緇素に均しく法雨を注がれ、未だ広布の大願成就ならずして、中道に滅不滅の相を示されたのである。
 猊下大漸の報に、早くも登山して来た近末の住職は、全山の教師共々嘆嗟の間もなく、直ちにお迎えの準備にかかった。高木庶務主任は宗務院の公報として直ちに各支院長、学会本部、法華講連合会に御遷化の訃報を入れる。対面所では、床の間に御本尊御安置、北枕に御床をとり、大奥門前には総監以下宗務役員、大衆が唱題にてお迎えする中、六時四十分日達上人は庶務部長、海外部長、早瀬義孔、細井琢道、昭謙各師がお護りしてお帰りになった。
 折から降りしきる東雲の愁雨に、杉浦要氏は大傘を奉持、財務部長、山口法興、土居崎慈成、伊藤瑞道、三宅統道、浅井広昌、西村荘道、楠美慈調、鎌田卓道、岩切俊道、大藪政道の各師が白手袋で玄関より対面所へ猊下を御負担申し上げた。
 対面所で御着替えを済ませ、三衣をお著け申し上げて七時十五分総監導師にて枕経の儀が厳修され、終了后総監より突然の御遷化に茫然自失なるも、宗門一同団結して正法護持に尽力し、葬儀等真心を尽くして御報恩申上げんとの挨拶があった。更に主任理事の挨拶が述べられた後、宗務役員、遺弟代表が交代にて導師を勤め、午后七時の仮通夜の為に客殿へ御棺をお移しする迄、読経唱題の声は間断無く、御宝前には焼香の淡煙が満ちた。
 一方この間、御遷化の報に擦した遺族、親族、遠近の僧俗は続々参集し、更に御高徳を偲んで有縁の各界の弔問者は引きも切らず、内事部で主任理事が応待に当たり、粛然と焼香に臨んだ。
 池田創価学会名誉会長、佐藤法華講連合会委員長、大石寺総代等の焼香の合間、九時過ぎに細井珪道師他遺弟によって、最后の御剃髪、御剃顔が行われ、半眼半口の御温顔に一同新たなる感慨を禁じ得なかった。
 対面所で傾発師慕の読経が続く傍ら、内事部では主任理事他理事を中心に葬儀奉行の日程、差定が検討され、予定される多数の弔問客収容等に苦慮し乍ら、昼過ぎには密葬本葬の日程、式場が決定し、午后一時よりは、重役、宗会議長、学林長を加えて更に綿密なる討議が加えられた。又間断無き弔問客応待の合間を縫って、商業誌、週刊誌等マスコミの面談、或いは電話での取材応待には一切渉外部長が立ち、式場、饗応の賄いに各々慌しく立ち働いた。
 二時から宗門役員、遺弟、遺族によって、御遺体を御棺に納め奉り、樒で荘厳申上げた。
 こうして瞬刻の間に夏夕迫り、追慕の僧俗が客殿大広間を埋め、愈々御遺体を遷座申し上げる為、行列を整えて六時過ぎ、大奥を踏み出した。行列の次第は、先導青山理事、御本尊奉持総監、位牌奉持庶務部長、先陣海外部長、細井珪道、細井琢道、細井玉道、重役、負担役遺弟十名、後陣遺族、親族、寺族他であった。御尊骸安置後、総監導師による読経が捧げられ、六時半に終了、総監は一旦退場して内事部で少憩。
 客殿大広間の式場は、東側一面に黒白のかいしろが張り渡され、御本尊を御安置申し上げて、御宝前に樒、四華で荘厳された白布の祭壇がしつらえられ、その南側に遺族、親族等、北側に小僧席が設けられた。導師席後方に焼香台が用意され、その後方は一方教師席、一方池田名誉会長、大講頭、佐藤法華講連合会委員長、大石寺総代を最前列に信徒が満場を埋め、午后七時丁度、教学部長開会の辞と同時に鳴り響く出仕太鼓を合図に総監出仕し、如法に御通夜の儀が厳修された。焼香の次第は左の如くである。
 重役、宗会議長、観妙院、観解院、宗務役員、山内教師、一般教師各位、遺族、所化小僧、学会、法華講幹部、一般檀信徒各位。
 八時五分読経終了し、葬儀(密葬)委員長より挨拶があった。このうち、金口相承についての重大発表があったので、次に再録させて頂く。

 前略 次にこの席をかりまして、重大発表をさせて戴きます。本日、午前十一時十分より総本山に於きまして、緊急重役会議が開催せられ、阿部日顕総監様、椎名重役、それに能化であられる観妙院様にも特に出席を戴き、この度の日達上人御遷化に伴なう緊急の協議が行われました。
 会議では阿部総監様が臨時議長となられ、冒頭阿部総監様より、御相承に関する重大なる御発表がありました。
 その内容は「今日までどなたにも秘して来たが、実は昨年四月十五日、総本山大奥に於いて猊下と自分と二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に御相承の儀に関すお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜ったことを御披露する」との旨の重大なる御発言がなされたのであります。
 日達上人猊下には、その以前より御身体の不調を訴えられ、特に心臓機能の障害によってしばしば御入院遊ばされ、治療に専念遊ばされておりました。猊下には特に心臓の病気が急激性をもつものであることにより、これを深くお考え合わせられ、不時のことを慮られて、本宗の重大事たる血脈の不断のために、予め御用意、御処置を遊ばされて、もって不時の事態にお備え遊ばされたものであるといことを、私共は深く痛感いたすものであると同時に、猊下の深い御用意と御配慮に対し奉り、私共は只々恐懼感激致すものでございます。
 重役会におけるこの御発表により私共出席者は深く感動致し、只管信伏随従をお誓い申し上げた次第でございます。
 何卒宗内の僧俗一同におかせられましても、本日只今より新御法主上人を仰ぎ奉り、新御法主上人のもとに、内外共に多難なる今日の局面に於いて、真の僧俗和合、一致団結を遂げて、更に広宣流布の大目的の為に全力を傾注せられ、以って日達上人猊下の御報恩にお返えして参ろうではありませんか。以上をもちまして発表とさせて頂きます。本日は誠に有難うございました。(以上)

 重役の発表に満場の緇素は斉しく御仏意を仰感し、先師の御厚配に感荷領謝して、更なる精進、御奉公を思いつめたことであろう。
 これにより、日蓮正宗管長、総本山第六十七世の称名を日顕上人と尊称し奉る。
日顕上人御退座の後、重役の導師で読経が行われ、終了後一般信徒は退場した。客殿玄関下にて信徒各位に弁当を給仕。
 続いて瀬戸執事の導師によって読経が供えられ、第一日目の御通夜は滞り無く終了した。
 これにより御法主上人御修行の丑寅勤行を挟んで、翌日午后六時迄、塔中住職、遺弟の輪番による導師で読経が間断無く勤行がなされた。遠近の信徒も続々登山し、昼夜を分かたず焼香の途切れることもなかった。
 二十一時五十分、通夜の読経を終えて学寮に戻られた日顕上人に、宗務院役員、内事部役職員一同が御目通り申し上げ、渉外部長が口上を開申せるに対し、猊下は、御自身御報恩の誠を尽くさんとするにより、一同もその処を全うされたしとのお言葉を賜った。学寮を退出して、二十二日の葬儀本部は一旦閉鎖となったのである。

この後、記事は、
御通夜の儀 (8月6日、7日)
本葬の儀  (8月8日)
 ・御出棺の儀
 ・本葬場へ行道
 ・本葬の儀
・御埋葬の儀
初七日御逮夜法要
初七日忌御題目講
初七日忌御正当会
と、続きます。


浅井会長と内藤某(顕正新聞H30年10月5日号)が吐いた、日達上人御遷化に対する悪口①~⑥(『』に示す)を、大日蓮の記事と証言から破折します。
①『細井日達が富士宮市のフジヤマ病院に入院した際には、母は三回ほど見舞いに行っておりました』
<破折>上記に示す通り、日達上人がフジヤマ病院に入院されてから、在家の方が病室に入れる余地はまったくありません。『三回見舞いに行った』などと、全く有り得ない話で、浅井会長と内藤某のウソの作り話です。
②『すぐ退院するものと思っていたところ』
<破折>側近の僧侶も誰もすぐ退院するなどとは言っていません。これも、浅井会長と内藤某のウソの作り話です。
③『激甚の発作に襲われ』
<破折>誰が言ったのですか?それとも浅井会長と内藤某の母がそこにいたのですか?その場におられたのはj上記に示す通り、猊下夫人と側近の祖御僧侶だけです。これも浅井会長と内藤某のウソの作り話です。
④『細井日達が大事な「御相承」を行おうとしていた前日』
<破折>側近の御僧侶ですら知らない「御相承」を、内藤某の母が知っていたと言うのですか?誰から聞いたんですか!有り得ません。これも浅井会長と内藤某のウソの作り話です。
⑤『二時間に及ぶ心臓マッサージを施した』
<破折>医師が、患者の心臓が停止した時に心臓マッサージをする事はあるでしょう。しかし二時間も続けるとは通常考えられません。どこから二時間などと聞いたのですか?浅井会長と内藤某が知る術はありません。これもウソの作り話です。
⑥『なんとその相は見たこともないほどドス黒く、浴び地獄を恐れ叫んでいるような相だった』
 『母は一目見た瞬間、あまりの恐ろしさに親戚の背中に隠れてしまった』
<破折>日達上人の御尊願は、上記に示すように、多数の御僧侶が拝されてております。ブログ記述者も当時日達上人の御密葬で御尊願を拝した御僧侶に失礼ながら直接伺っております。大日蓮の記事にある通り半眼半口の御温顔とのこと。

浅井会長と内藤某による、顕正会の組織防衛(このところ日蓮正宗に帰伏する顕正会員が増えた)のための、恐ろしいばかりの作り話です。
以上。

■追記 【顕正新聞H31年1月5日号】某隊長氏の、活動報告の記事から。
この中で
『細井日達は急死する一年以上も前から、心臓の障害によって何度も入院して治療に専念しており』
と、
“日達上人が、御遷化の一年以上前から、心臓の障害によって治療されていたことを認めています。”

■浅井会長が、基礎教学書(P420)の中で、
『突如として激甚の心臓発作に襲われ』
一年以上も前から、心臓の障害によって治療を続けている、
これを『突如として』とはいいません。
『激甚の心臓発作』に至ってはまったく根拠が無い。
これらが、ウソの作り話であることが立証されましたね。

『…急死を遂げてしまった』
一年以上も前から、心臓の障害によって治療を続けている、
いつ不慮の事態が起きても不思議ではない-これを急死とはいいません。
これを『急死』と言い、いかにも悪印象をイメージさせる謀りであることが立証されましたね。

『大事の「御相承」もなし得ず』
一年以上も前から、心臓の障害によって治療を続けている、
だからこそ、日達上人は不時の事態を慮られて、
昭和53年4月15日に、阿部総監(当時)に内々に御相承(内付)されたのです。
浅井会長の「予想外に急に亡くなったから御相承が出来なかった」(趣意)
との理屈が崩れ、ウソであり謀りであることが、あらためて立証されましたね。

●実際の大日蓮(昭和54年9月号/P82)の記事を載せます。

 近年、故上人(日達上人以下同じ)は四大不調を訴えられ、特に心臓機能の障害によってしばしば入院せられ治療に専念されしが、故上人は不時のことを慮られ、昭和五十三年四月十五日、総本山大奥に於いて、阿部信雄総監(日顕上人猊下)に内々に血脈相承せられ、本宗の重大事たる血脈不断のために、あらかじめ用意されたのである。


●日達上人の御遷化における臨終の相を、
浅井会長や内藤某がいうような『悪臨終』にデッチあげようとしていますが、
では、いったい、どの御僧侶がそのような『悪臨終』であったと言っているのか、
名前をあげて下さい。
大日蓮のどの記事にそのような『悪臨終』が載せてあるのか。
“津山隊長”責任を以て発表して下さい。

●某隊長氏、あなたがすっかり洗脳され、顕正会での自分の立場に執着し、浅井会長を擁護して取り繕っても
ウソはウソ、ニセモノはニセモノなのです。
早く気付かれますように。


コメント

【33】日達上人から日顕上人への御相承について<⑧破折を追記

2018年12月22日 | 33】日達上人から日顕上人への御相承について
【33】日達上人から日顕上人への御相承について<⑧破折を追記


 日達上人から日顕上人への御相承についての証言と、古来より御相承のあり方①~⑦の項目で記し、最後⑧の項目で、浅井会長の御相承についての解説が変わっていく証拠を示し破折していきます。
●御相承は、昭和53年4月15日に行われています
①御相承について日顕上人御指南。
②御相承の本義とその“在り方”。
③日達上人が日顕上人へ御相承の御意志を示す証言。
④御相承の“内付”と創価学会の邪難に対して。
⑤御相承の当日と創価学会の邪難に対して。
⑥御相承箱と創価学会の流言飛語に対して。
⑦御登座の証言。
⑧浅井会長の、御相承に対する己義を破折。  ⇐ この記事の最後に追記

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①【御相承について日顕上人御指南】
 私が前からも申し上げている通り、昭和53年の4月15日に、決定的な意味での(御相承の)お言葉があったのですが、その前から実はね、日達上人から「譲る」ということについての独自の法門内容や、譲るということに対してのお言葉をいただいていたのです。
 しかし、4月15日がやはり決定的な「譲る」という意義におけるお示しがあったということなのです。
 しかしそれも、形式的な儀式としての血脈相承の形、昔から伝わっているような、例えば34世日真上人の御遷化に伴い、御隠尊日元上人より35世の日穏上人が御相承を受けられた時は、非常にきちんとした儀式があったことが文献に残っていますが、その他の方も、形においてそのような儀式があったと言われるけれども、そういう意味での(日達上人から私への)改まったものはなかったのです。
 でもそれも、日達上人はそのうちにきちんとした儀式をなさるか、その経緯を発表なさるというお気持ちは絶対におありになったと思うのです。
これはもう当然のことですしね。
 また、(日達上人の御遷化になった)昭和54年がちょうど日達上人の御登座20周年だったのです。
 その記念行事をなさることと、それがたしか12月のご予定とお聞きした覚えがあります。
従ってその行事が終った時に御相承のことも正式に発表するというお気持ちがおありだったと拝察するのです。
 そのような情況において前々から(御相承に関する)話はあったけれども、結局、外部に公表するという具体的な形が出てなかったのです。
 それから大先輩で、公的私的な意味でも、若い時には指導も受けていた観妙院さん(法道院第3代主管・観妙院日慈上人)がおられてね。
 その時は私も総監になっていたのですが、(大先輩を差し置いた形で私自身が御相承をお受けしたということについて)やむを得ないから、「実はこれこれこういうことです」ということを観妙院さんにお話しして、また、藤本師(常泉寺住職・常徳院日潤能化)にも話をして、その上から(新法主としての)手続が行なわれたわけです。

 私としては、宗門の正義の上からの在り方、また「大聖人様以来御先師方より伝わって来た法が在る」ということをハッキリと証明する意味においても、私がお承けしたことを発表すべきである、と決断したわけです。
 そういうことで、藤本師もいろいろと考えてくれまして、その晩の通夜の時、当時重役であった常妙院さん(平安寺住職・常妙院日澄能化)から、私が新法主となった旨の発表があったわけです。
(第67世日顕上人『富士の法統』妙教編集室)

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② 【御相承の本義とその“在り方”】
▼(創価学会の邪難)日達上人が日顕上人に相承するつもりがあったのなら、日達上人御自身が先師日淳上人から御相承を受けた時の経緯に鑑み、周囲に明確にその意志を告げ、2人きりの場などでなく、公(おおやけ)に相承の儀を行なったであろう。

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 なるほど、後世に動揺を起こさぬためには、日淳上人の場合に拝するように、公に御相承の儀式を示されることもあろうが、そもそも御相承の本義は、御一人から御一人への唯我与我の秘伝であるから、

宗祖から日興上人、
日興上人から日目上人、
日目上人から日道上人、
また御歴代先師方の多くの事例

がそうであるように、むしろ公の儀式を伴わない〝内付〟という在り方が基準と拝せられるのである。

 ことに、日目上人の場合のように、大事の天奏(国主諫暁)に当代の御法主として臨むにあたり、万一の備えとして、予め日道上人に法を付してから旅立とうとされれば、その御相承は、公の儀式を伴わない、言い換えれば他の誰にも知らさない、〝内付〟という形をとられることは当然である。

 翻(ひるがえ)って、昭和53年4月当時の日達上人は、学会の第1次教義逸脱問題による大波乱が続く中、御登座20年になんなんとする大御法主として、一歩も退けぬ御立場で事態の解決に当たっておられたが、一方では、四大の御不調により、万一の備えとして、後継のことをお考えにならざるをえない状況であった。

 このような中で、日達上人が次期御法主を選定される場合に、日目上人の先例と同じく、〝内付〟の形をとられるであろうことは、むしろ誰が考えても、当然すぎるほど当然の御措置であるといえよう。(『慧妙』H14.8.1)

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〈阿部信彰御尊師〉 彼らは、ここで
総本山33世日元上人から35世日穏上人、
57世日正上人から58世日柱上人、
63世日満上人から64世日昇上人、
そして65世日淳上人から66世日達上人

の4例の御相承を挙げています。

〈早瀬庶務部長〉 たしかにこれらの御相承が、それぞれの客観的な状況は異なるにせよ、儀式としての形を採られていることはそのとおりだね。
ただし、だからと言って、内付の形を採られた御先師日達上人から御当代日顕上人への御相承が軽いなどと誹謗することはとんでもないことだよ。

〈藤本総監〉 まさにそのとおり。
700有余年、67代の御法主上人に至る間には、様々な御相承の姿が存したことは言うまでもない。
そして、そのすべてを厳然たる御相承として拝信することが本宗の信仰における根本のあり方だよ。(『大白法』H15.12.16)

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 もとより、創価学会が躍起(やっき)になって血脈相承を否定せんとするのは、血脈があるかぎり日蓮正宗が正当な大聖人門流となって、自らは大聖人と無縁の新興邪宗教となってしまい、その存立基盤が揺らぐことになるからに他ならない。
 だが、そのように言うのであれば、
日蓮大聖人は本弟子6人の中から日興上人ただ御一人に仏法の全てを血脈相承され、その証書として身延・池上の両相承書をしたためられたが、血脈相承の儀式を行なった記録はない。

 また、総本山大石寺が建立されて以降は、第3祖日目上人から日道上人への御相承をはじめ、証書すら認(したた)められなかった例も多い。

 それは、大石寺の住職に就(つ)く御方が血脈相承を受けられた方である、ということが明確になったため、必ずしも証書が必要ではなくなったからであろうと拝される。
 それを、日顕上人の時には御相承の儀式があったとか、なかったとか、訳知り顔で云々すること自体、何もわかっていない証明のようなものである。

 そもそも日蓮大聖人の仏法の深義は、2祖日興上人以来、御歴代上人に、相伝によって伝えられているのである。
 相伝を否定して、法門は全て御書に顕わされているというのであれば、同じ題目を唱え同じ御書を拝する、身延等の他門流の日蓮宗でも、何でも良いことになる。
 しかし、血脈相承なくしては、大聖人の仏法の正義は存しえない。

 現に、大聖人滅後、血脈相承を受けられた日興上人以外の五老僧は、大聖人を御本仏と拝することができず、天台沙門と名乗って幕府等からの迫害を逃れた。
 また彼らは、大曼荼羅を末法適時の御本尊と拝することもできなかった。
日興上人ただ御一人が大聖人の聖意を拝しておられたことは、御消息に明らかである。
 それ以降の御歴代上人においても、その時代時代において、様々な宗門の実情や時代背景がある中、他門の邪義を破しつつ、確実に正法正義を今日まで伝えてこられた。
 これは、すべて、大聖人の甚深の仏法が血脈相承によって本宗にのみ伝わっているが故、に他ならないのである。

 創価学会において、日蓮大聖人を御本仏と拝し、大曼荼羅を御本尊と仰ぐことができたのも、それは日蓮正宗にのみ伝わる血脈相伝の仏法に縁したからである。
 その血脈相伝を否定することは、じつは自らの依(よ)って立つ根本を否定し、破壊することになる。この矛盾(むじゅん)に気がつかないことこそ、頭破七分ここに極まれりというべきである。(『慧妙』H19.5.16)

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 御先師日達上人は、現御法主日顕上人に対して後継指名をなさり(その旨は、周囲の僧俗にも幾度も示された)、金口相承の御法門をことごとく日顕上人に御教示あそばされた(それを結成〈けつじょう〉されたのが、昭和53年4月15日の「甚深の御法門の御指南」である)。
 その上で、御代替わりの時機を選んでおられたが、その実施の前に忽然(こつぜん)と御遷化あそばされたのである。
 凡慮(ぼんりょ)としては、あと、わずかの猶予(ゆうよ)があったなら――とも思うが、しかし、こうした経緯によって、かえって、信仰に邪心を差し挟(はさ)む者共(正信会・創価学会など※)が燻(いぶ)り出され、宗外へ放逐(ほうちく)されたことは、まさに全てが御仏意の妙用(みょうゆう)と、深く恐懼(きょうく)する以外にない。(『慧妙』H14.8.1)
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※顕正会・浅井会長も創価学会同様、こうした経緯により血脈相承に邪心を抱く輩であることがはっきりしました。浅井会長の血脈相承に対する悪言をこのブログの最後⑧で破折します。:ブログ記述者(s)
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③ 【相承を示す証言】

 昭和53年4月15日における、第66世日達上人より現・日顕上人猊下への御相承は”内付”であって、公けの御相承の儀式は執り行なわれていない。
 しかしながら、日達上人のお側に近くに仕えていた方々は、御相承について日達上人より直々に、その御意を承っておられたのである。

●(日達上人、妙修尼に対して)あなたの息子さんに後をやってもらうのですからね、早くよくなって下さいよ(光久御尊能化証言『大白法』H15.11.1)
――昭和49年1月、京都市平安寺へ妙修尊尼を見舞いに御下向されたときの御発言

●(日達上人、野村慈尊師に対して)妙修尼さんに、あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさいと言って励ましてきたよ(野村慈尊御尊師証言『大白法』H15.11.1)
――京都から総本山に戻られたときの御発言

●(日達上人、大石寺出張所にて)私のあとは、(法主を)阿部教学部長(現・日顕上人猊下)にやらせようと思うから、後見を頼みますよ。(第66世日達上人/『慧妙』H14.6.1)
――53年4月中旬、菅野日龍御尊能化(大宣寺御住職)、細井珪道尊師(当時は清涼寺御住職。現在は常在寺御住職)ならびに信者の塚本素山氏を大石寺出張所に呼ばれての御発言。

●(日顕上人に内付があったという発表を聞いて)そういわれてみれば、昭和53年4月を境として、それ以後、日顕上人が本山へ来られた時など、日達上人は、日顕上人を対等に遇されるよう御指示されていた(早川検道尊師=昭和53年当時、日達上人の奥番『慧妙』H14.6.1)

 また、この53年4月以降、地方への御親教の際などにも、時間の合い間を見つけては、日達上人が現・日顕上人に「花押」の書き方を御指南されているのを、随行の役僧の方が拝見した旨、語られている。

 かくのごとく、当時の宗門において立場のたしかな方々が、御相承の事実を拝信され証言されているのであり、これらの厳然たる事実の前には、創価学会の邪説・邪難が入り込む余地はどこにもないのである。(『慧妙』H14.6.1)
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④ 【御相承の“内付”と創価学会の邪難に対して】

あえて周囲に知らせない目的で行なわれるのが「内付」なのだから、内付をされておいて同時に「内外に明確に示され」るはずがない。(『慧妙』H14.8.1)

●<光久御尊能化の証言>
 それについては、光久能化にはかなり明確な記憶があるんですね。
それは「4月15日」の御相承の件で、御法主日顕上人に「あの日は日達上人の御誕生日で、お忙しい日でしたですね」と申し上げたのだそうです。
 それに対して、御法主上人は「私もそういう特別な日と記憶している。
むしろだからこそ、あの日のことをはっきりと覚えているのだ」と仰せられたとのことです。(早瀬庶務部長『大白法』H15.11.1)

▼創価学会の云う、
菅野日龍御尊能化が「昭和53年4月15日の件は知らない」-に対して

● 御法主が次期御法主に対し、御相承の法門を結成する御指南をあそばされた――それを、一いち他の方に話されることの方が不自然である。
 だから、「昭和53年4月15日の件は知らない」のが当たり前で、むしろ、菅野尊師が、日達上人より後継指名の御意を明確に聞かされていた――これこそが大事なのである。(『慧妙』H14.8.1)


▼創価学会が、
「日達上人は相承をしていないんだよ。もし、していたら私が知っているよ。」
「日達上人が日顕上人に対して、人前で平気で、『オイ、お前』と呼んでいた。」
と、菅野日龍御能化が聞いていたと邪難していることに対して。-

● これも捏造です。
事実は全く反対で、私はこの頃、日達上人の日顕上人に対する御振る舞いが変わられたことからも、日達上人から日顕上人へ御相承がなされたことを確信しておりました。
ですから、私がそのようなことを言うわけがありません。
捏造です。
まったく卑劣な者たちです。(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.11.1)


▼創価学会が、
(昭和53年6月25日に、御先師日達上人がある信者に、次期御法主の座を日顕上人に「譲るつもり」だと言われたことを取り上げ)すでに4月15日に御相承がなされていたのなら、なせ6月25日の時点で、「譲るつもり」と言われたのか。
と、邪難していることに対して-。

● それが創価学会と憂宗護法同盟の愚かなところだね。
すでに4月15日には日達上人から日顕上人への御相承は済んでいるが、こと血脈相承に関しては、たとえ相手がいかに有力な信徒であろうと、正式に宗内へ公表する以前の内付の段階で、一信徒に対してすでに血脈相承を行ったなどと明かされるはずもなく、だからこそ「譲るつもり」と仰せられたのだと拝します。(早瀬庶務部長『大白法』H15.11.1)

● 私はむしろ、その信徒に対して、「次は阿部(日顕上人)に譲るつもりでおりますので、よろしくお願いします」と言われたこと自体が重大な意味を持っていると思います。
この件については私も正信会裁判のときに報告書に書きましたが、6月25日の日達上人のこの御言葉により、私はすでに日顕上人に御相承なされているのだなと確信しましたし、それが昭和53年4月15五日の御相承であったと固く信じております。(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.11.1)
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⑤ 【御相承の当日と創価学会の邪難に対して】
<御指南の時間>
▼創価学会が、
相承を受けたという昭和53年4月15日についても、当日誕生日であった日達上人の過密なスケジュールを見れば、日顕上人と2人きりの場などなかったことは一目瞭然である。と、邪難していることに対して-。

●この学会側の疑難の前提となっているのは、近代における2、3の御相承の事例に基づき、〝御相承は「1時間乃至1時間半という濃密な時間をかけ」て行なわれるもので、わずかな時間しかない中ではできえない〟という見解だ。
だが、そもそも、この前提からして間違っている。(『慧妙』H14.7.16)

● 唯授一人の金口の内容を(日興上人が)御自身の御境界においてお示しになったものが存するわけです。
それが、すなわち金紙(こんし)であります。
(中略)日精上人が『家中抄』の道師伝に、(中略)「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典695頁)ということをおっしゃっておりますが、これはまさしく金紙であります(第67世日顕上人)

●この「十二箇条の法門」が、御先師と御当代が相向かわれて伝えられる、秘伝の御法門なのである。 
儀式を整え、1回に濃密な時間をかけて伝授される場合もあろうが、日常の師弟相対の中で、ある程度の期間にわたり何回かに分けて伝授なさることもできる。
また、付弟(ふてい)として選ばれた御方が、すでに、ほとんど法門の深義に到達されていれば、「十二箇条の法門」のうちの肝要のみを伝授なされれば足(た)りるし、あるいは、付弟として選ばれた御方に「金紙」を授け、もって秘伝の御法門を伝えることも可能である。(『慧妙』H14.7.16)


▼創価学会が、
午前9時半に故山口範道師ほか2名の僧侶の御目通り、午前10時頃、原田篤道師一行の御目通りがあり、午前11時頃には日達上人は東京へ向けて出発された。
どこにも御相承を受ける時間はなかった。
細井珪道師が日達上人を追って、宴席を早々に切り上げて東京へ向かった。
と、邪難していることに対して-。

● 日達上人の御長男で現常在寺御住職の細井珪道師から伺った話ですが、細井師夫妻は4月15日の当日、総本山で媒酌人として原田篤道師の結納の儀に立ち会われ、富士宮市内の店で祝いの宴席にも出席されたそうです。
(中略)日達上人が総本山を御出発されたのは午後3時過ぎであり、また細井師夫妻も宴席を早々に切り上げる理由もなく、富士宮の店を出発したのは、宴席の終了した後の午後1時少し前だったとのことです。(阿部信彰御尊師『大白法』H15.11.1)

● このこと(※日達上人が午後3時過ぎに総本山を発たれたこと)は正信会裁判の折、昭和62年頃に裁判所へ提出した細井珪道師の報告書にも述べられていることだね。
この日、御先師日達上人と御当代日顕上人が御相承のために充てられることができた時間は、優に6時間以上もあったんだよ。

創価学会弁護士はこの件についての自称正信会の大嘘を見抜いていたからこそ、この報告書を作成したはずだね。
創価学会は、そのことにほっ被りして、正信会の大嘘をそのまま用いた『法主詐称』を新聞で大々的に報道するとは、道義も何もあったもんじゃないね。(早瀬庶務部長『大白法』H15.11.1)

<昭和53年4月15日の件について楠美慈調御尊師の証言>
● 宗務院の東端にあった印刷室で仕事をしていた時に、たまたま内事部玄関のほうを眺めたところ、事務衣に小袈裟を着けられた日顕上人(当時教学部長)が、内事部玄関へお入りになるところだった(楠美慈調御尊師の証言=趣意/『大白法』H15.11.1)

● 当時、総監さんや宗務院の方々が登院される時は、通常大講堂東側にある宗務院の入口を使われるが、その日、日顕上人が内事部玄関から入られたということは、何かのご用で日達上人に御目通りをされ、その後で宗務院のほうへ見えるのだろうと思っていたが、結局、その日は宗務院へは来られなかった(楠美慈調御尊師の証言=趣意/『大白法』H15.11.1)

● 宗務院の部長が、宗務院玄関ではなく、遠回りの内事部玄関から、それも小袈裟を着けて入られたということは、その目的はただ1つ。
御先師日達上人猊下への御目通りしかないね。(藤本総監『大白法』H15.11.1)


▼ 昭和53年4月15日、血脈内付の当日、楠美君が総本山で阿部教学部長を目撃したのなら、正信会裁判の折に何故出廷させなかったのか。

● 特に隠していたわけではない。
正信会裁判が盛んだった頃、何名かの僧侶に、自分は昭和53年4月15日に内事部に入られる日顕上人猊下をお見かけした、もし上から命じられればいつでも証言しますと話した。
ただ誰からもそれについての話がこなかったので、自分からしゃしゃり出るのもどうかと思い、それ以上話さなかっただけ。(楠美慈調御尊師の証言=趣意/『大白法』H15.11.1)

● 当時は今のように宗務院渉外部の人たちが活躍する状況ではなく、裁判の進行は創価学会の弁護土に任せていたと思う。
その意味では、学会側が楠美君について、「正信会裁判の証人になぜ出さなかった」などと非難するのはあたらないね。(早瀬庶務部長『大白法』H15.11.1)

● また、昭和53年4月15日の当日、日顕上人が御一人で日達上人の御もとへ行かれた事実は、当時、奥番をしていた御僧侶をはじめ、山内の複数の僧侶方の記憶と証言によって、前々からはっきりしているのである。(『慧妙』H14.8.1)
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⑥ 【相承箱と創価学会の流言飛語(*)に対して】
(*)流言飛語-根拠のない扇動的な宣伝。デマ。言いふらされる確証のないうわさ話。

<御相承箱は公開するべきものではない>
▼創価学会の流言飛語、
この箱(相承箱)を所持していることが、相承を受け取った法主であることの何よりの「証拠」だったのである。(『法主詐称』)に、対して。

● そもそも御相承箱とは、その名が示すとおり、唯授一人の御相承という大事に拘(かか)るものであり、相承とは本来、
 「秘すべし伝ふべし」(『本因妙抄』御書1684、全集877頁)
と仰せのごとく「秘伝」なのである。
「秘伝」であるから、公けに示す「物証」とは性質が全く違うし、事実、この御相承箱を「法主であることの何よりの『物証』」にした前例など、宗史に1つとしてない。

 こうした、御相承箱を「法主であることの物証」だなどという、珍無類な発想をするところが、やはり池田狂の走狗たる脱落僧である。
このような御粗末な程度だから、日蓮正宗の僧道から転げ落ちたのだろう。(『慧妙』H15.8.16)

<御相承箱の所在について>
▼創価学会の流言飛語、
ところが、この大切な相承箱が、今現在、本来あるべき日顕(上人)の手元にないというのだ。(略)では、いったい相承箱はどこにあるのか。
ある僧侶は語る。「日達上人はかなり以前から、大宣寺の菅野(尊能師)に相承箱を預けていたといいます」(『法主詐称』)に、対して。

●御相承箱が「日顕(上人)の手元にないという」などと、御相承箱の所在について、いいかげんな臆説(おくせつ)を伝聞の形で書いているが、これを称して流言蜚語(りゅうげんひご)というのだ。

● 15日午後6時12分、日淳上人の命により、御相承箱を守護して左記の6名、大講堂横より出発(略)16日午前6時 山門着、御大事(※相承箱)御宝蔵へ納
(65世日淳上人から66世日達上人への御相承の儀式の記録『大日蓮』昭和34年12月号)
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この時の儀式の終了後、御相承箱は再び大石寺御宝蔵へ収納され、以来、今日まで変わることなく厳護されてきている。
この間、御相承箱を、たとえば「大宣寺」に移したとか、「預け」た、などという記録は全くないし、そのような証言も証拠も何1つないのである。

 そもそも、いったい何故、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けられる必要があろうか。
御相承と一体不可分の関係にある戒壇大御本尊は大石寺に厳護されているのに、御相承箱については「かなり以前から大宣寺」に「預けていた」などという、たわけた話があるはずはないではないか。

 しかも、その根拠は、ただ「ある僧侶」とやら(おそらくは日蓮正宗から脱落した元僧侶であろうが、それは僧侶ではない)が、これまた伝聞の形で「預けていたといいます」と語った、というだけ。
結局、この話、どこまでいっても、流言蜚語でしかないのである。

 むろん、これについて日蓮正宗側では、「何の根拠もない妄説である」として明確に否定され、一方の当事者とされた大宣寺・菅野尊能師も、「御相承箱を預かったなどという事実は全くない」旨、明言されている。

 このように、記録の上からも道理の上からも疑いがなく、また当事者双方も揃(そろ)って否定している以上、これにあくまでも疑義を挟(はさ)みたいなら、いつ、いかなる目的で、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けたのか、明確な根拠を挙げて、自説を証明すべきであろう。
言い掛かりを付けた側に、その証明責任があるのは当然である。(『慧妙』H15.8.16)


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<「相承箱」の中身>
▼ 創価学会が、日亨上人お言葉を捏造、
この相承箱の中身について、堀日亨上人は生前、「百六箇抄、本因妙抄、この両書に関するもの。
あとは授受の代々の法主が伝える1枚の紙切れ」と明かされている。
「紙切れ」とは、いかにも堀上人らしい表現だが、「誰が誰に相承した」という系譜図のようなものといわれている。
そこで、俄然、問題になるのが「誰が誰に相承した」と書き付けられた「紙切れ」に、果たして67世法主・阿部日顕(上人)の名前はあるのかという疑問である。(『法主詐称』)と、書いたことに対して-。

● あろうことか、「秘伝」の御相承箱の中身についてまで、勝手な臆測(おくそく)を述べたてている。
 まず、彼奴らが物知り顔で挙げている、59世日亨上人お言葉と称するものだが、このとおりの日亨上人お言葉はどこにも存在しない。

 そもそも、唯授一人相承に拘る「金紙(こんし)相承」という名目を、御当代日顕上人が平成4年に初めて明かされる以前、御歴代上人におかれては、これを伏せて、時に、天台法華宗等における「切紙相承」のようなもの、と表現されることはあった。
これを彼奴ら脱落僧が、勝手に「1枚の紙切れ」などと言い変えているのである。

 つまり彼奴らは、「切紙相承」と「紙切れ」の違いすらわからぬ、オソマツな似非(えせ)僧侶だということだ。

 また、それ(紙切れ)は「『誰が誰に相承した』という系譜図のようなものといわれている」などというのも、彼奴らの勝手な作り話であり、このような珍説が宗内一般に流れたことは、近代にも絶えてない。

 こうした自らの作り話に基づき、彼奴らは「(系譜図のような紙切れに)阿部日顕(上人)の名前は影も形もないに違いない」などと騒ぎ立てているのだが、これでは、まるで自分の影に吠えつく痴犬である。馬鹿馬鹿しくて、話にならぬではないか。(『慧妙』H15.8.16)
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<―「相伝書」 と 「御相承」 は別と御講義―>
● 御相承の中には両巻抄(『百六箇抄』と『本因妙抄』のこと)はない (第59世日亨上人御講義=昭和18年/大村寿道御尊師等による「聞書」)

● 富士の相承は必ずしも両巻抄に依るのではない (第59世日亨上人御講義=昭和18年/大村寿道御尊師等による「聞書」)

 『百六箇抄』 と 『本因妙抄』 が 「血脈相承」 に含まれてはいないと、彼らの大嘘とは正反対を述べられているのである。

 彼らは、御相承の内容は 『御書全集』 等にすべて公開されているかのように言うが、御相承を知らない者がどうこう言えるはずはなく、勝手な推測である。

 御相承が厳として存することは右の日亨上人の 「聞書」 の文からも明らかである。
『百六箇抄』 や 『本因妙抄』 等は日蓮大聖人の文底下種仏法における広義の「血脈相承」に含まれる御法門の相伝書であることは当然ながら、いわゆる唯授一人の血脈の御相承書ではないのである。(『大白法』H15.11.1)


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⑦ 【御登座の証言】
<7月22日早朝の御措置>
―遺族への確認―
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 7月22日の早朝、あわただしい状況下の本山に着かれた日顕上人は、むろん御自身としては、前もって御相承を受けられているお立場であったが、それが〝内付〟の形であったことから、〝日達上人の側近であれば、予(あらかじ)め、その御内意を伺(うかが)っていたであろう〟と思(おぼ)し召(め)しになって、念のため、菅野尊師らに「あとの当職(とうしょく)について聞いているか」と質問をなさった。(中略)
 すなわち、この後に行なわれる後継発表に先立ち、無用の混乱を避けるためにも、日達上人の御意を伺っていたであろう方々に、念のため確認をされたのである。
宗門を統率されていく御立場として、じつに当然の御措置(そち)であり、なんら誹謗されるべき筋合いなどないことは、明白であろう。(『慧妙』H14.8.1)

●菅野師(現菅野日龍御尊能化)に対して、お側におられた御遺族として、御先師日達上人からどのように聞いているかを御確認されたのも、日顕上人への御付嘱が1年以上前の内付という形で、一般にあまり知られていなかったことから、突然の御遷化に際して、御自身がお一人で宣明されるだけでなく、御遺族が聞いておられることも確認することによって、宗門万代の団結への御配慮をされたものと有り難く拝すべきと思います。(藤本総監『大白法』H15.11.1)

●すでに法を付された御法主上人でいらっしゃいますから、当然のことであり、このように申し上げるのはまことに失礼ですが、あの西奥番部屋での確認のお尋ねの折、創価学会や憂宗護法同盟の者たちが誹謗するような「猊座への執念」など少しも感じられませんでした。
ただただ、法をお護りあそばされるための配慮というか、そういう大きな御立場から御確認なされたと感じています。(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.11.1)

● たしかに、後継の件について、日顕上人猊下(当時総監)から御確認がありました。
それに対して、かねがね日達上人は日顕上人を後継にとお考えになられており、そのことを日顕上人御本人にもお伝えされていたことは遺族一同も承知しており、別の方へというお話は一切伺っておりませんから、遺族を代表して、その場におられた日顕上人や藤本総監(当時庶務部長)に、「次は阿部さんがなると日達上人より伺っております」とお答えしたのです。
(菅野日龍御尊能化『大白法』H15.11.1)

●〈菅野日龍御尊能化〉 日達上人の御通夜の後など、日顕上人への血脈相承に疑義をはさむような者は、誰一人いなかったと思うね。(『大白法』H15.12.16)

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▼創価学会の流言飛語、
 貴殿の除歴を求める声が、宗内に根強くあることを存知か。(中略)また、今も貴殿に怨嗟する宗内僧侶の間で除歴の声が広がっていることについて、どのように思っているのか。(斉藤克司・創価学会教学部長)に対して。

●〝貴殿の除歴を求める声が、宗内に根強くある〟と虚言するが、そもそも日蓮正宗の御法主上人は、大聖人以来の金口の血脈をお受け遊ばされて御登座なされるのであるから、宗門において〝除歴〟などということはあり得ないのである。
宗内に根強くあるというならその明証を示せ。(『大白法』H16.4.16)

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⑧【 破 折 】

●浅井会長は、基礎教学書(P424)に。
『御相承があったとする「昨年(昭和53年)四月十五日」には、阿部教学部長が本山に登っていた形跡がなく全くなくこれを立証する証拠もない
と、根拠なく言う。

・御相承当日の証言は、
奥番をしていた御僧侶をはじめ、山内の複数の御僧侶方が証言されていることを、⑤に示しました。浅井会長の云っていることが全くのウソであることがわかると思います。

・『阿部教学部長が本山に登った形跡がない』を立証できますか?
・出来なければ『これを立証する証拠もない』も全くのウソです。

●御相承の本義とその在り方は、
“内付”が基準と拝察されることを、②に示しました。
浅井会長は、その本義を知りもしないのに
『ただ自己申告だけだ』
と、御相承が“内付”であった事実を、顕正会員に隠して、誹謗、悪口しているのです。

●さらに浅井会長は、基礎教学書(P424)に、
『ゆえに「総本山大奥において二人きりの場で」というその時刻を衆僧から追及されても、未だに発表できぬままになっている。』
などと云う。

●この文にある『衆僧から追及され』の“衆僧”とは、後に戒壇の大御本尊を誹謗するに至る正信会の者で、
日蓮正宗では、この正信会の者たちを処分して、日蓮正宗僧侶の資格をはく奪している。
ところが浅井会長は、この戒壇の大御本尊を誹謗する正信会の“衆僧”が、日顕上人を攻撃しているとみるや、かまわず平気で利用する。
すなわち、 “衆僧”と書けば、顕正会員が、日蓮正宗の僧侶だと思い込み、身内の僧侶からも疑われたと、思わせることを狙ったのでしょう。

戒壇の大御本尊を誹謗するに至る正信会が、昭和56年に起こした訴訟まで利用し、
(日顕上人が)『追及され』たと、イメージするように話をねつ造しています。

●そして、『時刻』『未だに発表できぬままになっている
と、ウソにウソを重ねる。
御相承(内付)が行われた時刻は、⑤に示した証言のとおり、
日達上人が本山から、午後3時過ぎに発たれるまでの間(優に6時間あったとのこと)です。

この証言が掲載された大白法が、平成15年11月
であり、
浅井会長が基礎教学書を出したのが、平成27年10月です。
大白法に掲載されてから、何年もたっているのに、
『未だに発表できぬままになっている』
と云う。
小学生でもわかるウソです。
本当の事を知らない顕正会員が相手ならダマし続ける事はできるでしょう。
しかし、ウソはいつかバレる。
浅井会長が、いくら事実をネジじ曲げても、
悪は善に勝てないのですよ。

■浅井会長もかつては、ほぼ日蓮正宗の正論を述べていました。
しかし、徐々に自説を捻じ曲げて独創理論に変わっていきます。
変わっていく様子を検証します。

【「宗門・学会」抗争の根本原因】(浅井会長著 平成3年10月/p225~6)
この血脈相承こそ本宗の命脈であり、この付属を受けられた上人は即「下種の僧宝」であられる。すなわち僧宝とは、別しては日興上人、総じては嫡々代々の御法主である
では、もしこの付属相承の儀が省略されるようなことがあったらどうなるのか――。そのような非常事態が万一あったとしても、血脈が断絶するようなことは断じて有り得ない。御本仏の下種仏法は金剛不壊である。
法体たる戒壇の大御本尊は厳然とましまし、金口の相承(御大事)また厳然である。万一相承の儀式が省略されたとしても、大聖人の御意に叶う法器だにあれば、法主また不断である。
 金口の相承とは、いわゆる口伝えのごときものではない。濫(みだ)りの言挙(ことあ)げは畏(おそ)れ多いのでこれ以上の言葉は慎むが――考えてもみよ、御本仏が下種仏法を万年の外(ほか)尽未来際まで久住せしむるのに、どうして途中で断絶するような方法を御用いあそばすであろうか甚深の御仏智に深く信を取らねばならぬ。いかなる事態があろうとも、本宗の血脈は絶対に断絶するものではないのである。
法主として最も重大なる相承授受において、六十六代細井管長に「授」なく、六十七代阿部管長に「受」なしと、大衆より疑われる事態を招いたのである。
 ただし重ねていう。六十六・七代のいかんに関わらす、御本仏の三大秘法は金剛不壊であり、金口の相承・血脈は不断である。


僧宝とは、別しては日興上人、総じては嫡々代々の御法主である
⇒すなわち、嫡々代々の御法主である、日達上人、日顕上人、御当代日如上人は、僧宝であらせられる。

付属相承の儀が省略されるようなことがあっても血脈が断絶するようなことは断じて有り得ない
⇒日蓮大聖人から日興上人への付属相承で、付属相承の儀はなかった。
⇒日目上人から日道上人への付属相承も、内付の故に付属相承の儀はなかった。
⇒故に日達上人から日顕上人への付属相承も内付の故に付属相承の儀はなくとも、血脈相承が断絶するようなことは断じて有り得ない。

考えてもみよ、御本仏が下種仏法を万年の外(ほか)尽未来際まで久住せしむるのに、どうして途中で断絶するような方法を御用いあそばすであろうか
⇒大聖人様が、途中で断絶するような方法は用いられない。
⇒途中で断絶しないのだから、当然日達上人から日顕上人への御相承もなされている。

甚深の御仏智に「深く信を取らねばならぬ」
⇒『700有余年、67代(現在68代)御法主上人に至る間には、様々な御相承の姿が存したことは言うまでもない。そしてそのすべてを厳然たる御相承として拝信することが本宗の信仰における根本のあり方だよ』
藤本総監(当時)の御指導と同一轍です。
⇒故に浅井会長も、
六十六・七代のいかんに関わらす、御本仏の三大秘法は金剛不壊であり、金口の相承・血脈は不断である。」
と正論を述べています。

◆(A)⇒ よって「断絶」ではなく「疑われた」と、云っている。
「六十六代細井管長に「授」なく、六十七代阿部管長に「受」なしと、大衆より疑われる事態を招いたのである。」


(顕正会本部職員の某理事が、「御相承の客観的証拠を示せ!」などと息巻いていましたが、これがいかに日蓮大聖人の御心に背いた「深く信を取る」ことが出来ない、大謗法の悪言である事が理解できると思います。)

【「新春座談会・浅井先生に聞く」】(冨士平成五年二月/p13~14)
 しかし、細井管長から阿部管長への時は、儀式が省略された。ゆえに「授」なく「受」なしと疑われたのだ。
 だが、血脈は絶対に断絶しない。たとえ御相承の儀式があろうと、なかろうと、絶対に断絶はしないのです。大聖人様の下種仏法は、
「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までも流るべし」
 ではないか。断絶してたまるかい。長い歴史の間にはいろいろなこともある。しかしどのような事態が起きようとも、断絶しないようになっているんだよ。大聖人様の御仏智によって。
 戒壇の大御本尊は、一日として付属の人の空白ということがない。「金口嫡々」ということは、俗にいう“口伝え”などどいうことではないのです。もしそいうものだったら。長い年月の間には変化してしまうじゃないか。何千年・何万年経(た)とうと、何代・代を重ねようとも、また面授の儀式があろうとなかろうと、断絶もせず、色も替わらず、伝わるように出来ているんだ。これが御本仏の御仏智なのです。
 だから御相承の儀式のあるなしは、本質的には全く問題ない。断絶など有り得ないのです。
 まして、広宣流布の時には日目上人が御出現になるんだ。前生所持の御方が御出現になったら、断絶するもしないもないだろう。


戒壇の大御本尊は、一日として付属の人の空白ということがない
⇒すなわち、日興上人、日目上人…日達上人、日顕上人、御当代日如上人、一日として付属の空白ということがない。

◆(A)⇒よって、ここでも「断絶」ではなく「疑われた」と云っています。
「細井管長から阿部管長への時は、儀式が省略された。ゆえに「授」なく「受」なしと疑われたのだ。」
そして、浅井会長は“疑われた原因は儀式を省略したから”とした上で、
「御相承の儀式のあるなしは、本質的には全く問題ない。断絶など有り得ないのです。」
と正論を述べています。


◆(B)⇒「日目上人が御出現になるんだ。前生所持の御方が御出現になったら、断絶するもしないもないだろう」と、
前生所持の方が出現するから-という、独創理論を混入させています。


【本部指導会 顕正新聞平成11年4月25日号】
「すなわち御相承の断絶であります」
「細井管長は御相承を「授ける」ことができず、阿部管長また御遺命違背の科(とが)によって「承ける」ことができなかった。「授」なく「受」なしであります。



◆(A)⇒この平成11年から「疑われた」ではなく「御相承の断絶」と変わるのです。
平成10年、浅井会長は、正本堂の解体を知って、
「誑惑は根底より清算され、不敬は解消されたのであります」(顕正新聞764号)
と、御遺命守護完結宣言を行い、日蓮正宗(宗門)に最大のアピールをしました。
しかし、半年たっても日蓮正宗(宗門)からは全く何の反応もなく、見向きもされなかったのです。
そのためた為でしょうか、
突如として「御相承の断絶」を言い始めました。


【浅井会長講演 顕正新聞 平成28年2月25日号】
「広宣流布の時には日目上人が御出現になる。忽ちに血脈は蘇(よみがえ)るのです」
「血脈断絶など有り得ない」


◆(B)⇒「日目上人が御出現になる。忽ちに血脈は蘇る
「蘇る」ということは、途中で切れている、断絶しているから「蘇る」という事。
日目上人が御出現して「蘇る」までは、断絶しているとい云っている。
下種仏法を根底から破壊する大謗法の発言です。

浅井会長の独創理論で云えば、
「現在は断絶しているが、前生所持の日目上人が御出現になれば、血脈は蘇る」
となるでしょう。
「私は、血脈断絶など有り得ないと常に言っている」などと、ゴマかそうとしていますが、
大謗法の発言をして、多くの会員を誑(たぶら)かした罪はまぬがれません。


【浅井会長講演 顕正新聞 平成30年】
「もし御遺命を堅持される貫主上人が御出現になれば、忽ちに血脈は蘇る」(1月5日号)
「やがて大聖人の御意に叶い奉る貫主上人が御出現になれば、血脈は忽ちに蘇る」(6月5日号)


◆(B)⇒「…貫主上人が御出現になれば、血脈は忽ちに蘇る
⇒前生所持の日目上人が御再誕されるから“蘇る”と云っていたのではありませんか。
⇒なぜ、日目上人ではなく、…貫主上人なのですか。
⇒支離滅裂です。謀ろうとするから、矛盾が生じるのです。


以上。


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【32】日達上人御遷化前後のご様子<その1>

2018年08月04日 | 32・34】日達上人御遷化前後のご様子
【32】日達上人御遷化前後のご様子
 日達上人の御遷化について、ひどい悪言の登壇があったようです。(顕正新聞H30.10.5号)
実際の様子を、日蓮正宗妙通寺様がホームページに載せて下さいましたので、ご紹介します。
(妙通寺の御住職は、細井道迅御尊師)

 顕正会では、彼らの前身である「妙信講」を講中解散処分に付した総本山第66世日達上人を逆恨みしています。そして、怨嫉心から「日達は臨終に際して、たくさんの血を吐き、苦しみながら亡くなった」などという悪口を言いふらしています。

  かつて江戸時代、北山本門寺(現在、身延派所属)の僧が、「大石寺の第9世法主である日有は、楠の板に本尊を書いて偽作本尊を作成した。その結果、日有は隠居した後、癩病という重大病を発症して、苦しみ、のたうち回りながら死んだ」と言いふらしたことがあります。

 これは、本門戒壇の大御本尊を否定する、謗法の悪侶の言葉ですが、いつの時代でも、正法を憎む人間は、日蓮大聖人の仏法について正論で大石寺に対抗できないとわかると、御法主上人を怨嫉し、あらぬことを言いふらして人心を惑わすのが常である、ということを証明しているのかもしれません。

 さて、昭和54年7月21日は土曜日でした。日達上人は土曜日の夕方をご家族と一緒に穏やかに過ごされており、夕食も普通にとられました。その際、翌日のご自身の予定を側近の方に伝えられていたほどです。そして就寝され、その数時間後に、成住壊空の法理のもと、肉体としての寿命を全うされて、日達上人は臨終を迎えられました。そのお姿は穏やかで御尊顔はふっくらと、頬には赤みをおびているほどでした。訃報を聞きつけ、ただちに全国各地から総本山に参集してきた僧侶や親族の方々も、その尊い御姿・御尊顔を拝して、深い悲しみのなかにも、報恩謝徳の念をもって静かに唱題させていただいたものです。

 当時、日蓮正宗とは無縁であった浅井会長らが、日達上人のご臨終に接する機会など、あろうはずもなく、まさに「見てきたような…」と言われても反論できないでしょう。

 なお、平成30年9月に開催された顕正会の会合で、日達上人の遠い親類と自称する人物X(人物エックス)が『日達上人の臨終の相は、恐ろしいものだった』『10時間も心臓マッサージをして苦しんでいた』等と語ったようです。
 しかし日達上人のご臨終は、7月22日のまだ夜も明けぬ未明だったこともあり、その場には、日達上人夫人とご子息、そして一部の側近の方だけが立ち会われており、日達上人の遠戚はおろか、こうした発言をした人物の関係者が臨終に立ち会っていた事実は一切ありません。

 そもそも人物エックスは、どのような立場の人間なのか? また「10時間も心臓マッサージ」を続けるなど絶対にあり得ないことなど、どうして、こんな酷(ひどい)いことを、ご遷化から40年もたった今頃、突然言いだしたのか、まったく理解に苦しむところです。


【日蓮正宗・妙通寺様ホームページ】

●『…その場には、日達上人夫人とご子息、そして一部の側近の方だけが立ち会われており、日達上人の遠戚はおろか、こうした発言をした人物(顕正会員内藤某)の関係者が臨終に立ち会っていた事実は一切ありませ
ん…』という事です。
●上記とは別に、
当時大石寺理事補であられた、久光日康能化(前妙縁寺住職、昨年12月、遷化されました)は、日達上人が「お腹が痛い…」と仰せられた時からお側におられ、そのご様子をお話下さったことを、同御能化に同行されていた御僧侶(現在布教区の副支院長)から伺いました。同じくこの時、記録係をされていた御僧侶からも同様にお話を伺いました。:ブログ゙記述者

●総幹部会で登壇した内藤某氏の話がウソの作り話であることがわかりますね。このような悪言を扇動して、日達上人を誹謗し陥(おとしい)れ、重い罪障を作り続けているのが浅井会長。という事でしょうか。



【大日蓮(昭和54年9月号)「総本山第66世日達上人猊下御遷化あそばさる」より】

7月22日 午前 7時 大奥対面所にて御枕経

7月22日 午後 6時 御霊棺 、大奥対面所より、 大客殿東側に用意された祭且へ御遷座。
7月22日 ~ 23 日両日に旦り、午後 7時より日顕上人猊下大導師のもと、仮通夜の儀、執行。

7月24日 午前 10時より、御密葬の 儀が執行せられ、御霊棺は客殿前より、塔中を下り、三門前より 富士宮火葬場へ。
御灰骨還御


・二十六箇条「時の貫主たりと雖も…」の記事、合わせて見て下さい。
<「己義」⇒「云うこと」⇒「貫主」と、ネジ曲(ま)げる>Click

 (連絡先:TEL070-1437-5280 メール右上の✉より) 皆さん、早く本当の日蓮大聖人の仏法を求めて訪ねてきて下さい。
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【31】伊東君へ(御相承について)

2018年08月04日 | 31】伊東君へ(御相承について)
【31】伊東君へ(御相承について)

顕正新聞8月15日号に掲載されたあなたの記事を見ました。まず申し上げます。大聖人様より唯一人、唯一人…と連綿と伝持され、現御法主日如上人に至る「唯授一人の御相承」を、大聖人様の御金言を踏みにじる異流儀の顕正会に云々する資格は無いのですよ。
続いて論証します。


●論証
大聖人様は、“僧”について
『新池御書』に
「法をこころえたるしるしには、僧を敬い、法をあがめ、仏を供養すべし」(御書P1461)と、
『報恩抄』には、
「僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(御書P268)
と仰せです。
大聖人様が、
“僧を敬い”
“仏宝・法宝は必ず僧によって住す”
と仰せられているのですよ。
顕正会は、平気でこの大聖人様の御金言を踏みにじる。
なぜ、
「仏宝・法宝は“必ず僧によって”住す」
と、大聖人様は仰せられるのか。
大聖人様が『一代聖教大意』に、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書P92)
と仰せです。
「この経」とは、いうまでもなく“三大秘法”。
「相伝」とは、唯授一人の御相承。
この御相承については『百六箇抄』に、
「白蓮阿闍梨日興をもって総貫首と為し、日蓮が正義悉(ことごと)く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢(おわ)んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」(御書P1702)
と、明瞭に仰せられています。
顕正会は、
“尽未来際に至るまで”(末法万年尽未来際)
“嫡々付法の上人を以て”
との仰せを恐れげもなく平気で踏みにじり
-御相承が成し得なかった- と、誹謗。仏法破壊の大謗法を犯している。
大聖人様が
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(『一代聖教大意』P92)
と仰せられる大聖人様の相伝仏法に敵対する大謗法です。
御金言の“僧”であり、“嫡々付法の上人”あられる日達上人、日顕上人を、
口を極めて誹謗し、相伝を否定することは、大聖人様を否定することにつながる、仏法破壊の大謗法です。
「仏宝・法宝は“必ず僧によって”住す」のですから、
“僧”と“相伝”を否定することは、「仏宝・法宝」をも否定する事になる。
故に大聖人様は、『真言見聞』に、
「凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧。三宝一体なる故なり」(御書P608)
と仰せられているのです。
大聖人様は、『新池御書』に
「末代の衆生は法門を少分こころえ、僧をあなずり、法をいるかせにして悪道におつべしと説き給えり。」(御書P1461 ※いるかせ→おろそか)
※顕正会は、
日達上人、日顕上人を誹謗して“僧をあなずり”御相承を否定して“法をおろそか”にしていますね。
同じく『新池御書』に、
「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程には信心も弱く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし」
(御書P1457 ※恭敬→つつしみうやまうこと)
と仰せです。
※顕正会は、
解散処分前の妙信講は“信心有るように見え候が”、
登山御開扉を受けなくても平気なほど“中程には信心も弱く”なり、
“僧をも恭敬せず”
“供養もなさず”、
広宣流布を進めているのは自分達だと“自慢して”、
御相承否定の“悪見をなす”。
違いますか?
さらに、
「人皆口には此の経を信じ、手には経巻をにぎるといえども、此の経の心に背く間、悪道を免れがたし」(御書P1456)
と仰せです。
※顕正会は、
口には御本尊を信じて、勤行をしているといえども
“此の経の心に背く間、悪道免れがたし”
ではないでしょうか。
「この経の心」とは、
この後の御文に、
「此の経の心」を知れる僧がいる、その僧に近づき… 
と仰せです。
すなわち、
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(御書P1457)と大聖人様は御教示です。
「此の経の心をしれる僧」とは、どなたか。
大聖人様は、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(『一代聖教大意』P92)
と仰せです。
「此の経」を、相伝されている僧、すなわち御法主上人猊下です。
※顕正会は、
この御金言をも踏みにじり、此の経の心を知れる僧、御法主日如上人猊下に近づこうとしないばかりか、御登山の悪口、66代、67代猊下への誹謗を重ねて、日蓮正宗総本山大石寺への道を塞(ふさ)いでいます。
「此の経の心に背く間」すなわち御相伝をお受けされている御法主日如上人に背く間、
「悪道免れがたし」の大謗法者ではないでしょうか。

大聖人様は、仏法の実践(修行)について、
「仏法を修行せんには人の言を用ふべからず、只仰いで仏の金言をまほるべきなり」(『如設修行抄』P671)
人の言(ことば)を用いるな、仏の金言を守りなさい”と仰せです。
※顕正会は、
浅井会長の言葉を用いて、仏の金言を踏みにじっていますね。
・金言如く実践(修行)しなければ、成仏は叶いません。広宣流布の大願も成就しません。御金言を踏みにじる顕正会では、成仏できず、広宣流布も成就しないという事です。
大聖人様が、
「金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」(『最蓮房御返事』P642)
と仰せの如く、“金言の如く修行する”ことが肝要です。
●日蓮大聖人を末法下種の御本仏として正直に信ずる者は、大聖人様の御金言を信じます。
『竜の口・光り物の大現象』、『戒壇の大御本尊の真偽』、『御歴代猊下・御相承』の
「客観的証拠を出せ」などと言うのは、
大聖人様の御金言を信じない謗法者の発言です。
宗教法人顕正会も正信会や創価学会と同じ異流儀の邪宗教という事です。
●大聖人様の仏法の根幹である相伝・御相承を誹謗するような仏法破壊の顕正会に御歴代の「御相承」を云々する資格など無いのがわかりますね。まず日蓮大聖人の御金言を信じることから始めるべきです。御金言を信ずる事が出来れば、「細井管長は御相承をなし得なかった」などという大謗法の愚論が出てくることはありません。
宗教法人顕正会は「都合のいい御金言だけを利用し、都合の悪い御金言は、無視して踏みにじります」と言われても仕方がありませんね。
・1年半前、
私が、「浅井会長は顕正新聞に『国立戒壇という名称を使わないからといって、それを以って直ちに違背とはいえない。』と云ったではないか」と詰問すると、
あなたはそれを否定した。
さらに、私が「証拠があったらどうする」と詰め寄ると、
あなたは「あったらあっただよ、それだけの事だよ」と情けない回答をして来ましたね。
浅井会長は、
「今日『国立戒壇』という名称を使わないからといって、それを以って直ちに違背とはいえない。」(顕正新聞平成元年1月25日号・冨士平成元年3月号)
と云っているのですよ。
いつまでも「宗門が国立戒壇を捨てた…」などと作り話を吹聴して会員をダマして
いるのはどういうことですか。
あなた達は、大聖人様への正直な信心が無いのでしょうね。
(元日本橋の伊東N君へ 寿命寺信徒:元杉並のSより)

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【30】二百万達成記念総幹部会の浅井会長発言より

2018年08月04日 | 30】二百万達成浅井会長発言より

【30】二百万達成記念総幹部会の浅井会長発言より

■「さあ、次の目標は三百万であります」(H30.8.5号)
と、200万の勧誘が終わったと思いきや、すぐに次の300万に取り掛かれとご命令です。
200万の勧誘が達成しても何があるわけでもありません。
「二百万達成の重大意義」(H30.6.5号)と、
さも「重大意義」があるかのように謀っています。三百万を薄くして、もともと二百万であるかのように謀るのが目的でしょう。その実態を見ていきます。

●男子部十万結集を成し遂げる…。は、どうなったのか?
 この男子部十万結集、全く言わなくなりました。
 現出来そうにないと感じてきたのでしょう。
 20年代の然るべき時に「本部総会」を埼玉スーパーアリーナで開催する。
 と、ゴマカシ始めています。
 内容も男子精鋭ではなく、
 東京・埼玉・神奈川・千葉を主力として代表が参加と、云う事が変わっています。


●平成33年までに、300万を成し遂げる…。は、どうなったのか?
 この300万、平成33年までに実現出来そうにないと感じたのでしょう。
 「200万達成の重大意義」、「広宣流布の基盤二百万」などと、
 急に、200万に意義付けをしようとしています。
 「次の目標は三百万であります」とトーンダウンし、
 平成33年までに達成との声が消えました。

⇒浅井会長は、
 「この大仏事に、人生をかけ、命をかけ、何の悔いがありましょうか。」と、
 言う程重要な、顕正会の根幹の目標であるはずが、
 都合が悪くなるといとも簡単に、云わなくなったり、変更したりするのです。

 皆さんがリアルタイム味わっている、顕正会の現実の現証です。
 皆さん、このまま顕正会をやり続けると必ず後悔します。

【男子部
■十万の結集、三百万達成-浅井会長の宣言を検証します】
●平成18年9月 男子部臨時幹部会
『昨年の幹部大会で、私はこう言った。「他国侵逼まであと十有余年、その時までに男子部精鋭十万を結集して、大聖人様応え奉ろう。日本を救おう」と。』(浅井昭衛先生講演集P13)

 日本に残された時間は少ない-。
 その時までに男子部十万結集することが日本を救うために大事なことのハズです。
 その男子部十万結集の声が聞かれなくなってきました。
 都合が悪くなってきたのでしょうか。

『中国が動き出すであろう2010年代の、まさに入り口に当たっております。この年に三万人の男子部大会を開き、いよいよ十万結集を確実にしたい。』(浅井昭衛先生講演集P13)

 現在2018年、中国が動き出すとの宣言は現実になりませんでした。
 平成21年、男子部大会を開きましたが、10万結集は確実になりませんでした。

『日本に残された時間は少ない。
中国の日本への侵攻は、早ければ2010年代、遅くとも2020年代、
まさしく「あと十有余年」であります。』(浅井昭衛先生講演集P49)

 「早ければ」と言っていた2010年代もあと1年と数か月、
 現実になっていません。

 いままで宣言していた「ソ連の侵略」や「中国の侵略」も
 浅井会長の示した期限には、現実になっていません。

 ソ連に至っては国家体制が消滅してしまいました。
 ですから2020年代の中国の侵略もないでしょう。
 浅井会長自身の思い込みへの執着(我執)からくる勝手な空想です。
 今まで、浅井会長の言ってきた事が、現実になっていないという現証が根拠です。

『三百万の仏弟子と、その先陣たる男子部精鋭十万があるならば、日本は必ず救える。そしてこの十万は、三万の結集がなればもう眼前ではないか。』(浅井昭衛先生講演集P50)

 平成21年男子部大会を開きました。三万を結集したとの事です。
 眼前のハズの男子部精鋭十万、いまだに結集出来ていません。これが事実です。

■平成20年9月 男子部幹部会
『十万の男子精鋭があれば、日本は必ず動く。そしてその十万の成否は明年の三万結集にかかっている。』(浅井昭衛先生講演集P54)

『今はオリンピック(2008年)があるから世界の目を意識しているが、それ以後、必ず弾圧が始まる。「反革命分子」は根こそぎ刈り取られるに違いない。』(浅井昭衛先生講演集P76)

 北京オリンピックから10年経ちましたが、「反革命分子が粛清される」といったようなニュースは耳にしていません。
 現実にならなかった。浅井会長の作り話だった、あるいは謀った。のですね。


『いまや百三十万に達せんとし、三百万も眼前となってきた。
三百万の仏弟子の集団が出現し、その先陣たる十万の男子精鋭が結集して大諌暁に立つとき、一国は動く、日本は必ずめざめる。』(浅井昭衛先生講演集P80)

 平成33年三百万達成も、男子部十万結集も、
 虚(むな)しさがただよってきました。

 浅井会長が言うところの「日本は必ずめざめる」
 顕正会が認められるということも虚(むな)しくなるのではないでしょうか。

『この大仏事に、人生をかけ、命をかけ、何の悔いがありましょうか。』(浅井昭衛先生講演集P81) 
 よくも平気でこんな事が言えますね。

 浅井会長は昭和57年にも、
 「顕正会員は今後二十五年の御奉公に自らの一生成仏かけて立ち上がって頂きたい。」
 と、強々と確信に満ちて宣言されていました。
 しかし、広宣流布が達成する、できなければ日本は核戦争で滅亡する。
 と云っていた、25年後の平成19年、浅井会長の宣言は、実現せず虚(むな)しくなったのです。
 浅井会長は無視して何の説明もしない。これが事実です。
 この時本気で、一生成仏をかけて人生をかけた人たちがどれほど犠牲になったか。

■平成21年8月 男子部大会)

『ついに男子部精鋭三万人の結集が、ここに成し遂げられたのであります。』(浅井昭衛先生講演集P85)

『アメリカの中国問題の専門家は、「早ければ2010年代の半ばにも、アメリカ海軍が西太平洋に入ることは困難を伴うようになるだろう」と予測しております。』(浅井昭衛先生講演集P113)
 浅井会長は、よくやるように他人の論文を紹介しましたが、
 すでに2018年です。
 2010年代半ばを過ぎても、アメリカの海軍が西太平洋に入ることが困難になったなどまったく現実になっていません。

『何としても三百万の大陣と、その先陣たる男子部十万結集を成し遂げなければならないのであります。
私は、あと十二年のちの平成三十三年、2021年までに、断じてこれを成し遂げたい。』(浅井昭衛先生講演集P118)

 以前の記事でも述べた通り、浅井会長の宣言は実現していません。
 浅井会長が間違っている事の証左、現証です。



■「もう入信勤行が間に合わないような時が来る」(H30.8.5号)

宗教法人顕正会への入信が間に合わなくなるなどという事はありません。浅井会長の妄想です。
大聖人様御遺命の広宣流布と、宗教法人顕正会の勧誘活動(折伏)は、全く別なものです。
隊長や支隊長など幹部の皆さん、このような空想話を利用して、組織の顕正会員に押し付けるのを考え直しましょう。多くの班長は、また勧誘活動(折伏)に駆り立てられることが苦しいのですよ。
誰よりも、隊長、支隊長自身も苦しいのではないでしょうか。
顕正会の活動を見直して、信仰の寸心を改めて下さい。

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【29】何度も変わる広宣流布の浅井会長宣言

2018年08月04日 | 29】何度も変わる目標と広宣流布の日

●浅井会長は、
「2020年代こそ広宣流布の決戦場である」(H30.6.5号)
「二百万達成の重大意義」(H30.6.5号)
「今、核兵器を使用しての第三次世界大戦が刻々と近づきつつある」(H30.5.25号)
「核を用いてのこの大闘諍が始まったら。人類は絶滅する。日本も亡ぶ」(H30.5.25号)
等々…。
昭和57年以来、約40年、全く実現しないこの種の宣言を、何度繰り返してきた事でしょうか。

●浅井会長の宣言を検証します。

■【武道館23回総会(昭和57年)・浅井会長宣言




「あと二十五年で広宣流布できなければ、核戦争によって日本も世界も絶滅する。日蓮大聖人の御命令はすでに下っている。ここに妙信講は本日より日蓮正宗顕正会と名称を改め、背水の陣で一国広布に出陣する」(冨士昭和五十七年十月号)




< 昭和57年 浅井会長発言の要旨 >
・日本の破局が眼前に迫ってきた
・戦後三十七年続いた安逸の時代は終わり、いよいよ破滅の時代が始まろうとしている
・日本の破局


第一に経済崩壊-国内の経済危機は破局寸前…あと数年で国家機能そのものが麻痺する
第二に食糧危機-ただならぬ異常気象を見る時日本が食糧危機に襲われるのは時間の問題
第三に世界動乱-ソ連という修羅の大国が全世界に脅威を与え第三次世界大戦がまさに起こらんとしている-ソ連は海上輸送路いわゆるシーレーンを攻撃するか、あるいは日本の一部を占領する。それは北海道である可能性が最も強い(筆者註:ソ連は消滅、現在のロシア)

・日本の破局はいつから始まるか-


ある気象学者は来年(昭和58年)の九月に関東大地震が起こると年月まで特定して警告しております。仏法の上から考えて(筆者註:仏法とは何の関係もありません)「当たらずといえども遠からず」と私は思っている。
そのゆえは大聖人様の御在世には文永元年に前代未聞の大彗星が出現しその数年前にあの正嘉の大地震が起きている。
すでに昭和六十一年に大彗星が出現することは確定している。されば大地震もまた遠からずと、そしてこの大地震を号鐘として、それより日本は破局の坂道をころげ落ちていく

・顕正会員は今後二十五年の御奉公に自らの一生成仏かけて立ち上がって頂きたい。

【検証】昭和57年から二十五年後は、平成19年-。どうなったのか。
⇒浅井会長の言う広宣流布は実現しませんでした。
⇒そして核戦争によって日本も世界も絶滅するとの宣言-全く現実になりませんでした。
⇒経済崩壊も、食糧危機も現実にならなかった。。
⇒昭和六十一年の大彗星が出現する前に遠からず起きると言っていた関東大震災も起きなかった。
⇒第三次世界大戦も起きなかった。
※この昭和57年の発言が全く実現しなかったことについて、浅井会長は何の説明も出来ませんでした。
この浅井会長の「作り話」と「ハッタリ」を、武道館に1万人を集めて宣言したということです。
※一生成仏がかかっていると思い込み、広宣流布の達成は自分達にかかっていると思い込んで、この25年間に人生をかけてしまった多くの会員達はどうなってしまったのか。この頃顕正会員だった人達は、特に幹部はほとんど姿を消してしまいました。


■【武道館24回総会(昭和61年)・浅井会長宣言




「ここに大聖人様より発言の資格を給わり(中略)一国広布の最終地点を見据えた具体的な目標を、発表させて頂くものであります。
私は、広宣流布までの目標を、三つの段階に分けて考えております。
第一の目標は百万の達成であります。
第二の目標は一千万。
そして第三が一億までの弘通であります。
まず第一の目標百万を、私は今後十年間で成しとげようと決意しております。
そして百万から一千万までを次の七年で成しとげる。
さらに一千万から一億の弘通を、次の七年で成しとげる。
これが私の決意であります。非力の凡夫の成し得るところではないが、御本仏の御守護を頂けば必ず成しとげられると、私は確信しております。(中略)もうすでに時は来ております。
いま広宣流布ができなければ日本は亡びる。世界は亡びる。」(冨士昭和六十一年四月号)




< 昭和61年 浅井会長発言の要旨 >
◎第一の目標  百万 ・・・・・ 平成 8年(昭和61年から十年)。
◎第二の目標 一千万 ・・・・・ 平成15年(平成 8年から七年)。
◎第三の目標  一億 ・・・・・ 平成22年(平成15年から七年)。
・ソ連の軍事増強はすでに我が国の存立を脅かすほどになっている。
・日本破局の幕開け号鐘となるべき巨大地震も、確実に近づいている。
・破局が早いか、日本の広宣流布が早いか。この一事に、日本の運命も、世界の運命もかかっている。
・顕正会の弘通が進み必ずや英邁な御法主が出現し顕正会の純粋な信心と一筋の御奉公を深く信頼する時が必ず来る。
・顕正会が百万を超える時信心ある学会員は国立戒壇の正義にめざめ顕正会に馳せ参ずることは仏法の道理。
・憲法改正-どの党の議員でも国立戒壇建立の一事について賛成すればよい反対する議員は落とせばよい。

【検証】平成8年の百万、平成15年の一千万、平成22年の一億、全て実現していません。
⇒いま広宣流布できなければ日本は亡びる。世界は亡びる-現実となりませんでした。
⇒もうすでに時は来ている。-現実にならなかったのはウソだったという事です。
⇒破局の幕開けとなる巨大地震-起きませんでした。こういう巨大地震が起きるハズだとの浅井会長の勝手な思い込みです。
⇒破局が早いか広布達成が早いか-両方とも現実になっていません。会員を心理的に駆り立てるための「作り話」。
⇒顕正会を認める御法主上人が出現する-出現しませんでした。顕正会のような謗法の団体を認める猊下がなど出現する事は絶対にありません(謗法厳誡:二十六か条の通り)。浅井会長が自らを認めてもらいたいという願望ではないでしょうか。
⇒学会員が大挙して馳せ参ずることはありませんでした。-顕正会の国立戒壇は、日蓮正宗で言っていた国立戒壇とは内容実態が違います。顕正会の国立戒壇は正義ではありません。仏法の道理で有るはずもなく、浅井会長の謀りです。
⇒憲法改正の実行-出来ませんでした。将来に渡って顕正会の人数では出来るはずもなく論外。一人の議員の当選落選に関与することすら出来ないのは皆さん実感ではないでしょうか。

※昭和57年にあれだけ宣言しておきながら、突如として一国広布の開始を4年もずらし遅らせました。
それでも浅井会長の宣言は実現しない。浅井会長の「勝手な思い込み」「作り話」であること明らかです。

■【昭和62年度幹部大会・浅井会長宣言】




「この百万をいつまでに達成するかについては、昨年の武道館大総会ですでに定めております。この路線にいささかの変更もない。あと九年(平成8年)で必ず成し遂げます。(中略)
大総会は、この百万達成までは開かないことにしたい。それまでの間は、毎年本年のような幹部大会を開いていきたいと思っております。(中略)
次の第三回大総会は、顕正会が百万を達成して第三の戦いを開始する時に、開催する以外にはありません。(中略)ここに、大聖人の御遺命を奉ずる仏弟子五万人を結集し。第三の戦い開始の大儀式を行いたい(中略)
この五万人の大総会こそ、まさしく顕正会が、大聖人様のお待ち遊ばす法戦場に到着したことを顕すものであります。」(冨士281号)




【検証】
⇒平成8年必ず成し遂げると宣言した百万、実現しませんでした。
⇒「第三回大総会」開くことができませんでした。
⇒「第三の戦い開始の大儀式」「大聖人様のお待ち遊ばす法戦場」-浅井会長の「作り話」だからいかようにも変更するのでしょうか。




●【平成9年8月度総幹部会・浅井会長宣言】
「私は前々から『大聖人様のお待ちあそばす大法戦場』ということを、繰り返し云ってまいりました。まさしく本年(平成9年)七月十六日以降の戦いこそ、この大法戦場そのものであります。(中略)そして八月三日の記念幹部会で私は、大聖人様に対し奉り、謹んで一千万の大法弘通をお誓い申し上げた。(中略)あと十五年、いや、限りなくこの時間を縮めていきたい。(中略)顕正会の戦いは、大聖人様の大悲願力のお手伝いをしているのであれば、必ず事は成就する。大聖人様の御守護により、必ず大事に間に合うのであります」(顕正新聞平成9年9月5日号)




●【平成9年9月 仙台会館開館式・浅井会長宣言】
「すでに大聖人御照覧の、御馬前の戦いであります。(中略)この一千万を、私は十五年(平成24年)以内で成し遂げたい。さもなければ他国侵逼に間に合わない」(顕正新聞平成9年9月15日号)




●還御を祝し奉る記念大会(平成10年9月)
「顕正会の会長として、謹んで大聖人様に誓い奉る。一千万は、あと十五年、平成二十五年までに必ず成し遂げること、堅く誓い奉る。」(折伏理論解説書改訂版)




【検証】平成25年、必ず成し遂げると言った一千万。実現しませんでした。
⇒元々平成15年に達成だったハズの一千万。平成25年と目標を10年延ばしたが、実現せず。
⇒「他国侵逼に間に合わない」も現実になりません。ウソ、ハッタリであったことが証明されました

◆「顕正会の戦いは、大聖人様の大悲願力のお手伝いをしているのであれば、必ず事は成就する」
と浅井会長は宣言しました。
⇒成就しなかったという事は、大聖人様のお手伝いではなかった。ウソだったという事です。

◆「大聖人様の御守護により、必ず大事に間に合うのであります」
⇒間に合わなかったということは、大聖人様の御守護は無かったということです。
ハッタリの宣言に大聖人様の御名を利用したということです。

◆「すでに大聖人御照覧の、御馬前の戦いであります」
⇒大聖人の仏法に存在しない「御馬前の戦い」。文証・道理も無い浅井会長の作り話であることが、証明されたのではないでしょうか。


■平成30年7月現在、200万達成と組織でいつにも増して活動している様子がうかがえます。
しかし、顕正会員の皆さん、浅井会長は。200万が出来ても同じことを繰り返すだけです。
過去の浅井会長の宣言が証明しています。
浅井会長の言う広宣流布はニセモノ。
どれだけ苦しい戦いをしても、ゴールは有りません。

200万と言っても、それだけの会員数がいるのではないことは、
皆さん実感としてわかっていると思います。特に幹部の方。

広告にある
「日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決する」
など大聖人様の金言をネジ曲げた浅井会長の謀りです。
「人類は絶滅の危機に瀕している」
「日本は亡国を招かんとしている」
「残された時間は少ない」
など、浅井会長の「作り話」です。

顕正会の200万の前に安倍政権は崩壊すると言った部長さんとやらがいるそうです。
安倍政権も短命ではありませんでしたね。



●200万達成記念幹部会
●20年代の然るべき時に「本部総会」埼玉スパーアリーナで開催する。(顕正新聞H30.6.5号)

何度も何度も自ら宣言した事が、実現しなかったことから、浅井会長は2020年代とか、然るべき時などと、到達点をはっきりと宣言しなくなりました。
しかし、過去に宣言してきたことが実現しなかった、現実にならなかった、という“現証”は曲げようのない事実です。

にもかかわらず、「私は前々から、2020年代こそ広宣流布の決戦場である」などと述べます。
本当に「前々から…」でしょうか?
前々には、
「あと25年(H19年までに)で、広宣流布出来なければ、日本も世界も核戦争によって絶滅する。」と云っていました。
その次は、
「平成22年まで一億、破局が早いか、日本の広宣流布が早いか。この一事に、日本の運命も、世界の運命もかかっている。いま広宣流布ができなければ日本は亡びる。世界は亡びる。」と強々と云い切っています。
また、還御を祝し奉る記念大会では、
「一千万は、あと十五年、平成二十五年(2013年)までに必ず成し遂げる」と宣言しています。
どこにも「2020年代」など、全く出でてきません。

これから開催されるという「200万達成記念幹部会」や「本部総会」、何かと特別な意味合いを持たせようとしていますが、浅井会長は今までと同じような事を、繰り返し云うだけでしょう。
浅井会長が口頭で宣言するだけで、事実上の終着点もないでしょう。

平成28年、浅井会長は、顕正会だけに通じる広宣流布の定義を自ら創作しました



「国民の過半数たる六千万が南無し奉れば、国主も動き、国家意思も決せられ、
四十九院申状の仰せも事相となる。これ事実上の広宣流布である」
「このとき、御生骨はいよいよ光を放ち給う。そしてこの大現証により、残る六千万も一時に信ずるのである」(顕正新聞H28.6.15)
と発表。ウソと謀りに満ちた顕正会ニセモノ広宣流布の定義です。

そしてこの時すでに、
「この二百万は新たな出発点である。」と云い。
「…弘通は加速度を増し、一気に一千万、三千万、六千万となる」と宣言しています。
200万の後も、まだ延々と戦いと言う勧誘活動を続けると、浅井会長は宣言しているのですよ。
いままで見てきた通り、この種の宣言、事実になることはありません。
終着点はないのです。


人生の大事な時間を無駄にしないで下さい。

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【28】会長の言う不敬の御登山は本当か?

2018年08月04日 | 28】会長の言う不敬の御登山は本当か?
御登山について
浅井会長は、
「距離は関係ない遥拝勤行でいい」と、何度も己義を刷り込み、
“大御本尊様への御参詣”から遠ざかるように、洗脳を繰り返しています。
顕正会員が、“大御本尊様への御参詣”に、目が向くことがよほど怖いのでしょうか。

●浅井会長の言っていることを検証します。

■浅井会長は、
内房尼御前(うつぶさのあまごぜん)の例を挙げて、
「これを以て思うに、御遺命に背いたままの登山が」(顕正新聞H30.4.25号)
などと、
「御遺命に背いた」という話と合わせ、
「大聖人様の御心に叶うわけがない」(同)として、顕正会員への洗脳を続けています。

○「御遺命の背いた」などという事実はありません。
浅井会長の作り話(*)です。

内房尼御前について、大聖人様は、
『氏神へ参りてあるついでと候ひしかば、見参に入るならば定めて罪深かるべし。
其の故は神は所従なり、法華経は主君なり。
所従のついでに主君への見参は世間にもそれ候。
其の上尼の御身になり給ひてはまづ仏をさきとすべし、
かたがたの御とが(失)ありしかば、見参せず候。』(御書1204頁)

主君である大聖人様への見参が、所従である神のついでとあっては、
定めて罪が深いと仰せられ。
『尼ごぜんは親のごとくの御としなり。御なげきいたわしく候ひしかども、
此の義を知らせまいらせんためなり。』(御書1205頁)

『此の義を知らせ参らせんため』との
大聖人様の深い御慈悲の上からの御振る舞いで、
浅井会長の「御遺命に背いた」などという作り話(*)とは、
全く関係ありません。
「御聖意に背く登山」、との作り話(*)を、
「大聖人様の御心に叶うわけがない」
と、無理矢理、内房尼御前の例にこじつけているのです。

■浅井会長は、千日尼御前御返事の御文を切り文にして、隠している箇所があります。
-何度も「雷門の鼓…」の御文を挙げるが、この前にある御文を示さない。
この前にある御文をあえて隠(かく)して示さないのです。

この浅井会長の、前の御文を隠して「雷門の鼓…」から示し続ける洗脳が功を奏し、
千日尼の夫がどなたであるか、回答出来る顕正会員はほとんど居なくなってしまったのではないでしょうか。

千日尼の夫は、あの阿仏房です。
阿仏房は、九十歳のご高齢にもかかわらず、文永十一年から、弘安元年の五年間に
佐渡から身延まで三度も御登山されています。
山賊海賊がいる中を片道三十日かかる道中、
しかも御供養の品を背中いっぱいに背負っての登山です。
一回々の登山が命がけで有ることは容易に想像できます。
阿仏房は大聖人様から阿仏上人と上人号を賜るほどの信心の方。
夫である阿仏房を佐渡から送り出す妻の千日尼も深い信心の志を持たれていました。
このような背景の中で、大聖人様から千日尼が賜った御書が、
千日尼御前御返事です。
浅井会長が、切り文にして隠した「雷門の…」の前にある御文を拝しますと
「佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に、
女人の御身として法華経を志しましますによりて、
年々に夫を使いとして御訪(とぶら)ひあり。
定て法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏、
其の御心をしろしめすらん。
譬(たと)へば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾(しゅゆ)に影浮かび、
雷門の鼓は千万里遠けれども打てば須臾に聞こゆ。
御身は佐渡の国にをわせども心は此の国に来れり。仏になる道も此くの如し。」
(平成新編1290頁)と。
佐渡の国より身延までは山海を越えて千里に及ぶ、女人の身として志し、夫の阿仏房をして大聖人様を訪ねられた。御身は佐渡の国にあっても、心は夫の阿仏房と共に大聖人様の元に来られた。…という事です。

【破折】
「心こそ大切」なのだから、遥拝勤行でいいのだというのであれば、
なぜ阿仏房は、命がけで三度も御登山をしたのでしょうか。
浅井会長がは、文証・道理をもって説明できていない。
会員をダマすための己義です。違いますか。

阿仏房は、弘安二年91才で亡くなられておられます。そ前年、90才の時に三度目の御登山をされています。
鎌倉時代当時の、90才です。御登山がいかに大事か、推して知るべし。ではないでしょうか。

●御登山について、
大聖人様は、
あの強信の四条殿にも、
「然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障を定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(御書1501頁)
と仰せられています。毎年、度々(たびたび)の御登山をされている四条殿に、
さらに、「いよいよ、はげむべし、はげむべし」と勧められています。

また上野殿には、
「参詣遥(はる)かに中絶せり。急ぎ急ぎ来臨を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし。」
(御書1569頁)
と仰せられています。

日寛上人も、寿量品談義の中で、
「志有らん人は登山して拝したまへ」(富宗10巻131頁)
と仰せられています。

-御登山は大聖人様、先師上人の仰せです。

浅井会長自身、
『およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として「死ね」ということであります』(冨士271号「試練と忍従」36頁)
と、言っている。

浅井会長は「御遺命に背いた」「御聖意に背く登山」 などとウソの話を作り上げ、顕正会員を登山・御開扉をさせないようにしている。
浅井会長の言葉を使えば、御登山・御開扉を拒否するということは、
信心が死んでしまう。という事です。

顕正会員に御開扉を断絶させることによって、大御本尊様、日蓮大聖人様への本当の信心を死なせている。ということです。
違いますか?

浅井会長、ウソも百篇言えば本当になるとばかりに、いつまでも会員をダマし続けてはいけません。


(*) 浅井会長の作り話 … 下記記事を参照して下さい。
(【1】国立戒壇の内容を謀る参照☜クリックすると飛びます)
(【14】キリスト教神父招聘の実態☜クリックすると飛びます)
(【15】宗門は大聖人の仏法を曲げてしまった☜クリックすると飛びます)
等、その他の記事も参照してください。

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【00】浅井会長の云う「国主」は本当か?

2018年07月07日 | 00】浅井会長の思い込み
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■浅井会長の思い込み

①【浅井会長の「国主」は「天皇」】との思い込み。

『正本堂に就き宗務御当局糺し訴う』(22頁)の中で、
「順縁広布の時には、仏法有縁の“本化国主必ず皇室に誕生”して、真の王仏冥合となるものと拝する」
と、述べています。

その理由をすぐ次の文章に、こう示します。

「かかる重大事は日興上人一人への御口伝に違いない

よく見て頂きたい、なんと「御口伝に違いない」という都合のいい勝手な“思い込み”、
これが、「国主」とは、「天皇」であるとの理由になっています。
自身の“思い込み”を土台として勝手な教義を作り上げているのです。

日興上人への御口伝とは唯授一人の金口の血脈相承です。
広宣流布の時の国主が、覇王(時の権力者)か天皇かは、大聖人様、日興上人様はもとより御歴代上人がお示しになっておられないので、浅井会長を含めた在家の我々にわかるはずもありません。
広布達成時の御法主上人猊下のみが御指南できる事柄です。


【本化国主は日興上人の生まれ変わり】との思い込みと作り話。

「正本堂につき宗務当局に糺し訴う」(P23)に、
『本化国主とは誰人なるか。先師上人の伝えを聞き奉るに「無辺行日興上人の垂迹本化聖天子」と。』と、浅井会長は云っています。

この『先師上人の伝え』とはどの上人であるのか?一体だれか?文証や根拠がありません。

このように云っている先師上人はいません。

浅井会長の作り話です。

そもそも、「垂迹」とは仏に使う語で、下種僧宝の日興上人には使いません。
日蓮正宗にはこのような伝承もありません。

その後にも、浅井会長は、“本化国主に生まれ変わった日興上人”が、
『「勅宣」を申し下し、自ら大願主と成って事の戒壇を建立し給うものと確信し奉る
と云っています。
よく見て下さい。何の根拠もなくただ勝手に『確信し』ているだけなのです。

自身の強い思い込みが、作り話を生み、それが浅井会長の根本の教義になっているのです。




■浅井会長の“修羅”の一例を示します。
・平成10年正本堂が解体されると、浅井会長は、
「御遺命守護完結奉告式」(顕正新聞H10.4.15)を奉修しました。
そして、「御遺命守護完結」を宣言し、
「誑惑は根底より清算され、不敬は完全に解消されたのであります」
「大聖人様の御法魂まします正系門家なればこそ、いつまでも誑惑が続くわけがないのであります」
「これでもう、大御本尊様への不敬は解消され、またいかなる大地震が来ようとも、戒壇の大御本尊は絶対に御安泰であります。」
「もう後顧の憂いはない」
等々、
浅井会長は、宗門に対し最大限の言辞をもってアピールをしました。
しかし、宗門からは何の反応もなかった。
(宗門では顕正会が何をしているかなど、ほとんど興味もなく、知る由もなかったと思います)

何の反応も示してくれない宗門に対し、浅井会長の“修羅”は頂点に達したのでしょう。
一年を経過した平成11年、恐ろしいかな唯授一人の血脈相承の断絶発言となって現れました。
すなわち、
大聖人様が、
『此の経は相伝に有らざれば知り難し』
と仰せられる『相伝』、
尽未来際に至るまで絶対に断絶することのない『唯授一人の血脈相承』を、何の根拠も示すことなく浅井会長は突然、「御相承の断絶」を発言(顕正新聞H11.4.25)するに至りました。

日蓮正宗総本山富士大石寺に伝わる日蓮大聖人の仏法の根底を否定したのです。
これを受けて、顕正会員の幹部の多くから、
「日達上人から日顕上人への御相承が出来なかった。だから大聖人様の御書を正しく拝せるのは、浅井先生だけだ…」といった趣旨の指導がまことしやかに流れ、会員を洗脳していったのです。

日蓮大聖人からの血脈相承を否定した大謗法です。
御相承の何たるかをまるでわかっていない(わかるわけがない)が故にこのような発言が出来るのでしょう。そして自らの強烈な“思い込み”や“修羅”を優先して「大聖人の仏法」と称して、自らの勝手な己義を口にし、筆にしているのです。


また、自らの発言で都合が悪くなると、削除や書き換えなどを、気づかれないように平然と行っています。
これらの事を、ブログを通して明らかにし、破折していきます。




[●初めて来た方、最初に見てもらいたい国立戒壇の記事] ☜ (文字をクリック)







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【27】浅井会長の言う「国教」は正しいのか?破折

2018年04月16日 | 27】浅井会長の「国教」は本当?(2)
"国教”の意味について
●一般では、
「中世ヨーロッパにおけるキリスト教の国教化、すなわち国家権力による異教禁圧の国教」。
●日淳上人の国教樹立も、
広宣流布が実現され、「上一人より下万民に至るまで」「日本一同に南妙法蓮華経と唱へる」状態、
すなわち、
異教禁圧など全く必要のない、一般の“国教”とは意味の違う“国教樹立”である。
と、前回書きました。

-これ以外に“国教”の定義があるのでしょうか。

●浅井会長が、基礎教学書(P355-8行目)に、“国教”の定義を、
『「国教」とは、国家が宗教の正邪にめざめ、国家安泰・衆生成仏のために国の根本の指導原理として用いる教法である』
と、している。

-もっともらしく聞こえるが、全くのウソたばかりです。

浅井会長は、
日達上人を誹謗するために、
“国教”の意味を勝手にでっちあげ(または思い込み)顕正会員を洗脳しています。
-どこに、こんな“国教”の定義があるのか!

このように自分で勝手に定義した、でっちあげの“国教”理論で、
日達上人を誹謗(基礎教学書P354~5)しているのです。

“国立戒壇”も同様です。
(国立戒壇の名称と内容を参照☜クリックすると飛びます)

それとも、宗教法人「顕正会」では、
浅井会長の“国教”が、顕正会の教義なんだ!
独立の宗教法人だからどう主張しようと勝手だろう!
と言い張るのでしょうか。

●いつまでも浅井会長の“たばかり”を信じていてはいけません。
浅井会長の教義は、日蓮大聖人の仏法ではありません。
「似て非なるもの」です。
唯授一人の御相承を受けた猊下を誹謗・否定して、戒壇の大御本尊を信じるんだという、
ネジ曲がった思想教義なのですよ、浅井会長の教義は。
このようなネジ曲がった思想では、
戒壇の大御本尊を信じているようで信じていることにつながりません。

皆さん、人を救っていこうという気持ちを持たなければ即身成仏につながりません。
浅井会長も救われるべき人です。
浅井会長を盲目的に礼讃しているだけでは、自らも、浅井会長も救われません。


以下、前回の記事より再掲します。
・キリスト教の国教化
・創価学会第三十三回総会における日達上人御講演
・日淳上人 新年の言葉

キリスト教の国教化

392年、ローマ帝国のテオドシウス帝が行った、アタナシウス派キリスト教以外の宗派、宗教を浸漬する措置。
 ローマ帝国は、313年にキリスト教の公認に踏み切ったが、当時はその教義はまだ定まっておらずにさまざまな解釈が存在し、また、帝国領内にはマニ教やミトラ教などの異教の信仰も盛んであり、さらに古来のローマの神々への偶像崇拝や伝統的な儀礼も残っていたので、帝国の宗教統制上、かえって混乱が生じてきた。
 そこで皇帝テオドシウス帝は、381年に開催された第1コンスタンティノープル公会議において、最終的にアタナシウス派の三位一体説をキリスト教の正統として確定した。
 さらに、392年、テオドシウス帝は、アタナシウス派キリスト教以外の異教の祭礼と供犠を法的に禁止した。この勅令によって、アタナシウス派キリスト教はローマの唯一の宗教、つまり国教とされたのである。それまでの伝統的なローマの神々や、ミトラ教の太陽神信仰などは禁止されることとなった。
オリンピア競技会の終わり
 キリスト教国教化に伴い、393年にローマ領内のギリシアで、ゼウスを主神とするオリンポス十二神の祭礼が行なわれると、神殿の財産を没収して異教禁圧への断固とした姿勢を示した。これに伴いギリシアの古代オリンピア競技会も終わりを告げた。
(世界史の窓:http://www.y-history.net/appendix/wh0103-146.html)



創価学会第三十三回総会における日達上人御講演(S45年5月3日)

『わが日蓮正宗において、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために
  一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。
 日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。
 明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。
 今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。
 創価学会においても、かつて「国立戒壇」という名称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるゆえに、その“国立”なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。
 今日、世間の人々が“国立”と云う名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、当たらないと思います。
 われわれは、ただ日蓮大聖人の仏法を広宣流布するにあるのであります。そして、大聖人の仏法を信じた人々は、本門戒壇の大御本尊を、わが総本山大石寺において拝し奉り、即座に即身成仏の本懐を遂げることがもっとも大切であります。
 その本門戒壇の大御本尊は
  日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき、色も替わらぬ寿量品の事の三大事なり。
と仰せられる大聖人の一身の御当体でありますから、本門戒壇の御本尊安置の所は、すなわち「事の戒壇」であります。』
(日達上人全集第五巻p499)


日淳上人 新年の言葉

『謹んで昭和三十二年の初頭を迎へ、宗門緇素(しそ)自他共々御祝詞申し上げます。
建宗七百五年の新春を仰ぎ、大聖人の正義は愈々(いよいよ)隆昌を遂げ、宗内の僧俗は総力をあげて、遠く南は九州、北は北海道の地に満ち、約五十万の純信なる信徒の結集を見るに到つたのであります。一方には清浄なる供養熱誠は相次各地の新寺道場の建立となつてあらわれ、又懸案準備中の大講堂建設も既に其の着工にかかり、愈々本年こそ一大偉観を整ふ慶運の年を迎えたのであります。
然し密かに国家の情勢を察する時、昨年国連加盟を見ると雖も、未だ猶前途は多難にして其の外交に於いて、或いは国内の政治経済に於いて、乃至は社会秩序たる教育道徳に於いて混乱をつづけ、其の帰旨正義を見ることが出来ないのであります。
ここに於いて大聖人は「仏法は体、世間は影なり、体曲がりぬれば影斜めなり」と仰せある如く、真に国家の現状を憂うる者は、その根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります。
涅槃経に曰く「内に弟子有って甚深の義を解し、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」
茲に宗門の緇素、更賜寿命の新年を慶祝すると共に更に決意を新たにし、各々分に応じ、力に随って、一切の謗法を対治し広宣流布の実現に精進努力せられんことを庶幾ふ次第であります。
一言新年の挨拶と致します。』昭和三十二年元旦(大日蓮)
(日淳上人全集P1502~3)







コメント

【26】浅井会長の言う「国教」は正しいのか?

2018年04月14日 | 26】浅井会長の「国教」は本当?(1)
“国教”について私の所感。
(一度UPしましたが編集しました)

【国教】には語られている意味に次の、(1).と、(2).の二つがあります。
(1).日淳上人が、『昭和32年新年の言葉(※1に全文を示します)』に仰せられた【国教】…(a)。
日淳上人の仰せの【国教(a)】を拝しますと、
-まず、昭和32年当時、国家の情勢・現状を、
『然し密かに国家の情勢を察する時、昨年国連加盟を見ると雖も、未だ猶前途は多難にして其の外交に於いて、或いは国内の政治経済に於いて、乃至は社会秩序たる教育道徳に於いて混乱をつづけ、』
と挙げ、
『其の帰旨正義を見ることが出来ないのであります。』(帰旨:帰り着くべき根幹)
日蓮大聖人の仏法(正義)に帰り着くこが出来ていない状態である。と仰せられています。

-国家が日蓮大聖人の仏法に帰り着くことができていない。とはどういう状態か?
-“広布相”の順を追っていきますと (広布相:広宣流布の相)
①未だ、一切の謗法が対治されてない。
②未だ、広宣流布が実現されていない。
(広宣流布が実現された後)
③国主が此の法を立てられていない。
④王仏冥合されていない。 
⑤本門寺の戒壇が建立されていない。
という状態。

特に「国家」がという場合、
広宣流布が実現された後の、③、④、⑤をイメージする。
-そこで、
『真に国家の現状を憂うる者』とは、
③国主が此の法を立てらていない、
④王仏冥合されていない、
⑤本門寺の戒壇が建立されていない。
という現状を憂えている人、ということです。
-ここで大事な事は、
まず、“広布相”の順として、
①未だ、一切の謗法が対治されてない。
②未だ、広宣流布が実現されていない。
という、万民国民の状態が、国家を語る前にあるのです。

-ですから、
『其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります。』
との仰せは、
①一切の謗法が対治され、
「上一人より下万民に至るまで」「日本一同に南妙法蓮華経と唱へる」
②広宣流布が実現される。
-広宣流布が実現した時は、日蓮大聖人の仏法に反対する者はいない。そして、仏法の正邪を認識決裁する。
日蓮大聖人の仏法に反対する者がいる時は、仏法の正邪を決裁することは出来ません。国教樹立することは出来ません。あくまで万民一同が日蓮大聖人の仏法を信じていることが必定です。
すなわち、広宣流布が実現し、③国主が此の法を立てられ④王仏冥合する姿を「国教樹立」と申されている。と、拝します。

・ゆえに日淳上人は、結びの文でこの広宣流布の実現を目指して、
『各々分に応じ、力に随って、一切の謗法を対治し広宣流布の実現に精進努力せられんことを庶幾ふ次第であります。』と、仰せられていると拝します。


(2).世間一般で認識されている【国教】…(b)
『その国の国民が信じるべきものとして国家が認め,法律によって保護などの特権を与えている宗教』(大辞林 第三版)。
ハッキリ言えば、
『中世ヨーロッパで行われた、キリスト教以外の異教を禁圧した国教化』
を連想します。(※3「キリスト教の国教化」参照)一般では、これが【国教(b)】です。

創価学会が当初、言っていた【国教】は、前記(1)の日淳上人がお仰せの、万民が信じ反対する者がいない広宣流布実現の時の【国教(a)】でした。
しかし大事な事は、この万民が信じ反対する者がいない広宣流布実現の時の【国教(a)】の意味は、宗内でしか通用しませんでした。

●日達上人が仰せられた“国教”の否定
学会が政治進出、国会で一大勢力になり国家国権に多大な影響力を持った時、
【国教(b)】とは、共産党や知識人等の世間の人には、中世ヨーロッパにおけるキリスト教の国教化、すなわち国家権力による異教禁圧の国教化と同じものと捉えられ、この異教禁圧の国教化を目的にしているのが日蓮正宗創価学会であると疑惑が生じるに至りました。
しかし、この【国教(b)】は、当然日蓮正宗の教義とはまったく違うものです。
ですから、この世間の言う異教禁圧の【国教(b)】が日蓮正宗や創価学会の目的であると思われてしまったことから、
この世間の言う異教禁圧の【国教(b)】を指して、
日達上人は、
「大聖人の仏法を日本の“国教”にするなどと仰せられていない」
と御指南されているのです。

●日淳上人仰せの【国教(a)】は、
すなわち、議会の多数をもって国家が保護する宗教を定め、法律と国家権力によって、その宗教の信者ではない者も信仰を強要していく【国教(b)】とは違います。

日淳上人が新年の言葉で「国教樹立」(※1)と記述せられた昭和31年~32年初頭の頃は、
信徒数も「約五十万の純信なる信徒の結集を見るに到つた」(※1)との仰せの如くで、共産党なども脅威と感じるほど信徒数ではありませんでした。
創価学会も、政治に進出する以前で、
学会が【国教(a)】や国立戒壇を主張しても、まだ脅威とは見えず政治家や評論家が注目することもほとんどありませんでした。

ところが、年を追うごとに、
政治家や評論家、世間の誰もが予想できなかった勢いで、
創価学会は、急速に拡大していきます。
昭和32年12月、75万世帯を達成。
昭和36年には、200万世帯を達成。
昭和39年の公明党結党直前の時点で、500万世帯にまで拡大。
昭和45年には会員世帯数は750万世帯に達します。
  (…昭和33年から、わずか13年で675万世帯2700万人の増、総数3000万人)

そして、この巨大な会員数を背景に創価学会は政治に進出します。
昭和39年、公明党(S36年公明政治連盟結成)を結成。
昭和40年の参院選で、11名が当選。都議選でも立候補した23人全員が当選。
昭和42年初の衆院選では、25人が当選。
昭和44年の衆院選では、47議席を獲得し、国会では第3党の一大勢力となります。

こうなると、
創価学会が主張している“国教”や“国立戒壇”が、直接、国家権力に結びついてくることが、現実のものとして浮上していました。
創価学会は、昭和30年代から自民党とも選挙協力をしています。
共産党や知識人言論界を中心に、創価学会は日蓮正宗を“国教”にするつもりなのかと、現実の脅威としてマスコミにも注目され、批判を受けるようになりました。
この批判を受け始めた“国教”の解釈は、
・日蓮正宗や創価学会は(1)の【国教(a)】の解釈(しかし一般には通用しない)
・共産党や一般の知識人は(2)の【国教(b)】の解釈です。

この異教を禁圧する【国教(b)】
すなわち、
『議会の多数をもって国家が保護する宗教を定め、法律と国家権力によって、その宗教の信者ではない国民にも、信仰を強要していく』“国教”と捉え、
国会で議決し“国教”を定めるということは、創価学会・日蓮正宗以外の全ての宗教を法的に廃止、戦前の不敬罪(大日本帝国憲法では刑法73~76条に定められていた事実がある)のように処罰するのか…。
と、脅威に見られ世間から批判を受けます。

〇先に述べましたが、
批判を受けた、この異教を禁圧する一般に言う【国教(b)】は、
日淳上人が仰せられた広宣流布実現の時の【国教(a)】とは、まったく意味内容が違うものです。

■繰り返しになりますが、昭和45年5月に日達上人が御講演された創価学会第三十三回総会(※2)は、前年の衆議院選挙で、公明党が47議席を獲得、国会・政界において一大勢力となり、主張していた“国教”“国立戒壇”が世間に注目され問題視されます。
日蓮正宗や創価学会の【国教(a)】は、当初とはまったく意味の違う、異教を禁圧する【国教(b)】と捉えられ、
共産党をはじめとして評論家などから相当の批判を浴びるようになりました。

日達上人が御講演の中で指摘されている“国教”は、
国家権力によって異教を禁圧する【国教(b)】”を指しています。
ですから、学会の総会で
「『一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の“国教”にするなどと仰せられてはおりません」
「日本の“国教”でない仏法に国立戒壇などということはありえない」
と御講演されているのです。

・ゆえに、
「日淳上人が“国教樹立”と仰せになっているのに、なぜ日達上人は“国教”を否定するのか」
などという批判がまったく当たらないのがわかるかと思います。
日淳上人仰せの“国教樹立”の“国教”と日達上人仰せの“国教”では、意味が全く違うのですよ。!!


(※1)日淳上人 新年の言葉

『謹んで昭和三十二年の初頭を迎へ、宗門緇素(しそ)自他共々御祝詞申し上げます。
建宗七百五年の新春を仰ぎ、大聖人の正義は愈々(いよいよ)隆昌を遂げ、宗内の僧俗は総力をあげて、遠く南は九州、北は北海道の地に満ち、約五十万の純信なる信徒の結集を見るに到つたのであります。一方には清浄なる供養熱誠は相次各地の新寺道場の建立となつてあらわれ、又懸案準備中の大講堂建設も既に其の着工にかかり、愈々本年こそ一大偉観を整ふ慶運の年を迎えたのであります。
然し密かに国家の情勢を察する時、昨年国連加盟を見ると雖も、未だ猶前途は多難にして其の外交に於いて、或いは国内の政治経済に於いて、乃至は社会秩序たる教育道徳に於いて混乱をつづけ、其の帰旨正義を見ることが出来ないのであります。
ここに於いて大聖人は「仏法は体、世間は影なり、体曲がりぬれば影斜めなり」と仰せある如く、真に国家の現状を憂うる者は、その根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります。
涅槃経に曰く「内に弟子有って甚深の義を解し、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」
茲に宗門の緇素、更賜寿命の新年を慶祝すると共に更に決意を新たにし、各々分に応じ、力に随って、一切の謗法を対治し広宣流布の実現に精進努力せられんことを庶幾ふ次第であります。
一言新年の挨拶と致します。』昭和三十二年元旦(大日蓮)
(日淳上人全集P1502~3)


(※2)創価学会第三十三回総会における日達上人御講演(S45年5月3日)

『わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために
  一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。
 日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。
 明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。
 今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。
 創価学会においても、かつて「国立戒壇」という名称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるゆえに、その“国立”なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。
 今日、世間の人々が“国立”と云う名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、当たらないと思います。
 われわれは、ただ日蓮大聖人の仏法を広宣流布するにあるのであります。そして、大聖人の仏法を信じた人々は、本門戒壇の大御本尊を、わが総本山大石寺において拝し奉り、即座に即身成仏の本懐を遂げることがもっとも大切であります。
 その本門戒壇の大御本尊は
  日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき、色も替わらぬ寿量品の事の三大事なり。
と仰せられる大聖人の一身の御当体でありますから、本門戒壇の御本尊安置の所は、すなわち「事の戒壇」であります。』
(日達上人全集第五巻p499)


(※3)キリスト教の国教化

392年、ローマ帝国のテオドシウス帝が行った、アタナシウス派キリスト教以外の宗派、宗教を浸漬する措置。
 ローマ帝国は、313年にキリスト教の公認に踏み切ったが、当時はその教義はまだ定まっておらずにさまざまな解釈が存在し、また、帝国領内にはマニ教やミトラ教などの異教の信仰も盛んであり、さらに古来のローマの神々への偶像崇拝や伝統的な儀礼も残っていたので、帝国の宗教統制上、かえって混乱が生じてきた。
 そこで皇帝テオドシウス帝は、381年に開催された第1コンスタンティノープル公会議において、最終的にアタナシウス派の三位一体説をキリスト教の正統として確定した。
 さらに、392年、テオドシウス帝は、アタナシウス派キリスト教以外の異教の祭礼と供犠を法的に禁止した。この勅令によって、アタナシウス派キリスト教はローマの唯一の宗教、つまり国教とされたのである。それまでの伝統的なローマの神々や、ミトラ教の太陽神信仰などは禁止されることとなった。
オリンピア競技会の終わり
 キリスト教国教化に伴い、393年にローマ領内のギリシアで、ゼウスを主神とするオリンポス十二神の祭礼が行なわれると、神殿の財産を没収して異教禁圧への断固とした姿勢を示した。これに伴いギリシアの古代オリンピア競技会も終わりを告げた。
世界史の窓:http://www.y-history.net/appendix/wh0103-146.html





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