【34】日達上人御臨終の相の証言
日達上人の御密葬の際の、お別れの儀には多くの僧俗が御尊顔を拝謁(はいえつ)を許されました。私もお別れをさせていただきましたが、御生前と少しもお変わりのない、穏やかな尊願に感銘を覚えたのであります。
四十年もたって突然出て来た正体不明のねつ造話(浅井会長と内藤某によるウソで固めた作り話)、それもあろうことか血脈付法の御法主上人の御臨終の相に対する悪口雑言は、絶対に許されません。(大白法)
総本山塔中久成坊住職 関快道御尊師(当時は仏寿寺住職)
日達上人が御遷化なされて、大石寺大奥の対面所に御遺体が御安置されて、御隠尊日顕上人猊下(当時は総監)が枕経をされている時に参列しておりました。また、その前からずっと対面所にいたのですが、お顔を拝見し、とてもきれいで眠っているよう安らかなお顔をされていました。顕正会がいうような「ドス黒い」なんてあり得ない。あと、火葬場に行って御骨を拝見してものすごくきれいな真っ白な御骨で、こんなきれいな御骨があるのか、とビックリしたことを今でも鮮明に覚えています。
妙相寺住職 落合尊福御尊師(当時は大坊所化頭)
当時、大坊一年在勤の所化頭として総本山で御奉公しておりました。御遷化後、大奥対面所から大客殿に御遺体をお運びするまでの間、唱題しながら御遺体のお側にいましたが、全く生前と変わらない、眠られているような御尊願でした。
総本山塔中南坊住職 藁科鑑道御尊師(当時は大石寺在勤教師)
私は、日達上人が御遷化されて病院から大石寺大奥の対面所まで、御遺体のお供をさせていただきました。病院から対面所への移動の間や、枕経とその後の御剃髪、御剃顔のときに、日達上人の御尊願を間近に拝見する機会がたびたびありましたが、きれいな御臨終の相でした。このことは山内の多くの僧侶が同じように記憶されていることと思います。
要行寺住職 磯村如道御尊師(当時は大坊・奥番)
日達上人が十九日にフジヤマ病院に入院されてからは、病院の警護を任され、二十二日の早朝、病室で日達上人が御遷化になられた瞬間にも立ち会いました。
この間「内藤みどり」というような女性が病院に見舞いに来た、などという事実は絶対にありません。
私は、その後の枕経から葬儀のすべてに出席しました。御遷化の直後も、また枕経、通夜においても、日達上人の御臨終の相は安らかな、きれいな御尊願でありました。
顕正会がいうような「ドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるような相」などは全くの嘘であります。
総本山塔中了性坊住職 原田輝道御尊師(当時は妙光寺在勤)
当時、私は東京妙光寺に在勤していましたが、日達上人が御遷化になられる直前に総本山に登山していて、枕経、納棺、仮通夜に参列しました。素晴らしく、きれいな御姿であったことをハッキリ憶えています。
総本山塔中理境坊住職 小川只道御尊師(当時は総本山内事部)
私は、日達上人の御遷化の報せを受けたあと、内事部で外部の対応と葬送の準備等を行っていました。大客殿に移られてから、立場上、幾度も御霊棺の中を拝見する機会がありましたが、生きている時のままの姿で、眠っているような御尊願でありました。当時の『大日蓮』の記録に、「遺弟によって、最后の御剃髪、御剃顔が行われ、半眼半口の御温顔に一同新たなる感慨を禁じ得なかった」と記されておりますが、全くその通りです。
総本山塔中蓮成坊信徒 岩松信彦さん(当時は大百法編集室勤務)
当時の私は、『大白法』(法華講連合会機関誌)の編集室に勤務し、東京に住んでおりました。
日達上人御遷化の報せを受けた昭和五十四年七月二十二日の朝、法華講連合会の役員方が登山されるということで、私は、車の運転手として東京から大石寺まで何度も往復しました。そして、役員方と一緒に、大奥対面所で、さらには大客殿において、日達上人の御尊願を拝させていただきました。
日達上人の御尊体は終始、生きておられた時のまま、お綺麗で、今にも目を覚まされるのではないかと思うほど、穏やかに眠っておられるかのようでした。
顕正会の言う「ドス黒く、苦しそうな表情」などというのは、全く現実をかけ離れた悪口で、デタラメもいいところです。現場にいなかった人の戯言か妄想としか考えられません。
日達上人の御子息やお孫さん方にお尋ねしたところ、内藤なる親戚はいない。とのこと。
部外者によるまた聞きの話と、御身内の手記と、どちらを信用すべきか、誰の目にも明らかです。(大白法)
⇒ブログのトップへ戻る
日達上人の御密葬の際の、お別れの儀には多くの僧俗が御尊顔を拝謁(はいえつ)を許されました。私もお別れをさせていただきましたが、御生前と少しもお変わりのない、穏やかな尊願に感銘を覚えたのであります。
四十年もたって突然出て来た正体不明のねつ造話(浅井会長と内藤某によるウソで固めた作り話)、それもあろうことか血脈付法の御法主上人の御臨終の相に対する悪口雑言は、絶対に許されません。(大白法)
総本山塔中久成坊住職 関快道御尊師(当時は仏寿寺住職)
日達上人が御遷化なされて、大石寺大奥の対面所に御遺体が御安置されて、御隠尊日顕上人猊下(当時は総監)が枕経をされている時に参列しておりました。また、その前からずっと対面所にいたのですが、お顔を拝見し、とてもきれいで眠っているよう安らかなお顔をされていました。顕正会がいうような「ドス黒い」なんてあり得ない。あと、火葬場に行って御骨を拝見してものすごくきれいな真っ白な御骨で、こんなきれいな御骨があるのか、とビックリしたことを今でも鮮明に覚えています。
妙相寺住職 落合尊福御尊師(当時は大坊所化頭)
当時、大坊一年在勤の所化頭として総本山で御奉公しておりました。御遷化後、大奥対面所から大客殿に御遺体をお運びするまでの間、唱題しながら御遺体のお側にいましたが、全く生前と変わらない、眠られているような御尊願でした。
総本山塔中南坊住職 藁科鑑道御尊師(当時は大石寺在勤教師)
私は、日達上人が御遷化されて病院から大石寺大奥の対面所まで、御遺体のお供をさせていただきました。病院から対面所への移動の間や、枕経とその後の御剃髪、御剃顔のときに、日達上人の御尊願を間近に拝見する機会がたびたびありましたが、きれいな御臨終の相でした。このことは山内の多くの僧侶が同じように記憶されていることと思います。
要行寺住職 磯村如道御尊師(当時は大坊・奥番)
日達上人が十九日にフジヤマ病院に入院されてからは、病院の警護を任され、二十二日の早朝、病室で日達上人が御遷化になられた瞬間にも立ち会いました。
この間「内藤みどり」というような女性が病院に見舞いに来た、などという事実は絶対にありません。
私は、その後の枕経から葬儀のすべてに出席しました。御遷化の直後も、また枕経、通夜においても、日達上人の御臨終の相は安らかな、きれいな御尊願でありました。
顕正会がいうような「ドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるような相」などは全くの嘘であります。
総本山塔中了性坊住職 原田輝道御尊師(当時は妙光寺在勤)
当時、私は東京妙光寺に在勤していましたが、日達上人が御遷化になられる直前に総本山に登山していて、枕経、納棺、仮通夜に参列しました。素晴らしく、きれいな御姿であったことをハッキリ憶えています。
総本山塔中理境坊住職 小川只道御尊師(当時は総本山内事部)
私は、日達上人の御遷化の報せを受けたあと、内事部で外部の対応と葬送の準備等を行っていました。大客殿に移られてから、立場上、幾度も御霊棺の中を拝見する機会がありましたが、生きている時のままの姿で、眠っているような御尊願でありました。当時の『大日蓮』の記録に、「遺弟によって、最后の御剃髪、御剃顔が行われ、半眼半口の御温顔に一同新たなる感慨を禁じ得なかった」と記されておりますが、全くその通りです。
総本山塔中蓮成坊信徒 岩松信彦さん(当時は大百法編集室勤務)
当時の私は、『大白法』(法華講連合会機関誌)の編集室に勤務し、東京に住んでおりました。
日達上人御遷化の報せを受けた昭和五十四年七月二十二日の朝、法華講連合会の役員方が登山されるということで、私は、車の運転手として東京から大石寺まで何度も往復しました。そして、役員方と一緒に、大奥対面所で、さらには大客殿において、日達上人の御尊願を拝させていただきました。
日達上人の御尊体は終始、生きておられた時のまま、お綺麗で、今にも目を覚まされるのではないかと思うほど、穏やかに眠っておられるかのようでした。
顕正会の言う「ドス黒く、苦しそうな表情」などというのは、全く現実をかけ離れた悪口で、デタラメもいいところです。現場にいなかった人の戯言か妄想としか考えられません。
日達上人の御子息やお孫さん方にお尋ねしたところ、内藤なる親戚はいない。とのこと。
部外者によるまた聞きの話と、御身内の手記と、どちらを信用すべきか、誰の目にも明らかです。(大白法)
【大日蓮(昭和54年9月号)「総本山第66世日達上人猊下御遷化あそばさる」より】
7月22日 午前 7時 大奥対面所にて御枕経
7月22日 午後 6時 御霊棺 、大奥対面所より、 大客殿東側に用意された祭且へ御遷座。
7月22日 ~ 23 日両日に旦り、午後 7時より日顕上人猊下大導師のもと、仮通夜の儀、執行。
7月24日 午前 10時より、御密葬の 儀が執行せられ、御霊棺は客殿前より、塔中を下り、三門前より 富士宮火葬場へ。
御灰骨還御
●写真にある日達上人御遷化の仮通夜・密葬の儀、御尊願を拝した御僧侶の証言が、
浅井昭衛会長の手にかかると、
「宗門側近の誰もが隠して何も言わないので、今日までわからなかった。」
「ドス黒かった恐ろしかった」(顕正新聞H30.10.5号)
となるのです。
⇒ブログのトップへ戻る