日本人のための「憲法改正」入門

日本人が日本のために、そして世界の平和と繁栄に貢献できる国家となるために、必要となる憲法改正について考えましょう。

憲法改正を急がなければならない理由

2015-06-14 | 日記
安全保障法案の是非をめぐって、最近は国会やマスコミ、様々な場所で憲法に関する議論が活発になってきました。

集団的自衛権の行使や、日本の安全保障の問題について、国民的議論が起きることはとても喜ばしいことです。

今回の安全保障法案の問題については、それが憲法に違反しているのか違反していないのか、ということに関して憲法学者も出てきて、様々な議論がされているようですが、国家の安全保障の問題に関して、違憲か合憲かなどという議論をしなければならないこと自体が、すでに大きな問題なのです。

国家の安全保障の問題は国の存立に関わる問題ですから(つまり国家がなくなってしまう可能性のある事態に対処するための問題で、安全保障が脅かされれば、憲法はその機能を失うほどの問題ですから)、それは憲法にきちんと明記されていてしかるべき問題であって、それが立場や見解によって大きく異なることは、それ自体が国を危うくするもので、大問題なのです。

自衛権を具体化するための法案ができて、それを議論する上で、違憲や合憲の議論をしなければならないということが、いかに不毛なことかを知らなければならないと思います。

今回の安全保障関連法案に関して、違憲であるという意見が憲法学者から出されているのは、彼らの立場からすれば理解できますし、政治家が憲法で認められた範囲内であって合憲であるというのもまた理解できるのです。

このようなあいまいな、解釈次第の憲法を放置していることそのものが大きな問題です。このような状態が続けば、例えば中国は海洋進出を急ぐことでしょうし、日本が安全保障の問題をきちんと整える前に、様々な既成事実を作り出していくことでしょう。

すでにそのような動きが大きくなっていることは中国の動きをみていれば誰にもわかるはずです。

そもそも国家の安全保障のリスクは、国際情勢や我が国を敵視する国の政策や動向によって変わってくるものです。日本の国内でどのように法律をいじっても、そのリスクを閉じた国内の中でコントロールすることはできません。

その意味で、防衛大臣などが「今回の法案で、自衛隊のリスクは大きくはならない」などと言っているのを聞くと、本当に日本は情けない国になったものだと思います。そのように発言しなければマスコミが騒ぎ、自衛隊員が死んでもいいのか、などという議論を喚起するからでしょう。

日本人はいい意味でも悪い意味でも「死を恐れない国から死を極端に恐れる国」になってしまいました。そこには宗教の不在があります。

そもそも「自衛隊のみなさん、今回の法案では別にあなた方のリスクは高くならないので、安全ですから安心してくださいね」という話は、国家の安全保障を責務とし、場合によってはその命をかけて職責を全うしている彼らに対して非常に失礼なのです。

自衛隊のリスクは本来、国家の安全保障のリスクと一体です。それを率直に認めたうえで、そのリスクを自衛隊に負わせることの意味や価値や使命をきちんと表明してこそ、自衛隊の方も納得してその職責を全うできるのではないかと思います。

そもそも公安系公務員(自衛隊や警察官、消防官)などに対して、危険はなく安全だから大丈夫ですというような言い方は彼らをバカにしていると思います。ただでさえ生命のリスクの高い職業ですから、それは本人も家族も理解し、それゆえに誇りを持って臨んでいるはずです。またそれゆえに尊敬されるべき職業なのです。

日本は安全保障に関して、もっと正直に率直に議論し、自衛隊の役割やその働きを憲法に明確に規定すべきだと思うのです。

そして、差し迫った現実的な危険は中国の動きですが、それもきちんと名指しで批判し、具体的な議論を提供すべきです。政府が名指しで批判すると外交問題になりますが、マスコミはもっと明確にそれをやるべきだと思います。今回の安全保障に反対の立場の方(特にマスコミや共産党、社民党や民主党も)は、中国の海洋進出や時代遅れの領土拡張政策を全く批判しません。その部分をマスコミなどが大きく報道して国民的な危機感を共有すること自体が、実は中国に対して強い抑止力につながることがなぜわからないのでしょうか。

マスコミが戦争が嫌いなら、逆に戦争をせずに中国を抑止するために、言論で戦うということをなぜしないのか不思議に思います。それをマスコミがしないなら、差し迫った危機の下では、政治家はそれに対処するための具体的な措置を考えなければならなくなるのです。

そのくせ政治家が発言をすれば上げ足をとり、批判して審議などをストップさせ、政治家の本音の発言を引き出せていません。そのため政治家は腫れ物に触るように発言し、結果的に国民の利益を損ねています。

言論活動によって中国の暴走に手を貸しているのは実は自分たちだという認識をマスコミには持って欲しいものです。彼らはその意味で、日本の安全を脅かす先鋭部隊です。

また憲法学者についても言っておきますが、憲法の問題は憲法という法典の中身を解釈するだけでその結論が出せるわけではありません。残念ながら他の法律と違って、憲法は現実の政治世界や国際情勢に開かれているものであって、価値体系的には閉じていないのです。

その意味で憲法学者の意見が政治的に、あるいは社会的に間違っていることはよくあることです。今回の安全保障の問題に関しては憲法を変えるべきと発言する学者がいましたが(慶応大学、小林節など)それが憲法学者としては当然のあるべき議論です。

憲法を守らなければならないから、それに合わないと解釈されるものはすべて認めてはならない、と考える憲法学者は多いと思いますが、彼らは、現憲法を解釈しているだけで、国民の生命や安全については何の責任もない人たちです。国家の存立に関わる高度に政治的な問題(裁判上は統治行為論として最高裁判所も判断を避けたり判断できない領域があります)については、国民や国民が選んだ政治家が責任をもって判断すべきで、憲法学者の意見などに左右される必要はありません(というより憲法違反だというなら憲法を変えるしかありません)。

今回の内閣は憲法改正を目標にしているのですから、本当に変えるべき条文を明確にして、それをさっさと国民的議論の台座に乗せて、改正論議を進めればいいのです。「第9条を変えます」と断言して大いに議論を巻き起こすべきなのです。

変えやすいところから変えようなどと言って、安全保障という国家にとって最も大切な問題から目をそらしてきたツケが今回ってきています。マスコミが蒙昧無知で国民がそれを盲信盲従する日本の風土では、政治家がそれを啓蒙し、国民の意識を変えていくことも、政治家の大切な使命なのですから、堂々とそれをやればいいと思います。

内閣が憲法改正を目指すということに関してそれを批判する人もいます(伊藤真、「憲法の力」など)。内閣には憲法尊重擁護義務があるからだそうです(このようなことを言っていたら永久に憲法改正などできませんね)。野党の政治家にもそのようなバカなことをいう人がいるので驚きですが、このような人たちは真の意味での民主主義が理解できていないのでしょう。憲法の条文を閉じた解釈論にとらわれて議論するとこのようになります。

ちなみに伊藤真によれば憲法は国民のものなのだから改正を政府が言うのはおかしいという議論のようです。伊藤真は法律の先生としては本当に優秀ですが、政府と国民を対立するものである(根本に政府は悪、権力憎しの考え方がある)と考えるヨーロッパ近代立憲主義に洗脳されていて(まあほとんどすべての憲法学者がそうですが)、それが全ての議論をゆがめる原因となっています。

政府と国民が対立する思想は、何も日本的なものでもなければ、世界的で普遍的な思想でもありません。それはヨーロッパの一神教的な風土における政治的な抗争の結果できたものですから、そのような風土のない日本にはそれをそのまま全て真似したり、あてはめたりする必要はないのです。

また民主主義下の政治家の役割は、国民に政治的な議題を提案し、啓蒙することも当然に含まれているのです。そしてマスコミがまともな役割を果たせない日本の惨状では、政治家がリーダーシップをとって、その政治的な課題に関する議論を巻き起こし、国民世論を正しい方向に導かなければなりません。

その意味ではまだまだ今回の政権もそれには成功していないように思えます。

憲法学について言うと、先にも述べたように、憲法は他の法律と大きく違って、国際情勢や高度に政治的な価値判断に開かれている法典です。

その意味で、憲法解釈学とは別に、現にある条文にとらわれないもっと広い意味での憲法学を創設し研究すべきであると思います(すでに憲法政治学という形で具体的に提起している学者もいます。小林昭三など)。

日本は憲法学者の解釈や彼らの価値観に振り回されてきた面があり、今でも法学部や法律の研究機関ではそのような人々の解釈論や価値観が根強く残っていて、日本の国益を害し続けています。

憲法学者の中にはやたらに近代立憲主義を述べ立てて、憲法の目的は政治権力を縛るものだという議論ばかりをしていますが、日本は日本の歴史や日本の宗教的風土、政治的風土に合った独自の憲法体系を創造すればいいのではないでしょうか。

近代ヨーロッパ生まれの憲法思想が必ず先進的で正しいわけではないのです。

ただ、最近はようやく若い学者などが独自の研究機関を作ったり、ソーシャルメディアで憲法に関する意見や情報を発信したりするようになってきていて、非常に喜ばしいことだと思います。

最後に国民に対して言うと、日本では民主主義が正しく機能できる前提が欠けているように思います。それが価値判断や価値観の違いが明確に出てくる問題に関しては、自分の意見を言えないという風潮です。

政治問題や宗教問題などは、その価値観が明確に出てくるところですが、このような議論で自分の意見や立場を表明すると偏見の目で見られたり、レッテルを貼られたりするので、社会的な立場を守り、他人との対立や争いを避けたい日本人は、それから目をそらして生活しています。

価値判断や信念をぶつけ合う議論ができないうちは、日本の民主主義はまだまだだと言うしかありません。というよりそれは民主主義とは呼べません。

今回の安全保障法制の問題についても、世論調査では十分な説明や議論がされていないという意見が多数あったようですが、そもそも多くの国民がこの問題に関してきちんと問題意識をもって情報を集め、勉強しているのか非常に疑問です。

日本は中国や北朝鮮とは違って、平然公然と政府の批判ができるとてもいい国です。居酒屋で本も読まないおじさんが内閣総理大臣を批判しても悠々と生活できるとてもいい国なのです。情報もバカなマスコミを除けば自分から求めることでかなり正確で多様な情報が入ってきます。

それを利用せずに積極的な努力をしていないのは国民の問題であって、政府やマスコミの責任だけにしてはいけません。民主主義は国民の成長とともにあるべきものです。その意味で国家の安全保障の問題に関しては、全国民が関心をもち、一定の意見を持ってしかるべきなのです。

今回の安全保障法案の問題は、日本の今後の方向性をあらゆる意味で大きく左右する非常に重要な問題です。生活の問題やお金の問題、その他日常的な様々な問題はあるでしょうが、その前提に関わる大きな問題です。

全ての国民が正面から向き合うことを期待したいと思います。




















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