日本人のための「憲法改正」入門

日本人が日本のために、そして世界の平和と繁栄に貢献できる国家となるために、必要となる憲法改正について考えましょう。

憲法第9条の心

2015-08-14 | 日記
日本の国防や安全保障体制を考えるとき、この現行憲法第9条の規定について考えることは避けて通れない問題です。

この条文が日本国の安全保障の問題を複雑にし、国際社会の状況の変化に対して、非常に難しい対応を余儀なくされる原因となっていると思います。

日本国憲法の第9条の規定を見てみます。

第1項
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文を最初に読んだ時に、私自身は侵略はもちろんすべての名目の戦争や武力の行使を放棄したものだと受け止めました。この条文を最初に読んだのは中学生の時だったと思いますが、この条文のもつ複雑な解釈を知らなかった私は、一切の戦争を放棄したのだと思っていたのです。

また憲法の前文にも「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とありましたから、完全に非武装中立をうたったものだと感じたのです。

しかし、大学に入り、憲法の授業を受け、自分でも専門書を読むようになってから、この第9条が実に面倒な条文であることがわかってきました。

簡単にいうと第1項に関しては、いわゆる侵略戦争を放棄したものであると言われており、このような規定は不戦条約や他の国の憲法にもみられるものです。

ややこしいのは第2項で「前項の目的を達するため」という言葉があり、この文言があるために侵略戦争をするための陸海空軍その他の戦力は保持せず、交戦権も認めない、という意味になります。これは芦田修正と言われるもので後から付け加えられた文言ですが、この文言が第1項の内容を引き継ぐ形式を可能にするため、自衛のための戦力の保持や交戦権は認められるという解釈が可能になるのです。

まさにこのような解釈を可能にするために芦田修正がなされたわけです。独立国家として自分の国を自衛できない国家はありえませんから、その自衛権の行使を可能にするために第2項はこのような条文に落ち着きました。

憲法学者は第9条の解釈として、そもそも自衛戦争も放棄しているのだとか(憲法制定当初は吉田茂もそのように述べています)、自衛権も認めないのだという極端な人もいますし、自衛権は持っているが、武力や戦力としてそれを行使することは認められないのだと考える人もいます(自衛権を経済力や文化力など平和的な外交努力で発揮すべきという考えです)。

またもちろん、侵略戦争は放棄したが、自衛権は当然に認められており、それを具体化するために自衛隊があるのだから、自衛のための武力の行使も当然に認められるという憲法学者もいます。

安全保障法制ひとつをとっても、このように憲法の解釈からは様々な結論が導けることが、今回の安全保障法制の議論をややこしくしているのです。

憲法学は所詮「条文の解釈学」なのですから、憲法解釈を専門とする学者が合憲だ違憲だという議論をするのは当然のことで、それはそもそも日本国憲法が積極的な形で自国の安全保障や国防に関して何ら規定していないことに起因しています。

今回の安全保障法案の問題を立憲主義に反するという人がいますが、その批判は全く当たっていません。無知から来るもので、立憲主義の意味が分かっていないと思います。現在の憲法は安全保障法制に関して、合憲、違憲、どちらの解釈も可能なのです。

内閣がこれまでの解釈を変えても、それが立憲主義に反するなどということはありませんし、そもそも法律というのはそのように多様な解釈を認めるものです。ただ国家の安全保障に関して、解釈によって結論が左右されること自体が私は問題であると思っているのです。

話が逸れました。私が憲法第9条を最初に読んだ時の印象を先に述べましたが、普通の国民がこの条文を読むと非武装中立の方向に行ってしまうのはよくわかる気がするのです。

また前文にあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」となると、基本的には武力で守るのではなく、理想主義を武器にして自国の平和を守るのだと決意しているようにも読めますし、実際に戦後の憲法制定時にはそのような理念だったのではないかと思うのです。

問題はその後(というか本当は戦争終結時すでに)、国際情勢が変化し、近隣諸国に核や武力を有する「平和を愛しているとはとても思えない」国があり、日本を取り巻く状況が変化してきたことにともない、憲法を改正するのではなく、解釈を変えたり、暫定的な法律を作りながらそれに対応してきたことです。

憲法の解釈を変えること自体が悪いわけではありませんが、それが現状へのいびつな対応を呼び起こし、法の整合性や安定性に影を落としてしまうことにつながることは事実です。そもそも憲法に積極的な形で規定のない国防や安全保障の問題を、法律でカバーすることは非常に難しいと私は思います。

憲法という国家の基本法、最高法規がしっかりとしていて初めて、その下位の規範である様々な法律が正しく機能します。これが原則論であることは間違いないのです。

しかし、硬性憲法である日本国憲法の改正が現実には難しく、現状の危機に対応できない場合にどうするのか、ということが今国民に問われているのです。

安全保障法制に反対する人の中には、現実的な危機などないし、中国が攻めてくるなどということはありえない、などという人もいます。その疑心暗鬼がまた戦争を起こすのだという意見です。

しかし、歴史をみると理想主義や消極的平和主義に国が傾き、現状に対する対応力を失った時に国家が亡ぼされるという実例は、枚挙にいとまがありません。

また国防の問題はほんのわずかの可能性でも、それに対応すべく準備するもので、可能性が低いから何もしなくてもよいというわけにはいかないのです(一度他国の侵略を許せば、それを取り返すことはもはやできません)。

ただ、今の条文のままであれば、憲法第9条に「自分たちの国をきちんと自分たちで守る」という精神を読み取ることは不可能だと思います。前文や第9条には国防の精神がありません。そのような憲法の下に、必死で現状対応するための法律を作ろうとしています。

これは本当に苦肉の策であり、例外的な措置です。憲法の穴を法律で埋めるということですから(しかもそれは明確に憲法から授権されていないわけですから)のちのち必ず別の問題を引き起こす可能性があるのです。

本来ならば、この安全保障法制の議論と憲法改正の議論はセットで行うべきものです。そこを恐れていては、本質的な部分を失うことになるでしょう。

国民に選択を迫るとするならば、まず、自国を自分たちの力で守ることに賛成か否か、ということです。反対ならばアメリカを始め、外国の軍隊に守ってもらうか、平和を愛する諸国民に守ってもらうかしかありません。しかし、これはもはや独立国家とは呼べませんし、これは日本が日本でなくなる可能性を内包しています。

逆に、自国を自分たちで守るのだという結論が出た場合に、場合によっては武力を使ってでも守るのか、それとも経済力や文化力などの力で守る努力をし、決して武力に訴えない道を取るのかのどちらかです。

理想主義に殉じて非暴力を貫くことも可能かもしれませんが、それは武力の前にあっさりと降参することを意味します。個人としてはそのような信念をもってもかまいませんが国家としては安易にそれを認めるわけにはいきません(この理想主義的信念であれこれとやらかしているのが鳩山由紀夫という政治家です。この人は悪人ではないのですが、私と公(国家)の区別がつかないある意味で最悪の政治家です)。そしてその理想主義もまた日本が日本でなくなる可能性を内包しています。

日本の在り方を決める場合に、今生きている我々の考えだけで決めるわけにはいきません。チェスタートンという人が「死者の民主主義」ということを述べています。

われわれは今の政治の在り方を決める権利を持っていますが、それはすでに死者となって、これまでの日本の歴史と伝統を作り守ってきた人々の心を十分に斟酌して決めなければならないということです。日本の歴史と伝統を正しく振り返ったならば、おのずと結論は見えてくることでしょう。

これまで、日本の独立を守るために多くの人々の努力と犠牲が払われています。日本の独立を守り、繁栄をもたらすために努力し、死んでいった人々の数はどのくらいの大きさでしょうか。その思いと行いに敬意を払うならば、今生きている我々の安易な判断によって日本の国家の存立を揺るがすべきでないことは言うまでもないことです。

そして「自分の国は自分で守る」のであれば、その精神は憲法に明確に書きこまなければなりません。国家にも独立自尊の精神は必要です。それを国民が等しく共有してこそ、日本の繁栄と発展はゆるぎないものとなるのです。

それぞれの国民が自分たちの国の在り方をどう考えるのか、憲法改正はまさに国家の大改革の根本なのです。















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