日本人のための「憲法改正」入門

日本人が日本のために、そして世界の平和と繁栄に貢献できる国家となるために、必要となる憲法改正について考えましょう。

国民主権を問い直す

2014-05-03 | 日記
今後のあるべき憲法の姿、すなわち国家のあるべき姿を考えるとき、現在の憲法学では当然とされている憲法の基本原理から問い直してみる必要を感じます。今回は国民主権についてです。

「主権」という概念は大きく2つの意味で使われるのですが、国際法で使われるような国家の主権という意味ではなく、日本という国の最高の権限や正当性の根拠として言われる「主権」が今回のテーマです。

大日本帝国憲法から日本国憲法に変わった時に、「天皇主権から国民主権へ」などということが言われたりしました。また憲法学の専門的な本でも、そのような書き方がしてあるものも数多くあります。当然、中学や高校の教科書などもそのような記述がありますから、日本人は戦前は天皇主権だったのが、戦後は国民主権になったのだと勘違いしている人がほとんどなのです。

大日本帝国憲法に関して言えば、憲法の条文の中には「主権」という言葉は使われていませんし、帝国憲法を作った先人たちは、この「主権」というヨーロッパ生まれの言葉の危険性を十分に理解していたということがわかります。

その意味でも、大学で憲法を教える憲法学者が、明治の政治家や思想家たちと比較して、いかに思想的貧困に陥っているかがよくわかります。「帝国憲法は天皇主権の憲法ではなかった」などと言っても、意味が分からない憲法学者が多いのではないでしょうか。

帝国憲法はそもそも天皇主権という原理を持っていたわけではなく、天照大神にさかのぼる歴史と神勅を忖度し、その意図を諮って、具体的に統治する正当性の根拠を天皇に与えたのであって、憲法には天皇は「統治権の総攬者」であるとされています。天皇が勝手に一人で何でも決められるような絶対的な権限を持っていたわけではないのです。

もちろん、天皇も議会もこの憲法に縛られるわけですから、帝国憲法が立憲君主の憲法であると言われるのはその意味においては正しいのです。

「主権」という言葉は、統治者と被治者を分けるところからスタートした概念で、もともとは王政の権限の根拠を説明するために考え出された概念です。その意味では極めてヨーロッパ的な概念で、日本のような国の政治風土とは合わないのです。

日本では、強いて「主権」という言葉が当てはまるとすれば、「神勅主権」とか歴史や伝統に根拠を持つ「法主権」という言葉が一番当てはまるのではないかと思います。

その意味では主権者をアラーの神であるとし、その神から委託を受けて地上を統治するのが人間だと考えるイスラム教の国々の主権概念の方が、日本の伝統的な統治意識には近いと言えると思います。

つまり、人間に絶対的な「主権」という力を与えることは、最後には力と力の争いになってしまい非常に危険であるから、人間には主権を与えないようにした、というのが正しい認識なのです。

ただし、歴史や伝統、そして宗教的な教えに従って国政を運営し、国を統治する「統治権」については具体的な人間がそれを責任もって行うという形で、その国の在り方を具体化させようとしたのです。

帝国憲法では、その統治権の最高の責任者が「天皇」であったということです。

そしてそれが戦後「国民」に変わったのです。

この変革を「国体の変革」であるという人もいますが、実は統治権者である「天皇」や「国民」の背後にあるものが変わらなければ、国体が変わったとは言えないのです。
(日本の国体の本質については前回の記事を参照してください。)

今後の憲法の改正を考えるときに、この統治権者の背後にあるものをどのようなものとして規定し、どのような背景を置くのか、ということを考えなければならないのです。

私は経済学者のハイエクが「法主権」という言葉を述べていたり、日本では尾高朝雄が「ノモス主権」を提唱していることをヒントにして、基本的には人間に「主権」を持たせない、という考えを憲法の中心に置いていくべきだろうと考えています。

ただし、「統治権」は国民が責任をもって行使し、その義務を全うするということについては、近代民主主義の考え方を取り入れ、日本独自の憲法思想を作り出すべきだというのが、私の考えです。

また、イスラム圏の政教一致の思想、宗教法や宗教の教えを国の柱にして、国政の運営を行うことや聖徳太子の17条の憲法に見られるように、仏教の教えを背景に国を治めるという考え方を、統治権の背後に取り入れるべきであると考えます。

保守派の改憲論者であっても、大日本帝国憲法から日本の憲法の在り方を説き起こす人がほとんどなのですが、私は聖徳太子の17条の憲法の精神にまで遡って、憲法の在り方を議論すべきだと思います。

この「主権」に関する問題点は、今後もっと精密な議論が必要ですが、それはまた別の機会に譲り、大雑把な議論にとどめておきます。

次回は、日本国憲法の基本原理の「基本的人権の尊重」の問題点に関して述べてみたいと思います。






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