縄文語

日本語の起源 著者 笹谷政子  新風社
私は笹谷政子女史の説を取り入れたいと思っているのでご紹介したい。

ワトキンスと『古い直線路

2021-05-31 01:16:56 | 雑学

古代、イギリスがもっと深い森に覆われていた頃、村と村はこの直線状の道が織り成すネットワークによってつながっており、小高い丘は案内板の役目を果たしていたのではないか、とワトキンスは考えた。この考察は1921年9月にヘレフォードのウールホープクラブ(Woolhope Club。ヘレフォードシャー州の郷土史、考古学などへの支援団体)で公に発表された。ワトキンスの功績は後に1882年発行の同クラブ会誌"G.H.Piper's" に取り上げられ、その中で、次のように書かれた。
アスガリッド・ヴァウル山から北のアーサー石までひいた線は、ハタロルの丘、オールドキャッスル村、ロングタウン城、ユリシェイ城跡、スノッドヒル城を通る。これらの線を考え出したと想像される古代の測量士たちはドッドマン dodman(カタツムリの男[1])と呼ばれた。

ワトキンスと『古い直線路

2021-05-30 00:13:36 | 雑学

しかし、ワトキンスより以前の1870年9月にウィリアム・ヘンリー・ブラック(William Henry Black)がヘレフォードにあるイギリス考古学協会に「Boundaries and Landmarks(大地に引かれた境界と名所旧跡)」という説を主張していた。その中で、彼は「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てた。ワトキンスが上記のように感じたのは、彼がこの仮説を読み、それを頭の片隅においていたからかもしれない。

ワトキンスと『古い直線路

2021-05-29 03:18:46 | 雑学

レイラインという概念は1921年6月30日、アルフレッド・ワトキンスによって提案された。 ワトキンスはイギリス中部のヘレフォードシャー州にあるブレッドウォーディン(en:Bredwardineを訪れ、近くにある丘陵が連なる地へと車で出かけた。
そのとき、丘の頂上をつなぐ小道同士が一直線につながっているように見えることに気付き、地図を確かめ、それらの場所が一直線に連なっていることを確認した。彼は後に息子にこの体験を「あらゆるものが瞬くように私の中へ入り込んだ」と語った。これを聞いた人の中には、彼の感じた「瞬き」というのはいわゆる神秘的な体験なのだろうと言ったものもいた。

浴衣と湯もじ

2021-05-28 00:01:08 | 雑学

日本の場合も昔は着物を着て入ったのです。ゆかたというのも「ゆかたぎぬ」のぎぬがとれたものなのですね。いつ頃までそうであったかはよくわかりませんが、常陸(茨城県)の古い書物を見ておりますと、江戸時代の初め頃までは、湯帷子を着ていたようです。しかし元禄より少し前、今から300年とすこし前頃からは、もう着物を着て湯に入るということはなかったのです。ですからこれは決してアイヌだけの話ではなく、肌を他人に見せないということが大事なことだったと思うのです。そして着物を脱ぐようになって次は、男はふんどし、女は腰巻をして入った。腰巻のことを湯もじといいますね。

三味線

2021-05-26 23:44:24 | 雑学

日本海岸へ行くと浜田節がそうだし、佐渡おけさも実は「はいや」の系統の歌なのです。そしてずっと北へ行き、「津軽あいや」も、「はいや」のなまったものなのです。このように流行唄を全国に巻き起こしていったのは三味線であったわけで、こういう歌のあるところには必ず三味線が見られる。こうしてわずかの間に日本全体へ三味線が広がっていき、それはほとんど座敷歌として三味線が使われたということです。そしてその役割を果たしたのは初めは女であったが、後には津軽辺りでは盲人が奏でるようになる。そして各地すみずみまで三味線の普及を見るようになったわけです。
三味線の伝達でもこうなのだから、三大宗教である仏教・キリスト教・イスラム教でも同じことが起きている。その時代の環境である国・政治・戦争が大きく影響を受けて次第に宗教も変化していくのではないどしょうか。