柳生新陰流 兵法家伝書
柳生但馬守宗矩の生い立ち
柳生但馬守宗矩は元亀二年(1571)、石舟斉宗厳の五男として生まれた。最初の
名が新左エ門、のち又右衛門を名のる。十五歳の折には、柳生家がその領地を豊
臣家から没収されるなど、その青春時代にはずいぶんと苦労が多かったらしい。
二十四歳のとき、父宗厳とともに家康に目通りし、そのまま家康のもとに留めら
れたのが運のひらけはじめであった。関が原の役に際しては家康の親書を携えて
柳生に飛び、父宗厳とともに西軍の後方牽制にあたる。
その功績によって柳生の
旧領を賜り,やがて,二代将軍秀忠の師範となった。寛永九年(1632)三月、宗矩
は三千石の加増を得て六千石となり、同年九月には惣目付(後の大目付)に任じ
られて幕閣の中枢にはいった。その行政手腕や人格がいかに高く評価されていた
かを物語るものであろう。後には加増を重ねて一万二千五百石にまでのぼった。
「猷廟(家康公)にも、天下の務、宗矩に学びてこそ大体は得つれことごとに仰
せられし由、この一事にてもその器量おしはかるべし」(撃剣叢談)などと言わ
れている。
柳生但馬守宗矩の生い立ち
柳生但馬守宗矩は元亀二年(1571)、石舟斉宗厳の五男として生まれた。最初の
名が新左エ門、のち又右衛門を名のる。十五歳の折には、柳生家がその領地を豊
臣家から没収されるなど、その青春時代にはずいぶんと苦労が多かったらしい。
二十四歳のとき、父宗厳とともに家康に目通りし、そのまま家康のもとに留めら
れたのが運のひらけはじめであった。関が原の役に際しては家康の親書を携えて
柳生に飛び、父宗厳とともに西軍の後方牽制にあたる。
その功績によって柳生の
旧領を賜り,やがて,二代将軍秀忠の師範となった。寛永九年(1632)三月、宗矩
は三千石の加増を得て六千石となり、同年九月には惣目付(後の大目付)に任じ
られて幕閣の中枢にはいった。その行政手腕や人格がいかに高く評価されていた
かを物語るものであろう。後には加増を重ねて一万二千五百石にまでのぼった。
「猷廟(家康公)にも、天下の務、宗矩に学びてこそ大体は得つれことごとに仰
せられし由、この一事にてもその器量おしはかるべし」(撃剣叢談)などと言わ
れている。