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DAY by DAY

日々の出来事、覚書

12月4日-2

2023-12-04 22:01:05 | 日記

12月4日メモ、Part2。

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1884光緒101017甲申政変

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甲申政変

1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こった独立党

(急進開化派)によるクーデター。

 

親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を

樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。

 

甲申事変朝鮮事件とも呼ばれる。

 

三日天下

開化派のクーデタに対し、閔氏側の右議政沈舜沢は清国軍の出動と国王・閔妃の

救出を要請した。清国軍は当初出動をひかえていたが、これは、高宗が日本公使

の保護を命じていたことと、日清両軍の衝突による混乱を避けるためであった。

 

しかし、事態の進展はそれを許さず、清国軍を統括していた呉兆有が袁世凱らと

協議した結果、12月6日、兵を率いて昌徳宮に入ることを決めた。

 

袁世凱は国王への拝謁を求めたが、金玉均は袁世凱の拝謁は当然ながら許され

るが兵を率いて入ることは許されないと応答した。午後2時すぎ、呉兆有が500名

を率いて宣仁門から、袁世凱が800名を率いて敦化門から攻撃を開始し、午後3

時ころから日清間で銃撃戦が始まった。

 

このとき、袁世凱は攻撃目標は日本兵ではなく、あくまでも反乱者たちであるという

名目を立てている。王宮護衛の職にあった朝鮮政府軍兵士400名は経験も浅く、

武器も不十分であったため、宣仁門を守っていた兵士は一斉に逃亡、他の場所でも

至る所でくずれ、清国軍に合流する者もあらわれた。

結果として日本軍150名だけで清国兵1,300名と戦わざるをえなかった。

 

しかし、日本兵は奮戦し、日本側の犠牲者は死者1名、負傷者4名であったのに対

し、清国軍の戦死者は53名を数えた。多くの清国兵士は気勢をあげて威嚇するのみ

で、交戦を避けて王宮各所に放火、略奪行為に走った。

 

とはいえ、広大な昌徳宮を防衛するにはあまりにも少数の日本軍は王宮の一隅に

追い込まれた。村上中隊長は、数では清国軍に劣るものの戦闘では決して不利とは

いえず、必ず撃退することを竹添公使に約束したが、竹添はそれを聞き入れなかった。

包囲の環がせばめられ、国王と王妃は逃げまどい、ついに竹添は日本軍撤収を命じ

た。国王を奉じて仁川に避難するという金玉均らの申し出は国王によって拒否された。

 

竹添公使と日本軍は昌徳宮の裏門から脱出して午後7時30分ころに漢城の校洞に

ある日本公使館に戻った。朴泳孝・金玉均ら9名も行動をともにしたが、洪英植や朴

泳教は国王にしたがって王宮に残り、のちに清国兵に殺害された。

 

清国軍は、12月7日から10日まで高宗を陣営内に確保し、その間高宗に教書を

発布させ、臨時政権を樹立させた。4日から6日にかけての宮廷記録を書き改めさ

せ、高官らに金玉均らを弾劾すべしとの上疏をさせた。

新閣僚には、左議政の金弘集を筆頭に、金允植、金晩植、魚允中らが入り、右営使

に閔泳翊、外務協弁にメレンドルフが名を連ねた。

 

竹添の公使館帰着前から漢城は大混乱に陥った。

鐘路付近の商店のほとんどが清国兵や朝鮮人暴徒によって破壊・掠奪され、日本人

家屋からの略奪行為が相次いだ。まとまって避難していた日本人集団が各地で襲撃

され、婦女子がいたるところで暴行された。旅行中の日本軍大尉1名や日本公使館

に逃げ込まなかった居留民29名は暴徒化した軍民によって殺害された。

 

竹添もまた居留民保護の務めを充分に負ったとはいえない。

公使館には在留邦人避難者も含めて260人が押し寄せており、籠城するにも食糧

が足りなかった。結局、竹添は7日午後、この年の7月に新築落成なったばかりの

日本公使館に火を放って全員退去を命じ、西大門を抜けて麻浦から漢江をくだって

仁川府に向かった。

 

竹添一行が仁川領事館に着いたのは翌8日の朝であった。

彼らは停泊中の千歳丸に収容され、長崎へと向かうこととなったが、竹添はクーデタ

と自分のかかわりが明らかになることを怖れ、朴泳孝・金玉均らの同行を露骨に嫌が

った。そこに外務協弁のメレンドルフが船内の捜索にかけつけた。

 

「これは国際問題だ」と脅しをかけるメレンドルフに対し、竹添公使はやむなく捜索を

承諾したが、千歳丸の船長辻覚三郎がここで義侠心を発揮し、朴・金らを船底に隠し、

自分がこの船の責任者であり、勝手に立ち入ることは誰でも許さないと強硬に主張し

てメレンドルフを引き下がらせ、金らはようやくひそかに同行できたのであった。

 

朝鮮では親清派が臨時政権を樹立したが、独立党の人士や朴・金ら亡命者たちの

家族も数多く朝鮮に残った。彼らは殺害されたり、禁固刑となったり、あるいは自殺

するなど、ほとんどが悲惨な結末をたどった。

 

徐光範と徐載弼の父母妻子は絞殺に処せられ、金玉均の養父は国王の配慮で養

子縁組が解除されたものの、実父は捕らえられ、金玉均と一緒に処刑するため獄

につながれた。政変に参加した独立党員の身内には「族誅」が適用され、従者や

幼い子どもも含めむ家族が残忍な方法で処刑された。

 

クーデタの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、そのうち

の徐光範、徐載弼らはアメリカに渡った。亡命した金玉均は小笠原諸島の父島や札幌

など日本各地を転々としたが、日本政府からは冷遇されて再起計画に絶望し、ついに

は清国の北洋大臣李鴻章を説得するため、1894年(明治27年)3月、上海に渡った。

 

しかし、3月28日、44歳の金玉均は、同地において朝鮮国王の放った刺客洪鐘宇に

よって暗殺された。その遺体は朝鮮半島に移送された後に凌遅刑に処せられ、五体を

引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。

 

金の妻と子は、甲申政変の失敗から10年間生死不明で行方知らずとなったのち、18

94年(明治27年)12月忠清道沃川の近傍で当時東学党の乱(甲午農民戦争)鎮圧

の任にあたっていた日本軍によって偶然発見され、保護された。

そのときの2人は実に憐れむべき姿だったという。

 

政変は失敗に帰したものの、このできごとは近代国家の樹立をめざした民族運動の

さきがけとしての歴史的意義を有する。

 

問題は、それが朝鮮民衆の支持を欠いており、もっぱら外国勢力(日本)の力を借り

ようとしたことであり、その意味で、それが最終的に外国勢力(清国)の介入によって

失敗に終わったのも無理からぬところがあった。

 

結局のところ、新政権を守るための防衛対策を怠ったことがクーデタ挫折の原因

だったのである。

 

 

玉均(キム・オッキュン)

1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日。

李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。

李氏朝鮮時代の思想家。

 

字は伯温(ペゴン)、号は古愚(コウ)。本貫は新安東金氏。

 

開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や

『漢城旬報』の創刊発行に協力した。

 

金玉均や朝鮮の文明開化による自立を支援してきた福沢諭吉は1885年(明治18年)

2月23日と2月26日の論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説では、李氏

朝鮮が凌遅刑という残忍な方法で甲申政変後に金玉均ら開化派の三親等の一族処刑

して遺体を晒し者にした報を聞いて、朝鮮の体制を激しく非難し、金玉均ら朝鮮開化派

の死を涙している。

 

 

人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。

我輩は此國を目して野蠻と評せんよりも、寧ろ妖魔惡鬼の地獄國と云わんと

欲する者なり。而して此地獄國の當局者は誰ぞと尋るに、事大黨政府の官吏に

して、其後見の實力を有する者は即ち支那人なり。

 

我輩は千里遠隔の隣國に居り、固より其國事に縁なき者なれども、此事情を

聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも淚落ちて原稿紙を潤おすを

覺えざるなり

   — 『時事新報』1885年(明治18年)2月26日、 朝鮮独立党の処刑(後編)

 

 

著名な脱亜論もこの出来事の約3週間後に書かれたため、平山洋は「脱亜論」の

内容が「朝鮮独立党の処刑(後編)」の要約になっているとして脱亜論への影響が

あると分析している。

 

日本滞在中は頭山満に紹介された本因坊秀栄と囲碁を通じての深い交流があり、

本因坊秀栄は北海道・小笠原諸島にも慰問に訪れていた。また死の直前に友人に

贈った碁盤(浮木の盤)は1976年に日本棋院に寄贈されたが、没後100年を経た

1995年に韓国棋院に贈呈された。

 

暗殺された日、親しかった頭山満の夢枕に立ったという。

 

暗殺者の洪鐘宇は逮捕後に朝鮮政府の交渉により釈放された。

帰国後に高宗から激賞され、守旧派の一員として要職に就き、開化派を弾圧した。

だが甲午農民戦争後に日本が圧力を強めたことから1903年に失脚して済州島

に流され、1913年に貧困のうちに没した。

 

金玉均の墓がある青山の外人墓地では月額590円の管理料金がかかるが、これ

を5年以上滞納していたために撤去通告が2004年に東京都から出された。

通告に驚いた韓国大使館は滞納中の管理料を代納し、移転の危機を免れた。

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1965 - アメリカの有人宇宙船「ジェミニ7」が打ち上げ。

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ジェミニ7

アメリカ合衆国の有人宇宙飛行であるジェミニ計画で打ち上げられた宇宙船

およびその宇宙飛行計画。

 

ジェミニ宇宙船としては6番目のものであり、1965年12月4日に打ち上げ

られた。

 

エピソード

当時の宇宙船は船内スペースが限られていたためトイレはないのが普通で、本ミッシ

ョンでも小便については吸引器が搭載されていたものの(ただし、実際には陰茎に取り

付けるパイプ部分からの尿もれなどがしばしば発生していた)、大便の際は排便用のプ

ラスチックバッグに用を足したあと(発酵によるガスの発生を防ぐため)防腐剤を入れて

よくこね回し、倉庫に収納することになっていた。

 

ところがこの飛行では、防腐剤が十分に混ざっていなかったあるバッグの便が発酵し、

最終的に飛行7日目にガスの圧力でバッグが破れ、中身が船内に飛び散ってしまった。

 

かといってミッションを中止して地球に帰還するわけにも行かず、後半の7日間は便の

異臭が漂う中船内活動を継続する羽目になった。地球に帰還後、ラヴェルはメディアの

質問に対し「君は、トイレの中で一週間過ごしたことがあるか」と返答したという。

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1972 - スティーブン・ステイナー誘拐事件

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スティーブン・ステイナー誘拐事件

1972年にアメリカ合衆国のカリフォルニア州マーセドで起こった誘拐事件。

 

7歳の少年スティーブン・ステイナーが中年男に連れ去られ、性的虐待を受け続けた

が、7年後に自力で生還した。

 

その際、同じ犯人が新たに誘拐した少年ティミー・ホワイトを救い出したため、一躍

全米のヒーローとなった。

 

スティーブンはその後結婚し、子供もできたが、24歳のときにバイク事故で死亡した。

助けられたティミーも35歳で病死、また、スティーブンの叔父が何者かに射殺、さら

に兄が連続殺人を犯して逮捕と、ステイナー家の周辺に数奇な事件が続き、何度も

取りざたされた。

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1977マレーシア航空システム653便ハイジャック墜落事件が発生。

乗員・乗客100人全員が死亡。

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マレーシア航空システム653便 (MH653)は、マレーシア航空システム 

(MAS)が運航していた、ペナンからマレーシアのクアラルンプールへの

定期便である。

 

1977年12月4日の夕方、定期運航中であったボーイング737-200型機が

マレーシアのジョホール州Tanjung Kupangで墜落した。

これは、現在公式記録がある範囲において、マレーシア航空 にとって死者

が発生した初めての航空事故であった。

 

93人の乗客と7人の乗組員の全員が死亡した。

 

事故機は巡航高度に達するとすぐにハイジャックされた模様だが、ハイジャ

ックとその後の墜落した状況は未だ判明していない。

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1982 - 中華人民共和国の第五期全国人民代表大会で現行の

中華人民共和国憲法が採択。

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中華人民共和国憲法

中華人民共和国の最高法規である。

 

問題点

このように憲法上には近代憲法で保障された普遍的な人権の観念が導入された

反面、それらは本来「市民の基本権」でしかないという前提で成立した条項も維持

されている。

 

例えば「信教の自由」についても、宗教活動は国家の管理下におかれ「国は正常

な宗教活動を保護する」(第36条)に過ぎない。

 

概して権利保障の実態は天安門事件以降も不十分な点も多く、新疆ウイグル自治

区における政治犯投獄や迫害、少数民族の抑圧、インターネット規制など、人権状

況が「劣ったまま」であることがアメリカ国務省の「人権状況に関する報告書(2009

年版)」等で批判されている。

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1987 - 最後の旧日本軍出身者である森繁弘統幕議長の退職を閣議諒解。

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繁弘

1928年〈昭和3年〉1月7日 - 。

日本の陸軍軍人、航空自衛官、歴史学者。

 

第17代航空幕僚長、第16代統合幕僚会議議長。

旧日本軍の軍服を着用した自衛官としては最後まで自衛隊に在隊していた。

 

在職中から日本史好きで知られており、邪馬台国研究では少数派の北九州説を

唱えた。

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1991 - パンアメリカン航空倒産し、運航停止。

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パンアメリカン航空(通称:パンナムPan Am

1927年から1991年まで存在したアメリカ合衆国の航空会社。

 

1930年代から1980年代にかけて名実ともにアメリカのフラッグ・キャリア

として広範の路線網を展開し、世界の航空業界に対して非常に高い影響力を

有していたが、航空自由化の進行と高コスト体質の改善失敗によって経営が

悪化し、1991年に破産して消滅した。

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2000 - 歌舞伎町ビデオ店爆破事件

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歌舞伎町ビデオ店爆破事件

2000年(平成12年)12月4日に発生した事件。

 

2000年(平成12年)12月4日午後8時20分頃、新宿区歌舞伎町のビデオ店に

火をつけた手製の爆弾が投げ込まれ、ビデオ店は爆発。

店内には従業員の男1人と客1人いたが、店内に転がり込んできた黒い物体が音

をたてているのに気付いて反射的に外に飛び出したため、人間への直接的被害は

なかった。

 

しかし、ビデオ店の壁や天井が崩れるなど、爆弾によって物理的被害が発生した。

 

その後、犯人は警察に出頭。

犯人は栃木県の高校2年の男子生徒(当時17歳)であり、祖父の散弾銃と実弾

39発も所持していた。そのため、殺人未遂罪と銃刀法違反容疑で逮捕された。

少年はガンマニアで、武器や軍事に関する関心は高かった。

 

事件発生時は少年犯罪が凶悪化した時期と言われたが、当時はナイフなど刃物に

よる単純な凶行が多かった。しかし、爆弾を手製で製造して犯行に用いたり銃を携

帯することは近年に無かったことであった。

 

人への殺傷は無かったが、状況次第では大惨事になる可能性があった。

 

犯人は犯行動機について「むしゃくしゃして人をやっつけてやろうと思った」「人間を

バラバラに壊したかった」「爆発物を爆発させた上で、集まった人たちを散弾銃で撃

つつもりだった」「銃を撃てば良かったと思っている」などと供述した。

 

宇都宮家裁栃木支部は「少年に責任能力があるのは明らか」としたが、「比較的長

期間の矯正教育が必要」として中等少年院送致の保護処分を決定した。

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2009 - 京都朝鮮学校公園占用抗議事件

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京都朝鮮学校公園占用抗議事件

日本の右派系市民団体「在日特権を許さない市民の会」(在特会)・「主権回復を

目指す会」(主権会)・「チーム関西」に所属する活動家らが、京都朝鮮第一初級

学校(以下「初級学校」と表記)による勧進橋児童公園の不正占用に抗議すると

して、2009年(平成21年)12月4日に同校校門前で抗議街宣活動を行い、

抗議者側が威力業務妨害罪、朝鮮学校側が都市公園法違反に問われた事件。

 

安田浩一によると2009年までは特に地域住民から市への苦情などは寄せられて

いなかったとされるが、SAPIOの2014年6月号の記事によると、朝鮮学校に占有

されていたために公園に近づけない、朝鮮学校の人間に公園から追い出されたとい

った複数の住民の証言がある。

 

2009年2月に道路工事に伴って公園の面積が大幅に縮小されて以降は公園の

使用に関するトラブルが増加し、事件前の2010年8月27日の時点では近隣住

民から朝鮮学校の公園使用について京都市へ苦情が寄せられるようになっていた

という。

 

抗議者側を批判する立場からは京都朝鮮学校襲撃事件と呼ばれる。

 

2014年まで、刑事・民事のいずれについても確定判決が下りており、初級学校側は、

都市公園法違反により罰金10万円の略式命令を受け、在特会等は、構成員等が

刑事事件として侮辱罪・威力業務妨害罪・器物損壊罪について執行猶予付の有罪

判決を受けたほか、朝鮮学校側提訴の民事訴訟においては、朝鮮学校による公園

の使用や私物の設置が市の許可を得ておらず違法状態のまま継続されてきたこと

や近隣住民とのトラブルの存在が事実認定されたものの、「公園の不法占拠を糾弾

するだけでなく、在日朝鮮人を劣悪な存在であるとして嫌悪・蔑視し」「公益を図る目

的であったということはできない」として街宣の禁止と計1226万3140円の賠償命令

を受けた。

 

なお、この事件は、公安調査庁が年次で発行している内外情勢の回顧と展望(平成

22年版)においても「排外主義を掲げ執拗な糾弾活動を展開する右派系グループ」

として、コラム内で取り上げられている。

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2013ウェブサイトHave I Been Pwned?」が開設される。

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Have I Been Pwned? (HIBP)(→私はPwnされている?)

セキュリティ専門家のトロイ・ハントが2013年12月4日に開設した、インターネット

利用者が自らの個人情報が漏洩していないかを照会できるウェブサイト。

 

漏洩した数十億件のアカウント情報を含む、数百のデータベースダンプやPastebin

を収集、分析して得られた情報から、電子メールアドレス、または、電話番号で検索

することができる。

 

また、メールアドレスの登録を行うことにより、今後ダンプされたデータにそのアドレス

が含まれた場合、通知を受け取ることも可能となる。

 

HIBPは、インターネット利用者のセキュリティやプライバシーの保護のための貴重な

リソースとして広く知られている。

2019年6月現在、HIBPは80億件の漏洩情報を有し、ユニークユーザー数は1日

平均で15万人、通知サービスへのメールアドレス登録数は300万件にのぼる。

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2019 - アフガニスタンで長年人道支援に取り組んできたNGO

「ペシャワール会」の代表、中村哲医師ら6名が銃撃され死亡。

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中村

1946年9月15日 - 2019年12月4日。

日本の医師(脳神経内科)。

 

勲等は旭日小綬章。

 

アフガニスタンではカカ・ムラト(「ナカムラのおじさん」)、

カカムラッドとも呼ばれる。

 

ペシャワール会現地代表、ピース・ジャパン・メディカル・サービス総院長、

九州大学高等研究院特別主幹教授などを歴任した。

 

福岡県福岡市出身。ペシャワール会現地代表やピース・ジャパン・メディカル・サービス

の総院長として、パキスタンやアフガニスタンで医療活動に従事してきた。

アフガニスタンでは高く評価されており、同国から国家勲章や議会下院表彰などが授与

されており、さらに同国の名誉市民権が贈られている。

 

日本国政府からも旭日双光章などが授与されている。

また、母校である九州大学では高等研究院にて特別主幹教授に就任した。

2019年、アフガニスタンのナンガルハル州ジャラーラーバードにて、武装勢力(パキス

タン・タリバン運動=略称TTP)に銃撃され死去した。

 

死去に伴い、旭日小綬章や内閣総理大臣感謝状などが授与された。

 

銃撃事件・没後

2019年12月4日、アフガニスタンの東部ナンガルハル州の州都ジャラーラーバード

において、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した。負傷後、現地の

病院に搬送された際には意識があったが、さらなる治療の為にパルヴァーン州バグラ

ームにあるアメリカ軍のバグラム空軍基地へ搬送される途中で死亡した。なお、中村と

共に車に同乗していた5名(運転手や警備員など)もこの銃撃により死亡した。

 

中村が襲撃されたこの事件に対してターリバーンは報道官が声明を発表し、組織の関

与を否定。一方でアフガニスタン大統領のアシュラフ・ガニーは「テロ事件である」とする

声明を発した。

 

12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われたのち、遺体は空路で日本に搬送さ

れた。追悼式典では大統領のアシュラフ・ガニー自らが棺を担いだ。

 

告別式は12月11日に福岡市中央区の斎場で営まれた。

親交のあった上皇夫妻や秋篠宮夫妻などからも弔意が寄せられ、バシール・モハバ

ット駐日アフガニスタン大使、久保千春九州大学長らが弔辞を読んだ。中村と同様に

アフガニスタンへの医療支援を目的とするNPO法人カレーズの会を率いていたアフ

ガニスタン系日本人医師レシャード・カレッドは、『中日新聞』の取材に応じて、生前の

中村について「互いの活動を励まし合い、相談し合う関係」であったと述べ、「寡黙で

男らしく、優しい九州男児を絵に描いたような人だった」と中村の人柄を述懐して冥福

を祈った。

 

福岡県警は刑法の国外犯規定に基づき殺人容疑で捜査を進めており、司法解剖の

結果、死因は肝臓損傷による失血死とみられると発表した。

 

追悼の声

中村の死去を受けて、政界からは以下のような発言がなされた。

以下、発言者の肩書は全て当時のものである。

  • 公明党代表・山口那津男:

「私も中村さんに会って話を聞いたことがあるが、アフガニスタンの貧しい人

たちを助けるために支援してきた方で、銃撃で命を奪われたことは許しがたい。

アフガニスタンの復興と安定を作り出すため、中村さんの志はこれからも消え

ることなく、多くの人が共有し、努力していくべきだ」

 

  • 日本共産党委員長・志位和夫:

「憲法9条」に基づく国際貢献とは何かということを身をもって体現された

方だ。自衛隊の海外派遣の動きがあった際には、『非軍事の国際貢献が危険に

さらされる』として、必ず反対していたのが大変心に残っている。中村さん

を失ったことは、世界にとって損失だ。心から哀悼の意を表したい」

 

  • 内閣総理大臣・安倍晋三:

「中村先生は、医師として医療分野において、また、灌漑事業等において、

アフガンで大変な貢献をしてこられました。なかなか危険で厳しい地域に

あって、本当に、本当に命懸けで様々な業績を挙げられ、アフガンの人々

からも大変な感謝を受けていたというふうに、我々も知っておりますが。

しかし、今回このような形で、お亡くなりになられたことは本当にショック

ですし、心から御冥福をお祈りしたいと思います。」

 

  • 内閣官房長官・菅義偉:

「中村医師を含む方々が犠牲となったことは痛恨の極みだ。今回の卑劣なテロ

は許されるものではなく、わが国は断固として非難し、今後とも日本人の安全

確保のために全力を尽くしていくとともに、アフガニスタンの平和と発展のた

めに引き続き貢献していきたい」

 

  • 自由民主党政務調査会長・岸田文雄:

「中村さんの大きな功績を改めて振り返り、敬意を表し、ご冥福をお祈り申し

上げたい。国際社会では厳しい現実が存在し、日本人が命をかけて頑張って

いる。今後、中東への自衛隊派遣の問題など、国際社会との関わりを政治の

立場から真剣に考えていかないといけない」

 

  • 自由民主党幹事長・二階俊博:

「誠に無念で、ご家族の心中を思うと大変胸が痛む。何の罪もない尊い生命を

奪う卑劣で残忍なテロを断じて許すことはできない。政府は、真相究明を徹底

的に行い、このようなテロが二度と起きないよう、最善の努力を尽くすべきだ」

 

  • 国民民主党外交・安全保障調査会長・渡辺周:

「国会で参考人として証言し、当時の民主党でも貴重な意見をいただいた。

『何をしてはいけないか。殺してはいけない、戦争に関わってはいけない』と

いう直接いただいたことばを思い起こし、世界の平和と日本国民の安全のため

にどのような行動をとるべきか、常に考えなければならない。われわれがきち

んと役割を果たすことをお誓いし、心からご冥福をお祈りしたいな」

 

追贈

2019年12月23日、政府は中村への旭日小綬章の追贈と内閣総理大臣感謝状の

授与を決定。27日に行われた授与式で内閣総理大臣・安倍晋三は遺族と面会し、

「(中村さんは)アフガニスタン国民や難民のための医療活動、かんがい事業などで

輝かしい業績を上げ、国際人道支援に多大な貢献をした」と生前の功績を称えた。

 

授与式の後に遺族は取材に応じ、「本当は無念で残念だが、みなさまの支援で継続し

てアフガニスタンで緑の大地が広がっていくことを願っている」「ぺシャワール会はこれ

からも継続していく。父も何より願っていることで、家族もそれが願いです」と語った。

 

授与式には駐日アフガニスタン大使のバシール・モハバットや、ペシャワール会の村上

優会長らも立ち会った。

 

2020年1月、ガンベリ公園にドクターサーブナカムラ記念塔が建設された。

同年7月、第6回食の新潟国際賞の大賞を受賞。

佐賀大学農学部などの研究チームは、佐賀県太良町の多良岳で2018年に発見した

タマバエの新種を、昆虫好きとして知られていた中村に因み

「Massalongia nakamuratetsui」

と2020年8月に命名した(和名はミズメタマバエ)。

 

2021年1月14日、アフガニスタン政府は人道支援活動の功績をたたえて中村の

肖像をデザインした切手を発行することを発表した(切手には現地語と英語で事績

が記されている)。

 

同年3月、九州大学は「中村哲先生の志を次世代に継承する九大プロジェクト」の

一環として、中央図書館内にグラフィックと映像を中心とした展⽰スペース「中村哲

医師メモリアルアーカイブ」を新設し、中村が⽣前に書き著し・遺された⾔葉を収集・

蓄積する「中村哲著述アーカイブ」をインターネット公開した。

同年6月18日、九州大学は2021年度の夏学期より全学部の学生を対象とした

授業科目「中村哲記念講座―中村哲先生の想いを繋ぐ―」開講を発表した。

 

2022年10月11日、アフガニスタンを実効支配するターリバーン暫定政権は、長

年にわたり人道支援活動を行った中村を讃える追悼広場「ナカムラ」を完成させた。

広場は同国東部のナンガルハール州ジャラーラーバードに存在し、中村の写真や

石碑が設置されている。

 

広場建設は前政権時代に計画されており、殺害事件現場の近くに約500万アフガ

ニかけて建設された。

 

人物

西南学院中学校在学中に日本バプテスト連盟香住ヶ丘バプテスト教会(福岡市東区、

当時は香椎伝道所)でF・M・ホートン宣教師よりバプテスマを受けた。

当時の香住ヶ丘教会はまだバプテスマが行われたことがなく、教会にとって中村は

最初期の生え抜き教会員だったという。

 

自身はクリスチャンであるが、同時に(イスラム教圏であるアフガニスタンやパキス

タンにおいて)現地の人々の信仰や価値観の在り方を尊重して活動を続けていた。

 

福岡高等学校時代の同期に原尞がいる。

また内科医で九州大学第23代学長・久保千春は大学で同級だった。

 

アフガニスタンでの活動について、「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕ら

の活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感があ

りますよ。体で感じた想いですよ。武器など絶対に使用しないで、平和を具現化す

る。それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条です

よ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側

も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。

9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。

それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。」と語り、日本国憲法第9条(不戦条項)

の堅持を主張した。

 

また佐高信に対しても「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』と

いうのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障

だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日

本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれている

んです」とも語っている。

 

家族・親族

小説家の火野葦平は母方の伯父である(妹が中村の母)。

 

父方の親族は、太平洋戦争末期の福岡大空襲(1945年)でほぼ全滅している。

父の中村勉は、1903年生まれ。

 

給仕として働いていたところ、その英才を松永安左衛門に認められて給費生として

福岡県福岡工業学校に入学し、早稲田大学を経て、再び若松に戻り、火野葦平と

交流を深めていた。

 

同時に左翼運動にも力を入れ、指導的立場にいた。

しかし、日本労働組合全国協議会での反戦・労働運動などを理由に1932年2月

24日に治安維持法違反で逮捕され、懲役2年、猶予5年の判決を受けた。

玉井組の下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業

にしていた。

 

外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいた玉井金五郎が映画『花と竜』のモデ

ルとなった。

 

『西日本新聞』記者で同社北九州本社代表を務め、現在はプロサッカーチーム:ギラ

ヴァンツ北九州代表取締役社長の職に在る玉井行人は従兄弟に当たる。

 

長女の秋子はペシャワール会事務局で、2020年1月から活動している。

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2023年、今日。

ハンバーガーをいただいた。

別にまずかったわけでもないが、特に言うべき事はない。

いい天気だったが、寒かった。

 

 

 

 

 

 


12月4日

2023-12-04 21:55:06 | 日記

今日12月4日は、年始から338日目、年末まであと27日。

 

画像は、金玉均。1884年の甲申政変で日本と協力し、韓国の近代化を図ろうとした。

1894年3月28日、上海で暗殺され、凌遅刑に処された。

 

以下、今日の出来事一覧とその後にメモ記載。(メモはPart2まで)

 

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771年 - フランク王カールマンが死亡。

共同統治をしていたカール1世がフランク王国の単独の国王となる。

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794年(延暦13年11月8日) - 平安京が新都となり、同時に山背国が

山城国と改められる。

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1185年(文治元年11月11日) - 後白河法皇が源頼朝に源義経追討の

院宣を下す。

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1259年 - イングランド王ヘンリー3世とフランス王ルイ9世がパリ条約を結ぶ。

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1563年 - 1545年に開会したトリエント公会議が閉会。

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1791年 - 世界初の日曜版新聞『オブザーバー』が創刊。

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1872年 - 1か月前にニューヨークを出航したメアリー・セレスト号が、

ポルトガル沖で無人で漂流しているのが発見される。

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1884年(光緒10年10月17日) - 甲申政変。

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1890年 - 北里柴三郎らがジフテリアと破傷風の血清療法を発表。

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1909年 - 大韓帝国の政治結社一進会が韓日合邦を要求する声明書を発する。

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1915年 - 東京株式市場が暴騰。第一次大戦景気が始まる。

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1926年 - 山形県五色温泉で秘密裏に日本共産党第3回大会が開催され、

第二次共産党が発足。

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1934年 - 大雪山国立公園・阿寒国立公園・中部山岳国立公園・阿蘇国立公園

(現阿蘇くじゅう国立公園)が国立公園に指定。

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1959年 - 新潟日赤センター爆破未遂事件。

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1960年 - 都営地下鉄1号線(現在の都営地下鉄浅草線)押上駅 - 浅草橋駅間

が開業し、京成電鉄と相互乗入れ開始。

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1965年 - 1965年ニューヨーク空中衝突事故。

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1965年 - アメリカの有人宇宙船「ジェミニ7号」が打ち上げ。

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1965年 - 日本科学者会議結成。

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1969年 - 米軍は沖縄人米軍基地労働者の大量解雇発表[3]

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1971年 - スイス・モントルーのモントルー・カジノで行われた

フランク・ザッパのコンサートで、観客が撃った照明弾により火災が発生。

ディープ・パープルの楽曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の題材となる。

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1972年 - スティーブン・ステイナー誘拐事件。

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1975年 - スリナムが国連に加盟。

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1977年 - 中央アフリカ共和国終身大統領ジャン=ベデル・ボカサが

戴冠式(英語版)を行い中央アフリカ帝国皇帝ボカサ1世として即位。

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1977年 - マレーシア航空システム653便ハイジャック墜落事件が発生。

乗員・乗客100人全員が死亡。

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1982年 - 中華人民共和国の第五期全国人民代表大会で現行の

中華人民共和国憲法が採択。

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1982年 - 映画『E.T.』が日本で公開。

1997年(平成9年)公開の『もののけ姫』に抜かれるまで、邦画と洋画の

配給収入、歴代1位を記録。

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1983年 - テレビユー福島 (TUF) 開局。

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1986年 - 「鉄道事業法」及び「日本国有鉄道改革法」公布。

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1987年 - 最後の旧日本軍出身者である森繁弘統幕議長の退職を閣議諒解。

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1988年 - 国際宇宙ステーション(ISS)を構成する2つ目のモジュール

「ユニティ」を搭載したスペースシャトル・エンデバー(STS-88ミッション)

が打ち上げ。

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1988年 - JR西日本湖西線堅田駅 - 和邇駅間に小野駅が開業。

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1988年 - 家庭用ゲーム機としては世界初となるCD-ROM媒体を採用した

『CD-ROM2』がNECホームエレクトロニクスにより発売される。

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1991年 - パンアメリカン航空が倒産し、運航停止。

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1994年 - WBC世界バンタム級王者薬師寺保栄と、WBC世界バンタム級暫定

王者辰吉丈一郎の間で、日本人同士による初の統一王座決定戦が行われ、

2-0の判定で薬師寺が勝利した。

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1999年 - JR東日本奥羽本線山形駅 - 新庄駅間が標準軌化。

同区間で山形新幹線が開業。

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2000年 - 歌舞伎町ビデオ店爆破事件。

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2009年 - 京都朝鮮学校公園占用抗議事件。

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2010年 - 東北新幹線・八戸駅 - 新青森駅が開業し、全線開通。

あわせて、東北本線の一部を青い森鉄道に移管。

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2011年 - 2011年ロシア下院選挙: ロシア連邦議会下院選挙の投開票の結果、

与党統一ロシアが大きく議席を減らす。

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2013年 - 交通政策基本法が施行。

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2013年 - ウェブサイト「Have I Been Pwned?」が開設される。

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2019年 - アフガニスタンで長年人道支援に取り組んできたNGO

「ペシャワール会」の代表、中村哲医師ら6名が銃撃され死亡。

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2022年 - 静岡県裾野市の私立の認可保育園で、1歳児を受け持っていた3人の

元女性保育士が、園児の足をつかんで宙づりにしたり、倉庫に閉じ込めたり

など、悪質な保育をしていたことで問題になっていた件について、静岡県警

が、この3人を暴行の疑いで逮捕した。

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===メモ===============================

下線部分情報ソース未確定。以前日記に記した件は再記せず。

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771 - フランク王カールマンが死亡。

共同統治をしていたカール1がフランク王国の単独の国王となる。

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カールマン1

751年6月28日 - 771年12月4日。

フランク王国(カロリング朝)の国王(在位:768年 - 771年)。

 

ピピン3世(小ピピン)と王后ベルトラダの次男で、カール1世

(大帝、シャルルマーニュ)の弟。但し、カールは生誕年が諸説

ある事とピピン3世とベルトラダの結婚年が確定出来ていない事

から、ベルトラダ所生の子である事に疑問を提起している歴史家

もいる。

 

この場合、カールマンがベルトラダにとっては長男となる。

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794延暦13118平安京が新都となり、同時に山背国が

山城国と改められる。

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山城国(やましろのくに)

日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。

 

「やましろ」は、古くは「山背」「山代」と記され、7世紀に「山背国」という表記で国が

建てられた。この名称は、平城京から見て「奈良山のうしろ」にあたる地域であるこ

とから来ていると云われている。

 

延暦13年11月8日(794年12月4日)の平安京命名の際に、桓武天皇が、山

河が襟帯して自然に城をなす形勝から「山城国」に改称した。

これが「城」という字を「しろ」と読む原因となった。

 

平城京時代の木簡を見る限り「山代国」・「山背国」の表記は並存していたと

見られている。

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1185文治元年1111後白河法皇源頼朝源義経追討の

院宣を下す。

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後白河天皇

1127年10月18日〈大治2年9月11日〉-

 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉。

日本の第77代天皇

(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 

1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)。

 

諱は雅仁(まさひと)。

 

鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、

譲位後は34年にわたり院政を行った。

 

その治世は保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平

清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがその

たびに復権を果たした。

 

政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉

幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築

した。

 

南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は

東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが、今様を愛好して

『梁塵秘抄』を撰するなど文化面にも大きな足跡を残した。

 

頼朝の政治介入

「文治」の号や大仏開眼には平和到来への願いが込められていたが、10月になると

源義経・行家の頼朝に対する謀叛が露顕する(『玉葉』10月13日条)。

 

後白河院は義経を制止しようとするが、義経は頼朝追討宣旨の発給を迫り、大炊御

門経宗も「当時在京の武士、只義経一人なり。彼の申状に乖かれ若し大事出来の時、

誰人敵対すべけんや。然らば申請に任せて沙汰あるべきなり」(『玉葉』10月19日条)

と進言したことから、やむを得ず頼朝追討の宣旨を下した。

 

しかし宣旨は下されたものの兵は思うように集まらず、11月3日、義経は京都を退去

した(『玉葉』同日条)。その後、関東から武士が上洛して「二品忿怒の趣」を伝え(『吾妻

鏡』11月5日条)、藤原範季が「法皇の御辺の事、極めて以て不吉」(『玉葉』11月14

日条)と語るなど、院周辺は頼朝の報復に怯えて戦々恐々となった。

 

院近臣高階泰経は院宣を出したのは「天魔の所為」であり、義経が院宣を出さなけれ

ば宮中で自殺すると脅迫したためであるという弁解の書状を鎌倉に送った。頼朝はこ

れに対する返書で朝敵を討ち滅ぼし政務を院に返したという功績があったのに、どう

して追討院宣を出すのかと反発し、義経・行家の追討で諸国が疲弊して人民が滅亡

するならば「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」と難詰し、厳しく

糾弾した。

 

頼朝にすれば義経の恫喝による追討宣旨はまだしも、義経・行家をそれぞれ九国・四

国の地頭に補任したことは看過できなかった(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』27日条)。

 

11月24日、北条時政が千騎の兵を率いて入京する。

28日には「守護地頭」の設置が奏請され(『吾妻鏡』『玉葉』同日条)、12月6日には

「天下の草創」として兼実への内覧宣下、議奏公卿10名による朝政運営、「行家義経

に同意して天下を乱さんとする凶臣」である平親宗・高階泰経・平業忠・難波頼経・葉室

光雅・一条能成・藤原信盛ら14名の配流・解官を内容とする廟堂改革要求が突きつけ

られる(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』27日条)。

 

朝幕交渉

頼朝の圧力が恐れていたほど苛烈なものではないと見た後白河院は、文治2年(1186

年)になると巻き返しに転じた。2月には熊野詣の費用を捻出するよう北条時政に院宣

を下し(『吾妻鏡』2月9日条)、3月には平家没官領である丹波国五箇荘を院領にする

よう命じた。また頼朝追討宣旨を奉行して解官となった葉室光雅が朝廷に復帰し、高階

泰経も後白河院の宥免要請により配流を取り消された(『吾妻鏡』3月29日条)。

 

この時期、北条時政は「七ヶ国地頭」の辞任を表明し(『吾妻鏡』3月1日条)、諸国兵

粮米の徴収も停止となっている(『吾妻鏡』3月21日条)。

 

摂政・氏長者の人事については、九条兼実の摂政就任を求める頼朝に対して後白河

院は近衛基通擁護の姿勢を貫いたため、摂政・内覧が並立する異常事態となっていた。

3月12日にようやく兼実に摂政の詔と氏長者の宣旨が下されたが(『玉葉』同日条)、

ここで摂関家領の継承が問題となる。

 

頼朝は摂政・氏長者の地位と共に基通の家領を兼実に与えることを主張したが(『吾妻

鏡』3月24日条)、基通は引渡しを拒み、後白河院も基通の訴えを認めたため、双方

の言い分は真っ向から対立することになった。

 

4月になると、頼朝は摂関家領のうち「京極殿領」を兼実に、「高陽院領」を基通に配分

するという妥協案を示すが後白河院は拒絶し、基通が源義経・行家に命じて兼実に夜

襲をかけるという噂も飛び交った(『玉葉』5月10日条)。

緊迫した空気が漂う中、7月に大江広元が上洛する(『玉葉』7月12日条)。

 

院側の丹後局と折衝が重ねられたが妥協点は見出せず(『玉葉』7月15日、17日条)、

結局は頼朝が後白河院の要求を全面的に呑み、基通が家領の大部分を継承すること

で決着が着いた。

 

ここに摂関家領の分割が確定し、近衛家・九条家が名実共に成立する。

後白河院の粘り強い対幕府交渉により、前年の頼朝の改革要求の大部分は事実上

無効化されることになった。

 

頼朝が前年の強硬な姿勢から一転して後白河院の要求を認めた背景には、各地の

武士が謀叛人の所領と決め付けて神社・仏寺の所領を押領したり、本家・領家への

年貢を納入しないなどの非法行為が多発していたことが要因として考えられる。

 

荘園領主による訴えが殺到した結果、頼朝は下文を一挙に252枚も出すなど紛争

処理に忙殺されることになった(『吾妻鏡』10月1日条)。

頼朝自身も関東御領・関東御分国を持つ荘園領主・知行国主であり、荘園公領制の

崩壊は望むところではなく、武士の引き締めに乗り出さざるを得なかった。

10月には謀叛人跡以外の地頭職設置が停止された(『吾妻鏡』11月24日条)。

 

戦後復興と奥州合戦

地頭職の設置範囲・摂関家領の分割が合意に達したことで、朝幕関係は文治3年

(1187年)になると改善に向けて動き出した。皇居である閑院内裏は元暦2年(11

85年)の大地震で破損が著しく、大江広元が上洛して幕府の全面的支援により修理

作業が行われた(『吾妻鏡』6月21日条、『玉葉』7月14日条)。

 

修理は10月25日に完了し(『吾妻鏡』同日条)、11月13日に後鳥羽天皇の遷幸が

実現する(『玉葉』同日条)。

 

同じ頃、京都では群盗の出没が大きな問題となっていた。

検非違使庁の機能低下もあり、後白河院は治安回復のため京都守護・一条能保に

「勇士等を差し、殊に警衛する」ことを命じた(『吾妻鏡』8月12日条)。

能保の報告を受けた頼朝は、ただちに千葉常胤・下河辺行平を上洛させて、群盗鎮

圧の任務に当たらせている(『吾妻鏡』8月19日条)。

 

文治4年(1188年)4月13日、院御所・六条殿が焼失する(『玉葉』同日条、『吾妻

鏡』4月20日条)。六条殿は院政の拠点であり、院分国・公卿知行国・幕府が分担し

て再建工事が進められた。

 

元の六条殿は平業忠の邸宅で四分の一町と手狭だったが、新造御所は一町に拡張

された壮大なものとなり、院政の威信を示した。頼朝の所課の屋々は特に丁寧であり、

後白河院を大いに喜ばせた(『吾妻鏡』12月12日条、30日条)。

 

各地の農業生産も「万民の悦びなり、今年惣べて第一の豊作なり」(『玉葉』7月9日条)

と回復の兆しを見せ始め、荒廃した京都も戦乱・地震の打撃から徐々に復興していった。

 

朝幕間に残された懸案は義経の動向だったが、文治4年(1188年)2月、義経が奥州

にいることが確実であるという情報が頼朝から朝廷に伝えられた(『玉葉』2月13日条)。

頼朝は「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由

に年内の軍事行動はしないことを表明し、藤原秀衡の子に義経追討宣旨を下すことを

要請した。

 

頼朝の申請を受けて、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨が下されている

(『吾妻鏡』4月9日条、10月25日条)。

 

文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の圧迫を受けた泰衡は義経を襲撃して自害

に追い込む。後白河院はこれで問題は解決したと判断して「彼滅亡の間、国中定めて

静謐せしむるか。今においては弓箭をふくろにすべし」(『吾妻鏡』6月8日条)と頼朝

に伝える。

 

しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、6月25日

に泰衡追討の宣旨を求めた。7月19日、頼朝は宣旨が届かないまま自ら軍を率いて

奥州に発向し、9月には奥州藤原氏を滅ぼした(奥州合戦)。

 

これは朝廷の命によらない私戦だったが、後白河は7月19日付けの泰衡追討宣旨

を下して頼朝の軍事行動を追認し(『吾妻鏡』9月9日条)、10月には「時日を廻らさず

追罰するの條、古今に比類なき事か。返す返す感じ思しめす」と院宣を下した。

(『吾妻鏡』11月3日条)

 

12月、上洛を求める後白河に対して、頼朝は「明年に臨みて参洛すべし」と奏上した

(『吾妻鏡』12月25日条)。

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1259 - イングランドヘンリー3フランスルイ9パリ条約を結ぶ。

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パリ条約

1259年にイングランド王とフランス王の戦争を終結し、プランタジネット家のフランス内

領土問題を解決した、ヘンリー3世とルイ9世の間の条約。

 

イングランドでは国王であるヘンリー3世が、フランス王であるルイ9世に対して臣下

の礼をつくす条件で、ガスコーニュとアンジューの一部を領地とすることが認められた。

また、すでにジョン王のとき失っていたフランスでの領土、チャネル諸島を除くノルマン

ディー、メーヌ、アンジュー、アキテーヌ、ポワトゥーの請求権をヘンリーが放棄した。

 

一方ルイ9世は、紋章からイングランドを示すサポータをはずし、イングランド王家の

相続権を放棄した。

 

現実にはイングランド王とフランス王は対等であったが、イングランド王はフランス諸侯

であるアンジュー伯を兼ねているために(同君連合)、諸侯としてフランス王の臣下とな

った。のち、フランスのカペー朝が断絶した際には、母系を通じての継承権を主張し、

百年戦争を引き起こす原因となった。

 

なお、イングランド王家はフランス革命戦争期の1801年までフランス王を

自称し続けた。

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1563 - 1545に開会したトリエント公会議が閉会。

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トリエント公会議

教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア共和国トレ

ンティーノ=アルト・アディジェ州トレント)で召集され、1563年12月4日にピウス4世

のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の第19回公会議。

 

トレント公会議とも。

 

諸事情により多くの会期が断続的に行われたが、プロテスタントの宗教改革に対する

カトリック教会の姿勢を明確にし、対抗宗教改革といわれるカトリック教会の刷新と自己

改革の原動力となった。

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1872 - 1か月前にニューヨークを出航したメアリー・セレスト号が、

ポルトガル沖で無人で漂流しているのが発見される。

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メアリー・セレスト

1872年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見された船である。

 

事件当日

1872年12月4日(19世紀は標準時の制定前であるため、12月5日ともされる)、

カナダ船籍のデイ・グラツィア号が、アゾレス諸島付近の海域でメアリー・セレストを

発見した。

 

デイ・グラツィア号はメアリー・セレスト号の7日後にニューヨークを出港した船で、船長

のデヴィッド・リード・モアハウスはブリッグズと親友であり、出港前にも会食していた。

このことは船長2人の共謀による詐欺の疑惑を招いたが、ブリッグスの高潔な人柄とと

もに、彼の船主権を普通に売却した方が利益が大きいということも判明して、詐欺説は

深く検討されなかった。

 

デイ・グラツィア号の乗組員は2時間ほどメアリー・セレストを観察し、「遭難信号を掲

げていないがおそらく漂流中なのだろう」と判断。実際に乗り込んで確かめるべく、一

等航海士のオリヴァー・デヴォーが小さなボート数隻を率いてメアリー・セレスト号に

向かった。

 

彼は「船全体がびしょ濡れだ」と報告した。

ポンプは1基を除いて操作不能であり、デッキは水浸しで船倉は3.5 ft (1.1 m)にわ

たって浸水していたという。

船体に目立った損傷はなく航行可能な状態であったが、前ハッチも食料貯蔵室も開い

ており、掛時計は機能しておらず、方位磁針(羅針盤)は破壊されていた。

 

六分儀とクロノメーターは失われており、同船が故意に遺棄されたことを示唆していた。

また、同船唯一の救命ボートは故意に降ろされ、無理矢理引き離されたようであった。

3つの手すりに謎めいた血痕があり、1つの手すりには説明のできない引っかき傷が

あった。また、刀剣(血にまみれているように見えたが、実際はただの赤錆だった)が

船長の寝台の下に隠されていた。

 

積荷の1,700樽のアルコールは、後にジェノヴァで降ろされた際に9樽が空であった

以外は無事で、6か月分の食料と水も残されていた。しかし、船内の書類は、船長の

航海日誌を除いて全く見つからなかった。

 

日誌の最後は11月24日付で「アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいる」と書

かれており、11月25日にはアゾレスのサンタマリア島に到着できる位置にあった。

船内には人が全くおらず、乗員10名は発見できなかった。

 

デイ・グラツィアの乗組員はメアリー・セレスト号をジブラルタルまで曳航し、判事は

審理の中で彼らの勇気と技術を賞賛した。しかし英領ジブラルタル司法長官で、海

事案件の女王代訴人も兼ねていたフレデリック・ソリー・フラッドは何らかの謀計を

疑っていた。

 

そのため、海難救助の申請をデイ・グラツィアの乗組員に対する事実上の裁判とし

て扱った。結局、裁判所は乗組員に船体と積荷の価格の15%に相当する賞金を

与えはしたが、相場の額よりはかなり低かった。

これは疑いがあるものの証明できない不正行為に対する罰として相殺されたため

であった。

 

その後

1873年初めに、スペイン沿岸に2隻の救命ボートが漂着したと報じられた。

1隻には1人の遺体とアメリカ合衆国の国旗が、もう1隻には5人の遺体があった。

これがメアリー・セレストの乗組員の残留物であるか否かについては全く調査されな

かったと言われているが、未確認情報である。

 

修復されたメアリー・セレストはその後、複数の所有者の元を転々とし、主に西インド

諸島とインド洋の航路を往来した。最後の船長であるギルマン・C・パーカーは1885

年、保険金詐取のためにブーツやネコの餌などほとんど価値のない貨物を積んだ上

で積荷目録には30,000ドル(現在の価値に換算すると約840,000ドル)と虚偽の

記載をし、船をハイチのポルトープランスに向かうと見せかけ、途中でゴナーブ島付

近のロシュロワ・リーフで座礁させたものの、最終的に詐欺が露見しパーカーらは

逮捕された。メアリー・セレストはそのまま放棄され廃船となった。

 

メアリー・セレストの残骸は、2001年8月9日に海洋冒険作家のクライブ・カッスラ

ー(ナショナル・アンダーウォーター・アンド・マリーン・エージェンシー代表)とカナダの

映画プロデューサーのジョン・デービス(カナダECO-NOVA Productions社長)が率

いる調査隊によって発見された。

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※甲申事件、文字数の関係でPart2に記載

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1890 - 北里柴三郎らがジフテリア破傷風血清療法を発表。

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血清療法

動物(馬など)に、毒素を無毒化・弱毒化した上で注射し、毒素に対する抗体を作らせる。

血清療法は、この抗体を含む血清を、病気の治療や予防に用いる方法である。

 

例えば、ニホンマムシやハブの毒素に対する抗体を、馬に作らせる。

マムシ等による咬傷の際、この血清を患者に投与して治療する。

ただし、馬血清はヒトにとって異物であるので、投与の際にはアナフィラキシー・ショック

と遅延型アレルギーに対する十分な注意が必要である。

 

1925年アラスカでジフテリアが猛威を振るったとき、犬ぞりで血清を届けた話は有名。

(バルト)

 

血清療法は、1890年12月4日に北里柴三郎とエミール・ベーリングが連名で論文

「動物におけるジフテリアと破傷風の血清療法について」において、血清療法の発見

を発表したことにより始まる。

 

北里柴三郎は破傷風を、エミール・ベーリングはジフテリアを研究し、特にジフテリア

の場合はエミール・ルーのジフテリア毒素の発見もあって血清療法の進展にとって

画期的なものとなり、後の第1回ノーベル生理学・医学賞受賞に繋がった。

 

ただし、ベーリングのジフテリア血清療法は、北里の破傷風血清療法を基にしたもの

であり、ベーリング本人も北里あっての受賞であることを認めている。

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1915 - 東京株式市場が暴騰。第一次大戦景気が始まる。

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大戦景気大正バブル

日本の経済史において第一次世界大戦の影響により、その参戦国(連合国)であり

ながら本土が戦地圏外にあった日本の商品輸出が急増したため発生した空前の好

景気(ブーム)。

 

このブームは1915年(大正4年)下半期に始まって1920年(大正9年)3月の戦

後恐慌の発生までつづき、戦前の日本経済の大きな曲がり角となった。

 

工業生産が急激に増大し、重化学工業化の進展がみられ、日本の都市社会にも大

きな変貌をもたらした。

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1959 - 新潟日赤センター爆破未遂事件

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新潟日赤センター爆破未遂事件

中国地方各地における韓国工作員による密出入国と、1959年12月4日韓国

代表部(領事館)の金永煥三等書記官などにより企てられた新潟県での暗殺

・爆破テロ未遂事件。

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1965 - 1965年ニューヨーク空中衝突事故

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1965年ニューヨーク空中衝突事故

アメリカ合衆国国内線の旅客便であるイースタン航空853便とトランス・ワールド航空

42便がニューヨーク上空で衝突した航空事故(空中衝突)である。

 

42便は緊急着陸に成功した一方、853便は不時着を余儀なくされ、4人の死者が

生じた。

 

1965年12月4日、イースタン航空853便はロッキード1049Cスーパーコンステレ

ーション(機体記号:N6218C)で運航されており、ボストンからニューアークに向かって

いた。853便はニューヨーク上空を高度10,000フィート(約3,000m)で飛行していた。

この時トランス・ワールド航空42便のボーイング707(機体記号:N748TW)もニュー

ヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に着陸するため高度11,000フィート(約3,300m)

を飛行していた。

 

ともに計器飛行方式で飛行しており、高度差が1,000フィート(約300m)あったため、

衝突する危険性は全く無かった。

 

この時、両機は雲の上を飛行していたが、853便の機長は正面から別の雲の雲頂付

近を飛んできた42便が同じ高度で飛んでいるものと錯覚した。そのため、853便の

機長は回避を試みて急上昇したが、引き上げから10秒後の午後4時19分(アメリ

カ東部時間)に空中衝突した。

 

この衝突で、42便の左主翼は第一エンジン附近まで3分の1がもぎ取られたが、

緊急着陸に成功し乗員乗客58名にけが人はいなかった。

一方、853便は右水平尾翼と右垂直尾翼をもぎ取られたため操縦不能に近い状態

になった。

 

機長はエンジンの推力操作で機体の制御を行い、ニューヨーク郊外のノースセーラ

ムの原野に不時着した。接地の際に左主翼が樹木に接触しもぎ取られたため、火

災が発生したが乗員乗客54名のうち50名が緊急脱出に成功した。

だが、残りの4名は犠牲になった。

 

犠牲者4名のうち1人は機体が停止する前に衝突でできた穴から機体の外に逃げ

ようと飛び出したために死亡し、唯一の乗員の犠牲者は最後まで機内に留まり乗客

の脱出の手助けをしていた機長であった。

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<Part2へ続く>