12月4日メモ、Part2。
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1884年(光緒10年10月17日) - 甲申政変。
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甲申政変
1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こった独立党
(急進開化派)によるクーデター。
親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を
樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。
甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。
三日天下
開化派のクーデタに対し、閔氏側の右議政沈舜沢は清国軍の出動と国王・閔妃の
救出を要請した。清国軍は当初出動をひかえていたが、これは、高宗が日本公使
の保護を命じていたことと、日清両軍の衝突による混乱を避けるためであった。
しかし、事態の進展はそれを許さず、清国軍を統括していた呉兆有が袁世凱らと
協議した結果、12月6日、兵を率いて昌徳宮に入ることを決めた。
袁世凱は国王への拝謁を求めたが、金玉均は袁世凱の拝謁は当然ながら許され
るが兵を率いて入ることは許されないと応答した。午後2時すぎ、呉兆有が500名
を率いて宣仁門から、袁世凱が800名を率いて敦化門から攻撃を開始し、午後3
時ころから日清間で銃撃戦が始まった。
このとき、袁世凱は攻撃目標は日本兵ではなく、あくまでも反乱者たちであるという
名目を立てている。王宮護衛の職にあった朝鮮政府軍兵士400名は経験も浅く、
武器も不十分であったため、宣仁門を守っていた兵士は一斉に逃亡、他の場所でも
至る所でくずれ、清国軍に合流する者もあらわれた。
結果として日本軍150名だけで清国兵1,300名と戦わざるをえなかった。
しかし、日本兵は奮戦し、日本側の犠牲者は死者1名、負傷者4名であったのに対
し、清国軍の戦死者は53名を数えた。多くの清国兵士は気勢をあげて威嚇するのみ
で、交戦を避けて王宮各所に放火、略奪行為に走った。
とはいえ、広大な昌徳宮を防衛するにはあまりにも少数の日本軍は王宮の一隅に
追い込まれた。村上中隊長は、数では清国軍に劣るものの戦闘では決して不利とは
いえず、必ず撃退することを竹添公使に約束したが、竹添はそれを聞き入れなかった。
包囲の環がせばめられ、国王と王妃は逃げまどい、ついに竹添は日本軍撤収を命じ
た。国王を奉じて仁川に避難するという金玉均らの申し出は国王によって拒否された。
竹添公使と日本軍は昌徳宮の裏門から脱出して午後7時30分ころに漢城の校洞に
ある日本公使館に戻った。朴泳孝・金玉均ら9名も行動をともにしたが、洪英植や朴
泳教は国王にしたがって王宮に残り、のちに清国兵に殺害された。
清国軍は、12月7日から10日まで高宗を陣営内に確保し、その間高宗に教書を
発布させ、臨時政権を樹立させた。4日から6日にかけての宮廷記録を書き改めさ
せ、高官らに金玉均らを弾劾すべしとの上疏をさせた。
新閣僚には、左議政の金弘集を筆頭に、金允植、金晩植、魚允中らが入り、右営使
に閔泳翊、外務協弁にメレンドルフが名を連ねた。
竹添の公使館帰着前から漢城は大混乱に陥った。
鐘路付近の商店のほとんどが清国兵や朝鮮人暴徒によって破壊・掠奪され、日本人
家屋からの略奪行為が相次いだ。まとまって避難していた日本人集団が各地で襲撃
され、婦女子がいたるところで暴行された。旅行中の日本軍大尉1名や日本公使館
に逃げ込まなかった居留民29名は暴徒化した軍民によって殺害された。
竹添もまた居留民保護の務めを充分に負ったとはいえない。
公使館には在留邦人避難者も含めて260人が押し寄せており、籠城するにも食糧
が足りなかった。結局、竹添は7日午後、この年の7月に新築落成なったばかりの
日本公使館に火を放って全員退去を命じ、西大門を抜けて麻浦から漢江をくだって
仁川府に向かった。
竹添一行が仁川領事館に着いたのは翌8日の朝であった。
彼らは停泊中の千歳丸に収容され、長崎へと向かうこととなったが、竹添はクーデタ
と自分のかかわりが明らかになることを怖れ、朴泳孝・金玉均らの同行を露骨に嫌が
った。そこに外務協弁のメレンドルフが船内の捜索にかけつけた。
「これは国際問題だ」と脅しをかけるメレンドルフに対し、竹添公使はやむなく捜索を
承諾したが、千歳丸の船長辻覚三郎がここで義侠心を発揮し、朴・金らを船底に隠し、
自分がこの船の責任者であり、勝手に立ち入ることは誰でも許さないと強硬に主張し
てメレンドルフを引き下がらせ、金らはようやくひそかに同行できたのであった。
朝鮮では親清派が臨時政権を樹立したが、独立党の人士や朴・金ら亡命者たちの
家族も数多く朝鮮に残った。彼らは殺害されたり、禁固刑となったり、あるいは自殺
するなど、ほとんどが悲惨な結末をたどった。
徐光範と徐載弼の父母妻子は絞殺に処せられ、金玉均の養父は国王の配慮で養
子縁組が解除されたものの、実父は捕らえられ、金玉均と一緒に処刑するため獄
につながれた。政変に参加した独立党員の身内には「族誅」が適用され、従者や
幼い子どもも含めむ家族が残忍な方法で処刑された。
クーデタの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、そのうち
の徐光範、徐載弼らはアメリカに渡った。亡命した金玉均は小笠原諸島の父島や札幌
など日本各地を転々としたが、日本政府からは冷遇されて再起計画に絶望し、ついに
は清国の北洋大臣李鴻章を説得するため、1894年(明治27年)3月、上海に渡った。
しかし、3月28日、44歳の金玉均は、同地において朝鮮国王の放った刺客洪鐘宇に
よって暗殺された。その遺体は朝鮮半島に移送された後に凌遅刑に処せられ、五体を
引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。
金の妻と子は、甲申政変の失敗から10年間生死不明で行方知らずとなったのち、18
94年(明治27年)12月忠清道沃川の近傍で当時東学党の乱(甲午農民戦争)鎮圧
の任にあたっていた日本軍によって偶然発見され、保護された。
そのときの2人は実に憐れむべき姿だったという。
政変は失敗に帰したものの、このできごとは近代国家の樹立をめざした民族運動の
さきがけとしての歴史的意義を有する。
問題は、それが朝鮮民衆の支持を欠いており、もっぱら外国勢力(日本)の力を借り
ようとしたことであり、その意味で、それが最終的に外国勢力(清国)の介入によって
失敗に終わったのも無理からぬところがあった。
結局のところ、新政権を守るための防衛対策を怠ったことがクーデタ挫折の原因
だったのである。
金 玉均(キム・オッキュン)
1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日。
李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。
李氏朝鮮時代の思想家。
字は伯温(ペゴン)、号は古愚(コウ)。本貫は新安東金氏。
開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や
『漢城旬報』の創刊発行に協力した。
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金玉均や朝鮮の文明開化による自立を支援してきた福沢諭吉は1885年(明治18年)
2月23日と2月26日の論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説では、李氏
朝鮮が凌遅刑という残忍な方法で甲申政変後に金玉均ら開化派の三親等の一族処刑
して遺体を晒し者にした報を聞いて、朝鮮の体制を激しく非難し、金玉均ら朝鮮開化派
の死を涙している。
人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。
我輩は此國を目して野蠻と評せんよりも、寧ろ妖魔惡鬼の地獄國と云わんと
欲する者なり。而して此地獄國の當局者は誰ぞと尋るに、事大黨政府の官吏に
して、其後見の實力を有する者は即ち支那人なり。
我輩は千里遠隔の隣國に居り、固より其國事に縁なき者なれども、此事情を
聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも淚落ちて原稿紙を潤おすを
覺えざるなり
— 『時事新報』1885年(明治18年)2月26日、 朝鮮独立党の処刑(後編)
著名な脱亜論もこの出来事の約3週間後に書かれたため、平山洋は「脱亜論」の
内容が「朝鮮独立党の処刑(後編)」の要約になっているとして脱亜論への影響が
あると分析している。
日本滞在中は頭山満に紹介された本因坊秀栄と囲碁を通じての深い交流があり、
本因坊秀栄は北海道・小笠原諸島にも慰問に訪れていた。また死の直前に友人に
贈った碁盤(浮木の盤)は1976年に日本棋院に寄贈されたが、没後100年を経た
1995年に韓国棋院に贈呈された。
暗殺された日、親しかった頭山満の夢枕に立ったという。
暗殺者の洪鐘宇は逮捕後に朝鮮政府の交渉により釈放された。
帰国後に高宗から激賞され、守旧派の一員として要職に就き、開化派を弾圧した。
だが甲午農民戦争後に日本が圧力を強めたことから1903年に失脚して済州島
に流され、1913年に貧困のうちに没した。
金玉均の墓がある青山の外人墓地では月額590円の管理料金がかかるが、これ
を5年以上滞納していたために撤去通告が2004年に東京都から出された。
通告に驚いた韓国大使館は滞納中の管理料を代納し、移転の危機を免れた。
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1965年 - アメリカの有人宇宙船「ジェミニ7号」が打ち上げ。
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ジェミニ7号
アメリカ合衆国の有人宇宙飛行であるジェミニ計画で打ち上げられた宇宙船
およびその宇宙飛行計画。
ジェミニ宇宙船としては6番目のものであり、1965年12月4日に打ち上げ
られた。
エピソード
当時の宇宙船は船内スペースが限られていたためトイレはないのが普通で、本ミッシ
ョンでも小便については吸引器が搭載されていたものの(ただし、実際には陰茎に取り
付けるパイプ部分からの尿もれなどがしばしば発生していた)、大便の際は排便用のプ
ラスチックバッグに用を足したあと(発酵によるガスの発生を防ぐため)防腐剤を入れて
よくこね回し、倉庫に収納することになっていた。
ところがこの飛行では、防腐剤が十分に混ざっていなかったあるバッグの便が発酵し、
最終的に飛行7日目にガスの圧力でバッグが破れ、中身が船内に飛び散ってしまった。
かといってミッションを中止して地球に帰還するわけにも行かず、後半の7日間は便の
異臭が漂う中船内活動を継続する羽目になった。地球に帰還後、ラヴェルはメディアの
質問に対し「君は、トイレの中で一週間過ごしたことがあるか」と返答したという。
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1972年 - スティーブン・ステイナー誘拐事件。
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スティーブン・ステイナー誘拐事件
1972年にアメリカ合衆国のカリフォルニア州マーセドで起こった誘拐事件。
7歳の少年スティーブン・ステイナーが中年男に連れ去られ、性的虐待を受け続けた
が、7年後に自力で生還した。
その際、同じ犯人が新たに誘拐した少年ティミー・ホワイトを救い出したため、一躍
全米のヒーローとなった。
スティーブンはその後結婚し、子供もできたが、24歳のときにバイク事故で死亡した。
助けられたティミーも35歳で病死、また、スティーブンの叔父が何者かに射殺、さら
に兄が連続殺人を犯して逮捕と、ステイナー家の周辺に数奇な事件が続き、何度も
取りざたされた。
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1977年 - マレーシア航空システム653便ハイジャック墜落事件が発生。
乗員・乗客100人全員が死亡。
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マレーシア航空システム653便 (MH653)は、マレーシア航空システム
(MAS)が運航していた、ペナンからマレーシアのクアラルンプールへの
定期便である。
1977年12月4日の夕方、定期運航中であったボーイング737-200型機が
マレーシアのジョホール州Tanjung Kupangで墜落した。
これは、現在公式記録がある範囲において、マレーシア航空 にとって死者
が発生した初めての航空事故であった。
93人の乗客と7人の乗組員の全員が死亡した。
事故機は巡航高度に達するとすぐにハイジャックされた模様だが、ハイジャ
ックとその後の墜落した状況は未だ判明していない。
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1982年 - 中華人民共和国の第五期全国人民代表大会で現行の
中華人民共和国憲法が採択。
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中華人民共和国憲法
中華人民共和国の最高法規である。
問題点
このように憲法上には近代憲法で保障された普遍的な人権の観念が導入された
反面、それらは本来「市民の基本権」でしかないという前提で成立した条項も維持
されている。
例えば「信教の自由」についても、宗教活動は国家の管理下におかれ「国は正常
な宗教活動を保護する」(第36条)に過ぎない。
概して権利保障の実態は天安門事件以降も不十分な点も多く、新疆ウイグル自治
区における政治犯投獄や迫害、少数民族の抑圧、インターネット規制など、人権状
況が「劣ったまま」であることがアメリカ国務省の「人権状況に関する報告書(2009
年版)」等で批判されている。
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1987年 - 最後の旧日本軍出身者である森繁弘統幕議長の退職を閣議諒解。
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森 繁弘
1928年〈昭和3年〉1月7日 - 。
日本の陸軍軍人、航空自衛官、歴史学者。
第17代航空幕僚長、第16代統合幕僚会議議長。
旧日本軍の軍服を着用した自衛官としては最後まで自衛隊に在隊していた。
在職中から日本史好きで知られており、邪馬台国研究では少数派の北九州説を
唱えた。
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1991年 - パンアメリカン航空が倒産し、運航停止。
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パンアメリカン航空(通称:パンナム、Pan Am)
1927年から1991年まで存在したアメリカ合衆国の航空会社。
1930年代から1980年代にかけて名実ともにアメリカのフラッグ・キャリア
として広範の路線網を展開し、世界の航空業界に対して非常に高い影響力を
有していたが、航空自由化の進行と高コスト体質の改善失敗によって経営が
悪化し、1991年に破産して消滅した。
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2000年 - 歌舞伎町ビデオ店爆破事件。
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歌舞伎町ビデオ店爆破事件
2000年(平成12年)12月4日に発生した事件。
2000年(平成12年)12月4日午後8時20分頃、新宿区歌舞伎町のビデオ店に
火をつけた手製の爆弾が投げ込まれ、ビデオ店は爆発。
店内には従業員の男1人と客1人いたが、店内に転がり込んできた黒い物体が音
をたてているのに気付いて反射的に外に飛び出したため、人間への直接的被害は
なかった。
しかし、ビデオ店の壁や天井が崩れるなど、爆弾によって物理的被害が発生した。
その後、犯人は警察に出頭。
犯人は栃木県の高校2年の男子生徒(当時17歳)であり、祖父の散弾銃と実弾
39発も所持していた。そのため、殺人未遂罪と銃刀法違反容疑で逮捕された。
少年はガンマニアで、武器や軍事に関する関心は高かった。
事件発生時は少年犯罪が凶悪化した時期と言われたが、当時はナイフなど刃物に
よる単純な凶行が多かった。しかし、爆弾を手製で製造して犯行に用いたり銃を携
帯することは近年に無かったことであった。
人への殺傷は無かったが、状況次第では大惨事になる可能性があった。
犯人は犯行動機について「むしゃくしゃして人をやっつけてやろうと思った」「人間を
バラバラに壊したかった」「爆発物を爆発させた上で、集まった人たちを散弾銃で撃
つつもりだった」「銃を撃てば良かったと思っている」などと供述した。
宇都宮家裁栃木支部は「少年に責任能力があるのは明らか」としたが、「比較的長
期間の矯正教育が必要」として中等少年院送致の保護処分を決定した。
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2009年 - 京都朝鮮学校公園占用抗議事件。
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京都朝鮮学校公園占用抗議事件
日本の右派系市民団体「在日特権を許さない市民の会」(在特会)・「主権回復を
目指す会」(主権会)・「チーム関西」に所属する活動家らが、京都朝鮮第一初級
学校(以下「初級学校」と表記)による勧進橋児童公園の不正占用に抗議すると
して、2009年(平成21年)12月4日に同校校門前で抗議街宣活動を行い、
抗議者側が威力業務妨害罪、朝鮮学校側が都市公園法違反に問われた事件。
安田浩一によると2009年までは特に地域住民から市への苦情などは寄せられて
いなかったとされるが、SAPIOの2014年6月号の記事によると、朝鮮学校に占有
されていたために公園に近づけない、朝鮮学校の人間に公園から追い出されたとい
った複数の住民の証言がある。
2009年2月に道路工事に伴って公園の面積が大幅に縮小されて以降は公園の
使用に関するトラブルが増加し、事件前の2010年8月27日の時点では近隣住
民から朝鮮学校の公園使用について京都市へ苦情が寄せられるようになっていた
という。
抗議者側を批判する立場からは京都朝鮮学校襲撃事件と呼ばれる。
2014年まで、刑事・民事のいずれについても確定判決が下りており、初級学校側は、
都市公園法違反により罰金10万円の略式命令を受け、在特会等は、構成員等が
刑事事件として侮辱罪・威力業務妨害罪・器物損壊罪について執行猶予付の有罪
判決を受けたほか、朝鮮学校側提訴の民事訴訟においては、朝鮮学校による公園
の使用や私物の設置が市の許可を得ておらず違法状態のまま継続されてきたこと
や近隣住民とのトラブルの存在が事実認定されたものの、「公園の不法占拠を糾弾
するだけでなく、在日朝鮮人を劣悪な存在であるとして嫌悪・蔑視し」「公益を図る目
的であったということはできない」として街宣の禁止と計1226万3140円の賠償命令
を受けた。
なお、この事件は、公安調査庁が年次で発行している内外情勢の回顧と展望(平成
22年版)においても「排外主義を掲げ執拗な糾弾活動を展開する右派系グループ」
として、コラム内で取り上げられている。
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2013年 - ウェブサイト「Have I Been Pwned?」が開設される。
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Have I Been Pwned? (HIBP)(→私はPwnされている?)
セキュリティ専門家のトロイ・ハントが2013年12月4日に開設した、インターネット
利用者が自らの個人情報が漏洩していないかを照会できるウェブサイト。
漏洩した数十億件のアカウント情報を含む、数百のデータベースダンプやPastebin
を収集、分析して得られた情報から、電子メールアドレス、または、電話番号で検索
することができる。
また、メールアドレスの登録を行うことにより、今後ダンプされたデータにそのアドレス
が含まれた場合、通知を受け取ることも可能となる。
HIBPは、インターネット利用者のセキュリティやプライバシーの保護のための貴重な
リソースとして広く知られている。
2019年6月現在、HIBPは80億件の漏洩情報を有し、ユニークユーザー数は1日
平均で15万人、通知サービスへのメールアドレス登録数は300万件にのぼる。
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2019年 - アフガニスタンで長年人道支援に取り組んできたNGO
「ペシャワール会」の代表、中村哲医師ら6名が銃撃され死亡。
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中村 哲
1946年9月15日 - 2019年12月4日。
日本の医師(脳神経内科)。
勲等は旭日小綬章。
アフガニスタンではカカ・ムラト(「ナカムラのおじさん」)、
カカムラッドとも呼ばれる。
ペシャワール会現地代表、ピース・ジャパン・メディカル・サービス総院長、
九州大学高等研究院特別主幹教授などを歴任した。
福岡県福岡市出身。ペシャワール会現地代表やピース・ジャパン・メディカル・サービス
の総院長として、パキスタンやアフガニスタンで医療活動に従事してきた。
アフガニスタンでは高く評価されており、同国から国家勲章や議会下院表彰などが授与
されており、さらに同国の名誉市民権が贈られている。
日本国政府からも旭日双光章などが授与されている。
また、母校である九州大学では高等研究院にて特別主幹教授に就任した。
2019年、アフガニスタンのナンガルハル州ジャラーラーバードにて、武装勢力(パキス
タン・タリバン運動=略称TTP)に銃撃され死去した。
死去に伴い、旭日小綬章や内閣総理大臣感謝状などが授与された。
銃撃事件・没後
2019年12月4日、アフガニスタンの東部ナンガルハル州の州都ジャラーラーバード
において、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した。負傷後、現地の
病院に搬送された際には意識があったが、さらなる治療の為にパルヴァーン州バグラ
ームにあるアメリカ軍のバグラム空軍基地へ搬送される途中で死亡した。なお、中村と
共に車に同乗していた5名(運転手や警備員など)もこの銃撃により死亡した。
中村が襲撃されたこの事件に対してターリバーンは報道官が声明を発表し、組織の関
与を否定。一方でアフガニスタン大統領のアシュラフ・ガニーは「テロ事件である」とする
声明を発した。
12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われたのち、遺体は空路で日本に搬送さ
れた。追悼式典では大統領のアシュラフ・ガニー自らが棺を担いだ。
告別式は12月11日に福岡市中央区の斎場で営まれた。
親交のあった上皇夫妻や秋篠宮夫妻などからも弔意が寄せられ、バシール・モハバ
ット駐日アフガニスタン大使、久保千春九州大学長らが弔辞を読んだ。中村と同様に
アフガニスタンへの医療支援を目的とするNPO法人カレーズの会を率いていたアフ
ガニスタン系日本人医師レシャード・カレッドは、『中日新聞』の取材に応じて、生前の
中村について「互いの活動を励まし合い、相談し合う関係」であったと述べ、「寡黙で
男らしく、優しい九州男児を絵に描いたような人だった」と中村の人柄を述懐して冥福
を祈った。
福岡県警は刑法の国外犯規定に基づき殺人容疑で捜査を進めており、司法解剖の
結果、死因は肝臓損傷による失血死とみられると発表した。
追悼の声
中村の死去を受けて、政界からは以下のような発言がなされた。
以下、発言者の肩書は全て当時のものである。
- 公明党代表・山口那津男:
「私も中村さんに会って話を聞いたことがあるが、アフガニスタンの貧しい人
たちを助けるために支援してきた方で、銃撃で命を奪われたことは許しがたい。
アフガニスタンの復興と安定を作り出すため、中村さんの志はこれからも消え
ることなく、多くの人が共有し、努力していくべきだ」
- 日本共産党委員長・志位和夫:
「憲法9条」に基づく国際貢献とは何かということを身をもって体現された
方だ。自衛隊の海外派遣の動きがあった際には、『非軍事の国際貢献が危険に
さらされる』として、必ず反対していたのが大変心に残っている。中村さん
を失ったことは、世界にとって損失だ。心から哀悼の意を表したい」
- 内閣総理大臣・安倍晋三:
「中村先生は、医師として医療分野において、また、灌漑事業等において、
アフガンで大変な貢献をしてこられました。なかなか危険で厳しい地域に
あって、本当に、本当に命懸けで様々な業績を挙げられ、アフガンの人々
からも大変な感謝を受けていたというふうに、我々も知っておりますが。
しかし、今回このような形で、お亡くなりになられたことは本当にショック
ですし、心から御冥福をお祈りしたいと思います。」
- 内閣官房長官・菅義偉:
「中村医師を含む方々が犠牲となったことは痛恨の極みだ。今回の卑劣なテロ
は許されるものではなく、わが国は断固として非難し、今後とも日本人の安全
確保のために全力を尽くしていくとともに、アフガニスタンの平和と発展のた
めに引き続き貢献していきたい」
- 自由民主党政務調査会長・岸田文雄:
「中村さんの大きな功績を改めて振り返り、敬意を表し、ご冥福をお祈り申し
上げたい。国際社会では厳しい現実が存在し、日本人が命をかけて頑張って
いる。今後、中東への自衛隊派遣の問題など、国際社会との関わりを政治の
立場から真剣に考えていかないといけない」
- 自由民主党幹事長・二階俊博:
「誠に無念で、ご家族の心中を思うと大変胸が痛む。何の罪もない尊い生命を
奪う卑劣で残忍なテロを断じて許すことはできない。政府は、真相究明を徹底
的に行い、このようなテロが二度と起きないよう、最善の努力を尽くすべきだ」
- 国民民主党外交・安全保障調査会長・渡辺周:
「国会で参考人として証言し、当時の民主党でも貴重な意見をいただいた。
『何をしてはいけないか。殺してはいけない、戦争に関わってはいけない』と
いう直接いただいたことばを思い起こし、世界の平和と日本国民の安全のため
にどのような行動をとるべきか、常に考えなければならない。われわれがきち
んと役割を果たすことをお誓いし、心からご冥福をお祈りしたいな」
追贈
2019年12月23日、政府は中村への旭日小綬章の追贈と内閣総理大臣感謝状の
授与を決定。27日に行われた授与式で内閣総理大臣・安倍晋三は遺族と面会し、
「(中村さんは)アフガニスタン国民や難民のための医療活動、かんがい事業などで
輝かしい業績を上げ、国際人道支援に多大な貢献をした」と生前の功績を称えた。
授与式の後に遺族は取材に応じ、「本当は無念で残念だが、みなさまの支援で継続し
てアフガニスタンで緑の大地が広がっていくことを願っている」「ぺシャワール会はこれ
からも継続していく。父も何より願っていることで、家族もそれが願いです」と語った。
授与式には駐日アフガニスタン大使のバシール・モハバットや、ペシャワール会の村上
優会長らも立ち会った。
2020年1月、ガンベリ公園にドクターサーブナカムラ記念塔が建設された。
同年7月、第6回食の新潟国際賞の大賞を受賞。
佐賀大学農学部などの研究チームは、佐賀県太良町の多良岳で2018年に発見した
タマバエの新種を、昆虫好きとして知られていた中村に因み
「Massalongia nakamuratetsui」
と2020年8月に命名した(和名はミズメタマバエ)。
2021年1月14日、アフガニスタン政府は人道支援活動の功績をたたえて中村の
肖像をデザインした切手を発行することを発表した(切手には現地語と英語で事績
が記されている)。
同年3月、九州大学は「中村哲先生の志を次世代に継承する九大プロジェクト」の
一環として、中央図書館内にグラフィックと映像を中心とした展⽰スペース「中村哲
医師メモリアルアーカイブ」を新設し、中村が⽣前に書き著し・遺された⾔葉を収集・
蓄積する「中村哲著述アーカイブ」をインターネット公開した。
同年6月18日、九州大学は2021年度の夏学期より全学部の学生を対象とした
授業科目「中村哲記念講座―中村哲先生の想いを繋ぐ―」開講を発表した。
2022年10月11日、アフガニスタンを実効支配するターリバーン暫定政権は、長
年にわたり人道支援活動を行った中村を讃える追悼広場「ナカムラ」を完成させた。
広場は同国東部のナンガルハール州ジャラーラーバードに存在し、中村の写真や
石碑が設置されている。
広場建設は前政権時代に計画されており、殺害事件現場の近くに約500万アフガ
ニかけて建設された。
人物
西南学院中学校在学中に日本バプテスト連盟香住ヶ丘バプテスト教会(福岡市東区、
当時は香椎伝道所)でF・M・ホートン宣教師よりバプテスマを受けた。
当時の香住ヶ丘教会はまだバプテスマが行われたことがなく、教会にとって中村は
最初期の生え抜き教会員だったという。
自身はクリスチャンであるが、同時に(イスラム教圏であるアフガニスタンやパキス
タンにおいて)現地の人々の信仰や価値観の在り方を尊重して活動を続けていた。
福岡高等学校時代の同期に原尞がいる。
また内科医で九州大学第23代学長・久保千春は大学で同級だった。
アフガニスタンでの活動について、「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕ら
の活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感があ
りますよ。体で感じた想いですよ。武器など絶対に使用しないで、平和を具現化す
る。それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条です
よ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側
も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。
9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。
それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。」と語り、日本国憲法第9条(不戦条項)
の堅持を主張した。
また佐高信に対しても「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』と
いうのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障
だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日
本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれている
んです」とも語っている。
家族・親族
小説家の火野葦平は母方の伯父である(妹が中村の母)。
父方の親族は、太平洋戦争末期の福岡大空襲(1945年)でほぼ全滅している。
父の中村勉は、1903年生まれ。
給仕として働いていたところ、その英才を松永安左衛門に認められて給費生として
福岡県福岡工業学校に入学し、早稲田大学を経て、再び若松に戻り、火野葦平と
交流を深めていた。
同時に左翼運動にも力を入れ、指導的立場にいた。
しかし、日本労働組合全国協議会での反戦・労働運動などを理由に1932年2月
24日に治安維持法違反で逮捕され、懲役2年、猶予5年の判決を受けた。
玉井組の下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業
にしていた。
外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいた玉井金五郎が映画『花と竜』のモデ
ルとなった。
『西日本新聞』記者で同社北九州本社代表を務め、現在はプロサッカーチーム:ギラ
ヴァンツ北九州代表取締役社長の職に在る玉井行人は従兄弟に当たる。
長女の秋子はペシャワール会事務局で、2020年1月から活動している。
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2023年、今日。
ハンバーガーをいただいた。
別にまずかったわけでもないが、特に言うべき事はない。
いい天気だったが、寒かった。