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一般社団法人山口県バスケットボール協会公式ブログ

名文発掘シリーズ「青は藍より出でて藍よりも青し」

2007-03-12 00:39:06 | 読み物
高体連機関紙「南風」など、過去に発刊されたバスケットに関する刊行物の中から、山口県バスケットの歴史を語る名文を発掘し、発信していきます。
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先日発刊された山口県バスケットボール協会60周年記念誌「夢を追う」の編集長として、存分に才筆を振るわれた、弘中幸雄光高校長の、約10年前の文章を紹介します。高体連バスケットボール専門部機関誌「南風」第18号(平成9年(1997年)5月発行)のフリートークのコーナーに寄稿されたものです。なお、弘中氏は現在、高体連バスケットボール部専門部長でもあります。

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青は藍より出でて藍よりも青し  教育庁指導課 弘中幸雄
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 私の最初の赴任校は、宇部工業高校であった。20年も前。当時、桑原英雄先生という方がバスケットボール部の顧問をしておられた。小池正夫先生という方が、私と同時に赴任してこられた。私は、御両人とも、全然存じ上げなかった。
 まあ、御挨拶にと思って、体育教官室にうかがうと、桑原先生は、「あ、そう、まあ、頑張りなさいよ。」と軽く励まされた。その時には、この人がやがて自分の仲人をしていただくことになる人だとは、つゆ思わなかった。よおし、しっかり頑張るぞ、とも思わなかった。あんな立派な奥様がいらっしゃるようにも、思えなかった。
 小池先生が、大学時代に東京で日本公認を取られたということは、すぐに知った。これは大変なことだと実感で分かった。更に、実際に笛を吹かれる姿を見て、腑に落ちるものがあった。桑原先生も日本公認審判だと聞いて、首をかしげた。
 私も、学生時代、足立区の審判委員会に所属し、あちこちで苦労させられた経験があった。最初の笛は区内の中学生のゲームであったが、鳴らせたのはわずかにアウト・オブ・バウンズだけ。目の前で選手が相手マークマンの足を蹴った時には、見てはいけないものを見た気がして思わずのけぞらされたが、あいにく、笛は鳴らなかった。大学の女子のゲームを吹いた時など、キャプテンに「皆な、審判なんか当てにしないで頑張ろうね!」とのたまわれてしまった。吹いている当の本人も、そうあってほしいと願った。
 さて、新任の私は、ひとまず桑原先生という人の指導を拝見することにした。-目が菱形になった。後日、小池先生から、この方の経歴を聞かされて、納得した。
 同時に日曜日がなくなった。どこかのチームが練習試合に来るか、宇部工業がどこかに出かける。それは、いい。しかし、練習試合には審判がいる。文字通りパシリの日々であった。休みの日の朝になると下宿にカローラのお迎え車が来るのは、いい。しかし、部屋を一瞥するや、「汚いのお。どねーかせーや。」どねーしょーが、カラスの勝手でしょ、と思ったけれど、口にはしなかった。さて、朝から晩まで笛を吹く。ところが、ゲーム中ベンチから笛が鳴る。え、と思う間もなく、「トラベリングじゃろーが、何を見ちょるんかぁ。」それも一度や二度ではない。審判をしているのか、ボール拾いをしているのか、わけが分からなくなる。もっとも、小池先生と一緒に審判するとそんなことは全くない。えこひいきとか、いんちきとかいう美しい日本語を思い出し、授業では決してそんなことはすまいと自分に固く誓った。
 宇部工業には4年間お世話になったが、桑原先生や小池先生には、その倍もお世話になった気がする。多くの人と知り合わせていただいた。両手両足でも足りない。そうした方々にバスケットのことも、バスケット以外のことも多くを教えていただいた。器の関係で学び取れなかったことも多いが、それにしても沢山のことを吸収させていただいた。
 とりわけ、桑原先生には、午前2時の酒の味も、その後連行された桑原邸でのお茶漬けの恐縮も、朝6時に叩き起こされて読まされた新聞の朦朧さも、授業を延長して休み時間までしゃべりまくっていると突然教室の戸が開き「つまらん授業は、早よー止めーや。」とありがたい忠告をいただく情けなさも、それぞれしっかり教えていただいたが、今にして思えば、全て、新米教員を早く一人前に育てようという、あたたかくも慈悲心に満ちた所業であったかと思い知るのである。もちろん「わがまま」と言って言えなくはなかろうが、しかし、そんな低レベルの話では決してなく、言わば、それが当時の「初任研」であった。千尋の谷に突き落とすのは、獅子ばかりではないのだった。
 さて、下松高校に転任した年に、私も、念願の日本協会公認をいただいた。ワッペンが重かった。この年、小池先生はA級になられた。桑原先生も、相変わらず公認だった。公認取得を記念して、その年、私は結婚した。宇部の女性だった。宇部工業では、どうもまともな国語の授業をしたようには思えず、いささかならず宇部市民に迷惑をかけたように感じて心苦しかったが、いくばくかは人助けをしたようで、少し心が軽くなった。
 結婚式は岩国国際観光ホテル。司会の小池先生の名調子で披露宴はとどこおりなく進んだ。とてもA級レベルには見えず、むしろ国際級だった。案の定、やがて国際審判になられた。もっとも、その時そんな予感は全くなかった。ひな壇で隣を見ると、桑原先生が座っていた。そういえば昨夜は、この人と一緒に麻雀をして午前様だった。あそこで打った三万が敗因だった、などと後悔しながら、やけ酒をしこたま飲んだ。人生の本当の敗因は、初任校が宇部工業高校だったことかも知れない、とは、その時は気づかなかった。
 式の2日後が県新人大会の組み合わせ抽選日だった。新婚旅行先から桑原先生に電話をして、対戦校を聞いた。「宇部女子だ。」「どねーですか。」「ああ、おまえのとこよりだいぶん強いじゃろう。まあ、頑張れーや。」……とても仲人の言葉とは思えないほど、正直で滋味あふれるお言葉だった。暗い気持ちになった。
 初めてコーチを務めた下松高校の女子チームも、その年は、ある程度のメンバーが集まっていたが、御託宣どおり、新人大会では宇部女子にペチャンコにされた。のみならず、その後下松高校を去るまでの5年間、練習試合を含めて宇部女子に0勝15連敗の不名誉な記録を作ってしまった。1勝の最大のチャンスは、翌々年のインターハイ予選の決勝で対戦した時だったかも知れない。能力あるメンバーながら育て切れず、ベスト4、ベスト8をさ迷わせていたチームだったが、準々決勝では枝折幸正先生率いる岩国高校を逆転で下し(その晩の酒は実に美味だった)、準決勝は松本正先生の指揮する柳井商業を僅差で破る(昼飯の何と美味かったこと)活躍をしてくれ、決勝の晴れ舞台に立たせてくれた。が、いかんせん指導力不足、またもや叩きのめされてしまった。
 やがて、宇部女子に勝てないまま下松高校の5年間が過ぎ、岩国高校に転任となった。諸般の事情で、バスケットのお手伝いをしないまま5年後には山口へ転勤となり、5年後に高森高校に復帰したのも束の間、在籍2年で、山口にUターンすることになってしまった。この間、小池審判長のあたたかい御配慮でワッペンをいただき続けた。桑原先生は、相変わらずベンチで審判をしていた。

 「青は藍より出でて藍よりも青し」と言う。『荀子』の一節で、「出藍の誉れ」とも使われる。せっかく桑原先生にバスケットを教わりながら、結局は優勝させることも何もできず、青は藍より出たものの、顔面が真っ青になってしまっただけのことであった。
 笛もしかり、小池先生に教わり、桑原先生に叱咤されるという恵まれた環境の中で、関係の方々のあたたかい御援助をいただいてすくすくと伸ばしていただいたにもかかわらず、このていたらくである。日本公認取得後はインターハイ、国体をはじめ、中国大会等で何度となく吹かせていただき、A級審査会にも参加させてもらったのに、瓜の蔓になすびがならないことを証明しただけであった。慚愧の思いは深い。
 しかし、バスケットを通じて学ばせていただいたものは、今、血や肉となり、私をしっかりと支えている。それは、生きる知恵や勇気と言って差し支えないと思う。非力ながら今の職務を懸命に頑張る底力になっているのは、これまでのバスケット生活の中でいただいた多くの方々のあたたかいお気持ちとお励ましである。紙上をお借りする失礼は重々承知の上で、どうかこれからも倍旧のお力添えを賜るよう心からお願いしてやまない。

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文中にある所属先等は、「南風」掲載時のものです。
この文章の無断転載は固くお断りします。
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