あべっちの思いをこめた雑記帳

ごめんねチコちゃんと安部幸子の早すぎる死

   ごめんねチコちゃん
 待ちくたびれて日暮れ路
 知らんふりしていたっけね
 ~ 以下略 ~
       安部幸子 作詞  吉田正 作曲  

 この歌は昭和39年5月発売の三田明のヒット曲である。
斬新な詩と軽快なメロディーが当時は若者の心をとらえ、ラジオでもけっこう流れていた。たしか雑誌平凡で詩を一般募集し、それに附曲した作品を当時の人気歌手の三田明が歌った。

 しかし不思議なことにどこの誰が作詞や作曲をしたなどとは発売時は気にもとめずにいた。佐伯孝夫や石本美由紀、吉岡治、星野哲郎などの大御所が次々にヒット曲を、当時の一流作曲家遠藤実、吉田正、古賀政男、船村徹などとのコンビで出しているなか、それ以外の人にはあまり関心がなかったというのが本音だったろうか。

 そして翌年の夏、NHKの昼のラジオで舟木一夫の「浜の若い衆」という歌を聴いた。昭和40年8月後半のことで、「発売になりました。この歌はなかなかリズミカルで、詩の安部幸子さんは亡くなっていますが▪▪▪」。そんな旨のことばをアナウンサーから聞いたと思う。
 非常によい歌だなと瞬間的に思い、レコード店にかけ込んだことを覚えている。
 それが作詞家安部幸子を知った最初であった。

 まもなくして彼女の作品のことや、彼女自身の経歴をあれこれ調べてみた。すると意外なことが次々にわかってくる。
 「ごめんねチコちゃん」は彼女としては3番目のレコードで、当時の若者に人気の雑誌「平凡」に応募した詞に当選し、附曲▪発売された。その一ヶ月前に島倉千代子と二代目コロムビアローズの歌を出している。それから1年3ヶ月後の昭和40年8月に浜の若い衆を発売した。
 しかし彼女は昭和39年9月19日に脳血栓で24歳の若さで他界している。ということは、39年の作詞デビュー後、半年もたたずに亡くなっていることになる。
 が、デビュー2年もしないうちに出したレコードはなんと25枚。しかも生前のその数ヵ月の間にはわずか5曲しか出していないことがわかった。
 つまり全25曲のうちの20曲は死後1年半以内に発売されたことになる。コロムビアレコードが彼女のあまりにも惜しまれる才能を偲んで次々に出したことになる。

 作品は当時人気絶頂のアイドル本間千代子(7曲)や舟木一夫(7曲)、三田明とトップスターばかりで、このことをみても彼女がいかにすごい作詞家の卵であったかがわかる。

 師匠は悲しい酒、浅草姉妹、長良川艶歌、矢切の渡しなどの石本美由紀氏。
 彼女の住まいは横浜市栄区で職業は神奈川県庁の速記者であったと聞く。
 2年間弱で25曲もレコードを出した作詞家は過去にもこれから先も一部の人をのぞいてほとんど出ないであろう。それもトップクラスの歌手にである。

 安部幸子という才能のあった作詞家の夭折を惜しむ。もし今彼女が生きていたらどんな作品が生まれていたことであろうか。同じ時代に、ともに作詞家を目指していた私にとって一番会いたかった一人でもある。
 あまりにも早すぎる死であった。奇しくもそれは最初に東京オリンピックの行われた57年前の今日、9月19日のこと。

 

「童謡唱歌歌謡曲など(12)ごめんねチコちゃんと安部幸子の早すぎる死」

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