ニーチェにふれていると、大きな悲しみが襲ってくる。ニーチェも、ふかい悲しみにとらわれていたんだろうか。でも悲しんでばっかりじゃ、どこへも行けないよ。この項はまだ残っているし本書も1/4しか読んでいない。おれたちの道は、先へと続いている。
すこし長いけど、本書を引用する。
〈さて、ニーチェの道徳論のきわだった特徴は、このみすぼらしい大衆社会から抜け出す唯一の方策として、「奴隷」の対極に「貴族」を救世の英雄として描き出したことにあります。「貴族」とは大衆社会のすべての欠陥からまったく自由な無垢で気高い存在です。人類の未来を託するに足る唯一の存在です。「奴隷」が相互模倣の虜囚であるとすれば、「貴族」は、自分の外側にいかなる参照項も持たない自立者です。「外界を必要としないもの」「行動を起こすために外的刺激を必要としないもの」、それがニーチェのいう「貴族」です。「貴族」の行動は、(功利主義的市民のように)熟慮の上のものでもないし、(「奴隷」のように)外部への屈服でもありません。「貴族」とは何よりも無垢に、直接的に、自然発生的に、彼自身の「内部」からこみ上げてくる衝動に完全に身を任せるもののことなのです。〉(p53-54)
*下線、おれ。
悲しみにとらわれたものは、そこから何とか脱出できないものかと考える。それが自然で、ナチュラルで、自明な対応というものだ。しかし、ひとたび脱出を企てたものは、大きなリスクを背負い込む、とおれは思う。
脱出とは、現実の否定行為だから。マルクス的にいえば、自分を取り込んだネットワークを離れることになりかねない。フロイト的にいえば、自己のメタ意識を、見えもしない無意識に一致させようと足掻くだけになりかねない。「意識の部屋」からの離脱を願って。
総じていえば、健全からの脱出、狂人への接近というコースをたどってしまう可能性があるんじゃないか。
〈「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技、そのほか一般に強い自由な快活な活動をふくむすべてのものである。すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生じる。」(『道徳の系譜』)〉(p54)
ニーチェが集めたこの言葉たちに、おれは逆に病的なものを感じてしまう。ないものを集めているからだ。ニーチェにとって、恋焦がれても手にできないものを集めている。それらがキラキラと輝くなら、なおさらに。
強くなく、自由ではなく、快活でもなく、勝ち誇ることもできない――と思いつづける悲しみにあふれた人間は、どんな方向へ足を踏みだすのか。すくなくとも、仲間たちとの闊達なおしゃべりや屈託ない笑顔は、彼からは想像できない。神経質にゆさぶる痩せた体躯と、頬がこけた青い顔さえ浮かんでくる。
〈この「貴族」を極限までつきつめたものが「超人」です。〉(p54)
〈「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられられるべきものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか。(略)人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって人間とはまさにこういうものであらねばならない。(『ツァラトゥストラ』)」(p55)
*恥辱=(ちじょく)はじ、はずかしめ。w
ニーチェに有名な「超人」だ。「あなた方に教える」ではじまる一節は、パワフルな演説口調だろうか? と問うまえに、おれたちはヘーゲルの鳥瞰図を思いだしてみる必要がある。
現代の人間は、ひとにより多少の違いはあっても、自分の姿をも混じらせた鳥瞰図を見ている。そのまえに立って「あなたがた」と呼びかければ、言葉はブーメランのように自己のもとに帰ってこざるをえない。
そのような構造からまぬがれる言葉があるとすれば、生徒にとって「よい」と思われる意味をえらぶ教師か、ヘーゲルのたとえ話にいう動物の言葉以外にはないだろう。
ニーチェは動物ではないし、人間への教師であるにしては、あまりにも深刻な人間観を抱いていた。
哄笑と苦痛と大きな悲しみを「あなたがた」に抱いた人間が、「教える」と発言すれば、その後には呪いに近い言葉がつづくんじゃないか? ニーチェのエクリチュールに、99%の絶望を感じておれは鬱になる。
内田さんは、こう読む。
〈…(中略)…ニーチェは「超人」とは「何であるか」ではなく、「何でないか」しか書いていません。〉(p55)
呪う言葉とは、本来そういうものだろう。「あなたがた」とは、否定され、抹殺されるほかはない存在だ。望ましいものへの変化を、「あなたがた」のなかに絶望したとき、呪いが生まれる。
しかし内田さんは、ニーチェにやさしい視線をむける。たぶん、最終的には、ニーチェ自身が、呪いをかけた「あなたがた」に、ある柔和な視線を投げかけた。
〈「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である。深淵の上にかかる綱である。人間において偉大な点は、彼が一つの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、彼が過渡であり、没落である、ということである。」(『ツァラトゥストラ』)〉(p55-56)
*下線、おれ。
*深淵=(しんえん)(1)深いふち。(2)奥深さや限界が底知れないことのたとえ。w
*過渡=(かと)ある状態から他の新しい状態へ移り変わること。また、その過程。w
本書では前後するが、内田さんの読みはこうだ。
〈どうやら〉超人は〈具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののことのようです。「超人」とは「人間を超える何もの」かであるというよりは、畜群的存在者=「奴隷」であることを苦痛に感じ、恥じ入る感受性、その状態から抜け出ようとする意志のことのように思われます。〉(p55)
*超克=(ちょうこく)困難を乗り越え、それに打ち克つこと。w
「あなたがた」(人間)は、哄笑に値する猿のように、恥辱にまみれたみすぼらしい姿をしている。しかしその姿は、「あなたがた」の目的――人間が長旅の末に見いだす楽園――ではないと、わたしは理解する。いま現在とは、「超人」化を目指して旅をつづける人間にとっての「綱」であり、「橋」である。わたしに見える人間の姿は、一時的な「過渡」であり、この意味では「超人」から没落した存在者にすぎない。このみすぼらしい人間の過渡的な存在を、わたしは愛せると。
こうしてニーチェは、人間への、また自分自身への呪詛を解除する。
苦しみに身もだえし、嘆き悲しむ人間の姿を、ニーチェは愛しうるといったのだ。激動する現実に身をさらし、見えない自己とネットワークに傷つき、肥大化した社会システムの不透明さに恐怖し、恐怖を「無意識の部屋」に叩き込み、大衆社会への迎合をやむなく選択している哀れな現代人を、愛しうると考えたのだ。
ニーチェにとって唯一、愛せない人間とは、恥じらいもなく自らを「目的」と考える哲学なき奴隷たち、隣人に奴隷の快楽を説いてまわるエセ教師たちだっただろう。
ニーチェともなれば、おれたちの時代に信じられないほど接近してくるものを感じる。かならずしも、内田さんの誘導によるとはいえないはずだ。じじつニーチェ・ファンは、世代を超えて、いまも多い。しかし彼が生きたころには、まだ第一次世界大戦(1914年)さえ勃発していなかった。ここに哲学の、人間の思考がもつ時空間の不思議を感じないではいられない。ふかく思考できれば、未来の先取りさえ夢ではないかもと。
これから先、本書はソシュールへと入っていくのだが、もう一回分だけニーチェと前・構造主義期に足を止めてみたい。ニーチェの可能性と、前期のひとまとめに、まだ問題を残していると思うので。〈続〉
すこし長いけど、本書を引用する。
〈さて、ニーチェの道徳論のきわだった特徴は、このみすぼらしい大衆社会から抜け出す唯一の方策として、「奴隷」の対極に「貴族」を救世の英雄として描き出したことにあります。「貴族」とは大衆社会のすべての欠陥からまったく自由な無垢で気高い存在です。人類の未来を託するに足る唯一の存在です。「奴隷」が相互模倣の虜囚であるとすれば、「貴族」は、自分の外側にいかなる参照項も持たない自立者です。「外界を必要としないもの」「行動を起こすために外的刺激を必要としないもの」、それがニーチェのいう「貴族」です。「貴族」の行動は、(功利主義的市民のように)熟慮の上のものでもないし、(「奴隷」のように)外部への屈服でもありません。「貴族」とは何よりも無垢に、直接的に、自然発生的に、彼自身の「内部」からこみ上げてくる衝動に完全に身を任せるもののことなのです。〉(p53-54)
*下線、おれ。
悲しみにとらわれたものは、そこから何とか脱出できないものかと考える。それが自然で、ナチュラルで、自明な対応というものだ。しかし、ひとたび脱出を企てたものは、大きなリスクを背負い込む、とおれは思う。
脱出とは、現実の否定行為だから。マルクス的にいえば、自分を取り込んだネットワークを離れることになりかねない。フロイト的にいえば、自己のメタ意識を、見えもしない無意識に一致させようと足掻くだけになりかねない。「意識の部屋」からの離脱を願って。
総じていえば、健全からの脱出、狂人への接近というコースをたどってしまう可能性があるんじゃないか。
〈「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技、そのほか一般に強い自由な快活な活動をふくむすべてのものである。すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生じる。」(『道徳の系譜』)〉(p54)
ニーチェが集めたこの言葉たちに、おれは逆に病的なものを感じてしまう。ないものを集めているからだ。ニーチェにとって、恋焦がれても手にできないものを集めている。それらがキラキラと輝くなら、なおさらに。
強くなく、自由ではなく、快活でもなく、勝ち誇ることもできない――と思いつづける悲しみにあふれた人間は、どんな方向へ足を踏みだすのか。すくなくとも、仲間たちとの闊達なおしゃべりや屈託ない笑顔は、彼からは想像できない。神経質にゆさぶる痩せた体躯と、頬がこけた青い顔さえ浮かんでくる。
〈この「貴族」を極限までつきつめたものが「超人」です。〉(p54)
〈「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられられるべきものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか。(略)人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって人間とはまさにこういうものであらねばならない。(『ツァラトゥストラ』)」(p55)
*恥辱=(ちじょく)はじ、はずかしめ。w
ニーチェに有名な「超人」だ。「あなた方に教える」ではじまる一節は、パワフルな演説口調だろうか? と問うまえに、おれたちはヘーゲルの鳥瞰図を思いだしてみる必要がある。
現代の人間は、ひとにより多少の違いはあっても、自分の姿をも混じらせた鳥瞰図を見ている。そのまえに立って「あなたがた」と呼びかければ、言葉はブーメランのように自己のもとに帰ってこざるをえない。
そのような構造からまぬがれる言葉があるとすれば、生徒にとって「よい」と思われる意味をえらぶ教師か、ヘーゲルのたとえ話にいう動物の言葉以外にはないだろう。
ニーチェは動物ではないし、人間への教師であるにしては、あまりにも深刻な人間観を抱いていた。
哄笑と苦痛と大きな悲しみを「あなたがた」に抱いた人間が、「教える」と発言すれば、その後には呪いに近い言葉がつづくんじゃないか? ニーチェのエクリチュールに、99%の絶望を感じておれは鬱になる。
内田さんは、こう読む。
〈…(中略)…ニーチェは「超人」とは「何であるか」ではなく、「何でないか」しか書いていません。〉(p55)
呪う言葉とは、本来そういうものだろう。「あなたがた」とは、否定され、抹殺されるほかはない存在だ。望ましいものへの変化を、「あなたがた」のなかに絶望したとき、呪いが生まれる。
しかし内田さんは、ニーチェにやさしい視線をむける。たぶん、最終的には、ニーチェ自身が、呪いをかけた「あなたがた」に、ある柔和な視線を投げかけた。
〈「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である。深淵の上にかかる綱である。人間において偉大な点は、彼が一つの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、彼が過渡であり、没落である、ということである。」(『ツァラトゥストラ』)〉(p55-56)
*下線、おれ。
*深淵=(しんえん)(1)深いふち。(2)奥深さや限界が底知れないことのたとえ。w
*過渡=(かと)ある状態から他の新しい状態へ移り変わること。また、その過程。w
本書では前後するが、内田さんの読みはこうだ。
〈どうやら〉超人は〈具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののことのようです。「超人」とは「人間を超える何もの」かであるというよりは、畜群的存在者=「奴隷」であることを苦痛に感じ、恥じ入る感受性、その状態から抜け出ようとする意志のことのように思われます。〉(p55)
*超克=(ちょうこく)困難を乗り越え、それに打ち克つこと。w
「あなたがた」(人間)は、哄笑に値する猿のように、恥辱にまみれたみすぼらしい姿をしている。しかしその姿は、「あなたがた」の目的――人間が長旅の末に見いだす楽園――ではないと、わたしは理解する。いま現在とは、「超人」化を目指して旅をつづける人間にとっての「綱」であり、「橋」である。わたしに見える人間の姿は、一時的な「過渡」であり、この意味では「超人」から没落した存在者にすぎない。このみすぼらしい人間の過渡的な存在を、わたしは愛せると。
こうしてニーチェは、人間への、また自分自身への呪詛を解除する。
苦しみに身もだえし、嘆き悲しむ人間の姿を、ニーチェは愛しうるといったのだ。激動する現実に身をさらし、見えない自己とネットワークに傷つき、肥大化した社会システムの不透明さに恐怖し、恐怖を「無意識の部屋」に叩き込み、大衆社会への迎合をやむなく選択している哀れな現代人を、愛しうると考えたのだ。
ニーチェにとって唯一、愛せない人間とは、恥じらいもなく自らを「目的」と考える哲学なき奴隷たち、隣人に奴隷の快楽を説いてまわるエセ教師たちだっただろう。
ニーチェともなれば、おれたちの時代に信じられないほど接近してくるものを感じる。かならずしも、内田さんの誘導によるとはいえないはずだ。じじつニーチェ・ファンは、世代を超えて、いまも多い。しかし彼が生きたころには、まだ第一次世界大戦(1914年)さえ勃発していなかった。ここに哲学の、人間の思考がもつ時空間の不思議を感じないではいられない。ふかく思考できれば、未来の先取りさえ夢ではないかもと。
これから先、本書はソシュールへと入っていくのだが、もう一回分だけニーチェと前・構造主義期に足を止めてみたい。ニーチェの可能性と、前期のひとまとめに、まだ問題を残していると思うので。〈続〉
アナタの年代がどのように見ているのかな、ってなことを考えてしまいます。
「構造主義」というテーマはでかいですね。
殆ど広大無辺という感覚もあります。
後-構造主義の「観点」と「展望」もお願い致します。
ソシュールをどう内田さんが見ているのかも興味ありますね。
このレジュメに対するコメントはいつも静かですね。
それとも終わってからコメントを書こうというのですかね。
どんどんコメントを入れてこの記事の方向性をも「揺り動かせば」面白いのですけど。
「古典的諸思想もかっては現代思想だった」って言われている通り、その時代に突き刺さるような思想は常に人間の存在の在り方を模索した。
後世のわどさんや私らがその表面でも知っておくことは「知」を遠くに置かないという意味もあると思います。
もっとわどさんの主観的な観点を広げながら書いてみて下さい。
楽しいですね。
ドキドキ(笑い
>結構ワクワクして読んでます。
おれなんか、ブルブル震えながら読みつづけています。この内田さんの仕事はけっこういいです。喰いちぎるように読み、考えてきたものが、彼の仕事のおかげでジグゾーパズルのピースのように場所を得て、はまり込んでいきます。これ、絶望への旅路かもしれませんね(汗)。予告もなく、おれんちの更新が止まったら、道端に線香をあげてください。
>「構造主義」というテーマはでかいですね。
>殆ど広大無辺という感覚もあります。
でかすぎですよ。巨乳に顔をうずめるときみたいに、窒息死の覚悟は決めています。
しかし、終わりは曖昧のままでしょうね。厚い霧のむこうに、うっすらと光が透けて見えればいいのですが。これ、入門書なんですよ(笑)。
>後-構造主義の「観点」と「展望」もお願い致します。
スペイン語はしゃべれませんね。え、そんな話じゃないんですか?w
>もっとわどさんの主観的な観点を広げながら書いてみて下さい。
おれの読書は、こんなです。だれかがどっかで「勉強」なんていってましたが、おれの読書はケンカです。自分をぶち当て噛みつき、ナイフで喉を狙います。殺すか殺されるか。英文法や方程式を覚えるのとは、ぜんぜん違うんですが、平和を楽しむひとにはわからないみたいですね。
>ドキドキ(笑い
笑える南無さんがうらやましい。深夜の繁華街を、もどかしい気持ちで歩き回ったのは何回目でしょう? X’masに浮かれるカップルに、ため息ばかりです(笑)。 ではっ!
おれを「熱心」とか「見習いたい」なんていわれると、なんだかなあ。死にたくなりますよ、恥ずかしさのあまり。
たとえば、いまふれてるつもりのニーチェですけど。もう簡単すぎで、これでいいのか? って冷や汗もの。いまはこれ以上、文献にあたるとか、行っちゃうと、アブハチ取らず(?)になる恐れありで(油汗)。まあ、内田さんの読みにしたがって進んでますけどね。
ところで「理解」ですけど(爆)。
ほんとに理解した自分に気がつくのは、たぶん構造主義を乗り越えたときではないかと(笑)。
事後的に、アア、あのとき理解できていたんだなって感じで。けんすけさんに、こんな突っ込みを入れられると、ホント無上の愉悦に浸れます(悪)。
こんな馬鹿のひとりですけど、また来てください♪