「てんちはじめてさむし」
「粛」は略本歴では「さむし」と読ませていますが、
宣明暦では「しゅくす」「しじむ」と読ませています。
衰えるとか、縮むという意味です。
ようやく暑さが鎮まるということです。
本当に、朝夕は快い秋の風を感じます。
「てんちはじめてさむし」
「粛」は略本歴では「さむし」と読ませていますが、
宣明暦では「しゅくす」「しじむ」と読ませています。
衰えるとか、縮むという意味です。
ようやく暑さが鎮まるということです。
本当に、朝夕は快い秋の風を感じます。
「わたのはなしべ ひらく」
「柎(はなしべ)」とは、萼(がく)のことです。
綿は、アオイ科の植物で、淡い黄色の花が咲きます。
しかし、私たちが綿の花「綿花」と読んでいるのは
この花のとばかりではなく
花の咲いた後に実る青い実を包んでいる
ふわふわのまっ白い毛を「綿花」と読んでいます。
種子を大切に守る「綿花」はふんわりと温かです。
綿は、私たちの生活も守ってくれていたような気がします。
今では、家庭で布団の打ち直しをすることもなくなりましたが、
子どもの頃は、母や祖母が手ぬぐいをかぶり、
布団の打ち直しをしていた記憶があります。
「処暑」季節を送る風を感じて過ごしたいものですね。
「ふかききりまとう)」
「蒙霧(もうむ)」もうもうと立ち込める霧をまとう季節ということです。
霧は、空気中の水蒸気が急に冷やされて出来るので、
特に盆地で発生しやすいようです。
同じような現象でも春は霞と言い、秋は霧と言うのです。
霞はうららかな感じで温かさを感じます。
霧は、ちょっと物哀しげな感じですね。
自然と共に暮らしてきた日本人の素晴らしい表現力です。
そんな先人の心を受け継ぎ、
季節を感じて暮らしたいものだといつも考えております。
昨日、還暦を迎えようとしている友人から携帯のメールを頂き、
えっ・・・
件名:「暑中お見舞い申し上げます」・・・
確かに連日猛暑ですが・・・晩夏です。
年上の方に立秋を過ぎたら「残暑」ですとは言えず
「ゆく夏、どうぞご自愛ください」で締めくくりました。
先日は、若い友人から
「秋の節供にかこつけて飲み会をしましょう」と
パソコンにポンとメールが入ってきました。
メールが主流の時代ですが、季節の言葉の大切さを感じます。
「ひぐらし なく」
蜩(ひぐらし)が鳴き始める頃ということですが、
蜩は、6月の終わりころから鳴き始める夏の蝉です。
日が暮れてから鳴くことからついた名前だそうです。
早朝や曇った日にも鳴くそうですが、
昼間は鳴かないそうです。
「カナカナ」と高く澄んだ鳴き声は物悲しげに聞こえることから
秋の蝉といわれるのでしょうか。
「寒蝉」は、中国では「つくつくぼうし」を表します。
今では、このつくつくぼうしの方が秋を告げる蝉とされています。
娘が幼稚園の頃、車の中で蝉鳴き声の入った
カセットテープを毎日聞かせ、「今の蝉はなあに?」と
蝉の鳴き声を聞き分けさせたことを思い出しますが、
最近は、蜩の鳴き声を聞くことも少なくなったような気がします。
「すずかぜ いたる」
暦のうえでは立秋に入りましたが、
連日猛暑でクーラーのないところでの
仕事は毎年のことながらとても辛いです。
「秋」の語源は、食べ物が飽きるほど実る
草木が赤くなる、天候が明らかなど
豊かな秋を表現しています。
着物を着る機会の多い私は、
夏の着物が大好きです。
冬よりも着物を着て歩いていると
お声をかけられることが多いのです。
先日も日傘をさし、信号待ちをしていると
「着物は暑くないですか?
とても涼やかにお召しになっていらっしゃいますね」と
見知らぬ人から声をかけられました。
夏の着物は、周りの人に
「涼」を与えるように着ることが
着物を着る者の使命と考えています。
「たいう ときどきふる」
私の居るところにだけ
局地的な雨が降っているかのように
毎日、雨に降られています。
干してきた洗濯物を気にしながら帰ると
全く降っていないということです。
周りの空は明るいのに
私の居る所だけ、モクモクの入道雲だったような・・・
「入道」は、仏門に入られたばかりの
頭をまるめた僧侶にたとえられた雲です。
大きな心を持つ僧侶だけあって
叩きつけるように降ったかと思うと
さっとやんで、涼しさを与えてくれます。
ちょっとした、夏の贈り物のようですね。