プーケット津波情報総合 (スマトラ沖地震)

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津波被災体験談 (12/28 18:45収集分)

2004-12-28 18:57:19 | 記事スクラップ
神戸新聞より
黒い波「夢中で逃げた」 兵庫などの旅行者
2004/12/28

巨大な波にさらわれてしまったのか。インド洋大津波の被災地で消息を絶ったまま、二十七日夜になっても安否確認できない日本人旅行者ら。タイのプーケットでは子供たちの不明情報も。船が店に突っ込み、住民の暮らしは家ごと押し流された。「どす黒い波がどこまでも追い掛けてきた」と命からがら帰国した観光客。「生きていて」。焦りの色が濃くなる中、国内で無事を祈る家族の中には居たたまれずに泣きだす人もいた。

スマトラ沖地震の津波に遭った日本人旅行者数十人が二十七日午後、バンコク発の日航機やタイ航空機で関西空港に到着、当時の様子を生々しく語った。

「人々が逃げ惑い、車のクラクションがけたたましく鳴った」。興奮気味に話すのはダイビングのためタイ・プーケット島に滞在していた西宮市の高校教諭高瀬少輔さん (59) 。多くの人の叫び声で津波に気付いた。津波は砂浜を、道路を内陸側に押し寄せた。「これはまずい」と夢中で約三百メートル逃げたが、どんどん追い掛けてきたという。

プーケットの空港に向け海岸を走る車窓からは、車の上に車が折り重なり、船が店に突っ込むなどの惨状が広がっていたという。

「第一波は高さ一メートル、第二波が一・八メートルくらいだった」と話すのは芦屋市の無職岡本光雄さん (60) 。津波が襲った後の海岸には、パラソルやデッキチェア、バルブが開いたままのプロパンガスのボンベなどが散乱。住民や観光客はひざから下にけがをした人が多かったという。

東京都葛飾区の会社員 (52) は高速道をタクシーで空港に向かう途中に津波を目撃した。

「地面が揺れる感じで津波が迫った。海岸から数百メートル離れていたが、頭の中が真っ白になった」。海岸に立つ平屋の民家より高い波が押し寄せ、家がのみ込まれるのが見えたという。

滋賀県長浜市の会社員岩崎靖彦さん (42) は「すごい勢いで潮が沖に引いていくのが見えた」。高台のホテルの二階に滞在、タクシーなどが下から一斉に上ってくるので不思議に思ったという。一階には海水が侵入し、ロビーで「知人が流された」と泣き叫ぶ人がいた。

福井市の介護職の女性 (51) も「前夜に食事をしたビーチのレストランが影も形もなくなっていた。津波は十メートルくらいあったとガイドが言っていた」と話した。

毎日新聞より (画像あり)
インド洋津波:
水着のまま避難所に プーケット観光客ら

【プーケット (タイ南部) 竹之内満】津波襲来から3日目となる28日朝、タイ最大の被災地となったプーケット中心部の県関連庁舎に設けられた臨時救援センターでは、宿泊先を失った観光客らが不安げな表情で参集。タイ当局によると、この日だけで約3000人が利用し、同日中にも被災者用の臨時航空便がバンコクに向け運航する。

救援センターでは、安否連絡用に無料電話の開放や、空港へのバス運行などを実施。観光客の多くは欧米人で、被災時の水着姿のまま地べたに座り込み、うつろな表情でアナウンスに耳を傾けていた。

休暇でピピ島へダイビングに訪れたという、東京都昭島市の公認会計士、三沢浩さん (37) は、島のダイビング店が旅券など預けた所持品ごと流されたため、救援センターに海水パンツ、Tシャツ姿で訪れた。

「ちょうど潜っている最中、急に水が濁り始め、強力な水流にもまれた。幸い、海面に上がれたが、最初は何が起きたのか分からなかった」と三沢さん。「島に戻り、浜には死体が並んでいるし、家屋が破壊されているのを見て初めて津波と分かり、恐怖を覚えた」と言う。三沢さんは「ダイビングは2回目だが、とんでもない経験をしてしまった。ああ、歯ブラシを買わなくては」と話し、初めて安堵 (あんど) の表情を浮かべた。

センターには日本大使館員2人も詰め、ほぼ24時間態勢で相談にあたっている。旅券の発行は、約500メートル離れたプーケット日本人会事務所で行っており、職員は絶え間なく訪れる邦人への説明に追われた。邦人観光客には海外在住者も多く「居住国の査証 (ビザ) はどう入手するのか」といった不安を口にする人も。

すでに50人以上が訪れたが、職員の一人はその様子を「恐怖と、無事の喜びと、所持品を失って呆然 (ぼうぜん) と」と説明。それでも各訪問者に、波にのまれた邦人を目撃しなかったか、など確認しながら安否照会も続ける。職員は「プーケットだけで10人近く行方不明者がいる。他県も入れるとまだ増えるだろう」と、焦りの表情を見せた。

毎日新聞 2004年12月28日 11時33分

毎日新聞より
スマトラ地震:
紙一重の生と死 各地の被害は

◇「何も残っていない」 インドネシア・アチェ州

震源地に最も近いインドネシア・スマトラ島北部のアチェ州では、州都バンダアチェだけで3000人が死亡したと伝えられる。しかし、交通と通信網は途絶し、どれだけ被害が広がっているのか確認できない状況。住民たちは「まるで神が怒りを爆発させたようだ」と声を震わせるばかりだ。

バンダアチェでは、地震で数多くの建物が倒壊。さらに津波にも襲われ多くの木造家屋が押し流された。AFP通信によると、地元住民は「ヤシの木ほどの高さもある津波が押し寄せた。町の中心部も深さ3メートルの水につかり、海に近い地域は完全に洗い流され、何も残っていない」と惨状を地元ラジオに語った。

「きちんと埋葬したいがあまりにも死者が多すぎる」。医師の一人はAP通信に人的被害のすさまじさを語る。バンダアチェ市内には数多くの遺体が散乱。約500人の遺体が集められた市郊外では、行方のわからない家族を捜す人々の姿が。住民がイスラム教徒のこの町では、モスク (イスラム礼拝堂) が遺体安置所になっているという。

町は停電し電話も不通になり、孤立状態。医薬品や食料も底をつき始めている。

アチェ州ではインドネシア政府と独立派武装組織との間で紛争が続いており、同政府は国際援助機関やジャーナリストらのアチェ訪問を制限してきた。【バンダアチェ (インドネシア・アチェ州) 岩崎日出雄】

◇社員旅行の日本人、無事避難 タイ・プーケット

東京都のメンテナンス会社経営、苅部伸二さん (42) は、部下3人と社員旅行でプーケットを訪れ、パトン・ビーチ沿いの商店街で買い物中、周囲のただならぬ様子に気付いたという。「住民たちが血相を変えてこちらに向かって走って来た。タイ語は分からないが『逃げろ』と言っているように思えた」と話す。苅部さんらは、急いで乗り合いタクシーのトゥクトゥクを捕まえ、近くの小山に避難したという。

部下の1人は「一番先頭で逃げていたのが警察官だった」と言う。「しかし、欧米人も含め逃げてくる人が皆必死の形相だった。瞬時にこれはマズイと思った。無事でよかった」と胸をなで下ろした。

プーケット中心部では27日、県庁施設内に臨時の救援センターが設けられた。各国大使館も職員を配置、臨時の旅券発給業務を行うなど対応に追われている。タイ当局によると、避難者は2000人を超え、さらに山頂などで一夜を過ごした観光客約1000人がセンターに入る見込みという。

ピピ島にダイビングをしに来たという東京都昭島市の公認会計士、三沢浩さん (37) は、島のダイビング店が旅券など預けた所持品ごと流されたため、救援センターに海水パンツ、Tシャツ姿で相談に来た。

三沢さんは「海中に潜っている最中、急に水が濁り始めたと思ったら、強力な水の流れにもまれた。何が起きたか分からなかった」と話す。「島に戻ると浜には死体が並び、家屋が破壊されているのを見て初めて恐怖を覚えた」

千葉市の地方公務員、墨谷明人さん (46) と東京都江戸川区の中学校講師、倉島由貴絵さん (34) は、ピピ島に到着直後、津波に遭遇した。「海面に太い横一線の波が見えた。怖くなって荷物を船に残したまま、友人と手を取り合って山を目指した」。途中で転倒、右足の指を負傷した。そのまま山頂で一夜を明かした。墨谷さんは「早朝は寒かったが、欧米人などが助け合って毛布などを集めてくれた」という。【プーケット竹之内満】

◇「水が音を立てて押し寄せた」 スリランカ

「海が突然盛り上がり、泳いでいた子供の姿が見えなくなった。気が付いたら水が音を立てて押し寄せた」。子供2人が波にさらわれる現場を目撃した漁師が語った。

震源地から約1400キロの同国を津波の第1波が襲ったのは、スマトラ島沖での地震発生から約2時間後の26日午前9時 (日本時間同日正午) ごろ。漁師によると、悪天候時の高波は波が高く見えても海岸線から数メートル程度で勢いが弱まり引いていく。しかし、津波ははるかに内陸部まで入り込んできた。「まるで大きな川のように、海全体が押し寄せてくるようだった」という。

それから約3時間、津波は繰り返し押し寄せた。被害が大きかった同国東部から南部にかけての海岸線では、高さ約9メートルにも達したという。

海岸近くの道路を観光バスで走行中だったというオーストラリア人旅行者の男性は「水はバスの床よりも低かったが、スリップしたようにバスが蛇行して横転しそうになった」と話した。【コロンボ西尾英之】

◇犠牲者に女性や子供多く インド

「私はどうしたらいいの? どうして生き残ってしまったの?」。約2300人が死亡したと伝えられるインド南部タミルナド州。その小さな漁村で、途方に暮れる女性の様子をロイター通信が伝えた。小さな娘は津波にさらわれ行方不明。漁師の夫と息子は津波のあった日に漁に出たまま戻ってこない。

犠牲者には女性や子供が多い。「大人の男は木や壁にしがみつくことが出来た。だが、女性や子供たちはそんな力がなかったんだ」と漁師の1人は話す。この漁師は「漁に出る勇気がいつ戻ってくるかわからない」と、海への畏怖 (いふ) を語った。

一方、震源地のスマトラ島沖北方のベンガル湾に浮かぶインド領のアンダマン・ニコバル諸島でも海岸沿いの多くの集落が津波で壊滅、大きな被害が出ている模様だ。約500の島々からなる同諸島の警察当局者はインドのテレビ局に対し、「少なく見積もっても3000人が死亡した」と語った。いまだに連絡が取れない島がいくつかあるといい、同諸島の被害状況は明らかになっていない。【コロンボ西尾英之】

◇低い波で安心感 直後、濁流一気に 負傷の大学職員

津波に襲われてアキレスけんを切り、バンコク・プーケット病院の5階の個室に入院した東京都豊島区の私立大学職員、柳沢裕之さん (46) は27日午後10時ごろ、当時の様子を生々しく語った。

柳沢さんは26日午前10時ごろ、プーケット最大のリゾート地、パタンビーチで木製のパラソルつきチェアに腰掛けていた。周囲の人が「ロータイド (引き潮だ) 」と叫ぶ声が聞こえ、約50メートル先に浮かんでいたはずのブイが砂上に見えた。さらに数百メートル奥まで潮が引いたため、立ち上がると、遠く沖の方から茶色い低い波がサーッと押し寄せてきた。

「津波は大きな波のイメージがあったので安心していた」というが、低い波が腰の高さになり、ホテルに戻ろうと砂浜を渡り、道路まできたところで茶色い濁流にのまれ、足を取られた。左足に痛みが走り、アキレスけんが切れていた。

水上バイクに乗っていた英国人の老夫婦がホテルまで運んでくれ、応急処置を受けた。病院には救急車で午後3時前に運び込まれたが、生命の危険な人が優先のため、手術は27日午前7時まで待たされたという。2時間に及ぶ手術後に東京の両親に電話をし、父の武雄さん (77) に「迎えに行こうか」と声をかけられ、ほっとして涙が出てきたという。

22日から1人でプーケットを訪れ、28日に帰国予定だったという。柳沢さんは「全く揺れを感じなかったので、警戒のしようもなかった。ビーチが込んでくる1~2時間後だったら、もっと悲惨なことになっていただろう」と話した。【プーケット宍戸護】

毎日新聞 2004年12月28日 2時43分

SankeiWebより
小6、家族とはぐれ野宿 ピピ島、津波に襲われ「どこへ…」

【プーケット島 (タイ南部) =岩田智雄】大津波から一日たったプーケット島。各国大使館の詰め所が置かれた県庁事務所は、家族や友人が行方不明になったり、パスポートを流されたりした観光客でごった返した。

その列の中に愛知県岡崎市の小学六年、杉本遼平君 (12) がいた。Tシャツに短パン、草履という姿。家族とはぐれて、不安な野宿の夜を過ごしたという。

家族四人で旅行にきた遼平君は、ピピ島の海岸で遊んでいて津波に襲われた。

「早く逃げろ!」。父親の孝幸さん (41) の声で家族は島の中へ走り出した。しかし、弟の知槻君 (8つ) =小学二年=が転んだため孝幸さんが助けに戻り、二人の姿はそのまま消えた。母親の正美さん (41) も、「どこへ行ったかわからなくなってしまった」 (遼平君) 。

遼平君は津波にもまれながらもバンガローにつかまり、救助の船に助けられた。プーケット島へ渡ったあと、一人で安全な丘に登ってニュージーランド人のグループに保護され、やはり避難していた日本人女性に引き渡された。

二十七日、女性とともに日本大使館の駐在員に家族が行方不明になっていることを届け出たが、大使館によると、家族は病院の入院者リストにはなく、安否はわかっていない。

プーケット島の沖合にあるピピ島は、もっとも津波被害の激しかったところだ。当時、百人乗りの観光船でピピ島に向かっていた米国人男性 (47) によると、突然、海が二つに割れたようになり、船の右側が盛り上がった。続いて船が津波の上に持ち上げられ、三百メートル前方のピピ島のバンガローの二階が同じ高さに見えたという。数時間、海上で待機したあと、プーケット島へ引き返したが、途中転覆した小型ボートにつかまったり、海上に浮かんだりしているダイバー四、五人を救助した。

ピピ島で救助されたある日本人女性は、救助船でシンガポール在住の日本人の小学生男児に出会ったが、この子も両親と妹が波にのまれ行方不明になったという。男児は左足にけがをしていたが、「チャンギ空港まで送ってくれれば、一人で家に帰れます」と気丈に話していたという。

プーケット島では二波にわたって津波が襲来、ビーチ沿いのホテルや店舗を一瞬にしてガレキの山に変えた。

ギリシャから来たジアヌーリディスさん (37) は、海岸線から百メートル離れたホテルにいた。「ゴー」という音が聞こえて一、二分後、第一波が襲ってきたが部屋の外でとまった。しかし十分後、さらに強力な第二波が襲い、海水は一階の室内の天井にまで達した。「お金もパスポートも何もかも流されてしまった。プーケットへ来るのはこれで最後にする」と話した。