every word is just a cliche

聴いた音とか観た映画についての雑文です。
全部決まりきった常套句。

都築響一『ヒップホップの詩人たち』発刊記念トークイベント@代官山Tsutaya

2013-02-03 | HIP HOP
代官山Tsutayanで催された都築響一『ヒップホップの詩人たち』発刊記念トークイベントに行ってきました。
第23回木村伊兵衛賞受賞カメラマン/編集者の都築響一が月刊新潮で連載していた『夜露死苦現代詩2.0』をまとめたものだ。

イベント開始開口一番「Twitterで本の反響を検索すると"高すぎワロタw"って出るw」「今までの自分の本からするとこの価格は決して安くない。むしろ破格な値段」(*以下、「」内は都築響一の発言)。しかし、「\3780円は高い」という反応が出る。これはつまり今までの都築響一の読者層と違うところへのリーチしているということだ。

そりゃそうだろ。B BOYが月刊新潮を読んでいるとは思えない。都築響一は続ける「(インタビューしたラッパーの)殆どは読書体験が無いに等しいくらい乏しい。彼らの多くは少年院や刑務所に入所しているが、そこで本と出合っている。"宮沢賢治ヤバいです!""太宰はマストっすね"と言った具合に」「面白いなと思ったのは、星新一に目覚めたと言うあるラッパーの発言。ほらラップのリリックは文字量がショートショートくらいになるから」。


都築は日本におけるヒップホップをヤンキー文化の流れとして捉えているようだ。
結論からいうと、これは「持たざるものが産み出したアート」ということなのだが、ちょっと自分はこの見方には反発を覚えた。THA BLUE HERBやRHYMESTERのように膨大な読書量を背景とするラッパーもいて、自分はそういったラップ(も)好きだから、それはちょっとステレオタイプに当てはめすぎだと感じた。
しかし、都築の話を聴くとそれはどうも違うようだ。

どんな人生にも煌く瞬間や魂から叫びたくなる瞬間がある。
それを形に出来るモノは言葉を持つもの、歌を歌える者、絵を描ける者といった才能と好機に恵まれた人間に限られていた。
しかし、ラップというアートフォームと録音、公開のハードルが甚だしく低くなった今は本来そういった手段を持たざる者にも表現のチャンスを与える。結果、いままでは出会えなかった言葉と出会う事が出来るのだ。






都築響一が最初にいいなと思った日本語ラップはそのTBH。曲は「未来は俺等の手の中」。
THA BLUE HERB - 未来は俺等の手の中



TOKONA-X - I'm in Charge
「アメリカ・ヤンキーへの憧憬ではなく、日本の土着的な不良文化に繋がるものが出てきた。」
「郊外において車は要だけれどローライダー的なアメリカ文化への憧憬は感じない。自分は地方出張が多いが車から漏れ聴こえるのがヒップホップだったというのも興味を抱いたキッカケ」
「Tokona-Xを聴いた時河内音頭だと思った。『悪名』の勝新を想起した。」



都築「1割の都会と2割の田舎。残りは郊外。郊外文化のどうしようもなさを歌えるのがヒップホップではないか。鬼は福島、小名浜の閉塞感、どうしようもなさを歌っている。」
鬼 / "小名浜"



Anarchy - Fate
「Anarchyを聴いて『刑務所良品』で女子更生院での出来事を思い出しました。朝食に温かい味噌汁が出てきたんですけど、それを見て泣き出した子がいました。その子は16年生きてきて温かい食事を初めて口にしたというんです。」
「Anarchyは"成功するのがヒップホップではなくて、土方やっても続けるのがヒップホップ"と言っていた。かつてそれはロックンロールがその役割を果たしていたのと思うのですが、いまはラップ/ヒップホップだと思うのです。」
「楽器を買わなくても、スタジオに入らなくても、コンビニの前でもラジカセさえあれば(或いはそれさなくても)ラップが出来る。この意味は大きい。」



108 bars/小林勝行(ex.神戸薔薇尻)
「郊外ラップ至上の名曲」
初めて聴いたんですが、泣きそうになった。
彼は引きこもりだったそうなのですが、ある日ふとギターを手に入れて、週に一度ギター教室に行く事で外に出るようになったそうです。
「彼は神戸…といっても元町など華やかな方ではなくて郊外の山の方。リラックスできる環境でインタビューしようと言ったら、いつも行っているカラオケBOXに案内された。彼はいつもここに入ってラップを録っているという」


「こないだ高橋源一郎さんのラジオに呼ばれて「108Bars」を早朝から掛けたら抗議殺到w」
そりゃそうでしょw

「こういう作品を聴くと、芸術の役割を考えてしまいます。一番大事なのは"これしかないということ"です。大学で教えるような知識や技術はそれより遥かに(プライオリティは)した。ギターを弾いている時だけ、絵を描いている時だけ現実を忘れられる、生きている気持ちになれる。そういう人たちの命綱としての芸術というのを凄い考えます。」


戦極MC BATTLE 第一章(12.1 .22)  チプルソvsDOTAMA@BEST BOUTその2
「(MCバトルには)日本語表現の最前線があるのではないか。これをレポートしない音楽雑誌は何をしているのか。」




今日聞けた都築響一のヒップホップ畑、B BOY的スタンスではない観点からの日本語ラップ観には凄い刺激を受けた。

特に「日本で都会は1割、2割が田舎、残り7割は郊外」というのはパンチライン。
いま郊外を描くと「ラップ」という表現が鍵になる。『サイタマノラッパー』しかり『サウダーヂ』しかり。


東京で暮らす自分から見たら00年代は(90年代に比べ)ヒップホップの訴求力が弱くなってきた気がしていた。具体的に言えば街からB BOYの姿が少なくなった。サンプリングによるビートも(アメリカで)古いものになった。
今回紹介された曲が(TBHを除いて)みなサンプリングによるビートだというのも興味深い。

しかし郊外でラップが独自に育って10年代に健在化したのがとても面白い。都築響一は言葉にフォーカスしてラップを選んでいるようだし、サンプリングに拘って選んだとは考えにくい。だから、郊外ラップに共通してサンプリングのビートに反応する感覚が共有されていると言う事だと思うのだけれど、何なんだろ? 90年代への憧憬? それとも安くてお手軽だから?



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