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月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その24 / 後

2009年06月11日 | 小説 吉岡刑事物語





蕎麦屋を一歩出た瞬間、凍てついた空気が身を包んだ。
利次はコートの襟を寄せて、胸元に吹き込んでくる寒風を防いだ。

「あら田毎庵さん、まだお店開いてたのね」

買い物袋を両手に提げた年配の主婦らしき女性が、
店の戸口に立った利次と吉岡の姿を見て話し掛けてきた。

「ここね、毎日行列ができるくらいの人気のお蕎麦屋さんだったのよ。
それがどうも蕎麦を打っていた人が火事にあって、
大やけどしちゃったみたいでね、それで蕎麦が出せなくなっちゃって、
それ以来お客の足がぱったり・・・」

そう言ってその主婦は改めて店を眺めると、
“ひどい話よねぇ・・”と、独り言のように呟いて、
頭を横に振りながら立ち去って行った。
利次は、その主婦の背中を見るともなしに眺めていた。

「これから洋一さんのお見舞いに行こうと思っているんですが、
宮田さんはどうなさいますか?」

ハーフコートを着込んだ吉岡が、利次にやわらかく尋ねてきた。

「いや・・・・」

利次は暫く黙りこんだあと、

「私は駅前でタクシーを拾って帰るよ」

そう言って目線を遠方に小さく見えている駅へと向けた。

「そうですか・・・。駅まで、ご一緒してもよろしいですか?」

「・・・ああ」

利次は呟くようにそう答えると、駅に向かって歩き出した。
吉岡がその横に並ぶ。
二人は暫く無言のまま、アーケードの通りを歩いていった。
両脇に並び建つ様々な種類の小売専門店は、
その半数のシャッターが下りたままになっている。

「宮田さん、」

駅前の広場脇に出たところで、吉岡は不意に立ち止まって
利次に話し掛けてきた。利次は足を止め、後方を振り返った。
深く思いを沈めたような吉岡の瞳が、利次の目を捉えている。
利次は、体を動かして吉岡に向き直った。

「なんだ?」

「洋一さんから、伝言を言付かってきました」

「・・・伝言?」

「はい」

と答えた吉岡の眉根が、何かに堪えるようにぎゅっと寄った。
言葉を出そうとする吉岡の口が、
開きかけてはやるせなさそうに閉じていく様子を、
利次は怪訝そうに見つめた。

「・・・何のことだ?」

駅の改札口から出てきた人たちが、
二人の横をまばらに通り過ぎていく。

「ごめんなさいと・・・」

ぎゅっと閉じていた口を開いて、やがて吉岡は静かに言った。

「そう伝えてくれと・・・」

「・・・・?」

静かに見つめ返す吉岡の瞳を見やりながら、
利次はふっと息を吐き出すように苦笑した。

「何のことだかさっぱりわからないな。一体、
洋一は何について私に謝っていたというんだ?」

伏せた瞼をそっと持ち上げて、吉岡は、
利次の目をまっすぐに見つめ直した。

「本当のお母さんを独り占めしてきてごめんなさいと、
そう伝えて欲しいと、仰っていました」

「・・・・・本当のお母さん?」

利次の目に、怪訝そうな表情が深まっていった。

「何のことだ?」

吉岡は再び口を結んだまま、切なげな瞳を利次に向けている。

「何のことだよ?」

利次は食い下がった。

「何のことだと訊いているんだ」

「洋一さんは・・・」

吉岡の声は、微かに震えていた。

「宮田さんの実のお兄さんだそうです」

「・・・・・・なに・・・・」

何を言っている? と言いたかった言葉が口から出てこなかった。
利次は呆けたように、目の前の吉岡の顔を見つめた。

「すみません・・・。本来なら、
僕が伝えるべき話ではないのですが・・・」

周りの空気に癒合していくような声が、
立ちつくしている利次の耳に入り込んできた。

「立花朝子さんは、洋一さんの成長が、
他の子より少しだけ遅れているとわかった時点で、
宮田家から離縁を申し出されたそうです・・」

「・・・・・なんだって?」

「跡継ぎのできる男の子さえ産めば、後は用はないと、
二人目の男の子が生まれるとすぐ、お姑さんから家を出されてしまったと・・」

「その二人目が私だったということか?」

ちっとも可笑しくないのに、利次は声を出して笑った。

「それじゃあ、私はただの将棋の駒じゃないか」

利次の乾いた笑い声が、霞んた空気に吸い込まれていった。
吉岡は、静かにその場に佇んでいる。
利次の顔が真顔に戻った。

「そんな話、いきなり信じろと言われても無理な話だよ。バカバカしい」

「そのお気持ちは、もっともだと思います・・・。でも、
許さなくてもいいから、どうか事実は受け止めて欲しいと、
朝子さんは仰っていました・・・」

利次は吉岡の顔をまじまじと見た。
実のこもった誠実な瞳が、揺らぎなく利次の目を見つめ返している。
利次は黙って視線を逸らした。吉岡は静かに言葉を継いでいく。

「母と呼ばれることはなかったけれども、それでも
お姑さんに何とか頼み込んで家政婦にしてもらい、
宮田さんの成長を見れてこれたのは幸せだったと、
朝子さんはそう話しながら泣いてらっしゃいました・・」

利次の顔から表情が消えた。

「飛び火を受けて燃えてしまった立花さんの家は、
まだ大工だった頃のお父様と朝子さんが、
かつて一緒に住んでいらっしゃった家だそうです」

胃がぎゅっと収縮して、利次は軽い吐き気を覚えた。
蝿の羽音のような音が、ひっきりなしに頭の中で鳴り響いている。

「これを・・・」

ゆっくりと間を置いてから、吉岡は、蕎麦屋の店長から渡された茶封筒を、
そっと利次に差し出した。利次は無表情のままそれを受け取ると、
封を開けて、中に入っている小さな手帳を取り出した。

「・・・・?」

利次の驚いた顔が吉岡の顔を見た。

「全て話を伝えた後に、宮田さんに渡すようにと、
洋一さんから頼まれました」

利次は、手元の手帳に再び目線を落とした。
地元の信用金庫の名が印刷されている預金通帳の表紙に、
宮田利次様と口座名が記入されている。
利次は茫然としながら、ゆっくりと表の頁を開いた。
最初の記帳は、昭和58年の4月に二万円。
それから毎月、小額ではあるが、預金は欠かすことなく続いている。
二万円、一万八千円、二万五千円、二万三千円・・・・
利次は、頁を次々に捲っていった。
擦り切れた通帳の最後のページに行き着いた途端、
利次の息がぐっと詰まった。総合預金額、9.989.000…

約一千万・・・

一切の雑音が頭の中から消えて、
自分の体がすうっと周囲から引き離された。

(ぼくが利ちゃんに、あたらしいおかあさんをかってあげるよ)

クラスメートに自慢の出来る母が欲しいと泣き喚く利次の隣で、
へらへらと笑っていた幼い頃の洋一の顔が頭の中に蘇ってきた。

「朝子さんは事実を伝えたことはなかったそうなのですが、
でも洋一さんは、宮田さんが実の弟だと感づいていらっしゃった・・。
自分は秘密の弟からお母さんを奪ってしまったから、
だからいつか新しいお母さんを弟に買ってやるんだと、
洋一さんは、毎月毎月、田毎庵さんで働いたお金を貯金していたそうです。
でも倉庫が燃えてしまった今、宮田さんはこれから大変だろうから、
これを生活の足しに使ってほしいと・・・。お母さんを買うお金は、
また貯めるからごめんなさいって、そう宮田さんに伝えて欲しいと、
洋一さんはベッドの中で何度も謝ってらっしゃいました・・・」

頭から血の気が一気に引いていき、
利次は近くにあったベンチに座り込んだ。

ずっとバカにし続けてきた洋一の姿が、
邪険に扱ってきた朝子の面影が、
愛情など一度も感じたことのなかった父親の背中が、
焼け落ちた倉庫の残骸の記憶に被さりながら、
利次の頭の中を走馬灯のように駆け巡っていった。

いったい・・・・
俺の人生はいったい・・・
何だったんだ・・・・

吉岡が、利次の横に静かに腰を下ろした。

「なんで素直に逮捕しない?」

胸の底から搾り出すような声で利次は吉岡に問いた。

「私が火を放ったと最初からわかっていたんだろう?
なんで取調室で逮捕しなかった?」

吉岡は何も言わずに、思いに沈んだような眼差しを
改札口に出入りする人の波に向けている。

「あんたの勝ちだよ、刑事さん。さっさと引っ張っていけばいい。
それであんたも幸せだろ」

利次は自嘲するように笑って、視線を前方に見据えた。
西の空を淡い金色に染めはじめた午後の日差しが、
商店街の屋根に、行き交う車のボンネットに、道行く人の上すべてに、
あますことなく平等に降り注いでいる。
得体のしれない何かが、利次の胸の奥でくすぶっていた。
目線を落とした足元に、雀が一羽舞い降りてきて、
硬いアスファルトを二、三度ついばんだあと、
また空高くへと飛び去っていった。

「そういうことでは・・・ないんです・・」

静かに聞こえてきた声に、利次は顔を横に向けた。
吉岡の横顔は、遠く彼方を見つめている。

「勝つとか、負けるとか、そういうことでは・・
ないんじゃないでしょうか・・・」

利次は不可解そうに眉根を寄せた。

「幸せって・・・人に何かを誇示することでは・・・
結果だけでは・・・ないと思います・・・」

そういって、吉岡は薄空を仰いだ。

「洋一さんは、雨の日も、風の日も、暑い日も、寒い日も、
ご自宅から徒歩で田毎庵さんに通られていました。
美味しいといって食べてくれるお客さんのために、
毎日、毎日、蕎麦を打って・・・、その喜ぶ顔を見るのが嬉しくて、
もっともっと喜んで欲しくて、また一生懸命、蕎麦を打っていた・・・。
それは数にしたら、一日200玉くらいの蕎麦だったかもしれません、でも、
その200の幸せが、そのまま洋一さんの幸せだったんだと思うんです。
だからこそ洋一さんは、美味しいお蕎麦を打てたんだと・・・」

そっと吹いてきた風が、梅の香りをほのかに残しながら、
吉岡の前髪をやさしく揺らしていった。
利次は手元に視線を戻した。
手垢に塗れて古く擦り切れてしまった預金通帳が、
頭だけ使って生きてきた自分の手の中に握られている。

「宮田さん、」

深く、どこまでも清く澄んでいる、泉のような吉岡の瞳が、
そっと利次に向き直った。

「立ち止まることは・・・行き止まってしまうことでは
ないと思います」

利次の張り詰めた視線が不意に緩んだ。

「やり直そうと思った瞬間から、人はまた歩き出していけるものなんだと、
僕はそう信じています」

大粒の涙が、利次の目から零れ落ちた。
握り締めた預金通帳が、手の中で小刻みに震えている。
一粒、二粒と頬を伝った涙の雫は、やがて、堰を切ったように、
止め処もなく次から次へと利次の目から溢れ出ていった。
哀しいのでも、辛いのとも違う、ただ、
心のどこかでこり固まっていた気持ちが、ふっと解れて浮き上がり、
とめどもない涙となって体の外へと流れ出ていった。
改札から出てきた女子高生の二人組みが、クスクスと
不躾な笑いを投げかけながら、大泣きしている利次の前を通り過ぎていった。
吉岡はただ静かに、利次の横に、寄りそうように付き添っている。
どうしようもないくらいに切なくて温かい心の緒が、
横に座る吉岡からすっと沁みこむように心の中に伝わってきて、
利次は涙が止まらなかった。
子供のように涙をこぼしながら、もしかしたら自分は、
ずっとこうして泣きたかったのかもしれない、
誰かにこの涙を受け入れてもらいたいと、心の奥底で、
ずっとひそかに願って生きてきたのかもしれないと、
雪が融けていくような気持ちの中で、始めて素直にそう思っていた。

「洋一の・・・」

利次は泣きぬれた顔を上げて吉岡を見た。

「入院している病院に・・・連れて行って欲しい・・・」

穏やかに澄んだ吉岡の瞳に、静かな光が揺れた。
それは、人としての思いやり、人間味の温かさが深く宿っている、
やさしく切ない瞳の光だった。
利次は、憑き物が落ちたような目で、しっかりと
吉岡の瞳を見つめて言った。

「その後、警察に自首する・・・」






「ヒデーーーーーーー!!!」

全速力で駆けてきた秀人の体を、吉岡は両腕で大きく抱き止めた。

「うわぁ、また大きくなったね、秀人くん」

両手で高く空に持ち上げた秀人の小さな体を、
吉岡はそっと草地に下ろして笑った。

「そうだよ、このまえヒデにあったときより、
もう三メートルも大きくなったんだ!」

「ヒデじゃなくて、ヒデさんと呼べといっているだろ」

そう言いながら数歩遅れて草野球場に入ってきた筒井は、
片手に野球のミットを二つ持ち、その肩には子供用のバットを一本担いでいる。

「でもヒデはヒデでいいっていってるもん。そうだよね、ヒデ?」

「うん、そうだね」

吉岡は、包み込むようなやさしい笑みを秀人に向けている。

「きょうはボールのうちかたをおしえてくれるんだよね!」

「うん」

「ヒデがピッチャーだよ。こうこうせいのとき、ヒデは
やきゅうぶのピッチャーだったんでしょう?」

「二年生の夏までね」

「パパがキャッチャーだったって、ほんと?」

「ほんとだよ。すごい名キャッチャーだったんだ、君のお父さんは」

「ふぅ~ん」

「なんだよ、ふぅ~んって」

黙って二人の会話を聞いていた筒井が横から言葉を挟む。

「もっと感激してくれよ」

「べつに。それよりね、ヒデ、」

秀人は満面の笑顔を吉岡に向けて、

「あのね、ボクのヒミツをおしえてあげようか?」

と言って秀人は嬉しそうにくくっと笑った。

「え、なに?」

「あのね、ボクね、大きくなったらね、
ヒデみたいなけいじになるんだ」

「・・・・え?」

笑顔に驚きの表情を浮かべながら、吉岡は、
秀人の得意そうな顔を見つめた。

「おい、この前までパパには、大きくなったら
ウルトラマンになるって言ってたぞ?」

「パパ・・・・」

秀人は、再び会話に横入りしてきた筒井に顔を向けた。

「ウルトラマンのなかみはいっぱんじんなんだよ。
せなかにいしょうのチャックがあるじゃないか。
そんなことも知らないで、よくいしゃになれたね」

やれやれまったく、と秀人は頭を横に振り、

「そんなうそんこじゃなくて、ボクは本当のせいぎのみかたになるんだ。
ヒデみたいなけいじになって、わるいやつらをとっちめてやる」

と言って空手キックを二、三度宙に蹴って、

「さいしょはキャッチボールからだよ!早くしないと日がくれちゃうよ!」

そう言って父親の手から素早く取った二つのミットの一つを吉岡に手渡し、
自分はグラウンドの向こう側へと走って行った。
吉岡は駆けていくその小さな背中を、そっと見守るように見つめている。

「ほら、」

横から筒井が、軟式のボールを投げて寄こした。
吉岡はそれを軽くミットで受け取って、
右手に持ち直したボールを手に馴染ませた。

「おーーーーーーーーーーいっ!」

駆けていった先から、秀人が大きく両手を振った。
吉岡も微笑みながら、右手を振ってそれに答える。

「もの食えてるのか?」

隣で筒井がさりげなく問いかけてきた。

「うん・・・」

吉岡は、握っていたボールを秀人に向かって投げた。
白球が、緩やかな曲線を描いて宙に飛んでいく。

「戻しちゃうんだ、殆ど・・・」

危なっかしそうに受け取ったボールを、
秀人は思いっきり力を込めて吉岡に投げ返した。
コントロールが大きく横に逸れたことを目立たさせぬよう、
吉岡は最小限に体を動かしながら、
飛んできたボールを身軽にキャッチした。

「今夜は俺の家で夕飯食ってけよ」

再び吉岡が投げたボールを宙に眺めながら筒井が言う。

「奈保美の料理だけど、あいつもお前に会いたがってるし」

今度は上空に浮きすぎながら返ってきた秀人のボールを、
吉岡はしなやかにジャンプしてミットに納めた。

「ありがと・・」

「パパーーーーっ、キャッチャーしてーー!」

大声で呼びかけてくる秀人の声に軽く片手を上げて応えながら、
筒井は向こう側に歩いていった。

「よぉし、受けて立ってやる!」

秀人から渡されたミットを左手にはめながら大声で言うと、
筒井は草地に腰を下ろして両手を構えた。
その隣で、秀人が嬉しそうに声を出して笑っている。

「どんな球だってどんとこいだ!」

吉岡は楽しそうに笑いながら、
軽く投球のポーズをとってボールを投げた。
ズバッ、と心地よい音がして、
筒井の構えたミットの中に直球が収まる。

「スットラ~イク!」

秀人が大喜びで飛び跳ねた。
折り返し飛んできた筒井の剛球を、
吉岡はしっかりとグラブに受け取る。

「よばん、サード、つついひでと!」

バッドを構えた秀人が、自分でそうアナウンスをしながら
打席の位置に立ち、ひとつ大きく素振りをした。

「まんるいホームランうつぞ!」

吉岡の目じりに愛しそうな笑みが深まる。
ポン、とグラブに軽く投げ収めたボールを、
ストレートの型に握りなおしてから、ゆるやかな速度で、
吉岡は秀人に向かって投球した。

カーンッ

と快い音がグラウンドに響いて、秀人の打った白いボールが
真冬の青空に高く舞い上がっていった。





つづく

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