フロリダに住むこと八ヶ月。
先日気づいたことなのですが、この土地には、
山がない。
ノォおおおおおおおおおおおお!!!
気づくのに八ヶ月もかかってしまった。
多分こういう性質のことを、
トロい。
というのかもしれない。
もしくは、
鈍くね?
と疑問符付きでちょっと優しくピリッと厳しくどっちやねん。
いやでも正確にいうとどこかに山はあるらしい。
海抜95mの。
いやでもそれって山なのかい?
丘ではないのですか?
跳び箱一段目だって立派な跳び箱です、むはっ!
的な?
標高95mって、
ウサイン・ボルトだったら9秒72で登り切ってしまうやん。
それともこれはもしや、
『聞き取り調査中』という名前のミシュラン三つ星フレンチレストラン形式の、
『山です』という最大公約数的な名前がついた斬新かつ色消的な名称の高台とか?
いやはやとにかくなんともすんともですね、
私的に名状し難いその盛り地はどこかに存在するらしく、
そしてこれ以外にも近隣には、
ディズニーという結界が張られた魔法のワールドの中に、
マジックマウンテンという山があり、
ここはなにやら常時めちゃくちゃ登山者が多い。
長い待ち時間を耐えてやっと入山しても、
きゃああああっほぉ〜ぃ!!!
とか叫んでいるうちに、
なんだかあっという間に下山してしまう。
そして高い入山料を払わないとそれにはお目にさえかかれないのだ。
それってどうなの?
これってどうなの?
俺は良いけど、
YAZAWAはどうかな?
教えて、永ちゃん。
嗚呼ぁ、
フロリダよ。
なぜにフロリダ。
されどフロリダ。
けれどフロリダ。
ここにフロリダ。
FLORIDA
発音しづらい。
日本人が不得意とするF, L そしてRが、
律儀に集合なさっていたりするので厄介なのだよ、Vがなくて良かった、
そして山がないのだ、しつこいぞぅリピートあふた〜ミィ〜。
しかしこの地には、
あくまでも私的に認定許可される山がない代わりに、
湿地が多い。
これは公的に湿地。
ものすごく湿地。
いわゆる湿地。
世界基準で湿地であって、
湿地展覧会場なわけであり、
湿地体験年間パス無料進展中の、
春の湿地祭りで湿地ランデブーの高木ブー。
いや高木ブーさんには出会えないかもしれないし、
白いお皿も貰えないかもしれないけれど、
けれどもここはいわゆる一つの野生の湿地王国。
ほんとしつこいな、もぅ。
そしてそこにはワニ族の方々が多く居住しております。
やたらとたくさんおりますので、
「ワニは玄関までやって来るの?」
完全放し飼い放牧中の一人暮らしをしている娘の身を案じるあまり、
このような南アルプス天然水な発言をする実家の母がいたりするので、
母さん、
フロリダには確かにワニは多く、しかし、
「角のガソリンスタンドの奥の道を入った先の沼地に今度引っ越ししてきました
ワニ淵ワニ男です。お隣さんはウニ海ウニ介さんで、とても親切な方です」
と手ぬぐいを手にしたワニさんが玄関に挨拶に来たことは一度もなく、
確かにウニ海さん一家は親切かもしれませんし、
ウニはワニと名前の綴りが似ておりますが、
ウニは淡水生物では、
ないわけで。
そしてワニさんが玄関にやって来る事は、
ないと思われ。
今日もフロリダの空は綺麗です。
と、LINEの返信をしていたりする末娘がいるわけで。
心配する、してくれる、
という習性も母親のエレメントの一つなのだと思うし、
心配しすぎるあまりに時には、
トン吉チン太カンペイな発言が出てきてしまうのかもしれない。
けれども、
されど、
笑ってしまう。
母上、
いつもありがとう。
などと書きつつ、
でも本当にびっくりする程の数で
ワニ族さんたちはこの地に生息しているらしいので、
人間たちは十分に気をつけなければならないらしいです。
ワニ族さんたちからしたら、
「俺たちは白亜紀からここに生き長らえてんだ、
後から入り込んできたくせに、ふざけんなよ人間野郎ども、
勝手にワニワニパニックとか作りやがって、
迷惑だワニ」
とオチを作ってまで言い返したいかもしれないけれど、それも
ごもっともだワニ。(←書きたかったらしい)
でもそう考えると、ワニさんたちってばすごい。
ずっと変わらずにこの地球に生存していたりするのだ。
わおぅ。
いや少しずつは変容しているのだろうけれど、
例えば以前はもっと八頭身だったはずだとか、
ちょっと遡って6487年前はもう少し色薄緑だったからきちんと
UVケアしておけば良かったとか、
最近奥さんが冷たくなってきたような気がするけど気のせいかな?
とかワニさんだって悩みは尽きないだろう。
そこら辺は普遍だと思うけども。
そう、ワニさんに限らず、
普遍的なことって実はこの世に多いのかもしれない。
世の中は目まぐるしく変化変容していく。
と人々は言いますが、確かにそれはそうでせう。
しかしそれはあくまでも人間の世の中でのことであって、
それ以外の世界では、
実は普遍的なものの方が多いのかもしれない。
これは決して、
普遍的なものだけが素晴らしいと思っているわけではないし、
進化していくからこそ、この世は発展していくのだワンダホー、
そう思うわけでもありまして。
生きとし生けるものは、
それを好もうが好まなかろうが、
前にしか進めない生き物だと思われ。
立ち止まったと思っていても、
時は自分をその先へと引っ張っていく。
前に歩いているからこそ、
様々なことにぶち当たるわけで、
たとえ壁にぶち当たって、
「痛ったぁ〜い何すんのぉ!?」
と立ち止まったり蹲ったり泣いたり、
キィーーッとハンカチ噛んで地団駄踏んで捻挫したりしていても、
やはり進むのは前方なのだから、
あ、けどなんか大丈夫かも。
とかっていずれはそうなるのだと思うし、
ぶち当たった壁もよく見たらぬりかべだったよ、
なんだただの妖怪じゃ〜ん、あはは〜♪
ってなることもあるかもしれないかもよどうかなどうだろうでもそうしておこうそうしよう。
この世の中は、
あまりにも変化の速さが著しいであります。
速すぎる現象に追いつくのに一生懸命で、
並走する周りの景色も高速で後方に流し去って行ってしまう。
現代という快速新幹線に乗って、
安らぎという名の駅をずんずんすっ飛ばし、
世間という目的地に到着する。
みたいな。
きっと、おそらく、いや確かに、
木々も花々も空も雲も、
月も太陽も流れる星たちも、
海も草原も砂漠も密林も山並みも、
風も雨も嵐も川も陽光も朝露も稲妻も、
悠久の時の中でずっとそこにそう在り続けている。
佇み、
くり返し、
佇んで、
くり返す。
そこに、
くり返していく。
それは、
圧倒的に、
無敵だ。
だから人は、
打ち寄せては引いていく波に謳う海や、
風にそよぐ木々を抱く山々を前にすると、
とても落ち着くのかもしれない。
言葉を、
必要ともせずに。
それは普遍であって、
どんな形であろうとも、
母や父の愛がそうであるように。
絶えず変化していく事象を中心に捉えているが故に、
世の中が目まぐるしく忙しなく感じてしまうだけなのであって、
けれどもその中心点を、すっ、と外側に寄せてみたら、
実は時はとてもゆったりと流れていて、
自分の周囲に景色や自然があるのではなく、
景色や自然の中に自分も存在しているのだと、
知っているだけではなく、
分かっているだけではなく、
そこに気づいていられたのなら、
日々は、
もう少し、
深く、
ゆったりと、
呼吸できるのかもしれない。
絶えず川に流されていると思っていた自分は、
実は川そのものなのかもしれない、と。
風向きは、
いつだって変わっている。