人気のない路地裏に佇みながら、
宮田利次は倉庫の焼け跡を眺めていた。
火災が起こって以来、その場所を訪れるのは、
その日が初めてだった。
見渡す焼け野原には、炭化した木片が所々無残に崩れ落ちている以外、
他にはもう何も残存していない。
長大な建物だと思っていた倉庫は、全焼してしまえば、
思ったより遥かにちっぽけな土地に建っていた。
利次は、ロングコートのポケットに両手を差し込んだまま
体を斜め横に向けて倉庫跡の横へと目線を移した。
長年そこに見慣れてきた古い木造家は、倉庫からの飛び火を受けて全焼し、
今はもう、空っぽになった小さな土地に、真っ黒に焼け爛れた土台だけが、
真冬の光に無残に晒されている。
「宮田さん、」
突然背後から掛けられた声に、利次は後方を振り返った。
逆光に目を細めた視線の先に、下げた頭を上げた吉岡が、
午後の陽光の中に溶け込みながら立っていた。
「何の用だ?」
利次は睨みつけた目線を焼け地に戻した。
「取調べはもう終わったはずだろう」
「ええ。でも、もう少しお話がしたくて・・・」
そう言って吉岡は、利次と同じ方向に視線を移した。
「こちらに立ち寄っていらっしゃるのではないかな、
と思ったものですから」
利次は吉岡を見やった。
思慮深そうな瞳が、かつてそこにあった
立花家の家跡を静かにうち眺めている。
「話すことなど何もない」
利次は視線を元に戻して言った。
ほんの少し前までその場所には、巨大な倉庫が建っていたことなど
すでに忘れてしまったかのように、
冬の日差しはやわらかな光の幕を焼け土に落とし、
空き地からそよぐ寒風は、いたずらに枯れ草を揺らしながら、
薄水色の凍空へと舞い上がっていく。
「立花洋一さんは、一命を取り留めました」
ひっそりと心に染み込んでくるような吉岡の声音に、
利次の視線が、ほんのかすかに宙を泳いだ。
「まだICUに入っていますが、でももう命に別状はないそうです」
「・・・だから何だっていうんだ?」
利次は低く言い返すと、コートの内ポケットから
タバコの箱とライターを取り出した。
口に銜えたタバコにライターの火をつけながら、
倉庫に火を放ったその明け方に、
消火にあたった消防隊員から聞いた話を思い出していた。
飛び火を受けて火災を被ってしまった自宅から、
母親を外に担ぎ出して助けた洋一は、
貴重品を取りに再び炎の中へと舞い戻り、
そこで全身に大やけどをおって近くの総合病院に担ぎ込まれたと、
その消防隊員は利次に告げていた。
その後の洋一の容態については何も聞いていなかったし、
警察の事情聴取に呼ばれた後は、それに気持ちを取られて、
洋一のことまで考える余裕はなかった。
「だからなんだって言うんだよ?」
利次繰り返し言って一口吸ったタバコの吸殻を地面に捨てて、
それをぎゅっと足でもみ消した。
「あんなうすのろ、どうなったって世間には何の影響もないだろう。
厄介者が周りからいなくなって実はみんなホッとしているんじゃないのか」
利次はそう言って苛立った視線を遠方へと向けた。
凍った空に、ちれぢれの雲が浮かんでいる。
「立花朝子さんは、宮田さんがお生まれになった頃からの
育ての母親のような人だとお聞きしました」
吉岡の声が、利次の横頬を凪いでいった。
「息子さんの洋一さんとも、宮田さんは兄弟のようにしてお育ちになったと」
利次は新しいタバコを箱から一本取り出しながら、
鼻で軽くあしらうように笑った。
「誰がそんなばかげたことを言ったんだ?
それはやつらが勝手にそう思い込んでいただけのことだろう。
私自身はそんな風に思ったことは一度もないし、
立花親子はただの使用人とその息子なだけだよ」
利次は再びライターに火をつけた。
「私には母も兄もいない」
そう吐き捨てるように言って、タバコを銜えた口元に火を近づけた瞬間、
利次の体の動きが不意に止まった。じっとタバコを見つめる顔から、
みるみると血の気が引いていき、利次は、
凍りついたようにその場に立ちつくした。
まさか・・・・
そう呟いた頭の中で、倉庫に火を放った晩、
空き地の隅でタバコを吸っている自分の姿と、
数時間前、取調室でタバコを灰皿にもみ消している
もう一人の自分の姿が、閃光のように交錯していった。
まさか・・・・
利次は視線を足元に落とした。
一口だって吸った特徴のある煙草の吸殻が、
そこに揉みつぶされている。
まさかそんな・・・・
広大な空き地の草むらに捨てた小さなタバコの吸殻が、
誰かの目につくはずはない・・・・
でも・・・・
じっと見つめる足元の吸殻に重なるように、
取調べ室でさり気なくタバコを差し出してきた吉岡の姿が、
ありありと脳裏に蘇ってきた。
ゆっくりと横へ動いていった利次の視線が、
吉岡の瞳の上でピタリと止まった。
微かな切なさの色を浮かべた誠直な瞳が、
迷うことなく利次の目を見つめ返している。
僅かに開いた利次の唇から、
ぽろりとタバコが落ちた。
そんなばかな・・・
遠くどこかで、車のクラクションが鳴っていた。
吉岡の目を捉えていた視線が霞んで宙に浮き、
金属音に似た耳鳴りが、利次の頭の中で鳴り響いていた。
「宮田さん、」
ふわっと体全体が包み込まれていくような声音に、
利次はふっと我に返った。
「お腹空きませんか?」
「・・・なんだって?」
利次は唖然とした顔を吉岡に向けて聞き返した。
「近くに洋一さんが働いてらっしゃったお蕎麦屋さんがあるんです。
よろしかったら、お昼を一緒にいかがですか?」
利次は探るように吉岡の目を凝視した。
澄みきったその瞳の中には、どんなに探ろうとしても、
狡猾な刑事魂など微塵も伝わってこない。
世間の垢に歪められていない、朝涼のようなすがすがしい気性が、
その瞳に、その言動に、自然と湧き出ていた。
断って家路につくこともできたはずなのに、
しかし利次は、肯定も否定もしないまま、その場にただ留まっていた。
そんな利次に、にっこりと吉岡は微笑んで頷くと、
路地を東に向かって歩き出した。
どうしてそうしなければならないのか頭ではまるで理解できないまま、
しかし利次の足は、自然と吉岡の横を一歩踏み出していた。
近くに、と言ったにも関わらず、
吉岡の案内する店へはなかなか辿り着かなかった。
無口ではないが、決して饒舌でもない吉岡の隣に並んで、
利次はかれこれもう30分近くも歩かされている。
普段は何処へ行くにもお付きの車で移動していた利次にとって、
何十年振りかに距離を歩く足は疲労に痛んだが、
しかし、“出身校は?” “刑事としての履歴は?”
と退屈まぎれに投げかける利次の気まぐれな質問に、
おおらかに、のびのびとして、時々爽やかに笑いながら、
一つ一つ心を込めて答えを返す吉岡の横を歩いていること自体に
苦痛を感じることはなく、却って不思議と心地がよかった。
都内の男子校を出てから東工大へと進み、卒業後に大きく進路を変えて
警察学校へと進んだ時には、さすがに周りを驚かせてしまったと、
朗らかに笑う吉岡のくすみのない声を聞きながら、
きっとこの男は、温かい家庭の中ですくすくと育ったんだろうな・・・
と利次はぼんやりと考えていた。
温かい家庭・・・・
と、頭の中で想像してみても、それが実際どんなものであるのか、
利次には結局、言葉の範疇でしかその意味を捉えることが出来ない。
結婚後も仕事の付き合いが嵩み、殆ど家にいることのなかった利次にとって、
結婚していてもしていなくても、その生活に大して変化はなかった。
そんな利次の頭の中に、「家庭」という言葉に連鎖して浮かんでくる光景は、
大きな大理石のテーブルの前にポツンと腰掛けて、
一人で夕食をとっている少年の頃の自分の姿だった。
利次は、いつもひとりきりで夕飯を食べていた。
専属の家政婦だった朝子と席を共にすれば、必ずその息子の洋一もそこに並ぶ。
洋一だけに偏った愛情を向けることは決してなかった朝子だったが、
しかし血の繋がった母と子が、すぐ目の前に座っているという状況が、
利次はどうしても嫌でしかたなかった。母親と一緒にいる洋一のことが、
むしょうに憎らしくて仕方がなかった。
「あっちにいけ」
そう言われてつげなく追い払われる朝子の姿が
ドアの向こうに消えて見えなくなるまで、
利次の幼い目はいつもじっとその背中を睨み見ていた。
「君の母親は、健在なのか?」
思いがけず口から出てきた言葉に、利次は自分で驚いた。
「・・・・そうですね・・・」
と応えた吉岡の言葉はそこで少し止まり、それから、
「元気でいてくれていると思っています」
と変わらぬ穏やかな声で返答した。
意外な返事に驚きながら見た吉岡の横顔は、
降り注ぐ午後の光に、やわらかく包まれている。
利次は視線を前方に戻し、暫く黙って歩いた。
風邪でもひいているのか、時々、
むせ上がるものを胸に押し込めるように、
吉岡は隣で静かに咳き込む。
二人の歩く町並みは、いつのまにか、住宅街から
駅前の小さな商店街へと変わっていき、
やがて古いアーケードをくぐった先の、
「田毎庵」と書かれた看板の店の前で吉岡は止まった。
その場で外したハーフコートを片手に持ちながら引き戸を開けて、
こんにちは、と明るく吉岡が声を掛けた店内は薄暗く、
昼時だというのに、客は一人しかいなかった。
「ああ吉岡さん、どうもいらっしゃい」
客だと思った小柄の老人が、ひょいっとテーブルから顔を上げ、
嬉しそうな笑みを満面に浮かべながら立ち上がった。
「また来てくれてありがとうね。今ちょうど、
うちのもんが洋ちゃんの見舞いに出ちゃったところで・・・」
といいながら近づいてきたその老人の笑みが、
吉岡の横に立つ利次の顔を捉えた途端、
おや、と意外そうな表情に変化した。
「さ、どうぞどうぞ、お好きなところに座ってください」
一瞬浮かんだ表情を払拭するように、
店の主人らしきその老人は明るく二人を促すと、
足早に奥の調理場へと入って行った。
決して広いとはいえない店の中は、使い古されたテーブルが四セット
壁に沿って置いてあるだけの簡素な作りになっている。
洋一が養護学校を卒業する前に就職が決まってよかったと、
そう喜んでいた朝子の笑顔が、遠い記憶の中から
ふと利次の頭に浮かんできた。
こんなところで洋一は働いていたのか・・・
店内を見回す利次の視線が、店に入ってきたときに
老店長が座っていたテーブルの上で止まった。
そこには、硯と筆、そして“休業のお知らせ”と書かれた、
書きかけの半紙が置いてあった。
「座りましょうか?」
耳に入ってきた吉岡の声に、利次は無言で手前にあった椅子を引いて、
ロングコート姿のまま腰をかけた。吉岡はその合い向かいの席に座る。
店長が持ってきたお冷のグラスが、テーブルの上に二つ置かれた。
「申し訳ないんですが、訳あって今蕎麦が切れてまして、
丼ものしかつくれないんですけど」
そう詫びながら、店長は一枚書きのメニューを利次に差し出した。
空腹はまるで感じていなかったが、仕方なく利次は親子丼を注文した。
吉岡もそれに合わせるように同じものを頼む。
暫くして運ばれてきた親子丼は、一口食べてみると
途端に食欲が増す美味さで、利次はあっという間に丼を平らげてしまった。
「やっぱり店を暫く休むことにしてね・・」
番茶を運んできた店長は、吉岡に顔を向けながら言った。
「そうですか・・・」
吉岡は、運ばれてきた湯のみ茶碗をそっと大事そうに両手で包み込んだ。
「うちは洋ちゃんの打つ蕎麦が売りだったからね、
それがなくなっちまったらもうね・・・。
いまだに足を運んでくれる常連さんの情けにまで、
金を払ってもらうわけにはいかないから・・・。
この歳でまた蕎麦を打つ気力もないしね」
寂しそうに話す店長の顔を、
吉岡はそっと見守るように見つめている。
「洋ちゃんの打つ蕎麦の為にも、半端なことはしちゃいけないからね。
この店は洋ちゃんに手渡すつもりだから、
早く元気になって帰ってきてもらわないと・・・」
そう言って店長は、掌でつるんと顔を撫でると、
「そうそう、これ、頼まれていたものだけど」
といって吉岡に茶色の封筒を手渡した。
「ありがとうございます。大切に預からせていただきます」
頭を下げて茶封筒を受け取る吉岡に、店長は軽く手を振って、
「洋ちゃん本人が吉岡さんにと頼んだことなんだから」
と言ってうん、と大きく吉岡に頷いて、
空になった二つの丼を手にとって盆に乗せた。
「それとお客さん、」
いきなり呼びかけられて利次は目を上げると、
年輪の刻まれた深みのある店長の眼差しが、
じっと利次の顔を見つめていた。
「この店がまた開いたら、いつか洋ちゃんの蕎麦を
食べにきてくださいね」
そう言葉に針を刺すように言った老店長は、
「真心こもった天下一品の蕎麦なんだ」
と言葉を残して厨房へと戻っていった。
つづく