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月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

お元気ですか、純くん。

2007年10月02日 | 杉田監督作品




㋔ふくろさんよ、
㋐たしはどうやら、
㋛ばらくぶりに、
㋜キスキ純君。



と、「時代」の純君を見て、
心のオアシス運動に入ってしまった私でありやすが、
気付けば暦は早くも10月、秋深し。

10月といえば、満男くんはちょっとスキップ、
純君でございます。



純君という人は、なんというか、とても、
苦しい、
であります。


いや、純君だって、
なにも年中無休で苦しんでいるわけではなく、
ちゃんと笑ったりデヘヘとなったりムムムとなったりルルル~と
なったりしているわけですが、
しかし黒板純君という人を、その全体像で捉えるときは、
やはり、どうしても、
キラキラと輝く水面を水中深くから見上げている、
みたいな窒息感を、彼からは感じてしまうわけであり。


満男くんだって、時には苦しくなるでありますばい。

しかし、満男くんの場合は、
ハーフマラソンを走っているみたいな苦しさというか、
彼が走る沿道には、スポーツドリンクを手渡してくれたり、
旗をふって声援を送ってくれる人たちが、
沢山いたりしての苦しさであるというか、
なんせ彼にはきちんと行き着く先のゴールが、
その向こう側にはあるわけで。


しかし純君は、
その向こう側が非常に見えにくいわけであり。


なにもそこまで・・・・純君よぉおおおお・・・・・・・うぅ。

と、パトラッシュとネロと源義経とナポレオンと池田屋騒動と
ついでにツタンカーメンを混ぜ合わせたようなどすこいブル~スが、
彼の背後には流れているような気がしてしまうわけであり・・・。

これは、「切ないよ~っ、おっかさ~ん!」
という感情とはちょっと違って、
もっとこう、とことん、一直線に、どうしようもない重力で、
苦しいぜよ、
という感じなのでありますだ。

なので、純君を見るのには、「見ごろ純ごろバイオリズム」、
というのが私にはあるわけで、もし間違ったタイミングで彼を見てしまうと、
あちしはもう梅干の種を飲み込んでしまった五郎さんの顔のようになって、
心はズバ~~~~~~~ンと地中深くに沈み込んでマグマを通り越して
ブラジル経由のモロッコ行きトロッコに乗ってインドの山奥へと
出家したくなってしまう梅干五郎、という不可解きわまりない
脳漿循環作用が起きてくるので注意が必要なのでありまするだ。


しかし拝啓 恵子ちゃん、
苦しくったって、悲しくったって、
電柱の影から会いたくなるのが純君なのでありまっしょい。

純くん度ボルテージでいいますと、
「初恋」の時の彼が断然絶対なんてったって大好きなのでありますが、
DVD回転数ボルテージでいいますと、
「時代」の時の純君が、
会いたくなる頻度アタックナンバーワン。


「時代」の時の純君は、
ぶっちぎりで苦しくったって、
ぶっちぎりでかっちょええ、おぉっ、わんだほー!


至極私事テイストなのでありますが、
この頃の吉岡くんは、
っんもぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
どっぷりたっぷりベリーでマッチでやっほ~やっほ~こだまは返るよ、
イカスぜヒデタカ、かっちょええったらチーズッたらで、君に完敗!

でありますので、毎度お騒がせしております。


誤解を招いてしまうかもしれないので書いておきまするが、
今の吉岡君だって、ぶっちぎりでかっちょええっす、
まいるぜ、ヒデタカ、ケンケン出てきてハッシッシッシッシ~!


しかし、「時代」の頃の前後数年間の吉岡くんと、
それ以降の吉岡くんのかっちょよさというのは、
なんかちびっと趣が違うようだぞなもし、
と、思われるわけでありまするのだ、明智君。

なんといったらええのか、こう、
そのかっちょよさの出方が違う、みたいな感じがするのですばい。

「時代」の頃の吉岡くんは、なんというか、
すごく直線的なかっちょよさというか、そりは例えて言うと、
かっちょよさナイアガラの滝級、ゴワーーーーっと出てます、
イカスぜヒデタカ、まいったね、キュン!

といった感じであり、

それ以降の吉岡くんは、もっとこう、
放射線状的なかっこよさ、みたいな感じであるというか、
かっこよさ名湯いで湯温泉級、じわ~~~~~っと湧き上がってます、
唸るぜ吉岡、たまらんね、うふ♡


みたいな違いというか、
追加びゅ~てぃ~とでもいいますかなんというのか、
うまく表現できないので悲しいでごわすおいどんは、え~~~~んっ。


とにかく、

出来ることなら一緒に逃避行したいっ、ヒデタカ~ん!


とついつい叫んでしまうのが、この頃の吉岡ブラボ~くん、
またの名を、鷲摑みのヒデ。必殺でござる。


Made in Yoshioka の人たちには、それぞれ決まって、
「ザ・ズバリそうでしょう!」
というシーンが、一つや二つや156個くらいはある私でごぜいますが、
「時代」においてのそれは、
悲しくて苦しくて呼吸困難になってしまうのでありますが、
ゆっこおばさんのお店で草太兄ちゃんの事故の知らせを
受話器越しに聞く純君が、
やはりズバリそうでしょうでありましょうなのでそうなのでしょう。


こういった場面で感情を押し出してくる時の吉岡くんは、
とても、とても、底がない感じがするであります。

グラっと揺れる心情を映し出すその瞳が、
ググっと瞬時にして深く沈んでいくようであり、
それはもう、薄~いガラス板にビリビリと
細かに微かに振動している感情周波が、
その瞳の奥底に宿る底のない沼に、
深く、仄暗く、沈殿していくようで、苦しかです。
苦しくて、心にキリキリ痛いであります。

しかしその痛さが、純君のその時の「気持ち」なのであって、
そこにあるのは、それ以外のなにものでもないわけで。

深く、深く、その内面へと沈んでいく純君の気持ちが、
しかし観ている方には、大きな波のうねりのようになって
ぐぐ~っと心に押し寄せてくるわけであり。

見せる感情ではなく、感じ取らせる感情でありますけん、
お手上げでござるのだ、吉岡殿。


そしてそういった吉岡君の繊細な感情の機微を
絶対に逃さず掴んで引き出す杉田監督の手腕も、
やはり文句なしに素晴らしいと思われ。

杉田伴奏ヒデタカ節じゃ、こぶしがきくぜっ、はるみちゃん。
さすがの杉田監督、スッポンのようじゃよ~。

やはりこのコンビは、「凄い」のかもしれんとですばい。



北の国からというドラマの好き嫌いは、
確かに個人個人にあるけれども、
しかしこの作品が、テレビドラマ史上において、
人々の記憶に永く残り続けている作品群であるということには
間違いないわけで。

そりはやはり「偉業」と呼ぶに等しいことなのではないのかしらん、
と私なんぞは思うわけであり。

そしてその「偉業」を作り上げてきたうちの一人である吉岡くん。
とれびあ~ん。

けれども吉岡くん本人からは、そんな気配はまったくなしの、
「ただの兄ちゃんやで」、
みたいな雰囲気が、いつまでもどこまでも
彼からは漂ってくるわけで。

そしてそれが吉岡くんなのであって、ヒデタカくんなのでありまっしょい。

偉業というものは、作ろうとして作るものでなく、
気付いたら後からついてくるものだということを、
吉岡くんの姿を見ていると、そう強く心に感じるわけであり。

福沢諭吉さんだって、なにもMr一万円札になろうとして
学問のススメを書いたわけじゃなかとですね、おぉ、吉岡くんよ、
やはりあなたは只者ではないのじゃ、惚れるでよ、んふ♡。


吉岡くんは、実はとっても凄い人なのに、
その凄さを全く人に感じさせたりなんかしない、
まっさらさらな凄さをもっている人なのでありますですね、
こりをかっこええと呼ばずに何がかっちょええのというのだっ。

ほんまにかっちょええでぇ、ヒデタカくんよ、
最高だぁ・・・。
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光あるうちに、行け

2007年08月29日 | 杉田監督作品



時折、むしょ~~~~~~に、
ケンタッキーフライドチキンが食べたくなる私でごぜいます。

こりはもう、ニューヨークでも、シカゴでも、テキサスでも、
モンゴルでも、国後島でもダメなのであって、
ケンタッキーでなければならんのだっ!
という絶対的発作のようなものであり、いくら誰かが、
フルコースのおフランス料理に誘ってくれたとしても、
「いや、遥かなるケンタッキーの呼び声なのだ・・・さらばじゃっ!」
と踵を返してケンタッキーへとダービー馬の如くにゴー!
となる私であります。
魔性の魅力じゃよ、ミスター・カーネル・サンダースくん。

しかしこれ以上の魔性の魅力発作を私に引き起こさせるのが、
東洋のミスター・ナイーブくん、またの名を神秘のはだけ大王、

ザ・稲葉一矢。

この人は、もう、周期的に、それこそいきなり突然
「かぁずやぁ~~~~~~~!」
と私に発作的に雄叫びをあげさせながらテレビの画面に吸着させ、
キューーーーーーーーっときゅいきゅいさせながらシャツの裾を噛ませ、
キャイ~~~~~~ンっと勢い余って後ろにでんぐり返しをさせ、
どわっしゅじょわっしゅすくわっしゅで一矢く~~~~~~んっ!
と再び叫ばしたまま清水の舞台からウルトラ星に「ジャゥワッ!」
と飛ばせていってしまう程のアクロバット魅力をお持ちの大魔性くんであります。

そういえば、西の発作大王・サンダース氏と東の発作王者・一矢くんは、
どちらもとことんホワイティ~。
やはり白いものには巻かれろ、と中国四千年の歴史が語っているだけのことは
ある・・・・。(←そんなことはラーメンマンも言っていないらしい・・・)

とにかくこの稲葉一矢くんは、
必殺発作仕掛け人でありますだ、八丁堀の旦那。

以前にも書きましたが、なんてたって一矢くん、
一つ一つの描写が、一つ一つそりゃ~ご丁寧にマニュアルどおりに
ツボりまくってくるであります。

天才ギターリストであり、
繊細ナイーブ九州男児くんであり、
全身漂白ホワイティーであり、
シャツの着方を知らない。

これ以上のツボポイントはないぜよぉ、い・な・ば・か・ず・や~。

そんでもってこの一矢くんは、
とても、
限りなく、
ひたすらに、
薄い。

彼を取り巻く空気が、とても希薄な感じがするであります。

吉岡くんが、演じる役柄によって織り分けて出してくる
人物の温度感、空気感というのは、
文句なしに素晴らしいと思われ。

彼の演じた人物達を、その全体像で浮かび上がらせる時、
そこにはしっかりとした人物の核としての温度感、空気感が
宿っているでありまする。

一矢くんは、なんていうか・・・・・
彼の周りの空気だけが、スっと森閑としている、
という温度感というか、
静まり返っている冬の夜空をふっと見上げると、
そこにひっそりと月が浮かんでいた、といったような
空気感でありますだ。

そして「そこ」に、
揺るがない存在感があるのであります。

台詞があってもなくっても、
画面の真ん中にいても隅っこにいても、
泣いても笑っても怒ってもギターを弾いてもはだけても、
その温度感、空気感は変わらないであります。

薄いまま、希薄なまま、一矢のまま、
どんな時でもその存在感をしっかりと、
絶対的な一定の空気感、温度感で醸し出しているでありますだ。

ヒデタカ節じゃ、さすがだぜぃ~、ふふふ~。


さて、九州から東京に出てきたシューレス・フォーのみなさん。
隅田川のほとりの下宿先で、バンドの練習をしておりますですね。

ムフ。
一矢くんよ、

フフ。
一矢くんったら、

ウフ~ン。
ここなのだ。


君がギターを弾く姿は、まるでツボツボ星人ユニバース代表で
あります。

こんなにツボってくるギターの弾き方をする人は、
あちしはJJ72のマークとチミ以外には見たことないズラよ。
加山雄三だってエレキを投げ出しお手上げだよ、かっちょええよ~、
ヒデタカくんったら一矢くん!

そしてその一矢のギターにのせ歌を唄っているシュウちゃんったらとぉっても、

うるせぇぞぉ!

キュイイイイイ~~~~ンって一矢がギター弾いとるでしょがぁっ!
うちのギターになんばしょっとかぁっ!
ちゃんと一矢のギターを聴かしちくりよーっ、んもうっ、
だまっとらんかいっ、シュウちゃんよぉ!

いや、しかしいいのだ、許すぞ、シュウちゃん。

なぜなら貴兄は、
「一矢慰めっちゃって抱きしめっちゃってどはぁっ!」の略して
「一矢っちゃってぁっ!」の名手だからじゃ、フフ・・・・・・・・
も一つフフフ。


「天下天下ぁっ!」と上杉謙信のように叫んでいるシュウちゃんに、
ふわらり~、と空気が抜けてしまう一矢くん・・・・きゅい~ん。

しかしその後すぐに、「お前は最高~」ってシュウちゃんに、
「一矢っちゃってぁっ!」されている一矢くんは・・・・・・・
ジョーワァッーシュ!!!


必殺発作仕掛け人、その8908764番目技でありますだ。


吉岡く~ん、チミって人は、瞬時にして、
糸の切れたマリオネット・ホワイティーになってしまうのですねぃ。

やられちまうでねぃですかぁ、あっしとしちゃぁ~、えぇ、旦那ぁ。

シュウちゃんに後ろから肩を抱えられながら、
体をまっすぐに起こされる時なんて、
そりゃ~~~~~~~~もう、
くにゃりん、として、くにゃりんこ。

白しろ星から来たくにゃりん星人みたいなのだ~。
しかも年季のはいったナイーブ満載完全装備でマキシマム。

ここから、「ただいまーっ」と元気に帰ってきたバンドメンバーに目線を
さや、と移すまでのチミの表情は、ザ・特選・繊細王者決定打だよ~。

なんていうか、もうもうもうもうもうっ、すっごぉ~~~~~~く
薄~~~~~~~いガラス細工に微か~~~~~~~~~~に、
ピキリ、と目に見えない割れ目が入ってしまうような感じの感情表情。

内面感情が、抑えきれなくて、その表情に、ゆらっ、と
「出てきてしまう」、みたいな感じですば~~~~~~~いっ。
そんなチミに私のハートは撃ち抜かれっぱなしなのだよ~。
撃ち抜き名手じゃヒデタカ殿。
たまらんじぇよぉ~、ヒデちゃんったら名マタギ。


この作品、「なんだろ~こりはっ?」という、
思わず目が点となってしまうシーンが多いのは、否めないであります。

出来ることだったら、ノベライズにある一矢教会場面とか、
屋上子供ショーで一矢着ぐるみとか、枕のそば殻食べちゃう一矢くん、
などの場面を、こことぉ~、こことぉ~、ここらへんにぃ~、
代わりにいれてほしかったでごわす、杉田監督・・・。
映像で見たかったぁ・・・・・・そういう一矢くん・・・・うぅ。
と、無いものねだりの子守唄を唄ってしまう私でありますだ。

けれどこの作品、「なんだろ~このおいしさはっ!」と、
思わず目が ♡ ♡ とスーパーロボコンになってしまうシーンも
てんこ盛りでございますので、ありがとう。

シュウちゃんがぶち壊したスナック(なのだろうか?)の
弁償代として、ミスミスター・ダグラスさんのもとへと、
待ち受ける危険も知らずにテケテケ足を運んでしまう一矢くん。

このシーン、とっても可哀想な一矢くんなのだけれど、
しかしあっぱれ上手いぞっ、ツボツボ大王・ヒデタカくんっ!

部屋のドアをトントンとカジュアルにノックして、
口の端に貼った絆創膏を剥がしながらもごもご話している一矢くんが、
開いたドアに目を移して、どわっ? と驚いて身を引く
一連の様子は、さすがのナチュルルリアクション王であります。

リハーサルもなしに、台本の内容も知らずに、
一発カメラワークで演じたのではないのか、ヒデちゃんよ、
と思わせるほどに、動きと表情に無駄がないであります。

んだども、しっかりとうす~い笑いのオブラートを
全体に纏っているヒデタカくん。

ダグラスさんを見つめる瞳は、心底怯えるいたいけな青年であるのに、
見ているほうは何故かクスっとなってしまうのは、
さすがの二分割法エキスパートのなせる技じゃ、吉岡く~ん、
もう最高じゃよ~。

このシーンを重く響かせてこないから、だから次の場面での
朝もやシーンが、とっても切ない意味をもって、しっかと
映画の流れに反映されてくるのでありますね、さすがでございますだ、
杉田成道。

この「一矢朝帰り」のシーンでありますが、
こりは、私にとってズバリ、
「ザ・一矢」
でございます。

このシーンが見れるだけで、私はあと42年と8ヶ月分くらいは
幸せでいられると思う。


天然侍くん房乃助殿のときにも思ったけれど、
吉岡くんは、朝霧が良く似合いなさる。

朝霧の薄さと、こういった場面で彼が醸し出す薄い空気感が、
スっと静かに綺麗に調和されている感じがするであります。

りこに朝帰りの姿を見つけられてしまった一矢くんが、
ゆらり、と揺れる自分を支え立ちながら彼女を見つめるその姿は、
世界遺産認定級の素晴らしさであると思われ。

とにかく、切ないっていうのはこういうことなんだな、
と、こちらまでとことん切なくなってしまうお姿でありますだ。
中也の詩のようじゃよ、吉岡くん。

こんなナイーブ攻撃してくる子は、君しかいないぞっ。
踵の返し方走り方止まり方坐り方ポケットに手を入れる仕草などな~ど、
すべてたまらんくらいなナイーブくんでねぃですか、
ついでにたまらん細さのスラリ~くんじゃっ、一矢くんよ、
背中に背負って逃走したいっ!

この一連の一矢朝帰り場面での吉岡くんは、

少年と青年のぎりぎり境界線にいるような、
危うい脆さの繊細さ。

彼独特の秒速に詰めたぎりぎり感、切なさ感が、
痛いのであります、心に、とっても。

そんでもって、美しい。

今にも壊れて崩れ落ちてしまいそうな、
キリキリと食い込んでくるような透き通った美が、
そこにはあるであります。

彼がその心底から搾り出してくるようなぎりぎりの苦しさが、
感情の膜となって彼全体を包みこみながら、
その姿を悲しいほどに苦しいほどに美しく昇華させている。

って感じでありますのよぉ~、どうしてくれるのじゃこの気持ち、
ヒデタカくんよぉ~、切なすぎるでよぉ~、んもうっ、

@#$%&*;ヒデ{_+@#{&:タカ%~~~~~!!!!!
という感じでありますだぁ~、もうだみだぁ~・・・・。

と、発作を起こし続けて思いは巡るよ走馬灯の如しかけめぐる青春。


良いものとは、時を経ても決して変わらないものでありまする。



吉岡くん、ずっと君は私の光じゃよ~。

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拝啓、ちびっ子純くん

2007年07月16日 | 杉田監督作品



子供は意外に、というかとてもリアルな人たちであります。

多分、世間体という埃・塵・泥・垢に塗れていない分、
物事を純粋ろ過して見れる人たちなのだと思われ。

子供の頃の私なんて、物事をろ過しすぎて、
例えば、その昔、都のはるみちゃんが、
「ど演歌」というゼッケンをその背に背負って、
斜め45度首曲げ角度で空中を見据えながら、
北の宿で着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでいた
女の人の歌を歌っていたのに対して、
「どうしてこの女の人は、毛糸及びに宿代そして労力までを無駄遣いに
しているのだろうか? ようするにこの女の人は暇なのだ。」
などと柿の種なとをボリボリ食べながら、
やけに斜に構えて紅白歌合戦を見ていたりしていたのですが、
そんな時は、横からすかさず
「そんなこと言ったら夢も涙もコブシもNHK受信料も全て水の泡でんがな。」
と父ツッコミ開始という、まったくもってのどっちゃらけ問答を
北関東の片隅で日ごと繰り返していた我が家でありました。
やれやれすったもんだの家族であります。

しかしすったもんだの家族というのは、なにも
北関東の片隅にだけ存在していたのではなく、北は北でも
でっかいど~ほっかいど~にもその形を変え色を変え
しっかと存在していたわけでありまする。

それが、

ザ・黒板家。


すったもんだ家族殿堂入り一家でありますだ。


柴又あたりでもすったもんだしていた家族がありましたが、
こちらのすったもんだは台風系でありまして、
すったもんだも喉元過ぎれば台風一過の秋晴れ、となっていた
「あっぱれリセット常備一家」でありますばい。


しかし麓郷在住の黒板家は、
も~う、
地団駄踏んじゃうくらいに、
どぉ~~~~にもこうにも、
「どすこい」
であります。

なんていうか、男衆が・・・・
出口がない。

そしてやけに蛍ちゃんが、
演歌フィルター・キャンディキャンディ。
または、演歌フィルター2・花の子ルンルン。
すなわち、
とっても、
「辛抱してます私は涙目」、
みたいないい子ちゃんであります。

ゴローさんと純君、そして
令子さんと蛍ちゃんの関係は、
同性同士という性相が色濃く出ている親子関係
なのだと思われ。

ゴローさんは、息子というより男として
純くんのことを見てしまっている面が多いから、
時には、というか、かなり頻繁に、
キーーーーーーーーーっと、
らっきょうの皮を剥いているおサルさんのようになってしまって、
「くぬぅ~こやつ情けねぇべさっ!」とついつい
「純君、火はうまく点けられるようになったんですかっ?」
と自感情バリバリモードで息子をさっぶい外に一人残したまま、
自分は蛍ちゃんとルルちゃん呼び出しルルルルル~、
となってしまっていたのかもしれない。

父としてのゴローさんは、息子の純君に厳しい。
しかし男としてのゴローさんは、男としての純君の存在に
どこかで確かに甘えてしまっているのだと思われ。

純君もゴローさんも可哀想ですばい。

子供は親の選択に従わなければ生きていけないし、
親は、子供が自分の人生とは別の人生を持っているとは
わかっているのに、しかし生きていく上で、やはり時には
子供の人生の上に自分の人生を押し付けざるをえない時もある、
という、その両サイドジレンマみたいなものが、
この黒板家の間には、強くリアルに描かれ出されていると思いますだ。



しかし拝啓、恵子ちゃん。
吉岡くんは、あまりにも、つっぱり押し出し寄りきり圧勝白星
横綱級のリアルすぎるほどリアルなちびっこ役者だったわけであり。

あんなにリアルに「子供のままの子供」として
その役を生み出していた子役はそう他にはいないと思われ。

上手い、と感心させるのではなく、
「そこにいる」という、生々しいほどの生息感を
視聴者に感じとらせてしまえる子役というのは、
私はちびっ子吉岡くんしか知らないわけであり、
彼は、一本調子の上手いと賞賛される演技で突き通す、
というのではなく、様々な、そりゃ~様々な、
純粋ろ過された「子供の」リアル感情でもって、
視聴者を時に笑わせ時に怒らせ時に同情させ常に涙させながら
グイグイ先へ先へと牽引していった、いわば
ちびっ子達人マッシャーみたいな「名役者」さん、
だったのだと思うわけで。

人工的な演技ではなく、あくまでも
天然一色な存在、とそう視聴者に信じ込ませてしまう
神業ちびっ子パワーを持っていた神童ですね、そうでございますわね~、
と、書かずにはいられないわけであり。

しかしここから始まる彼自身の葛藤を思う時、
やはりこちらも苦しくなって、酸欠状態になってしまうわけであり。

けれどもそれは、吉岡くん意外の他には、誰にも分かりえない
苦しみだったのは間違いないわけで。

だけれど、その苦しみがあってこそ、
今の吉岡くんがいるのだと思うと、
この想いはいっそう深くふか~く
心の底に潜っていってしまうわけで。

しかし拝啓、吉岡くん。
悩み悩んで苦しんで、そしてゆっくりと
等身大のまま成長していった、
そして今も成長し続けている、
そんな君がやはり大好きなわけで。


空より高く 想いは続くよ ヒデタカくん


と思わずポエムな気分となるわけで・・・。
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初恋・純・1987

2007年07月09日 | 杉田監督作品


じゆぅ~っていったいなんだぁ~~い
どぉ~~~~すりゃじゆ~うになるかぁ~い?♪

と、一種のトランス状態で歌い踊っていた
黒板純君15歳、しかも体育着姿で・・・
ナ~イスッ。

体育着は青春の代名詞じゃのぉ、純く~ん。

いやはやなにはともあれこの作品での純君が
北の国からお届けされた物語の中では、
いっとぉ~、飛びぬけて、大好きであります。

この作品はいろんな意味で強烈でありました。
なんてたって、衝撃初登場の大里さんちのレイちゃん。
純君じゃなくったってビックリだよ、あの輝き振りは。
まるで天然ラメ入り少女だったっす。

この作品を見終わった後、
レイちゃんの切り抜き写真を片手に
美容院へと足を運んで、
「これと同じ髪型にしてくださいっ!」(=レイちゃんにしてくださいっ!)
と若さの暴走チャレンジャーで美容師さんに
挑みかけた私でありましたが、出来上がってみたら
レイちゃんはどこにもいなくて、かわりに
「森昌子です」
となってしまったという、まぁ、あれですな、鼻毛の、
いや若気の至りでごぜいやした。

で、それがなんなの?
ということでありますが、なんでもねぃです、すみません。

「初恋」という作品を懐古する時
いつも脳裏に浮かんでくるのが、

ペンチくんったらレイちゃんと
あいらぁ~びゅ~♪ 
だっつーのに、
帰ってきた酔っ払いゴロ~だよ、
なさけないじゃないかぁとぉさん!
せっかくの風力発電なのに、
あっというまにメリークリスマスなんだね、
でも夜逃げだってよ、お兄ちゃ~んっ
三万円とっとけ泥がついてるゥルルルルル~、
まったく男はつらいぜ、満男くん大好きうきゃ♡

いや最後のうきゃ♡はどうでもよくてですね、
上記したこの作品に出てくる場面が、
当時の私には全てモーレツにきょーれつだったであります。

特に突然の雨に降られて、純君とレイちゃんが
納屋で雨宿りするシーンは、
「・・・・・・・・~!@#$%^&*+?!!!!」
文字記号完全使用のオドロキッ、
って感じでありました。

しかしレイちゃん、
いくらなんだって、
同い年の男の子の前で、
いきなりしみ~ず姿には、
ならないだろうと思われ。

いくらなんだって、
あんな短い襟足の髪を、
両手でむりやり絞ったりはしないだろう、
と思われ。

いくらなんだって、
オザキにたいして、
「私も狂ってるの!」って、
「狂ってる」って言葉は、
死語なのではないだろうか、
と思われ。

いくらなんだって、
どうみても、
はんぺんなみの白さなのではないだろうか、
純君、
うきゃきゃ♡
と思われ。

以上がこの場面初見当時の私の感想でありましただ。

この作品での純くんは、他の作品で見る純君とは、
ちび~っと純度脱線しているように感じるのは
外道なのでせうか?

なんか、やけに、純君にしてみると、まっすぐでありますだ。
いや、純君は基本的にはまっすぐな人なのだと思うけれども、
純君ってなんていうか、例えば満男くんみたいに、
曲がってもすぐに軌道修正できる形状記憶合金な人ではなく、
伸ばせばまっすぐになるのだけれど、しかし普段は
ウニョリ~ンとけっこう複雑にこねくり曲がっている針金くん
みたいな感じなのでありますだ。

けれどこの時の純君は、ほぼまっすぐっぽい。
キュイイ~~ンってなっちゃうくらい、純だよ~じゅ~んっ!

だから北の国から全体を振り返る形で、
この時の純君を見返してみると、
なんか切ないなぁペンチくん・・・泣いちゃうぞぉ、
となってしまうのでありまする。


人の人生には、生活という地盤の上で、
どうしても踏んでいかなければならない
道標の選択というターニングポイントが
その時々に目の前に立ちはばかってくるわけだけれど、
黒板純君という人は、なんていうか、
「ターニングポイント集めすぎて悩み期限有効切れ」
となってしまった、どすこい人生迷子くん、なのかなぁ~、
と私は思ったりするらしい。


小学生の時に、ほぼ同時期に見始めた
満男くんと純君だったけれども、
どうして満男くんだけにグググ~ンと惹かれて、
純君にはそれほど強くは惹かれなかったのか、と考えると、
純君という子は、自分にとっては、
いやになっちゃうくらいリアルな子供だった
からかもしれないですだ。

子役=やたらと結局純粋だよパトラッシュ、という
それまでの概念をふっとばしちゃって、
「なんだよこいつってばよぉ~」
と本気レベルでやきもきさせちゃうリアルさでもって
グサグサ人の弱みに切り込んでくる、いわば
「必殺汚れ子役」だったのだと思われ。

満男くんもとってもリアルな子だったけれど、
彼のリアルさは、もっとこう、
笑って食べて眠れば日はまた昇るリアル少年、
みたいな開放感があるわけで。

しかし純君のリアルさというのは、なんというか、
「ギュウ詰めであります」
という、圧縮布団みたいな息苦しさが
そこに感じられてしまうわけであり。

純君の弱み、卑屈さ、ずるさを目にすることによって、
そっくりそのまま自分の内面に潜むそういった要素が、
ムギュムギュギュ~ンと大詰めパックで大放出、
って曝け出されてしまっていたから、純君を見ると、
酸欠状態の金魚くんみたいになってしまっていたのだろうな、
と思われるわけでありますだ。

初恋の時の純君は、そういった酸欠感がない。
さらっとした初雪みたいな人だったっス。
そこに今まであったものを、全て広く白く覆いつくして
新しい世界を築いている感じでごわした。

なのでぇぃ~、よけいぃ~、切ないでありますだぁ、うぅ。

もうみっともないくらい、ぶぉわぁ~~~~っと
涙鼻水大放出になってしまうでありますよ~、
この時の純君を見返してみると・・・。


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Hello, Goodbyeノンポリくん

2007年06月17日 | 杉田監督作品


例えば、女性の世界が円で出来ていると仮定すると、
男性の世界は並行する二重線が先へ先へと続いている世界なのかしらん?

などと、ビクターの犬の如く首をちょびんと傾けながら考えていたりする
今日この頃の私であります。

思うに、女性の世界を形作る円は、愛情=母性愛で出来ており、
その母性愛で創られた基盤○の中に、例えば家族とか、仕事とか、
友達とかという人生要素が包括されているのではないのだろうか、
などと思ったりするわけで。

しかし男性の世界は、「自分でいる(いたい)」という独立線と、
人生においての諸々の「おいどんはやりもうす」という人生運行線との、
決して交えることのない二つの線が、列車のレールのように、
永遠と平行して並んで続いているような気がするとです。

その二つの平行線の対比率がどんなものであれ、男性はその二線間を
行ったり来たり、綱引きワッショイおしくらまんじゅうになってしまって、
時には山へ芝刈りに行ったままサミットへと登りつめて
「どないせばええんじゃいっ!」
と天に向かって叫びたくなる衝動に駆られてしまうのではないのだろうか?
な~どと、おなごの私は推測するわけでありまする。

この、男性の一方の世界を創っているだろうと思われる独立線というのは、
もしかしたらおなごには決して触れることの出来ない、いや、触れては
いけない世界なのかもしれんですばい、明智君、う~む・・・・・・、と、
ついついグランドキャニオンより深い谷を眉間に寄せて考えてしまうわけで。

そしてこの触れることの出来ない世界に、男同士の友情というものが
しっかとそこに根付いてるのではなかでしょうか、角さん助さん龍角散。

その彼らの作り出す友情の絆の強弱が、同時に彼らの独立線の強弱にも
大きく作用しているように思えるのであります。

結束された男同士の友情世界というものは、女性は「お客さん」として
理解することは可能なのかもしれないけれども、
しかしその深部に触れるということは無理な世界なのかもしれないですだ、おやっさん。

これは決して「男女間に友情は存在しないのでR」などという
排他的なことを言っているわけではないのでありまして、
私自身も男女間の友情は存在するとは思っているけれども、
しかしそれは男性の世界の中では、やはり独立線上にあるのではなく、
人生運行線に属しているものなのではないのかしらん、と思うわけでありまする。

「そんじゃ~あんさん、男にとっての愛はどこにあるんだよ、愛はよ」、
ということになりますが、ある男性によっては、その平行線のどちらかの線を
常駐やどり木としてそこにずっと止まっている人もいるだろうし、
また他の男性は、その二本の平行線間を反復横とび運動ごくろうさまっす、
としている人もいるんでないかい、とこれまたそう推測するわけでありまして。

愛とは摩訶不思議なものでありまするだ、んだんだ。

って、一体何をほざいておるのかおんどりゃ~っ!

っとお思いの方が多いと思われますが、
えっとですね、要するに、男同士の「真」の友情は、
「ダイアモンドより硬い」
ということを言いたいのでありますだ、拙者としては。
(↑だったら最初からそう書けばええやんか、オバカなあたしだよ・・・)


洟垂れ小娘の頃からですね、男の子たちのもつ友情世界は
ちびっと無頼でかっこええ・・、
と憧憬にも畏敬にも似た思いを抱いてきた私でありまして、なので
バンチョウ、リクソウ、ニシキ、そしてノンポリくん
彼ら四人のぼくたちの友情が、私には、とてもとてもとて~も
とりわけ美しく思えて仕方がないのでありまする。

彼ら四人は文字通り「結束」しているわけで。

互いの存在に深く触れることで、自らも豊穣させていける
友情関係を育んでいるのだと思われますばい。

そして彼らのその結束関係は、相手の隙間にムンギュギュ~と
入り込り込むというものではなくて、あくまでも互いに呼吸をさせる
空間を分け与えているものなのだと思うであります。

祭りの後に、バンチョウとリクソウが互いに殴りあってしまう場面が
あるけれども、それを止めようとして二人の間に割り入ろうとするのは
リクソウの恋人みどりちゃんだけ。

その場にいるノンポリくんは、最初は勢いで止めようとするけれども、
しかしすぐにその殴り合いを止めることをやめてしまう。

それは誰にも止められないし、
止めてはいけないっていうことが、
彼には痛いほど分かっていることだからなのだと。

入れないんだよ、みどりちゃん。

だって、それが彼らの世界なんだ。

この場面でノンポリくんが流す涙は、多分、四人分、
彼ら全員の涙であり、それは、四人の友情の中にいる
ノンポリくんだからこそ流せる涙なのだと思う。
ただひたすらに、ただただひたすらに
自分たちが悲しいから泣いてしまっているんだと・・・。

美しいっす、ほんまに・・・。

彼らの友情が何故こうも美しいのだろうか、と問えば、
それは彼らが彼らの友情を、少しも心の重荷に感じていないから
なのかもしれないですばい。

友情だから、様々なことは起こるでがんす。

しゃらくせぇ、とか、ええかげんにせぇよ、とか
そう思うことは、日常茶飯事として、気持ちに浮かんでくることでは
あるのだろうけれども、しかし彼らにとってのそういう感情は、
浮き立ち消え去るコーヒーの湯気みたいなものであり、
決して心に沈む錘にはならないようで。

この四人が寄り添って、一つのライターにともされた小さな火を、
それぞれの両手で守るように取り囲みながら各々のタバコに火を点けるという、
とても印象的なシーンが劇中何度か出てくるけど、
その火は、四人の共有する輝かしい時であり、
固く一つに結ばれた彼らの絆の象徴なのではないのだろうか、
とあちしはそう思っちまうわけでありますだ~、うぅ。


高校の卒業式の後、その火を取り囲む手は二人だけになってしまっても、
しかしそれでもまだ、彼ら二人は、去ってしまったもう二人の手も、
確かにその火の周りに感じられるわけで。

それはひときわ純粋で、そして崇高でさえもあるですだよ~。
泣かせるでごわすよぉ、龍馬どん、うわ~んっ。

このドラマのオープニング時、渋滞にはまった密室状態の車の中で、
取り出したタバコに火を点けられなかった38歳の西脇氏は、
しかしラストでまたライターに点いた火をその手で取り囲む。

それはかつて彼の親友の一人だった、今はともに38歳になった
ニシキと一緒の行為であり、そして彼ら二人はそこに、
20年前、彼らと凝縮された時を供にした、今は去ってしまった
もう二人の親友たちの手を再び感じ取れるわけで。

西脇氏の抱えるジレンマは消え去ることはないのかもしれない。
けれども、もしかしたら、1970年のあの「時」から再び眺め見た
窓の向こう側に、何か新しい景色を見出すことは出来るのかもしれない。


生きていくってぇ~ことは、言ってみりゃ~
秒速の流れに沿って過去という地図を拡大していくような
ものなのかもしれないですばい。

しかしその過去という地図は、人は生きていれば
誰もがいつかは何度か突き当たる困難によって、
その人生の中で迷子になったり、
行き止まりに突き当たっちゃったりする時に、
現在の自分の居場所をしっかりと教えてくれ、
そしてそこから進むべき未来への行き先を、
沢山の選択道をもって指し示してくれるものであるのだ、
と蝦夷地でその昔、伊能忠敬さんもそう思っていたに違いない。(←思ってねぇべさ)


失くしてしまったものが何であれ、
そこへ寄せた思いが大きければ大きい程、
そこから得ていく力も確かに力強いものであるのだと。

始めていこうと思った瞬間から、
また一歩前へと踏み出していける歩みというパワーは
人間の持つ美しく偉大な力の一つなのだと思うですばい。


過去とはそういうものなのかもしれないよね、シェリー。


「1970 ぼくたちの青春」という作品は、
友情というものは、どんな意味をその人生に与えてくれるのか、
ということも思い出させてくれる、名作中の名作です、ほんとに。

このすんばらしい作品に色を添えている吉岡くんにも、
感謝感激雨あられですだよ~。

ファンをしててえがったよ~って、心底思わせてくれるお仕事を
いつもしていてくれてありがうございますだ!

ごっつぅかっこええんじゃ~、仕事の仕方までが、君って人はぁ。
もうほんとに・・・ええ男じゃよ~。




長々と綴ってしまった「ぼくたちの青春」の感想に
お付き合いくださいまして、ほんとうにありがとうございました。

これでほんまにHello, Goodbyeノンポリくんでありまする。

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ギターと一矢

2007年06月08日 | 杉田監督作品


仕事に煮詰まってしまう時などに、ギターをサっと取り出し膝に乗せ、
「フッ、私のことはジミヘンと呼んでくれぃ」
などと大風呂敷をどば~んと広げる私でありますが、
しかし実際は弾き始めてものの10分もしない内に、
なかなか言うことを聞いてくれない自分の指に嫌気がさして、
広げた大風呂敷にギターを丸め込んで、あばよっとそのまま
シベリア大陸まで飛びたちたい衝動に駆られてしまうという、
全くもって投げやりなギターを持った渡り鳥となるのがオチであります。

ギターを弾きこなすのは大層難しい。

なんてたって
「こりゃ~いわゆるひとつの指ヨガですか?」
という難儀難解な指ポーズで抑えなければならんコードくん達が
打倒不可能の仮面ライダーみたいな手強さで目の前に
立ちはだかっているのでございますよ、ショッカーくん。

ネックを持つ手首は「もうあかん・・・・」と悲鳴をあげるし、
弦を押さえる指は「痛いといっとるだろ~がぁっ」と絶叫するわで、そんな私ときたら、
ジミヘンどころではなく、かしまし娘のおば様たちの足元にも及ばないという、
要するに才能がないんだナァ~。

この、煮詰り→にわかジミヘン→投げやり渡り鳥→ギターを放ったかしまし娘→煮詰りに戻る、
という環境にまったくやさしくないリサイクルを繰り返している時の私に
風穴を開けてくれるのが、稲葉一矢でございます。

一矢くんは、なんか、「主食は繊細です。」みたいな人で、
ちょびん、とつっついたらぐわらっしゃんっと壊れてしまいそうな
雰囲気を持つガラス細工のようなお人でありますな~。

作品中の一矢くんは、ごくごく僅かの
「なんだろうこれは・・・?」
という謎コーティングされたシーンを除けば、その殆どが、
「ごっつぁんですっ!」
なものなので、いちいち好きなシーンを上げてしまえば、
たとえそれを箇条書きにして綴ってたとしても、結局は
平安時代の絵巻物に負けないくらいの長さになってしまうだろうことは、
ノンポリくんについて未だに書き続けているという執拗な事実が
すでに証明しているわけであり。

しかし魅力満載の一矢くん、思いを寄せれば
やはり再び語りたくなっちゃうわけで。

私にとっての一矢くんって人は、

天才ギター野郎+内に秘めた情熱魂+儚さ背負ったナイーブくん+はだけプリンスホワイティ+男は無口に九州男児=惚れ条件搭載完了マキシマム

というツボツボユニバースなお人でありますだ。
しかもその名前まで「いかすぜカズヤときたもんだ」
と唸っちまうほどかっこええ。

稲葉 一矢  かっこええじゃんか~。

これが、
伊南馬 下図爺  だったらあんましかっこよくないかも。

稲葉であって一矢だから、かっこええのじゃの~。

かっこえくって、かわいくって、セクシ~、って
こう書くと、まるで不二子ちゃんみたいだな。

一矢くん、忘れがちになってしまうのだが、
君はただ、はだけているだけのお人ではないのであった。

天才ギターリストなんだよね~、君って実のところ。

あちしったら、君のそのサトウの切り餅みたいな白い胸元に
ついつい目がいってしまううっかり八兵衛なのだ、ごめんよぉ~。
ちゃんと君のギターテクにも目を向けることにするよ~。

ふむ、しかしテクを語れるほど私のギターレベルは高くないのでありました。



しかし一つだけはっきり言えることは、

「シビレルゼ~、ヒデタカ~」

と思わず大文字にて宣言ということで、毎度お騒がせいたしております。



君がギターを弾く姿は、いっひゃほっほぅひゃ~って
よくわかんない叫びを思わず上げたくなっちゃうくらい
かっこええわな~、たまらんぜよぉ。

最初に一矢が道場破りのようにしてシュウちゃんの歌に
エレキっちゃうシーンなんて、鳥肌感動もんずらよ~。
思わず、「ええぃ、だまっとらんかいっ、モックンよっ!」
と画面に向かって言いたくなっちゃうのだよ、すんません。
それくらいあのギターさばき(っていうのだろうか?)には、
こっちはあやうく感電ジャンプしちゃうかと思ったですよ~。

このシーンで吉岡くんが、左手の親指をネック上にのせて
弦を押さえながら、キュイイ~~~ンとエレキッてるのを見て、
「すっげ~~~~~」と鼻の下を伸ばしながらえっらい感嘆したとです。

あれが出来ないんっすよ~、なかなか。

親指くんを弦に乗せると、他の指が思うように他の弦に乗らないし、
他の指に意識を集中させると、親指くんが「ほなさいなら~」
とネックの裏に消えちゃうわで、自分の手の指が意思と関係なく
前後にオイッチニッと勝手に動いちゃって、
「まるで自動指コサックダンスじゃないですかっ、ほんぎゃぁ~~~~っ!」
とおたけびを上げてしまうという私は、才能ないんだよ~、わかってるよぉ~。

ほんまのヨガみたいにゆ~っくりやりゃぁできまっせ。
しかしそんなカタツムリみたいなリズムじゃ
例えインドの人たちにだって呆れられてしまうに違いない。

そしてコード弦を押さえることができたとしても、
だからといって綺麗な音が出せるわけではないわけで。

吉岡くんのようにかっこよくキュイイ~ンズンジャカジャンジャイ~~ン♪
と美しい音色を響かせて弾くなんてことは到底あちしには出来ないのでありますよ~、
かっこいいぞぉ、ヒデタカ~!

う~ん、ギター奏者への道は、茨の道じゃのぉ。

ほんますごいよ、あの演奏ってば~。
もしかしたら君のギターテクに、あのよっちゃんだって
「またせてソ~リ~」って言って君にピックを手渡しちゃうかもしれないよ。(←古すぎる・・・)

感動と感嘆のギター演奏でありますだ~。

やるね~、一矢くん、フフ。

彼は長~い繊細な指を持っているから、
ギターを弾く指先が余計美しく映えるのだね~ん、芸術品だわ~。

そしてあの吉岡くんの、なんともいえんオーマイガッドな
ミラクルスレンダーな全身と、そして緩いカーブをもって下がっていく
何気に広い肩幅が、シャカシャカシャ~ン♪と
ギターを弾きまくっている姿でもって、モ~レツアタロウってくらい
モ~レツぴったしカンカンでブレンド強調されてくるから、
そんなチミの姿にこっちは思わずシェーッて叫んでイスカンダルまで
飛んでっちゃうほどドキドキしちゃうのだ~。

はぁ~、疲れちゃったぁ。

このエレキお披露目シーンは、吉岡くんがエレキギターを弾いている手元が
きちんとよ~く丁寧にクローズアップされて画面に映っているから、
こちとら大満足ですばい♡

手先がすご~く器用なんだろうな、吉岡くんって。
いやそう思わせちゃう陰で、文字通りの血の滲むような努力を
していたんだろうけど、それにしてもすごい入魂の技じゃのぉ~。

すごいぞ、ヒデタカくんっ!
チミの努力と才能に感動ずら。
かっこよさにも感動だばっ!

尊敬しますだよ、ヒデタカくん。



しかし一矢くん、今はどこでどうしているのかな?


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残照の中のノンポリくん

2007年06月05日 | 杉田監督作品


吉岡くんという人は、絵画に例えると、
風景画のような人なのかもしれんとです。

彼には肖像画や静物画にみられるような
「これであるのだっ!」
という一発インパクトはないわけで。

そしてモダンアートにみられるような
「これは一体・・・・・なんなのだ?」
という不可解さもないわけであり。


そこには、
澄みきった青空があったり、
たまにはそこに雲が浮かんでいたり
海へと流れる小川があったり、
遠く高く聳える山々が見えたりという、
ゆったりとした世界の中に点在する
様々な眺望ポイントがあるわけで。

それはどこを基点に中心にして見ても
なんの違和感もなく絵画として成立してしまうものであり、
しかし遠くから眺めてみれば、
それは一つの美しい調和を持った全風景画として存在している、
という趣のある人、なのかもしれないですばい。

などとぼんわ~としながらぼんわわ~としたことを
思ったりしている私でありますが、
今日も元気にノンポリくんのメリーゴーランドでゴー!
でありまする。


ノンポリくんの心は、スポンジみたいであります。
周りの人の喜び、悲しみ、怒りを
その心にジョンワっと吸い込んでしまう人。

だから彼の心は、その誰かの気持ちのベクトルが
特に悲しみに向かっている時、それを吸い込んだ分だけ
ちびっと重くなってしまうのかもしれない。

しかしそれが「彼」であって、そのことに対して本人は、
別段心にひきずっていくような重荷として
その感情を受け止めているわけではないようで。

ノンポリくんは、周りの人から見ると、主体性が全くないような、
まるでレッツゴー三匹の背の高い人のような感じに見えるけれども、
しかし実はものすごく器の広い人であり、
そこにいなくてはならない人、として存在しているとですね。

彼は、人の気持ちから逃げない。
絶対に逃げない。
そこにいて一緒に気持ちを感じてくれる人であります。

どんな気持ちも、自分のスポンジに一緒に吸い込ませて
呼吸をしてくれる人なのだと思う。

特に何か心に残ることを言うわけじゃないし、
ましてや派手に行動に表す人ではないけれど、
けれども「そこにいてくれる」という確固たる安心感を
彼はその心に持っているわけであり。

だから一緒にいる方は、その自感情がどんなものであれ、
彼が内包する「いるよ」という存在感から自分の心に空気を入れてもらえ、
そして少しだけ呼吸しやすくしてもらえるのだと思われ。

そんな深く広い器を持つノンポリくんの優しい繊細さを、
細かい粒子のように全身からサラサラキラキラと霧散させて、
画面を通して伝達してくる吉岡くんは、
やはりなんといってもワンダホーで参りやしたなあっぱれくんなわけであり。

彼がふっとその顔に翳りを見せる表情なんて、惚れざるをえない
ナイーブ選手権ニッポン代表チャンピオン級でありますよ、ツボ売りくん。

ここでノンポリくんナイーブ解説であります。

解説 II
① みどりちゃんや、文学ちゃんとの会話の場面での彼は、
  「切なさと憂い」の塊。

② 本心はそうじゃないのに、友だちを思って同調してしまう彼は、
  「微かに揺れる惑い」の塊。

③ 親友たちの前で、素直に涙をぼろぼろと零す彼は、
  「悲しみとやるせなさ」の塊。

そうなのであります。
状況に雲がかかる時、彼は繊細感情の塊になっちゃうのでありますね。

頭のてっぺんから足のつま先まで、全身まるごと繊細くんの塊でごんす。

彼のこういった塊感情は、彼の心底から削り取られた原石心情が
そっくりそのまま純粋出土された結果の結晶なのだと思うぞいっ、おいどんは。
(↑得意の力説であります・・・)

そうじゃなくちゃ、あんなに人の心に切り込んでくる演技は
生まれてこないぜ、おやっさん。

もうなんていうか、彼はこういった塊感情を一秒一秒の流れの中に
ぎゅびっと凝縮熟成させて放ってくるから、見ているこちとら
受け止めるミットをしっかと構えてないと大変なのじゃよ、星くん。

だってそれは、
時には人の心を丸裸にしてしまうという凄みをも持っているからですばい。

特に③のようなシチュエーションの時の彼は、
真冬の荒波日本海ばりの切なさ全部背負った悲しみの使者になっちまうんだでよ、八代の亜紀ちゃん。

彼がこういった時に、自分の身を切り刻むようにして生み出してくるその凄み感情は、
火に舞う隕石のようにしてズトーンとまっさかさまに落ちてくる時もあれば、
地殻変動のようにググググーと地の底から揺り動かして来る時もあり、
はたまた、古井戸からゆっくりと水を汲みだすようにして昇って来る時もあるわけで。

しかしそれがどんな形をもって現れても、
それは容赦なく人の心の深さに食い込んでくるから、
それに触れる時、こっちは心がざわざわしてしまったりするわけであり。

もしかしたら、そのキリキリざわざわ感を直感したくない、
または直視することで自分の心に浮かんでくる落ち着かなさを
感覚としても受け入れたくない人たちが、
彼のことを反動でどば~んっとツッパリ寄り切り技で跳ね除ける、
または跳ね除けざるを得ない=すなわち嫌いでございます、
となるのではないだろうか、おかみさん。

ま、ただ単にいけすかねぇ、
ってことも多々あるだろうけど。
したっけそりゃ~しかたねぇべさぁ。

しかし彼の放散するそういった根源的な感情の塊が、
彼に対する好き嫌い関係なく、結局は深く長く人々の心に
残照として残っていく理由の一つになっているのではないのかと・・・。

だから、だから、いつまでたっても吉岡くんのことを
「純」と呼んでしまう人が多いのかもしれない。

純は純だろって枠から抜け出せないくせに、
彼のことをなんだかんだと枠組み評価している人達には、
ギャオワ~~~~~~~って火を噴くゴジラのように怒りプンプンッってなっちゃうけれど、
しかしちびっと目線を変えてみりゃ~、
そういうのも名優であるということの現れの一つなのかもしれんですなぁ、おいちゃん。

しかし吉岡くんの演技を批判するのなら、純フレームは外してくれよ、フェアーじゃないぜ。

あ、横道に逸れちった~。


吉岡くんは、
無様であったり、惨めであったり、情けなくもあったりする姿を、
いやというほどのありのままの感情で、何の装飾もなしにその姿に曝け出せてしまうという、
一種の強さみたいなものも確然として持っているような気がするですよ、
んも~ぅ、かっこええったらありゃしない。

彼のファンをしていてよかったな~って
思うときは多々あることだけれど、その中の一つに、
この彼自身が持っている彼自身の感情を、様々な波動でもって
自分もそれを永遠感覚のようなものとして勝手に感じてしまえるところにあるわけで。


ファンだからね~、こう勝手に思いを馳せてしまうのだよ、ヒデタカく~ん。

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ノンポリくんはつづくよどこまでも

2007年05月30日 | 杉田監督作品


ノンポリくん再びネコにマタタビであります。


前々回からしつっこく書き続けている
「1970ぼくたちの青春」でありまする。

すみませんです。
よろしかったらもう暫しの間、お付き合いくださいませ。


吉岡くんがかつて演じてきた歴代人物の中で
誰を一番好いとぉ~ですか?

と聞かれれば、即座に
「満男君であります!」
とシュバッと答える私でありますが、
私にとっての満男くんは、
なんというか、いってみれば、

無人島に一つだけ何かをもっていけるとしたらそれは君だ満男君よ、

ってなまったくもってわけわからんほど好き、
という人物でありまして、
なのでメイドイン・ヒデタカの人物の中では
一線を画するお人なのであります。

一線を画しているといえば、コトー先生も少なからず同様で、
五島さんちの健助くんの場合は、こう、吉岡くんから、
ふわりん、と抜け出しちゃったような、
無所属新人独立国王みたいな人物というかですね、
これまたいわゆる一つの別格人物ということであります。

で、何が言いたいのかわれぃ、と申しますとですね、
その別格組二人を除いた中での、
役者吉岡くんのなさったお仕事としてみる好きな人物と、
ただもう全部ひっくるめて人物そのものが好きなんじゃわ、
というのは、ちと違ってくるわけで。

前者で言えば、ルート先生が筆頭でにょきん、と出てくるわけで、
後者で言えば、このノンポリくんであるのかもしれんぞなもし、
ということなのであります。



吉岡くんが同世代の役者さん達と演技をしているときって、
そのナチュラルさがグィ~ンと
光を増すような気がするのでありますね。

それはヒロスケやチンタ、
よっちんやなべと一緒にいるときの
純君、満男君にも言えることで、
私はそういう時の吉岡くんの演技が大好きなのでありますが、
この作品の1970年回想部分は、
あくまでも話の中心となる高校生四人の視点からによって、
大人は蚊帳の外だねスヌーピーな描写法で描かれており、
したがってここでの吉岡くんは、
同世代の役者さん達と、最初から最後まで
がっちり組んで演技をしてくれているという、
いや~まったくあれですな、
ハ~レル~ヤ~のオ~ソレミ~ヨ~なのでございます。

そしてここでの彼の演技も
超絶級の自然体。

とにかく自然。
ものすご~く自然。
まいっちゃうほど自然。
地団駄踏んじゃうほど自然。
自然なくらい自然で自然ってなに?、
って思っちゃうほどの自然博物展覧会。

「これには僕もまいったね~。」だでありまするよ、サリンジャー。

いや、吉岡くんは、無添加無着色無化学肥料の
自然食系役者の王道を突き進むお方であるのは
十分承知ではありますが、しかし、このノンポリくんは、
全体的に、なんか他の役とは別な色のナチュラルさを
もっているような気がしてならんとですね~。

それはもしかしたら色というべきものではなくて、
なんというべきか、こう・・・、
透明な下敷きを持って演じているのではなかろうか、ふふ~ん、
という感じなのでもありますだ。

その透明フィルターの中で、
吉岡くんはとってもキラキラしているですばい。

それはこのドラマの回想シーンの前半に出てくるような、
波光のような美しさであり。

朝日や、午後の昼下がりの日の光、
暮れ行く夕日や、月光などの様々な光に反射して
キラキラ~と光り揺れている
波の光のようでありまするよ~ん、ビュ~テホ~。

青春にキラキラあり。
キラキラに青春あり。

よってキラキラ王子ヒデタカくんは今だ青春ど真ん中に違いない。 

たまんないね、まったくもー。


吉岡くん演じる西脇ノンポリくんは、
それ以上でもなくそれ以下でもないという、
アベレージ3.5、みたいな男の子でありますが、
しかしそういった男の子を演じさせたら
天下一品極上品でへいおまちぃ!
な味を出してくれるヒデタカくんでありますので、
したがってこのノンポリくんも例に漏れず、
非常~に魅力的な「等身大」の男の子として作品の中に存在しておりまするだ。

一体なにがどうしてそんなに長々とツボであるのか?

ここは一つずつ分解して解説していこうと思うであります。
(↑要するに文章力の限界であります・・・)

まずは、ピョン吉ノンポリくん。

ノンポリくんは、
よく飛び跳ねるかたであります。

多分、感情が高揚しすぎると、このピョン吉くんシンドロームが
彼の中で発生するのだと思われ。

解説 I
① 新年明けましてバンチョウ告白海辺でびっくりピョン吉くん。
② 受験勉強どうしようええいどうでもなれやいスキーに行くぞピョン吉くん。
③ 文学ちゃんたらどう思っているのだちょっぴりルパンなピョン吉くん。
④ 卒業なんてしたくないんだ寂しいじゃんか踊ってしまえピョン吉くん。

大まかに分けるとこういったピョン吉くんたちが、
ノンポリくんの感情に合わせて登場するわけでありますね。

そしてそれらの行動は、

( ①+②+③+④ )×キラキラフィルター = UFOキャッチャーでグワシっと掴み取りしたい程の可愛さだわ、まいったね~、

な長~い解答として結果に現れるわけであります。
要約するに、たまらんぜキュ~ティ~ハニ~、ということなのでありますね。
(↑最初っから要約せい、ってかい)

そしてこの解説 Iは付箋付であり、
それは、①+コケ、②+コケ、③+コケ、という、
茶川せんせも吃驚「そのコケに歴史あり」な、
ナチュラルコケ相乗効果まであって、
さらにベリーマッチのキューティーっぷりを
発揮なさるのでありますだ、魔性だね、あんたって人は。

特に③+コケは、国の天然記念物指定間違いなしの絶品くんであります。

これは厳密に申しますと、ピョン吉くんの飛び跳ねを
横飛びルパンIII世バージョンに変形させて滑ってコケたよノンポリくん、
という変化球スライド技まで取り組ませたものでありまして、
そのあまりの自然な斜面コケ技に、
私なぞはその場面を何度もリピート上映して古いビデオテープを
更に磨耗させてしまってナミダナミダのオーマイガー
という粘着魅力をも持つスゴ技でありまする。

どうしたらあの只ならないタイミングでもってコケって滑って、
尚且つ台詞を自分の言葉として咀嚼しながら口から出せるのか、吉岡くんよ。

まはり~くまは~りたやんばらやんやんやん♪
でありますぜ、サリーちゃん。

底知れぬ才能をお持ちであるのだ、君ってば。

そして④。
これはまさにヒデタカ節の真骨頂でありまぜぃ。

親友二人が去ってしまった後の、
「卒業」という人生の大きな節目の変化に気付いているのに
それを噛み締めたくないノンポリくんが、
その寂しさやるせなさを吹き飛ばすかのように
陽気に振舞って飛び跳ねてしまうという、
人生よろしく踊って哀愁、
という二重変奏を奏でるのでありますね、とれびあ~ん。

このシーンは、回想シーン冒頭に出てくる、
木漏れ日の柔らかい光の中でキラキラ飛び跳ねている
親友四人の姿と相反するものであり、
回想シーン最後の最後で、卒業式後のノンポリくんが、
ニシキくんの肩を抱えて哀愁ダンスをしながら立ち去った後の
夕暮れの校庭には、乾いた砂埃だけが吹き去っていくという、
おみそれいたしやした杉田監督~、というあっぱれな演出効果も
味わえるのでありますね~。

この杉田伴奏ヒデタカ節は、もう、演技とかっていうのを
超越しちゃっているんじゃなかですか、って云うほどの
真情振動を持って伝わってくるものであり。

それは胸に迫ってくる、とかっていう
常套句で片付けてしまえるものではなくて、
じわ~~~~~~んとした、
非常にゆっくりとした加速度をもって、
心の奥底にまで沈水していく感情余波なのでもありますね。

笑顔で飛び跳ねながらも同時に寂寥感をも滲み出してしまう21歳ヒデタカくん。
あれ、20歳だったっけかな?

いずれにしても何者なのだ、君って人は?


そして解説 IIにつづく、
ってまだ続くのかいなっ!?
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ノンポリくんは語る

2007年05月25日 | 杉田監督作品


高校三年生の西脇ノンポリくんは、




えっらいええ感じ。




ええ感じすぎて、何から書いていいのやら、
あっちも書きたいし、こっちも書きたいしで、
おせちもいいけどカレーもね、みたいな
いつも以上にわけわからん状態になってしまうのでありまする。


このドラマは、私の第四次吉岡大噴火を起こさせた、
当時かな~りどっぷりどすこい彼の深みにはまってしまった
作品でありまして、そんでもって更になんと、
筒井君と萩原君という、ダブルちょびウフ♡俳優さんたちとの
ドリ~ム共演ときたもんだよ、ストライクゾ~ン!
って感じで、その当時の私ときたら、
博多どんたく大祭りついでにねぶた祭りもドドンパドン!
ってな制御不能のうかれっぷりでありました、困ったもんだよあたしったら。


初見当時は全く思いもしなかったけれど、
今見返してみると、学ラン着てその他大勢、
みたいな普通の学校生活を送っている吉岡君が
てんこ盛り永久保存されているなんて、こりゃ~もう、
幻のネス湖のネッシー映像より貴重な作品でございますだば。

ありがと~ごぜ~ますだ~、杉田監督。


ふつ~の高校三年生の生活模様を、
これまたふつ~にそのま~んま演じてくれた、
吉岡君がたまらんとですよ~ん。

そんでもってこのノンポリくんってば、
ニッポン全国お手上げだよ吉岡くん、の神業ナレーション付でありまするだ!


声にまで表情があるヒデタカくんならではの、
極上ナレーション・ノンポリバージョンでございますったらたまりませんわ。


なんていうんでしょ~ね~、ほんとにこの人って・・・・・
天才だと思う。

これはもう、人間国宝ものじゃよ。


この人の声色は、単独交響楽団で名曲アルバム、
ってな、哀しくも優しく調べを奏でる
それはそれは美しい旋律をもっているわけで。

それは言葉という人間のツールを、
詩情にまで昇華させながらも、同時に
人の脳裏にも根深く棲み付いてしまうという、
一種の凄みももっておられるわけであり。

彼が言葉にその声をのせる時、その声音は
ただ心情を朗読して話を進行させる、という
道具としてのナレーションであるのでは決してなく、
それはあくまでも人物として空間に存在しながら、
見る人の心に役と織り交ぜた彼の心情を響かせてしまう、
という「そこにいる息吹」の生息波動になるのだと思われ。

まったくもってお手上げさぁ、セニョ~ル~。


冒頭の風間さんのナレーションから吉岡君のナレーションに
被ってバトンタッチしていく場面での彼の声は、
低く流れるアダージョ。

彼はここで、きちんと風間さんからの感情のバトンを
受け取っているのでありますね。

ただ単にその声を風間さんのナレーションに上塗りしているのではなく、
20年後の西脇氏へと変遷していくその一番始めの黄昏バトンを
その細かな感受性の声音波動によって微妙に繊細に表現しているわけで。

その彼の短く被っていくナレーションは、なんていうか、
一面に広がり実った稲穂畑の上を、晩秋の風がソワっと
緩やかに金色に波打って吹いていくような感覚の声音であり、
それはなんともいえない郷愁と、
実りの中にある僅かな侘しさのニュアンスをもって
とても心地よく、そして微かに切なく心に響いてくるとですね。

その彼のアルファー音で、この物語は静かに幕を開けていくわけで。

くぅ~、やるねぇ、ヒデタカく~ん。


オープニングタイトルの後に続くノンポリくんの語りは、
ゆ~っくりと幕を上げていく垂れ幕調であります。

だら~んと伸びきったトーンが徐々に僅かずつ上昇していき
緩やかな曲線を描いて1970へと時が戻っていく。

その後に繰り広げられる宿敵・工業高校の皆さんとの乱闘の後、
メイン四人の登場人物を紹介するノンポリくんの語り音は、
そのBGMと相俟って、それは気だるいサンバなリオデジャネイロ。                        
                   ↑  
            ヒデタカターン・ツイストであります。

この声音リズムによって、見る側は、
スィ~ンとそこから一気に加速して、西脇氏の青春時代に
タイムトリップできるわけでありますよぉ、のびたく~ん。



この物語前半での彼の声音は、まさに青春ど真ん中であります。

「そこ」にある幸福感に包まれた
十代の躍動感、純情感、感傷感、そして倦怠感、焦燥感を
まとめて全部純粋すし詰めパックにした彼の声音は、
彼の演技と相乗する絶妙な演出効果を果たし、
西脇氏の「あの当時」を、受け手にリアルに納得させてしまうのでありますだでおっかさん! 

な~んてブリリアントなのかしらぁ~、まいっちまうわぁ、あちしは。


そして物語後半からの彼の語りは、話の推移に合わせて、
前半の暢気ともとれる屈託さはスッとなりを潜めて、
ノンポリくんの持つ走度と微熱を、徐々にゆっくりと
落としていきながら終盤へと向かっているわけで。

そうしてもっていったラストで、彼はそこから
現在の西脇氏を演じる風間さんに
その感情バトンを戻しているわけであり。


このドラマを唯の感傷物語として終わらせない話のループを、
彼の語りの速度と温度のバランス調でもって
完璧に作って結んでいるのではないのかと思うでありますだ。

すごいぜよ・・・。
杉田 & ヒデタカ コンビってば。

受け取ったバトンを持ってゆるやかに加速し続け、
そして終盤に向けてゆっくりと減速しながらバトンを戻すという、
箱根駅伝のような芸当でありますだよ、驚いちゃうね、まったくもう。



なんつーかですね、彼の声には光と翳もあるわけで。

それはもちろん光そのもの、翳そのものとして響いてくるときもあれば、
それとは逆に、光に落とされる翳としても、翳の裏側にある光としても
存在しておるわけであり。


そして、場面によってその旋律を
シャープにしたりソフトにしたり、
温めたり冷ましたり、
遠のいたり近づいたりしての
極上あっぱれなバランス感覚でもって、
映像にもう一つの色彩物語をさりげなく乗せているわけでありますね。


これが神業語り部長者ヒデタカの醍醐味なのじゃ~、
ぼうやぁ~よいこだねんねしな~♪ (←よくわからん・・・)

たまらんですよ、ほんとにもう。
ビバッってビバってビバノンノンでございますわ。


吉岡く~ん、君は、
さりげないという難技をさりげなくこなしてしまうというさりげない顔した
さりげない美形のさりげない天才なさりげ帝王なのだね。(←しつこい・・・)


まったく、お主ときたらほんとに・・・惚れるじゃないか。


つづく、であります。
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ノンポリくんは今・・・

2007年05月22日 | 杉田監督作品


1970年元旦、高校三年生の西脇ノンポリくんは18歳。

それから20年経った後、出版社に勤める西脇まこと氏は38歳。

1970年に過ごしたぼくたちの青春は、思い出の中にだけ存在する。



切なかです。



すごく、身につまされてしまう切なさであります。

「切ない」っていう気持ちを布にくるんできゅい~んと絞って
茶巾寿司にしちゃったよ、みたいなくらい切ないですばい。


「1970ぼくたちの青春」


この作品初見当時の私は、ノンポリくんと一緒に
高校生活に戻っちゃったわお久しぶり、みたいな
直球ストレートの現在形で鑑賞していたのだけれども、
昨夜すご~~~く久しぶりに再見したこの作品は、
現在完了形へと形を変えて、それはズドワ~ンと除夜の鐘のように
心に響いてしまった変化球ボールとなっておりました。

たぶんこの時空感覚が、杉田監督や、脚本家の松原さんの、
真に伝えたかったメッセージなのかな、
と今の私はそう思ってしまうわけで。


時間差攻撃ダブルパンチの名作でありますね。


青春という言葉で限定された時間は、
その言葉によって輝きを増すけれども、
同時にその言葉が過去に向かうとき、
それは人を少しだけ疲れさせてしまう。

大人になるということは、
子供でいることよりも多分容易いことであり、
しかし大人はもっともらしい言い訳たちを
ベルトコンベアーのように次から次へとえっさえっさと運び出して、
大人であるという状態を煩雑に確立させているのかもしれないのかな、
などと、この作品を見てぼやんと考えてしまったとですね。

「そこにあるだろう幸せ」ということを、
ぞんざいに、うやむやに、
そしてそれに無感覚になりがちになってしまっているのではないのかな、
なんて思ってしまう自分もいたりして・・・。

その前でもなく、その先でもない、
その瞬間をただ生きている、
というあの時確かに持っていたであろう絶対的な人生謳歌の美しさを、
今では意識的に忘れてしまっているのではないのだろうか、と。

分かっていることだからそれは失われることではない、
と高を括っておざなりにしている、
実は失速してしまっている人生に対する躍動感。

それは過去の記憶を呼び覚ましたときに、
明確に心に打ち込まれてくる現実感であり。


歳を取ることは決して悲しいことではないはずで、
しかしそこにどうしても感じ取ってしまう憂愁は、
歳をとってしまう、という現実への反射鏡の中に見出してしまう、
かつてあったであろう自分の姿を見て嘆息してしまう
というその行為自体にあることなのかもしれない。

しかし過去というものは、比較することによって現在を嘆くべきものではなく、
それは人の背中を前にそっと押し進めてくれる母の手のようなものであるべきで。

それは決して人の心を拘束すべきものではなく、
ましてやがんじがらめにしてしまうべきものではないとはわかっていても、
やはり人は時に思い出の波跡を行ったり来たり
ゆらゆらゆらりと揺られて揺れて、時には沖合いまで流されて
そこで心の遠洋漁業なぞをしてしまうわけで。


この作品の中での20年後の西脇氏は、
1970年を生きていたノンポリと呼ばれていた自分が
とてもとても輝いて生き生きとして見えてしまうから、
その反射鏡に映るかつての姿が、余計現在の彼に重く
のしかかってくるわけであり。

西脇氏は、そのことにもちろん気付いているのだけれど、
しかし気付いたからといってそのジレンマが消えるわけではなく、
だからこそそこに彼の悲しみの泉があるわけで。。。

あの当時は知る由も、知ろうともしなかった
「その後はあるんだ」
というどうしようもない現実に、
なんだかとても切なくやるせなくなってしまうわけでありますね。


その切なさやるせなさは、この物語の後半で、
地元の祭りの最中に繰り広げられる高校生四人組に起こった
出来事に身をおくノンポリ君が、
「祭り」が「終わりつつある」
と悟ってしまったと「思ってしまった」
その直覚に始りがあるのかもしれない。

祭りには終りがあるんだ、とその時に多分無自覚に
自分の人生に線引きをしてしまった彼の諦念が、
なんかひたすら悲しいし、
見につまされてしまうのでありますよ~。

それはなにも彼だけが察する諦念ではなく、
多分人には必ずそう感じる瞬間が、それぞれの人生の中で
意識無意識様々な現象をもって一度は起こるわけであり、
そこにこの作品のメッセージの奥深さがあるのではないのだろうか、
と、そう今なら思えるわけであり、
思えてしまうわけであり。


それを悲劇ととるのか、ノスタルジーととるのか、どうとるのかは、
それはもちろん人それぞれ千差万別であって、
ドラマや映画というのは、
小説を読むときに作家の内面を探って一旦そこに潜り込んでから
浮上し呼吸するというのではなく、
それは全面的に外へと向かって開放されている芸術であるから、
そこからどう発酵させていくのかは最初から
受けての気持ちに委ねられており、
そこにこそ映像芸術の醍醐味があるのだと
私なんぞは思っちまうわけで。


この作品は、そういった意味をもっていっても、
非常に完成度の高い名作なのだと思いますです。



だばぁ~、なんか現国の授業の宿題論文みたいな
まとまりのないわけわからんことをだらだら~と
書きつらねてしまいまったですば~い・・・。

はぁ~、高校生のノンポリ君のことを書きたかったのじゃなかったのかえ、
私ってばまったく・・・・・・。





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リンメイ先生

2007年04月20日 | 杉田監督作品

マチルダ中尉が出ていたのでビックラこいた。
もとい、マチルダ中尉の声の女優さん、でした。
いや、私、決してガンダムのファンではないのですが、
このマチルダ中尉は、時折見ていたその番組の中で、
子供の頃の私の目には、えっらいかっこいい女性として映っており、
そんな彼女をどこか理想の女性として見ていた所があったのですね。

お、いやいや、そんなマチルダ論はどうでもよくてですね、
今日は、リンメイ先生のことについて書こうと思ったですだ。

このリンメイ先生登場作品は、事前に原作を読んでいたので、ドラマ鑑賞中は、
「あそこのシーンはどう演じているのかなぁ?」とか、
「早くあの原作にあるシーンがみたいなぁ。」とか、
「あの原作にある場面は、絶対買いだっ! 早く見せてくれいっ!」などなど
フライングしっぱなしで、気付いてみたらドラマはいつしか終わっていた、
という、ある意味非常に涙をそそった作品でありました。
やはり、原作は観てから読む方がいいのかもしれない。
わかっているのに、それでもやはり先に読んでしまう、学習能力のまったくない私・・・。
馬鹿みたいだぁ、うぅ。

で、涙を拭いてからですね、また作品を見直しましたですよ。

このリンメイ先生、なんかお月見劇場みたいな人やった。
静かにそっと宵闇に浮かぶ月であり、
そよぐ夜風に銀に白に光り揺れるススキでもあり、
強く弱くそこに響き続ける鈴虫の音でもあり、
お皿に盛られた白団子くんたちでもあった。
そこに草叢からタヌキくんが顔を出したら完璧だ。

松平さんについては、なんだか派手な着物を着て暴れまくっている
将軍様及びチャチャチャなダンサーらしい、という基礎知識はあったものの、
実際にこの人の演技を見るのは、これが初めてだったであります。
吉岡くんとのダブルキャスティングを聞いた時は、
「なんと思い切った発想、杉田成道。」と思ったけれど、
蓋を開けてみれば、「やるじゃねぇ~か、杉田成道ってばよ。」
って感心したですばい。
二人が対峙する数々のシーンは、どれも見応えがありやんした。

作品中、特に私が、おぉ~、と感嘆したシーンは、初公判の場面。

抑えながらも確かな強さをもって自論を押していくリンメイ先生。
それはまるで、的確にハーケンを打ち込みながら高みへと登っていく
クライマーみたいな演技やったよ。
担当刑事への尋問シーンで、判事に頭を下げる場面なんて、
畳み込み方が絶妙~。
呼吸の入れ方、出し方、声を出す瞬間が、まさに「間髪入れず」。
かっこええのぉ、ヒデタカ。おぃちゃんは、うれしいぞ。
でもその後がちょびっとだけ息切れカミカミ君だったよね、ふふ。(←何者っ?)

そしてですね、私の感嘆が最高潮に達したのは、次に続く内藤教授への
尋問シーンですだ。
内藤教授によって得られるはずであった確信証言が覆されてしまうときの
彼の醍醐味演技。
あそこで、一気にヒデタカくんの演技が「受身の動」にガラッと
変化するのがわかる。
彼は、場面ごとのツボというものを的確に捉えるのだ。ワンダホー。
内藤教授の裏切り証言によって、そこにくるまでにリンメイ先生が着実に
積み上げてきた自信が、ガラガラガラっと音を立てて一気に崩れていくのが、
彼のぎこちない体の動き、震えつかえる声、揺れる目線、
せわしなく資料を捲る指から、グイグイグイグイグググ~イと、
こちらに振動されてくるのじゃね~。
崩しながら盛り上げていく、という反比例効果の演技。おぉ、なんと深いのだ。
リンメイ先生危機一髪!というこのシーンでのクライマックスを、
このぶざまに狼狽しまくる演技で、彼は完成させるのでありますよ~。
惚れるじゃねぇか~、えぇ、ヒデタカよ~。

それから、第二回公判のシーンで、
まごつき戸惑いながらも証言をした恒蔵の妻を、
無言で見つめる、あのリンメイ先生の顔。
憐憫、哀切、やるせなさが深く深く沈殿する表情。
あれって、視聴者の感情を代表していたみたいな表情だった。
深い。深~い。ふぅかぁ~~い、の三段階活用。
一度君にはひれふした方がいいのかもしれない。

あ、そだそだ、恒蔵の護衛を演じていた役者さん、
あの人って、コトー2003で「自衛隊病院の高村ですっ!」シュタッ!
とコトー先生に敬礼していた人なのだろうか? 
似ているぞな。

それからなんといってもですね~、場面は前後してしまうけど、
言わずにいられないのがですね~、
友人を訪ねに、リンメイ先生がテレビ局に現れるシーンなのですよぉ。
だってだってだぁ~ってぇ~~~~~~、
勝村さんが、リンメイ先生を後ろから抱きしめてウリウリしちゃうんだよぉ。

フフ。

これをなんと呼ぶか知っているかい、チキータ?
ちょいと、叫ばしてもらうよ。

シュウちゃん抱きカ~ンバァ~ックッ!!!!!!

動悸、息切れ、めまいの救心。
これですもの、これですもの、たまりませんよぉ。
なんと素晴らしいのかっ、杉田監督よ!
今度日本に里帰りするときには、フジテレビに向かって
柏手を打ちますわっ、あたくし! 
いやぁ~、それにしても何度見てしまったことやら、この場面。
んも~う吉岡くん、君って人はこういうシーンになると、
急に乙女になっちゃうからリンダ困っちゃうのだよ。
お陰で私の頭の中は一気に、チ~ロ~リア~ン♪ な状態に
急変しちゃったじゃないか。
しかし、こんなにスリスリウリウリされちゃうのが似合う男の人は、
誰か他にいるのだろうか? 
スリスリ星から来たウリウリ星人なのかい、君は?
なんか生産地不明のわけわからん野菜みたいな響きじゃないか、それってば。
だぁ~、もう~、まともなことが書けなくなっちゃったじゃないかぁ~、
ウリウリ星人ってばっ!

持田女史とのコミカルなやり取り、利一さんとの哀感漂うシーン、
恒蔵との怒りを露呈するシーンなどなどな~ど、うふふふ。(←こわい・・・)
ヒデタカくん、君は何故にたった一つの作品でこんなに
メリハリのある凄い演技を見せてくれるのか?  
ハッ、そうだった、そんな「メリーとハリー大活躍!」なヒデタカ節を、
もっと書きたかったのだった・・・。
いいや、またの機会に書いてみよ~っと。
しかし、見ごたえのあるお人ですね~、君って人は。
ますます惚れちまうじゃないか。

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田野誠くんのこと

2007年04月15日 | 杉田監督作品

私が吉岡くんのファンになったのは、諏訪満男くんがきっかけであり、
その満男くんにより切符を渡され電車に乗り、
純くんの「情けないじゃないかぁ、父さぁん!」
で快速電車に乗り換え、次いで優駿の誠くんにより、
それは暴走機関車へと変化し、現在も爆走中、という
「その人に歴史あり」な遍歴を経ているのであります。

吉岡くんは、その華奢な体、そして、ふっとどこかへ消えてしまうのではないかという、
刹那的な雰囲気を醸し出しているのにかかわらず、
病臥する役というのは、映画・優駿の田野誠くん以外他にはない(と思う)。
あの、「儚さ凝縮パックでお届けしましたぁ!」
みたいなコトー先生だって、ハードワークのラーメン食いで、
炎天下の中、毎日遠路をチャリンコでキコキコ往診していて、
「もしや、コトー先生が一番命の危機に晒されているのではないだろうか?」
なんての懸念をよそに、本人はいたって元気なスーパージェッター。

彼が、現在までに演じた「若くして命を失ってしまう人物」は、
この田野誠くんと、赤穂浪士の一人・矢頭教兼、この二人(のはずだ)。
この二人の人生は、ひたすら悲しい。
絶望的に、まったくもって救いようがない。
この二人を思い出すたびに、私なんて、まるで催涙弾を集中投下された
森進一みたいな顔になってしまって、大変でありまする。

映画「優駿」は、豪華キャストで、内容もどっさり豊富な、
ちゃんこ鍋みたいな映画なのだけれども、
この映画を劇場に観に行った当時の私は、
天真爛漫能天気120%の血液で循環されておった花のティ~ンエイジャ~。
「み~つお君さえ観れればいいんだも~ん、うきゃきゃ♡」
みたいな、完全おサルさん状態であったので、別に他に誰が出ていようが、
作品の出来がどうであろうが、全然お構いなし状態。
当然、鑑賞中の私の全神経は、吉岡くんに集中しており、
だから彼の最初の台詞「すいまぁせぇ~ん!」
が聞こえたときには、「やっと出たわぁ~、きゃぁ~♡」などと
血液沸騰させちゃって、盆暮れ正月一気に来ちゃったみたいな
浮かれっ子状態で、そりゃ~大変だった。

しかし、しかし、しかぁ~し、そうだ、そうだ、そうなのだ、
私は、その時、浮かれまくってた余りに、吉岡くんの才能に
油断していたのでありまするよ、アミ~ゴ。

この作品に出ているのは、満男くんではない、
ということは、鑑賞前に、もちろん頭では理解していたけれども、
心では感じ取っていなかったアホな私。
スクリーンに登場した「満男くん」に、ウキャウキャウッキキ~と
ハイ・モンキー状態になっていた私は、しかし次に続くシーンで、
はっと正気に戻らされたんですね~。
そこには、突然自分の病室に現れた年上の女性・久美子に
戸惑いながらも、徐々に心を開いていく(開きたい)孤独な少年、
誠くんがそこにはいたわけです。
それは、まぎれもなく、田野誠、という一人の少年だったのでがんす。

この誠少年、とにかく悲しい。
彼は、自分の命が終わりつつあるのを知っている。
それは、砂漠に一人彷徨う旅人が、柄杓に残された最後の水を、
少しずつ飲み干していくような感覚なのかもしれない。
悲しすぎるんですよ、この子ってばもう。

自分の馬となったオラシオンに全てを掛けるしかなかった、17歳の少年。
ほのかに恋心を抱いていたであろう久美子とは、実は異母姉弟だったと、
久美子本人からではなく、自分の母親から、自分が危篤になった時に
初めて聞かされた、誠くん。
もう助からない、と自分で悟った時に、そこでやっと目の前に現れる、
命綱を持った父親。
そしてそこにある最後唯一の望みを、必死に掴み取ろうとする誠くん。

悲しすぎる。
救いようがない。
どうしてくれるんだっ?

誠くんのラストシーンを見終わった時点での私は、
まさに涙腺破壊状態で涙を流しに流しきり、完全に全身旱魃状態。
もう、その後に続く話の内容なんて、
「あぁ、とにかくオラシオンさえレースに勝ってくれればそれでいいよー!」
ってな投げやりな態度で、それは観ているのか観ていないのか、
しかしそんなことはもうどうでもいい状態だった。
もう、悲しくって、悲しくって、気分がドドーンと落ち込みすぎちゃって、
そのまま地底に沈み込んで、マグマを通り越して、ブラジルにまで突き抜けちゃって、
そこでコーヒーの豆売りで人生やり直そうかと思ったほど、
深く深く考え込んでしまった。
それくらい(ってどのくらいやねんな?)鮮烈でリアルだった、
誠くんを演じたヒデタカ少年の演技。

最後のシーンで、父親がビニールで囲われたベッドのカーテンを引き開け、
その中のベッドに横たわる誠くんの顔がスクリーンに映し出された時なんて、
観ているこっちの方が心停止しちゃうのではないかと思ったくらいの
衝撃だったでありますよ。
そのシーンの時、満員だった客席から「ざわざわ」っと空気が揺らいだのを、
今でもはっきりと覚えている。

こういう薄幸の少年を演じるときには、
「僕ってこぉ~んなに悲しいんだよ。ささ、泣いて頂戴、見て頂戴。」
みたいな媚が、演じ手の中には見えちゃうものだけれども、
この吉岡くんの演技には、それは全くないっ、と断言できるっ!と力説。
等身大の、生きたいと願う、しかしどこかでそれをとっくに諦めてしまっている17歳の少年を、
彼は「状況」ではなく、しっかりと「気持ち」で演じていたのだと思うのでありますよ。
もちろんそこには、杉田監督の演出のすばらしさも大きいのだろうけど、
しかしそれにしたって、それにきちんと応え「媚」に全く頼らない演技をした、
少年・ヒデタカくんは、まさにエクセレントであったわけでありまする。
そんな君に、どすこい惚れ直してしまったのだよ~。
そしていまだに、私の暴走機関車は加速を増すばかりで、どうしたらいいのか・・・。

しかし、この作品を最初に観たのが、お肌ぴちぴちの十代の頃で良かった・・・。
今こんな悲しい役を演じられちゃったら、あたしゃ~泣きすぎになって
脱水状態に陥いり、お肌はガビンガビンになってしまうぞな。










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稲葉 一矢

2007年04月04日 | 杉田監督作品

映画 ラストソング。

吉岡くんファン必見のお宝映画でござりまする。

内容はといいますとですね、モックンがひっじょ~にあつかです。
でもって、吉岡くんがひっじょ~にうら若き乙女ですけんね。終わり。

って、一体どんな映画なんじゃいなっ!?と思われるかもしれないけど、
簡単に書くと、まぁそんな映画なわけで。

この映画、観ていると、もうなんていうか、すごく疲れてしまうんですね。 
つっこみ所が多いから、画面に向かって「えぇえええっ~、そんなあほなぁっ!」とか、
「ええかげんにせんかい、このぼけぇっ!」とか、「そんなのありかいなっ!?」云々、
永遠と一人突っ込みをしてしまうんだけれども、その反面、見所もてんこ盛りなので、
これまた画面に向かって、「おぉ、ちょっとぉ、ええんでないかいっ?!」とか、
「きゃぁああああっ、おいしすぎるぅっ!」とか、はたまた興奮しすぎて
「ふんきょぎょうぅあぁ~」などと意味不明の擬音を発したりとかの繰り返しで、
観終わった後は、まるでフルマラソンを百面相パフォーマンスしながら完走したランナーのように
(ってそんな人いないけど)ぐったり憔悴しきってしまうという現象がおこるので、
体にはあまりよくない映画なのかもしれない。


この映画は、私の記憶が正しければ、確か1994年に公開されたはずだから、
もうだいぶ前の作品ですね。
登場する役者さん達は、今から見比べると もちろんすごく若いのだけど、
吉岡くんについて言えば、儚い色気全開であり、この時から今も変わらず、
というか今は色気が更にバージョンアップされているので感動いたしまする。

とにかくこの映画でも吉岡くんはいろっぺーのでありまするよん。
もう色気の出血大サービスもってけドロボー状態。

作中、モックンはやたらとむやみに真っ裸になって
お尻ふりふり全開モードになったりしますが、
いわんや、その前後に吉岡くんの「ちょっとだけよぉ~」的なチラリズムシーンが
ばんばこ入ってきちゃったりするので、せっかく全裸張って頑張った
モックンは唯の健康九州男児としてしか映らない。
はっ、もしかしたらそれが狙いなのだろうか? 

いいや、わからない・・・。

わからないといえば、この映画、わからないことだらけなのだけれど、
一番理解に苦しむのが、このモックン扮するシュウちゃんと、
吉岡くん扮する一矢二人から愛される女性・リコ。
この登場人物がどぉ~してもあっしには納得できなのでありますだ。

描かれ方が弱すぎで、何故にシュウちゃんと一矢がこのお方を好いとぉ~のか
理解に苦しんじゃうのでありまする。
なんかこのリコという人は、二人の愛の対象というより、
シュウちゃんと一矢の間の緩和剤的な役割にしか映らない。

邪まかもしれないけれども、この映画を最初に見たときに、なんとなく、
中原中也と小林秀雄の関係を思い出してしまったですね。

この映画の核をなすものは、シュウちゃんと一矢の間に流れている、
とっても複雑にこねくりまわっちゃった愛の形なんじゃないだろうか、と。
だからシュウちゃんと一矢に入り込んでいるリコというのは、
二人の愛憎を通すフィルターみたいなものであって、
その媒体としてだけ二人の間に存在しているのではないんだろうか。

なぁ~どと考え出すと、どんどんどんどんわからなくなっちゃってきて、
悶々悶々と悩める大正時代の作家のように眉間に皺が寄っちゃって、
しかし眉間に皺が出来るのはよろしくないのであって、
この映画はお肌にも悪いのかもしれない。

しかし吉岡くんファンにとってはあまりにも美味しすぎる作品なので、
ついつい繰り返し観てしまうのでありますよ~。

この作品でのモックンと吉岡くんは、これでもかっ!というくらいに対照的。
視覚的にはまるでオセロの駒の裏表だし、
俺はやるぜぃイケ面真夏蠅モックンに対して、
吉岡くんときたらまさに悩める儚きプレーリードッグくん。

時に漫画チックになる演出の演技しにても、
モックンはデビルマンやマジンガーZの世界で
やたらとぎゃーぎゃーわぁーわぁーやかましいのに対して、
吉岡くんは萩尾望都や紡木たくの描く世界に見られる、
ひっそりと精神世界を彷徨い続ける男の子。
もうどうしちゃったのっ?ってくらいに、

は・か・な・い。

もし「儚さ王者選手権」とかがあったら、この人は絶対日本代表になって、
ホビット代表のフロドと王座を争うと思う。
それくらい儚いし、そして切ないのでごじゃる。

いくらヒロインのリコが切なそうにしても、ヨヨヨと泣きそうになっても、
吉岡くんには絶対的に敵わない。

一矢の方がリコより全然よっぽどヒロインくさいのでR。

シュウちゃんがリコを抱きしめるより、シュウちゃんが一矢を抱きしめるほうが激しいし、
情熱的だし、そしてなにより見ているこっちがえっらいドキドキしてしまう。

それは、多分に吉岡くんの、あの力のまったく入っていないアメーバー的な
ぐにゃりんことした体のせいだと思う。

だいたいの役者さんは、ぐったりとした体をゆすられるシーンでも、
なんとなく体にどこかしら力が入っているのがわかるけど、
吉岡くんの場合、それが全くない。
もうほんとに糸の切れたマリオネットみたいにぐにゃら~んとしてる。
それはそれはナスガマンマミ~ヤのオーソレミーヨー。

そこにきて更に、ボタンかけ忘れてまっせ旦那、って突っ込みたくなるほどの
シャツの開き具合や、更に更にそれをシュウちゃんに
揺さぶられて思わずこんにちは~してしまう透き通った白い肌くん達小道具が大活躍! 

って今書いていて本当に一体どんな映画なのっ?!

ってつっこみいれたくなっちゃったよ~。
ごめんよ、よしおかく~ん、こんな邪なファンでぇ。
だけどやめないよ~。
君には人をこぉ~んな気持ちにさせてしまう魔性の魅力があるのだよん。

しかし吉岡君、君の名誉のために(って全然余計なお世話だろうけど)言っておくが、
何も私はエロオヤジと化していつも君を見ているのではないぞよ。

この映画の君も役者として素晴らしかったよ。
まるでゲートをフライングして飛び出してしまった競走馬のようなモックンを、
見えない馬上の旗手としてうまくなだめる様にしっかりと
フォローしている君の演技はたいしたものだと心の底から思いましたですよ。

長年ファンをしてきてほんとによかったなぁって、思ったですばい。

コメント
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