㋔ふくろさんよ、
㋐たしはどうやら、
㋛ばらくぶりに、
㋜キスキ純君。
と、「時代」の純君を見て、
心のオアシス運動に入ってしまった私でありやすが、
気付けば暦は早くも10月、秋深し。
10月といえば、満男くんはちょっとスキップ、
純君でございます。
純君という人は、なんというか、とても、
苦しい、
であります。
いや、純君だって、
なにも年中無休で苦しんでいるわけではなく、
ちゃんと笑ったりデヘヘとなったりムムムとなったりルルル~と
なったりしているわけですが、
しかし黒板純君という人を、その全体像で捉えるときは、
やはり、どうしても、
キラキラと輝く水面を水中深くから見上げている、
みたいな窒息感を、彼からは感じてしまうわけであり。
満男くんだって、時には苦しくなるでありますばい。
しかし、満男くんの場合は、
ハーフマラソンを走っているみたいな苦しさというか、
彼が走る沿道には、スポーツドリンクを手渡してくれたり、
旗をふって声援を送ってくれる人たちが、
沢山いたりしての苦しさであるというか、
なんせ彼にはきちんと行き着く先のゴールが、
その向こう側にはあるわけで。
しかし純君は、
その向こう側が非常に見えにくいわけであり。
なにもそこまで・・・・純君よぉおおおお・・・・・・・うぅ。
と、パトラッシュとネロと源義経とナポレオンと池田屋騒動と
ついでにツタンカーメンを混ぜ合わせたようなどすこいブル~スが、
彼の背後には流れているような気がしてしまうわけであり・・・。
これは、「切ないよ~っ、おっかさ~ん!」
という感情とはちょっと違って、
もっとこう、とことん、一直線に、どうしようもない重力で、
苦しいぜよ、
という感じなのでありますだ。
なので、純君を見るのには、「見ごろ純ごろバイオリズム」、
というのが私にはあるわけで、もし間違ったタイミングで彼を見てしまうと、
あちしはもう梅干の種を飲み込んでしまった五郎さんの顔のようになって、
心はズバ~~~~~~~ンと地中深くに沈み込んでマグマを通り越して
ブラジル経由のモロッコ行きトロッコに乗ってインドの山奥へと
出家したくなってしまう梅干五郎、という不可解きわまりない
脳漿循環作用が起きてくるので注意が必要なのでありまするだ。
しかし拝啓 恵子ちゃん、
苦しくったって、悲しくったって、
電柱の影から会いたくなるのが純君なのでありまっしょい。
純くん度ボルテージでいいますと、
「初恋」の時の彼が断然絶対なんてったって大好きなのでありますが、
DVD回転数ボルテージでいいますと、
「時代」の時の純君が、
会いたくなる頻度アタックナンバーワン。
「時代」の時の純君は、
ぶっちぎりで苦しくったって、
ぶっちぎりでかっちょええ、おぉっ、わんだほー!
至極私事テイストなのでありますが、
この頃の吉岡くんは、
っんもぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
どっぷりたっぷりベリーでマッチでやっほ~やっほ~こだまは返るよ、
イカスぜヒデタカ、かっちょええったらチーズッたらで、君に完敗!
でありますので、毎度お騒がせしております。
誤解を招いてしまうかもしれないので書いておきまするが、
今の吉岡君だって、ぶっちぎりでかっちょええっす、
まいるぜ、ヒデタカ、ケンケン出てきてハッシッシッシッシ~!
しかし、「時代」の頃の前後数年間の吉岡くんと、
それ以降の吉岡くんのかっちょよさというのは、
なんかちびっと趣が違うようだぞなもし、
と、思われるわけでありまするのだ、明智君。
なんといったらええのか、こう、
そのかっちょよさの出方が違う、みたいな感じがするのですばい。
「時代」の頃の吉岡くんは、なんというか、
すごく直線的なかっちょよさというか、そりは例えて言うと、
かっちょよさナイアガラの滝級、ゴワーーーーっと出てます、
イカスぜヒデタカ、まいったね、キュン!
といった感じであり、
それ以降の吉岡くんは、もっとこう、
放射線状的なかっこよさ、みたいな感じであるというか、
かっこよさ名湯いで湯温泉級、じわ~~~~~っと湧き上がってます、
唸るぜ吉岡、たまらんね、うふ♡
みたいな違いというか、
追加びゅ~てぃ~とでもいいますかなんというのか、
うまく表現できないので悲しいでごわすおいどんは、え~~~~んっ。
とにかく、
出来ることなら一緒に逃避行したいっ、ヒデタカ~ん!
とついつい叫んでしまうのが、この頃の吉岡ブラボ~くん、
またの名を、鷲摑みのヒデ。必殺でござる。
Made in Yoshioka の人たちには、それぞれ決まって、
「ザ・ズバリそうでしょう!」
というシーンが、一つや二つや156個くらいはある私でごぜいますが、
「時代」においてのそれは、
悲しくて苦しくて呼吸困難になってしまうのでありますが、
ゆっこおばさんのお店で草太兄ちゃんの事故の知らせを
受話器越しに聞く純君が、
やはりズバリそうでしょうでありましょうなのでそうなのでしょう。
こういった場面で感情を押し出してくる時の吉岡くんは、
とても、とても、底がない感じがするであります。
グラっと揺れる心情を映し出すその瞳が、
ググっと瞬時にして深く沈んでいくようであり、
それはもう、薄~いガラス板にビリビリと
細かに微かに振動している感情周波が、
その瞳の奥底に宿る底のない沼に、
深く、仄暗く、沈殿していくようで、苦しかです。
苦しくて、心にキリキリ痛いであります。
しかしその痛さが、純君のその時の「気持ち」なのであって、
そこにあるのは、それ以外のなにものでもないわけで。
深く、深く、その内面へと沈んでいく純君の気持ちが、
しかし観ている方には、大きな波のうねりのようになって
ぐぐ~っと心に押し寄せてくるわけであり。
見せる感情ではなく、感じ取らせる感情でありますけん、
お手上げでござるのだ、吉岡殿。
そしてそういった吉岡君の繊細な感情の機微を
絶対に逃さず掴んで引き出す杉田監督の手腕も、
やはり文句なしに素晴らしいと思われ。
杉田伴奏ヒデタカ節じゃ、こぶしがきくぜっ、はるみちゃん。
さすがの杉田監督、スッポンのようじゃよ~。
やはりこのコンビは、「凄い」のかもしれんとですばい。
北の国からというドラマの好き嫌いは、
確かに個人個人にあるけれども、
しかしこの作品が、テレビドラマ史上において、
人々の記憶に永く残り続けている作品群であるということには
間違いないわけで。
そりはやはり「偉業」と呼ぶに等しいことなのではないのかしらん、
と私なんぞは思うわけであり。
そしてその「偉業」を作り上げてきたうちの一人である吉岡くん。
とれびあ~ん。
けれども吉岡くん本人からは、そんな気配はまったくなしの、
「ただの兄ちゃんやで」、
みたいな雰囲気が、いつまでもどこまでも
彼からは漂ってくるわけで。
そしてそれが吉岡くんなのであって、ヒデタカくんなのでありまっしょい。
偉業というものは、作ろうとして作るものでなく、
気付いたら後からついてくるものだということを、
吉岡くんの姿を見ていると、そう強く心に感じるわけであり。
福沢諭吉さんだって、なにもMr一万円札になろうとして
学問のススメを書いたわけじゃなかとですね、おぉ、吉岡くんよ、
やはりあなたは只者ではないのじゃ、惚れるでよ、んふ♡。
吉岡くんは、実はとっても凄い人なのに、
その凄さを全く人に感じさせたりなんかしない、
まっさらさらな凄さをもっている人なのでありますですね、
こりをかっこええと呼ばずに何がかっちょええのというのだっ。
ほんまにかっちょええでぇ、ヒデタカくんよ、
最高だぁ・・・。