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月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

Fools Gold

2025年08月17日 | 思うコト




先日気づいたのですが、
ずっと長年使わせて頂いている
このGOOのブログサイトが、
今年の11月を持って終了してしまうらしいと。

ブログごと別のサイトにお引越しもできるらしいのですが、
何せもうここ10年以上、
更新が滞っており。

それでもここに来てくださっている皆様、
本当に心からの感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます。
そして何の音沙汰もない状態に対して、
心底お詫び申し上げます。
ごめんなさいです。

引っ越しするか否かはまだ思案中です。
決めましたら、
またこちらでご連絡したいと思っております。
その節はどうぞよろしくお願いいたします。



元々は、吉岡君のファンブログとして始めたのですが、
途中からは支離滅裂な言語の暴走ブログになってしまっており、
一旦書いた文章を読み返すことは一切なかったのですが、
この機会に過去の文をちと拾って読み始め、
3秒5コンマでギブアップしてしまった自己ツッコミランダム級。
何ならヘビー級。言うなればワンパンチKO級。
いや元を正せば、

“おやっさん。。。
燃え尽きる前にチャッカマンすら買ってなかったぜ。。。“
え?
火打石じゃダメ?
魔除けにもなるよ!
エイドリア〜〜〜ン!!“

ってかい。

いや、
ってかい、
じゃなくてですね、
ロッキーじゃないから。
要するにこうです。

あくまでも素人であり趣味の域を出ておりませんが、
長年にわたって英語でシナリオを書いているので、
日本語魂のマグマが、一定の蓄積期間を超えると、
成形されておる大和遺伝子の山から大噴火するのかもしれず。

“おやっさん。。。。
マグマはヒグマとは違うのかい。。。?
ヒグマはラスカルの母方の親戚の叔父さん?
え?
ヒジキはエジキじゃない?
。。。ホワイ?”

ってかい。

いや、違うから、
それ。
徹底的に。

もとい。

英語と日本語。
両方ともに美しい言語であるけれど、
母国語である日本語は、
それをより理解そして解釈できることもあり、
本当に美しくて、
奥が深いと思うわけでして。

奥深い。
本当に。

侘び寂びと言いますけれど、
それって何?
って聞かれても、
言語で説明できない。
その空間、
余白の沈黙に、
奥まった、
深く凪いでいる、
美しさがあるですね。


英語圏の友人との会話の中や、
はたまた英語でシナリオを書いている時に、
「しょうがない」
という日本語の妙をよく感じるです。

これは日本語にしかない言葉だと。
英語にはない。
一言語としては存在していないわけで。

センテンスでニュアンスはそこそこ出せるかもしれないけれど、
それはなんと言いますか、ハウスJavaカレーの上に、
グリコジャイアントコーンエクストラクランチのトッピングを
3個のせたような、りんごとハチミツがとろ〜り溶けていても、
ヒデキとしてはしっくりこない感覚があるわけで。知らんけど。

と云う事は、
英語圏の人の感情には、
はたまた彼らの遺伝子の中には、
「しょうがない」
という感覚がないのだろうか?

「しょうがない」
とはそもそも何なのか?

状況に意志を丸投げ〜ん、
としてしまう解決近道交通安全標識なのでせうか?

感情を言語に当てはめる→それを思考だと認識する→事象に色がつく→
どうよその色ってば?← 今ここ。

的な?

“おやっさん。。。
これはジャブ&アッパーパンチのリサイクルなのか?
サンドバックはエコバッグだったのか?
。。。。。。。。。
ってかい。“

ジョーまで “ってかい” って言ってるじゃん。明日に向けて。
知らんけども。

そう、
知らんのだ。
知らん。

そんなところにも、
柔軟性は存在しているのかもしれない。

言葉の柔軟性。

柔軟性に併存する可能性。
可能性に棲む可塑性。
可塑性を内在する許容性。

「しょうがない」
という言葉。
その一つをとっても、

諦めの防風林にするのか、
突き進んでいく追い風にするのか、
どちらにもできてしまう。

どちらだって良いんだよ。
決めたことならば。

だって、
しょうがない。

自分なのだから。




I still keep writing screenplays in English.
Not only for the dream—
but because it’s who I am.


Everybody is.




Yeah?



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Never let me go

2025年02月02日 | 思うコト
先日友人との会話の中で、
「今まで観た中で1番怖かった映画は?」
という話題になった際に思い出したのがこの、
「NEVER LET ME GO」
という映画。

怖さと云っても様々な種類がございますが、
例えばミスタートムクルーズ主演の「War of the Worlds」なんて、
家に帰って部屋のドア開けたら中にバズーカー抱えた織田信長が258人いた、
という現象に匹敵するくらいに心臓飛び出し恐怖度MAXな映画も過去にありましたし、
更に100年時を遡って、生まれて初めて劇場で観た作品「JAWS」も、
水中というエリア限定な怖さでありながら、
ジョーズは地上ではジョーズに生きられないのだ、
とつい親父ギャグを未だに飛ばさせて周囲の人々を瞬間冷凍させてしまう、
正に背筋の凍るホラー映画でございました。この映画を観た数年後に、
ジョーズが怖くて水に入れないので水泳教室は見学しますと言った私に、
ジョーズはプールにはいないから安心しろと勇気づけてくれたあの小学校の担任の先生はお元気だろうか?

などど、
ですね、
当たり前だけれども、
人に訴えかける怖さというものは千差万別多種多様でございます。

そんなこんなの私にとってのこの「Never let me go」という映画、
これは決してホラー映画ではなく、多分恋愛ドラマに分類される作品だと思うのですが、
怖い。
ダントツに怖い。
そして、
美しい。
ひたすらに美しくて、
そしてとてつもなく怖い。
怖いから美しいのか、美しいから怖いのか、
ムーミンはカバなのか、カバがムーミンなのか?
わからない。
いやムーミンはトロールなのだ。(カバっぽい)妖精なのだすムーミンは。
そこに確かな答えを持てる所に平和は存在するけれど、
「Never let me go」という映画には、
それがない。
その不確実な怖さが絶望的な悲しみに圧倒されていくという、
非常にトラウマな作品でございます。

カズオ・イシグロさんの同名の小説を映画化したこの作品ですが、
その内容を大まかに説明しますと、
舞台となる英国で、臓器提供者として生まれ、
そして青年期になるまで専用の宿舎で学び育ち、
やがてその命をドナーとして若く「完了」していく運命にある若者たちを描いた作品です。
この作品の要となるのが、
圧倒的存在感な透明人間のCaray Mulliganの演じるKathyと、
仄暗い鈍色の空からはらはらと舞い降りてくる雪の結晶のようなAndrew Garfield演じるTommy。
この主役の二人が、
まぁ素晴らしいったらありゃしないってかい。
素晴らしすぎるのでオスカー像を2ケースお中元で贈りたい。
好き!と書いた熨斗つけて。けれどもそれが故に、
トラウマが巨大化してしまうわけでもあり。
とても美しい(特にAndrew)映画だから、もう一度観直したい。
できれば週に少なくとも9回(主にAndrew)は観たい、
しかし悲しくて怖くて夜寝れなくなっちゃうから観れない、
なのに観たい、でも観れない、けれど観たい、だけど観れない、
ああもうどうしてくれるんだい、おやっさん!
という状態がもうかれこれ10年以上続いているわけで。
これが犬神家の一族だったら「スケキヨ、仮面をお取り」という号令と一緒に画面から一時避難できるけれど、
実際にスケキヨのお顔を拝顔したことが未だにない私だすが、
Andrewは仮面を着けていないのだ。着けちゃダメ、素顔の君が好き、ありのままの君が一番さ、ハニ〜、うふふ。
なんて❤️飛ばしていられないのだ、悲しすぎて怖すぎて絶望的すぎて。
困ったもんでござんすよぉ。
なんて眉を八の字にしながら連鎖して思い出すのが、

「嫌われる勇気」
という大ベストセラーになった書籍。

これはですね、
題名からしてもうメダル獲得圏内って感じでありますが、
この本をAmazonでポチッとしてみた、次の日届いた、表紙をめくってみた、
読み始めたよ、なるほどぉおおおおおっと今日はジャンプの発売日だ、
夕飯はカレーで決まり嫌ならシチュー、ってことでこの本はあとでゆっくり読もう、
という悲しき読書癖の末路に良書を本棚へと追いやった不届者はまさかいないと思うけど、
それはズバリ私でしょう。
「あとで」と「オバケ」は出た試しがない、と母上はよく言っておりました。
だから何でだよ?って事なのですが、完読もしてないくせに、
しかしこの本の題名はよく思い出します。
上記の映画とセットで。

話が前後して申し訳ないのですが、
このNever let me go という映画の中でのKathyとTommyは、
臓器提供者としてその生を若くして「完了」させることが運命付けられていて、
その最終的宿命に彼らは抗わない。
そうする可能性を希望に見出そうともしない。
僅かに見出そうとした一縷の希望ですら諦念という深い井戸の中にあるわけで、
それが彼らの世界であって、世界は無慈悲に沈黙したまま。
自分の身体は自分のものではなく他の誰かのもの。
けれどもそれならば、
そうであっても、
見つめる景色は誰のもの?
触れるその肌の感触は誰のもの?
絶えず湧き上がってくる感情は誰のもの?
この喜びは、嬉しさは、悲しみは、怒りですら、
それは一体誰のものなの?
自分の身体の中に確かにある、
この心は一体誰のものだというのか?

これは怖いです。
すごく怖いと思ったです。

自分はどうなのだろう、
と思い返させられた時に、
果たして自分の意志すなわち心は、
誰のものにして生きているのだろうか、と。

嫌だと思っている自分の要素を側面と捉えて甘んじて、
正面から物事と対峙せず、
本音本質を蔑ろにしているのではないだろうか。
側面も正面も、それは一つの平面にあるものなのに。

石橋を叩きすぎてぶっ壊す力はあるくせに、
石橋をただ渡って向こう側に行く力を持つことができなかったり、
溺れないように川の流れに逆らって泳いで抵抗することにばかり力を消耗していたり。
もしかしたら、ふっと流れに沿って泳いでみたら、
そこは足のつく暖かい浅瀬かもしれないのに。

心を大きく左右する勇気の持ちどころ。
勇気の在り処を定め決めることの大切さ。
この映画と書籍(正確には題名からだけど)から受けたその大きさは、
メガ波動砲だったわけで。おそらくそれは、
東京ドーム8674個分の大きさに匹敵すると思う。
東京ドームがどれだけ大きいか知らんけども。

重ね重ねになりますが、「嫌われる勇気」という書籍自体は、
私は完読していないわけで、多分三分の一も読んでいないと思う。
それなのにこのいつまでも消えない波動砲を心にぶち込んできた、
という事実が言葉の威力に改めて気付かされた要因でもあったわけで。

人は納得したい生き物ですだ。だから気持ちに沿わないものを、
逆に奥底に添いすぎて実は羨ましく思ってしまうものを見たり接したりする時、
それを言葉の枠に当てはめて気持ちを納得させてしまう。そこに正当性を見出してしまう、
そういう生き物だったりするわよね、と思ったりなんだりふんだりけったりはぁ〜やれやれ。
とかなっちゃったりする自分がいるわけで。

あいつ厨二病だよねとか、自分はもうアラフィフだからとか、
あの人アラフォーのくせにとかビージーフォーだとかジャクソンファイブだとかいうけれど、
後者の二つはともかくヨーダなんて800歳くらいだしアラハッピャ〜なわけですが、
「わしはもうアラハッピャ〜なんで隠居して趣味は盆栽にしたよん」
なんてライフセーバーをハンソロの家で充電しながら言うのかもしれないし言わないのかもしれないし言わないだろう。
なぜならヨーダは革命の戦士だから。

人間は、関心のないことには見向きもしない生き物ですのに、
気になる、目線がいく、聞き耳三太郎になる、ということは、
実はそれに興味があるということであって、
それが本当は心が求めていることなのかもしれない。
しかしおいおいそれはみんなが恥ずかしいくだらないみっともないバカじゃね?
と言っている状態だぜよ、と次に空耳三四郎が登場して心に囁くので、
ならばとそこに言葉の枠の解決を導き、聞き耳三太郎は退場してしまう。
言葉の威力を知っているからこそ、そうしちゃうわけで。
そうしながら自分自身をも枠組みしちゃったりしているわけでありまして、
まったくもう。

そういう状態は喩えたら、
言葉という甲冑をがっしり心に着用しているのと同様かもしれなくて、
その格好は確かに敵の攻撃からの安全無事を保証されておりますけれども、
それって重いし動きづらいし呼吸しづらいし着てるだけでHP1個半になっとるやん。
ってなりますよね、しかしこれ。
「そんなもん着てるから本気出せないんだぜ、覚悟って言葉を知ってるかい?」
とキャプテンハーロックならぜひ言って欲しいところでございますが、
デビルマンのアキラでも可。だって、
パンツ一丁で戦ってるんだよデビルマンは。
真冬でも。
そして強い。

嫌われる勇気を持つ、ということは、
ならば自分勝手に周囲の方々の気持ちを無碍に扱ってもいい、
というわけではない事は、
人は環境によって成長していく生物であることからして自明の理でありますが、
いかんせんこの世の中、せまっちぃ。
いや世界は広い。とても広いです。広いけれど、
その広い世界が広げる手の中で孫悟空のようにウリャワリャぬぅおお〜、
と喚いたり叫んだり泣いたり怒ったり黙ったり食べすぎたりして行ったり来たりしている自分の世界は、
意外とちっさかったりするわけで。
しかし大きさはどうでも良いのですだ。
大きいからすごいじゃんとか小さいからダメよねとか、
そういうことではまるでなくて、
それに気づいていることが大切なのだと思うわけであり、
やはり大切にしていきたいのは、状態なのだと。
そして状態は移り変わっていくものでございますので、即ち、
それは変えていけるものだということであり、ということは、
人とは素晴らしい生き物である、
のだ、
とな。
それを覚えておきさえすれば、
なんだか大丈夫なのではないだろうか、
とか思ったり。

思えたりする事って気づきだし、
気づきは成長の一歩だと思う。

笑われたらどうしよう、
バカにされたらどうしよう、
無視されたらどうしよう、
なんて、
そんなものは、
どうしようもない。

人の気持ちは雲のようであって、
形はあるように見えても実は掴みどころがなく、
常に形を変えていて、勝手に湧き上がっては、
やがては消えてしまう。
そんなことを掴もうとするより、
自分の心が本当は嫌だと違和感を覚えていながら、
時流に迎合してしまう自分自身のエゴに嫌われる勇気を持ちたい。
嫌われる勇気とは自分にとってはそういうことなのだと、
覚えていたいわけであり。
そうそう、
大丈夫だよ、
こう言ってみよう。

Never let me go. 

私を離さないで。



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無題

2024年09月04日 | 思うコト





「そこに山があるから」
とマロリーは言った。
マロニーではない。
意外なことにマロニーは春雨ではないらしい。
春雨じゃない?
では一体何なのだ、マロニーよ。
君は一体何者?
鍋御用達かと思えばサラダにもベリーグッドらしい。
と玉緒ちゃんが形状記憶合金のような脳インパクトで言っていた。
ホットでもクールでもいけるサーモスランチバッグ系。あ!
春雨ってほら、なんか降ると気温も身体も冷えさせちゃう冷えピタ系なので、
そりゃあホットかつクールである喩えて言うなら
ヒロユキ・サナダ、Now、的なマロニーちゃんとは違うわよね。
いやヒロユキ・サナダはその第3形態の真田広之であったときも
ホット尚且つクールであった。
かつての師匠であったサニー千葉は常夏灼熱マンボなダンディだったけれども、
高校教師の時の真田さんはザ・ホットあ〜んどクールの極みであった。
あれは真田第二形態だったのだろうか?
サナダだからサナギで華麗なトランスフォームを繰り返すの?
不死鳥なの?いや不死鳥は鳥だからサナギからは脱皮しないのよ、
タマゴから産まれるんだよ〜鳥は〜。
じゃあサナダは何?
サナギ?
サナダ、サナギ。
マロニー、マロリー。
タマゴ、タマオ。
ややこしい。


世の中はややこしいことが多い。
いっそのこと物に名前なんてなければいいのではないか?
千と千尋のカオナシのように。したらば、
カオナシその1「初めまして、あ、あ・・・」
カオナシその2「どうも、あ、あ・・・」
カオナシその1「あ、そうですか、あ、あ・・・」
カオナシその2「あ、そうなんです、あ、あ・・・」
カオナシその1「あ・・・・あ・・・・、ああ。」
カオナシその2「・・・あ・・・・ああ・・・あああ。」
カオナシその1「ひらがなの最初の文字は、あ?」
カオナシその2「答え既に言ってるやん、あ。」
って感じで何か要領が掴めない。いや正解してるけど。
つかカオナシは顔がないのであって名前はカオナシというのだ。
っていうか顔もあるよね、仮面という顔を。
あれは彼の顔であって、
草履じゃない。ましてや葉緑素を持ち忘れたゴーヤの斜め切り口でもない。
似てるけど。
というか私は何を書こうと思っていたのだろうか。
そうだ、マロニーだ。
いやマロリーだってばよ。


マロリーがマロニーを生前に食べたかどうかは多分いや絶対に食べていないのだろうけれど、
マロニー同様マロリーにも常に謎が付き纏っている。それは、
「彼は本当にエベレストの頂上に立ったのか? !」
という東スポばりの見出しで問われ続けている永遠の謎。
別の言い方をすれば、
「へいゆ〜、エベレストぉ、おわ、チョモランマぁ、いちばんうえに〜、
登ったあるか?って聞いてんねん、ボンソワ〜ルシェイシェイナマステ〜こんにちはチャオ」
という問いのループ。
「知らんがな」
と言ってしまえばそれで完だし、
「ええやんどっちでも、そんなことよりチクワ食べようきゅうり入りの」
という人が四半世紀を過ぎようとしている21世紀の世の中には大多数だと思う。
知らんけど。
そう、知らんのだ。
知らざるを得ない。


なぜ山に登るのかと問われて、
「そこに山があるから」
と答えたらしいマロリーは、もしかしたら
「(え?聞くのそれ?そんなの)そこに山があるから
(そりゃ行くしかないっすよ、当然っす)。」
と自分の気持ちの3分の2を割愛して言ったのかもしれない。
面倒だから。
っていうか説明いる?めんどくせ〜なおい。
と、思ったのかもしれないし、思わなかったのかもしれない。
と考える全く無責任な外野の私からすれば、
頂上に立ったのか辿り着けなかったのか、
それは、
マロリーとアーヴィンだけが知っていること。
そこに浪漫がある。
と思う。
わけであり。


当事者からすれば、
綺麗事言ってんじゃねぇぞ、
ババアにクソの連体修飾語つけたろかゴラァ!
となるのだろうけれど、
けれど、

余白の美しさ。

と敢えて一行ずつ行間を入れてみました。

これは森羅万象全てにおいても、
そう思う。

美しいな、と。

(↑行間が気に入ったらしい)

そして、優しいと思う。

美しくて、優しい。

最強やん。


などと、
フロリダの空の下で思ったりしている私であります。
マロリーとアーヴィンは、
チョモランマから見上げた空にどんな思いを馳せたのだろう。
それは、

彼らだけが知っている。



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添えて

2019年12月02日 | 思うコト




自分が知りうる限りの数年前までの吉岡くんは、
お仕事にちびっと消極的な人だったけれど、
戻ってみたら、何かすごい量のお仕事をこなされているので、

(・◇・)

こんな顔でびっくりしてしまった。
生放送のトーク番組にまで出演しちゃうし、どうしたのだ吉岡くん、
改宗したのかい? 文学界でいうところの、
「吉岡、仕事してるってよ」的な?
何はともあれ「ごごなま」には、あけみちゃんもいたし、
二人で笑っている画面を観たら、っくぅ、おいどんは感無量でござんした。
素敵大星人と化した吉岡くんは、一網打尽に観ているこちらを
ノックアウト寸前状態にさせていらっしゃいましたが、
番組トーク中、一つどうしても解せなかったのが、
吉岡くんはオフモードでは人に全く気付かれない(らしい)案件。
これは、
え?
及びに、
にゃ?
確かにオフモードの彼は、ツチノコ、ネッシー、吉岡秀隆、
と世界三大UMAとして認識されているけれども、
でも隣にいて全く気付かないとか、
ありえない。
ありえない!
洗剤はアリエールだけど、これはありえないわよ!
私だったら吉岡くんが半径238キロ以内にいたら必ずわかるわよ、
239キロだとちょっと危ういけど、一体どういうことですの、北海道!
ピンポイントで富良野なわけで! っていうか大木くん、
吉岡くんに触られすぎではなくて? 馴れ馴れしく触られすぎですわよ、
肩に両手を置かれちゃったりしてぬぅおぉっ大木くんってばけしからんぞ、
無礼者、名を名乗れぃ!ってですから大木ですってば。あ!
もしや吉岡くん、そうかもしれない、そうかもしれないよ、
確かにそうなのかもしれない、気付かないのかも、
周りが自分に気付いていることに。
資料館で手に押された純スタンプだってよく見たら、

度100%本人なわけで半額 

と刻印されてたのかもよ。気付かないのは、
チミの方なのではあるまいか?!
スタジオの皆さんもそんな話は信じられないって口々に言っていたし。
でも吉岡くん、頑張って皆を説得しようとしていたですね、声音を上げて、
「ほぉんとなんだもぉ〜ん!」と。

(・◇・)

や、やめろぉ〜、やめてくれぇ〜、お主、トドメを刺す気か、 
不意打ちじゃないか、卑怯でござるぞ吉岡〜っ、

「結婚を前提に応援させてください」。

ってなりますよね、奥様、ほんとに。
完全にノックアウトされちゃったじゃないか。キュン。

ごごなまの吉岡くんを拝見する前、ハートに余裕をかましていた自分を
はったおしたい。
もちろん事前にも十分すぎるくらい素敵なのは承知していたけれど、
でも以前の様に、
吉岡くんを観た後に浮かれまくってカレー20皿分作っちゃったり、
急に勢い込んでスクワット始めちゃったりとか、
そういう挙動不審な怪しいファンでは、もうないのだ。
時を経て私は変わったのである、まともなファンに。
今回は家族を謎のカレー週間攻めにしなかったし、
スクワットもしなかったしっていうかもう出来なかったし、
でもなんだろう、
ふわっと体内に浮かんでいる熱っぽさがずっとあって、
微熱に浮かされたような、
このふわりとした感覚。
これはもしやもしかしたらあれかしら、そうよきっとそうだわ、これって、
風邪だわ。
とほ〜。


何かとトゲトゲギスンギスンしがちな世の中でございますが、
絶妙なバランスで肩の力が抜けている吉岡くんを観ていたら、
体内の毒素が抜け出た気がいたしますでございます。
すごいな吉岡くん、デトックス作用まで持ち合わせているとは。

なんていうか吉岡くんって、
その言行を見聞きしていると、日々の嫌なこととか、
ささいなことじゃね?
と思わせてくれる力をそこから受けとれるっていうか、
それは決していい加減だからなのではなくて、
辛い日々からも逃げずに、
真面目にきちんと向き合ってきた人だからこそが
持ち得る人間力から受けとれる力といいませうか。
ネガティブな事も優しく肯定しながら解き放せてくれる、
そういう人間力を、その人間力の高さに比例する大きな包容力を
吉岡くんは持っている、と、そんなふうに思うわけで。

心をぜーんぶ委ねちゃっても、
吉岡くんなら裏切らないって思わせてくれる、
絶対的な安心感と信頼感があって。
漢気ってやつですの。

素敵

ハートが増えちゃってるし。


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つづく

2019年11月30日 | 思うコト

自分は何故吉岡くんに惹かれるのだろう、
何故彼なのだろう、吉岡くんの何処が好きなのだろう、
と思いながら観ていた「ごごなま」。

観終わって、ひとまずお茶でもと立ち上がりかけてよろめいてしまった。
痺れてしまったわ。足が。ずっと正座して観ていたらしい。
心だけではなく足まで痺れさせるとは、吉岡くん、
痺れマスターなの? 良い!良すぎてよ!べらぼうに良いです、
なんといっても、た ん ぱ つ。 
た ん ぱ ん じゃなくてよ、いやそれも観たい気がするけど、
でも実際観たら血圧が測定不能まで上昇してしまうだろうから
やはりそれはだめよ、健康には気をつけないとね、はい。
ってそうじゃなくて、短髪なのだぁ、吉岡くんはやっぱり、
短髪がしゅきぃ!
とってもお似合いでございます。
歴代の髪型のなかでも一、二位を争う似合いっぷりですわよ、
とてつもなく素敵。ちなみに三位はなくて全部一位と二位、うふ。

とにかくほんとに一々素敵であって、
重箱の隅の隅をつついても素敵しか出てこない、
隙のない素敵っぷりであるので、
もしや君は素敵の道の達人ですか? 
はぁもう素敵しか書いてないわよほんまにこれ〜、
どないなっとんねん、吉岡くん、
しょうがないから表現違えて書くわ、
すてき。
って平仮名になっただけだわ。っていうくらい
ステキ。


体型だって全然昔と変わってないではないか。奇蹟でしかないわ。
いったい何者? 新種の生物なのかい?
なんといってもセーターを着ている肩幅がですね、肩幅がぁ・・・
セーターを着ているのに、薄い。薄いのに、広い。
主張しない広さで、繊細に薄く、でも華奢とは一線を画して雄性であり、
セーターを着ているその上からも、
骨格がとても綺麗なんだとわかる肩幅。フッ、もうなんなの、
極上じゃないか、素敵 漢字に戻ってハート付き!

それでもっての相変わらず手もお綺麗。優しい手。
その手が動くと、その声が笑うと、
周囲の空気がとても柔らかくたゆたる感じ。
好き!

番組中で流れた山田洋次監督の吉岡くんを語る言葉ひとつひとつに、
ムチウチ症になるくらい頷きながら、
なんかじんわりとしてしまったでござる。
流石だぜ、なんてたってヨージだよ!(←何様?!)

昔辛かった頃の話を笑って話す吉岡くんの姿を観ていて、
ああこの人のファンでいられて本当に良かったなぁと、
つくづく思ったわけで。
戻ってこられて本当に良かった。
戻ってくるのは過払い金だけじゃなかったわけであり。

想いの戻れる場所がある幸せ。 
想像も追いつくことができない辛い日々を経て、
そしてこれからも続くであろう
そんな日々を見据えながら、笑顔ですっとそこに立っている、
そうして笑えることの、強さ。逞しさ。男らしさ。
感受性の鋭さと、
堅忍不抜の精神を兼ね合わせているその心肝。
かっこいい。
なんてカッコいい人なんだぁ。
かっこいいってこういうことだよ、ほんとに。

そうだわかったぞう、
吉岡くんの何処が好きなのか。
全部だ。
全部なのだ。
君の全部が大好きなのだ。
 
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冬の風景

2014年02月03日 | 思うコト



ここぞ、という時に私はいつも熱を出す。
知恵熱であろうという家人たちの確信は大抵いつも正しいのですが、しかし、
今回はなんということかインフルエンザに罹患してしまったらしく、
なんかあっついわぁ~と思って熱を計ったら39.4度もあったので思わず、
体温計をデジカメ撮影してしまった。はぁ~びっくりしたよう、さ、
茶でも飲むかね、ふぅ~やれやれ、なんて、
お茶なんてあっつくって飲んでられるかいっ、そんなことより、
長い日々に熱してきたあたくしのこの想いは、
待ちに待って待って待ちわびた、この気持ちの高まりは、
どうしぇばええのだ。その想いの高さなんてもう、
スカイツリーです、634mなの、む・さ・し、武蔵で覚えてね♪というものより、
1192mいい国作ろう鎌倉幕府、試験に出ます。ってなくらいの高さなのだっ(←張り合ってどうする)。
絶対に初日に観に行こうと決めていたのに・・・あたっしたら、阿呆すぎる・・・
阿呆のくせに風邪を引いている。何なのよインフルエンザって、その名前からして
キャンディキャンディに出てくるイライザみたいでどこか角々しくってよ。
キャラ似なのなら、あなご猫(=うなぎ犬)とか、こいっし~(=ふなっし~)とか、
熊なので(=クマモン)とかだったら、「そうか、だってあたし熊なので、
大人しく寝てよ」とかって諦めもつくかもしれないのに。悲しい。もう、なんでいつもいつも
こうなのだろうか、あたしってば・・・。ええい、泣いてしまおう。ぐっすん、ぐす、ぐす、
ぐび、ぶび、ぶび、ぶび、ぶびぶび~って鼻が詰まっちゃうしぃ、あっついしぃ~、んもうっ、
あたしゃ出来たての豚まんか?というかまるでマグマ中心部の至近距離にいるようであってよ~。
はぁ~~~きっとマグマ大使はいつも暑いんだろうなぁ。
なんてったって大使なんだよ、マグマの。お湯の沸騰なんてすごく速く出来そうだし、
「こんなに根性いれなくっても・・・」と、少々訝ってしまうくらいの
冷え冷えクールな宅急便の郵送物だって瞬時に解凍してくれるのであろう。
いや燃やしてしまうかもしれない。でも彼のファンじゃなくてよかった、だって、
「きぃやぁ~マグマ~ン、握手してくださぁい」なんつって、うっかり握手とかしちゃったら、
めっさ熱そうだ。そんな時きっとマグマンはこう言うに違いない、
「俺に惚れるなよ、火傷するぜ」と。ってあたしは一体何を書きたいのか・・・。

そうだ、そうなのだ、書きたかったのは、悲しみの湯気をたてながら見た、
初日舞台挨拶のインターネット記事のこと。
写真の中での吉岡君は、
笑っていた。
吉岡君が、笑っている。
笑顔の、吉岡君。
いつも思う、あの、
吹いていく風に揺れる真綿みたいな笑顔だ・・・。

ぴゃぁ~~~~~~~~~~~~~~~

悲しみの湯気は一気に歓喜のジェットと成す。

かっこいい。

ものごっついかっこいいのだけれども、どうしてくれよう。
いやどうにもできないのだ。とてもしなやかな佇まいなのに、
服装はちびっとワイルドだったりする。しなやかなのにワイルド。
真綿であるのにワイルド。真綿ワイルド。新種の生物のようでありますが、
昔からいます。昔からいらっしゃるのに、出てくる度に新鮮です。そして、
細い。胸板あたりなんて、二枚重ねの明治の板チョコみたいなのだ
なんてたってチョコレートは明治よね、デジタルはカシオだけど。手も足も、
すらりん、と長く伸びていて嗚呼もう吉岡君ったら金太郎飴効果なのですか、
どこから見ても格好良い!!!

そうなのだ。吉岡君は格好良いのだ。とても格好良い。それは例えば、
桜を見て綺麗だな~と思うより、その樹全体の美しさにあるというか、
星を綺麗だな~と思うより、その夜空全体の美しさに見いだすというか、
全てひっくるめちゃったところからこそ伝わってくる美しさ、
格好良さがあると思うです。そしてそこには、自由である強さがあるというか。
人間の属性は共存することであり、多面的に常にどこかに
「いる」のが人なのだと思うのでございますが、たとえもし、
「わしは世の俗とは縁を切った仙人じゃ」と云ったとしても、
その感情の矛先は世の俗へと向けて発せられているわけであったりして、
どんな感情を抱いているにしても、そこは自分の立っている場所なのであり、
嬉しかったり悲しかったり、喜んだり悔しかったり、挫けちゃったりやさぐれちゃったりしながら、
呼吸をしている居場所なわけで。生活だから、納得のいかないことや、
心をへし折っていかなければならないことは多々あるですばい。それでも、
「これだけは譲れねぇぜ」という意志のもとに一定の歩みを保っている、
保ち続けている自由、そんな強さが、吉岡君からは感じ取れるわけであり。
自由であるということは勇気がいることであり、覚悟のいることでありますだ。
吉岡君は、それはこちらが勝手に汲み取る「感じ」にすぎないのかもしれないけど、
心が、その持ちようの格好が良いのだと思う。真の格好良さというのは、
実践であり、その実質なのだろうなぁと、彼の姿を見ていてそう思うです。

と、そんな様々なことを気付かせたり伝えてきてくれたりする人であるわけで、
すごいぞ、吉岡君、まるでディスカバリーチャンネルのような人だ。そして、
その姿を一目見るだけで元気になれて幸せになれてしまえる、
万能薬のような人でもあるわけでして、それが恋やで~キミ~ってことなのだろうけれど、ああ、
恋するって素晴らしいわぁ~
と思えるときめきをいつも運んできてくれて誠にありがとうございます。
大好きだよう、吉岡君。
早く映画が観たいです。
   
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吉岡くん

2013年08月12日 | 思うコト










刻一刻と、
様々に変化していく空を見上げながら、
飾らず、
ゆっくりと、
確かな歩幅で道を拓いていくような、
そんなあなたが大好きです。



喜びも、
悲しみも、
それが人だよねと、
甘く寄りかかるだけの場所ではなく、
あるがままの強さも教えてくれる、
そんなあなたが大好きです。



渡っていく風のような笑顔と、
すっとまっすぐに、
高くのびていくような意志。



吉岡君のファンでいて本当によかったと。



変わることのないその想いは、
前へと進んでいく力へも繋がっていて。



ありがとう吉岡くん。



実り多きたくさんのしあわせが、
あなたのもとに届きますように。




お誕生日おめでとう。















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晴れ、ときどき雨の糸

2012年10月25日 | 思うコト




夜空に無数の星が瞬くように、この地上には謎が満ちておりまする。
幼き頃に抱えていた謎の一つに、演歌「北の宿から」のミステリー、
というのがありまして、どうしてあの歌に出てくる女の人は、
着てはもらえないと分かっているセーターを涙堪えて編んでいるのだろうか。
しかも極寒の中。毛糸を買うお金でストーブの灯油が買えるのではないのか?
どうして都のはるみちゃんは斜め45度を遥か遠目に指差しながら歌うのか?
寝違えたの?いや北緯45度ということなのかもしれないけど、謎だ。謎なのだ。
一旦考え出すと地下鉄の電車はどこから入れたのか考える春日三球さんの
ように夜眠れなくなっちゃうし、これは昭和最大のミステリーかもしれない。
「それはね、大人になるにつれ自然と分かってくる女心というものなのよ」
悶々と悩む私に母は当時そう諭したけれど、母さん、確かにそうです。
今わたしは涙堪えながらセーターを編んでいるわけで、というか、
堪えきれずに声を出して泣いちゃうわけなので、
己のあまりの不器用さに。

こんなセーター(←らしきもの。希望的観測)は、実の父親だって着るのを躊躇し
処理に困った挙げ句に愛犬ラブラドールの防寒着にしてしまうかもしれない。
ごめんよ、愛犬君、こらえてつかぁ~さい。いやでもまてよ、
パンクな人だったら大小穴空きだらけロッケンロールなセーターとして
斬新に着こなしてくれるかもしれない。しかし残念なことに私にはパンクなお友達はいないわけで、
うぅ、泣ける・・・泣けるのだ、泣いちゃうぞう、ぶひぃ、んもうっ、これはね、
大好きな、大好きな、吉岡君に編んでいるセーターなのよぅ~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
ってそりゃぁ着ては貰えないであろうぞなもし。それは確実に云えちゃってよ、
自慢じゃないけどぉ。寒いわぁ~心がぁ。というかですね、
今年の二月から編み始めたというのに、まだ前身ごろ、いや正確に書くと
未だに裾の部分を編んでいるというこの有様は平成最大のミステリーかもしれない。
 
編んでは間違えて解き、絡まった糸を無理矢理解いて余計に絡まり、
んがぁあ~~~~もうっ、どないしてくれるんやぁっとなりながら、
落ち着いて落ち着いてぇ糸を解いてまた初めから編み始めてぇ、あ、
また間違ってぇ、もういちど解いて編み直してぇ~~~~~~~~~ってもう、

ッハッ!!!!!

人生への悟りがひらけたような気がする。
きっと気のせいだ。

深まる秋
女心と不器用に
茄子の季節はなすすべもなし

北緯45度を見上げながら一句詠んでしまった。
なんか無性に虚しい。
不器用である、
というその事実で人をぞっこんに惚れさせてしまえるなんていう人は、
この世に高倉健さんしかいないのだ。どうぞよろしく。シビレルゼェ~。

しかしよくよく考えても考えなくてもそもそも女心云々という以前に、
恋に対する理解力に問題があるのかもしれず。
前述した「北の宿から」にしてもそうだけど、
これまた昭和の名曲小山明子さんの「あなた」にしたって、それは、
大工さんの乙女な心情を綴った歌であり、設計、外装内装施行、そして、
レースのカーテンまで編んでしまうというあっぱれなオールマイティーさ、
そうか、これからの女の人はこうあるべきなのだなと、
そう思い込んでいたわけであり。これはもうですね、
恋の理解能力というよりも遥か以前に、
この生き様に問題があるのかもしれない。思えばちっさいころから、
可愛げがなかった気がする。小学校四年生の時、町の夏祭り盆踊り大会に、
サイン会にやってきてくれたウルトラマンさんに、
「どうして今日は三分間以上地球にいられるのですか?」
と質問しようとして、ふと目に入ったウルトラマンさんの、
背中のチャック。
かねてからの疑惑の真相を掴むべく背後に回って手を伸ばしかけた瞬間、
ジョワッ! 
スけン。
と振り向きざまのウルトラチョップを頭に食らわされてしまったことは、
それはそれで良い思い出であるのかもしれない。ラッキーといえるかもしれない。
実際に見たウルトラマンさんは、テレビで観るより小柄に見えたけど、
でもそれはきっと、忍法ウルトラ縮小の術を使っていたからに違いなく、
いつ何時でもウルトラであるそのウルトラ魂になんか感動してしまったのだった。
だけどだけどできることなら、もう一つウルトラマンさんに聞いておきたかった、
背中のチャックはYKKですか、と(←変なこだわり)。

って一体、何を書こうとしていたのだろうか、あたすは? 

これは性格云々というより以前に、思考回路に問題ありなのかもしれない。
そういえば昔から理路整然となぞなぞを解くのも苦手だったしぃ。
「最初四本、次に二本、最後に三本、これなぁに?」と問われて、
「育毛に成功したオバケのQちゃんの髪の毛」と答えたら、
惜しくも間違いだったことがあった。正解はなんだったっけかぁ~・・・・・
う~~~~~~~~ん・・・・・・・・・・・・・・わからない。謎でございます。
謎なのだ、謎なのでありますよって、謎ですのん、なぞ、なぞ、なぞな~ぞ、
五年三組まほ~うぐ~み♪ って意味なく言葉を伸ばしてしまったけど、
そうだ思い出したぞう、あたすは、これを書きたかったのだ、この世の中には、
謎が満ちておるわけで、最近、その謎の最先端を突っ走り続けているのが、
猫弁の吉岡君でありもうす。

天才謎解きである、猫弁ことにゃんこ先生。
ベリーマッチにワンダホーで、とれびあ~ん、うぃ~♪
やはり笑わせてくれる吉岡君が一番好きだよう。
いや泣かせてくれる吉岡君も一番好きなんだけど、
でもきゅんとさせてくれる吉岡君も一番好きなのであって、
喜怒哀楽起承転結東西南北全てにおいてかっとび一番大好き大使なのだ、ああもう、
どうしてくれるだ吉岡君っ、好きじゃないかぁ、大が付くほどぉ、むはぁ 
と冷静に言うとこういうことなのですが、もとい、このにゃんこ先生、
最初にそのお姿を拝見した時には、



とサル地蔵の如くに固まってしまいもうした。吉岡君よ、どうしてなのだろう、
どうしてなのか、どうしてなのなの、何故なの何故なの、何故なのだ、吉岡君、
顔が違う。
オートマチックフェイスチェンジャーシステムをその皮膚下に48768枚くらい
搭載しているのでしか? 因みにハイブリット仕様でしょうか?いやとにかく、
大魔神もビックリ顔変化。

確かに猫弁先生の彼はマルちゃん大盛りやきそばのような、いや見ようによっては、
モッズヘアならず早採れ太もっずくヘアに変えてはいるけれど、顔だけというより、
その細胞全体がにゃんこ先生に入れ替わっているように見えるのでありまして、
そのキャラクターが全然違うとはいえ、はやぶさの森内氏を演じた同一人物だとは、
どうしても起点の点と点が繋がっていかないのですのん。別人種ずらよ~。
それが役者の仕事だよと言えばそうなのだろうけれど、
それが吉岡君の成せる業ということなのでありまっせう。
さすがだ、
びっくりするくらいに、
底力の人。
土台が違うぜ。
キラン


吉岡君の演じる人物たちからは、いつも、ある種の自由を感じるとです。
自由というと語弊が生まれるかもしれないけど、
でもそこから感じ取れるものにはやはり、
自由という言葉が感覚的に一番しっくりとするというか。

彼の演じる人物たちには、窮屈な私物的「枠」の影がなくて。

そこまでの感情に行き着くまでには、
様々な葛藤が、様々な行間に介在するのかもしれないけれど。

何度も重複して書いてしまうけれど、
あくまでも鑑賞者からの立場から言わせてもらえば、
吉岡くんは、そこにある物語の世界から、
にょぃ~ん、と一人ではみ出ていかない役者さんだと思うです。

伝えるべきこと、そこから自分は何を伝えられるのか。
自分の立つべく場所から、その存在意義を深め、演じる役の背中を押しながら、
伝えるべき物語の核心へと貫徹していく底力。

それはもしかしたら、小さな頃から接してきた名優さんたちから受けてきた、
公私に渡る影響が大きいのかもしれないですばい。幸運な星の下に生まれたよね、
とそれは言われてしまうことなのかもしれないけれど、でも、そこからどんな影響を受け、
そうしてそこからどのように成長していくのかは、受け取る本人の側の皿の大きさ、
その受け皿の角度の正しさに、全てはかかっていたのだと、いるのだと、そう思うです。


そんな想いに心を馳せていると、柄にもなくわたしも、
己の人生に思いを馳せて、自省したり、思い悩んだりするわけで。

今ある人生。そこにある満足。幸せ。ありきたりの人生。
今を生き、そしてそこにこそ幸福はあるのだよと、人は言うけれど。
それはもっともなことなのだと、確かにそうは思うのだけれど、だけれど、
そう思う気持ちの泉に、疑問を投げかけている心情の石も、一方にはある訳で。
今ある人生に満足しないのは、今ある幸せに対する傲慢だよという気持ちと、
今ある人生の満足は、今ある疑問に勇気を出せないままに踏みとどまっている、
妥協の世界なんだよと、そんな二つの感情が心の河底で拮抗していたりして。

あたりまえの幸せ、というけれど、
あたりまえの幸せって、それは、何なのだろう・・・。

そん想いにふと心が翳るとき、
吉岡君は、どう思っているのだろう。
どう思いながら、日々を生きているのだろうかと、
そんな想いに心の通り道を探してしまうわけで。


吉岡君のことを、まっさらさらな聖者なのだと思っているわけではなくて、
日々の生活には、様々な苦悩が生まれてくるでござんす。
このご時世の中、インドの山奥にでも篭ったりしない限り、
まっさらな聖者になるなんてことは、極めて難しいことなのだと思うです。


彼の話す言葉や仕草、
与えてくれる役柄を通して伝わってくる、
まっすぐな一途さ。
決して大袈裟な形ではなく、
でも確かな響きとして、
こちらに伝わってくる人としての質感。

意志という竿を離さず、己の河を漕ぎ続けていく吉岡君のその姿勢に、
その視線の行き先に、人として、まず人として、向上していこうという、
その意志の強さの在り方に、深い感銘を受けるわけであって、そんな彼が、
そんな心意気を持ち続ける彼のことが、大好きなのであって。



佇む樹は、何も言わないけれど、
そこに確かな実を花を咲かせ続け、
そこに自ずと、
道は出来ていくのだと。

迷いながらも、
その日一日を精一杯に生きていれば、
希望の種が植わった草原は、
いつでも君に懐を広げているよと。



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絵葉書日和

2012年09月30日 | 思うコト




長距離を走っている最中に、人は一体何を考えているのだろう?
マラソン中継をテレビで見るたびにそう思っていた私なのでありますが、
この度、何故か急に「あ、走ってみよ」という気持ちがどこからともなく
湧いてきたので、走ってみたとです。

何が苦手って走るという言葉を聞いただけで全速力で走って逃げ出してしまうほど
苦手なランニングなのですが、何故にいきなり走り出したのか? それはきっと、
思いつきです。いつものように。そして同じくいつものように、
ランニングするならまずは格好から。これは大切な基本です。ということで、

「ランスカだって履いちゃったし、高橋Qちゃんよ、どっからでもかかってくるがよい」

と息がって走り出してみたものの実際はブルドックに追いかけられた
バテンバテンなオバケのQちゃんデラックスとなってしまったわけで、だけど、
かっこいいつもりなんだってさぁ♪
苦しくなってくるとついふざけてしまう性分らしい。悲しい。

とにかく最初は走れるところまで走ってみようではないか、
とテキトーに決めて走り出したのですが、実際に走ってみると、
なんか結構走れてしまうものでありまして、大通りに出て芝公園を左手に流し、
もうちょっと先に行けそうだったのでさらに走ってみると、
今度は日比谷公園が再び左手に現れてきて、こ、こ、ここは、ここは、もしや、もしや、
あの稲葉一矢くんがギターをかき鳴らしていた野音のご近所さんなのではぁぁぁぁぁ~
っはぁ~~~~~~~クラ~~。血圧が急上昇してしまったのでそこでストップ。
危なかった、もう少しで高木de鼻血ブーになるところだった・・・。よし、
今度は頑張って目指せ皇居なのだ、この調子ならあと10キロくらいは走れてよ、
ふがあ!と鼻息も荒く決意しながら自宅に戻って地図を見たら皇居は
日比谷公園の真横に位置していたのだった・・・。知らなかった。
あともうちょっとで皇居ランできていたなんて・・・うぅ。

もとい気持ちを入れ直して皇居に挑んだ二回目ラン。
順調に日比谷公園を過ぎて皇居のお堀を目にしたのはいいものの、
ランナーさんたちは一体どの門をくぐって皇居ランに突入するのか
全く見当がつかなかったので、晴海通りに出る信号待ちをしていた
女性ランナーさんに付いていくことに。青信号になって三秒間を置いてから
走り出したものの、その女性ランナーさんのペースはとても遅い。すごく遅い。
ペンギンくんの歩みのように遅い。ように見えた。しかし速かったのだ。
ものすごく速い。一生懸命あとについて行こうとするのに、
どうしてもその人との距離が縮まなくて、どうお見受けしても
私より20歳は年上であろうかと思われるのですが、
高性能ターボエンジンスニーカーを履いているのだろうか?
というくらいの走りのパワーでありまして、きっとその方の体力年齢は
私より少なくとも38歳はお若いと思われ、どんどんどんどこ距離が
離れていってしまうのでありまして、というかですね、長い。遠い。
お堀の横を走っているのに一向に門らしきものに辿りつかないぞう。
一体いつになったら皇居の周りを走れるのでしかぁ? もう長過ぎるのよう、
って私の文章の方が遥かに長いのでした。すみません、
辛抱強く読んで下さりありがとうございます。感謝でぃす。

豆粒のように小さくなってしまった女性ランナーさんの後ろ姿を、
フガフガ息せき切りながら走るパグ犬くんのようになりながら走っていくと、
他のランナーさんたちがスタタタ~と走り入っていく大きな門が見えてきまして、
やっとそこまで辿り着いてみると、なんとそこは桜田門。これが、これが、
あの嫌というほど日本史の授業で暗記させられた桜田門外の変で井伊直弼が・・・
井伊直弼大老がぁ~~~~~~~~~~~~~~なんまいだぁ~~~~~~。

何はともあれ、おいどんはやりもうした。
ガッツポーズで見上げる空が涙で霞んで見えるのだ。
エイドリア~ン!
感無量どすえ。皇居だよ、おっかさん。
感動の気持ちを抱きながら家路について、あ、しまった、
皇居の周りを走るのを忘れてきてしまった。あほうでござる。

そんなこんなのすったもんだで三回目。
桜田門をくぐって、いざ皇居ラン。週末の土曜日だけど早朝のせいか、
そんなに驚くほど混雑はしていなくて、涼しくなってきた風が心地よく、
木々の葉っぱも深緑。お堀の水面を白鳥さんたちが優雅に泳いでいたりして、
なんかほのぼの。気持ちはしあわせ。体力限界。もうだみだぁ~。もう、もう、
力尽きてしまいもうした・・・これ以上は続けられな・・・・・ん、えぇっ?
よ、よ、吉岡君?! 吉岡君が今、わたすの真横を走り過ぎて行ったわ、
スタラタタ~~~~~ンと。ちょっと待って、待って、待って、待ってったら
待ってくだせい、せめてお名前でも~~~~~~~~~~~~~~っ、
ってだから吉岡だっつ~の。ちなみに、下の名前は秀隆ってぇのさ、くはぁ~
カッコイイずら~、俗な派閥から抜け出した一匹侍みたいな響きじゃないかぁ、
名前とその気質がぴたしっ!とこれほどマッチする人は珍しい。どうよ、これってば、もうね、
好き って、アッ、吉岡君がもう遥か前方に走って行ってしまったわ、
待って、
待ってぇ、
待ってぇ~、
待ってぇぇ~~、
吉岡くん
吉岡く~ん
吉岡く~~ん
吉岡く~~~ん
要するに何が言いたいかというと、
吉岡く~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん、
むはぁ ということなのですが、しかし実際、
ありえないことずら。こんなところで吉岡君に遭遇するなんて、
夏休み休暇中の雪男に草津温泉で遭遇する確率より遥かに低い確率のような気がする。
きっとランナーズハイによって呼び起こされた吉岡ハイによる幻を見てしまったのだ。
しかし似ていたわ、斜め11‘2度から見たその横顔は吉岡君にそっくりだった。
もしかしたら吉岡君かもしれない。例えご本人である確率が0.001%であっても、
0.001%の可能性がそこにあるということが重要なのだ、そうよそうよ、
だからこの眼で本人かどうかを確かめなくちゃ事実はわからなくってよ、
吉岡君、吉岡君、待ってぇ、吉岡く~~~~~~~~~~ん、待ってくだせい、
そんなに速く走って行ってしまわないでぇ~~~~~~~~~~~~~~
ん?
やはり違う気がする。後ろ身からだけの観察だけど、あの胸板。違う。違うぞう。
吉岡君胸板緻密研究所観察員のあたくしとしましては断言できるのだ。あの胸板は、
ミスター胸板キングのものではない。だって吉岡君の胸板は、将来世界遺産に
登録されるべきものであり、横幅、厚さ、体積、面積、肩幅から肋骨あたりへと
すらりと続く粋然とした曲線、どれをとってみても、あんびりーばぼー。
芸術品でごぜいます。もし世界胸板選手権とかがあったら、胸板部門、肩幅部門、
胸板肩幅バランス部門、ご当地胸板自慢部門とかで総合優勝まちがいなしだと思う。
それから吉岡君は、前を走るお方のようなTシャツ&ショートパンツ姿で走ったりはしないはずです。
きっとぶかぶかの白のランニング&オレの人生この一着、
みたいなカーキ色のよんれよれ~なズボンでランするはずであって、ってそれは
茶川さんなのであり、茶川さんといえば下駄マッハであるわけで、
下駄であんなに高速ランできる人は茶川さんと鬼太郎と薩摩の西郷さんしかいるまい。
現代部門では茶川さんがぶっちぎりで金メダルなのだ。さいこうっすね~!
そういえば茶川さんで思い出したけど、山崎監督はなんと宇宙戦艦ヤマトの
実写版のディレクターもされていたのですねぃ。できれば、できたのなら、
是非この↓キャスティングでも観てみたかったぁ・・・。

古代進:吉岡君
古代守:吉岡君
島大介:吉岡君
沖田船長:吉岡君
デスラー:吉岡君
佐渡酒造:吉岡君
真田志郎:マネキン
その他大勢:サンダーバード
猫のミーくん:タマ(声の出演)←ミーくんだけオリジナルアニメ出演らしい。

というようなことなどを考えるというか浮かんでくるままに
思い巡らせているわけなのですが、走るという行為はなんとなく、
窓を開ける感覚に似ているような気がするとです。
町並みを走って行く感覚と、開けた窓から入ってくる風で
部屋の空気がそっと変わっていく感じが似ているというか、なんというか。
みずたまりを飛び越えたり、木々のトンネルを走り抜けたり、
他のランナーさんたちと一緒に抜かれたり追い越したり(殆どは追い越されているのだけれど)
しながら走っていると、自分を取り囲んでいる物事とかが、大袈裟ではなくて、
少し変わっていったりする感覚が時々あるというか。
走りながら、自分に一番必要なものはなんなのだろう、
本当に必要なものも分からないくせに、それを探しもしないまま、
無駄に欲しいものばかり求めて生きているのではないのかな、
なんて自省したりもして。

そんな色々な思いを浮かぶまま消えるままに走っているけれど、
やはり一番に浮かんでくるのは吉岡君への想いだったりするわけで。
いや走っていなくてもいつも想っているんだけれど。
新作のドラマやCMで観る彼は、

ふいに送られてきた葉書に映っていた山の写真。
てっぺんだと思っていたその頂上の向こうに、
なだらかな丘の景色が続いていた。
そんな眺めが広がる次の便り。
ゆっくりと、ゆったりと、遥かに伸びていく、
その先の風景。
そんな感じの、吉岡君。

傍から見る風景の一つ一つには、
完成された美しさが静かに存在しているけれど、
けれどもそこにはやはり、
崖っぷちや行き止まりや迷い道や薮の暗闇なんかが、
きっと途方もなく散在していると思うわけで、吉岡君だってヒト科の生物だから、
時にはしゃらくせぇなとかああもうやってらんねぇよとか
サザエさんのエンディングテーマを耳にして世捨て人の気分になり
日曜の夜七時に頭を丸めて托鉢の旅に出たくなったりするのかもしれない。
しないのかもしれない。
けれども、転んでも滑ってもつっかかってもひっくりかえっても、
生きていればこそ起こる出来事だったりするわけで、
いずれそれは、心の膚の温もりへと、
繋がっていくことなのかもしれず。

吉岡君が何に向かい、何に逆らい、何を追い求めて生きているのか、
生きていくのか、それは当の本人にしか知る由もないことだけれど、
もしかしたらひょっとして、そんなことは渡る風にでも聴いてくれ、
といった心境であるのかもしれず。ないのかもしれず。いや意外にあるのかも
しれないけれどそれはどうかな、フ(←何者?) なんてけれどもやっぱり、
それは私になんて到底分かることではないのだけれど。でも、

一度決めたら、
真っ直ぐに目標へと突き進んでいく勇気。
実践力の潔さ。
道間違えない意志の方向性。
その気骨。
人としての質感。
それらの響きを、
吉岡君は静かに、しなやかなその力強さで、
伝えてきてくれるわけで。

かっこええぞなもし、
と思える人ってこの世に少なくないけれど、
けれども、
美しいなと、
心の奥底に素直に響かせてきてくれる人は、
そうざらにはいない。
その存在の在り方に素直に感動し、感謝し、
勇気づけてもくれる人は、
私にとっては吉岡君しかいないのであって。

すいっと真っ直ぐに伸びている心の背筋で、
ふわりとこちらの姿勢を正してくれる。
男らしいとは、
こういうことだぜ。
と、その在り方から心底思う。
美しいのだ。
べらぼうに。
粋じゃねぃかぃ、吉岡君。
まいるぜよ。
もうまいっているけど。

もしも彼の存在を知らずにいたとしたら、
どこかわけかわらん場所にどわわわわ~と流され続けていたかもしれない。
日々の生活は、泣いたり笑ったり怒ったり喜んだり甘かったり辛かったり
しょっぱかったり酸っぱかったりおでんに辛子をつけすぎちゃったり、
千状万態な出来事が金太郎飴のように続いていく冒険だけれど、
吉岡君がいてくれるから、今いる場所に立っていることができるのだろうなと、
思うわけで。

吉岡君に心を寄せるとき、っていつも寄せているけど、何と言うか、
深まりつつある秋の夕映えに聴くGONTITIの曲のように、
ちょっと切なくなっちゃったりするのだけれど、
吉岡くんのファンでいて本当によかったとつくづく思えるその温かみは、
幸せの日だまりであるわけで。
なんてこったい、吉岡君、もうほんとに、
いてくれてありがとう。

そんな想いに心を馳せていた、
絵葉書日和。
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徒然なるまま冬の巻

2012年02月19日 | 思うコト




マッチョになろう。

宵闇に寄り沈む夜更けの街をリビングの窓から眺めつつ、
私はそう誓っていた。
なにもそれは昨日今日に決めた事ではない。
長く待ち続けた春、気候学的に言うところの、
“ヒデちゃんお待たせ春一番”を待つこと感覚的に四千二年。
中国四千年の歴史より長くってよ。 
やっと、やっと、やっと、それやぁっとこさぁ~♪と思わず
セブンイレブンの自動ドアの間で阿波踊りのステップを踏みたくなってしまう
暴れん坊足を必死に抑えながら、春を待ち、待って、待って、じっと待って、
まぁ~つぅ~わぁあ~~~なんてあみんの曲を歌っちゃったりしながら時には
「ボス、長過ぎでんがなっ!」と太陽に吠えたりながら待ちに待ち続けた、
四千三年間(←さっきより1年増えている)。
ル・マン24時間耐久レースより過酷な忍耐度合いだったのであってよ、
感覚的に。

ですので三丁目の夕日がめでたく全国公開になった日には、
ぱんぱかぱ~ん、ぱか♪
「おまっとさんでしたぁ~!」
とキンキンナレーション付きのくす玉が頭上で割れたわけであり、
更にはぶっちゃけ、地団駄踏んでしこ踏んじゃうほどに待ちきれなかった
「はやぶさ」の公開日には、感無量の余り、全然関係がないのだけれど、
銀河鉄道999とキャプテンハーロックのオープニング主題歌を熱唱してしまった。独りで。
これを正に独唱というのでしょう。
ちなみにメーテルは一体どこのブランドのマスカラを使っていたのだろうか?
逆さまつげには悩まされていなかったのだろうか?
一度聞いてみたい。
なんてことなんてどうてもよくってよ、とにかく言いたい事は、こんな、こ~んな、
「秀隆まして新年だよ、全員しゅ~ご~!」
ばばんばばんばんばん♪
であるのに、
何故にあたくしは失意の薪割りを背中に背負ったままリビングの窓の前で、
仁王立ちをしているのか。

何故なのだ?

物事の発端には、必ず「原因」がありますですねぃ。
しかしそれは振り返ってから初めて認識、検証されるものであるので、
もしやそりは「こじつけ」なのではなかろう?
という感もありまするがまぁそれはどうでもいいとして、
え~っと何を書いていたのだったっけか、そうだ、そうそう、
「ヒデちゃん春竜巻♪春巻きじゃなくってよ、春巻きはやっぱり揚げより生よね」
というご時世なのに何故にあたすは夜更けの街並みを眺めつつ、
マッチョになろう、ふがっ
と決心したのか? しかもどら焼きを片手に、ゆえにジャンボサイズを。
拝啓恵子ちゃん
これには涙なくしては語れない経緯があるわけで。
それから、
君の名字が未だに思い出せないわけであり。

地球三周半してしまえるくらい首を長くして待っていた
吉岡君の新作映画なのに、
公開の数週間前からてんてこの舞いの忙しさに踊らされていた私。
PCを開く時間も侭ならず、先日、ものご~~~~つう久しぶりに
吉岡君のオフィシャルサイトに行けたと思ったら、

ドカベン?

いや目の錯覚であってよ、よく目を凝らして見たら、

土佐弁。

と新作情報がぁ~~~~~~~~~~~っ!!!

ということは早弁なのでしかぁっ?!

って違うずら。
「猫弁」と書いてあるでがんす。ということは、
し、新作ドラマぁああああ~~~しかもスペシャル~~~くぅらぁ~~~~、
なんてこったぃ、
おいどんは、
観れないでごわす。
デジタルのバカ野郎~~~~~~~~~~!
と東京湾の片隅に小石を投げつけてもアナログがデジタルに変わるわけではなく。
新作映画も未だに観れないまま、
新作ドラマ鑑賞にもきっとフラれつづけ、
くぅ・・・・くびぃ・・・・・・・・・・・・もう・・・・・・・

グレてやるぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!

と夜中に自宅を飛び出して突っ走った大通りの先に、
東京タワーがどぉ~ん!
ちゃ、ちゃ~~~~さ~~~~~~~~~ん・・・・
ぐす
い、いかん。
急いでシェルターのコンビニに入り用を済ませて家路につき、
おいどんは泣かないずら、とリビングの窓の外にキィッ!
と向けた目線の先にNEC本社のビルがどぉ~~ん!

くぅ・・・

景観の邪魔であってよ。

いや、そんな勝手な要望は生ゴミと一緒に捨てれば済む問題なのだけれど、
でも、でも、よ・・・・、

吉岡く~~~~~~~ん・・・・・・・

パタ。

以前から薄々気付いてはいたけれど、
最近、
というか、
ここ数ヶ月以来、
どうも体調が優れない。
何というか、
きっとお医者さんに診てもらいに行き、
血圧を測ってもらったら、
「低吉岡です」
と診断されるに違いなく。でも・・・、

それじゃぁいけなくってよう!

ずっと、ずっと、ずぅ~っと、
ちっさなちっさな頃から、
そこに見続ける吉岡君の姿に、
心の栄養価を頼ってばかりの、
それが当たり前の私だったけれど、
でも吉岡君にいつも頼らなくても、
正常血圧でいられるようにならなくては、
そうでなくては、
もういけないのかもしれない。
と、私は思ったわけで、だから心の核も身体の核も、

マッチョになろう!

と両手を握りしめて誓ったわけでその瞬間、
ぐわにょん、
と左手に持っていたジャンボどらやきが握りつぶされてしまったわけで、
しかしすぐ後に全て完食したわけであり、
拝啓恵子ちゃん
恵子ちゃん・・・
恵子ちゃん・・・・・
やはり名字が思い出せないのであって、とにかく、

鍛えねばならん。

と。
だからこれは、
昨日今日に思い立ったわけではなく周囲の人はこれを、
「咄嗟の思いつき」と呼ぶかもしれず。しかし、
呼ぶのはあくまで憶測であり結果が全てを語るのだ。
吉岡君を見よ。彼はあくまでも結果で表す人であり、即ち、

男。

た、たまらんぜよ、どうするのよ、これ。
吉岡君って、ほんわぁ~とか、やんわぁ~とかっていうイメージが、
前面に強く押し出されてくる印象が最近は強いけれども、でも、
彼の核心を思う時って、前にも幾度かうわんうわん書いたけれど、
森に棲む一匹の狼というか、真っ白な雪原を走る野生の馬のような印象が、
すいっと、心の中に厳然と浮かび上がってくるわけで、たっ、
たまらんぜな~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~、嗚呼、
好き好き大好き吉岡くぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~んっ、
惚れちゃうわよね。
絶品に逸品にべらぼうにかっちょええじゃないのぉ、旦那ぁ!
極上やで。
松!                                                      
ハッ

いけない。
やはり心のガソリンスタンドは吉岡君へと納車してしまうのだった。
だってぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~、
心が呼んでしまうのですもの吉岡君へと。もうこれはしょうがないずら。
吉岡君ったら、い・け・ず。
うきゃ
だはぁ~、やっぱり吉岡君なしでは生きていけないのだった。んがしかし、
これだけは鍛えておこう。客間の片隅に置き忘れられたこの鏡餅のような体型は。

スポーツの基礎は、
まず身なりから。
これは基本です。
ということでさっそく揃えた筋トレウェアー。
見たくれを除けば、すばらしく完璧、キラン
そしてダンベル。
スポーツ店の店員さんいわく、
「女性の方はまず0.75kgのダンベルから始めた方がいいでしょう」
「0.75kg?(妄想スイッチオン=吉岡君の体重は推定54kg=ほっ、細いっ)」
「女性は、特に、初心者の方はそのくらいから始めるのが妥当です」
「でもそれじゃぁ困るんじゃないでしょうか?」
「え、何がですか?」
「運んだりとか。54kgのダンベルとかないんですか?」
「ないです。そもそもそんな重いものは誰も使えませんよ。
鍛えたかったら、そうですね、お客さんはこの重さから使ってみてください」
なんだかむりやりに売りつけられてしまった感が拭えなかったけれど、
勧められたダンベルを一組購入して、さっそく真夜中の自宅に戻り、
事前に購入しておいた”アメリカンナンバーワンセリング筋トレDVD
を再生!いくわよ、最初はスクワットから、わんっつーわんっつー
ピキン。
え?
なんか、
ピキン
とか鳴ったわ。
右の太ももから。しかも、
ぴゃぁ~~~~!
とかって頭から吹き出し語が飛び出てきたと思う。
なんなのかしら、
なんなのこれって?

「肉離れです」

ぴゃぁ~~~~~~~~!!!
と診断されたその瞬間に頭のてっぺんからまた吹き出しが飛び出てきたと思うのですが、
余りの理不尽な痛さに出向いた診療所、及びにそこの老先生が、もう、
も~~~~~~~~~~~~れつに最強ディープインパクト南関東一等賞だったので、
ぴゃぁ~~~~~~~~濃度がその場で30%薄れていたのですが、
その詳細をここで書くと文字数3万語を越えてしまうので割愛いたしまする。

ということで、
マッチョになろうと決心した私は、
やっとどうにか仕事を一段落させたのにもかかわらず、
肉離れのために銀幕の吉岡君が更に銀河に遠のいてしまったという。
もう、泣いても、泣ききれない・・・・思いっきり泣いたけど。
ぐすん。

だけど、
でも、
負け惜しみじゃないけど、
私は、一体、
何をそんなに焦っているのだろう?
なんて、
ふと思ったりするわけで。

だって、
銀幕の吉岡君は観たい!
猛烈に観たい!
なんとしても観たい!
と切望しているけれど、
でも、
もし観れないとしても、
吉岡君は、
どこへも行かないわけで。
そこに、
やっぱりいてくれるわけで。

これもずっと以前に書いた事だけれど、
吉岡君は、
どこからかわからんところから吹いてきて、
どこかわからんところへ吹いて消えていく人ではない。

吉岡君は、
流行ではない。

吉岡君は、
吉岡君であって、
役者である前に、
吉岡秀隆なのだ。

そこにびっくりするほどむき出しの純粋を覚えるのだし、
そこからまっさらな感動が生まれてきて、
無尽蔵の魅力が彼の泉から授けてもらえるわけで。

文字にするとそれは大層な感じに思えるけれど、
でもそれは、
決して大袈裟な事じゃなくて、
とても素直に染み入ってくる彼の魅力であり。
人を想うってこういうことなんだなぁ~と、
根源的な幸せへと深く導いてくれる、
大切な想いを思い出させてくれる人であるわけで。

吉岡君のどこが好きなの?
と聞かれたら、
たぶん一言では言い尽くせないと思う。

それは、
過ぎ行く夏の空への憧れに似た
そんな感覚のような、

次の季節へと、
そっと託していく
尽きることのない
新たな想い。

またの日へと、
次いでいく、
永遠の約束。


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旅人は行く

2011年10月16日 | 思うコト



長いこと吉岡君のファンをしているけれど、
そういえば、
生身のご本人の姿を直にこの目で拝んだことは、
一度たりとしてない。

という事実にふと気付いた秋の夜長。
月夜を彩る鈴音の虫。
暦はもう、
あっという間の十月でございますねぃ。

その昔、テントから見上げた夜空に流れ星を見つけて、
急いで願い事を三回唱えて目を開けると、
流れ星は星の狭間をゆったりと流れていて、
それならばともう一つの願い事を唱えてみたら、
それはまだ流線型を夜空に描いていて、
なんて気前のいい流れ星くんなのかしら、
西友歳末大バザール並のサービス根性だわ、もう一丁いくぅ?
とペヤングソース焼きそば調に再び願いを唱えてよく見ると、
それは人工衛星だった。
という経験は誰もが持つ青春の一頁の痛みなのだと思う。
とまた回りくどいことを書いてしまいましたが要するに、
もしも星に願いが届くのなら、
一目でいいから実際にこの目で直に吉岡君の姿を拝んでみたい。
いやでも実際にご本人を目にしたら、
とりあえず背面から卒倒してしまう可能性899%なので、もとい、
もしも星に願いが届くのなら、
一目でいいから背面卒倒してからこの目で直に吉岡君の姿を拝んでみたい。
しかしいくらなんでも、
ひとまず卒倒してから吉岡君を背中に背負ってシベリアまで逃走したい、
という願いが叶うわけもなく(←いきなり願いが飛躍している)、
全てのことがそうであるように、
願い事にも踏まえというものがございますので、
ここはぐんと押さえて初級から、そろばんでいえば十級から控えめに、
せめて・・・、せめて・・・、
吉岡君を小脇に抱えて能登半島まで逃走したい。
我ながらナイスで控えめな願いだわ、けれども一般的に人はそれを、
誇大妄想と呼ぶのかもしれないがしかし良いのだ言いたい人には言わせておこう、
万事物事の発展は妄想が始点だとエジソンも言っていたかもしれず、
(↑秋刀魚より旬に開き直っているらしい)、
少女老いやすく皺寄り易し、
と朱子も酔いに任せてぽろっと言っていたかもしれないよ♪
ということで思い立ったが吉日祝い事は大安に。
思ってばかりでは地平線は遥か遠いままなのだ、
思ってばかりで予習復習もせず、
数学のテスト用紙を目の前にしてデスラーより真っ青になったまま後日、
赤鬼のような赤点を取ってしまったことが(幾度となく)あったわたくしは思う、
数学は拷問だ。
と。いや論点がずれてしまったわ、って、
一体何を書きたかったのかしらん? とにかく、
思っているばかりでも、
それを行動に移したとしてもやはり、
日は昇り、日は沈む。
人間、一日に与えられた時間ならばみな平等であるわけですけんのう、
そこに何を昇らせ、何を沈ませるのか、ということに、
もしかしたら何らかの意義を見いだせるのかもしれないですばい、
せめて吉岡君の育った町を見てみたい・・・
せめて吉岡君の呼吸していた町の空気に触れてみたい・・・
と恋する乙女はふと心に想ったわけで、ただそう想っただけだけれど、
いざ出陣!

思えば遠くに来たもんだと金八っつぁんはむか~しに歌っておりましたが、
高校入学と同時に親友の一人がちとばかり遠方に引っ越しをしまして、
そこは思えば近くに来たもんだと歌いたくもなるくらいに、
吉岡君を育てた町のすぐお隣さんの場所であり、
当時から頻繁にその親友の家には遊びに行っていたのに、
実際に吉岡君の住んでいた土地に足を踏み入れた事は今まで一度も
なっすぅいんぐ。
ゼロでありました。
高校生だったその当時から、親友と一緒に都内に向かう電車の中で、
一つ隣にある吉岡君の住む町の駅を通り越すたびに、
吉岡くん・・・・・・・・・・・・・きゅぃ

と突如恥じらいの乙女となって両手を組み合わせウルルンとなったり、
よ、吉岡君・・・・そうなのよ純君じゃないのよ秀隆なのよ、うりゃぁ!
と小さな拳を平らな胸元で握ったり、はたまた時には、よ、よ、よ、よ、
よわわわわわわぁあああああ~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
とキンチョーしすぎてフライングしスタート地点で団子状態になってしまった
犬ぞりチームのワンちゃんたちのような精神状態になってしまったりぃ~の、
なんといいますか極めて「距離をなるべくおきたい人」=「ヤバい人」、
と常時そうなってしまっていたのでまさか実際に吉岡君の住んでいる土地には、
到底降りられる状態ではなかったわけでそういえば、
最初の頃は他人の振りをして半径2m以内に乗車していてくれていた親友も、
いつのまにか別の車両に乗るようになってしまっていたわけであり、
しかし拝啓恵子ちゃん、
どんな状況になろうとも、
肌のハリはあの当時より(だいぶ)衰えようとも、
愛は決して衰えないのであった(←随時愛情増量中)。
うふ

ということで思い立ったが大安、
親友二人と現地集合をする約束をして(ありがとう友よ!)、
ずっと行きたくても決して行くことのできなかった、
愛しの人を育てた町へと、
やっと足を運ぶことが決まったその日、
ドキドキしながらJRの駅へ。
運良く最寄りの駅からは、
乗り換えなしの一本で当地に行けてしまうという、
ラッキーなブルーラインの電車が通っておりなんだかとっても、
イケてます、グッ
しかしそれは鬼のような几帳面さといいますか、
血液型で言うところの産地直送濃縮還元A型ぎゅぃっと詰まってます、
みたいな律儀さの基本的にはリンダも困っちゃうくらい各駅停車なのよね線。
しかしいいのです。
愛には行き着くその到達時間も必要。ないに越したことはないけど。
とにかく電車の席は確保できた事だし、ここは逸る気持ちを抑えて、抑えて、
抑えて、落ち着いて、落ち着いて、落ち着くのよ、落ち着きなさいってば、
一駅、二駅、落ち着くのよ、三駅、落ち着きなさいよ、四駅過ぎたわよ・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しまった寝過ごしてしまったっ、しかも終点まで

急いで折り返し逆方向に乗り直して、やり直し。リラックして、
しかし気を抜いてはいけないのであってよ、ここはこうしてバランスよく、
リラ~ックス、むむぅ~、リラ~ックス、むむむぅ~、リラ~ッ、むむ~ぅ、
リラ~、むむ~、リラ、むむ、リ、む、ってあたしゃ、
温泉につかった世の塵洗う苦行僧かいっ?!
なんてな「近づきたくないヤバい人・アゲイン」となりながら、
やっとご当地に到着。はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~何だか、
面かぶりクロール3000メートル泳ぎきった後のような気分だわ(←カッパ?!)、
なんてなかすかな達成感を心の隅に噛み締めつつ降り立った、

吉岡君の、
育った町。

吉岡君を、
育てた町。

そこに生まれて初めて足を踏み入れてみて、
駅から降り立つ人全員が吉岡君に見えてしまった。
目の前を通り過ぎていく学生達も、
相向かいでウコンの力Superをぐい飲みしているおっさんも、
推測548歩先で腕時計をチェックしているあのスーツ姿の会社員も
美白エステして体重を18キロ落とし手足をすらりと引き伸ばして
スナフキン風味のふりかけをかけたらどうみても吉岡君187号だ。
おっかさん、
おいどんは、
おいどんはぁ、
やりもうした。
感無量でごわす

「なに一人で感慨にむせっているの?」

と背後から声をかけられて振り向くとそこには吉岡君598、599号が。
と思いきや駅前で待ち合わせていた親友二人だった。
「じゃあみんな揃ったところでちょっと町を散策してみる?」
と言われてそこで初めてまともに周りを見渡してみて、
そこは、

決して大きな町ではないけれど、
小さなよくある町なのかもしれないけれども、
けれどもそこには、
日々の呼吸が宿っていて、
人々の生活が息吹いていて、
大げさではないからこそすぐ傍に感じられる、
人生の温度がそこには確かに感じられて。

「うん、もうここで大丈夫。ありがと」
「え、でも吉岡君の町を知りたいからここまで来たんじゃないの?」
「うん、でもここだけで十分かも。ごめんね」
「って今来たばっかりなんだけど?」
「まぁいいじゃん、風子(仮名・22歳大幅にサバよみ)がそう言うなら」

そんな幼なじみだからこそできるやりとりをしつつ、
みんなで駅の改札口に向かいながら、
ふと後ろを振り向くと、
秋の日の名残をおびた町が夕闇に微かに触れていて、
それは遠景を描いた水彩画のように、
なぜかしら、
とても切なかった。




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雁の便り

2011年08月12日 | 思うコト






草原に佇む一本の樹があって、
その背後には深い森が広がって山が聳え、
稲穂の実る黄金を縫うように、
ゆったりとした川がやがて海へと流れている。


吉岡君の姿を想う時、
そんな時間の流れの印象が、
風景画となって心に浮かんできます。


そこには迷い込んでしまう森も、
壁に行き止まってしまった道も、
立木は風雨に倒れそうになってしまうことも、
きっとあるのだろうと思うけれど。


けれども
吉岡君の描き続ける風景は、
廉直として、
静やかに、
力強い。


もう少し、
もしかしたら、
明日はもう少しだけ、
自分も高みへと登っていけるのではないかと、
そう思わせてくれる存在感がその姿にはあって。

それは、
やわらかな木漏れ日にそよぐ風のような、
構えのない呼吸感を伴っていて。


偶然の重なりにも気付かないまま、
すれ違っていってしまう人の命だけれど、
無辺に散らばる星のような人生の中から、
吉岡君の光を見つけられたことが、
私にはとても大きな幸せであって。


僅かなカケラの一片なのだろうけれど、
吉岡君が築いていく確かな足取りの風景から、
演じる人物へと投影されていく光を見つめていけることが、
こんなにも大きな力となって、
自分の人生を豊かにしてくれているということに、
時々、
未だに驚いている自分がいたりして。


ありふれた街の中で、
ありきたりな人生を、
あたりまえの生活の中で、
感謝していける心。


吉岡君から感じる、
そんな心の素直さと、
逞しさ。


それは、
ずっと変わらない。


ずっと変わらない笑顔と、
まっすぐに伸びている、
心の姿勢。


もしかしたら、
真の美しさは、
そう在るということなのかもしれない。


ざわつく街角に、
曇った空が泣き出しそうになるときも、
その名前を気持ちにするだけで、
ふと幸せになれちゃったり。


あなたがいてくれて、
本当に良かった。

ありがとう、吉岡君。
そして、
お誕生日おめでとう。


沢山の幸せが、
あなたのもとに訪れますように・・・。

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月のカケラと、

2011年05月10日 | 思うコト





吉岡君の声は、
どうしてあんなにもやさしいのだろう。

心地よい、
という言葉だけで括ってしまおうとすると、
どこか切なくなってしまう。

遠い心象風景の扉を開けてくれるような、
懐かしい響きを持っていて、

心のてっぺんからつま先へと、
すう、
と触れて、
在るべき場所へと、
すとん、
と落ちていく音色。

そこから広がっていく、
余韻の静けさ。

やさしい、という言葉ひとつの中に、
幾層もの光と翳が重なって揺れているような、
心の根っこから根っこへと響いてくる、

ずっと聴いていたい声。


そんなことを想いながら聴いていた、
シッダールタにあてた吉岡君の声。

抑えた感情から綻び落ちてくる志操がそこにはあって、
沖に浮かぶ漁り火みたいな、そんな情景を呼び起こす声だった。


全ての作品を読んでいるわけではないし、
逆に読んだ作品は少なくて、
何がと問われたら、
具体的にはこれだと答えられないのだけれど、
既読した手塚治虫作品群と吉岡君には、
どこかしら共通するものがあると思っていて、
その想いを抜きにしても、
これはとても好きな作品であったから、
シッダールタの声を演じてくれたのだと知ったときには、
すごく嬉しかった。


シッダールタは悟りを開いて仏陀となり、
その言葉は経典へと形を残して、
後には神と呼ばれる存在になったけれど、
シッダールタ本人は神になろうとして悟りを開いたわけではないのだろうし、
真理とは何かという疑問に少しでも近づこうとした人であって、
だから葛藤した末に彼が見出した答えはそこに依存させていくものではなく、
それは実践的な哲学なのだろうと、そんなことを考えている自分が、
地球の端っこ辺りにいたりして。

吉岡君はどんな想いで、
シッダールタに声を渡していたのかな・・・。

なんて、まとまりのない思いを巡らせながら、
風の揺らしていく緑の先には青い空があって、
ぼんやりと眺める心のすみっこに、
ふわりと吉岡君の声が聞こえてきたりすると、

どうでもいいやと思っていたことにも意味が添えられたりして、
雑景は景色となって色をやわらかに変えていったりするので、

ダメと言われたっていいよ、
言わせておけばいいよ、
そんな時はたくさんやってくるけれど、
でもやがては去っていく夕立みたいなものだから、
また頑張ろうかと、
歩幅に元気が出たり。

人は前に進んでいくしかない生き物で、
たとえ振り返っても、
立ち止まったとしても、
それは振り返ったり、
立ち止まったりしながらの時を抱えながら、
やはり前へと進んでいるのだろうなぁと、
そう思ったりもなんかして。


「君は、言ったよ」


それは草露の宇宙にも似た、

君の声。


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ご無事でありますように。

2011年03月13日 | 思うコト


ブログを書いて更新し、風邪で体調がすぐれなかったので、
寝室で横になっていたら最初の揺れがきました。
熱があったので目眩かなと思っていたのですが、
次第に書棚の扉が大きく揺れだして、
怖くなってベッドから起き上がったときには、
揺れの大きさにまっすぐ立っていることもできない状態でした。
部屋の中を這うようにしながらやっと廊下へ出て、
非常階段で34階から地上に降りました。
あんなに怖い思いをしたのは初めてです。
説明できないくらいの怖さでした。

報道されている被災地の様子に言葉も出ません。
被害に遭われた方たちのことを思うと、
どうしてこんな事が起こってしまったのかと、
ただもうやりきれない思いで、悲しいです。
これ以上の被害が出ないよう心から祈っています。

余震がつづいていますが、どうぞ引き続きお気をつけてください。

みなさまと、みなさまのご家族、お友達がどうかご無事でありますように。



                              風子
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ご挨拶

2010年12月31日 | 思うコト



いつもお越しくださってありがとうございます。

2010年はまるで竜巻のように過ぎていった一年で、
中々思うようにブログを更新できなかったのですが、
亀の歩速のようなブログを、
それでも読んで下さった皆様のお陰で、
今年もなんとかここまで続けていくことができました。
皆様にはいつも感謝の想いでいっぱいです。
ありがとうございました。

こんなブログでありますが、
来年もまた皆様とここでお会いできましたら、
とても幸いです。

これから寒さも一段と厳しくなることと思いますが、
どうぞご自愛くださり、
良いお年をお迎えください。

2011年も、
皆様にとって実り多き、
素敵な年となりますように。

心からのお礼の気持ちを込めて。。。



               2010年12月31日
                      風子

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