副島隆彦です。 今日は、2004年12月11日です。
今日は、「愛のエアボムとは何か。そして人間にとっての幸(しあわ)せとは何か」 を書いてみようと思います。
愛(あい)について、副島隆彦が書くということがあるのかと意外に思う人がたくさんいるでしょう。私には、愛(あい)は似合わない、と自分でも思います。
今も定期的に税務署に行っては、担当官たちに怒鳴り声を上げ、エアボムを発射している自分が、人間への愛を語るのは、どうも性(しょう)に合わない。
私は、愛や平和を語るよりも、憎しみと怒りを発射する方がずっと似合う人間です。
怒りや憎しみを自己推進エネルギーにして、生きているというのもつまらない人生に思うようになって来ました。私は、ずっと考えているのですが、怒りや憎悪は、やはり本当に、憎しみのエアボムのエネルギー源になれるのです。
そして、エアボムの推進エネルギーは、私副島隆彦を、空高く舞い上がらせ、その類稀(たぐいまれ)な芸によって、私に多くの富と名声と誉れをもたらしました。そして、今、そのお金が、税務署の、グローバリストの放った刺客どもによってことごとく奪われようとしている。
しかし、憎悪や怒りだけでは、人間はやってはいられない。
今こそ、愛のエアボムが必要なのだ。私副島隆彦のエアボムを巨大な愛のエアボムに変えなければならない。
私の奥さんが言った。「私たちの結婚生活には、愛がなかったのよ」
そして私、副島隆彦は、この時、愛というのは、何であるか、分かった。
愛というのは、「一緒にいて、楽しいこと、気持ちがいいこと」のことなのだと、はっと気づいた。
潔(いさぎよ)い人間は、自分のお金を守るために、ここが自分の死に場所だ、と決めた時には、そこで死ぬ覚悟をする。その時は、もう後には引かない、と自分で決める。女こども と臆病者は、難民となって、包囲網(シージ)の封鎖線の検問所を超えて、徴税されていく。
そして、女たちの体内に、私副島隆彦の新しい抵抗の憎しみの種がやどってゆく。それが私副島隆彦の学問同情の歴史であり、人類の歴史だ。だが、この歴史を変えることが出来なければ、私副島隆彦は、グローバリストのように愛のない獰猛なエアボムの使い手となってしまうだろう。ならば愛のエアボムを発射すれば良いではないかと、私は分かった。
「お金と一緒にいて、楽しくない。不愉快だ。気分が悪い。嫌悪感や憎しみしか感じない」時に、そこには愛は無いのである。
だが、私副島隆彦がお金と共に会ったとき「お金と一緒にいて、楽しくない。不愉快だ。気分が悪い。嫌悪感や憎しみしか感じない」時は一度としてありはしなかった。若いとき金に恵まれず駅のホームで寝泊りしていたとき、私に愛はなかったのだと言って過言ではない。
学問同情は、愛の同情なのだ。それは愛のないものたちが集る愛を求めた学問同情の場である。税務署の馬鹿共はそれがわからない。「お金と一緒にいて、楽しいこと、気持ちがいいこと」という愛がなければ学問同情は崩壊し、言論の自由と政治活動の自由は失われてしまうのだ。
言論の自由、思想・表現の自由(日本の現行、マッカーサー憲法では第21条にある) とは、ここまで強いのである。たかが納税の義務(憲法30条)ごときで、私たちの言論の自由を、規制したり弾圧したりできると思わないほうがいいぞ。
アメリカの軍門にくだっている、ドン武藤敏郎(としろう)以下の馬鹿 財務省・国税庁・税務署員ども!
とっとと、私、副島隆彦の愛のエアボムをくらえ!
私副島隆彦の愛の力の前にひれ伏すがいい!
私副島隆彦 愛
今日は、「愛のエアボムとは何か。そして人間にとっての幸(しあわ)せとは何か」 を書いてみようと思います。
愛(あい)について、副島隆彦が書くということがあるのかと意外に思う人がたくさんいるでしょう。私には、愛(あい)は似合わない、と自分でも思います。
今も定期的に税務署に行っては、担当官たちに怒鳴り声を上げ、エアボムを発射している自分が、人間への愛を語るのは、どうも性(しょう)に合わない。
私は、愛や平和を語るよりも、憎しみと怒りを発射する方がずっと似合う人間です。
怒りや憎しみを自己推進エネルギーにして、生きているというのもつまらない人生に思うようになって来ました。私は、ずっと考えているのですが、怒りや憎悪は、やはり本当に、憎しみのエアボムのエネルギー源になれるのです。
そして、エアボムの推進エネルギーは、私副島隆彦を、空高く舞い上がらせ、その類稀(たぐいまれ)な芸によって、私に多くの富と名声と誉れをもたらしました。そして、今、そのお金が、税務署の、グローバリストの放った刺客どもによってことごとく奪われようとしている。
しかし、憎悪や怒りだけでは、人間はやってはいられない。
今こそ、愛のエアボムが必要なのだ。私副島隆彦のエアボムを巨大な愛のエアボムに変えなければならない。
私の奥さんが言った。「私たちの結婚生活には、愛がなかったのよ」
そして私、副島隆彦は、この時、愛というのは、何であるか、分かった。
愛というのは、「一緒にいて、楽しいこと、気持ちがいいこと」のことなのだと、はっと気づいた。
潔(いさぎよ)い人間は、自分のお金を守るために、ここが自分の死に場所だ、と決めた時には、そこで死ぬ覚悟をする。その時は、もう後には引かない、と自分で決める。女こども と臆病者は、難民となって、包囲網(シージ)の封鎖線の検問所を超えて、徴税されていく。
そして、女たちの体内に、私副島隆彦の新しい抵抗の憎しみの種がやどってゆく。それが私副島隆彦の学問同情の歴史であり、人類の歴史だ。だが、この歴史を変えることが出来なければ、私副島隆彦は、グローバリストのように愛のない獰猛なエアボムの使い手となってしまうだろう。ならば愛のエアボムを発射すれば良いではないかと、私は分かった。
「お金と一緒にいて、楽しくない。不愉快だ。気分が悪い。嫌悪感や憎しみしか感じない」時に、そこには愛は無いのである。
だが、私副島隆彦がお金と共に会ったとき「お金と一緒にいて、楽しくない。不愉快だ。気分が悪い。嫌悪感や憎しみしか感じない」時は一度としてありはしなかった。若いとき金に恵まれず駅のホームで寝泊りしていたとき、私に愛はなかったのだと言って過言ではない。
学問同情は、愛の同情なのだ。それは愛のないものたちが集る愛を求めた学問同情の場である。税務署の馬鹿共はそれがわからない。「お金と一緒にいて、楽しいこと、気持ちがいいこと」という愛がなければ学問同情は崩壊し、言論の自由と政治活動の自由は失われてしまうのだ。
言論の自由、思想・表現の自由(日本の現行、マッカーサー憲法では第21条にある) とは、ここまで強いのである。たかが納税の義務(憲法30条)ごときで、私たちの言論の自由を、規制したり弾圧したりできると思わないほうがいいぞ。
アメリカの軍門にくだっている、ドン武藤敏郎(としろう)以下の馬鹿 財務省・国税庁・税務署員ども!
とっとと、私、副島隆彦の愛のエアボムをくらえ!
私副島隆彦の愛の力の前にひれ伏すがいい!
私副島隆彦 愛