クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

スターリン その死のカルテ

2009年02月23日 | ロシヤ関連
         スターリン・死のカルテ

1953年 3月 1日、モスクワ郊外にあるスターリンの別荘での夜の10時過ぎ、当直の警備員は自室の床に倒れて居るスターリンを発見した。既にこの時、スターリンの意識は無く、それから4 日後の 3月 5日に亡くなる。この時の診療カルテは今まで存在しないと言われ彼の死の真相は謎であった。最近ロシアの社会政治アーカイブから、始めてスターリンの死に至るまでのカルテと、晩年の病歴記録が公開された。これらの40㌻に亘るカルテには思いがけない事が記されて居る。
スターリンは一晩放置された…第一ページを見ると、医者が始めて診察したのは倒れた日の明くる日、3 月 2日の朝7 時になって居る。そして最初の診断は『左脳動脈の出血による右半身麻痺』であり、施された処置は『安静・耳の後ろに 8匹のヒル』である。何故、このソ連の最高権力者の治療が、『先ずヒル』であったのか?蘇生治療の専門医が居たのにその措置はされて居ない。つまり彼は死ぬが儘にされていたのである。倒れたスターリンの所に先ずやってきたのは側近たちで、彼等が全てを決定したからである。
スターリンの葬儀を取り仕切ったのは、四人の側近逹である。スターリンの息子・ワシーリーは父の死に方に強い疑いを持ち、スターリンは殺されたと確信して居た。次の権力を狙う側近たちにとって、スターリンは邪魔な存在であったからだとの思いからである。

解剖記録が語るスターリンの死因…

1949年12月21日、スターリン生誕70年記念式典は盛大に行われたが、この時のスターリンは顔色も悪く、苛立ちを隠せなかった。ソ連の権力者として君臨した30年の激務が、彼の体を確実に蝕んで居た。彼は晩年の殆どを、モスクワ郊外の別荘で過ごして居る。クレムリンではなく、この木立ちに囲まれた別荘から国中に命令を発していたのである。彼は孤独であった。妻は20年も前に自殺し、自分の意の儘にならなくなった子供たちを遠ざけ、この広い館で一人、使用人たちと暮らしていた。スターリンと食卓を共にできるのは、四人の側近に限られて居た。その四人とは、先ず内務大臣のベリヤ、140 万人もの大粛正を指揮した人物である。次は閣僚会議議長のマレンコフ、党内人事を握って居た。三人目はモスクワ共産党第一書記のフルシチョフ、首都での党組織を押さえて居た。四人目は軍を統括して居た国防大臣のブルガーニンである。当時の世界を二分して居た巨大国家の方針はスターリンから直接この四人へ伝えられていたのである。別荘での首脳たちの会議は一日、十五時間も続くことがしばしばであった。
今回発表されたスターリンの病歴記録には、別荘の警備員が、この間の彼の生活や体調などを詳細に記録している。これによると、スターリンの睡眠時間は昼夜を問わず、2 ~3 時間の細切れ睡眠となっている。食事のメニューは、スープ・粥・ゼリー等の柔らかい物が中心になっていた。薬の記録では『スリリン』と言う胃の薬を四時間おきに服用している。警備員の証言では、スターリンは自分の健康には全く無頓着で、好きな時間に食事をし、好きな時間に寝ると言う生活であったらしい。結果的には一日中働きづめであり、スターリンには、健康管理をする付き人も居なくて、全てを自分で決めて居た。
                                       
彼は余り医者には掛かっていないが、数少ない診断記録からは、胃腸が弱く慢性の肝炎・高血圧で長年悩んで居た事が判った。死の前年、1952年に主治医のピノグラードフはスターリンの健康状態が酷く悪化していることを知り、働き過ぎないように忠告するが、猜疑心の強いスターリンは、それを自分の権力を奪おうとする陰謀だとして激怒し、即刻ピノグラードフを解雇する。

身近な敵 

それ以前の1949には、ソ連は一回目の原爆実験に成功し、世界はアメリカとソ連の冷戦時代に突入して居た。しかし、第二次大戦後のソ連の人々の生活は苦しく不満が充満していたので、スターリンは国民の目を新たな敵に向ける事で国を纏めようとした。彼は国内で身近な敵を作り出した。1953年1 月13日、共産党機関紙プラウダの記事が国民を驚愕させた。『クレムリンの医師はアメリカのスパイで政府の指導者の命を狙って居る』と言うのである。これらの医師の多くはユダヤ人であり、アメリカのユダヤ人組織の手先とされたのである。これは『医師団事件』となずけられ、37人の医師たちが逮捕される。主治医のピノグラードフも投獄され、この事件は国民の反ユダヤ感情に火を付けた。全国の多くの職場からユダヤ人が人民の敵として追放され、スターリンの目論見は成功した。

粛正の始まり 

スターリンは、反ユダヤのキャンペーンを側近の粛正にも利用しようとした。先ず盟友モロトフのユダヤ人の妻をスパイとして逮捕し、側近たちの部下も医師団事件を防げなかったとして逮捕する。スターリンは側近たちを信用していなく、台頭してくるものを許さず側近は絶えず入れ替えてNO.2は作らないと言うのが独裁者としての方針であった。
1952年10月の第十九回共産党大会の日、スターリンは党内の粛正を始める。標的はモロトフで『敗北主義者・小心者』と激しく批判し、政治局の幹部メンバーから外した。そして次の標的に新しい四人ベリア・マレンコフ・フルシチョフ・ブルガーニンがなるのは時間の問題であった。

迫り来る運命 
                                
 1953年2 月28日、スターリンは四人を別荘に呼び付けた。この日彼は不機嫌で医師団事件の早期解決など迫り、終わったのは午前四時であった。そして3 月 1日、昼になってもスターリンは起床しなかった。この日は三人の当直の警備員は居たが、彼等がスターリンを起こしたり、ドアから覗いたりするのは禁じられて居た。夕方になり夜になってもスターリンからの呼び出しは無かった。夜の10時を過ぎて不安に駆られた警備員が意を決してスターリンの部屋を覗き、床に倒れて居るスターリンを発見する。この時、スターリンは足音に気付いたらしくて手を挙げようとしたので、警備員が問い掛けたが、もう話ができる状態ではなかった。すぐさま、警備員から側近に連絡が行ったが、ベリヤは誰にも言うなと命令する。そして医者も来ず、夜中の三時に側近が集まった。この時、スターリンは不自然な鼾を掻いていたが、四人の側近は良く寝ているから騒ぐなと警備員に言い残して帰宅してしまった。四人の中で唯一手記を残したフルシチョフはこの夜のことを『夜中にマレンコフから、電話があり、スターリンに何かが起きたから行かなくてはならないと伝えて来た。別荘に行くと、家政婦が床で眠って居るスターリンを発見したが、今はよく眠っていると言われた。我々は部屋に行くのは不作法だと思ってそのまま帰宅した…』とあり警備員の証言とは違っている。

治療か?権力分配か?                              ロシアの歴史学者ベージェフは『あの時、普通に眠っているのか?意識がないのか?識別するのは簡単であった筈である。四人には権力の分配に付いて話し合う時間が欲しかったのである。スターリンの命を救う事より、権力分配の戦の方がより重要であったからである。これは殆ど死人のスターリンの周りで行われた一種の陰謀である…』と述べて居る。朝になってから、側近たちは漸くスターリンのもとに医者を差し向けた。午前 7時の所見記録では『既に意識はなく、眼球は左右に揺れ、光反応も鈍い。右の手足に動き無く、腹部右側の反応はない。左脳動脈出血による右半身麻痺と判断される…』とある。診断に参加したのは9人の医師団であり、リーダーのミャスニコフ医師はその手記で『私のアパートに突然クレムリンの職員がやってきて、病気の主人のところに行くように言われた。何処に連れて行かれるか分からなかったので妻に別れを告げた。連れて行かれたのは有刺鉄線で囲まれた別荘であった。そこで私は、スターリンは朝方に倒れたと聞かされた。彼の呼吸は辛そうであった。驚いた事にこの別荘には救急箱も無かった。いつからスターリンが高血圧になったかを聞いたが、周囲の者は誰も答えられなかった…』と記して居る。
カルテによると、クレムリンの医師たちが行った最初の治療は『絶対安静・浣腸・入れ歯を外す・頭部を冷やす・右の耳の後ろにヒル八匹』だけである。スターリンの甥に当たる医師のアリルーエフは公開されたカルテを見て『ヒルとは驚いた。ヒルに血を吸わせて血圧を下げようとしたようであるが、一匹のヒルが吸う量はたった5CCであり、それを八匹置いても何になるのか?蘇生治療の専門医がいながら何等の治療もされていない。スターリンは放置されたのである。クレムリンの医師たちは、後の責任問題を恐れて治療のイニシアチィブは取らないのが基本である。若し少し治療が早ければ、脳出血は酷くはならなかった筈である。問題なのは集まった側近が全てを決定したと言う事である…』と言った。スターリンの病気が家族に伝えられたのは、医師が来た後である。息子のワシーリーは、父が殺されると騒いだために、側近たちに部屋から連れ出されて居る。
3 月 3日、スターリンの容体は悪化し、呼吸が更に困難になり脈搏は一分間に94、血圧 215 、体温38度、夜には危篤状態になりカンフル剤・強心剤が頻繁に投与される。医師たちはマレンコフに、スターリンの死は避けられない旨を伝えるが、医学的措置で死期を引き伸ばすように命令される。未だ新しい権力分配に時間が必要だったのである。
この日の夜12時、側近たちはスターリンの病気を公表すると言う一枚の命令書を出している。機関紙プラウダでニュースを知った国民は驚き且つ不安を覚えた。政府が非常時に備えるように国民に呼び掛けたからである。3 月 4日、病状は益々悪化し酸素治療が続けられた。3 月 5日、病状は極めて重い。9 時に吐血、12時に頭部の痙攣、21時に心拍弱まりチアノーゼが広がる。そして、21時50分その時はやって来た。脈搏が消え、呼吸が停止した。この歴史的事件に部屋にいる者は皆、長いこと黙祷をした。全能の独裁者は哀れむべき貧弱な骸に変わり果てた。   

新しい権力者…スターリンの葬儀では、棺を取り囲んで四人の側近たちが並んだ。娘のスベトラーナは、父親の死の悲しみに沈み、息子のワシーリーはショックで泥酔し、我を忘れた状態であった。この葬儀には数百万の市民が参列し、混乱を避けるためにバリケードも用意されたが数十人が圧死したと伝えられる。会場の壇上には新しい権力者たちが並んだ。これまで全ての決定をスターリンがやって居たのに、この日からは4人がその全権を手にいれたのである。ベリヤ内務大臣、ブルガーニン国防大臣、フルシチョフ共産党第一書記、マレンコフ閣僚会議議長がそれである。この四人は誰も抜きんでた力を持つ者はおらず、権力を分け合った。
3 月 6日、スターリンの遺体は解剖された。解剖記録に因ると、動脈硬化が見られ、左側面の出血病巣は6 × 2.5㌢、死因は広範な脳出血と言うものである。解剖に立ち会った医師ミャスニコフは、『動脈硬化は死亡の数年前から進行して居た形跡がある。これは神経障害を伴って、自分を抑制でき無くなり善悪の判断も鈍るものである。そして誰が味方か、敵かも分からなくなり脅迫観念に捕われる。それらはスターリンの晩年の行動に一致して居る。彼の残虐さや被害妄想は明らかに大脳動脈硬化症から生じた物であり、事実上、病んで居る人間がこの国を統治して居たのである…』と証言して居る。
一方でスターリン研究家のメド・ベージェフ氏は『スターリンの晩年を病気に結び付けない方がよい。何故なら彼は良く食べ、良く飲み、沢山タバコを吸って73歳まで一回も入院した事はないからである。彼は死の数年前から違った人格になったわけでもない。彼の猜疑心や残虐さは昔からの彼の流儀である…』と言う。スターリンの息子のワシーリーは、父が殺されたとの思いが強く、外国人記者にも時々それを漏らして居た。しかし、新しい権力者逹がそれを許すはずもなく、一か月後には逮捕され、それから九年後に流刑地で病没して終う。ワシーリーは、権力者にとっては目障りであり、その上に権力者たちのことを知り過ぎて居たからである。
新しい権力者にとってのもう一つの危険な存在は、スターリンが保有して居た秘密書類であった。今回のカルテ綴の中から一枚の共産党決定通知書が見つかっている。それは未だスターリンが存命していた3/4 の発行で、マレンコフ・ベリヤ・フルシチョフにスターリンの書類を処理する権利を与えると言う趣旨のものである。側近逹が自分たちの地位を脅かし兼ねないスターリンの記録を消すことにした證據である。スターリン個人の秘密文書は金庫に入れられ、鍵はスターリンだけが持っており、スパイからの密告書やKGBからの報告書が入って居た。これらは全て焼却処分されたのである。
四人の権力者による集団指導体制は順調に滑り出したかのように見えたが、長くは続かなかった。この四人の中で最もスターリンに近い存在で、秘密警察KGBを握るベリヤが、早くも葬儀の四か月後に国家反逆罪で逮捕され銃殺される。権力抗争は続き、マレンコフとブルガーニンがモスクワを追われ地方に左遷され、最終的に権力を独り占めしたのは、フルシチョフであった。
1956年第二十回党大会、世界は驚いた。それまで神のような存在であったスターリンをフルシチョフはその演説の中で激しく非難したからである。こうしてスターリンの時代は、名実共に終りを告げた。権力者の死の周りには、悲しみではなく権力抗争だけが有った。
コメント   この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エイゼンシュタインとスターリン | トップ | 戦後体制(5) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ロシヤ関連」カテゴリの最新記事