報復色の濃い『勝者の裁き』
世紀の裁判と言われた東京裁判(極東国際軍事裁判)は1946年 5月の開廷から二年半をかけて、東条英機元首相ら二十八人の被告を侵略戦争の計画・開始、共同謀議に参画したA級戦犯として裁いた。一方終戦直後の1945年10月の米軍マニラ法廷を筆頭にアジア・西太平洋地域の七か国計四十九の法廷で行われたB・C級栽判は、1951年 4月までに戦犯容疑者25.000人を逮捕、 5.700人の被告を捕虜虐待等の戦争法規・慣例違反として裁き、 920人を処刑した。1998年 6月15日には外交文書の公開によって、このB・C戦犯関係の生々しい実態が明らかになり、様々な問題を含むと指摘されている戦犯裁判の意味を改めて問い直す素材を提供することになる。
1)B・C級栽判の再認識への意義…この公開文書は 400簿冊をこえる量である。外務省は1998年が東京裁判終結50周年に当たることを公開理由にしているが、敗戦直後の容疑者捜索や1958年の釈放関係文書まで含まれており、 50 周年に捕らわれず、外務省が保有する戦犯関係文書を一挙公開する方針が伺える。今回公開される資料は戦犯裁判の周辺に、始めて本格的に光を当てるものであり、なにかと話題になり、注目を浴びて来たA級に比べて見過ごされ勝ちであったBC級栽判の実態と、平和条約発効後の戦犯の釈放にまつわる経過を再認識させる上で大きな意義がある。
BC級栽判では通訳の不足が被告を不利にする例が多く、外務省に設置された終戦連絡事務局が中心になって通訳や英語に堪能な弁護士を選び、被告を冤罪や過酷な判決から救うために苦心したが、のちになると、連合国側も通訳の重要性を認めて、英国が日本からきた通訳の能力試験をやったりした実情が伝えられる。しかし公判内容に関する資料が少なく戦犯の内地移管や一括釈放のときに米中外務省に送付された横浜裁判の起訴状、中国裁判の判決文だけは纏まっているが、その他は分厚いファイルから落ち穂拾いのように捜すほかはない。
BC級裁判が殆ど海外で行われたという、やむを得ない側面があるとは言え、これでBC級栽判の全貌が明かになるとは言い難い。外交権を回復した講和後になると、服役中の戦犯の取扱に付いて外務省が関係諸国と折衝に当たり、内地服役、釈放促進に奔走しているのである。BC級裁判を行った七か国の内で豪・比が戦犯の送還を渋ったが、最後まで全面釈放に同意しなかったのは日本の対戦犯姿勢に厳しかった米国であるとか、外務省がいち早く仮釈放制度の拡大を関係国に提案し、皇太子の立太子礼や終戦十周年を機に、その促進を図ったなど、従来の資料では伺い知れない陰の苦労を教えてくれる。
尚、プライバシー保護と称してBC級戦犯の氏名だけが墨塗りで公開されるが、墨塗り漏れが幾つもありこれらは公開と解釈して良いのか?少なくても関係者には戦犯の氏名などは周知の事実であり、墨塗り作業は無駄である。一方のA級戦犯に付いては健康状態や家族の状況まで公開されるが、こうした記録こそ本来のブライバシーではないのか?そして法務省が戦犯裁判関係資料の収集を進めていた事実が、外務省資料から明らかになったが法務省資料は未公開であるので、外務省に倣って一日も早い公開が待たれるのである。
2)戦犯裁判関係年表
1926年 6月…張作霖爆死事件( 4日)
1931年 9月…関東軍が満鉄爆破( 18日) 満州事変勃発
1937年 7月…廬溝橋事件( 7日) 日華事変始まる
12月…日本軍南京を占領(13日)
1941年12月…真珠湾攻撃(8日)太平洋戦争勃発
1945年 8月…ソ連中立条約を破棄し、対日参戦(8日)、
広島・長崎に原爆(6・9日)
日本ポツダム宣言受託を発表(15日)
9月…日本、降伏文書に調印(2日)、 米、太平洋軍39人の第一次戦犯逮捕を指令(11日)、
東条英機自殺未遂
10月…米国、マニラ裁判を開廷
11月…ドイツ・ニュルンベルク国際軍事裁判開廷
12月…豪州、ラブアン裁判開廷、GHQ戦犯裁判規定を公布(5日)
GHQ近衛文麿逮捕令、近衛自決(16日)
米国BC級戦犯の横浜裁判開廷(18日)
1946年 1月…英国、シンガポール裁判を開廷
2月…フランス、サイゴン裁判開催
米国マニラ法廷、山下奏文に絞首刑(23日)初の戦犯処刑
4月…中国国民党政府、北京裁判開廷
5月…A級戦犯を裁く極東国際軍事裁判が市ヶ谷で開廷(3日)
6月…東京裁判のキーナン主席検事、天皇不起訴の方針を発表(18日)
8月…オランダ、バタビア(ジャカルタ)裁判開廷
10月…ニュルンベルク法廷、12人に絞首刑判決
11月…日本国憲法公布、1947年 5月 3日施行
1947年 8月…フィリピン、マニラ裁判開廷 米ソ冷戦激化
1948年10月…GHQ、準A級戦犯を裁く丸の内裁判開廷(29日)
11月…東京裁判、東条ら7人に絞首刑、無期禁固16名、有期禁固2名の判決
12月…A級戦犯7人の死刑執行、GHQ準A級戦犯全員を不起訴釈放
1949年 2月…中国関係戦犯 251人、帰国して巣鴨ブリズンに収容、国内服役
10月…中華人民共和国成立
12月…ソ連、ハバロスク細菌戦容疑者裁判
1950年 6月…フランス関係戦犯全員帰国し、内地服役 朝鮮戦争勃発
11月…重光葵元外相、A級戦犯初の仮釈放
1951年 6月…連合国最後の死刑執行、豪州マヌス裁判の5人
9月…サンフランシスコ平和条約、日米安保条約調印(8日) 1952年 3月…第一回戦犯者追放解除(24日)
4月…対日平和条約発効で巣鴨刑務所、日本に移管
GHQ未逮捕者の逮捕令を解除
8月…法務省各国に戦犯釈放を勧告 日華平和条約発効、連合国最初の国民政府関係戦犯特赦で全面解決
(5日)
日本政府、各国にBC級戦犯の赦免を勧告(8日)
1953年 8月…豪州、連合国で最後の戦犯送還(8日)
12月…フィリピン戦犯問題、特赦で全面解決
1954年 4月…フランス関係戦犯解消(22日)
1956年 3月…A級戦犯、最後の一人仮釈放
6月…中国、45人に有期判決、千余人を免訴
8月…オランダへの賠償金問題解決し、同国関係戦犯全員が出所
(満了は1958年)
10月…日ソ共同宣言調印(19日)
1957年 1月…英国関係、2人の減刑釈放で戦犯問題解決
7月…豪州関係、5人釈放で戦犯問題解決
1958年 4月…A級戦犯刑期満了で解消
12月…米、仮釈放中の83人を減刑、連合国関連のBC級戦犯全員の刑期が満了
1964年 4月…中国抑留の最後の戦犯3人が帰国(7日)
マッカーサーは1946年に『極東国際軍事条例』を公布し、 (1) 侵略戦争に関与した『平和に対する罪』A級 (2) 捕虜虐待等『通例の戦争犯罪』B級 (3) 迫害行為など『人道に対する罪』C級
以上の三つを個人責任を問う犯罪として示した。判事、検事は米、英、中、ソ等11か国から派遣されたが、裁判の進行に付いては米国が主導権を取る。1948年11月に、東京裁判の判決が言い渡され、病死の二人、精神障害の一人を除く25人全員に有罪が下った。起訴された被告以外にも多くのA級戦犯容疑者が拘束されていたが、冷戦が進んでいたことを背景に、第二、第三の東京裁判が開かれることもなく、1948年12月に閉廷となった。一方BC級戦犯裁判は七か国の夫々の国内法を根拠に実施された。旧日本軍の将官から一兵卒に至るまで階級に関係なく、捕虜虐待などの罪に問われた。
A級、BC級裁判で無期・有期刑になった人は、東京池袋の巣鴨プリズンや海外の刑務所に収容された。サンフランシスコ平和条約の発効に伴ない1952年 4月からプリズンの管理が日本政府に移され、戦犯の釈放か進んだ。1958 5月には無期刑を含めて、全員が出所を果たしている。BC級戦犯関連は七か国のほか、中華人民共和国による藩陽、太原に設置された特別軍事法廷での裁判、ソ連のハバロフスク市で行われた裁判がある。
(3) 裁判の記録から
1)山下裁判…シンガポール攻略によって連合国から『マレーの虎』の異名で恐れられた
フィリピン方面最高司令官山下奏文大將が米軍によりマニラに開設された軍事法廷で起訴されたのは、1945年10月 2日と言う異例の早さであった。その争点は指揮権責任と裁判の合法性の二点である。米軍がレイテ島に上陸してフィリピン奪回作戦を本格化し始める直前、同大將が任についた1944年10月 9日から、ルソン島の山を下って米軍に投降した1945年 9月 2日までの間に、日本軍がフィリピンで行ったとされる事件の責任を問われたのである。検事側は『平和的人民、特に婦女子25.000人以上に対する暴行・拷問・虐殺などの64件について(公判で59件追加)『部下の行動を統制する司令官としての義務を不法にも無視し、且つ行った』とした。絞首刑の宣告を受けた弁護側は、裁判の不当性を米国最高裁に訴える。最高裁は訴えを退けたが、判事の『判決を急ぎ過ぎたため、告発及び実証に付いて何等の真剣調査が行われなかった』と米軍の『報復的感情』を指摘する意見もあった。山下大将がマニラ近郊で処刑されたのは、終戦から半年後の1946年 2月23日である。これがA・B・C級の戦犯処刑第一号であった。
2)中国裁判…蒋介石率いる中国国民政府による戦犯裁判は、台湾と中国大陸の計十ケ所で行われ、4 年間で605 件、883 人が裁かれた。戦争期間の長さや大陸に展開した軍民関係者の規模から考えると、戦犯の数は他国に比べて少い。
最大の特徴は、『身代金』の支払で逮捕を免れたり、釈放される傾向が目立ったことである。報復裁判と言う性格以上に、拝金主義や腐敗の蔓延した国民党の末期状態を色濃く映したものである。北京で一年余り未決勾留を送った北京大使館一等書記官は、その釈放後に芦田外相に報告書を出しているが、その中で『勾留を免れるために、多額の身の代金を中国官憲に取られ、帰還船に乗り得た日本人は枚挙に暇ない。高級軍人は殆ど免れ、中国監獄に呻吟している軍人は、金に縁のない下級軍人、下士官のみである』とその不条理を訴えている。
外務省の『中国戦犯概況』によると収容者は鉄の足枷を課せられたほか、死刑囚は市中を引き回された上で、縛られた儘で刑場で銃殺されると言う過酷さであった。又、旧満州などの共産軍の進駐地域では戦犯は民衆裁判の上、即決で死刑が決定する事例が多かった。一方当時の首都南京の法廷では『南京虐殺』に関わったとされる実行容疑者が断罪されたが、今回の外交文書で公開されるのは、事件と関係のない香港総督の判決文である。外務省の説明ではその他の文書が残っていないのは、当時GHQが全てのケースを通知してきた訳でも無いからであるという。
3)横浜裁判…米国は横浜地方裁判所を接収した上で、1945年12月から1949年10月に掛けて約 1.000人のBC級裁判を行った。日本内地で行われた唯一のBC級裁判であり、外地に比べても最大規模の軍事裁判であった。被告の多くは、内外の捕虜収容所や部隊等で捕虜を虐待・虐殺したとして訴追された。
世紀の裁判と言われた東京裁判(極東国際軍事裁判)は1946年 5月の開廷から二年半をかけて、東条英機元首相ら二十八人の被告を侵略戦争の計画・開始、共同謀議に参画したA級戦犯として裁いた。一方終戦直後の1945年10月の米軍マニラ法廷を筆頭にアジア・西太平洋地域の七か国計四十九の法廷で行われたB・C級栽判は、1951年 4月までに戦犯容疑者25.000人を逮捕、 5.700人の被告を捕虜虐待等の戦争法規・慣例違反として裁き、 920人を処刑した。1998年 6月15日には外交文書の公開によって、このB・C戦犯関係の生々しい実態が明らかになり、様々な問題を含むと指摘されている戦犯裁判の意味を改めて問い直す素材を提供することになる。
1)B・C級栽判の再認識への意義…この公開文書は 400簿冊をこえる量である。外務省は1998年が東京裁判終結50周年に当たることを公開理由にしているが、敗戦直後の容疑者捜索や1958年の釈放関係文書まで含まれており、 50 周年に捕らわれず、外務省が保有する戦犯関係文書を一挙公開する方針が伺える。今回公開される資料は戦犯裁判の周辺に、始めて本格的に光を当てるものであり、なにかと話題になり、注目を浴びて来たA級に比べて見過ごされ勝ちであったBC級栽判の実態と、平和条約発効後の戦犯の釈放にまつわる経過を再認識させる上で大きな意義がある。
BC級栽判では通訳の不足が被告を不利にする例が多く、外務省に設置された終戦連絡事務局が中心になって通訳や英語に堪能な弁護士を選び、被告を冤罪や過酷な判決から救うために苦心したが、のちになると、連合国側も通訳の重要性を認めて、英国が日本からきた通訳の能力試験をやったりした実情が伝えられる。しかし公判内容に関する資料が少なく戦犯の内地移管や一括釈放のときに米中外務省に送付された横浜裁判の起訴状、中国裁判の判決文だけは纏まっているが、その他は分厚いファイルから落ち穂拾いのように捜すほかはない。
BC級裁判が殆ど海外で行われたという、やむを得ない側面があるとは言え、これでBC級栽判の全貌が明かになるとは言い難い。外交権を回復した講和後になると、服役中の戦犯の取扱に付いて外務省が関係諸国と折衝に当たり、内地服役、釈放促進に奔走しているのである。BC級裁判を行った七か国の内で豪・比が戦犯の送還を渋ったが、最後まで全面釈放に同意しなかったのは日本の対戦犯姿勢に厳しかった米国であるとか、外務省がいち早く仮釈放制度の拡大を関係国に提案し、皇太子の立太子礼や終戦十周年を機に、その促進を図ったなど、従来の資料では伺い知れない陰の苦労を教えてくれる。
尚、プライバシー保護と称してBC級戦犯の氏名だけが墨塗りで公開されるが、墨塗り漏れが幾つもありこれらは公開と解釈して良いのか?少なくても関係者には戦犯の氏名などは周知の事実であり、墨塗り作業は無駄である。一方のA級戦犯に付いては健康状態や家族の状況まで公開されるが、こうした記録こそ本来のブライバシーではないのか?そして法務省が戦犯裁判関係資料の収集を進めていた事実が、外務省資料から明らかになったが法務省資料は未公開であるので、外務省に倣って一日も早い公開が待たれるのである。
2)戦犯裁判関係年表
1926年 6月…張作霖爆死事件( 4日)
1931年 9月…関東軍が満鉄爆破( 18日) 満州事変勃発
1937年 7月…廬溝橋事件( 7日) 日華事変始まる
12月…日本軍南京を占領(13日)
1941年12月…真珠湾攻撃(8日)太平洋戦争勃発
1945年 8月…ソ連中立条約を破棄し、対日参戦(8日)、
広島・長崎に原爆(6・9日)
日本ポツダム宣言受託を発表(15日)
9月…日本、降伏文書に調印(2日)、 米、太平洋軍39人の第一次戦犯逮捕を指令(11日)、
東条英機自殺未遂
10月…米国、マニラ裁判を開廷
11月…ドイツ・ニュルンベルク国際軍事裁判開廷
12月…豪州、ラブアン裁判開廷、GHQ戦犯裁判規定を公布(5日)
GHQ近衛文麿逮捕令、近衛自決(16日)
米国BC級戦犯の横浜裁判開廷(18日)
1946年 1月…英国、シンガポール裁判を開廷
2月…フランス、サイゴン裁判開催
米国マニラ法廷、山下奏文に絞首刑(23日)初の戦犯処刑
4月…中国国民党政府、北京裁判開廷
5月…A級戦犯を裁く極東国際軍事裁判が市ヶ谷で開廷(3日)
6月…東京裁判のキーナン主席検事、天皇不起訴の方針を発表(18日)
8月…オランダ、バタビア(ジャカルタ)裁判開廷
10月…ニュルンベルク法廷、12人に絞首刑判決
11月…日本国憲法公布、1947年 5月 3日施行
1947年 8月…フィリピン、マニラ裁判開廷 米ソ冷戦激化
1948年10月…GHQ、準A級戦犯を裁く丸の内裁判開廷(29日)
11月…東京裁判、東条ら7人に絞首刑、無期禁固16名、有期禁固2名の判決
12月…A級戦犯7人の死刑執行、GHQ準A級戦犯全員を不起訴釈放
1949年 2月…中国関係戦犯 251人、帰国して巣鴨ブリズンに収容、国内服役
10月…中華人民共和国成立
12月…ソ連、ハバロスク細菌戦容疑者裁判
1950年 6月…フランス関係戦犯全員帰国し、内地服役 朝鮮戦争勃発
11月…重光葵元外相、A級戦犯初の仮釈放
1951年 6月…連合国最後の死刑執行、豪州マヌス裁判の5人
9月…サンフランシスコ平和条約、日米安保条約調印(8日) 1952年 3月…第一回戦犯者追放解除(24日)
4月…対日平和条約発効で巣鴨刑務所、日本に移管
GHQ未逮捕者の逮捕令を解除
8月…法務省各国に戦犯釈放を勧告 日華平和条約発効、連合国最初の国民政府関係戦犯特赦で全面解決
(5日)
日本政府、各国にBC級戦犯の赦免を勧告(8日)
1953年 8月…豪州、連合国で最後の戦犯送還(8日)
12月…フィリピン戦犯問題、特赦で全面解決
1954年 4月…フランス関係戦犯解消(22日)
1956年 3月…A級戦犯、最後の一人仮釈放
6月…中国、45人に有期判決、千余人を免訴
8月…オランダへの賠償金問題解決し、同国関係戦犯全員が出所
(満了は1958年)
10月…日ソ共同宣言調印(19日)
1957年 1月…英国関係、2人の減刑釈放で戦犯問題解決
7月…豪州関係、5人釈放で戦犯問題解決
1958年 4月…A級戦犯刑期満了で解消
12月…米、仮釈放中の83人を減刑、連合国関連のBC級戦犯全員の刑期が満了
1964年 4月…中国抑留の最後の戦犯3人が帰国(7日)
マッカーサーは1946年に『極東国際軍事条例』を公布し、 (1) 侵略戦争に関与した『平和に対する罪』A級 (2) 捕虜虐待等『通例の戦争犯罪』B級 (3) 迫害行為など『人道に対する罪』C級
以上の三つを個人責任を問う犯罪として示した。判事、検事は米、英、中、ソ等11か国から派遣されたが、裁判の進行に付いては米国が主導権を取る。1948年11月に、東京裁判の判決が言い渡され、病死の二人、精神障害の一人を除く25人全員に有罪が下った。起訴された被告以外にも多くのA級戦犯容疑者が拘束されていたが、冷戦が進んでいたことを背景に、第二、第三の東京裁判が開かれることもなく、1948年12月に閉廷となった。一方BC級戦犯裁判は七か国の夫々の国内法を根拠に実施された。旧日本軍の将官から一兵卒に至るまで階級に関係なく、捕虜虐待などの罪に問われた。
A級、BC級裁判で無期・有期刑になった人は、東京池袋の巣鴨プリズンや海外の刑務所に収容された。サンフランシスコ平和条約の発効に伴ない1952年 4月からプリズンの管理が日本政府に移され、戦犯の釈放か進んだ。1958 5月には無期刑を含めて、全員が出所を果たしている。BC級戦犯関連は七か国のほか、中華人民共和国による藩陽、太原に設置された特別軍事法廷での裁判、ソ連のハバロフスク市で行われた裁判がある。
(3) 裁判の記録から
1)山下裁判…シンガポール攻略によって連合国から『マレーの虎』の異名で恐れられた
フィリピン方面最高司令官山下奏文大將が米軍によりマニラに開設された軍事法廷で起訴されたのは、1945年10月 2日と言う異例の早さであった。その争点は指揮権責任と裁判の合法性の二点である。米軍がレイテ島に上陸してフィリピン奪回作戦を本格化し始める直前、同大將が任についた1944年10月 9日から、ルソン島の山を下って米軍に投降した1945年 9月 2日までの間に、日本軍がフィリピンで行ったとされる事件の責任を問われたのである。検事側は『平和的人民、特に婦女子25.000人以上に対する暴行・拷問・虐殺などの64件について(公判で59件追加)『部下の行動を統制する司令官としての義務を不法にも無視し、且つ行った』とした。絞首刑の宣告を受けた弁護側は、裁判の不当性を米国最高裁に訴える。最高裁は訴えを退けたが、判事の『判決を急ぎ過ぎたため、告発及び実証に付いて何等の真剣調査が行われなかった』と米軍の『報復的感情』を指摘する意見もあった。山下大将がマニラ近郊で処刑されたのは、終戦から半年後の1946年 2月23日である。これがA・B・C級の戦犯処刑第一号であった。
2)中国裁判…蒋介石率いる中国国民政府による戦犯裁判は、台湾と中国大陸の計十ケ所で行われ、4 年間で605 件、883 人が裁かれた。戦争期間の長さや大陸に展開した軍民関係者の規模から考えると、戦犯の数は他国に比べて少い。
最大の特徴は、『身代金』の支払で逮捕を免れたり、釈放される傾向が目立ったことである。報復裁判と言う性格以上に、拝金主義や腐敗の蔓延した国民党の末期状態を色濃く映したものである。北京で一年余り未決勾留を送った北京大使館一等書記官は、その釈放後に芦田外相に報告書を出しているが、その中で『勾留を免れるために、多額の身の代金を中国官憲に取られ、帰還船に乗り得た日本人は枚挙に暇ない。高級軍人は殆ど免れ、中国監獄に呻吟している軍人は、金に縁のない下級軍人、下士官のみである』とその不条理を訴えている。
外務省の『中国戦犯概況』によると収容者は鉄の足枷を課せられたほか、死刑囚は市中を引き回された上で、縛られた儘で刑場で銃殺されると言う過酷さであった。又、旧満州などの共産軍の進駐地域では戦犯は民衆裁判の上、即決で死刑が決定する事例が多かった。一方当時の首都南京の法廷では『南京虐殺』に関わったとされる実行容疑者が断罪されたが、今回の外交文書で公開されるのは、事件と関係のない香港総督の判決文である。外務省の説明ではその他の文書が残っていないのは、当時GHQが全てのケースを通知してきた訳でも無いからであるという。
3)横浜裁判…米国は横浜地方裁判所を接収した上で、1945年12月から1949年10月に掛けて約 1.000人のBC級裁判を行った。日本内地で行われた唯一のBC級裁判であり、外地に比べても最大規模の軍事裁判であった。被告の多くは、内外の捕虜収容所や部隊等で捕虜を虐待・虐殺したとして訴追された。
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