警察はノーリードを取り締まりの対象にしてない。都道府県の条例に放し飼い禁止の例外規定があるからだ。
今日は自宅近隣の犬の問題を取り上げる。日本の犬の問題の縮図みたいな話だ。
愛犬のパピヨンのパロを見て逃げ回っていた小学生の男児が、ある日突然、犬を怖がらなくなった。
どうしたのですかとその親に聞くと、沢山の犬がいて、大勢の子供たちが犬と遊んでいる場所につれていったら、その男児もおそるおそる犬と遊び出したとのこと。今では愛犬のパロを見ると自ら進んで一緒に遊ぶ。頼もしい大人に成長するだろうと楽しみだ。
その男児の真向かいの家に同じ年頃の男児が二人いる。異常なほどの犬恐怖症だ。自転車のカゴに入っているパロが通過するのを見つけると、大声を上げて怖がり、家の中に二人とも逃げ込む。その母親が「自転車に乗っているのに」と子供をたしなめていたこともあった。
三年前にその子供たちが引っ越してきたときから、その異常なほどの犬の忌避行動が続いている。
最近、その母親の言動が気になっている。
近所の犬好きな子供たちにパロとは遊ばないようにそそのかすような言動をしている。
こちらとしては損するわけでもないので、どうでもよいことだが、犬恐怖症の子供をそのままにして成人させるつもりですか、社会適応性のない臆病な大人になってもいいのですかとその親に聞きたい。
その親が道の側溝を指し、パロの飼い主に「ここにおしっこをした。」と言った。犬は外に出すなと言いたいようだ。
外で糞尿をするのは犬の習性だ。動物はその習性を生かして飼うのが正しい飼い方だ。
犬嫌いもいるから、犬に外でおしっこをさせるなというのは犬の歴史と習性を否定する身勝手な言い分だ。
犬の糞を飼い主が始末するのは当然だが、道や電柱におしっこをさせるなという人は社会良識がなさ過ぎる。犬は外に出すなと言っていることに等しいことを理解してない。
法律用語に受忍限度という用語がある。世の中は、ある程度の迷惑をかけあいながら、それをお互いに我慢して生活が成り立っている。我慢の限度を超えないと裁判は受け付けませんよと言うことだ。
道や電柱に放尿させるなと飼い主を訴えても門前ばらいだ。社会良識や協調性のない偏屈な犬嫌いだと笑い者になるだけだ。
その母親は自分の子供が現在楽しく過ごせればよいと目先の事しか考えてない。子供の将来のことを考えることが親の最も大きな責任だ。
幼児期の事で記憶にはないが、私がゴキブリを怖がり過ぎるので、父が生きたゴキブリにヒモをつけて遊ばせ、徐々に恐怖心を取り除いたようだ。
幼児は相当嫌がったと思うが、親とは目先の嫌がること避けるよりも子供の将来の幸せを優先することが大切だ。
重症ではないが、他にも犬を怖がる幼児たちがいる。他人の子供まで小犬から遠ざけようとする言動は許されることなのか。他人の子供たちたの正しい心の成長を阻害していることは確かだ。
その母親の考えに同調している人たちもおかしい。ご自分の子供の情操教育や犬恐怖症の予防の機会損失になっていることに気づいてない。せっかく、しつけの良いおとなしい小犬がいるのに、邪魔者扱いしている。もったいないことをしていると思う人は社会良識のある人だ。
多くの子供たちはパロと遊ぶことを喜び、その親がわざわざ飼い主に礼を言うこともある。やさしい小犬と遊ぶことは子供の情操教育にも大切なことだ理解している親たちだ。
高所恐怖症や対人恐怖症と同じく、犬恐怖症も精神的な異常症状だ。先天的遺伝的な要素が強く個人差が大きい。子供のうちに治さないと、生涯治すことが困難な病気だ。重症の場合は子犬を飼って与えるなどの暴露療法で年月をかけて根気よく対処しないと治らない病気だ。怖いものに徐々に慣らすしか治療法はない。
犬を怖がり、犬との接触が少ない子供は大人になっても犬恐怖症のままでいることが多い。犬を見るたびにオドオドとする心の貧しい小心者の印象はぬぐえない。一生、犬にびくびくする臆病者として生きることになる。
勇気のいる大事な仕事は任せられないと烙印を押される。論理的に物事を考え、科学的に判断できる能力がないようなイメージを与えかねない。
つまり、理性的ではなく、感覚的にしか物事を考えることのできな人とだと思われる。理屈抜きに、感情的に、嫌いなものは嫌いだと言い張る人はリーダーとしては信頼されない。道理の通じない人として敬遠される。
欧米の犬の文化先進国では犬の飼い方は基本的にノーリードだ。
フランスは犬は放し飼いであり、観光地の繁華街の犬の糞は市役所が清掃している。
オリンピックのあったアテネも犬は放し飼いであり、街を愛犬たちが自由に遊んでいるのをNHKが放映したことがある。
ノーリードが当たり前の欧米に比べて、日本は犬恐怖症の大人が多いと見ている。
公園管理の小役人が法律条例を無視して、公園などをノーリード禁止にして、犬と接触する機会を減らしているからだ。
小役人は「犬嫌いの人もいる」ことをノーリード禁止の根拠の一つにしているが、そのノーリード禁止が犬恐怖症の人を増やしていることを理解してない。公園管理の小役人は大所高所から大局的に物事をとらえる見識が欠如している。
昔は日本の都会も田舎も犬は放し飼いだった。どこの飼い犬かわからない犬に魚の食べ残しの骨をよく食べさせた記憶がある。
忠犬ハチ公は渋谷駅近郊が放し飼いが当たり前だった時代に生きた名犬だ。ハチ公の左耳が短いのは犬同士の喧嘩で噛みちぎられたからだ。その頃の人々は多くの放し飼いの犬たちを温かく見守っていた。犬が嫌いだと騒ぐ人はいなかったのだろう。心温まる古きよき時代の話だ。
老人ホームーなどでセラピー犬が活躍して老人を元気付けている。アニマルセラピー(動物介在療法)が人の心を癒し、病気も治すことは今では疑う人はいない。すなわち、療養中の老人だけが動物から心を癒され、元気になるのではない。子供も大人も動物との接触で心が癒され、元気になる。
犬は有史以前から何万年も人の役に立ち、人の心を癒してきた最も身近な貴重な動物だ。
関連随想 犬恐怖症を治して心豊かな人生を!
1 犬恐怖症の予防なる!子供と犬のふれあい!
2 犬恐怖症の人への配慮!
3 犬恐怖症の人への配慮とその治し方 犬に慣れることです
4 道路の犬の尿に水をかける?偽善だ!
5 犬猫よけ用ペットボトルは町の美観の敵だ!
6 小犬と遊ぶ公園の子供達と犬恐怖症 パピヨン写真集2


写真のつづき 
参考随想
狂犬病ワクチンの副作用と法律改廃73編の随想集
狂犬病予防注射の問題点については通常のHPにも詳述。


狂犬病予防ワクチン注射のからくり
狂犬病予防法は御用済みの悪法だ

愛犬は公園でノーリード 動物愛護法と犬 公園ノーリードの犬達の写真集1
公園犬ノーリード禁止は条例の曲解だね

風説誤信、風評被害で愛犬達が泣いています!!
愛犬と幸せに暮らすためにこの愛犬問題を多くの愛犬家に知らせたいのです。
今日は自宅近隣の犬の問題を取り上げる。日本の犬の問題の縮図みたいな話だ。

どうしたのですかとその親に聞くと、沢山の犬がいて、大勢の子供たちが犬と遊んでいる場所につれていったら、その男児もおそるおそる犬と遊び出したとのこと。今では愛犬のパロを見ると自ら進んで一緒に遊ぶ。頼もしい大人に成長するだろうと楽しみだ。
その男児の真向かいの家に同じ年頃の男児が二人いる。異常なほどの犬恐怖症だ。自転車のカゴに入っているパロが通過するのを見つけると、大声を上げて怖がり、家の中に二人とも逃げ込む。その母親が「自転車に乗っているのに」と子供をたしなめていたこともあった。
三年前にその子供たちが引っ越してきたときから、その異常なほどの犬の忌避行動が続いている。
最近、その母親の言動が気になっている。
近所の犬好きな子供たちにパロとは遊ばないようにそそのかすような言動をしている。
こちらとしては損するわけでもないので、どうでもよいことだが、犬恐怖症の子供をそのままにして成人させるつもりですか、社会適応性のない臆病な大人になってもいいのですかとその親に聞きたい。
その親が道の側溝を指し、パロの飼い主に「ここにおしっこをした。」と言った。犬は外に出すなと言いたいようだ。
外で糞尿をするのは犬の習性だ。動物はその習性を生かして飼うのが正しい飼い方だ。
犬嫌いもいるから、犬に外でおしっこをさせるなというのは犬の歴史と習性を否定する身勝手な言い分だ。
犬の糞を飼い主が始末するのは当然だが、道や電柱におしっこをさせるなという人は社会良識がなさ過ぎる。犬は外に出すなと言っていることに等しいことを理解してない。
法律用語に受忍限度という用語がある。世の中は、ある程度の迷惑をかけあいながら、それをお互いに我慢して生活が成り立っている。我慢の限度を超えないと裁判は受け付けませんよと言うことだ。
道や電柱に放尿させるなと飼い主を訴えても門前ばらいだ。社会良識や協調性のない偏屈な犬嫌いだと笑い者になるだけだ。
その母親は自分の子供が現在楽しく過ごせればよいと目先の事しか考えてない。子供の将来のことを考えることが親の最も大きな責任だ。
幼児期の事で記憶にはないが、私がゴキブリを怖がり過ぎるので、父が生きたゴキブリにヒモをつけて遊ばせ、徐々に恐怖心を取り除いたようだ。
幼児は相当嫌がったと思うが、親とは目先の嫌がること避けるよりも子供の将来の幸せを優先することが大切だ。
重症ではないが、他にも犬を怖がる幼児たちがいる。他人の子供まで小犬から遠ざけようとする言動は許されることなのか。他人の子供たちたの正しい心の成長を阻害していることは確かだ。
その母親の考えに同調している人たちもおかしい。ご自分の子供の情操教育や犬恐怖症の予防の機会損失になっていることに気づいてない。せっかく、しつけの良いおとなしい小犬がいるのに、邪魔者扱いしている。もったいないことをしていると思う人は社会良識のある人だ。
多くの子供たちはパロと遊ぶことを喜び、その親がわざわざ飼い主に礼を言うこともある。やさしい小犬と遊ぶことは子供の情操教育にも大切なことだ理解している親たちだ。

犬を怖がり、犬との接触が少ない子供は大人になっても犬恐怖症のままでいることが多い。犬を見るたびにオドオドとする心の貧しい小心者の印象はぬぐえない。一生、犬にびくびくする臆病者として生きることになる。
勇気のいる大事な仕事は任せられないと烙印を押される。論理的に物事を考え、科学的に判断できる能力がないようなイメージを与えかねない。
つまり、理性的ではなく、感覚的にしか物事を考えることのできな人とだと思われる。理屈抜きに、感情的に、嫌いなものは嫌いだと言い張る人はリーダーとしては信頼されない。道理の通じない人として敬遠される。

フランスは犬は放し飼いであり、観光地の繁華街の犬の糞は市役所が清掃している。
オリンピックのあったアテネも犬は放し飼いであり、街を愛犬たちが自由に遊んでいるのをNHKが放映したことがある。
ノーリードが当たり前の欧米に比べて、日本は犬恐怖症の大人が多いと見ている。
公園管理の小役人が法律条例を無視して、公園などをノーリード禁止にして、犬と接触する機会を減らしているからだ。
小役人は「犬嫌いの人もいる」ことをノーリード禁止の根拠の一つにしているが、そのノーリード禁止が犬恐怖症の人を増やしていることを理解してない。公園管理の小役人は大所高所から大局的に物事をとらえる見識が欠如している。

忠犬ハチ公は渋谷駅近郊が放し飼いが当たり前だった時代に生きた名犬だ。ハチ公の左耳が短いのは犬同士の喧嘩で噛みちぎられたからだ。その頃の人々は多くの放し飼いの犬たちを温かく見守っていた。犬が嫌いだと騒ぐ人はいなかったのだろう。心温まる古きよき時代の話だ。
老人ホームーなどでセラピー犬が活躍して老人を元気付けている。アニマルセラピー(動物介在療法)が人の心を癒し、病気も治すことは今では疑う人はいない。すなわち、療養中の老人だけが動物から心を癒され、元気になるのではない。子供も大人も動物との接触で心が癒され、元気になる。
犬は有史以前から何万年も人の役に立ち、人の心を癒してきた最も身近な貴重な動物だ。

1 犬恐怖症の予防なる!子供と犬のふれあい!
2 犬恐怖症の人への配慮!
3 犬恐怖症の人への配慮とその治し方 犬に慣れることです
4 道路の犬の尿に水をかける?偽善だ!
5 犬猫よけ用ペットボトルは町の美観の敵だ!
6 小犬と遊ぶ公園の子供達と犬恐怖症 パピヨン写真集2




参考随想

狂犬病予防注射の問題点については通常のHPにも詳述。



狂犬病予防法は御用済みの悪法だ





愛犬と幸せに暮らすためにこの愛犬問題を多くの愛犬家に知らせたいのです。