楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H25 秋 その5 大坂峠 卯辰峠 大麻山 大麻比古神社

2014-03-20 | 四国遍路
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ご挨拶
グーブログの「楽しく遍路」へ、ご訪問、ありがとうございます。
これまで使用していたプララのブログ「ブローチ」が6月いっぱいでサービス停止となり、まったく不本意ながら、ブログの「引っ越し」を迫られました。アナログ育ちの私にとっては、なかなかの苦労な作業で、未だ試行錯誤の状態です。すこしずつ新しい環境に慣れ、(すこしずつ)新しい装いも凝らしてみたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。


次の更新は4月10日です。


小海駐在所

(帰宅してから知ったのですが)、「小海荒井遺跡」が東さぬき市にあります。遺跡名は、その所在地を示していて、小海(おうみ)は東さぬき市の地区名です。その昔、この辺まで播磨灘が入り込んでいたので、そう呼ばれるのでしょう。「荒井」は、小海駐在所から東へすこし歩いたところの字名です。
弥生後期から古墳時代初期の遺跡と考えられるそうですが、なんと、この遺跡から徳島県で作られた土器が出土しています。長い交流が阿波と讃岐の間にあったわけです。


大坂越えの登り口坂元集落

大坂越えは讃岐と阿波を結ぶ峠道です。讃岐側の登り口を「坂元」といいます。実に素直な地名です。
最初の大坂越えの道は、大和政権の号令下で「建設」された古代南海道です。弥生人達が固めた「踏み跡」を下敷きに「建設」されたのでしょう。

犬には遍路姿が「怪しげ」に写るようです。互いに道を譲り合いました。


登り口へ

南海道以降、「大坂」を越える道は、時代時代の要請と土木技術力に応じ、幾筋も新設されたり修正されたりしました。その、ごく一端を (→H23秋 ⑤) に記しましたので、よろしければご覧ください。


登り口

阿讃交流の道は、むろん大坂越道だけではありません。いくつかを挙げてみますと・・・
まず、長尾-前山から多和を経て、阿波・脇町に出る道がありました。大滝寺参拝でも利用する道です。大窪寺を過ぎると、五明から阿波・市場に出る道がありました。切幡寺に向かう人が利用する道です。(イチョウサンがある)境目からも市場に出ることが出来ました。別宮八幡神社がある西山には、鵜峠(うのたお・とうげ)を経て阿波・土成に出る道があるそうです。若宮八幡神社がある東山には、宮川内越えを経て、やはり土成に出る道があると言います。さらに・・・


石畳の道

・・・引田に入り、馬宿川を遡ると、大山を経て阿波・上坂に出る道があり、大山寺参拝の人たちが利用したそうです。また一本松越えを経て板野に出る道もあります。大坂越えの東には、卯辰峠越えの道があります。北灘町折野と大麻町桧をむすぶ道で、大麻比古神社参拝の道です。


播磨灘

阿讃交流の代表例に挙げられる「借耕牛」(かりこうし)は、阿波と讃岐が山脈と大河によって隔てられている、そのおかげで生まれた交流、と言えます。讃岐の農家が春と秋の二回、阿波から牛を借り受け、謝礼に米を返す補完関係が「借耕牛」です。讃岐には水田可耕地はありますが、育牛に適した草地がありませんでした。逆に阿波には、吉野川が造る、育牛に適した斜面草地がありますが、水田に適しておらず、そこで互いが補い合ったわけです。
農業機械化が進み、昭和30(1955)頃には絶えてしまったそうですが、最盛期には、3000頭を越える牛が山を越えたと言います。


峠の「不動尊」

「讃岐男に阿波女」、この言葉、徳島駅近くのラーメン屋さんが教えてくれました。(ちなみにラーメン屋さんは女性でしたが) 讃岐と阿波の間で古くから、通婚圏が形成されていたことがわかります。
前にコメントを頂いたTAICHIさんは、・・・昔は両親に連れられて、白鳥や引田を抜け、大坂峠を越えて (上坂町へ) 里帰りをしたものでした・・・と書いておられます。貴重な記憶です。


県境

またラーメン屋さんは、「阿波に吹く風は讃岐にも吹く」、を教えてくれました。
その代表例に挙げられるのが、讃岐和三盆と阿波和三盆です。「和三盆」は、サトウキビから独自の精糖方法でつくる高級砂糖ですが、江戸期、国内産砂糖の多くを、高松藩、徳島藩が産出していました。製法は表向き互いに「秘匿」し合いましたが、唐の文成公主の例もあります。競合的交流があったと思います。




和三盆の産地は、現在では奇しくも、大阪越えを挟んだ、阿波の板野と讃岐の引田だけです。
私はH13(2001)の初遍路で、和三盆の作業場を見せてもらったことがあります。サトウキビ畑の中に小屋があり、年取った夫婦が二人で仕事をしていました。嘗めさせてもらったり、お土産にサトウキビを戴いたりしました。次に歩いた時、作業場を探してみましたが、もう、ありませんでした。


擬木の階段

思い出話をもう一つ。
私が「阿讃」という言葉を知ったのは、徳島の池田高校校歌からでした。・・・阿讃の嶺と きそうなる これぞわれらが学びの舎・・・
以来、私の用語から「讃岐山脈」は消え、「阿讃山脈」となったのでした。
池田高校は今年、22年振りに春の甲子園に出場します。勝手を言わせてもらえば、(和歌山県民には申し訳ありませんが)、一度でいいから校歌を聞かせていただきたい。


引田

展望台からの景色です。写真奥が白鳥(しろとり)です。


折野

同じく展望台からの景色です。
折野から大麻町へ抜ける峠が卯辰峠です。この道は折野の人たちの、生活物資調達の道でもありました。海沿い道が通っていれば、むろん引田や鳴門が近いのでしょうが、まだ開通していない頃は、大麻比古神社参りもかねて、峠を越えることが多かったようです。
引田トンネルを穿って、海沿いの道、国道11が開通したのは、昭和38(1963)でした。


吉野川

私は大坂越えから、(3番には向かわず)、卯辰峠を越えて大麻比古神社に降ります。余裕があれば、卯辰峠から大麻山尾根に入り、山頂の大麻比古神社奥の院に参拝、大麻比古神社へまっすぐ降りてゆこうと考えています。


大麻山

しかし、大麻山は、まだだいぶ遠くです。


下り

下りで怪我をしました。段に溜まった落葉で滑ったのです。かなり広い範囲に擦過傷を負いました。文字通りアッと言う間もなく転んでいました。ありがたいことに、頭部は菅笠の弾力が、背中や腰はザック柔らかさが護ってくれました。




怪我は、13年間の遍路で二度目です。一度目は建治寺の雨の鎖場で足を滑らせ、肋骨にヒビが入りました。手当の仕様もないので、くしゃみや咳をしないようにしながら、室戸まで歩きました。帰宅した頃には痛みは去っていました。
怪我はアドレナリンを大量分泌させるのでしょう。冷静のつもりでいても、けっこう我武者羅な行動をとらせます。今回は、傷の手当てもせずガンガン歩いていました。間違った道であるにもかかわらず・・・。


東谷集落

幸い、この集落が道しるべとなり、道の誤りに気づきました。ようやく座り込んで、傷を消毒しました。乾かすため、患部を風にさらしながら歩きました。




サイクリングを楽しむ人たちを、よく見かけました。


スピンの跡

こちらはカーアクションの練習でしょうか。タイヤの跡です。


花折大明神

「花折大明神御崇拝について」という看板が立っています。「世話人」と称する方が一人称で文を書いておられます。
・・・花折大明神さんは女神様でございます(御名不詳)。今から600年程前(南北朝時代)に、この地(鳴門市折野桑内原と板野町大阪東谷)との境界値を、時の権力者に追われて逃避行中に、御神様にお成りになりました(伝説)。爾来、信者(通行人)等は草花や緑樹等を神前にお供えして、私はこれから〇〇地へまいります、どうか無事に〇〇地へ着きますようにと、真心から礼拝しておりました(但し十人の内七-八人位)。私も幼少の頃、通学路でしたので、毎日、草花等をお供えして通行しておりました。・・・
後は略しますが、戦後、セールスマンの仕事をして色々とお助けを拝受したこと、昭和39頃より交通安全のことで数々のご利益をお受けしたと思うこと、お賽銭はご遠慮します、などのことを記しておられます。


通行止

「世話人」さんの日常世界だった道も、今は通行止めになっています。工事のため、となっていますが、ゴミの不法投棄対策と思われます。「車両通行禁止」と解して、私は通させてもらいました。


ゴミ捨て防止のネット

ネットの下を、折野川の支流、ベタノ谷の沢が流れています。大阪越えと卯辰越えを結ぶ道です。


卯辰峠道へ

空が開けてきました。ベタノ谷の道が、折野と卯辰峠を結ぶ道と出合います。


卯辰峠への登り

車道です。


峠へ

案内の主方向は「大麻」です。左下り方向は「川筋」となっています。折野川の川筋、ということでしょう。うれしくなるほど素直なネーミングです。


大麻山への尾根道

前方に尾根筋が見えてきました。大麻山に至る尾根筋です。


卯辰峠 尾根への登り口

尾根への登り口。急坂です。


擬木道

これを登って尾根筋に出たら・・・あとは楽勝と思っていましたが・・・これから小さな上り下りが、何回も繰り返します。


大麻山

アドレナリンの出が悪くなったようで、疲れを感じてきました。大麻山が近づいて来ない感じです。


をたつ祠

「をたつ祠の碑」がありました。全文を転載します。
記録を繙けば(ひもとけば)、往古「をたつ」に龍神を勧請し、村人旱魃の時、雨を祈り云々とあり。斯く大麻比古神の旧跡に因む「をたつ峠」に鎮祭する「をたつ祠」は、桧郷の村人厚く崇敬し、縁日を定め豊作を祈念する慣わしが、今に受継がれている。伝聞に寄れば、往時、旱魃のため村人「をあつ祠」に集ひ雨乞ひを行ふも効験現れざるを嘆き、石祠の一部を損して下山に及びし所、軈て(やがて)俄に土砂降りの雨に見舞われ、一同その霊験に戦けり(おののけり)といふ。此度地元桧有志の発願により、浄財を募り石祠を造立し周辺の社地を整備した。ここに園由縁を録して後世に伝へんとするものである。平成12年11月 大麻宮神主 文雄 謹記


をたつ祠

こんな話も残っています。
・・・長い日照りで百姓たちは、それはもう困っておったんじゃが、そこへお大師さんがおいでになって、雨乞いの祈願をして下さったんじゃ。すると龍神さんが現れての、三日三晩、雨を降らせてくれたいう。百姓らの喜ぶまいことか。これが「喜雨」じゃな。お大師さんにお礼を申し上げ、龍神さんが現れた場所に「お龍石」を建てたんじゃそうな・・・


お龍(おたつ)祠

・・・ところが、時が経つとともに「お龍石」を粗末に扱う者も出てきてな、足でけったり、石の角を欠いたりする者もいたそうな。龍神さんはお怒りになってな、今度は土砂降りの大雨続きじゃ。喜雨ならぬ鬼雨じゃな。・・・村人は心を改めて、祠を建てて誤ったんじゃと。・・・もうお分かりじゃと思うが、この峠は、今は卯辰(うたつ)峠と言うとるが、昔は「お龍(おたつ)峠」と言うておったんよ。「おたつ」よりも「うたつ」の方が言いやすいからじゃろか、いつの頃か、変わったんじゃな。・・・ワシはそう聞いておる。


吉野川

高松自動車道が見えます。1番がある坂東の辺でしょうか。晴れていれば眉山が見えるはずです。


ヤッホー地蔵さん

名付けから考えて、山歩きが好きな人が作ったのでしょうか。


ケルン

ハイキングのための目印と思われます。山頂の「鉄塔」への分岐点とのことです。よい景観が得られるそうですが、奥の院の裏に出ることになります。やはり参拝ですので、0.7㌔先の、山頂への表参道を直登することにしました。
後で知ることになりますが、「鉄塔」には意味がありました。次回の更新で触れます。


直登道 表参道

大麻比古神社奥の院がある山頂へ、直登する道です。
がぜん人が多くなりました。しかし遍路姿は見かけません。家族連れや健康ハイキングの人たちばかりです。


道標

表参道と裏参道の分岐です。裏参道を行くと「真名井の水」を経て奥の院に出ます。
「真名井の水」へは帰途、立ち寄ることにして、表参道を登ります。


大麻比古神社奥の院

大麻比古神社の祭神は「大麻比古大神」です。合わせて猿田彦命が祀られています。
大麻比古大神は天太玉命(あめのふとだま)と同体視される神様。阿波に麻を持ち込みんだ天冨命(あめのとみ)の祖で、阿波の開拓者である忌部氏が祖神として祀っています。
猿田彦命は、瓊々杵尊一行の天降りにあたり、これを八衢(やちまた)で待ちうけて、案内人を務めた国津神ですが、大麻山に鎮まっておられたところ、これを祀ったとのことです。


山頂

明治以前、大麻比古神社の祭神は、天日鷲命(あめのひわし)と猿田彦命だったようです。
天日鷲命は「麻植(おえ)の神」と呼ばれ、この神も、阿波に「麻」を持ち込んだ神とされています。天太玉命同様、忌部氏が祖神として祀っています。
祭神は、どんな事情で天太玉命に代わったのでしょうか。


裏参道

次に阿波を歩く機会には、徳島市の「大麻比古神社」を訪ねてみたいと思います。この神社、今回訪ねた鳴門市の大麻比古神社と表記は同じですが、読みは異なり、「おおまひこ・じんじゃ」と読むようです。猿田彦命を祭神としているとのこと。ご祭神が代わったとと何かの関係があるのかも・・・。


裏参道

また、神山温泉の上一宮大粟神社も訪ねたいと思います。大日寺前の「阿波一宮」と祭神を同じくする神社です。(麻ではなく)「粟(あわ)」の殖産で阿波を富ませた神です。阿波の一宮をめぐる議論とも関わって興味が尽きません。


裏参道

欲張りですが、「忌部神社」も訪ねたいと思います。平成大合併前には「麻植(おえ)郡山川町忌部山」と呼ばれた地に鎮座します。古くは「天日鷲神社」と呼ばれ、当然、天日鷲命を祭神として祀っています。
ただし、延喜式神名帳に記載された「忌部神社」が現代のどの神社に比定されるか、問題は残っているようです。(私見では)麻植郡忌部山の「忌部神社」が最有力候補なのですが・・・。


高越山

「忌部神社」(旧麻植郡)の近くに高越山がありますが、その山頂の高越神社も、天日鷲命を祭神としています。
高越山の山頂に住所表示があり、「麻植郡山川町木綿麻山(ゆうまやま)」と記されています。地名に含まれる「木綿(ゆう)」も、「麻」も、忌部氏に深くかかわるものです。これについては、よろしければ (→高越寺あれこれ②) をご覧ください。


真名井水

神々がお使いになる清浄の水が、真名井の水です。飲むことも出来ます。ポリタンク持参の人はお賽銭を置いていかれました。


鳥居

「弥山神社」とあります。大麻山は、弥山とも、また十八山とも呼ばれたようです。
ここに駐車場があります。ここまで車で来て、お山に登って帰る人が多いようです。


ドイツ橋

映画「バルトの園」でも知られるようになりました。


奥殿

大麻比古大神が鎮座されています。


拝殿

私の(北さんとの)初遍路は、H13(2001)12月23日、ここから始まりました。この後、1番で遍路装束を整えたのでした。懐かしい場所です。




洞にコインを投げ入れる人たちがいました。


神橋

祓川です。
今夜は神社の側の宿に泊まります。アップダウンの多い1日でした。怪我も病院に行くほどではありませんでした。


夕陽

さて、この後、丈六寺が寺宝を公開していると聞き、見に行くことにしました。丈六寺から (せっかくですから) 如意輪寺に参り、中津峰山を越えて、星の岩屋-慈眼寺へ歩きます。
次回更新予定は、4月10日です。

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2 コメント

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お引越しおめでとう! (天恢)
2014-04-06 21:14:01
取り敢えず新居へのお引越しおめでとうございます。
装いも少し新たになったのですが、
文字が小さくなりましたね?
挨拶代わりにテストを兼ねてコメントを投稿します。
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Unknown (楽しく遍路)
2014-04-07 13:39:59
ありがとうございます。
そうなんです。小さいんです。当面、右上にフォントサイズ変更のモジュールというのですか?を付けておいたのですが、本当は、はじめから大きくしておきたいのです。
カスタムテンプレートとかを使えば、CSSのフォント数を書き換えるだけで、文字は大きくなるのですが、残念ながらモジュール部分の書き換え能力がありません。そのため、しばらく?ご不便をおかけします。
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