楽しく遍路

四国遍路のアルバム

福井駅 阿部お水大師 東由岐の康暦の碑 九州型板碑 由岐駅

2014-12-11 | 四国遍路
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薬王寺
今日は薬王寺から牟岐線で福井まで引き返し、二つの峠を越えて、阿部(あぶ)お水大師へ下ります。
阿部からはバスを使います。東由岐 大池の康暦地震津波の碑と、由宇の九州型板碑をさがし歩くためです。

 
福井駅
駅前を国道55号線が走っています。これを日和佐方向に歩くと、すぐ踏切が見えてきます。渡ると、道なりで阿部谷(あぶ谷)に入ってゆきます。

 
川沿いの道
阿部谷川とでも呼ぶのでしょうか。小魚がいっぱい泳いでいる、きれいな川です。川沿いに遡ってゆきます。

 
小魚

  

この道は「四国の道」として整備されています。しかし古くは生活の道であり、また、後にわかりますが、金比羅道でもありました。

  

登るにつれ、道は山道になり、川は沢になります。登りつつ、右下に沢音を聞くことになります。

  

急な所になると、擬木で階段が切ってあります。すこし荒れていますが、ほとんど問題はありません。小枝が落ちていたり、道幅が狭いところでは蜘蛛が巣を張っていますが、これは仕方ありません。「お杖」に大活躍していただきます。宿に入る前にはきれいに洗って差し上げねばなりません。

  

「四国の道」標識が要所に立っているので、道選びに困ることは、ほとんどありません。

  

峠を、合掌地蔵さまが静かに守っておられました。今日越える一つ目の峠です。
刻まれている文字は、・・・ 左 金比羅道   施主 大峯先達・・・  
今日的感覚では、こんな所に金比羅道?ホンマかいな?って感じですが、やはり立つべくして、ここに立っているのです。

  
道標
前回、松坂峠について少し触れました。田井-松坂峠-貝谷峠-小野-鉦打と続く旧土佐街道です。
金毘羅道標は松坂峠にも立っていたそうです(今は民家で保管されている)。「是ヨリ讃州金毘羅エ三十里・・・」と刻まれており、峠道が金比羅道でもあったことを示しています。おそらく阿部坂・金比羅道は、福井で、松坂・金比羅道に合流したのでしょう。
阿部谷の隣に土佐谷がありますが、ここに大きな金毘羅神社があるそうです。元禄19(1706)の棟札が見つかっている古い神社で、讃岐の金毘羅さんへ月詣した「こんぴら七郎兵衛」の話を伝えていると言います。この地方の金毘羅信仰の中心でした。松坂峠を来た人も阿部坂峠を来た人も、土佐谷の金毘羅さんに立ち寄ったのではないでしょうか。


お地蔵さま
金比羅道と大峯先達の組み合わせ、面白いですね。松坂峠の場合は金比羅道標の側に、「大峯先達」と刻んだ石柱が立っていたそうです。(やはり民家に保管されている)。金比羅道と大峯先達、どんな関係だったのでしょう。、
大峯参りの人たちも、この道を通ったのでしょうか?大峯参りは若者の通過儀礼だったと言われます。西の覗きをやって初めて「男」!見事、大峯行を成し遂げた若者たちは、一生に一度あるかないかの機会です、金比羅さんにも参ったかもしれません。それを大峰先達が先導した?
お地蔵さんはご存知なのでしょうけれど・・・。


筍畑
峠を少し下ると軽トラが走れそうな道に出ました。筍畑に取り付けた道のようでした。右か左か?自信がないまま右に下ってゆくことにしました。
間違えたかな?不安になって立ち止まると・・・


案内ネコ
前方にネコがいました。坐って私を待っています。数メートル進んでは、また坐って待っています。
これはもう「案内ネコ」にちがいありません!不安は解消しました。



ふたたび歩き始めると、すぐ私が探していた道が見えてきました。この道です。これを左に行けばいいのです。


お地蔵さん
降りてきたところにお地蔵さんがいらっしゃいました。優しい表情のお地蔵さんです。
台座の側面に「女講中」と、誇らしげに(と私には感じられます)、彫りも深く刻まれています。


船頭ヶ谷
開けてきました。この辺を「船頭ヶ谷」というそうです。その謂れはわかりません。
東方向に椿川が流れ、椿泊湾に注ぎます。椿泊湾は東に向いて細長く開いていて、一目で津波被害が心配される地形です。実際、安政地震では、波は波高を高めつつ押し寄せ、1.3㌔も川を遡ったと言います。ただし船頭ヶ谷は河口から6㌔ほどです。津波の危険はありません。


二つ目の峠へ
二つ目の峠越えにかかります。道標には、阿波福井駅3.6キロ、明神山3.7キロ、とあります。明神山の道標に従って進みます。



船頭ヶ谷では狭いながらも、椿川沿いの土地を利用し、米作(農業)が行われています。あとで知ることですが、これは阿部との大きな違いです。阿部は、三方は山、一方は海という狭い所で、農業用地はわずかです。
土地柄の違いは土地間の「交流」を進め、生活の道が通ります。この峠道はその一つです。
写真奥に見えるのが明神山です。阿部はその向こう側になります。



生活の道を金比羅参りの人たちが使いました。お参りの人には「余所者」も多いのですが、土地の人たちは、やさしくも、その通過を許したのです。
その「やさしさ」が今日もなお四国に残っていることは、私たちが再々、感じていることです。有り難いことです。


石積み
人が住んでいた跡かもしれません。石を積んで平地を造り、同時に沢水を制御し、生活用水として利用したと思われます。
大きな石を下に荒積みし、上に、徐々に小さな石を置いています。美しく且つ強い石積みです



二つ目の峠です。ここには地蔵さんはいらっしゃらないようでした。


明神山登り口
峠から10分も下らないうちに、明神山への登り口道標が立っていました。阿波福井駅6.1キロ、明神山1.2㌔、とあります。


明神山へ
登ってみることにしました。かなり急なので荷物を置いて行こうかとも思いましたが、結局、担いで上がりました。


明神山
一番奥が明神山の山頂です。行けば阿波の松島・橘湾も見えるのだと思います。が、断念しました。
徳島県警の人たちが訓練で登ってきました。大きなポリタンに8分目くらいまで水を入れて担いでいます。水は揺れて重心を常に移しますから、よほどしっかり歩かなければならないわけです。


東の山々
剣山が見えないものかと探してみましたが、見えませんでした。


南の海
奥の島は牟岐大島だと思います。一番手前の岬が東由岐で、岬に隠れるように箆野島(ぬの島)が見えます。


阿部(あぶ)
阿部の鹿ノ首岬です。右下に阿部の街が見えています。


下山道
阿部へ下ってゆきます。


遍路シール
思わず私も(枯雑草さんを思い出しながら)「懐かしいなー」と発しました。


道標
遍路シールに従って上がるとこの道に出るのですが、逆に、この道から阿部坂の道に入るのは、(私が歩いた時点では、入口が分かりにくく)少し難しいかもしれません。
訂正:上の二行を削除します。他の峠と勘違いしていました。(014.12.23)


近江式宝篋印塔
由岐の田井遺跡を前回、取り上げました。縄文時代の石器工房遺跡で、素材となる石器の産地は、広く北九州、瀬戸内海、東海にまたがっていました。由岐は古くから、海に向けて開けていたのです。
阿部もまた同じです。近江式宝篋印塔(近江の文化)は、海路、伝わったに違いありません。
私はこの後、由宇で「九州型板碑」を探しますが、これもまた海路の発達を物語るものです。
陸に住む者の視点からは「閉ざされている」と見えがちな土地が、実は海路で、広く外の世界とつながていた、そんな事例を立て続けに見ることが出来ました。
なお、宝篋印塔の上部の石二つは、「近江式」とは関係なく、誰かが積んだものです。最上部「相輪」の部分は、欠損して無くなっています。


阿部集落の碑
海に向けて開けているとはいえ、陸にもまた開けていてほしい、車が普及してくると、その要求はますます強くなりました。
「知事さん ありがとう 阿部地区民一同」こんな碑は初めて見ました。昭和32(1957)、ようやく由岐に通じる車道が通った喜びを碑に表しています。よほど嬉しかったのでしょう。
ただし道は、呆れるほど等高線を忠実になぞった、長い長い道です。当時の工事力、車両の登坂能力を考えれば仕方がないのですが、今なら半分以下の距離で結んでしまうのではないでしょうか。


阿部の港
おばあさんに出会いました。お水大師への道はこれでよいかと尋ねると、(一週間前の)台風で崩れているところがあるから気をつけるように、と話してくれました。


お水大師の方向
確かに崩れそうな雰囲気ではあります。実際、電柱が見える方向に滝があるとのことですが、数年前、崩落し、滝は小さくなってしまったとのことです。
この滝は、お水大師水場の下流になります。



右に海を見ながら、岬に登ってゆきます。



道はバスが(本数は少ないですが)通っている道で、「崩れた」箇所は見つかりません。
とんでもない失敗をしたのかもしれません。私が知らない場所をおばあさんは頭において話したのかもしれないのです。だとすれば、是非そこへは行きたかった・・・。もっときちんと話をうかがっておくべきでした。



大きな海を、空を、どう写真に切り取ればいいのでしょう。鹿ノ首岬です。


お水大師
お水大師は昭和29(1954)までは、伊座利寄りの大平という所に在ったのだそうです。土地の崩壊がひどく危険になったので、こちらに遷したとのことです。


お水場
謂れを書いた看板がありました。転載します。
・・・弘法大師が空海という名で呼ばれていたころ、42歳の厄年を迎え四国に旅立たれ、その際、末世の衆生のあらゆる災難を救おうと誓願のためこの地を訪れ、仏像を刻んで37日間満願の日に突然山は金竜の姿を現し、あたりはパッと明るくなった。当時手にしていた五鈷で祈念すると、金竜の岩間から浄水がわき出た。金竜ヶ嶽お水といわれたが、弘法大師の遺徳をしのぶ信者の間から自然「お水大師」という名ができた。四季を通じて水が枯れることがない霊水とともに、いまなお参拝者が絶えない。
今は、岩間からの湧き水ではなく、(前述の滝の上流から)沢水をとっているようです。


大師堂
お水場の先に大師堂が見えます。


境内
春には桜がきれいだそうです。本堂、大師堂は海に向かっています。


崖下の海
もし木が生えていなかったら、高い所が怖い私はふるえたでしょう。
おばあさんが話してくれた「台風で崩れた所」を探してみましたが、見つかりませんでした。


バス
阿部からバスに乗りました。客は私一人。
これから訪ねる「康暦の碑」「九州型板碑」について尋ねてみましたが、この土地の人ではなく、分からないとのことでした。


由岐中学
見当がついていないまま、由岐中学バス停で下車しました。
途方に暮れていると、中学から車が出てきました。この方に尋ねる他ない!申し訳ないとは思いながら、手を挙げて止まってもらいました。
本当に親切な方でした。学校に携帯で電話を入れて尋ね、やがて学校に引き返し、先生お二人と出ていらっしゃいました。三人で案内してくださると言います。


碑道標
300㍍ほど先だけれど、まず分からないと思うので案内する、と言ってくださいました。
学校の様子など尋ねながら、隣接する小学校の校庭を抜け、写真の道標まで来ました。「康暦の碑」は、ここから谷に入り、少し歩いた所にあります。


康暦の碑(こうりゃくの碑)
由岐町教育委員会の説明を転載します。・・・康安元年(北朝歴・1361)の地震津波の死者の供養碑と伝承されているが、銘にある60余名が写経埋納した納経供養碑と推定される。太平記にも「ゆきみなとの災害」として詳細記述されており、わが国最古の地震津波碑。康暦二年(1380)建立により、この名が付けられた。・・・昭和32年の由岐町指定文化財。


康暦の碑
先端の尖った部分が欠けていますが、これは結衆板碑です。風化のため、ほとんど読みとれませんが、調査によれば、上段に釈迦三尊の種子が刻まれ、下段に60余名の供養者名が刻まれているそうです。
太平記に詳述されているという、そのほんの一部を引用すると・・・阿波ノ雪ノ湊(由岐の湊)ト云浦ニハ 俄ニ太山ノ如ナル潮漲来テ、在家一千七百余宇、悉ク引塩ニ連テ海底ニ沈シカバ・・・、


由宇へ
「康暦の碑」の次は、「九州型板碑」探しです。徳島に九州型の板碑があるというのです。由宇へ、先生方に教わった道を進みました。
バイクのお巡りさんが止まっていました。たぶん、へんろ道から逸れている私を見かけ、止まって下さったのだと思います。ご迷惑かとも思いましたが、板碑の場所を尋ねました。
・・・さて、これ以降、私はお巡りさんを始め、たくさんの方々のご好意をたただくことになります。


由宇の街
お巡りさんはバイクで私に先行し、「九州型板碑」を知っていそうな人を探してくださいました。何軒も訪ねてくださったようです。
ですから、私は歩く先々で人に会い、何かを探しているそうだが?と尋ねられます。「ここで待っていろ、お巡りさんが戻ってくるから」などとも言ってくれます。


由宇地区文化財案内図
そんなこんなで、あれやこれやと話していたのですが、ふと脇を見ると、写真の看板が立っていました。土地の人たちにしてみれば、自分の土地の案内図なんて、見る必要も感じなかったのでしょうが、実は、この中に「九州型板碑」が記載されていたのです。これ、これを探しているんです!
しかし、反応は芳しくありません。・・・「馬頭さんまでは毎日散歩するけど、こんなものは知らん」「何十年住んどるけど、知らんなあ」


西国三十三か所
ともかく「在る」ことはわかったので、「馬頭さん」まで進むことにしました。お一人が代表して付き添ってくださいました。
途中、西国三十三か所の写し霊場に案内してくださいました。ここは一番青岸渡寺です。その前に大師庵があります。


大師庵
少し先に行くと、お二人が立っていました。私を待って下さっているようです。この方が、お巡りさんが探し出してくださった、「九州型板碑」をご存知の方でした。
お巡りさんは、さらに200㍍ほど先で女性と話し合っています。


お力添えいただいた皆さま
お巡りさんと女性が引き返してきました。お巡りさんは笹薮をこいで、すでに板碑を確かめておられました。靴がドロに汚れています。
・・・みなさんが注目するなか、私は田んぼの向こうの山裾に向かって歩き出しました。・・・やがて遠くから「イノシシ止めをまたぐー」「川を跨ぐー」「笹薮に入るー」などと指示が飛んできます。
結局、私の「九州型板碑」探しに協力くださった方は10名を数えました。なんとも人騒がせな、しかし心温まる体験でした。由岐中の先生方、由宇の皆さま、ありがとうございました。
手前は葦原池です。


葦原池
葦原池は潟湖(ラグーン)の名残であると言われています。


九州型板碑
おかげさまで見ることが出来ました。これが「九州型板碑」です。
「板碑」ではありますが、板状ではなく、むしろ柱状になっています。この点、吉野川下流域で見た阿波型板碑とは異なります。また石材が、阿波型板碑では緑泥片岩であったのに対し、九州型板碑は安山岩である点、異なります。


九州型板碑
九州型板碑の文化を持つ人たちがこの地に移住し定住したのでしょう。故地(九州)を偲び、「九州型」の形式で供養しています。
前にも述べましたが、この近辺の理解には「海の道」の理解が欠かせないようです。


阿波型板碑
九州型とは、形状、石材共に違っています。


由岐駅構内
翌朝、由岐駅の待合室で一人電車を待っていました。日和佐へ引き返すためです。
おばあさんがやってきました。遍路のことなど主として私が話し、おばあさんが聞いてくださいました。
やがて電車の時間が近づき、ホームへ移ろうとするとき、おばあさんが言いました・・・
  お遍路さん 握手してくれますか
私でいいのか!ためらいが一瞬頭をよぎりましたが、私は手をのばし両手でおばあさんの手を包みました。おばあさんも両手で包んでくれました。ちょっと長めの握手をしました。
おばあさんは「ありがとう」と言って上りのホームへ、私は下りのホームへ移りました。


由岐駅ホーム
「お大師さん」の同行を信じ、おばあさんは「私」に握手を求めました。そして私はそれに応じました。
お別れした後、しばらくの間、私は自分が嫌いになっていました。自分の中に「偽善」を感じたからです。・・・この体験は苦い体験として残るのだろう、そう思っていました。
だが、それは考え違いでした。今は逆に、私がおばあさんに感謝しています。あの時を貴重な時として、有り難く思っています。
あの時、私は、かつてなかったほど素直でした。(ろくでもない遍路だけれど)出来ることなら、おばあさんの期待に応えたいと、一所懸命でした。せめて今この時だけでも、お大師さん、同行していて下さい、そうお大師さんに願っていたようなのです。
思うに、おばあさんこそが私に「お大師さん」を感じさせて下さったのでした。
残念ながら今は、元のネジレ状態に戻っていますが・・・。

ご覧いただき、ありがとうございました。
今回の更新で特に「阿波学会研究紀要」(徳島県立図書館)から多くの情報をいただきましたこと、記して感謝申し上げます。
次回は、薬王寺から泰仙寺を経て牟岐へ歩きます。
更新予定は1月8日です。三週間毎の更新ペースに従えば1月1日、元旦ということになるのですが、一週遅らせていただきます。

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コメント (13)    この記事についてブログを書く
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13 コメント

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素敵な歌をありがとう (楽しく遍路)
2016-11-13 16:09:32
由岐にかぎらず広く、故郷を想う歌として、覚えてもらえるといいですね。
リンクがコメント欄に埋もれてしまうのはもったいないと思い、新しい記事としてアップロードしました。
勝手な書き込みもあります。不都合な記載がありましたら、連絡してください。すぐ直します。
返信する
追加 (新聞記事) (小畠功)
2016-11-12 13:55:17
新聞記事はこちらのブログでリンクしています。
ぜひご一読頂けると嬉しく想います!
http://blog.goo.ne.jp/senriyama-net/e/b5221165dbb66b6b86e45599649a16ab
返信する
有り難うございました! (小畠功)
2016-11-12 08:39:10
お早うございます。
『私の故郷』で美波町由岐中学校のスライド動画を制作するために、貴重な写真を拝借させて頂きました。
先日、お陰さまでYouTubeにアップすることができ、また想わぬことにこの“プロジェクト”が朝日新聞(大阪版)・朝刊に紹介されました。
ぜひ、お時間のある時などにご覧下さい!
本当にありがとう御座いました。
https://youtu.be/W3WZUU_oasM
YouTubeの概要欄に、冗文になりましたが経緯(いきさつ)も書きましたので、開いてお読み頂ければ嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
返信する
感謝です! (小畠功)
2016-10-23 08:27:32
「楽しく遍路」さん、早速にお返事を下さり、本当に有り難うございます。
皆さんのご期待に添えるよう、頑張ります!
YouTubeにアップできましたら、またこちらにお知らせコメントを入れさせて頂きます。

これからも、どうぞよろしくお願いします。
返信する
視聴を楽しみにしています (楽しく遍路)
2016-10-23 07:09:58
「私の故郷」を、貴ブログの「千里山ブラウズ」で、まずは読ませていただきました。
  私の故郷は
  今も此処にいます
心にしみ入るリフレインです。

在校生、卒業生、そして由岐にお住まいの方々にも、きっと歓ばれる企画だと思いました。自由にお使いください。技術も何もない素人写真ですが、スライドショウで使われる多くの写真の中の一枚としてなら、なんとか役目を果たせるかもしれません。

無断コピー&ペイストが横行するネット世界で、わざわざ断りを入れてくださる小畠さんの誠実さを、うれしく思っています。企画の成功を祈りつつ、視聴を楽しみにします。
返信する
訂正 (小畠功)
2016-10-22 16:17:16
すみません、写真はお送り頂く必要はありませんでした(そのままで使わせて頂ければ‥‥)
返信する
よろしくお願いします (小畠功)
2016-10-22 16:14:43
写真をお借り出来ませんでしょうか?

初めまして。私は大阪でフリーのデザイナーをしている小畠功と申します。
突然のメールで失礼します。

今日はこちらのブログで拝見している素敵な写真(由岐中学校)を、YouTubeのスライドショーで使わせて頂けないかとお願いメールを差し上げた次第です。

私の故郷は徳島県美波町ですが、その中学校も過疎化で全校50数人になってしまっています。少しでも後輩の生徒たちを励まそうと、サブ校歌というのか卒業式や普段でも口ずさんで貰えるような愛唱歌『私の故郷』を作りました。
既に故郷の旧友を介して、由岐中学校にも歌を聴いて頂き、私にも校長先生から直接ご挨拶と感謝のお電話を頂きました。そして町の風景や懐かしい校舎、また季節の行事などの写真でスライドショーを作成し、YouTubeで発信する了承も頂いております。

そこで、役場の振興室にも写真のご協力を頂いたり、ブログなどインターネット上でも素敵な町の写真を探していたところ、こちらのブログで素晴らしい写真を見させて頂き、ぜひ使わせて頂けたらと想い連絡を取らせて頂きました。

もし宜しければ、お写真の画像データをお送り下さいませんか?

ご了承どうぞよろしくお願い致します!
返信する
道標のこと おばあさんとのこと (楽しく遍路)
2014-12-16 14:48:34
枯雑草さん コメントありがとうございます。

峠の道標ですが、最初に私が目を向けたのは「金比羅道」の文字でした。くずし文字を読むとき(たぶん枯雑草さんもそうだと思うのですが)まず直感に頼ります。これがうまく働いた時は、とんでもなく難解な文字が読めてしまったりします。逆の場合は、迷路に入ってしまい、なかなか解くことができません。
「金比羅道」を読んだ私は、次に「大峯先達」を読もうとしましたが、現地では、まったくわかりませんでした。「大山」と読んでしまい、その下に迷わされてしまったのです。「大峯」と読めたのは、「阿波学会研究紀要」松坂峠の部分を読んでからでした。「お地蔵さん」については、実は、ほとんど注意を払っていませんでした。文字が優先されていたのです。
しかし文字が読めてみると、・・・施主 大峯先達-お地蔵さん-金比羅道・・・この組み合わせは理解しにくい。大峯と金比羅の関係、金比羅と地蔵の関係、地蔵と大峯の関係。無責任に「想像」を働かせてあれこれと書いては見たものの、アップロードしてしまった今、ちょっと後悔もしています。

もし遍路道のどこかで枯雑草さんと出会うようなことがあった時、私から滲み出ているのは「風格」ではなく、筑波山のガマさながらの脂汗であることでしょう。天恢さんは「面輪」、枯雑草さんは「面差し」とおっしゃいますが、過分にすぎる表現で、現実は年寄りの狷介にして厚かましいツラでしかありません。
しかし、そのことの過度の強調は、おばあさんへの失礼につながってしまう心配もあります。まあ、普通の「顔」ということにしておいてください。

おばあさんとの出会いは、初めは、書かないつもりでいました。私一人の思い出として温めておきたいと思っていたのでした。しかし書きました。その背景にあった思いは、次のようだったのでしょうか。
・・・四国では、遍路装束に身を包んだ人は皆、ひとしなみに「おへんろさん」と見られます。見られますから新米「おへんろさん」も、すこしずつ自らを「おへんろさん」として措定してゆきます。普通名詞の「おへんろさん」が、四国では時に、自分を指す固有名詞として使われることを是認し、知らず知らず「おへんろさんである私」という思いを強くしてゆきます。むろん初めから強い人もいらっしゃるでしょうが、私の場合はそうでした。
「おへんろさん」は言わば「歩く広告塔」として、本人の自覚の有無にかかわらず、「お大師さん信仰」を流布しながら歩いているのですが、実は反対に、歩く先々で「お大師さん信仰」のエネルギーを充填されてもいます。お接待をいただくなどは、その最たるものでしょう。こうして多くの「おへんろさん」がリピーターになったりもするのだと思います。
由岐駅でのおばあさんとの出会いは、こんな「おへんろさん」と土地の人たちとの「エネルギ-交換」の一コマだったのではないか、そんな気がしてきて、ならば書いておいてもよかろう、と思ったりしたのでした。
はきとは言葉に出しませんでしたが、近々人生最後の大仕事を・・・一線を越える仕事を・・・してのけねばならない者同士の、エールの交換?みたいなものだったかもしれない、そんな気もしています。

長くなりましたが終わりに、強い刺激をいただきまして、来夏あるいは来秋、石鎚そして剣を考えていることを書き添えます。今後もよろしくお願いします。


返信する
遍路行 (枯雑草)
2014-12-15 16:31:42
こんにちは。
いつものことながら、綿密な下調査に基づいた遍路行、感心させていただくばかりです。
峠の道標、私は(7年前ですが)もうお地蔵さんと見ただけで、金比羅道標とは思いませんでした。
さて、楽しく遍路さんは、おへんろさんであると同時に、時には研究者に、時にはお大師さんに見られるようですね。
それは、楽しく遍路さんの面差しと言動から滲みでる風格から来るものと想像させていただきます。
ともあれ、羨ましい限りです。
次回も楽しみにさせていただきます。
返信する
まわり道もまたへんろ道 (楽しく遍路)
2014-12-15 12:00:06
天恢さん、コメントありがとうございます。
「面輪」の範疇に入るとは思えない「ツラツキ」は、「優しき」とはおよそ程遠い「狷介」そのもの。あの時、もし私の表情に「優しさ」の一片でもが浮かんでいたとすれば、それは、おっしゃる通り、その前の日、「最高のお接待」を下さった方々の表情であったでしょう。

遍路装束に身を包むとき、私たちはひとしなみに「おへんろさん」となります。「おへんろさん」として私たちは土地に受け入れていただき、いたわっていただき、助けていただきます。
私が探していたのは、札所巡りとは関わりのない津波地震碑や板碑でした。にもかかわらず多くの人たちのご親切に接することが出来たのは、ひとえに、私が遍路装束をまとった「おへんろさん」であるからでした。

「大まわり道」ではありましたが、この道は、私にとっては「へんろ道」でした。「寄り道、脇道、まわり道」、これもまた「へんろ道」なのでした。
返信する
ふりかえり面輪やさしき遍路かな (天恢)
2014-12-14 10:00:14
 「阿部お水大師、東由岐の康暦の碑、由宇の九州型板碑」の大まわり道を楽しく読ませていただきました。 天恢も8年前の初遍路で由岐駅に降りて、駅中水族館の大型水槽とイセエビ御輿を見ましたが、健在だったのですね。 それと由岐から日和佐にかけての海の青さと空の青さは今も忘れられません。
 今回のコースはグーグルに頼らなくても「へんろ地図」で追うことができましたが、「阿部お水大師」には何とかたどり着けても、わが国最古の地震津波碑である「東由岐の康暦の碑」や地元の方でも知る人が少ない「由宇の九州型板碑」となると探し当てるには大変なご苦労があったんですね。 これはもう物好きのレベルを超越して執念に他なりません。 堪え性のない短気な天恢には到底成せる業ではありません。
 「康暦の碑」への案内での本当に親切な由岐中学の先生方や 《なんと私の「九州型板碑」探しに協力くださった方は10名を数えました。なんとも有難く、また申し訳ないことです 》 となると、これは善意を越えて最高の「お接待」と思わずにはいられません。 今回のへんろ道は本道から離れたまわり道ですが、『山道を踏み固め、補修してくれる人がいる。 草を刈り、道しるべをつけてくれた人がいる。こころを和ませてくれる花があり、渇きを癒やしてくれる石清水がある』という本来の遍路道を感じさせてくれます。 そういういくつもの縁が我々遍路の歩みを支えてくれているんですね。
 そして、今回一番盛り上がる場面は、由岐駅でのおばあさんから「お遍路さん 握手してくれますか」と求められたシーンです。 心にジーンとこみ上げてくるものがあります。 きっと「楽しく遍路」さんは『 ふりかえり面輪(おもわ)やさしき遍路かな 』にあるような優しい表情だったに違いありません。 それは前日の多くの方によって支えられた「お接待」による余韻が残っていたと思います。 
 遍路は難行苦行の連続ですから、どうしても苦虫を噛み潰したような顔付きになります。 それに 『お遍路の誰もが持てる不倖せ』 を背負っていますから眉間の皺は消えそうもありませんが、歩きながら「少しでも「面輪やさしき」遍路に近づけたいものです。

『 』内の文は辰濃和男著『四国遍路』から引用しました。
返信する
追悼 (楽しく遍路)
2014-12-13 13:40:44
高越寺ご住職さま方のご冥福を心からお祈り申し上げます。

やはり異常気象です。大雪のあの時、フィリピンでは台風が猛威をふるっていたというのですから。
みんなして、それこそ「集団的」に、地球を守らなければなりません。ご住職様方の犠牲を忘れないためにも。
返信する
追悼 (天恢)
2014-12-11 09:50:36
いつものコメントは後日にして、天恢からもご冥福を祈らせていただきます。

 まだ初冬というのに記録的な大雪が四国の山間部を襲い、道路や通信網は寸断し、トラックは立ち往生し、集落は孤立し、停電が続いた。 そして、犠牲者の中に「楽しく遍路」にもたびたび登場した高越寺ご住職と寺男の方が含まれていた。 このブログでも「H26春遍路」に高越山がシリーズで登場、天恢も「高越寺は根性や性根を鍛え直すには最適な修験道場」とコメントした。 また3年前の「高越寺あれこれ」では亡くなられた若きご住職の記述もある。

 報道によれば、ご住職一行は午前9時過ぎに出発して、午後3時頃まで連絡は出来たようである。 降り積もる雪の中で、いつもの通いなれた道が死の彷徨へ変る場面に胸が痛む。 どうしても行かねばならなかったのか? 引き返すことは出来なかったのか? 車内に留まって救出を待てなかったのか? 事故はお大師さまのご加護を超越して、想定外の偶然の出来事が重なって起きるもので、悔やんでも悔やみきれない悔恨だけが残る。

 転じて、遍路する者にとっても、豪雨、台風、大雪、滑落、急病、交通事故など行く手を阻む危険と常に隣り合わせている。 今回の不測の事故が、無事の遍路の心構えとしての教訓となれば、亡くなられたお二人へのせめてもの供養となるであろう。

 こういうお悔やみのコメントを書くと、日頃から「楽しく遍路」を提唱する天恢もひどく落ち込むところである。 へんろ道を実際に歩けば、険しい山や峠が実に多い、風雨の強い日もあれば、かんかん照りの日もあって、苦を避けて楽だけで遍路することはできないことを知る。 それでも苦だけでは息苦しくなる。 その苦を乗り越えることで、いろんな楽しみが遍路にはあるのも事実である。 苦あれば楽あり、楽あれば苦ありで、我々はへんろ道を歩くことでしだいに「楽しく遍路」を学んでゆく、そういう遍路を願ってやまない。
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