楽しく遍路

四国遍路のアルバム

延光寺 宿毛 麻生堰 篠川橋 茶堂 安養寺 札掛 一本松

2016-04-28 | 四国遍路

 
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目当て山
平田駅で(私よりは)おじいさんに、・・あれは何という山ですかと尋ねると、一言主命も斯くやとばかり、言下に一声、目当て山!と断じられました。おじいさんは「船員上がり」なのです。
・・・ここから海は、今は見えないけれど、昔はもっと迫っていてな、船乗りはあの山を目当てに、船を進めたんよ。GPSなんか、なかったからな。あれは味気ない。


宿毛貝塚
・・海が退いていった・・その証拠を私たちは、松尾峠に向かうとき、遍路道沿いに見つけます。かつては海岸線近くにあったはずの縄文の貝塚(ゴミ捨て場)が、今は海抜8.2㍍の高さにあります。まさしく、海は退いたのです。


延光寺
ある研究結果によると、・・縄文期、(10㍍の海進があったとして)、当時の海岸線は、
  宿毛湾の海水は、松田川を遡って、橋上付近まで、すなわち、延光寺のすぐ北まで、
  中村からの海水は、中筋川を遡って、山奈・平田付近まで、すなわち、延光寺のすぐ東まで迫っていた、とのことです。
現在、延光寺が在る地は、宿毛後面と中村方面の両側に、二つの海を見る特異な山地でした。この地が信仰の対象となり場となり、やがて延光寺創建の地として選ばれるのは、ごく自然のことだったと私には思われます。


赤亀
・・延光寺は海とかかわって発祥した。・・それかあらぬか、延光寺は海にまつわる縁起をもっています。
延喜11正月(912)、竜宮に棲む赤亀が、背に梵鐘を背負ってやって来、梵鐘を寺に奉納した、というのです。以来、延光寺は「赤亀山」と号されるようになったと言います。
赤亀が来た年月がわかっているのは、この梵鐘は現存しており、「延喜十一年正月・・」と銘が打たれているからです。平安中期の頃、延光寺は今よりも海と親しかったようです。赤亀は当時の、海に働く人たちを表象していると思われます。


松田川河口付近
海は後退したものの、江戸時代初期、現・宿毛市街地の大半は、まだ松田川がつくる沖積低地・湿原の中でした。
むろん人が住める地ではなく、満潮時には海水が押し寄せ、海に浸かりました。一面に葦が生い茂っていたといいます。「すくも」という地名は、枯れた葦(すくも)から来ていると言われています。


松田川
「すくも」の湿原を「宿毛」という、人が住む街に変えたのは、野中兼山でした。
兼山は、全長2.8㌔に及ぶ「総曲垣」(大堤防)を築堤して、松田川を一本にまとめ、囲った湿原を干上がらせて埋め立てました。宿毛駅、松田川大橋のラインまでが、おおよそ、兼山によって新たに創出された土地です。


片島港
なお、ラインよりも海寄りの、現在「新田」と呼ばれている辺りから片島までは、明治期に干拓された土地です。
宿毛と片島、小深浦と片島の間に堤防を築き、 その内側を干拓。文字通り「新田」を造りだしたのでした。以来、片島は島ではなくなります。


松田川右岸の宿毛市街地
兼山は松田川右岸の堤防を、左岸よりも高くしたと言われています。増水した松田川を、まずは左岸に氾濫させ、右岸を守ろうというのです。宿毛市街が右岸沿いに発達しているのは、そのためです。
これを「差別堤防」とみるか、それとも遊水池の工夫とみるか、兼山という人物を見る人の目に依りますが、氾濫の起こる度、左岸から怨嗟の声が起きたのは、間違いありません。


旧河戸堰
河戸堰(こうどの堰)は、兼山が松田川に築いた、農業用水、生活用水のための堰です。完成は、万治元(1658)と言われています。
写真は、松田城の案内板に載っていたものを頂戴しました。


河戸堰
現在の河戸堰は可動堰になっています。上の写真と同じ角度で撮ってみました
完成は平成16(2004)とのこと。その3年前の平成13(2001)、坂本ダムが完工しており、二つの合わせ技で、今は右岸も左岸も守られています。


河戸堰
上流側からの撮影です。

 中村の麻生堰


中村の後川
河戸堰は、物部川の山田堰、後川の麻生堰と並んで、「糸流し工法」の堰として知られていました。堰が下流側にアーチを描いているのが特徴です。
川の両岸から糸を張ると、糸は流水の作用を受けて、下流方向に曲線を描きます。この曲線に沿って堰を築き、アーチの頂点から余分の溜水を下流に放つ、・・・これが「糸流し工法」による固定堰だ、と言われています。


後川の麻生堰
「糸流し工法」の「アーチ」が、(河戸堰でも山田堰でも姿を消すなか)、後川の麻生堰に残っています。麻生堰は、中村大橋より約4km 上流にあります。


アーチ
下流に向けたアーチについては、現代の建築工学から、やや疑問が呈されているようです。上流に向けるべきだと。・・私にはわかりませんが。


貯水
堰から取水した水は「四ケ村溝」(しかむら・みぞ)を流れ、秋田(あいだ)、安並、佐岡、古津賀(こつか)の四か村をうるおしました。さらに下流まで延ばそうとしたそうですが、固い岩盤が阻んだといいます。


四ケ村溝の水車
水車で田んぼに水をくみ上げました。これは観光用の水車なので一ヶ所にしかありませんが、実際は、各所にありました。

 ふたたび宿毛


幽閉の地の碑
・・・さて、宿毛に戻ります。
なんという皮肉でしょうか。兼山の遺族たちは、父兼山が築いた宿毛に幽閉されました。幽閉地は、宿毛小学校の一角だったと言います。
幽閉は男系が絶えるまでの40数年続きました。釈放されたのは8人の子供たちのうち、女子3人のみでした。その中に、後に大原富枝さんの「婉という女」で知られることになる、婉がいます。


東福寺
幽閉地の北、山裾の寺に遺族の墓があります。
なお、兼山と婉の墓は、ここにはありません。高知市の筆山にあります。私は二度、訪れて(藪漕ぎまでして!)さがしましたが、見つけられませんでした。


遺族の墓
いくら失脚したとはいえ、元執政一族の墓としては、さみしい、と言わざるをえません。


長男清七一明の墓
やや大きめのこの墓は、長男清七の墓です。婉が建てました。
  つらなりし 梅の立ち枝 枯れゆけば のこる梢の 涙なりけり  婉
清七(梅の立ち枝)の死を、弟妹たち(のこる梢)が悼んでいます。

・・・さて、土佐路に入って以来、極力、野中兼山を追いかけてきましたが、今回でひとまず終わりです。さようなら兼山、また会う日まで、会えるときまで。


うれしい知らせ
土佐最後の夜、一人ビールで乾杯していたら、テレビにうれしい知らせが!
牟岐の出羽島(てば島)で40年ぶりに結婚式が挙行された、というのです。懐かしい連絡船、八代目「大生丸」(おいけ丸)も写っていました。花嫁花婿が船で島に渡ったのです。


島の結婚披露宴
私が訪ねたときは、 (H27春 3)出羽島 出羽島アートの最中で、島の結婚披露宴風景が、「作品」として展示されていました。もう見ることがない風景を作品化したと思っていましたが、・・今夜の島は、賑わっているにちがいありません。


国道56号線
56号線を歩いて篠川橋に向かいます。


篠川
56号線は篠川左岸に沿って走っています。
右岸には古い56号線が一部、残っていて、私はこちらを歩くつもりだったのですが、入り口を見逃しました。


小川番所跡
小川番所は、予土国境の「境目番所」です。
土佐藩が遍路に許した出入国の口は、甲浦の東股番所と宿毛の松尾坂番所の二ヶ所のみですから、藩政期なら、私は今、「ご定法」を破っていることになります。
ただし明治に入ると、この道は天下晴れての「篠山神社参道」となります。(見逃したのですが)旧道沿いの浄土寺には、(近くから移されてきたらしい)茂兵衛道標があり、それには「笹山(篠山)前札所」の文字が刻まれているといいます。


小川番所
すぐ先を少し下った処に篠川橋があり、橋をわたると伊予・愛媛県です。


篠川橋
右方向に分岐する道が、篠川沿いの道で、篠山神社に至る参道になります。
直進の道は56号線で、(篠川に合流する)増田川沿いに走り、一本松に向かいます。昔はずっと増田川に沿って大回りしましたが、今は途中で一本松隧道を抜け、ショートカットしています。


篠川橋
私は篠山方向へ、古い篠川橋をわたります。


篠山へ
愛媛県道332号線です。


県界(けんかい)バス停
宿毛の人も、一本松の人も、篠山の人も、すこし年取った人は皆、このバス停をよく知っています。篠南(ささな)トンネルが抜けるまで、篠山・一本松・宿毛をつなぐバスは、「県界」を経由して走っていました。
バス停の大きなサイズをごらんください。日に四本走るだけの、小さなコミュニティーバスには不相応です。満席のバスが日に何本も走っていた、その頃の名残なんですね。


ウド・ダム
名前の由来はわかりません。
昔は、もっと水量豊富だったといいます。・・・見てください、この時季に山が緑一色でしょ。ということは、山に枯れ葉が積もっていないということですよ。(山に保水力が乏しいので)雨が降ればドカーっと流れて、それで終わり。昔は一雨で何日も流れ続けたものです。・・・土地の人の話です。


以前の道
所々に古い道が断片的に残っています。昔の道は「縫いながら」が基本ですから、曲線を描いています。現代の道は「ぶち抜く」が基本で、直線的です。


篠山
篠山が見えました。1064.6メートル。私は二度、お参りしています。今回は参らず、茶堂から札掛→一本松へ出ます。この区間の古い篠往還道を、極力、見たい考えです。


見合い地蔵
篠川を挟んで、対岸の土佐側にも地蔵さんがおり、見合っているのだそうです。土地の人は、・・なにやら悲しいことが起きたのが興りと聞いているが、・・忘れた、とのことです。
私は後に出石寺の地蔵堂でも、谷を挟んだ地蔵さんを見ます。出石寺の号で記したいと思います。


茶堂
直進すると篠山です。左方向は、札掛に通じる広域農道。
(写真ではわかりにくいですが)ここで譲谷川(いずり谷川)が篠川に合流しています。昔、この辺に「茶堂」があったらしく、譲谷川に架かる橋は「茶堂橋」、T字路一帯は「茶堂」と呼ばれています。


野村町で見た茶堂
茶堂は三面が吹き抜けで、自由に出入りできるようになっています。残る一面には、神様や仏様を祀る棚があります。たいてい(集落の奥まったところではなく)、旅人が通行する道沿いに建てられています。村人はここに、相談事があれば集まり、なくても集まって憩い、道行く旅人があれば接待した、といいます。もちろん遍路も接待を受けましたが、遍路道から離れた処にもありました。
接待がお盆近くに行われることが多かったことから、祖霊信仰との繋がりが考えられています。旅人を(帰ってくる)先祖と重ね、接待したようです。また客人(まれびと)信仰とも考えられ、「外」との交流、情報収集の場であったといわれます。


「茶堂」
茶堂橋の近くに休憩所があるので覗いてみたら、休憩所は「茶堂」と名づけられていました。ご自由にお使いください、とあります。
かつてここには、接待所の「茶堂」が建っていたのでしょう。


茶堂
・・この角には「店」があった・・という話を二ヶ所で聞きました。聞いた話を合わせると、次のようになります。
・・かつて篠山の西の方に(残念ながら正確な場所を聞きはぐったのですが)阿蔵(あぐら)という炭焼きの集落があったそうです。学校こそなかったが、芝居が来るほどの集落で、夜は(炭焼きの火で)山が焼けているようだった、と言います。
・・炭焼きたちは焼いた炭を「店」まで運びおろし、それを「店」が、増田、城辺を経由して深浦に運びました。深浦から九州、大阪へ積み出されたそうです。
・・運搬手段は「馬」でした。「店」は帰り馬で、米、酒、塩、タバコなどを運び、売っていたそうです。木賃宿もしていたといいます。



城辺・御荘への道は、観自在寺への遍路道と重なっていました。いまは篠南(ささな)トンネルが通っていますが、もちろん当時は峠を越えました。中組に出て安養寺の下を通り、ふたたび峠を越え、札掛から城辺へ向かったと思われます。


道標
茶堂の角に、観自在寺への道標が立っています。篠川の河原に転がっていたのを回収し、立てたのだといいます。・・是より右 観自在寺 四里・・とあります。


篠山小中学校
ちょっと寄り道をして、「日本一名前が長い学校」まで歩いてみました。高知県宿毛市愛媛県南宇和郡愛南町篠山小中学校組合立篠山小学校(あるいは中学校)。
すると、・・遍路も歩けば・・素敵な出会いがありました。地元のことにとても詳しい、お二方との出会いです。蕨岡家のこと、近辺の砦のこと、V6を招いたときのこと、などなど、いっぱい話してくださいました。


どろんこサッカー会場
お二人は「県境篠山騒動どろんこサッカー大会」を支えてきた人でもあります。残念ながら昨年で終了しましたが、25回を数え、篠南地域の恒例イベントでした。参加60チーム、観客1000人を動員していたといいます。
騒動を他所に共生の道を選んだ篠南の地域・・愛南町正木と宿毛市山北・・に、血みどろならぬ、どろんこの戦いを再現させました。田んぼの畝立て、水張り、イノシシうどんの準備、交通整理、その他運営にかかわる諸事、てんてこ舞いに忙しかった思い出を、楽しく話してくださいました。


旧道
お接待の缶コーヒーをいただきながら、ちょっと長めの立ち話の後、広域農道開通以前の馬道を、車で見せてくださいました。
農道の左下に(車中からですが)古い道が見えました。次回が許されるなら、歩いてみようと思います。


旧道
今度は右側に道が見えます。古い道と広域農道が$字状になっているようです。


トンネル上への道
右に入る道は、峠にあがる道だそうです。かつては炭を運ぶ馬列が進んだ道です。ただ、お二人とも、今どうなっているかは分からない、と言います。
峠には昔、(詳しいことは分かっていませんが)城(砦)があったそうです。篠山小中学校前の「ムソノ城」と連携する砦だったともかんがえられます。なにしろ「篠山騒動」の地ですから、砦はいくつあっても不思議ではないのです。


安養寺へ
トンネルを抜けると、すぐ左に入る道があります。軽トラが走れる道ですが、元の「篠往還」だといいます。「篠往還」は、札掛から篠山神社に参る道です。


安養寺へ
ここで降ろしてもらいました。
写真奥左が安養寺です。手前に増田川が流れ、橋のたもとに遍路道標が立っています。


道標
小さい方は、「左 へんろ道」とあります。高い、かまぼこ形の道標は徳右衛門道標のようです。風化が進んでいる上、ツタがからまっており、ほとんど読むことができませんでした。・・・ツタを取り除いて読んだ枯雑草さんによれば、「これより ささ山へ三リ」だそうです。篠往還の道標です。


安養寺
鳳凰山安養寺。毎年、旧暦7月11日、「花とり踊り」が奉納されるそうです。400年以上の伝統を持つといいます。
踊りは三回に分けて舞われ、一回目は、寺が祀る村の守護神「高山尊神(こうやまそんしん)」へ、二回目は、大猪から増田集落を救った「ちよぼし弥三郎兄弟」(弥之助・ちえ坊兄弟とも)へ、三回目は地区の安全を祈願し舞われるといいます。(参照
高山尊神がいかなる興りをもつ神か、説はあるが定説はないようです。しかし村人は、村の守護神として大切にしています。なお安養寺は浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来です。


猪供養の石
・・・兄弟は農地を荒らす猪をたくさん殺し、村人を喜ばせましたが、やがて殺生の罪を感じるようになり、猪の供養塔を建てることを思い立ちました。二人は石を運び準備していましたが、完成間際、大猪の牙にかかって亡くなりました。・・・「えひめの記憶」よりの要約。
写真左の石は、兄弟が運んだと伝わります。


安養寺
(お目にかかれませんでしたが)、住職一家が常住されているようです。ロケーションからは、無住であってもおかしくはないのですが、地域が支えているということでしょうか。
浄土宗らしい(と私には思われる)間口の広さ。法話スペースがたっぷりです。


来た道
境内から、来た道をふり返ってみます。
中央の山の向こうから降りてきて、集落を抜け、橋をわたりました。


地蔵
お参りの後、お地蔵さんを訪ねました。寺下の民家の、裏庭のような所にあります。声をかけて入れてもらいました。


篠往還
地蔵さんの前を、両側の畑に埋まってしまいそうな、細い道が通っています。土地の人は、「こんなになってしまったけど、これは篠往還よ」と話してくれました。


篠往還
道というより道の断片です。10㍍ほどでしょうか。すこし北を、現代の道が並行して東西に延びています。
右上に小さく、お地蔵さんが見えます。


地蔵さんと名号塔
峠へ向かう墓地の角に、お地蔵さんと六字名号塔が立っていました。
お地蔵さんの年代は、前掛けをめくってみるわけにもまいらず、わかりませんでしたが、石塔の年代には、ちょっと驚きました。


名号塔
梵字と六字名号が大書された下部に、小さく「永正三」と刻まれ、側面の上部に「丙刀」と刻まれています。二つは離れていますが、「永正三 丙刀」と、ひと続きで読むべきです。
「丙刀」は「丙寅」(ひのえとら)と同義ですから、この名号塔は、永正3年丙寅の年、つまり西暦1506年の建立です。時は戦国時代。この年、(当地との関係を云々するのではありませんが)全国各地で一向一揆が勃発したことが知られています。そんな時代に生きた人たちが、宝珠に願いをこめて、来世の安寧を祈りました。
なお、偶然でしょうが、安養寺は永正年間(1504-20)に火災に遭っているようです。


来た道
峠への途中、ふり返った景色です。ガードレールの道を歩いてきました。


祀る
大池です。地蔵さんに、大正15年2月吉日、向山婦人会 の文字が見えます。この10ヶ月後の12月、「昭和」が訪れます。


広見(ひろみ)
地名は見たまんま、広見、です。明治以降、田んぼとして拓かれた土地だそうです。一軒の民家も在りません。
宮本輝さんの「流転の海」で主人公・熊吾が「大きな土俵」に例える、山に囲まれた田んぼです。


向山
広見から見た向山です。この地名も見たまんま、です。山裾に日枝神社(ひえ神社)と法眼寺があります。参照
一本松へは、ここを南下する方が近いのですが、私は札掛を経由して行きます。


大根池
大根池は堤防工事中でした。ブルの側を抜けます。


札掛
今ではコミュニティーバスの「札掛」停留所です。しかし、かつて、篠南トンネルが抜けるまでは、大きな停留所でした。
前述しましたが、バスは札掛から一本松に出て、「県界」を大回りして篠南につながっていました。日に何本も走っていたと言います。


一の鳥居
篠山神社の一の鳥居です。無念にも神社まで登れない人は、ここに「札を掛け」遙拝したのだそうです。それで「札掛」です。


札掛
側に遍路宿があります。前にお世話になったので挨拶を、とも思ったのですが、隣家のワンチャンが、ともかく仕事熱心で、やむなく通過してしまいました。しかし、おかげ様で、雨が降り始める前に、宿に入ることができました。ワンチャンに感謝です。


古宅(こたく)大師堂
香炉の下の石に沓(くつ)と水瓶(すいびょう)が浮き彫りされています。


沓と水瓶
元は大師像の台座だったのでしょう。右手に五鈷杵、左手に念珠、沓と水瓶は、弘法大師像の定型です。


道標
・・これより くわんじざい寺迄 二里・・
県道299号線は、国道が走るまでは、(土地の人によると)この辺の「銀座」だったんだそうです。旧の街道です。


癒やしの里道の道標
旧街道に「癒しの里道」と名づけた遍路道が整備されています。


まんのや・お長様供養碑
備中(岡山)から来た女性遍路の供養碑だそうです。「まんのや」は、お長さんの屋号のようです。
一本松の、ある一家が代々、欠かさず供養を続けてきたとのことです。

ご覧いただきありがとうございました。この日は一本松に泊まりました。強い雨が屋根をたたきました。
次回は、ちょっと行程がとびますが、満願寺から野井坂→柿ノ木庚申堂まで、です。更新は5月26日のを予定しています。

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瀬戸の花嫁 ワンスモア (天恢)
2016-04-30 08:33:31
 「目には青葉、山ほととぎす、初鰹」の句のように、遍路にはもってこいの季節を迎えました。 土佐のカツオ漁はどうなのか?気になるところですが、今回も「延光寺~一本松」を楽しく読ませていただきました。
 さて、今回の宿毛から一本松への道中ですが、冒頭の「宿毛貝塚」が「海抜8.2mの高さにあり」の記述には、足摺の隆起現象を如実に物語っています。 これじゃ日本列島に地震が頻発するハズで、思わず原発は大丈夫か? と心配するのも当然です。 もう一つ88ヶ所巡礼者にとって白衣の背に鶴と亀の一対の朱印をいただくことで人気のある鶴の鶴林寺と亀の番延光寺ですが、ブログを読んで、平安時代、延光寺のすぐ近くまで海が迫っていて赤亀さんがノコノコ遊びに来ていたようで確かにここも隆起しています。 きっと何億年か先の四国の標高はエレベストの高さ並みに・・・。 その頃、人類はどうなっているのでしょうか?
 今回で「修行の道場」である土佐の遍路も締めとなりましたが、このシリーズで存在感があった野中兼山もひとまず退場となりました。 兼山の死後に過酷な運命を強いられた遺族の幽閉地・宿毛、さみしい一族の墓所での『つらなりし 梅の立ち枝 枯れゆけば のこる梢の 涙なりけり』と詠った婉の悼みに涙する思いで未練心が残ります。 ブログにあった『さようなら兼山、また会う日まで、会えるときまで』の再登場を読者としてぜひ期待しております。 

 さてさて、今回一番の感動箇所は、40年ぶりに結婚式が挙行された、という牟岐の出羽島からの「うれしい知らせ」です。 土佐最後の夜、テレビを見てたらの偶然のようですが、報道によれば今年3月12日のことだそうです。 一年前の「楽しく遍路 (H27春 3)出羽島」で、「島の赤ちゃん」誕生の明るいニュースが紹介され、天恢も「瀬戸の花嫁」というタイトルでコメントしましたが、今度は島での40年ぶりに結婚式です。 赤ちゃん誕生が先で結婚式が後だとなると「できちゃった婚?」ですが、まったく別の話だそうです。 出羽島では40年前から島外の結婚式場の利用で島内での挙式は途絶えていたそうで、これを機に「島婚」と名付けて積極的に婚礼を呼び込みたいそうです。 こういう目出度いことは一度だけでなく何度でもやってもらいたいですね。 
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正解!瀬戸の花嫁 (楽しく遍路)
2016-05-02 13:45:49
天恢さん 楽しく読ませていただきました。毎回、ありがとうございます。

「隆起」について、すこし書き足します。
・・中筋川は海峡の痕跡なんだそうです。つまり足摺半島は、かつては島で、延光寺の寺山は、海峡を挟んだ対岸に、今ノ山を主峰とする「足摺島」を見ていたらしいのです。
「足摺島」は、長い時間をかけて着岸し、海峡が寺山のところで中村側と宿毛側に分かれ、さらに時間をかけて、海が両側に退いていったらしい、のです。長い時間の物語です。四国がエベレストの標高に至るほどの時間は、かかりませんが。

野中兼山のこと。宿毛の回にきて、ようやく切り口がすこし見つかった気がしていますが、大半は業績賞賛に終わってしまいました。反省しています。
次、兼山に見参したとき、どんなことが書けるでしょうか。彼は実行力のある執政でしたが、なんでもやればいいのではないことは、現代の政治家を見ていてもわかることです。

あれは「うれしい知らせ」でした。瀬戸の花嫁!とっさに思い出し、写しました。天恢さんの「感動場面」に選ばれるのではないか、内心期待していたのですが、・・正解でした。若者ならば、ここにニッコリ絵文字が入るところです。
・・こんな日の、ふたたび来たらんことを・・天恢さんの祈りが通じたのかもしれません。共に喜び、・・こんな日の三度、来たらんことを祈りたいと思います。
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旅すること (枯雑草)
2016-05-03 10:28:37
こんにちは。
楽しく遍路さんの世界。いつも楽しく拝見しています。
土佐路に入ってからの兼山の足跡の追跡、ごくろうさまでした。
そうですね・・今度、兼山さんにお会いになった時、楽しく遍路さんからどんな言葉がお聞きできるのか、楽しみにさせていただきます。
安養寺は、私には近住の人々との結び付きが一際強く感じられ感動したお寺でもありました。
近くで見られた永正3年の六字名号塔。この地の浄土信仰の根強さを感じさせるものでしょう。その人々の心の記念でもありましょうけれど、郷土史研究にとっても貴重な大発見ではなかろうか・・と思ったりしております。
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旅での出会い (楽しく遍路)
2016-05-04 13:47:16
枯雑草さん、 ありがとうございます。

野中兼山のこと。
時代の制約を踏まえながら、しかし、だから仕方なかったではなく「辛口に」、どこまで迫ることができますか。宿題をいただきました。

名号塔のこと。
近住の人々との結びつきが、・・・同感です。無住であってもおかしくないロケーションの寺に、洗濯物が干してあるノンビリとした景色を見て、地域に溶け込んだ寺だ、との思いを強くしていました。安養寺は「花とり踊り」が前面に出ていますが、まず浄土宗の寺として、古くから彼の地に根付いてきたのでしょう。
そのことを六字名号塔は語っているのかもしれません。うれしい出会いでした。

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